全1817件 (1817件中 1-50件目)
愛着のあったものが、その作り手によって放っておかれることほど寂しいことはない。これ、当ブログの話。 最近はなかなかブログの更新もしなくなっていて、ある意味、ブログと私の距離感が変わってきた、という思いと、ここが一つの関係の到達点なのかという、納得に近い手応えもあった。 もともと、文章を書くことを仕事とする人間が、ブログでさらに不特定多数のまだ見ぬ読者に向かって、原稿とは違う想いで文章を書くということは、自分の中でとても実験的であり、同時に葛藤の種ともなった。だが、ブログの可能性はまだまだ陳腐化しておらず、ますますその伝達機能を練磨していくと予測してはいるが、このブログを立ち上げた当初の意図、つまりブログの持つメディアとしての可能性の検証という目的はほぼ達成できた感がある。 さらに、このブログを通じて、新たな私自身を発信できた。ブログそのものが「顔」になった時もあったし、活動のPRツールとなったこともあった。 何より、たくさんの出会いがあった。登録いただいた読者の中には、今はブログを卒業してしまった方も少なくないが、ご縁は引き続き大事に継続していたりする。不特定多数の読者とは別に、この方たちの顔を思い浮かべて日記を書いたことが数え切れぬほどあった。そして、都度コメントに励まされたり、気づきをいただいた。 さて。このブログを閉じるつもりはない。一方で、自分のためのデータベースづくりとしてブログを更新・活用してきた節もあった。それは、当ブログのタイトルの通りで、まさに「記事の図書館」なのである。今後は、自らの記事の中に織り込んできたソースの保管庫として、これにたびたび立ち返り、あるいは活用していきたい。 今後の更新は、同じく滞りがちではあるこちらを中心とするが、それぞれ機能分担し、当ブログにしかない記事もあったりするので、この場所は引き続き大事にしていきたい。 また時がくれば、ふたたび当ブログでの更新を再開する可能性もないわけではない。ただ、だらだらとピリオドなく放置しておくのは性分でない。 開設から3024日(開設日:2005/03/04)。記事数1815。ここで、ひとまず中休みとしたい。 当ブログにお越しくださり、また読者でいてくださった皆様に深く感謝しつつ。(了)
2013/06/13
コメント(0)
1978年のオープン以来、35年にわたって良質なシャンソンとパリの空気を提供してきた「シャンソニエ鳩ぽっぽ」が、HPの言葉を借りれば“ステージに幕を降ろす”。モダンの正統・銀座にこだわってきたが、その長い歴史もここでお開き。 私は運良く、この閉幕ギリギリにたった一度だけ足を運ぶことが出来たが、改めて、日本のシャンソン界やファン達に少なからぬ貢献してきた名物店の心意気はさすがにパリの街角のそれ。カラッとして陽気。歌は勿論最高だ。 大きなハコで「歌」を聴くのも素敵だが、今日日でいえばクラブかスナック店に満たない広さのこの距離感で、プロの歌い手の歌に触れるということが、どんなに贅沢なことかを痛感する。 果たして、このような「豊かさ」が幕を降ろすにどんな事情があるかは判じないが、振り返るに、“生バンド”やプロの歌い手が愛着あるホームを手放す道行きは、同じような広さのハコから始まったカラオケ文化の台頭と軌を一にする。 巧くもない自分の歌に酔い、アルコールでますます鈍くなった頭で聞き流す知らぬ誰かの歌に心ない拍手を送る。あるいは、それは私的なパーティと化して、より閉じたセルへと変じていった。まさに、「歌のないカプセルホテル」が、24時間調子はずれな陶酔をくれる。そこに、パブリックに歌を味わう風雅は消えてしまった。 カラオケのすべてが否定されるべきか、それは性急だろう。音楽ビジネスは豊かにしたかも知れない。しかしまた、カラオケ依存する音楽作りという逆転現象を引き起こし、直に歌に、なにより歌い手に触れる機会を損失した。 シャンソニエ鳩ぽっぽ、ひとまず閉幕。次は、どんな場所で、どんな形で、ハートをぽっぽさせる愛の歌を届けてくれるのか、新参者の私はまだ、大きな希望を抱いている。(了)
2013/04/12
コメント(0)
忙しさにかまけてご報告が遅れましたが、金巻芳俊彫刻展「春暁メンタリティー」@Fuma Contemporary Tokyoに足を運びました。 今回は、ラウンジサイズの新作披露ということで、前回も足を運んだfuma Contemporary Tokyoさんの持つ空間の中で、どのようなメッセージが作品から伝わってくるかと楽しみにうかがいました。果たして、まさにここしかない、という独立した風の空間に、見事なバランスで配置された新作たち。 作風やその変遷は、機会あるごとに、追いつけとばかり可能な限り鑑賞してきたつもりですが、新しい季節を予感させながら、なんともワクワク感だけでは終わらない暗示読み取れる意味シンなタイトル。実は展覧会のタイトル=コンセプト、金巻さんの作品を鑑賞する上でタイトルの持つ意味合いはかなり重要…と今回改めて気が付いた次第。ちなみに、前回は「相対アンビバレンス」でしたが、なぜタイトルが大事と思い至ったかといえば、それらには語感も小気味よい連続性があり、かつブレないテーマ(生とその裏側としての死、あるいはその反対)が必ず据わっているのではないか、と感じたから。だからこそ、タイトルも含めて作品なのだ、と気が付いたのです。 春めいた、淡く優しいカラーリングのシャツを着た、人間の観覧車…。そこに、出口なき現代人の立ち向かう「シジュポスの神話」を見て、息苦しくなったり。あるいは、妖怪・輪入道をマイルドにコーティングしたようなシニシズムを勝手に想像したり。すべて眼隠しでつながる環(わ)に、不透明性や匿名性の高まる現代の人間関係構築の縮図を感じたり。はたまた、童心に返って、ただただその浮遊感に胸躍らせたり。 あるいは、「明らかに」一人にしか見えない分裂してゆく女性は、同時に側面から見ると、切っても切れぬ他者に親しげに抱きつかれているような、ねっとりとしがみつかれているような。信頼関係と依存関係の同居。それとも、この他者然とした自己は、アンビバレント(!)な、定まらぬアイデンティティの残像なのか…。いや、この三つの頭は実際に、それぞれ本当に「他者」なのかもしれない…。それが、自己のアイデンティティの揺れだなんて、誰が言った??? 一点だけ、木彫ではなく、テラコッタで作り上げた作品は、ソファに深々と身を沈める現代の如意輪観。それとも、一つところで、身動きもせず、欲しいものはすべて手の届く範囲で解決する利便の化身、コンビニの権化か…。中性的であどけない表情がますます不敵&挑戦的…。 ご縁をいただきながら、実は金巻さんとは、初対面。賀状やメールでお互いに「今年こそ」と強く願った対面も実現(髑髏を背負った人物作品にも、幸運にもここで対面実現!!)。たくさんの方が訪れる中、ゆっくりと作品の説明や創作にかける想い、意見交換もさせていただきました。 次回も、タイトルから作品まで、徹底的に目が離せない…言ったでしょう、なぜなら、それらはずっと一貫してつながった、終わりのない物語(テーマ)なのだから…。(了)▲会期は2013年2月19日(火)〜3月2日(土)でした。
2013/03/06
コメント(0)
毎年恒例日本橋高島屋のアムール・デュ・ショコラ。今年もお目当てのミホシェフ・ショコラティエのショコラを楽しみに足を運びました。 大概、バレンタインの時期の特設コーナーと言うのは、ガラスケースに美しく可憐なショコラがぎっしり並んでいるのが美しいディスプレイなのだと思っていましたが、ミホシェフのコーナーに行って愕然。価値観が180度変わりました。バレンタインの時期なのに、いやだからこそ、ガラスケースはガラガラ。こんなに空っぽのディスプレイははじめて見ました。 そして、それこそが実力の証なのだと「健全な価値のディスプレイ」の手本を見た気がしたのです。 その空っぽのガラスケースの向こうでは、当然、待っているお客様のために、連日不眠不休で手作業と素材にこだわったショコラ作りをしている人たちがいる…。それも、ほんの数名で、です。大量生産できないことをハンデにせず、アドバンテージにもせず、黙々とファンのためにショコラを作り続ける。 定番生ショコラ・ダミエ、そして自称ファン第一号を名乗るほど初期から食べてきたカタルーニャ。 今年も最高のバレンタインデーでした。(了)*ミホシェフ・ショコラティエのショコラは、イベント以外でも購入可能です。スイーツ好きな方は是非!!
2013/02/18
コメント(0)
モリモトユカリ・プロデュース『語り女たち』(原作/北村 薫)於 日比谷図書館文化館 地下1階日比谷コンベンションホール(大ホール)2013年1月18日(金)19:00~21:00 人気作家で直木賞受賞作家・北村薫原作『語り女たち』を下敷きにした芝居は、一人の男性(作家本人を想起させる「作家」という設定)が、実務に長けた弟に一切を任せ、海辺の一室を借りて悠々自適な文筆生活を送る中で、いにしえの異国の王のごとく、その創造のインスピレーションのために「語り女」たちを招いてそれぞれの話に耳を傾けるという筋書き。これを、一人の男優と8人の女性で展開する。 作家独自の世界観をなるべく壊さぬように、という意図から、その脚本は可能な限り原作に忠実に書き起こされているため、台詞の言い回しは独特で、同時にとてつもなく長い。8人の女性は、暗転したカーテン越しの椅子に座って傾聴する作家のために、これを演じ、語りまくる様は演出家の言葉通り実験的である。 しかし、堂々たる男優の力量のため、そこには、傾聴はするが、あくまでインスピレーションの源を前にするだけで、深く語り女たちの内面にコミットしない拒絶的な距離感―一人芝居をさせるような距離感―にすら、断絶しきれないかすかな、しかし絶妙な関係性を紡いで物語を一人歩きはさせない。 結局、原作を読んでいないため正確かははなはだ覚束ないが、語られる話のどれも、それが奇譚めいたものが混じっていたにせよ、「他者
2013/01/20
コメント(0)
ようやく2013年のテーマが言葉になりました。ずばり、今年は「名誉ある委任」です。委任、というと、なんだかあまりいい響きはないかも知れません。他力本願なような、少し事務的なような…。 しかし、この字をよく見てみますと、「委ね」「任せる」という語から成り立っています。大切な何かを委ね任せる、ということは、まず受け皿としてそれだけの「委任」に応える対象なり人が存在することが絶対条件です。非常に難しいし、ハードルが高いですね。 さらに、そのような受け皿に恵まれても、いざとなると、大切なことほど、人は委ね任せることができないものです。委任には信頼に加えて、覚悟が必要になります。覚悟して委任し、結果には文句を言わない覚悟も必要です。二段構えの覚悟が必要な訳です。 さて、昨年は、「死との舞踏」を受けて、「吟味」する年でした。予想に反し、それは動的な吟味、少々慌ただしいながらも、未消化にせずとにかく噛み砕いて本物を味わってみるということを目標に掲げてきた訳ですが、それらをいったん経験として内側に携えていよいよ、今度は少し、委ね任せることにトライしてみようと思ったのです。 ただし、これだけアグレッシブに動いた一年で手にしたものすべてを委任するのですから、相当な覚悟が必要になります。つまり、私自身にとって実は、時の流れ、人の流れ、思いの流れに身を任せてみる覚悟ができるか否かを験す、ということが今年の本当のテーマになるのだと思います。 といって、そう悲壮感に満ちたテーマでもありません。なぜ「名誉ある」と頭につけたか。もともと「誉」という字には、「楽しむ」「楽しい」というような意味があるそうです。名誉ある委任とは、つまり覚悟と同時に、心のゆとりの多寡、有無を自問することであります。たとえやせ我慢でも、自分の心にゆとりが作れたら、きっと委任を楽しめるのではないか。どうせ委ね任せるなら、そこにちょっとホッとできるような、ゆとりを伴う楽しい委任であった方がいい。そう思い、「名誉ある委任」というテーマにたどり着きました。 悔いは残したくない。し損じたくもない。だからこそ、「吟味」した本物を信じて委任する。どこまで覚悟ができるか、そして、実り豊かな刈り入れの季節を迎えることができるか、楽しみながら、あたたかいゆとりを自分の内と周囲に拡げながら、この一年を味わっていきたいと思います。(了)
2013/01/06
コメント(0)
遅ればせながら新年明けましておめでとうございます。やっぱりこれがないとはじまらない。お節コレクション2013、Winter&Spring!!毎年このタイトルでやってますが、考えてみたらSpring&Summer、ないよなぁ(笑)。 ともあれ、このかた30年近く継続の儀式的行事。何かしら手伝ってきましたが、ここ15年〜20年は、もっぱら栗きんとん、錦糸玉子、淡雪寒担当です。 今年は、昨年寒天の種類を変えたためイマイチ納得がいかなかった淡雪寒が、ここ数年で最高点に達するほどの出来映えでした(笑)。最近の寒天(ないしゼラチン)は、凝固が速いのですが、凝固のスピードに合わせて設定された水の分量も、長年我が家で手本となってきた教本とは、だいぶ異なるはずなのです。この辺の塩梅がなかなかうまくいかず、固めて冷やしたら水が出てしまったり。しかし今年は、水の分量の調節が上手くいき、見た目、歯ごたえ、歯触り喉ごし、四拍子そろった淡雪寒が完成。錦糸卵、栗きんとんは、ペースと道具にこだわった昨年の方法で合格点。 年々家族それぞれの多忙さは増し、皆が思うように手伝えなくなった今、年末年始一人忙しい実家の母をラクさせてあげたい…。 2013年の課題は、単に年末の作業であることを越えてコミュニケーションのきっかけと魂の継承として、“ゴッドファーザー”的当家の大事な家族行事である“お節づくり”の中で、何を効率化し、何を“我が家流”通り手間かけるのか、を考えることかも知れません。(了)
2013/01/02
コメント(0)
2012年、駆け足でした。全力疾走です(w)。実は、当初これだけ全力疾走になるとは自分でも思っていませんでした。と言いますのも、今年の目標・テーマが「吟味」だったわけですが、そこに込めた思いを当時の記事から要約しますと 「己の目で真実(少なくとも、己が信じる真実)を、実際に確かめ、検証してみる。アンテナにかかるモノやコト、その中から本当に必要なエッセンスを、味わい、何度も噛み締めて選び出し、そうしたものを積み重ねた篩を通じて、新しいことを迎え入れていく。喧噪に耳を塞ぎ、静かに、本物を識るために心血を注ぐ。」 ということで、これはその前年のテーマであった「死との舞踏」=自分に気持ちよい負荷を敢えてかけまくって目一杯生きる(「12世紀の聖書に挿絵として描かれた、“メメント・モリ”を視覚化した骸骨との舞踏=「死の舞踏」から来るもので、それについてどのようなスタンスを抱いているかは3年前の著作で触れているワケですが、ようやくここへ来て、そろそろもっと「死の舞踏」と踊ってもいいんじゃないかな、と思ったのです。(中略)別にネガティヴな意味があるわけでは断じてなく、“メメント・モリ”の意味どおり、死つまり「命に限りがあること」を常に頭に覚えて、今の生を目一杯生きる。つまり、生を輝かすためのダンスを、もっともっと楽しんで、真剣に踊ろうという意味なのです。(中略)今年は、「死との舞踏」を通じて、日々に無数に見出せるだろう、生の喜びひとつひとつに愛情をもって接し、人間本来の生命力を謳歌する一年にしたいと思っています。」と当時書いていました)を受けて、「動から静へ」というシフトを意図していたはずなのです。 ちなみに、それ以前の毎年のテーマは、■2006年「欲張らず、必然的でリアルな目標へ邁進」■2007年「ライヴ感を取り戻し、身の振り方を考え直す」■2008年「最優先で大切にすべきものを守る」■2009年「柔軟性ある持続力」■2010年「粋な実験、地道な実践」■2011年「死との舞踏」■2012年「吟味」 という感じで、改めて時間的な意味で遠目に眺めてみますと、一応ストーリー仕立てのように流れがありますね。 さてその「吟味の年」が、静的なものになるはずが、結果としてものすごい全力疾走になったというのは、如何なものでしょう???コンセプトと大きくズレてしまった訳です。しかし…です。これが何とも嬉しい誤算。こういう意外性や、予定外が起こるところが目標設定の面白さでもあるのかな、と「裏側的」に納得してしまうほどの大誤算です。 結果的には、静かな吟味ではなく、「動的な吟味」こそがいまの私には必要であり、必然であったということなのかも知れません。自己満足を越えた、何とも言えない完全燃焼感。正直、ここ数年ずっとなかったほど、心身の隅々から「やりきった!!今年はもうやり残したことはない!!」という思いなのです。それが結果につながろうと、結果に出まいと関係ない(完全燃焼度と達成感は別ですからね…汗)。 それでもとにかく「やりきった」。今年のテーマに即して表現すれば「味わい吟味し尽くした」という手応えの中で年の瀬を迎えられたことをとても嬉しく思っています。 昨年は、実はテーマを言い表すにふさわしい言葉がぎりぎりまで決まりませんでしたが、2013年のテーマはもう決まっています。それはまた年を改めまして…。 更新頻度は下がる一方にもかかわらず、今年も沢山の方々がブログに遊びにきて下さいました。Simplogとのリンクもうまくできましたので、来年はもう少し更新は多くなると思います。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。 変わるべきものが変わらず、変わらずいて欲しいことが変化を迫られる世の中であってはなりません。私も含め、世界にとって、これを見分ける叡智や勇気がもたらされる2013年であって欲しいと願いつつ、年末のご挨拶でした。皆様、どうぞよいお年をお迎えくださいませ。(了)
2012/12/30
コメント(0)
この記事書くと、あぁ、今年も終わりか、なんて思いますが。という冒頭の言葉は去年と同じです(笑)。慌ただしい年の瀬、いかがお過ごしでしょうか。今年も残すところあとわずか。 今年も書きます、独断と偏見に溢れたショートリヴュー「映画で振り返る2012年」。しかし、今年は観た本数の割に、選考が難しかった!!観た映画が、それなりに「何か」を突っ込まずにいられない良作ばかりだったということだと思います。なお、当リヴューには、今年公開されたもの、劇場で観たもの、DVDで観たもの、見直したもの、など混在していますが悪しからず。〈ベストムービー・オブ・ザ・イヤー〉金賞:『リアル・スティール』リヴュー:ベタベタ。“人間のスポ根&家族の絆”ドラマを、ロボットに置き換えただけ。なのに、なんでこんなイイんだろう???というくらいに泣けた映画です(基本、ワタシ劇場では泣かない主義なんです、“帰宅思い出し泣き派”(笑)。でも、この作品は劇場で泣きました)。子役のダコタ・ゴヨの健気さ、ヒュー・ジャックマンのやさぐれっぷり、そして最後は基本誰も悪者にならないのがあたたかい。“法律上の親子の関係”は戻らないけれど、心の絆は戻り、主人公の子の養育権を得た亡き妻の姉夫婦も、そういう親子関係を最後は微笑んでる。そのあたりの複雑な人間関係のバランスの取り方が絶妙なのです。SF過ぎないリアルな設定も、うまくバックで機能していました。王道中の王道、ギミックなし。王者ゼウスとの試合のため、一度はもつれかかった関係を修復するため子を訪れた父の素直な「告白」シーン→お約束の格闘シーンまでの流れは、ズルいくらい心地よいテンポ。ベッタリな親子関係に絡む、サッパリながらも味わい深いロマンス部分も清潔感があってよし。文句なし。銀賞(2作品):『イヴォンヌの香り』『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』リヴュー:『イヴォンヌの香り』は、とにかく全篇で要所要所にさらっとかかるシャルル・アズナブールの初期の名曲“青春という名の宝(Sa jeunesse)”がオツ。この曲あっての映画、という位に印象的で、ミュージカルでもない映画には珍しいパターン。一時の夢のような享楽の日々と、あっけない衝撃のラストまでを、ただ淡々と「目撃」するのはパチパチと音の弾ける古びた一曲。若さの残酷さ。詭弁も欺瞞もなく、年齢を重ねることは惨めなのだと退廃の美で説くシャンソンそのもののようなジャン・ピエール・マリエルの演技は、エイジングの意味が甘やかされている今の時代にこそ意義あり。『冷たい雨に〜』は“電車男”ジョニー・アリディ起用で釣ったが、とにかくアンソニー・ウォンの独り舞台。ラストの銃撃戦は、「笑っちゃいけない」という真摯で不条理な生真面目さに、アンソニー兄貴の男気がかぶさって、全身ヘンな鳥肌が。このギャップに拍手。荒唐無稽なストイシズムは、主人公たちの安手のペーパーバックのような人生に似て…。銅賞(2作品、今年は該当1作品のみ):『アベンジャーズ』リヴュー:ウルトラマンや仮面ライダーよりも、ハルクやスパイダーマンで育った私。当然、ヒーローの原点はアメコミです(というか当時は、ハルクもスパイダーマンも、住んでいたブラジルのヒーローなのだと思い込んでいた)。ということで『アベンジャーズ』、やはりキタ。 「日本よ、これが映画だ」といっても、数々のキャラクターをてんこ盛りにしたとか、一人で主役を張ってきたヒーローを一緒に出しちゃった、ということが「どや?」なのではなく、あれだけ歴史が厚く、ファン層が深い複雑で自由な世界を、コミックから映像にしてしまった、成立させてしまった、ということが「どや?」なんだと思わされる弩級の一本。その代わりストーリーが若干置き去り(というか端折り過ぎ)でも仕方がないでしょう。■肩すかしで賞(2作品):『クレイジー・ハート』『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』リヴュー:気がすすまなくて観なかった名作『クレイジー・ハート』、やっぱり駄目でした。結局、まだ私自身が、主人公ではなく若手の方に身を置いてしまう微妙なお年頃のゆえか?ジェフ・ブリッジスの駄目オヤジっぷりがリアル過ぎてファンとしてはガックリ。カントリー歌手というジャンルは、ある年代を境に日本人には馴染みが薄いと思うが、その辺が分からなくても日本人にウケたのが疑問。『シャーロック〜』は十分面白い!!…けれど、期待が大きすぎたのかな。もうひとつ喰い足りない&ロバート・ダウニーJr.のキャラが濃すぎ。この人、ニコラス・ケイジ化しないで欲しいなぁ。その横で、ジュード・ロウがホントにイイ仕事してました。やり過ぎちゃ駄目…と物議をかもしてもやり過ぎ倒した姿勢はすばらしい(笑)。■期待越えで賞(2作品):『トロピック・サンダー 史上最低の作戦』『プリースト』リヴュー:90年代以降のアメリカ「逆差別問題」と、アイデンティティ闘争に見られるジェネレーションギャップも黒かった『トロピック〜』。久しぶりに研究テーマ回帰させていただきました(笑)。こんなにバカバカしくも、“大国の、身近でホントな病”をシニカル&コミカルに描いた作品は見当たりません。映画出演前の、尖ってた頃のエディ・マーフィばりの危険度。日本人が観るより、おそらく本国の人の方がウケ度も濃いはず。『プリースト』は、ただただポール・ベタニーのストイックさと、幽鬼のような姿の美しさだけで評価できた一本。続編は観なくてもいいカンジなり。■「もう一歩」な作品たち(3作品、今年は該当2作品のみ)『ミッドナイト・イン・パリ』『オーケストラ!』リヴュー:“近所のシャーリズ・セロン”みたいなレイチェル・マクアダムスの良さに対して、あまりに“近所顔”過ぎるマリオン・コティヤールの魔性っぷりがイマイチかなぁ。『ルルドの泉で』もよかった、レア・セドゥがいいなぁ。周囲からはビミョーと言われても、好きなんだな、あの顔立ち。『オーケストラ!』は、いかにも“映画好き”が好きそうな(?)一本。テーマ的にはあまり詳しくない内容ながら、これまた玄人ウケしそうな適度にユルい人情噺でかなえる無茶な夢物語は、ストンと心に残りました。この二作は、もうちょっとで、「金銀銅」入賞だった、裏上位作品です。〈番外編ひとこと〉■『今のままでいて』:復刻シリーズ、マルチエロ・マストロヤンニのじじむさい恋は洒脱だけど。ナスターシャ・キンスキーの、お面相に似合わぬデカ過ぎる親指が気になって集中できん。■『あの胸にもういちど』:これまた復刻シリーズ、アラン・ドロン、あなたのヘンタイ・キャラは最高です!!こんな教授がいたら講義受けてみたいですね。■『ドリアン・グレイ』:アノ“王子キャラ”ベン・バーンズ、まさかのど退廃っぷり。まさにご乱行。日本劇場未公開なのも納得の作品ながら、“ドリアン好き”としてははずせない一作。原作を逸れつつ、スリラー仕立てにしたのは悪くない。コリン・ファースの怪演も良し。そういえば、ドリアンつながり『オスカー・ワイルド』も観ましたっけ。ジュード・ロウのハマり役ながら、日本でなかなかDVD化されなかいワケだ(爆)。かなりワイルドだぜ〜(苦)。 その他、改めて観たらまったく違う作品に思えてやっぱり面白かった『NINE』、テレビで観た『スコーピオン・キング』、なんと『2』があることを知り…これがまたクダらなオモロかったり(w)。低予算の映画監督って、やっぱり編集能力とアイディアの質が高い!! さて、昨年は、恐怖のナタリー・ポートマン@『ブラック・スワン』に捧げる「あんた怖すぎるで賞」や「 反骨魂賞」など特別賞、〈アニメーション部門〉〈テレビドラマ部門〉もあったのですが、今年はありません。今年は、キャストかぶってる作品が多いし…。ほかにも、ここに網羅できていない作品もあるのですが、それはそれ、またいつか見直したときに、リヴュー復活ということもあるかも…ということで。来年もよい映画にたくさん出会えますように!!(了)
2012/12/30
コメント(0)
今年はついに、shimoo designさんのサンタをお迎えしました。六つボタンののっぽさんもよかったけれど、四つボタンのホンワカ顔さんをお迎えしました。 普段は、家具のデザインや制作をされているshimoo designさん。日本人らしい手仕事の美しさと、現代の生活スタイルになじむようなデザインやアレンジで、とにかく端正な家具を作られており、百貨店の企画展示や、新宿のデザインセンターなど、あちこちで実際の作品を観てきましたが、個人的には、その「さじ加減のひとつひとつ」が素敵なのです。たとえば、テーブルの高さ。 どんどん高くなる一方の現代のダイニングテーブルの高さより少し低めに作られると、自然に向き合う人同士の距離が縮まり、なんだかいいコミュニケーションが生まれそうなのです。あるいは、茶道で使用する「立礼卓(じょく)」は、最小限の空間で最大のパフォーマンスを生み出せるよう計算し尽くした設計とコンセプトの妙。目立つ所にギミックを盛り込むのではなく、むしろ、細部にちょっとした工夫や、思想やデザインを織り込んでいく…この塩梅が非常に静謐で、説得力があって美しいのです。 そんなshimoo designさんが、忙しい時期に、一本一本、手で木の丸彫りサンタを作っておられることは数年前に知ったのですが、どこで求められるのか、また出ればすぐになくなってしまう、大量生産のできない作品と聞いて、今年は早めに動きました。 BALS東京の店頭で見たときには、やはり残り4体になっていましたが、実際に手に取ると、その量感、彫った木の肌、そして、一体一体違う表情がなんともいいのです。で、こんなに表情も違うのだから、「自分を待ってるサンタさん」が、ちゃんと残り4体の中にも見つけられてしまうのです。「あ、このサンタ、なんか連れて帰りたい…」と、まぁこういう感情が知らず湧いてしまうのです。クリスマスツリーを飾るには手間も時間も空間もなく、室内イルミネーションも本気で飾り付けるのは趣味じゃない…。でも、ちゃんと季節の雰囲気は愛したい。今年は、ホンワカ顔のサンタさんが、寒い季節を和ませてくれます。(了)*石川県七尾市「高澤ろうそく店」さんでのイベントもあるようです。
2012/12/04
コメント(0)
渡辺おさむ「崖の上の聖母」/渡辺おさむ個展『マリア様が見てる』展より。▲甘い、甘い崖っぷちに、聖母マリアは何祈る。▲ノートル・ダム寺院も、私はセーヌ河越しの背面からの眺めが好き。我らが聖母、その背面も、崖下るほどに、スイート。プリン、みっけ!!
2012/12/04
コメント(0)
リボルテックタケヤ可動仏像シリーズ新ラインナップも、一ヶ月に一体のリリースですが、やはりこのご両人は二体揃ってからでないと調子が狂っちゃう。ということで、後発の雷神リリースを待っての記事アップ。 そろえて納得、やっぱり二体セットですよ。雷神待ちの風神さん、ちょっと寂しそうだったしなぁ。で、リボルテック…というとついプレイヴァリューを考えて、いろんなポージングさせてみたくなるのですが…なぜかこの二体では、闘う、というよりコントっぽいイメージしか湧きませんでした(笑)。なんか、ビュービュー、ドンガラ賑やかに、ボケてツッコんで、ホントは仲良しなんでしょ、という裏ストーリーを与えたくなる。。。 なので、撮影しますと、こんな画(え)になってしまうんです。二体はコント中、風神の突風の突っ込みがリアルに強すぎて、「顔近いやろ!!」とこれまたリアルにキレ気味の雷神さん。 全然関連性ないですけど、十二星座でいうと「風の宮」の弟が風神、「火の宮」が私かな。でも、カミナリって、サイエンスのジャンル誕生の象徴ですから、実は四大元素には含まれないんですね。でもまぁ、基本浮世はどこ吹く風、な兄弟、バランス重視で、強風と微風を使い分ける弟と、雷雲たちこめればいきなり落雷な私。二体モノを見るとつい自分たち兄弟に置き換えてキャラ設定したくなるクセはなおりません。。。(了)▲宗達、光琳、抱一。どれも素敵。元データの加工を進めて、屏風絵風色合いに沈めてみました。ここから褪色していくと、数百年後にいい感じになりやしないかな。▲雲が好き。雷雲が好き。雷鳴が好き。なので、やっぱり一人立ち姿は雷神さん、あなただけ。ホント、粋でいなせなアニキです。
2012/12/04
コメント(0)
昨日は仕事の合間に、近くまで足を運んだので銀座の純画廊さんに行ってきました。「ブログの戦友」と呼ばせていただいている方からご案内いただきました。 作家である金本典子さんご自身が「墨だけで綴った物語」と表されてらっしゃる通り、墨の濃淡だけで描かれた世界は、意外な色どりに満ち、あたかも森の奥へと歩を進めているかのような、幻想的な錯覚に陥ります。全9点の作品を順に追ううちに、静かな時間の中に自分が身を置いていることに気づきます。そうした点で、とても内省的な作風だと感じました。 どこか、日本的な幽玄の美を感じさせながらも、海外の絵本を読むような懐かしさ。素敵な時間をいただきました。(了)
2012/11/16
コメント(0)
現代茶ノ湯スタイル 展「縁 - enishi - 」。清々しいえにしのリンケージ。感性が共奏しあうプラットフォーム。ベテランが手をのべ若手が存分に胸を借りる。互いに甘えない本気のぶつかり合いが心地よい。日本はここから元気になる!!(了)注)以下は備忘録として、公式記事より転載させていただきました。*******************************限定出展篠崎裕美子(陶芸)丸岡和吾(陶芸・髑髏)宮岡貴泉(陶芸)現代茶ノ湯菱田賢治(漆芸)奥西絹風(鎌倉彫)富田啓之(陶芸)二階堂明弘(陶芸)苫米地正樹(陶芸)楚里勇己(日本画)小川宣之(陶芸)古賀崇洋(陶芸)現代アート池田孝友(アクリル画・立体)小倉正志(アクリル画)小西加奈子(油画)酒井龍一(日本画)櫻井智子(水墨画)高橋良(水墨画)西川茂(油画)松井沙都子(ミクストメディア)三尾あすか&あづち(ミクストメディア)森太三(彫刻)大和由佳(ミクストメディア)現代茶会wagashi asobi(和菓子)いせや本店(和菓子)shimoo design(木工)宮田琴(金工)沼野秀章(陶芸)酒井敦志之(陶芸)山口由次(陶芸)田中雅文(陶芸・立体)窪愛美(陶芸)阿部瑞樹(日本画)岡井翼(陶芸)野田里美(陶芸)山本順子(陶芸)佐藤文香(ミクストメディア)斉藤里香(版画)中川ひかり(陶芸)加藤素規(陶芸)現代茶会協力キャスト近藤俊太郎(アバンギャルド茶会)佐々木達郎(酒数寄者)2012年「縁-enishi-」は現代における茶ノ湯のスタンダードとしてリスタートをきりました。アートディレクションにニュートロンの石橋圭吾氏を招聘し、更にパワーアップします。<現代茶会>の監修・演出を含めた総合プロデュースはringsArtの大久保文之が担当。
2012/11/13
コメント(0)
お顔がいい、とはうかがっていたが、徹底的にシンプルに表現された表情は、実は奥深い物語を夢想させる「余白の微笑み」。時間をかけてたどり着いた、木目を生かした表現は、優しい表情と一体となって柔らかく温かい。まさに「体温36.3の起毛」の如し。(了)
2012/11/13
コメント(0)
昨日から始まりましたTOKYO DESIGNERS WEEK2012。この一環として、これに先駆ける形で開催中の渡辺おさむ展『マリア様が見てる』@画廊くにまつ 青山。開催二日目に行ってきました。 以前、「今度はマリア像をモチーフにしようと考えている」というお話はうかがっていたのですが、ここまで、“オール・マリア像”になっているとは!! 私、マリア像のコレクションをしていまして、数はそんなにないのですが、いろいろな土地で、いろいろなマリア像を求めては、コレクションケースに一角を設けて、飾っております。ブラジルに住んでいた頃、当然のことながらバリバリのカトリック系の学校に通っていたので、あまり構えることなく、素直に「美しい」「お優しい」と思えてしまうんです。なので、マリア像が大好きなんです。あ、それとスイーツ好きなので、これはたまらんコンビネーションですね。 渡辺さんの東京での個展は、なんと今年初。メディアを中心にあちこちで作品もご本人も目にしたので、意外な気がしたのですが…。 今回の個展では、マリア像をイメージした香りが会場に漂うなど、トータルで渡辺ワールドを堪能できる試みも。ギャラリーに静かに流れる音楽も、ステンドグラス仕様にされたギャラリーの窓も、併せてさながら、そこは西洋貴族のプライベート礼拝堂の趣き。 会期中、もう一度足を運ぶ予定ですが、TOKYO DESIGNERS WEEKと重なるように在廊されるので、週末あたりはかなりの混雑になるのでしょうか…。(了)
2012/10/31
コメント(0)
ブログの更新も怠りがちになっていました。普段から文章を書く仕事ですから、仕事に追われている時はブログ更新まで辿りつけなかったりします(汗)。。。 更新は滞りがちでも、やはりこのブログにも存在理由があると思うので、閉じるのは嫌だなぁ、と思いつつ、続けています。 なんでこんなに滞るか、まぁ理由を挙げればキリがないのですが、とにかく動き回った夏~秋という感じ。動き回った分、ちょこちょこアップすればいいという話なんですけど…。 空白の期間を埋めるように、備忘録方々、足を運んだ展覧会や個展など。■8月『菱田賢治 個展』@銀座 黒田陶苑 『トリックアート展』@お台場ビーナスフォート 『恐竜王国2012』@幕張メッセ 『池田麻人&遠藤隆宣』@うつわ謙心 三菱アートゲートプログラム 山口裕美×青山悟■9月『木との語らい』@聖路加病院『山本冬彦が選ぶ- 珠玉の女性アーテイスト展』@銀座三越『二階堂明弘展』@ルーサイトギャラリー『武将の美学―威厳の極致―』@ディスカバー・ミュージアム■10月『浅香弘能 -KABUKIMON-』@日本橋高島屋『The Pure furniture of Koma.co.,ltd plus 小野あや 陶展』@Gallery Petitluxe といった感じになります。一見脈絡のないチョイス…ですが、私自身は、限られた時間の中で、絞り込んで足を運びました。ちゃんと自分の中ではつながっています。 開催のたびに駆けつける作家さんの個展もあれば、エンタメ系アートイベントもあれば、といったバラエティですが、♦“新たな発見賞”として『菱田賢治 個展』@銀座 黒田陶苑♦“ここ数年の取り組みの原点賞”として『二階堂明弘展』@ルーサイトギャラリー この二者は印象的でした。 そしてやはり、企画の妙と作品の質の高さで圧倒的だったのが、『山本冬彦が選ぶ- 珠玉の女性アーテイスト展』@銀座三越。これは素晴らしかったです。百貨店美術館冬の時代にあって、ギミックなしで純然たる美術展をやる、山本氏の卓抜した審美眼、コーディネートセンスに、ノックアウトされました。 ますます勉強、一層精進。そんなことを考え直す、まとめブログになってしまいましたが、こういうのも大事ですよね。。。(了)
2012/10/31
コメント(0)
本日は、日ごろアクセスくださる読者の皆様へのお知らせです。おそらく、今後書評はさらに低頻度でのアップになるかと思います(もはや書評が追いつかない…)が、2nd.シーズン以降、過去記事の検索性の点から、あえてこだわってきたブログタイトル=見出し、のスタイルを変更し、タイトル=書名に変更いたします。引き続きよろしくお願いいたします。(了)
2012/08/22
コメント(0)
書評:虚実両作家の、傷ついたマインドマップ。カルロス・ルイス・サフォン著、木村裕美訳『天使のゲーム』(上)(下)(集英社文庫) ベストセラー小説『風の影』(過去書評はコチラ)から6年、カルロス・ルイス・サフォンの“忘れられた本の墓場”シリーズ全四部作の第二段の翻訳登場である。 本好きを唸らせた、というコピーを、前作の刊行の際にどれだけ目にしたことか。しかし確かに、読書、というより、本をめぐるエレメントのすべて、つまり、図書館であり、本棚であり、ペンであり、インクのにおいであり、積もった誇りであり…。そういった「本そのものの偏愛者」たちのツボを、これでもかとばかりに衝いてくる作者の小説世界は、自身が「本マニア」でなければ絶対に描けない、まさに本好きによる本好きのためのミステリなのであった。 作者による、内戦後のスペイン/バルセロナの、空気や雨の匂いまで漂ってきそうな細密な描写は、たとえばシムノンがフランスの街々を描くときの、濃密でありながらどこか醒めた視線とは異なり、むせかえるようににナイーヴで、息苦しい。しかし、これぞバルセロナだ、と納得してしまう。あの街が放つ独特で複雑な屈折感が、うねる路地や見棄てられた裏町の暗がりに顔をのぞかせる。 この重苦しい都市の描写は前作でもお馴染みだが、実は単なる表現上の問題に終始しない。スピーディを旨とする物語の展開を、随所で滞らせ、躓かせ、足をすくう作用が、文字だけでは伝わらないバルセロナのプロフィールを体感させてくれるのである。そこにはつまり、登場人物とは別の、主人公としての街・バルセロナの存在感が立ち上がってくる。そうした入念に仕掛けられたリテラシーではあるが、興ざめするような言葉遊びや謎かけをしないのがサフォン流だろうか、ム―ドを損ねず潔い。 前作同様、本作もまた、「作家」と「小説」をめぐる作品である。主人公には当然、作家自身の心象が投影されているのだが、全体を通して流れるウェットな質感は、日本人になじむと言えばなじむかもしれないが、やはりいささかナイーヴに過ぎるのだ。ナイーヴな作家が、ナイーヴな主人公を通じて、ナイーヴな街の傷を掻き毟る。徹底的に、「負け犬」のカタルシスへの道行き。ダークな、『昔がたり(ピエル・ノジール)』。ミステリ小説の形式を取りながらも、サフォンの作品とは、そういう小説なのである。 そこに肩入れできるか否か、は本書を、あるいはカルロス・ルイス・サフォンという作家を好きになれるかどうかを決定してしまう要因だと思うのだが、「サフォン・マニア」という言葉を生む世界的ベストセラー作家なのだから、いまや世の中の本好きは、ますます内省的になっているのかもしれない。まるで、サフォンの小説に出てくるような、深い深い闇、忘れられた本の墓場にお気に入りの一冊を求めて分け入るかのように。 読後感としては、寓話的なシーケンスが太く横たわる本作は、ドラマに徹していた『風の影』に比べて、個人的にはやや劣る気もするが、それでも、本マニアたる私を刺激するに十分な質量を持つ一冊である。 惜しむらくは、連続する世界を描いたシリーズ作品でありながら、訳出の間が空いてしまい、作者や訳者が意図する作品中の演出が、思うようなタイムリー性をもって「にやり」とさせてくれかったことであろうか。 待たせても、好きな本。まだまだ、サフォンの引き出しに投げ込まれ続けていたい。(了)【送料無料】天使のゲーム(上) [ カルロス・ルイス・サフォン ]【送料無料】天使のゲーム(下) [ カルロス・ルイス・サフォン ]
2012/08/21
コメント(1)
一週間遅れのアップですが。『特撮博物館』@東京都現代美術館、行ってきました。今の若い世代の人たち、子供たちも楽しめるだろうけれど、やっぱり我ら世代、あるいはちょっとお兄さん世代の方が楽しめるのかも。素晴らしい展示でした。特撮、というジャンルが、一つのアートとして昇華していくロジックのようなものを、あれだけの質量で見せていく。贅沢ですし、日本はこのジャンルにすごい遺伝子を持っているのだと改めて感じました。 本展示のメインキャラクターであり、目玉である竹谷節満載の巨神兵特大モデルの迫力と造形美、柔らかく折れ曲がって迫る東京タワー、そして特別ムービーおよびその撮影の舞台裏を伝える展示…。全体に館長流石のこだわり(=流儀)を感じる企画でした(庵野館長に突っ込まれる(w)(個人的には“副館長の余計なヒトコト”なるペラものの案内も小ネタ満載で好きです。皆様、是非入口で取ってください)。 それにしても昔は、よくあそこまでデザインやラフ、初稿案を手で描き込んだものだと感心。“これから上っていく日本”というエネルギーには、アイディアの枯渇というものはなかったのだと痛感。 余談ながら、私、音楽誌でデビューしましたけど、その後、駆け出し時代で一番記憶に残っていて、勉強させていただいたお仕事が“ゴジラ絡み”でして、まぁ特撮のどうこうという内容ではなく、バックヤード的な話や、当時の日本が、ディスプレイということをどう考えていたか、というような話をまとめたもので、とても楽しいお仕事でした。あの時の記憶が甦りました。 さらに余談ながら、都現美のカフェのカレーはかなり美味しいのですが、やっぱり評判いいみたいですね。(了)
2012/07/27
コメント(2)
六月はあっという間に過ぎ、七月も気がつけば半ば。慌ただしい毎日が続きますが、それでも、新鮮な発見の連続なので充実しています。 日本民藝館『作陶100年記念 バーナード・リーチ展』も素晴らしかったですし、世田谷美術館『福原コレクション-駒井哲郎1920-1976』も素敵でした。駒井哲郎の、痩せたシルエットと奇麗な手から生み出される洒脱で詩情あふれる作品世界は、作家と作品の関係に、引き離すこと不可能なリンケージがあることをよく教えてくれます。図録の造本も素晴らしく、作家の「晴れ舞台」をよく解釈したニクい作り。 ここからが七月の話。さて、北彩子展 『私の知らない物語』、行ってきました。作品の数は多くはありませんが、ギャラリーの一角に、ビシッとした独特の空間が出来上がっていました。 木彫とアクリル樹脂の組み合わせには、「こんな表現もアリかぁ」と目から鱗。ところで、同じFUMA CONTEMPORARY TOKYOでは、過去に金巻芳俊さんの木彫作品の個展を拝見しています。タッチは一見よく似ているのですが、しかし同じアイデンティティにまつわる「何か」を発信するにしても、やはりちょっと違うんですね。 金巻さんは、現代人のアンビバレントで、引き裂かれて元に戻れずにいるアイデンティティを痙攣的に表現していたように感じたのに対して、北さんの、それこそ、アクリル樹脂で表現される「透明化する身体」は、“現代人のアイデンティティ不在”というイメージより、どこかぼんやりと自分が透明化してゆく。あるいは、身体の確実さに自信がないような、それでいて、そのことに気づいていないような不思議な不安を惹起させるのです。 アンニュイ、というといささか安直ですが、そういう、もっと私的な精神性を代弁するようなスタンスではないかと感じました。 それは、神経症的というより詩的な、つまり近代主義的というよりはガストン・バシュラール(私の大好きな思想家です)的な、どこか夢想的な喪失感なのです。非日常としての、ここではないどこかのメルヘンではなく、身近に、私的に、アイデンティティが透明化していくというメルヘン。夢見がちな、けれど限りなく“身に覚えのある”精神世界を感じさせてくれる北さんに、これからも注目していきます。(了)
2012/07/13
コメント(1)
TanaCOCORO[掌] 制多伽童子、いらっしゃいました~。もう、これはモデル像そのものの大ファンでして、まさかこのような形でお家に迎えることができる日が来ようなどとは…。 これまでも、幾つかイSム、TanaCOCORO[掌] 、両シリーズのアイテムを贈ったり、自分でも購入したりしてきましたが、この色味の像が欲しかった!!なので、待望のリリースだったのです。 阿修羅の朱も良いけれど、しかしまぁ、制多伽童子がこれだけのハイクオリティでインテリア・アイテムとして世の中に出ることなんて、もはやあり得ないのではないでしょうか(汗)。。。 イSムしかやらない、できない!!あるうち買うときや(by サムズのおっさん…ってこのネタ、わかる人どれだけいるんだろうか???) で、制多伽童子がなぜ好きかというと、過去には切手の絵柄にもなってますけれど。なんか、自分の子供の頃と面立ちがにているような気がしていたんです、勝手に。実際によく見てみますと、利発さではかなわない(w)。「俺も捨てたもんじゃなかったけどなぁ…、あ、もう少し細かったかな」などと、己の“幼少時萌え”で愉しんでいる場合ではなく、やはり運慶作(推定?)、というところが、仏像には詳しくなくても、運慶の気持ちは判る(つもり)な私としては、やっぱりこの造形美に惹かれてしまうのです。 早速、いやさ勿論、イSム不動明王のお傍に並べました(この二体のコントラストもまたイイんだ…)。(了)▲制多伽童子、いらっしゃいましたの図。まるで、近所のイラズラ坊主が遊びにきたかのようなワクワク感と、隣のクラスの優等生が遊びにきたような緊張感の渾然一体だぜ!!
2012/06/22
コメント(1)
遅まきながらの更新だが、三瀬夏之介展『空虚五度』@新宿高島屋に足を運んできた。アートソムリエの山本冬彦さんの情報で、思い立って訪れたのだが、高さ2メートル70センチ、長さ10メートル、と、会場の一角を完全に覆い尽くす巨大な作品は、完全に観る者を呑み込む。観る者は、息を呑む。 今、ここで言葉を尽くした感想は書けない。唯一言葉にできるのは、数行のこと。つまり、個展のタイトルになっているこの壮大な作品をはじめとする、三瀬さんの作品から感覚するのは、無音の音。幽玄であり、作家と観る者の内面を検するロールシャッハであり、内臓の壁面、子宮の記憶である。暗いが光を予感する、我々が子宮を通過してきた記憶である。それは畢竟、産まれ直しの旅である。(了)
2012/06/11
コメント(0)
リボルテック仏像第5弾、持国天!!このシリーズを追いかけ続けてついに半年。最後の締めは、グリーンなアイツ、持国天。いやぁ、前回増長天の発売の時には、“「シンプルに格好いい」ということで唸らせてしまった増長天、一歩リードか?残るグリーンなアイツ、持国天。ちょっと厳しいレースになりそうな予感も…”なんて書いたんですけど、なかなかどうして。格好イイじゃないか、持国天!! 甲冑などは、どんどんシンプルになっていくような気がするこのシリーズ。しかし、「肌の色がグリーン」というのは、何か人間の生理に訴えるものがあるのでしょうね、間違いなく。奇妙に、印象的。インクレディブル・持国天ですよ。。。 で、こちらも増長天と同じく、憤怒の形相なのですが、顔がいいんです。開口していなかった多聞天、広目天。吠えるような増長天、持国天。比べると、断然、後者二体の方が顔がイイ。表情がイイんです。 そこで過去4体(阿修羅は三面なので除く)を、表情とカラーリングからプロファイリングしてみますと、■多聞天→ストイック■広目天→クール■増長天→スパイシー■持国天→ワイルド という感じでしょうか。四天王って、キャラ立ちの大先輩みたいなところ、ありますもんね。宗教美術は、洋の東西を問わずそうですけど。。。 そんなワケで、写真では分かりづらいですが、ワイルド担当の持国天には、張飛@三国志ばりに、矛を肩に担がせてみました。 ひとまず初期に構想されていた(?)ラインナップはこれですべてリリースされたリボルテック仏像。木彫バージョンも順次リリースされるということですが、このデザインと造型、動くというプレイバリューを考えると、むしろ極彩色バージョンでこそ、“きわどい荘厳さ”が引き立つものと思うのです。(了)
2012/06/06
コメント(0)
尾崎紀世彦さんが好きだった。歌謡曲のいいところを思い切り活かしながら洋楽ばりのホーン使いで洒落た仕上げの楽曲に、スケール感のある抜群の歌唱力が素敵だった。父の鼻唄で『また逢う日まで』を覚えた。子供の頃、LPを何度もかけてもらった。 学生の頃、父によく飲みに誘ってもらった。ある晩、銀座にある、父の行きつけのクラブで、この歌を二人で歌った。親子で歌った『また逢う日まで』を、一本のテープに録音してもらったのは、ママさんのアイディアだった。15年以上も前の話だ。 その後、私がそれをデジタルデータにして、勝手にiPodに入れていた。データは実家で作ったようだ。 先日、そんなことを思い出しながら父と話したが、父も、自分のiPodに、親子で歌った『また逢う日まで』を入れていたらしい。私たち親子にとって、思い出深い歌手が逝った。また、逢えるときまで。(了)
2012/06/06
コメント(0)
更新が遅れました。『蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち』@千葉市美術館、東京国立博物館140周年 特別展『ボストン美術館 日本美術の至宝』、行って来ました。 千葉市美術館は、テーマを絞り込んだコレクションが豊富なことと、企画や学芸員の方々の意識や学識が高いことで、以前から素晴らしい展示を催していて注目していたのですが、だいぶ前に鈴木春信の特別展を見逃して、なんだか足が遠のいていました。さて、曾我蕭白は、大好きな画家ですが、なかなかまとまった数の作品を一気に観るというチャンスがなく、今回の『蕭白ショック!!』までは、身近さを感じるまでにはいたっていませんでした。 しかしまぁ、『蕭白ショック!!』とは、大したネーミングで、蕭白のファンにとっても、そうでなかった人や蕭白を知らなかった人にとっても、あのショッキングな作風はインパクト十分だと思われますが、私の場合は、ある意味企画意図通りのショックを味わったという感じです。つまり、蕭白が自分の中の「好み」のスタンダードになった、ということです。そういうショック=刺激を、感受性の回路に適切に与えてもらったということ。 ところで、自分の世界を広げることと、深めること。両方大事です。両輪ですね。後者の場合は、自分の中に「好き嫌い」の尺度を持つことが鍵なのかな、と思っていますが、「これ!!」と思えるだけのものに対峙しないと、なかなか尺度として感覚に据えづらいものがあります。安易に据えれば、「好み」がぶれますし、そのぶれは、深める力のかかる一点を広くしてしまい、鋭利さを欠いてしまいます。 そういうことで、自信を持って「好み」の尺度を据えるという作業は、不断に耳目を肥やすことに加え、慎重さも求められるのですが、『蕭白ショック!!』を浴びることで、曾我蕭白は、完璧に私自身の中の「好み」の尺度として起動しました。蕭白スイッチが入ったわけです(w)。例えば、私は仏像すべてのことに詳しいわけではまったくないのですが、運慶の作品を間近に体感して、ズバッと体の中に尺度として据わってくれたとき、少しずつほかの仏像や仏師のことが学べるようになりました。 それと同じように、蕭白を通じて、日本の美術について深まる部分があれば、ひいてはそれが別の関心分野を同時に深化してくれるでしょうから、世界観に広がりも出てきます。そういう尺度を見つける身体的/内面的な旅というのは、永遠に果てがないのですが、実に楽しいものです。 もしや見逃すかも…と思っていた『ボストン美術館 日本美術の至宝』展、も、ひょんなことから観ることが出来たのですが、ここでも蕭白の重要な作品を堪能できましたから、二つの展示で、蕭白を一気に体内に取り込めたことは幸運でした。 しかし改めて、ボストン美術館。日本にあったら、そのほとんどが重文か国宝だろうなぁ…というようなお宝ばかり。この展示も、規模的にはもうなかなか実現出来ないレベルということですが、それもそのはず、展示室二つだけで、十分一級の美術館が作れるだけの内容です。恐るべし、ボストン美術館。 入口、一発目に置かれた岡倉天心の像は、有名な釣り人姿。その竿で何を釣り、その魚籠に何を取りこんだか。飄々とした天心像の内側に隠された、希代の天才の美への執念と、気宇壮大な野心を噛み締めながら巡るこの特別展。そんな愉しみ方もまた、天心の百年の計のうちなのでしょうか…(w)。『ボストン美術館 日本美術の至宝』展もまた、別の意味でぴりぴりとショックを感じさせる“戦慄の特別展”でした。(了)▲目の焦点が、蕭白の描くディティールの奇抜さに、さらなるショッキング効果を与えています。うーん、トラウマものの衝撃度ですが、よくよく見ると、思わず吹き出してしまうような黒いユーモアセンスも感じます。▲性懲りもなくコンセプトも謎のガシャ一回300円也、やってしまった…。謎過ぎ&ヤッパリな出来映えに、その場でガックシ。でも、この発想は笑えました。ここまでやるとは…。
2012/05/21
コメント(0)
『生誕100年 ジャクソン・ポロック展』@東京国立近代美術館、行ってきました。滑り込みセーフ(汗)。 ジャクソン・ポロック。中学生の時に、モダンアートにハマって、シコシコ貯金しては買っていたのが、ニューヨークを中心とする、当時のモダンアートのメッカに関する写真集や画集、事典など。その中で、ポロックを知り、やがて念願かなって同じ頃、ニューヨークに一ヶ月ほど滞在した時に、作品と対面を果たしたのではないかと記憶しています。 その後、あまり深入りすることなく今日まで来てしまっていましたが、何年か前に映画化された際に、同じように、10代の頃の甘い憧れのような記憶がよみがえった程度だったのです。 しかし、とにかく生誕100年ということで、これだけの規模のポロック関連の企画展はなかなか観れないだろうという気持ちに後押しされて、足を運んだ次第です。 しかし、やっぱりポロック。付かず離れずも、気になってきたワケだ。壮絶に面白い。ボキャブラリーが足りないようですが、私にはそれしか表現のしようがないのです。 アクション・ペインティングばかりに目を奪われてはいけないと知りつつ、作画風景を撮ったフィルムなど観ていると、彼にしか見えない「何か」、それは芸術の深奥なのか、名声なのかお金なのか、あるいは分解しきれないほどのアルコールなのか女性なのか、何にせよ、その「何か」は見えていて、無意識的でいて確信犯的な衝動に揺り動かされて「無心」ではいたのだろうな、と思うのです。その「無心」の境地は、苦しさも痛みもひっくるめて、きっと最高に気持ちのいい境地だったろうな、と思うのです。 とまれ、彼がネイティヴ・アメリカンのシャーマニズムに少なからず影響を受けていたことは、14歳の私は知らなかったし、その後も知らぬままでしたが、やがて来るカウンター・カルチャーや、カスタネダ的な陶酔、否定されながら皮肉にも結局事実的にはアメリカ社会を制覇した(!)ティモシー・ リアリー主義みたいな、幻術的ヒッピー精神からアメリカニズムに異議申し立てをしていく萌芽のさらなる先駆的な感性を、すでにポロックは発揮していたのかな、なんて思ったり。 ポロックの作風の変遷は、そのまま当時のアメリカのアートシーンの模索の道と軌を一にしている、というのもあながち大げさではないなと痛感しました。 興味深かったのは、ポロックは、アルコールに耽溺し始めた頃から精神科医に診てもらうようになる(先のシャーマニズム的な感性と、やがてユング派の精神科医の診察を受けるようになる流れなどにも必然のようなものを感じたり…)訳ですが、その頃の、何か検査か自由連想の一貫だったのでしょうか、医師がポロック描かせたドローイングが数点展示されていたのですが、医師がどう診たか知れないけれど、分析的な視点に立つと、少なくともこの時点のポロックには、「医師のいう異常性」というのは見られないような気がしてならないのです。 もちろん、「一種のアイディア帖のようなものだろう」ときちんと考証されても、どこかにはポロックの心理的な内奥が投影されていてもおかしくないのですが、まさに当時吸収していたシャーマニズムの影響は見られるにしても、それらはやはり純然たるアイディア帖であることに間違いなく、特殊な傾向は見いだせないのです。 とすれば、彼が作風の転換期を迎えようとしていた頃の作品も「アルコール中毒ですら」も、「ポロックの常軌」に相違ないということが判るのです。いつも、正常と異常の境界は、曖昧で人為的に規定された尺度でしかないことを思い出します。 作品を見るに如くはなく、それ以外の情報は補足なのかもしれません。けれど今は、改めて、賛否両論あって敬遠していた映画『ポロック 2人だけのアトリエ』、あえて観ようかな、と思っています。(了)▲会場には、ポロックのアトリエが再現されています。その床はもちろん…こんな感じでした(w)。
2012/05/05
コメント(0)
これまで、第1弾からずっと追いかけてきて、第1弾の多聞天のインパクト、目を惹くブルーと渋みある形相に魅せられて、第2弾広目天、目玉であるはずの第3弾阿修羅…ともう一つピンと来ないところがあったのです。動く。格好いい。デザインは超絶。なんだけど、像としての美しさ(飽くまで私の中での美しさ、ですけれど)、という意味では、ちょっと記録更新がなかったんです。 しかし5月1日にリリースされた第4弾増長天。これは来ましたね。プロポーション的には、造形段階でしょうか、若干下半身が詰まってしまった感じがありますが、全体に細身にまとまったシルエットに救われます。あと、肩がやや弱いんだ。ちょっとなで肩なのが惜しいなぁ。あぁ、それと。やっぱりヘアスタイルも全体の印象に大きく影響があるんだなぁ。増長天の逆立った髪型、これは全体をとても引き締まったものにしていると思いますし、重心が偏らず、スッとした芯を感じるんです。像全体に。 あとはやはりお面相。広目天、阿修羅は、もう一つ好みのタイプとは違ったのですが、増長天は来ましたねぇ。とにかく顔がイイ。顔がイイから、どんなポーズでもキマる(ポージングこそアクションフィギュアならではの醍醐味ですから…これ重要です)。 多聞天はとにかくインパクトがありました(話題性、煽り、可動も含めて第1弾の印象は濃かったんだ…)。あの色味も、凄みを感じました。かようにカラーリングという点だけでも、阿修羅ですでに体験済みの朱色系というハンデを抱えつつも「シンプルに格好いい」ということで唸らせてしまった増長天、一歩リードか?残るグリーンなアイツ、持国天。ちょっと厳しいレースになりそうな予感も…、と言わず、6月1日を待ちましょう(w)。(了)▲リボルテック増長天は、なぜか西洋の宗教モチーフとも合うような気がするのですが…。
2012/05/05
コメント(0)
浅香弘能『KABUKIMON』@新宿高島屋10F美術画廊、行ってきました。ご縁は、過日ギャラリーイチヨーさんにうかがった際にいただいたDM。「刀…か。」と思ってよくよく情報を見ましたら、なんとこれが石の彫刻!!石で刀???何故???静嘉堂文庫美術館で刀剣を拝見して間もなかったということもあり、興味津々。 会期を待って、うかがってきました。これがまぁ、スゴいんです。圧倒的な量感、ズシッと重みが伝わって来ます。石の材質にもよると思うのですが、とにかく重厚なインパクト。 重厚ならば切れ味のほどは?といいますと、これが実に静謐な印象なので、無言の饒舌と言いますか、語らずとも吹毛の一振りとばかりに、「名刀オーラ」がビシビシと観るものを圧倒します。 けれど、そのディティールに目を移すと、よくもここまで精巧に…とため息が出るほど細かく入念な仕事が施されており、美術品としての刀、それも石の刀の素晴らしさがよく判ります。 刀という、シャープなイメージをモチーフを、あえて重厚な石を用いて自分の世界観で表現する。それが、刀を武具直系の装飾品ではなく、神聖で目出度い、深い精神性をも感じさせるあたかも神具のごとき優雅さを醸し出しているように感じました。 一方で、手裏剣に畳なんて、思わずニヤリとしてしまう遊び心ある作品も手がける浅香弘能さんの今後に注目して行きたいです。(了)
2012/05/05
コメント(0)
雷鳴轟かせ、息吹を呼び込むとはまさにこのこと。国宝をはじめとする仏像をモチーフに、インテリアに仏像、という新しいスタイルの提案を続けてきたイSム(最近、TBSの『マツコの知らない世界』に取り上げられて、何となく目にしたことがあるという人もあるかもしれない)が、ブランド立ち上げ一周年記念企画を投入し続けている。 その一環として、約20センチ前後というサイズを忘れさせるほどの作り込みでコアなファンをも唸らせてやまないTanaCOCORO[掌]シリーズからリリースされた新作が「風神/雷神」である。過去には、贈り物として何体かのイSム仏像を求め、そのクオリティの高さ、考証/検証の確かさには絶大な信頼を置いてきた。 昨夏は、当時新作だった「不動明王」を、自分のために購入した。不動明王は、ある種、自分を護り、鍛え、戒める「アメとムチ」ならぬ「盾とムチ」の象徴として、あるいは図像そのものとしても昔から大好きなモチーフなのである。 ところで、お決まりの“異形好き”の血が騒いでしまい、今回はじめて、TanaCOCORO[掌]シリーズ「風神/雷神」を購入(手軽に購入しやすいよう、それぞれ一体ずつ別売りになっているが、やはり並べて飾りたくなるもので、私は二体一組として購入)したが、まさに“手のひら一杯”分くらいのサイズであるにもかかわらず、像はもとより台座にいたるまで、どこかに手抜きはないものか、と探してやりたくなるほどニクい徹底的な作り込みなのである(実物ではなかなか見られない背面なども、手に取ってじっくり堪能できるのがまた愉しい)。 こうした造形物は、サイズが小さくなれば精巧さは二の次にされがちであるし、一番大切な像のプロポーションもデフォルメされてしまう。コンパクトなサイズを選ぶなら、捨てなければならないことがあるということを、ユーザーは甘んじて受け入れざるを得ない。 といって、技術的に不可能な訳ではない。コストが合わなくなってくるということだ。にもかかわらず、二万円を切る価格帯で、スタンダードモデル(大きなサイズのオリジナルライン)と同じだけ、いや、小さい分、さらに緻密な作業工程を、惜しむことなくつぎ込んでいることは目の前の「風神/雷神」を見れば明らかなことで、モノ作りというのは、こだわればこだわるほどハードルが上がるのだろうな、という思いと、クオリティを上げ続けなければならないその宿命を思って、作家にせよ職人にせよ、メーカーにせよ、モノを生み出すという仕事の全てに改めて敬意を表したくなる。 で、その目の前の「風神/雷神」の話。「風神/雷神」というと、あの「風邪薬」を思い出しそうなのだが、無論そのモデルは俵屋宗達の作品である。俵屋宗達の「風神雷神図」は、「北野天神縁起絵巻」に着想を得たものとされているが、当然宗達が生きた時代の遥か昔、鎌倉時代の作であるこの「風神/雷神」のモデルを知らなかったとは思えない。 宗達に限らず、造像当時はもとより、それ以降も、あるいは現在においても、自然を象徴させた異教の神々は、我々のさまざまなイマジネーションやインスピレーションの源であり続けている。 というのも「風神/雷神」は、無駄を削ぎ落した、写実性も高い鎌倉期の作品であるが、この像の魅力は「余白」にあると個人的には思う。アトリビュートや装飾品などがあっても、それらが飾る本体そのものは、シンプルで、サラッとした作りなのである。技術的には、仏教彫刻の技術史の中でも円熟期にあった当時、あえて「余白」を作り込み、表現するというのは、むしろかえって自分たちの技術力の可能性や、新たな表現技法の模索行為そのものであったかも知れない。 そうして、もしこの想像上の神々である「風神/雷神」の彫刻そのものが一分の隙もなく入念綿密至極に作り込まれていたならば、それは強い固定観念を植え付け、単なるステレオタイプを作り出そうとする強烈なエゴの結果にしかならなかったろう。そこには、宗達はじめ、後の人々の豊かなクリエーションやイマジネーションの入り込む余地はなかったに相違ない。 重ねて、作り込もうと思えば技倆ならば十分にあったろうに、あえて、シンプル化できるところはシンプルに作り込み、プロポーションやバランスの方を優先し、「余白」という新たな演出を盛り込んだように思えてならない。 翻って、イSムの「風神/雷神」の魅力は、モデルのディティールへのこだわりや、彩色だけで生き生きとした玉眼までを表現してみせた像の表情といった点(その目の生命力は、神業に近い)だけでなく、あろうことか“「余白」の表現”までもが精確に再現されている点にもある。 だからこそ、この「風神/雷神」は、どのような場所に置いて楽しもうか、という“飾り手のイマジネーション”を刺激してやまないのだとも思う。(了) 本物の仏像を寺院へ納入するイSム (いすむ)のミニシリーズ掌(たなこころ)/ 我が国唯一の国宝指定風神雷神像仏像 フィギュア イSム 掌 風神雷神 (ふうじんらいじん)/ TanaCOCORO【msof】0413h【送料無料】天駆ける鬼神の躍動感!イSム 風神・雷神 TanaCOCORO【 掌 】2個セット ・仏像フィギュア / インテリア
2012/04/12
コメント(0)
で、こちらが先日4月1日発売のリボルテック仏像第3弾阿修羅。流石に、端倪あたわざるイマジネーション。異形も異形。でも…。 そうか、つまり我々が好きな阿修羅像というのは、イコール興福寺の阿修羅像なんだ。「いや、それは短絡的で一面的な、乱暴な決め付けだ」という向きがあって当然だけれど、阿修羅ブームというのは、つまり高度にブランド化された興福寺の阿修羅像が主役なのであって、例えば、阿修羅にまつわる闘いの逸話を思い浮かべて憤怒の造形を目にしても、どこかアンニュイで悩ましげな、愁眉に憂いをたたえるナイーヴな阿修羅像(それが、修羅であることを忘れて!!)を追い求めてしまうのです。 来歴的には阿修羅王道の風貌魁偉を目の前にしても、阿修羅を拝まざる残念さを思うのは、 喩えはとても無様だけど、吉野家以外で牛丼を食べた時の切なさに近いものがあるのではないだろうか…と思ったり。(了)▲アイディア勝負だけでiPhoneで撮った写真。加工はともかく、元絵はなかなかいい感じなんですよ~。阿修羅 リボルテックタケヤ No.003登場!リボルテックタケヤ 第三弾 阿修羅 No.003 海洋堂版 完成品アクションフィギュア 4537807042026 0331fn
2012/04/06
コメント(0)
大変ラッキーなことに、上野で打ち合せ。ランチタイム返上で駆け足で向かったのが、『第40回記念 写実画壇展』@上野の森美術館。ここは駅近でホントありがたいです。 毎年この展覧会には足を運んでいます。というのも、恩人であり、大学の大先輩である方が、スペインをテーマに毎年新作を出品されているからです。 この手のテイストの絵は、最近ではなかなかじっくり観るチャンスがないため、この一回は非常に貴重。日本の近代西洋画の一つの潮流として、骨太に、初志貫徹で重ねた40回。今年も意欲作が並びました。 私が毎年この展覧会を口実に再会するこの恩人は、先の震災以来、電車恐怖症にかかってしまい、今回の展覧会にも来館されないだろうと思っていました。 ところが、何の約束もなかったのに、駆け足ながら一通り作品を観て、また次の打ち合わせに向かおうと出口に急いでいたところ、受付に見覚えのある方が。その人こそ、この恩人だったのです。向こうも大変驚かれ、まさかこんな奇跡的なタイミングで再会がかなうとは思っておらず、縁(えにし)の不思議さを感じました。 なんでも、電車にはまだ自信を持って乗れないそうですが、今日は天気もよく、また40回目という記念すべき展覧会に、出品者として一度も足を運ばないのはどうかと思い、ご友人二人に助けてもらいながらなんとか辿り着いたということです。 作品にはまだまだ元気がありました。元々旅を愛される行動的な方です。震災の影響は、その程度に差はあれど、場所を問わず、様々な形でいまだ爪痕を残しています。一日もはやく心の傷が癒え、またお元気に旅に出かけ、旺盛な創作意欲を取り戻されるよう、心から祈りました。(了)
2012/04/04
コメント(0)
ご縁があって応援させていただいた、松井久子監督第三作『レオニー』(エミリー・モーティマー『マッチポイント』ほか、中村獅童、竹下景子、原田美枝子、中村雅俊ほか)。公開は、2010年11月10日(土)。随分昔のことのようです。 その後映画は全国ロードショーとなり、やがて海外版公開も決定。そのブラッシュアップには一年をかけたということで、ついには世界にも打って出た訳ですけど、とにかく保ち続けた監督の熱意が何よりはじめにあり、サポーターたちの熱い支援、そして、キャスト初めスタッフさんたちの膨大な労力があって、この作品は出来上がっているのです。 イサム・ノグチの母親であるレオニー・ギルモアの生涯を描いたこの作品は、一人の女性の生き様、一人の古き日本人男性の葛藤、そしてその男女の子である越境者イサムを描き出すと同時に、どういう時代背景が不世出の天才を生んだかがうかがえる一作となっていました。先日重森三令の企画展を観に行ったときも、当然イサム・ノグチとの交流についての資料などが出てくるのですが、なんか、親近感が湧きますね、勝手に。 さてその完成台本は、公開後ノベルティとして監督よりサポーターに贈られるということになっていましたが、妥協なき手直し、世界進出にあたっての海外版制作といったいきさつもあって、映画完成後も台本そのものが「完成」するまでにまだまだ時間が必要だったのですね。それで、公開から長い長い旅を経て、昨日、本当の意味での完成台本が、手元に届いたのです。 映画が公開されたことだけで十分夢をいただいた訳ですが、こうしてどんな約束も忘れず心に留めておく多忙の人、松井久子監督の気持ちが嬉しく、一冊一冊に自筆で書かれたサインを通じて、握手をしているような気持ちになりました。(了)▲題字は山内豊さん。
2012/04/03
コメント(0)
こちらは、2012年3月1日リリースのリボルテック仏像第2弾の広目天。なんかなぁ、固定観念なんですが、イメージ的には、もう少し涼しげなお面相であって欲しかった…と思うのは私だけではないはず。だって、このお方、一応アトリビュート的には文系なんだし…(汗)。肉食…というか、体育会系に過ぎるような。頼もしそうではあるけどね(笑)。(了) ▲我ながら写真は格好良く撮れたので、記録のためにもう一回載せちゃいましたよ(汗)。
2012/04/03
コメント(0)
陶芸家の安川万里子さん、彫刻家の嘉月正忠さん、金工家の中村友美さん、三人による『三人展@ギャラリーイチヨー』。こちらもまた素晴らしかった!!こちらは、以前作品は拝見しながら、別件で急いでいたためチラ見に終わった中村さんのその後に注目していた結果、お声をかけていただき、足を運んだ次第。 真鍮のお茶杓、というと「?」という方がおられても当然かと思いますが、これが実に美しいのです。使い方さえ気をつければ、実用性に疑問符が付くということもないのではないか、と。よりイメージに近いものを、ということで前回はご縁までいたらなかったのですが、さて今回は…。 金属にはそれぞれ、さまざまな特徴があり、さまざまな魅力と「得意」があるのですが、私はアクセサリー以外では真鍮が大好きで、その金属ながらなんとも有機的な質感に、ついやられてしまうのです。 今回は、勿論中村さんの真鍮作品目当てでうかがったのですが、この三人展、実に取り合わせが効いていまして、よくぞこんな見事に…と感動します。 今は沖縄をベースに活動されている安川さん(不肖私とは“沖縄つながり”です)の、繊細な作風(ギャラリーをして「よく腱鞘炎にならないわね、と言うんですよ」と)と、こちらに行き詰まったときに作る琉球は壷屋仕込みの荒々しくて情熱的な土器との、大きな振れ幅が魅力。 嘉月さんの作品は、枯れた感じとモダンさ、素材の息吹(というより呼吸ですね)が感じられる、端正ながらも不思議なニュアンスが持ち味。 そして中村さんの作品は、まさに一生ものとなりそうです。この一本、一作に、作り手の情熱と技、アイディア、素材とのコミュニケーション、すべてが込められているのだなと、手にするたびに、愛着深まる作品です。 お稽古から離れて久しいですが、茶杓だけは、生理的に好きで、手が喜ぶんです(w)。このお茶杓は、ケースと一緒にして懐刀のようにして持ち歩こうかと思っています。 そしてギャラリーイチヨーさん。ここがまた素晴らしい…。外光がたっぷり注ぎ、すべての作品が、やわらかい風合いを纏って整然と並べられている様はまさに幸福そのもの。実にいい時間でした。(了)
2012/03/30
コメント(0)
"NEONTHANATOS" by 丸岡和吾展「ネオンタナトス」@CANNABIS。スゴかった…。前回イベントにお誘いいただいた際には、直前まで行けるはずが、残念ながら突発的な避けがたい予定が入り、敢えなく作品拝見できず。 今回は、ついに作品との対面がかないました。髑髏作家、丸岡和吾。いい響きです。髑髏の茶碗でお茶など酔狂な…と言われそうですけれど、私はこのユニークな作品、生理的に惹き付けてやまない作品と向き合う前に、自分と作品との接点についてのコンセプトを持って行くか、固定観念を持たずに行くか、ちょっと悩んでいたんですね。 見たら絶対素晴らしいだろう、それは作風、作品コンセプト、スキル、そのすべてにおいて、超絶モノだろうということは感覚していました。けれど、そのスゴさに圧倒されるだけでは惜しい、そんな縁(えにし)を感じたのです。 というのも、2011年、私自身「死との舞踏」というテーマを掲げていましたが、こうした年ごとのテーマは、その一年で消化されるものではなく、むしろ年々タグのように私自身の生命のテーマにぶら下がって行くものなのです。 それで、いざ作品と対面、という直前に前者を選びました。これまで、近代というのは「生」から「死」を考える時代で、それが長く続いてきたわけですが、心の問題、信仰、アイデンティティ、精神性、医療や科学技術の発展…。今や、時代は、「死」から「生の持つ意味」を考える時代になった、と私は確信しているのです。それだけ、命の意味が危機的になった、ということではないでしょうか。 だからこそ、死を想って今ある生の意味を考えるという自分自身のライフワークをあえて頭に入れて、作品と相対したのです。 ですから、これはあくまで私と作家さんの作品との関係についてだけの話ですが、生を見つめる器=人間(私自身)、という意味合いから、この髑髏作品、髑髏茶碗と文脈を構築したのです。 前回は、白ベースの作品が多かったとギャラリーでうかがいましたが、季節柄、桜をイメージした色合いの作品が並び、個人的には白よりも少し赤みがかった色味の方が求めていたイメージに合うこともあり、また「桜とされこうべ」、という取り合わせもまた奇想の妙として最高ではないかと感じました。 ひとくちに髑髏といっても、必ずしもネクロフィリア的なセンスとは限らず、洋の東西を問わず、常に生との表裏一体としてモチーフにされてきました。 まさに、メメント・モリな丸岡さんの作品、今後も注目したいです。(了)
2012/03/30
コメント(0)
少し前の話で恐縮ですが。行ってきましたネタ、三連発。まずは『サムライたちの美学―新刀と刀装具にみる粋の心―』@静嘉堂文庫美術館。 静嘉堂文庫美術館、久しぶりに行きましたけど、やぱり遠いですね(w)。でも、あの正門から入って、てくてくと坂道をのぼって行く過程で、ここは特別な場所…という、期待がいやが上にも高まるんですよね。これも演出の妙。 もともと刀剣鑑賞というのは、あまり守備範囲ではなかったのですが、ずっと小さい頃に、今は本家筋が継承している、母方の祖母の家の代々の真剣を見せてもらって以来、「身近でないのに身近な感覚」という距離感で頭の隅に置いていました。 刀剣鑑賞のことは、またもあまりよく分からないのですが、鍔や、三所物(目貫・笄・小柄)などの小物の造形は好きで、刀剣とはあまり関係ない世界で興味を持っていたのですが、流石は静嘉堂文庫美術館、企画展の案内パンフ、質素な作りなんですけど、内容が充実していまして、刀剣の見所をまとめた挟み込みのパンフは、とても実用的かつ勉強になりました。これを片手に鑑賞しますと、その場に居ながらにして、刀剣鑑賞の面白さが体に沁み込んできます。あ、やっぱり面白い世界なんだ…。会場には、かなり気合いの入った刀剣ファンの方も数名おられ、見方そのものが全然違いました。太刀筋がいい、というのはこういうことでしょうか、お後がよろしいようで。 あわせて印籠と根付も展示されていましたが、江戸時代に入ってからの意匠というのは、鍔にせよ、根付にせよ、「町の文化」が横溢してきますから、雅致より遊び心、という粋なセンスが感じられて楽しいです。 その後は、国立新美術館(いつも書きますけど、年配の方には不親切な場所に建てた、「街の顕示欲」としか言いようのない美術館!!)にて、『公募第52回 日本南画院展』を観てきました。あ、入り口でイタリア人の女性団体に声をかけられまして、「ここは国立博物館じゃないの?」と訊ねられまして(汗)。そう、ネーミングもまた不親切で紛らわしいんですよね、ココ。気の毒だったなぁ。 ともあれ『募第52回 日本南画院展』。さる作家に招待状をいただきまして、はじめて、南画(つまり、江戸時代以降の画風、文人画)オンリーという展覧会に足を運びましたが、いやスゴい。こんな渋い世界があるのか、と。 出品されている作品は、意外に古典的なものだけでなく、南画という枠の中で、新しい試みをしている実験的な作品も多く散見されました。それから、なぜか仏像モチーフの絵、多かったです。仏、とかなら分かりますが、「●●寺の●●像」とか…。個人的には「?」だったなぁ。でも、時代の潮流を表していますね。そして招待くださった作家の作品は、出口付近にドーン。流石。というか、圧巻、別格ですね。この日も、受付(そう、出口受付の真正面にその絵があるのです)では、来場者がため息まじりで、黄色い声をあげていました(女性ファン多し?)。「この絵の写真、売ってないの?」という声に、平謝りの窓口、というシーンも。 その足で、地下のミュージアムショップに行ったのは、『上出長右衛門窯の工場(こうば)展』があったから。これは、展覧会というより販売会に近い企画展なのですが、昨年、ハイメ・アジョンの作品を求めたりしたので、「その後」を知るために立ち寄った次第。 モノ作りのバックヤード、お見せします、という内容でしたが、企画趣旨からしてあまり高望みをしてはいけないのですが、もう少し「舞台裏」を見てみたかったな、という喰い足りなさも。それでも、相変わらずインスピレーションに溢れた精力的な創作活動を続けていることに脱帽。書籍コーナーで二、三冊本を買って帰りました。 こういうアート漬けの日は、やっぱり最高に気持ちがいいですし、何よりアイディアやモチベーションのリフレッシュになります。(了)
2012/03/28
コメント(0)
仕事が混んでおり、この二週間くらいは連日睡眠不足が続いていたが、それでも、仕事を週末に残しておく訳にはいかない。というのも、母方の祖母の米寿の祝いが控えていたからである。 祖父の米寿の祝いからはや5年近くが経った。祖父の米寿の祝いの頃と比べて、新世代達にもそれぞれ家族が増え、祖母の祝いには、総勢では、祖父の祝いを超える人数の家族が集まった。 全体の段取りから仕切りまでは、長女である母が担当(当然、実の両親を見送ってからというもの、全力で「妻の両親」を我が親として愛し支えてきた父も、大病や、その後の仕事の環境変化の中で母を支えてきた)。一時帰国していた次女の叔母のサポートが直前の母の多忙を支える(祖父の米寿の祝いの時と同じく、美しい記念のシールを作成してくれたカナダの叔父は、残念ながら仕事の都合で、帰国が間に合わなかった)。四半世紀以上にわたる米国での勤務を終えてようやく帰国した末子長男の叔父も、祖母の祝いには余裕を持って参加、である。 祖父の時と同じく、我ら従兄弟たちからの贈り物は、従兄弟長兄(我ら従兄弟五人は、兄弟みたいなつきあいなので、彼は長兄ながら、私の弟を挟んで“要の三男”という立ち位置である)からまず私に「今回はどうする?」とメール。それに対して、弟、従兄弟次兄に、一斉にアイディア募集のメール、は私の役目。それぞれが、忙しい中、アイディアや意見にゴーサインを出し合いながら、最終的に「祖母に合う帽子/春を感じる、旅をしたくなる帽子」をイメージに、今回は従兄弟次兄が、代表としてランチタイムに百貨店まで足を延ばして購入してきてくれた。我らが五人の末弟、従兄弟三男は、学業の都合でアメリカから気持ちで参加である。ともあれ、祖父の祝いの時より、それぞれが多忙になったからこそ、以前よりも連携プレーの精度は格段に向上したのではないか、これで心配なしと、呑気なだけの長男は思ったりする。 祖母は、原爆で家族を一瞬にして失ったのを境に、激動の人生を歩んできた人であるが、元来は所謂「お嬢さん」そのものような人で、呑気で、お茶目だが、決して人前に出張るようなことをしない人である。推されても、主役を引き受けるタイプでもない。長女でありながら、末っ子のようなところがあり、それがまたおっとりとした雰囲気を彼女に与えている。 その祖母が、人生の節目で、大勢の家族に囲まれて主役を迎えたこの日には、特別な意味があったことと思う。出席した一族一人一人に宛てて書かれたお礼のメッセージには、「たった二人からはじまり、懸命に守ってきた家族が、ここまで大きくなった」という意のことが書かれていた。絶対にしないと言っていたはずの挨拶も、短いながら、品格があって、言葉美しく、謙虚さに満ちた感動的なものだった。 個人的には、今の私の人格を形成する上で、祖母の原爆体験はかなり大きな影響を持っているが、その一方で、祖母からは、美術を愛し(いまは俳句の師匠でもある)、旅を愛し、季節を愛し、何より「母として家族を愛する」ことの大きさを教えてもらったと思う。私は母にはなれないが、「母」という存在が、計り知れぬ大きな一滴であり、それが家族という大河を作り上げているのだと教えられればこそ、母方だけでなく、父方の祖母、あるいは、顔も見たことがない、私の体に流れる「母たち」の“偉大さ”の系譜が、心にじんと沁み込んでくる。これは、「慈愛そのもの」と呼べるこの祖母だからこそ、生きて、「一族の母たちの記憶」を後世に伝える役目を授かったのではないか。 家族からのお祝いの挨拶、花束の贈呈、ケーキカットなど、事前に計画された予定は、スムーズに進行した。最後に、祖父から若い世代に向けて、「男一人では家族は作り上げられないこと。女性を大切にすること」というメッセージと祖母への感謝の言葉(仕事人間ではあったにしても、やはり家族を大切にしてきた祖父だからこそ、こういうメッセージにも重みがある)があり、病気も全快してますますほろ酔いも心地よい父の一本締めで祖母の米寿を祝う会はおひらきと相成った。 祖母にとって忘れられない一日となったように、我々にとっても愛すべき一日となった。時代は変わり、新しい母の形、新しい女性の形が相対化されてよしとされていく時の流れの中で、「大和撫子、女の鑑」を体現する「古き佳き女性像」の最後の砦、祖母にはますます清く、正しく、美しくいて欲しいと、この日願わなかった者はいなかっただろう。(了)▲祖父の米寿祝いの記念品であったバカラのベースと並んでいるのが、祖母からの、やはりバカラの天使像。それぞれの家族に贈られた。二人からの記念品が、元気に肩を並べた。
2012/03/25
コメント(0)
『二階堂明弘展』@FUURO、行ってきました。陶芸家の二階堂明弘さんとのご縁があったのは、ちょうど昨年春。とあるギャラリーで催されていた個展に足を運んだ時、運命的に出会った作品を通じてのご縁でした。 ただ、そこにあるだけなのに、何とも、涙が出るほどに愛おしい茶碗が網膜から離れず、譲っていただいて以来、一年近くの交流をいただいています。その後も、イベントや個展など、極力足を運んで、二階堂さんの世界観を、もっと自分の内側と引き寄せ合わせていく、という作業を、自分なりに重ねて来たつもりです。 今回の個展は、昨年末の麻布以来。ギャラリーに入ったとたんに、まさに「二階堂ワールド」…と思いきや、実は今回は、さらに作家個人の思い入れやメッセージが込められた実験的な展示が、なんと頭上、二階に!!その名も「あめをうけるうつわ」。テーマに曰く「いま心と体で受け止めていることを、“ものをいれる=受け止める”器を通して表現します」。 なるほど、外光のみが差し込む薄暗い部屋には、「あめをうけるうつわ」の数々が…。中には、数点、満々と水をたたえたうつわも。そっと触れてみると、ヒンヤリと冷たく、水が濾過されて清められ、しみ出してきているような感触。 壁には、作家自身による、この個展の企画に寄せたコンセプチュアルな文章。それを読みながら、一人この部屋で壁ぎわに腰かけていると、知らず瞑想的な気分に、なってしまいます。水の湿度、冷たさ、浸透…そういう悠久な感じや静けさが、思わず人を内省的にしてしまう。 こうした静謐さとダイナミズムを両立する、Movingな感覚というのは、リアリティというバックボーンなしには、おそらく集合意識にまで昇華しないのではないでしょうか。静かな力強さに包まれます。以前お話しされていたように、土への回帰が深化しているという印象も受けました。 二階堂さんの作品と出合い、折りに触れてその作品の数々を愉しませていただくようになって、やがて一年を迎えようとしています。しかし同時に、その「一年」には、二階堂さんとの「ご縁のきっかけ」も含めて、様々な思いが包含されています。「土と生き、土に生かされ、土へと回帰する」二階堂さんの活動を今後も注目していきます。(了)
2012/03/09
コメント(0)
思いがけず、タイミング的にも、場所的にも、今の私に必要なすべてがいただけた出張。数々の出遭い、語らい、感覚するすべてのことが、はるか先へとつながる一歩一歩、その数珠つなぎ。感謝です。2/22日(水)京都駅10時集合↓三十三間堂(迦楼羅、風神雷神ほか):駅で感じたエネルギーが、ここへ足を踏み入れた途端全開に!!↓法然院:しっとりと、薄霧に濡れる苔むす庭に癒されました。絵付け作家・谷田真美さんの個展も↓銀閣寺散策:向月台の演出効果について語らう↓昼食(にしんそば)↓印刷工場見学:印刷現場訪問で、久しぶりに血が騒ぐ(w)↓作家アトリエ訪問:人、作品、声、川、静寂、食、雨、酒の「幸」 2/23日(木)宝菩提院(願徳寺)(如意輪観音):見学時期外にて次回訪問↓樂美術館:『新春展 京の粋 樂家初春のよそおい』↓東洋亭:100年カレーとふわふわオムライスのいいとこどり、「奇跡のオムライス」を堪能↓東京へ▲美しく整えられた庭に、宇宙自然の法則で落ちた雪の塊が闖入。これもまた、必然?あるいは、予め定められた無想の想、巧まずも、大いなるものによって成された風情の創意か…。
2012/03/02
コメント(0)
アメリカ映画のDVD→メイキング映像は、「プロデューサー」のインタビューが面白い。ヨーロッパ映画のDVD→メイキング映像は、「役者」のインタビューが面白い。これも、一種の映画文化の違い???(了)
2012/02/27
コメント(0)
『北川チカ作陶展~テーブルに春風をよせて~』@銀座三越8階 リミックススタイル/ダイニング。長い前フリになってしまいました(w)。 以前からたびたび目にし、気になっていた北川さんの作品。でも、なかなか使用シーンが具体的に思い浮かばなかったのですが、前回、今年の一月の三越のイベントで新作を見た時には、「あれ、今までイメージしていたよりも、意外に男性目線からでも素敵な作品があるぞ」と自らの勉強不足の目を啓かれる思いがし、今回は、一点目当てで、足を運びました。 なんといっても、タイトルが“テーブルに春風をよせて”、ですから。まだまだ寒い毎日、一足先に、春風を感じたいと思い、イメージにぴったりの作品を求めました。まさにテーブルに春風を呼び込む素敵な碗。華やか&上品&柔らかい色味と触感。やっぱり、どの角度から見ても、素敵な碗でしたよ。 食べた後のお楽しみが、個人的には遊び心としてユニークな、とても春らしい、明るく、楽しげな逸品、大切に使います。(了)
2012/02/20
コメント(0)
ここ数年、イベント時期には通い詰めているアムール デュ ショコラ@高島屋さん。今年も、「自分用バレンタイン・チョコ」を求めて足を運びました。お目当てはもちろん、ミホ・シェフ・ショコラティエさん。ここのを食べたら、ほかのが食べられなくなります。。。 今年は、ミホ先生が人気番組にテレビ出演されたこともあって、例年よりも売れ行きが好調だったそうですが、何分、大量生産品ではないため、その分バックヤードは激しくハードだったそうです。イベント期間中、スタッフは毎日、2、3時間睡眠で、先生もアトリエにこもってせっせと一つずつ作品を作っていたそうです…(しかも、イベント期間中収録が三回もあったそうで、その激務ぶりがうかがえます)。 大概、こんなに人気が出てしまうと、「あれ、俺、ずっと前からファンだったのに」と、寂しい気持ちが芽生えたりするのが人情だったりするのでしょうが、そういうの、全然ないんですよね。もう、本当に初期のころからファンでいさせていただいているので、逆に、その成長ぶりに目を細める(生意気ながら…)といいますか、どんどん美味しいショコラが世に広まっていく様が、嬉しくて仕方がないのです。 それで、店頭ではついテンション高めになってしまって、お客様の中には、「バレンタインデーに男一人でチョコを買いに来て、なんでこんなテンション高いんだ???」という視線を投げてらっしゃる方もおられたかと思いますが、まぁそこは許してやってください。 この日は、自称“日本一のカタルーニャ・ファン(カタルーニャは、シロップ漬けしたオリーブを使ったトリュフ仕立てのショコラです)”として、やはり「カタルーニャ」、そして、ミホ・シェフ・ショコラティエを代表する生ショコラのマスターピース「ダミエ」を手に、足取り軽く帰途につきました。。。 おっと、ミホ・シェフ・ショコラティエの「美ショコラ」、イベントや高島屋だけでなく、<a xhref="http://www.mihocc.com/" target="_blank">オンライン</a>や<a xhref="http://www.mihocc.com/09/index01.html" target="_blank">ショップ</a>、アルフレッド・ダンヒル銀座本店<a xhref="http://r.tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13045863/" target="_blank">アクアリウムカフェ</a>でもいただけます。一口食べたら世界が変わる、ぜひぜひ、ファンになってくださいね。(了)
2012/02/16
コメント(0)
ホイットニー・ヒューストンの訃報には、なんとも言えない後味の悪さと、「やはり」という諦念が去来した。 ホイットニーの鮮烈なデビューを今でも忘れられない。まだ中高生だった頃だと記憶しているが、その後自分が原稿を書くことになるとも知らず、なけなしの小遣いで購読していた憧れの某音楽誌で、これからの活躍が期待される若手の特集に、ジョニー・ギルらとともにイラストと評が紹介されていた(当時の某誌は、まだ写真が少なかったのだ)。 その後の活躍は周知のところで、それほどコアなファンでなかった私よりも詳しいリスナーが大勢いるはずだが、彼女の才能は、単に「歌姫どまり」でない稀有なものであったことは間違いない。 ポップにクロスオーバーしても転ばなかったのは、先天的な才能と、後天的なプモロモーションが奇跡的に共存できるだけの、圧倒的な歌唱力という土俵があったからに相違ない。 ありきたりなラブストーリーを大ヒットさせ、およそメジャーシーンで聴かれることなどありえないカントリーミュージックの流行歌(ドリー・パートンのヒット曲である)をカバーして、世界中を―ポップに過ぎると否定したがるR&B原理主義者をも―唸らせてみせた。 母にシシー・ヒューストン、従妹にディオンヌ・ワーウィックらが名を連ね、音楽一家という陳腐な表現では物足りない、まさにサラブレッド。彼女は、ディーヴァを超えた「レジェンド」にふさわしい歌手であったはずである。言うなれば、ホイットニーの名付け親であるアレサ・フランクリンや、ホイットニー自身が敬愛してやまないチャカ・カーンのあとを受け継ぐ者だ。まさに正統派、そして王道。 ダイアナ・ロスが、ユニークなカリスマ・スター型の女王ならば、ホイットニーは、正統なるR&Bの女王の座におさまるべき宿命を負っていたはずであったのだ。 そう思えばこそなおのこと、私には、長い低迷期にも、私は鷹揚に接していたように思う。つまりは、悪く言えば名誉職的な肩書きではあるけれど、つまりは「伝説」になるため、誰もが通過する屈伸運動の“屈”の時期だと考えていたのだ。 それほどに、ホイットニーの素質もキャリアも盤石に思えたのだが、本人はもがき、苦しんでいたのだ。光が強いところには、濃い翳が生まれる。 果たして、心寄り添える『ボディガード』が必要だったのは、映画の中のホイットニーではなく、映画の外のホイットニー。本当のホイットニー・ヒューストン。そう思えばこそ、映画で描かれた、栄光の陰でもがく「姉」は、実は現実のホイットニー・ヒューストンのドッペルゲンガーとしてこの悲劇を予告していたのではないかと思えて、なんとも嫌な汗を抑えることができない。(了)
2012/02/16
コメント(0)
『スター・ウォーズ』は、私にとっては芸術であって、エンタメじゃないんです。ディズニーランドのスター・ツアーズ、子供心にスゴいと思ったけど、「これは芸術ではない。映画の『スター・ウォーズ』とは違う」と即座に感じたのと同じことで。感動しても、質が違うというか…。 いよいよ3Dも公開されますけど、結局、技術もない時代に、今でいう3Dの衝撃と同じくらいのことを特撮技術でやってのけたことがスゴかった訳で、いま、単純に3D技術の潮流に乗って再公開しても、なんだか子供じみたSF作品としか感じられないんじゃないかな。『スター・ウォーズ』を、アトラクション的に愉しむことに、少々不安と躊躇いがあります。。。(了)
2012/02/14
コメント(0)
昨年の秋でしょうか、重森三令にひどく惹かれて作品集を読み漁っていたのですが、いきなり今年に入って関連イベントがある、というので、先日取材の帰りに行ってきました『重森三令 北斗七星の庭』@ワタリウム美術館、初日。 ワタリウム美術館は、学生の頃しょっちゅう足を運んでいました(一番印象に残っているのは、萩原朔太郎の回顧展だったかな)が、最近はあまり訪れる機会もなく…。で、ご存知の方もおられるかと思いますが、ワタリウム美術館。所謂ペンシル型ですので、狭い4階建て(地下あり、ですが…書店なので)。あんなスペースで、どうやって不世出の作庭家の展示をやるのか、不可思議に思っていましたが、そこは当然、インスタレーションで。 けれど、物理的なスケール感ではなく、重森三令の作風のスケール感は、相当に忠実に表現してあり、長い伝統を持つ作庭の世界に、革命を起こした軌跡が体感できます。 例えば、岸和田城庭園などそのよい例で、これは、世の中は飛行機の時代になり、「空からの目線」が庭の設計には不可欠となる、そういう目線が新しい審美眼を挑発する、という発想から作られているんですね。つまり、作家自身の主義から来る革命ではないわけです。作家主義的な革命は、何度も何度も、いつの時代にも多々あります。しかし、芸術上の革命というのはそんなにもたくさん起こり得るはずがなく、たとえばこの岸和田城庭園のように、常に創意に燃えている作家と、時代の変革、それも一世紀に一度あるかないかのようなダイナミックな変革とが時を同じくして初めて、狂い咲きのようにして起こり得る化学反応といえるのではないでしょうか。 今や、技術革新のスピードが向上し、これにつれてライフスタイルも日々変革しています。そうすると、小さな革命はしょっちゅう起こりますが、その分、こうした大革命は生じにくくなっているのではないでしょうか。 そこへきて、また作庭という世界に、申し子のようにして重森三令が登場したということ自体が、奇跡的なこと。奇跡的な革命など、ますます希少性が高くなるわけでして。 縁浅からぬイサム・ノグチとの関係や、茶道に造詣の深かった重森三令の趣味もうかがえる展示。ですがやはり、いかに彼の提唱した世界観というものが、時の利を得た偉業であったか、その偏屈なまでのレアさが、いささか窮屈な会場と相まって、息詰まるほどに伝わる「空間演出」がなされていました。(了)
2012/02/09
コメント(0)
リボルテック仏像「多聞天」、発売日に到着。竹谷隆之氏総指揮、動く仏像と来れば、触ってみない手はない。ということで。さすがにオリジナリティむんむんの出来栄えでしたが、可動するからって…(w)。ポージングが出来るけれど、それは、仏像でなくとも、フィギュアそのものがもともと、ポージングをさせた非可動物として登場したわけですから、仏像のポージングも、例えばそれ以外のモチーフのポージングでも、たとえば「新鮮!!」みたいな感覚はあまり感じないです。むしろかえって、手にしているのが仏像であることを忘れてしまう…。ロボットとか、怪獣とか…。そういう雰囲気。 ともあれ、パラドキシカルではありますけど、仏像であることをあえて忘れさせるほどの作り込みで、「動かせる仏像(正確には「動く」ではなく)」に伴う違和感(もしくは必然性)を中和して「話題性」に転じよう、ということであると仮にしても、そのためには、やはり竹谷氏ほどの方のイマジネーションをもってしないと、力技としては成立しないですよ。それほどに、やっぱり竹谷氏の世界はガツンと響きます。飽きさせるということがない。そして、常にドキドキするのです。 でも、大魔神が動いた時点で、伝統的造形モチーフの像が動くことは、そんなに新しくはなかったのかもしれない。とか…思ったりも…。 やっぱり、これはホビーの世界なんだろうな。昔超合金で遊んだのと同じような、「感触の愉悦」。その意味では面白いな、素直に。で、メーカーのコンセプト通りに、ディスプレイモデルとして写真を撮ると、やっぱりこういう世界になっちゃうんですね(w)。崇高、というよりはもっとフィジカルで劇画的な世界になっちゃう。でも、この仏像はそういう場所が似合うんだと、これまた素直に思う。 リボルテック仏像、3つの「やっぱり」。1:やっぱり格好いい(竹谷氏の世界観とリボルテックの技術のマッチング)2:ゆえに、やっぱり動かしてみたくなってしまう(逆に言えば、それは仏像ではなく、仏像モチーフの新たなキャラクターに転じてしまう)3:ゆえにやっぱり、精神性や荘厳さ、造形美より、ヒロイックに感覚してしまう さて、次回リリースは「広目天」。そしてその次が「阿修羅」!!以降6月まで毎月リリース。リボルテック動く仏像の話題性は、一大潮流となるか!?(了)▼というか…リリースたった一週間弱でのこの値上がりは一体???【送料無料】【新品】フィギュア リボルテックタケヤ No.001 多聞天【b_2sp1102】【画】超希少!!残り僅か!!【キャンセル不可】【予約】3月発売★リボルテックタケヤ SERIES No.002 広目天★海洋堂★フィギュア【キャンセル不可】【在庫品及び発売月の異なる商品との同梱不可】阿修羅 リボルテックタケヤ No.003登場!リボルテックタケヤ 第三弾 阿修羅 No.003 海洋堂版 4月予約 完成品アクションフィギュア 4537807042026 0201fy
2012/02/07
コメント(1)
これまたちょっと前の出来事。新年早々のある日帰宅すると…何やら大きな荷物が届いていて…。「はて」。購入した記憶もない家電。って、自動掃除機の「ルンバ」!!え??? よく送り状を見てみると、なんと「プレゼント」と。どうやら、メルマガか何か、遠い記憶でなんの気なしに応募したもので、一名様として選んでいただいたようです。こんなの当たった試しないし、まず応募したことがないので、おそらくビギナーズラック…。しかし、嬉しいなぁ。とっても。。。ありがとうございます!! で、早速の使用感ですが、そうじき、いやさ正直驚きました(汗)。まぁ、ロボット家電なんて、話題先行で、「わ、動いた」「あ、こんなもんか」「でも、未来を感じるね」、という“夢のあるガッカリ感”程度でも十分納得すべきだぞ…と自分に言い聞かせて使ったのですが、とんでもないシロモノ。家電だけに…(汗)。 例えば、センサーが向上して、上手に部屋の中を動き回る、ということならばうたい文句通りなのですが、その掃除の丁寧さに何より驚きました。エビの触覚のように飛び出した三本の独自のブラシが回転、実は形状からして不安だったカドのホコリもしっかりかき出してくれるんです。 こりゃ、忙しいとつい、隅をま~るく掃除してしまう人(私?)より掃除上手だ…。ま、本体が掃除機なので、掃除機が掃除するということ自体スゴいわけで、掃除機の扱いの上手下手を論じるのは的外れなんですけど。。。 それと、音が静かなのがいいですね。騒音の少ない掃除機もたくさん出ていますが、それらよりもずっと音が小さいです。手入れが簡単なのもありがたいし、バッテリーの稼働時間もたっぷりなので、“便利品使いで手間は増量”という、陥りがちなパラドクスも回避。 うーん、こんな素敵なモノが当たってしまうビギナーズラック。宝くじは当分当たらない予感です(汗)。(了) [送料無料]お掃除ロボットルンバ780(700シリーズ) 即納/最安値に挑戦価格:59,800円(税込、送料込)
2012/02/06
コメント(0)
少し前の話になりますが畏友である茶会スタイリスト・岡田和弘氏の『茶道美人』を読了。素直な言葉に溢れた一冊は、茶道の本というよりもむしろ、茶道を愛し嗜む著者が、茶道との関係の中で気付いた「日常をていねいに生きる知恵」を取り上げたもの。筆者と茶道の、運命的とも言える深い「えにし」が見えてくるし、「筆者そのもの」とでもいうべきか、語りかけるような内容の“純度”の高さに好感が持てました。一冊との出会いに感謝。(了)【送料無料】茶道美人価格:1,260円(税込、送料別)
2012/02/06
コメント(0)
今年、もうひとつ、新年を温かく、芳しく彩り癒してくれたのが、さる友人からいただいた屠蘇風呂。個人的には、五感の中でも特に、嗅覚の可能性に期待している身としては、特別な香りに包まれて心身が清められる、癒される、ということは、格別な体験でした。私は、屠蘇風呂というものは初めてでしたが、友人のお心遣いをきっかけに、我が家の文化として、毎年新年は屠蘇風呂で迎えることを決めました。(了)
2012/01/10
コメント(0)
全1817件 (1817件中 1-50件目)