《 幸せのひろいかた 》  フェルトアート・カントリー木工 by WOODYPAPA

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2019年03月19日
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ご存知、フェルメールの名作『真珠の耳飾りの少女』です。

フェルメール展で広く知れ渡ったので、挑戦しました。

本物はこちら。



真珠の耳飾りの少女.jpg



絵画のそっくりなので、2次元的な風合いで画像を撮りましたが、実物はフェルト人形なので、立体です。

ぐるりと回るとこんな感じに。



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なかなか少女の表情に近づかなくて苦労しましたが、いろいろ試行錯誤の末、一番寄ったところでいったん完成ということに。

この後少し刺したして、今はまた少し変わっています。

11月の文化祭に出品の予定なので、それまでにはもう少し似ててほしい。


僕がこの絵を初めて見たのは、なんと「図書カード」でした。


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それまでも見ていたんだろうけど、フェルメールとして意識したのがその時でした。

それが過去のブログに残っていたので採録します。



スザンナ・ケイセン 著 『思春期病棟の少女たち』    



​数少ない本稿の読者ファンから誕生日の祝いに「図書カード」をいただいた。
カードの図柄に、オランダの画家フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』が描かれている。​

それを見た時ふと、最近フェルメールとすれ違った記憶がよぎった。

映画に感動して原作本を買って、そのまま 積読 ( つんどく ) になってしまった本として『死ぬまでにしたい10のこと』を取り上げたが、もう一冊同じ状況で読んでいなかった本があった。

映画『17歳のカルテ』の原作『思春期病棟の少女達(Girl,Interrupted)』だ。

『死ぬまでに~』の次に取り上げようかと読んでみたが、うまくまとまりそうにないので(いつもまとまってないのだが)お蔵にしていたものだ。

これも何かの"縁"かと書き始める。

『17歳のカルテ』は1999年、若きウィノラ・ライダーとアンジェリーナ・ジョリーの出演作で、このとき初めてアンジェリーナ・ジョリーを見た僕は、とんでもない女優が出現したもんだと驚いた。




映画は、原作にほれ込んだウィノラ・ライダーが映画化権を買い取って生まれた。

ウィノラ自身が20歳の時、"境界性人格障害"で精神病院に入院していた経験があったのだ。

さらに、アカデミー賞&ゴールデングローブ最優秀助演女優賞を受賞したアンジェリーナ・ジョリーも、14歳の頃精神が不安定になり自傷行為をくり返し、自己同一性不安の経験があった。

精神が不安定になったのは、浮気をくり返す父親のジョン・ボイドの影響である。

(ボイドの代表作『真夜中のカーボーイ』の僕のコラムはこれ、

http://plaza.rakuten.co.jp/sontiti/diary/200609210000/  )

でも、あの頃のカッコよかったジョン・ボイドは、夫のブラッド・ピットにそっくりだ。

女の子は父親似の男を好むというが本当らしい。

ちなみに、僕の娘は向井理が好きなのだが、似ているだろうか?

そんな訳で、アンジェリーナの演技は鬼気迫るものがあり、数々の賞を受賞しビッグスターにステップアップすることになる。

一方作品に肩入れをしていたウィノラ・ライダーは、繊細な少女を巧みに演じていたが、アンジェリーナにすっかり評判を持って行かれ、「この役(リサ)を演じれば誰だってオスカーを獲れるわよ」と負け惜しみを言って一騒ぎがあった。

本には表紙のイラストをほとんど隠してしまう帯が巻かれていて、ウィノラの黒い目のアップと、二人のツーショット写真が収まっている。

帯に惹かれて思わず買ってしまった本といってもいい。

映画のほうはストーリーがあり、衝撃的な展開が待っている。

しかし、原作小説は映画で盛り上がる後半部分はなかった。

原作者のスザンナ・ケイセンの経験した精神病院での生活と、ともに暮らした心を病んだ少女たち、および医者・看護師などの描写が、散文詩のような美しい文章で脈絡なく綴られている。

20年前を振り返って、鋭い分析が洗練された筆致が、心の謎を描く。




​『思春期病棟の少女達(Girl,Interrupted)』​
スザンナ・ケイセン



隣にある別世界

どうしてそんなことになったの、とひとは聞く。

でも、そのひとたちがほんとうに知りたいのは、自分もそうなる可能性があるだろうかということだ。その問いには、わたしは答えられない。ただ言えるのは、そうなるのはとても簡単だということだけ。

( パラ ) ( レル ) ある ( ) 別世界 ( ユニヴァース ) に移るのは、ごく簡単だ。パラレル・ユニヴァースはたくさんある。

精神異常の世界、犯罪の世界、身体障害の世界、死にゆく者の世界、たぶん死者の世界もその一つだろう。こちら側の世界にそっくりで、すぐ隣にあるけど、内側にはない世界。

パラレル・ユニヴァースでもうひとつ不思議なのは、こちら側からは向こうがみえないけれど、向こう側に行ってしまうと、こっちの世界がとてもよく見えるということだ。自分が離れてきた世界は、ときにはのしかかるように大きく不気味で、巨大なゼリーのように 蠕動 ( ぜんどう ) している。べつのときには、小さく魅力的で、きらきら光り、自転しながら軌道をめぐっている。

わたしの自殺

自殺は殺人の一種だ。それも計画的殺人。思いついたからって、すぐに実行するものではない。その考えに慣れなくてはならない。それに道具とチャンスと動機がいる。自殺に成功するにはきちんとした段取りと冷静な頭がなければならない。自殺しようという精神状態では、どっちもないのが普通だ。

大事なのは、どうでもいいという気分になること。一つの方法は、死んだ自分や死にかけている自分を何度も想像してみることだ。窓があれば、窓から落ちていく自分の身体を想像する。ナイフなら、ナイフが身体に突き刺さるのを想像する。列車なら、車輪でぺちゃんこになった身体を想像する。どうでもいいという突き放した気分にうまくなるためには、こんな練習がいる。

ほんとうのことを言えば、自殺したがっているのは、わたしの中のごく一部だけだった。その部分が自分を殺したがり、自殺しようかどうしようかという疑問に私を引きずり込み、窓も、台所道具も、地下鉄の駅も、すべてを悲劇のリハーサルの舞台にしてしまう。

だけど、それに気づいたのは五十錠のアスピリンを飲んだあとだった。

入院したわけ

それに、人間の見方もおかしくなっていた。だれかの顔をみると、それぞれの道具立てがばらばらになってしまうことがよくあった。分解してみると、顔っておかしなものだ。ぐにゃぐにゃしてたり、尖っていたり、空気の通る穴や湿った点がいっぱい。

でも、わたしは単純に狂ってまっさかさまに不思議の国へのほら穴を落ちていったのではなかった。現実の認知のしかたがまちがっていると完璧に意識していた-それが不幸で、たぶん救いでもあった。わたしは、自分が見たり、見たと思ったりしたことを一度も「信じ」なかった。それだけでなく、つぎつぎに奇妙な振る舞いをするたびに、その奇妙さを充分に理解していた。

いまでは、こう言うこともできる。あなたはひとから疎外されている、自分は人とちがう、と思っていた、だから自分の不快感を外へ投影していたのだと。ひとの顔がゴムの塊にみえるのは、自分の顔がゴムの塊ではないかと心配だったからだと。こんな風に解明すれば普通に振舞えるようにはなるが、不思議な問題が生じる。みんなもそう見えていながら、そうでないふりをしているのだろうか。精神病って、演技をやめてしまうことなのだろう か? 

何かが、わたしたちを守っている覆いか殻かが剥かれてしまったのだ。その覆いがわたしにかかっていたのか、それとも世界のすべてにかかっていたのか、どちらかわからない。

失踪と緩慢

精神異常には基本的な種類が二つある。失踪型と緩慢型と。

緩慢なほうの精神病の最大の特徴は粘性だ。

経験が粘りつく。感覚が粘りつき、鈍る。時の進行は遅くて、粘っこい感覚の目詰まりしたフィルターを通してじりっじりっと滴っていく。体温は低い。脈拍も弱々しい。免疫系は半分眠っている。身体組織はぼってりと薄い塩水に浸っているみたい。反射機能でさえ低下する。膝頭を叩かれても、脚のほうは恍惚状態から覚めて跳ね上がるのを面倒くさがっているようだ。

疾走は細胞レベルで起こる。緩慢さのほうもそうだけれど。

緩慢なほうの細胞の昏睡状態とは対照的に、疾走すると血小板から筋繊維までのすべてが独立した意識をもち、それぞれの行動を知っていちいち注釈をはじめる。知覚があふれ、知覚の過剰の先にさらに知覚についての思考や、知覚するという事実についての思考の過剰が起こりだす。消化のために死にかけたりする! 何というか、「消化している、消化している」という絶え間ない意識のためにへとへとになって死にかけるってこと。しかも、消化なんて、思考に勝手に侵入してくる脇役にすぎない。ほんとうのトラブルは、思考から始まる。

思考の惰性的な雪崩は何日も続く。緩慢なほうの沈黙の麻痺状態が起こる理由の一つは、次がどうなるかを承知していて、それが起こるのをじっと待っていなければならないことにある。あたしってだめなんだ、と考える。その日はずっとこの考えがつきまとう。一日中しつこく、あたしってだめなんだ、あたしってだめなんだと滴りつづける。

負荷が高すぎるほうが辛いか、低すぎるほうが辛いか、どっちだろう。さいわいわたしには選択の余地はなかった。どっちかが襲ってくる。疾風か滴りか、どちらかがわたしを通過していく。

通過してどこへ行くのだろう。細胞に潜伏して、次の機会をうかがっているのだろうか。世界の外側の空間に蒸発し、状況が変化して再び出現するチャンスが訪れるのをじっと待っているのか。内因性か、外因性か、氏か育ちか・・・それが精神の病気の大きな謎。

中断された人生

フリック 美術館 ( コレクション ) のフェルメールは、三枚のうちの一枚だったが、最初に行ったときにはあとの二枚が目に入らなかった。

わたしは17 歳で、ニューヨークに英語の教師と来ていて、彼はまだわたしにキスしていなかった。わたしは、きっとキスされるにちがいないと考えながらフラゴナールの作品を見て、中庭に続くホールに入っていった― 薄暗い回廊の壁で、フェルメールが輝きを放っていた。

額縁から、偉そうに椅子に手をかけているでっぷりした音楽教師を無視して、少女がこちらを見ていた。冬で明かりは薄暗いが、少女の顔は輝いていた。

その茶色の瞳を見つめたわたしは、はっとした。彼女は何かを警告していた。音楽のレッスンから顔をあげてわたしに何か警告していた。唇を薄く開けて、はっと息を吸い込んで「だめ!」と言っているように。

わたしは後ずさりして、彼女のせっぱつまった眼差しから逃れようとした。でも、彼女の警告は回廊いっぱいに広がっていた。「待って」彼女は言っていた。「待って! 行かないで!」

わたしは警告を聞かなかった。英語の教師と食事に出かけ、彼はわたしにキスし、ケンブリッジにもどって生物で落第し、卒業はしたけれど、とうとう狂った。

「音楽のレッスンを中断された少女」

レッスンの途中で中断された彼女の生は、十八歳という音楽の途中で中断されたわたしの人生のようだ。彼女の人生は奪われてカンバスに定着された。ある一瞬が停止し、それでほかのすべての時が静止した。どんな時を刻もうとしていたのか、また刻むはずだったのか。そこからどんな人生が取り戻せるというのか。

原題の「Girl,Interrupted(中断された少女)」はこの絵の題名から引用している。

スザンナは精神病院で青春の生活を中断した。

ストーリーに関係ない部分の抜粋になってしまったが、彼女の分析に僕の中のしこりも解けていく気がした。

社会の中で生活していた者も、規律の中で何かが中断されていたことに気がつかされた。












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最終更新日  2019年03月19日 10時40分17秒
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