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両親の金婚式には、母は大名旅行を思いついた。父のアルツハイマーの症状が少し出始めたころだ。父の頭が、正常の頭脳だったら、絶対に起きないことを母は夢想した。★ 新婚だった頃、一旗あげようと朝鮮(韓国)に渡ったが、 その家に、もう一度、行って確かめたい。★ 今はもう人手にわたっていたが、自分の育った家を見に行く。 そして、疎遠になっていた両家の親戚に会って、 心を通わせたい。甥の協力を得て、両親は子供達夫婦と一緒に、みんなで帰郷した。そして、マイクロバスをチャーターして、母のこころの赴くままに、あちこち長い旅をした。 韓国では、自分たちの家のあった場所を父は探した、少しアルツハイマーの症状が出ていたにも関わらず、そこでは父の頭は冴え渡り、戦前の大きな建物をみつけ、それを目印にして割り出し、地面をとんっと叩いて「ここだ!ここに我が家があった。」と、はっきり示した。晩年になって、母は、折りに触れては、「子供のころ出来た○○線に乗って、コトコトコトコト、我が家に帰りたい」と、夢のように何度もつぶやいていた。最近、母の命日と私の67才の誕生日のお祝いをした。ひっそりと夫婦で杯を傾けながら、「私の願いは、いつか、お母さんのかわりに、○○線に乗って母の郷里に行ってみることなの」と、言おうとしたら、涙が喉にひっかかって、声が出なくなった。ちょっと間をおいてやっと、こころを静めて、言った。いつも、電車が嫌いで、どこに行くにも車をぶち飛ばして行きたがる夫のこと何言ってるんだい?と、歯牙にもかけないだろうと思いきや「あ、涙が出るじゃないか=」と言いながら、目をこすったのを見て私はうれしかった。
2008.12.24
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父の家に久しぶりに行った。いつもは、ほとんど家にいたことも無い父がいる。父は、茶の間で、テレビを観ていた。私は驚いて、父の背中をじっと見た。何故なら、父の人生は、常に積極果敢に走り回っていて、あまり家にいなかったばかりでなくたまに家にいても、書斎で何事かをしていたり、来客を相手にいろんな構想をエネルギッシュに話しているのが通常であって、呑気にテレビの前に座っている姿を見ることは、その日まで、一度もなかったのだ。しばらくして、昔、父がお世話をした男の訪問があった。母が茶の間に呼び、女3人がとり囲み、昔ばなしに花を咲かせたが、父は一度も振り返らなかった。人をみれば、すぐにでもしゃべりだして、人を惹きつけ、魅了しないではおかない男だったのに、テレビを向いたっきりだった。そして、極めつけは、私達がきゃっきゃっっきゃと笑い転げた時、くるりと振り向き、「やかましいっ!」と言い放った。それが、初めて私が体験した父の呆け始めの姿だった。ああ、これがアルツハイマーなのかな?と、哀しく父の背中を見た。
2008.12.23
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私の父は勇気のある頼もしい男だった。戦後は馬車馬のように東奔西走し、いろんな企業を興し私達に良い想い出を与えてくれた。引っ越しを両指を使うほど繰り返したが常に、新築の家に引っ越しさせてくれたものだ。その父が、あるお正月、吐血した。大手術で一命をとりとめたが、その時何もかも忘れてしまった。医者は、一度死んだけれど、強い体だったから、息を吹き返したと言った。家族の名前も覚えていないほどだったが、芯から強い男だったので、みるみる回復し、元の人間に戻り、仕事もばりばりしていた。が、しかし、余りにも体へのダメージが大きかったのが遠因か、10年ほど経ったころからだんだん呆けが始まった。父の、人情にもろいところが災いして、保証人になってあげていた人が夜逃げしてしまい、父が、代わりにお金を返済しつづけていたが、父が呆けてからは、母が返済を続けていた。あと、100万円で終わりという時相手の○○デパートの社長さんが「奥様、もう、貴女からお金を返してもらおうと思っていません、そんな金額は、私が儲けますから」と言われたそうだ。(はよいえ~)てへでも、絶対返すわ!と、母は、思ったそうだが、腰砕けになってお終いまで、返せなかったそうだ。でも、終わった。数年後、私がある街のケーキ屋さんで買い物をしていたら、「あら~こんにちは~」と、中年の女性が声をかけてきた。それは、あの、夜逃げした男の娘だった。そのまっすぐに私を見る目に、何の曇りも無いのを見て私は、「ああ、この女性は、自分の父が夜逃げして、人を困らせたが、その相手が、私の父だと言うことを、全く聞かされていないのだ」と直感した。ちょっと心が揺れたが、何もそれに触れずに明るく別れた。
2008.12.22
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20才で結婚して、東京に住んでいたころだった。部長は、仕事が終わったら、毎晩、部下を集めて賭け麻雀をしていた。毎晩毎晩遅くまで、それは続いた。私は、だんだん腹が立ってきた。ある夜、私は決心して家出をした。家出しても、行くところはたくさんあった。ちょっと前まで大学生だったし、大学中途退学して結婚した身だから、まだ、友人が東京には、ごろごろいた。その中のひとりの家に行って泊まった。夫は、驚いたことでしょう!夫は、悲しんだことでしょう!でも、私は、ふん!ざまぁみろ!と、思っていた。そして次の日、家に帰ったら夫が待っていた。私は謝らなかった。ちょっとバツが悪かったが。こういう事を続けていたら、仕事にも影響するのではないか。私は一人で夫の上司に会ってお願いした。それからすぐに、夜の賭け麻雀はお終いになった。1年後、夫は栄転した。めでたし、めでたし。この記事を書くに当たって、夫に聞いてみた。「ね~ぇ?あの日、私が家出したから、夜の賭け麻雀が無くなって みなさんも、ほっとしたんじゃないかしら?」夫「あれ?そんなことはないよ、僕だけが、行かなかっただけで、 そのまま、みんなは、毎晩麻雀をやってたのさ」「え゛===============!!!!」知らなかったぁ==============!ということは、1962年のあの昔、あの時代、部長の招集に応じなかった夫は、なんと勇気があったことでしょう=!私は、今日、ちょっと夫を見直しました。でも、考えてみたら、いや、考えなくても、私は相当脳天気。 馬鹿まるだし。あほです。 エへ。
2008.12.20
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結婚してすぐ、私達は、東京に赴任した。結婚前、夫が仕事の傍ら、子供達を集めてボランティア精神で勉強などをみてあげていたので、 旅立つ私達を、20人くらいの子供達が列を作って見送ってくれた。 そして一人一人がかわいいプレゼントをくれたので、 プレゼントの山ができた。 渋谷の小さな一部屋は、荷物で、ごたごただったから ある日、私は、その子供達のプレゼントを全部ぽ~んと捨ててしまった。 じゃまな物が無くなってすっきりした。そして、その日から 夫は口を聞いてくれなくなった。 ちょっと驚いた私は、夫の上司に、すぐに相談に行った。 夫は、上司に呼ばれた。そして、私達は、次の日から再び蜜月で暮らした。 ずっと、ず~っと後になって、夫にいったい何といわれたのかと、聞いてみたら 「若い奥さんをもらったら、それなりの覚悟がいるんだよ」と。 ごめんなさ~~~い! ほんとうに、人のまごころなんてぜんぜん理解できなくて、 ゴミだと思ってしまう、 若くて、馬鹿な馬鹿なおくさんでしたね? (復刻版です)
2008.12.17
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私は20才になってすぐ大学を中退して結婚した。だから学生気分が抜けていなかった。初めて夫の靴下を見た時、自分の好みでないことがはっきりした。50足ほどもあったか?全部まとめて周りの男性にもらってもらって、すっきりした。でも、新しく自分の好みに合ったソックスを買おうとしたら高くて、そうそう買えなかった。ちょっとびっくりした。若くてほんとうに馬鹿でしたよね。夫の気持ちを知ろうともせず、何でも自分流にしてしまうのでしたから。結婚後、初めてのお正月が来るという年末。上司の奥様から「貴女もおせち料理が初めてでしたら御一緒に作りませんか?」と、やさしく誘われた。すぐにきっぱりお断りした。おせち料理なぞ、一向に食べたいと思わなかったし日本情緒には、さっぱり気持ちが動かないアメリカかぶれの新しがり屋だったから。でも、渋谷の街に生まれて初めて、自分流のお正月料理の材料を買いに出てみると、何やら非常に高くて、情けなかった。ああ、ほんとうに、若いって、馬鹿で、生き方のへたなこと!生意気でこまったお嫁さんでしたね?とほほ
2008.12.15
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12月になると、長女と次女に着物を見繕って送る。次女もようやくちびちゃんの手が離れて、とうとう去年からお正月に晴れ着を着る我が家の習わしに戻ったようだ。二人とも、着物のことは私にまかせっきりで、のんきに構えている。私は、うれしい。今年は、次女には、一人で着付けやすい「紬の小紋」に決めた。帯と道行きコートの模様を、おそろいの柄であつらえた楽しいアンサンブルだ。長女には、私の姉の晴れ着だった「色留め袖」を送ろう。すぐ上の夏子姉さんが、この色留め袖をあつらえたのは私の長女の結婚式に出席する為だった。あの頃は、私も姉も40代の若さだったけれど私の長女も、あの時の私の年齢にあと数年でなってしまう。年月の経つのは早いものです。倉庫で、夏子姉さんの着物を出していると、懐かしく、ひしひしと寂しさがつのった。私の長女の結婚式は、私の母にとっては、ひ孫の中での初めての結婚式だった。今はもう、亡くなってしまった母と兄と一番上の姉と、すぐ上の姉の4人が、まだ元気で生きていて、揃って写真に収まった。夏子姉さんは、いつも仕事に生きる現代的な女だったからパンツスーツで車やスクーターを乗り回していたけれどめずらしく自分の新しい着物が気に入ったらしい。「一人で、ためつすがめつ撫でていたのよ」と、母が私にうれしそうにウインクしたことを思い出す。夏子姉さんがその着物に手を通したのは、あの時が最初で最後だった。次ぎの年に事故で植物になってしまったから。
2008.12.08
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ある年、次女は大学生だった。その頃私は次女を通して、若者文化を教えてもらえたのも、楽しい想い出だ。「最近は、カセットテープじゃなくて、CDをレンタルして音楽を聴くのよ~」と言う。ふ~~ん。そこで一緒に店に行った。さて、何を借りるかで、私は去年の12月にゴールド大賞に輝いた曲を借りることにしたが、タイトルも歌手の名前も覚えていなかった。でも、店の人は探してくれたが、それは思っていたのとは違った。そこで、サビの部分だけ歌ってみせると、店員さんは、すぐに解って、そのCDを、とうとう探し当ててくれた。それが、私は、去年の暮れにその歌ばかりがテレビにかかっていたと強く記憶しているのに、ちがうのだ。それは、2年も前のゴールド大賞だったのだ。怪訝な面持ちで店を出た。何故、私は、2年も前の流行の曲のことを、去年だったと強く錯覚していたのか??それが謎だった。まもなく、原因がわかった。その曲が流行った次ぎの年の暮れにすぐ上の姉の夏子姉さんが車にはねられて、植物になったのだった。そして、2年間も、私の脳は、空白になっていたのだった。
2008.12.06
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寝っ転がって、枯淡の美の象徴、桂離宮のテレビ放映を静かに観ていると、幸せで、うとうとしてしまう。ふいに後ろから男のダミ声で、「俺は!」と、聞こえた。びくっとして目をさました。それは、ひくい押し殺したようなけれど、はっきりした強い声だった。次の日、夫にそれを告げると、いとも興味がなさそうに「その声は、テレビだろ?」と言うだけ。次の日、それをおずおず再び話題にした私と、夫の目が合った途端、同時に二人は爆笑してしまった。お互いに同じ事を感じていた事が判明する。二人とも、話題にしたくないと言う気分に至る原因があるのだ。私たちが引っ越して来たこの家は、昔、火葬場だった土地の上に建っている。どんな土地でも、かまやしないわっ!ふんっ!だ。へいちゃらで住んでいるつもりだった。ある日、私だけが、娘の家に泊まることがあった後、帰宅すると、夫が、「実は、ひとりで寝ていたら、だれかがベッドの端に座った感じがして ベッドがぎゅうっと軋しんだんだよ。 ホント」と言う。それを聞いてさすがの私もちょっとひるむ。それからは、私が一人で、お留守番をする夜は、わざわざ近所のホテルに行って泊まることにしている。汗別に話題にするような事でもないんですけれど、ちょっと気にならないことでもないわけでもないこともないの。だはは…
2008.12.01
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6年前この地に引っ越してきた。毎日、役所まわりや、荷物の整理などとても疲れている時期のある朝、町内会の「朝の草取り」があった。引っ越してきて、気に入られないと、町内から、どんな待遇になるか解らないので、挨拶代わりに、夫婦で、参加することに。疲れ果ててはいたが、朝早く起きてがんばった。その日の午前中、家の中で片付け物をしている時、 ふと、「ここは、何処だったかな?」と思った。あれ?おかしいな~私は何処の町に引っ越してきたんだったっけ?あれ?変だな~私の頭。どこかに市の名前の書いた物はないかな?と思って、キョロキョロすると、カレンダー をみつける。カレンダーに◎◎市と書かれていた。普通の私なら、「あ!バ~~カだ!◎◎市だった~」と思うのだがピンとこないのだ。「ふ~~~ん。◎◎市なんだな、ここは」と、自分に言い聞かせる。◎◎市?う~~ん、聞いたこともない名前に思える。ぜんぜん頭にすっと入らない。脳の中が霞んでいる。ここは何処なの…?私は、何処にいるの…?という感覚だ。何だか、寒く荒涼とした地にひとりぼっちで立っているような気がした。お昼を過ぎるころ、正気に戻った。老人が、引っ越したら、呆けるという話を聞くが正に、私は、あの時、呆けた。呆けのプレビューだった。呆けって、さみしいなと、思う。自分の存在がわからないのだ。立っている位置が不明なのだ。漠とした不安の中にたたずんでいるのだ。
2008.11.29
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大学時代のこと。18才19才のころだ。私は、大学の授業をよくさぼり、友人の画家のアトリエに入り浸って、油絵の手ほどきをしてもらっていた。姉は、デザインスクールにも通っていたことから、いつもの二人のおしゃべりの内容はひとつは、、姉は、作品を創るにあたって、いかにクライアントの気に入るものを創れるかで方向が決まるし私の作品は、クライアントについては、全く考えに無く、いかに、自分の芸術性を高めたタブローを創作するか。という、全く両極の位置にある自分達の創作活動であるな、ということ。もうひとつは、我々は、作品の出来不出来はともかく、何かを創作しても、これについての考察を、言葉でも、いかに人々に伝えられるか、芸術並びに、その周辺の事柄について、人々の質問に答えられる言葉と、資質を持っているかということだった。それは、皆無だったので、2人は嘆くのだった。飽くなき勉強さえして、内容と実力を備えてしまえば言葉や、話すという資質が全く無くても、自由無碍に芸術活動はできるということには、気が付かなかった。いまさらだが。それにしても、純粋芸術は、クライアントを意識しないか?それは、はなはだ子供じみた感覚でもあった。大昔から、芸術家は、ひとにぎりの金持ちの為に表現の場を与えられていたのではなかったか?不可解だ。芸術とはなんぞや。何ほどの勉強もすることなく、66年もぼやぼや生きてしまい、恥ずかしくも、もったいない人生だったと、嘆いている私。今ごろ気付いても遅すぎる。遅すぎる。遅すぎる。
2008.11.28
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我が方は、若い部長が赴任して、ここもと大騒ぎ。この間の会議は、疲れ果て、ホテルに泊まった。夫様は、あっというまに、安らかないびき。私はといえば疲れてしまって、かえって眠れない。そこで、有料テレビの映画を観ることに。しかし、観始めても、終わりまで見る気力がない。くだらない。好みでないものばかりがセットされている。しようがないので、バラエティー番組に変えるが、これもくだらない物ばかり、ちっとも笑えない。最後に、いちばん面白くなさそうな題名「男の生活」というのを観て終わりにしようと。それは、3人のサラリーマンのショートコントが10話くらいオムニバス形式でつづられる。 ほ?ククククククククク…げへへ…げへへ…朱鷺子という名にふさわしくない下卑た笑いをしてしまふ。一話だけ、ここに書きます。サラリーマンの2名が職場で話している情景。A男 「俺さ~、sexしてもいいなと思う女の年齢はさ~ 何才までが許容範囲かと考えてるんだ~ でさ~、俺的にはさ、18才から40才までならいい。 おまえはどう?B男 「そうさなぁ~、俺は13才から~45才くらいかな~~」その時、C男が入って来る。C男「何しゃべってるの?」A男「sexする相手のさ~許容範囲ってことでさ」C男「俺ならさ~~山羊と、犬?ならいいかな。鶏はちょっとね~」 し~~~ん失礼いたしました。
2008.11.27
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私の母は、父に靴下をはかせてあげていたし、父のネクタイを毎朝締めてあげていた。(締めあげていたのではありません(^_^))上着を後ろから肩にさしかけてあげたし、靴べらを差し出し、皮の鞄を両手で渡すのも母の日課だった。ですから、私も結婚したらそうするものだと思いこんでいた。ある日、私が夫の靴下をはかせてあげていた時だった。子供達が突然、「封建的=====!!!」と叫んだ。え?その時から、自分のそういったことを見直して止めたという話は以前ブログに書いた。でも、最近になって、やっと、わかったことがある。66才の妻と、76才の夫という夫婦になってわかったことだ。日本人は日常的には、ハグしたり、キスしたりする習慣がない。日本人の妻が夫の靴下をはかしてあげたりネクタイを結んであげていた文化は単に 男尊女卑ということではなかったのだ。日本女性の 奥ゆかしい、妻と夫のふれ合いだったのだ。私くらいの年齢の日本女性は、年を取ったら、夫に触れることもなくなるだろう。(病気で、支えてあげなかったら立つことも出来ない夫がいたら別だが、)その点、外人は、老人になっても、夫婦はいつでも触れあう。文化は、変化していく物だけど、何が何でも、日本人のやりかたは、男尊女卑だ、封建的だ、間違っていると言いつのる事もなかったかもね?昔のやりかたがまちがっているとしたら、新しいやりかたに変えたらいいのですけれど、新しいふれ合いはしない。今になって、急にお爺さんと、お婆さんが変化するとは思えないな~~隣の家の老人夫婦が、ハグとか、キスとかするのをちょっと想像すると、気持ちが悪い気がするもの。困ったことですね?今、日本人の夫婦の過渡期でしょうかね?若い、これからの日本人は、みんなお爺さんお婆さんになってもキスや、ハグをすることでしょう。きっと!!男女がふれあうことは、大切です。医学的根拠は知りませんが、きっと、免疫力も強くなって健康になれるんじゃないかな?と思うのです。みなさんも今から、勇気をだしましょうね?
2008.11.26
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次女は親類の人の世話で結婚相手を決めた。親類の世話というのは、安心である。信頼のおける家庭の人を世話してくれるに決まっているしね?相手の両親は、真面目で、地味な教育畑の一家だった。3人の子供たちも皆、爽やかな感じの良い大人に育っていた。次女は、しあわせな結婚をして5年ほど経った頃、義父が急逝した。その後義母はひとり暮らしではあったが、退職後も教育に携わって、現役で活躍していたので我々も安心していた。次女一家も、義母家の近所、スープの冷めない距離にマンションを買って住んでいた。ある日次女からの電話。「お母さま~大変!義母さんが、カード破産したの」「え========!!!!!!!!!」あんなに真面目の看板をかけて暮らしていた義母がいったい何を買いまくったのか????次女によれば、義母は、以前と生活は全く変わらず、金目の物など買った気配も無いと言う。ただ、栄養食品などを、ばかにざくざく買う人ではあったが…私にも、たまに、ブランドのお財布をプレゼントしてくれたしね。だいたい、若い馬鹿娘が、カード破産をするというテレビ報道を耳にしたこともあったが、こともあろうに、地味な教育者夫婦だった年配の真面目な女がカード破産とは??にわかには信じられない。一体何が起きたのか?とうとう義母は、広い庭つきの2階家を明け渡し、小さなマンションに移って行った。墓の中の義父は、さぞ、驚いていることであろう。今でも、何が何だかわからない。わからない。
2008.11.23
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1978年ごろ私達はお休みの日などには、前橋から赤城の山 とか榛名山に登るとか、碓氷峠を通って軽井沢に行ったり、ドライブを楽しんでいた。ある日、碓氷峠を登って行くとき、山の道のカーブの茂みをちょっと切り開いてそこに、人形が置かれていた。それは、すごく、はっとするような人形だった。ピカピカの白バイが2台くらい置いてあって、白人の顔の人形6体くらいで構成されていた。全員が、白バイの制服の美しいコバルトブルーを着ている、真っ白なマフラーを首に巻いて、マネキン人形のようにハンサムな顔で、ニカッっとしている。一人は、白バイにまたがってニカッとしている。一人は、白バイから降りて側に立ち、ヘルメットを手に持って白い歯を見せ、ニカッとしている。周りを取り巻く白バイの警官もそれぞれ、ヘルメットをかぶったり、手に持ったりして、白い歯を見せニカッっとして、談笑している雰囲気を醸し出している。すごく、美しい人形達だった。それが2カ所設置してあった。次ぎの年に楽しみにして行ったら、もう、置いてなかった。あの人形にもう一度出合いたい。あの人形はいったい、どういう目的で設置されていたのだろうか?坂を下ったり、登ったりの急カーブの場所だったし、いつも車は混んでいた。見入ってしまって、事故を起こしてもいいよ~と言わんばかりに、どうどうと飾ってあったけど。雨にあたった様子もなかった。とても美しく、かっこよかったな~~~~~!あの、人形をもう一度みたいと思う。
2008.11.12
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私がまだ30代と夫が40代だった元気な頃だ。いつも子供達を他人に預けて、車であちこち走りまわって仕事をしていた。その夜も、疲れ切った私達は、9時ごろ家路を急いでいた。その時、思いだした。次女の幼稚園に、明日持って行かなければならない物を買うのを忘れていた事を。夕方7時ころになったら、店という店は閉まる。困った。夫はすぐに「母親失格だ!何故昼間にちゃんと買っておかないのだ?」と、私をなじった。お互いに疲れが頂点に達していたし、かっかかっか喧嘩をしてしまった。前方に警官が現れ、ストップの合図。「さっき、踏切で、一時停止しなかったですよね」と、調書をとられる。だれもいない田舎道。夜の夜中。もう、電車だってない。一体、こんな日、こんな時間、こんな処に、警官は、いてもいいのですかね?狐だったのか?がっかりして喧嘩も終わった。車の中で喧嘩をしてはいけません。注意散漫になりますね? 狐も出ます。 だはは…
2008.11.10
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私35才、夫45才の若くて、威勢がよい頃のこと。夫の兄の頼みで、特殊な、漢方薬を買いに夫婦で出かけた。店の前に来ると、「僕は外で待ってるから、君が買って来て」と言う。一人で店に入って、注文するも店主は、やたらに、のろのろして、なかなか出来なかった。その、のろのろが、頂点に達した時だった。いきなりガラッと戸を開けて夫が首をのぞかせ「何してるんだ!!遅いじゃないか!!僕は先に帰る!!」と私をどなりつけて、さっさと、帰ってしまった。夫は癇癪をおこして怒っていたが、私は、もっと腹が立った。私のせいでもないのに、あんなに妻をどなるなんて、許せない!後にも先にも、あんな夫、みたことが無い。何だい!何だい!品の無い男==!!その時から二人は、口をきかなかった。次の日の朝、次女は高熱を出し幼稚園を休んでいた。布団に寝ている次女の熱っぽい顔をのぞきこんで、私は心配でしかたがなかった。夕方ともなって私は、娘の病気と、夫との、だんまり喧嘩に疲れ果て、娘の枕元にねっころがって「お父さまが怒って、口を聞いてくれないから嫌になっちゃった」と、何となく娘にいいつける。次女は、布団の中から私をじっと見て、小さな声で「お母さま、お父さまに謝ったの?」と聞くので「あのね、お父様が悪いのよ、私は悪くないの」と、子供に言いわけした。すると、熱に目をうるませた娘は、つづけて「あのね、お母さまは悪くないと思っていても、 神様はどう思ってるかわからないよ」と、言うではないか。わたしは、脳天をガンッと殴られた気がした。そうなのだ。実は、最初から、私は、心の中で夫に意地張っていた。夫が、兄にたのまれた事を、私におしつけて、自分は外で待つなんて、なんていやな男だろう。くっそー。と思っていたから、店主がぐずぐずしても、寒い外で待ちくたびれてる夫に、優しい気遣いをしてやらなかったし、知らん顔をして、内心意地張っていたのだった。夫が怒ってしまったのは、私の意地悪るの気持ちが起こしたことだったのではないかな?ということに気が付いていた。だから、娘の言葉で、目が覚めた。やっと、自分も悪かったなと、反省させられた。若き日の夫婦喧嘩の始まりは、こんなものですね?
2008.11.09
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私はブランドの品物なんか大嫌い。ブランドの物を買いたがる人間は、自分のセンスに自信がないからとにかくブランドだったら安心かな?と、思うのであろう。20年ほど前にシンガポールにツアーで行ったら、どこに行くにも、ブランド店に連れて行かれ、閉口したものだ。何がブランドだ!ふんっ!ある日次女の姑さんから、ブランドの金色の財布をプレゼントされた私。何だかうれしくて、さすったり、眺めたり、バッグに入れたり出したり。え?私って、こんなにブランド好きだったっけ?という浅ましさ。なんのことは無い、あの言葉は、やっぱり、買えない人間の悔しさの裏返しだっただけでした。ひょんなところで、私自身の俗物ぶりが露呈。ある日、デパートのワゴンの 山盛りのスカーフの大安売りに出合う。さっそくひっくり返すと、きらりと光る一枚が!めちゃくちゃ素敵な小さなネッカチーフを掘り出す。やった!わくわく!どうせワゴンの中の安物だわ、500円ほどにちがい。うれしいな~~と、高をくくって値段なんか一べつもしないでレジへ直行。「6000円いただきます」うぐっ。 が、しかし、歯をくいしばり、買ってしまいました。よく見れば高級ブランド。私って、目はいいのよね?いい物を見る目があるのよね? 涙
2008.11.05
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たまにテレビでフランス映画や、イタリア映画なんかに出合う。男の子のグループの一夏の経験ということで、気の良いお姉さん又は、売春婦、または、美人のおばさんが男の子を相手に順番に、大人にしてあげるという設定。勉強ばかりぎゅうぎゅうの日本の男の子には起きない出来事であろう。私のようにただただ清らかに真っ直ぐ生きた女にも、そんな面白い体験は皆無だ。ただ、ちいさな自慢話は2つある。1)次女が高校を卒業した日、ノートをまわしてクラスの皆に、コメントをもらった中に「男の子が、こんなことを書いてるわ===!!」と言って見せてくれた。「僕は、君のお母さんを見るのが好きだった」 ぎゃ!2)息子が高校の同窓会に行った時。友人が 「君の母さん、まだつっぱってんの?」 と、聞いたそうだ。あはは私は、これを天国への免罪符にいたします。あはは(私がフランス人だったら何が起きたか知らないわよ!)でもね、1941年生まれの日本女性なんか、いくらはしゃいでもこんなもんよ! さみしいわね。涙
2008.11.04
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最近私のあこがれの麗しの女性像というものは昔と全く違う。180度の変貌ぶりだ。不思議だ。年なのかな?美意識が変わるなんてね?上等の人間は、大きな声でしゃべらない。けたたましくしゃべらない。声は静かに出し、品よく、温かく、おとなしく、落ち着いた話し方をする。そんなことにやっと心が行くようになった今。遅すぎるね?よし、今日から、品よく行こうと決心してみる。とりあえず今までは、電話に出る時、「はい!!朱鷺子でございます!!!」と元気いっぱいで出ていたが「はい、朱鷺子でございます」と、小さな声で静かに出る。娘が、「お母さまどうしたの?病気?どこか悪いの?」と心配するので理由を告げる。「あ、それ、良いことだわ」と賛成してくれました。あはは… 娘も、辟易していたのかも知れない。それにしても、服装の趣味というものはなかなか変わらない。おかしい。まだまだだ。何故か品の良い服装というものが大嫌いなのです。変なひとです、私は。涙
2008.11.02
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母の晩年母を誘い旅に出た。能登半島をドライブしていた。途中のサービスエリアでお食事をして窓いっぱいに広がる海を見ていた。そこは、能登半島の千里が浜(ちりがはま)という海岸だった。浪が、幾重にも重なって、静かによせている浜辺だ。海の上の浪の線が、何重あるのかと数えてみると12段もあった。すばらしい。こういう浜の景色は、他では見られないものであった。遠浅が広いから出来る自然の美であろう。すぐに、すてきなアイデアが浮かんだ。「お母さんの90才の誕生日には、私のデザインで着物を創ってあげる。模様は、この千里が浜。浪が幾重にも重なっているのを描くのよ。お腹の部分から裾まで、ずっと浪の重なりを描くの。だから、もう一回ここに取材にこなくちゃね?」と私。すると、母は、「春の海、夏の海、秋の海、冬の海、を何度も取材しないとだめ。10回は、来なくちゃ」と、さらりと言った。でも、その後一度も行けずに88才で亡くなってしまった。
2008.10.28
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10才若い友人がいる。この女性が、私に悩みを打ち明けた。ある日、彼女は、実家の母親に会いに行った時「お茶碗欲しいんだけど、何か古いのでいいから一つちょうだい~」と言って、母から、たったひとつもらって帰ったところ、しばらくして、母と同居している弟が、ちょっと家に、たち寄ってうちの嫁さんが持っていけというからと言いながら、包みを置いて帰って行ったという。開いてみると、壊れた茶碗が3つばかり、入っている。「私は、何か、悪いことをしたのだろうか?義妹の感情を逆撫でするようなこと、したかしら?」というのだ。だから、私も、じっと考えた。母が主人だった時代は、過ぎて、母の家に一緒に住んでいる義妹は、 すでに、その家の主になっていて母は、義妹に保護されている形になっている、母からもらう茶碗は古くても、自由にやってはならないような感覚になっているのかもしれない。その家の主の義妹の承諾もなく、母と娘で、勝手なことをしたので、義妹さんは、むくれているのかもしれないな、と、考えるに至る。そこまで考えが行った時だった。私は忽然と悟ったことがある。私自身の母の晩年。私は、しょっちゅう母の見舞いに行っていたが、母と一緒に住むようになった義姉が、私と母に対して突然、やたら、冷たくなった。酷く酷く、冷遇され、虐められた感じが強くこころに浸みて私は、ほとんど恨んでいる気分である。今も、会いたくないし。ああ、あれは、こういう事だったんだね?他人様のことなら、冷静に考えがつくのに、自分の事となると、全く見えなかった。残念だわ。もっともっと上手に義姉とのつきあいが、できた筈なのに!!!私の母は、こころの大きい女性で、だれからも頼りにされていた。ほんとうに、太陽のようだった。死ぬちょっと前でも、たよりにされるような女性だった。だから、私は、いつも母が一番だった。しかし、義姉も、すごい女だったのだ。兄のまわりには、いつもいつも人がいたし、義姉は、まるで、姐御のように振る舞っていた。ある時、空港で、夫婦で降りたらその道の連中が黒ずくめの風体で、空港にずらりと並んで、誰かを待っていた。そうしたら、私の兄夫婦がその本人かと勘違いされて、全員が頭を下げたそうだ。そういうウソのような逸話も残っている。母の晩年の3年間を兄夫婦は、一緒に過ごしていたのだが、一つ屋根のうちで、どちらがイニシアティブを取るかは、明白だった。それなのに、私は、常に、自然に、母を一番だと思っていて、頭が、全く切り替わらなかった。変化を、察知できなかった。どうして解らなかったんだろう?こんな簡単な理屈が!!やっと、今日、解った!!忽然とわかった!そうだったんだ。知らず知らず、私は義姉をないがしろにしていたのだ。だから、義姉に酷い目にあわされたんだね?ああ、やっと、解った~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!
2008.10.24
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数年に一回、弟が、我が夫の印鑑証明書を送ってくれと言ってくる。これで、3度目だ。ところが毎回、手続きに必要なことを忘れてしまう私。とにかく、役所に私が行くと、夫の委任状を持っておとといこいとおっしゃるにちがいないので、委任状と、印鑑を持って行く。窓口嬢「印鑑も、委任状もいりません。必要なのは、印鑑の登録カードです。」 私は、はて、そんな物持ってたかな? 急ぎ家にとってかえす。どこ?どこ?どこ?どこ?あせる私。 あった!もう一度市役所に走る。窓口嬢「あら?これは、よその市のものですね?」え==? そこで、ラッキーにも、カード入れの中にもう一枚みつける。窓口嬢「あ、これですよ~」しばらく後、窓口嬢「これ、名義人のカードではありませんでした。」あせる私「じゃあ、これは、私のだったんですかね?」窓口嬢「カードの名前は言えません」やれやれ、本人が聞いてても言えないんですって?私は、また、大急ぎで家に戻る。どこ?どこ?どこ?どこ? あせる私。 あった!あわてながら、市役所に走る。あせる私「カードありました~これですね? 」田舎のこととて、あっと言う間に顔を覚えられてしまうなさけなさ。3度も市役所みたいな無粋なところに、行ったものか。嗚呼~呆け呆け
2008.10.22
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60才くらいだったかな?私。ある田舎の温泉町に行った時、『日本自動車博物館』なるものがあった。ちょっとのぞいてみようか?と夫が言うので、なにげなく入ったところこれが、非常に充実した博物館で、めちゃくちゃ広くてりっぱなのだ。ひえ===?こんな田舎にどうして、こんな施設があるの?と驚く。見れば、懐かしいミゼットとか、バタンコとかあったし、昔は、バスのエンジンを掛ける時に、車の前にまわって、ハンドルをえい!えい!と回して、ブルブルブルと言ってから、運転席に乗ったものだが、そのバスもあった。そして、急にあのエメラルドグリーンのMGを探そうと思った。(alexさんは、「ブリティッシュ・レーシング・グリーンだっちゅーの!」とおっしゃるが)MG!MG!と言いながら探しまわった。「あった!」色は違うが、あ~~~、あったんだ~。 懐かしく、さわってみた。そうしたら、18才?の生沢徹さんがさっそうとMGに乗って友人の家に現れた時の、一瞬のきらめきが、ヒューっと脳裏をかすめて、たしかに私にも、青春があったことを、想いださせてくれた。ただ、それだけなんだけど。「君がこんなに車が好きだったなんて、知らなかったな~~」と夫が言った。(ごめんね、ちがうのよ)と、こころで答えた。
2008.10.19
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レストランで、たまに、新しい素材が使われていたりして、これは、何ですか?などとウエイトレスさんに聞いてもすぐに答えてくれたことは一度もない。ちょっとお待ちください、聞いてまいりますと言うことになる。窓にかかるすてきな樹木の枝などに感動して、樹木の名前を聞いても答えが返ってきたことはない。自分が働いているところの何かを答えられない人はいつまでたっても、その程度の一生だろうと、想像される。何かを求め、探求しようと思う人と、何も興味の湧かない人がいるものらしい。私が50年前、知り合いのゴルフ場の支配人さんからキャディーさんがちょっと足りない時に、ぜひキャディーのアルバイトをしてほしいと何度も頼まれて少しの期間、お手伝いしたことがあった。その時、私はあっと言う間に担当したお客さんの力量が解って、次ぎの場面では、何番のクラブを渡したらよいかすぐにピンと来るのだった。それを支配人さんに言うと、「解らないふりをして、お客さんの言うとおりにしてほしい」と言われた。そういうキャディーは、お客さん達にいやがられるからと言うことだった。まあ、知らない振りをしていることもあるかもしれないけれど。こちらに引っ越してきてすぐに、この地方の探検に出かけた。南の山々を越えて、リゾート地についたところで、ちょっとしたホテルのカウンターで、この辺のおしゃれなレストランのある場所を聞いたところ、何だか要領を得なかった。そのホテルは、3年ほどして、潰れた。
2008.10.16
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病院の生活に慣れてくると、この巣のような私の場所は、使い勝手がなかなかよい。布団は、病院から借りたゴザと、たためば座布団ほどの塊になるようなせんべい布団。すいっと起きれば、手の届く処に洗面台がある。洗濯したものは、窓下の暖房温風の吹き出口においておくと、10分もしないうちにカラカラに乾く。愛用の綿入りズボンまで洗って、置いておいたらたった1時間で乾いた。着替えなんか何にもいらない。洗うそばから、あっという間に乾いちゃう。孫が来た時の為に買っておいた小ちゃい洗面器一個で、顔も洗えば頭も洗い足も洗い洗濯もし、レタスも洗う。だはは…20日間、他のお道具など、何にもいらなかった。人間たった一畳にも満たないこの場所で何んにも無くて生きられた。あの、我が家の大量なガラクタ!あれはいったい何なのでしょうか?
2008.10.06
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そばに若い女性がぜんぜんいない私達夫婦の暮らしはすごく地味で、どちらかと言えば、暗い生活である。だからかもしれないが、病院で暮らしてみると、看護師さんは、どの娘もどの娘も、皆、とっても美しくみえる。可愛くて、きれいだ。若々しく輝いている。肌などシミひとつない。もちろん皺も全くない。注射を持つ手もきめが細かく、真っ白で、ほっそりしてぴかぴか光って美しい。きゅっと締まった体に、白のユニフォームが、清らかに匂うようだ。そして、声も可愛く、にこやかなのだ。こんなに澄んだ美しい眼差しで、じっとみつめられ、優しく手をとられることなど、絶えて久しい私の夫。夫は、点滴注射をうたれて、「ありがとうございます!」などとうれしそう。彼女らの前では、むすっとしているが、いない時は、「今日の係はみすずちゃんだ~」とか、「今朝は、るり子ちゃんだ~」とか、「今夜は、みきちゃんだ~」などと、胸についているネームをめざとく読んで、覚えてしまって、そして、ファーストネームで呼んだりして喜んでいる。たまに、年配の人にあたると、「あああ、今日は年増だった~」とか、「あああ、今日はおばちゃんだ~」とか、「今夜は、カバだな~~」とか言って、がっかりするのだ。24時間点滴だから、一回針を刺したら、針は、そのままにして、薬だけを、取り替える。ところが、何故か針が、すぐに詰まって何度も何度も刺し直さないとならなくなるのだった。その度に可愛い看護師さんが来てくれて、ごめんなさいね~などとやさしい言葉。美しい白い手で、針を刺し変える。だから、夫もうれしそうだった。しかしだ、7日も経つと、だんだん分かってきたことがある。「もう、いやだ~、今日はこれで、11回目だ、痛いのいやだな~」という事。そして、若くてかわいい子ほど、注射が下手なのだ。何回もやり直すのだ。でも、おばちゃん看護師さんは、どんなに見えない血管でも、たった一回で、さくっと刺して一発で終わる。しかも、長く長く、もつ。詰まって刺し変えなくてすむのだった。夫は、「あああ、年増だ~」とは、言わないようになって、ベテランのおばちゃん看護師さんを待っている気配。うふふ男の人って、分かりやすいわね。寅さん映画じゃないけど、 「ばかだねえ~~~~」でも、聡明な奥様は、ふふふなんて、笑ったりしませんでしたとさ。
2008.10.01
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入院している夫のベッドと窓の間にできた1畳に満たない狭い空間の床の上に20日間、無理を言って泊まらせてもらった時のこと。お隣の部屋の患者さんは、75才くらいのお爺さんだった。私が、病棟の端っこにある図書室に行き、帰ってくると必ず、このお爺さんに部屋の前の廊下で出合う。5日ほど、そうこうしていて思ったのは、ひょっとして、この人はストーカー? いえね、私も、そーとーの婆さんだし、病院の、まるで、ホームレスの巣のような床で暮らしてるし、すっぴんで、髪もでたらめで、風呂にも入っていないから、いやが上にも、薄汚い婆さんだというのは自覚しています。ストーカーうんぬんだなんて言ったら、人様に笑われる。ストーカーされる女か?あはは…って。しかし、私が、廊下に出て、帰ってくると、必ず立ってるんですよね。そして、じ=と、私を見る。体が縮まったような形で、額には、ひどくつらい人生の深い皺をよせ、引っ込んだ小さな濁った奥目で、私を、じ=と、見る。歩幅10センチくらいで、よちよちよちよちと歩くのだが、すごく早い。何だか恐ろしい。だんだん気持ちが悪くなって、私は急いで部屋に逃げ込むようになった。それからは、部屋を出る時は、コトリともいわないように、そ~~っとそ~~っと、しずか~~~~~に、出て、ドアを、キィとも鳴らないように静かに静かに閉めて、隣のお爺さんの部屋の前を通らず、ぐるりと回り道をして、出かけ、そして帰ってくる。と、ちゃんと、廊下にたたずんでいるお爺さん。何なの?変でしょ?すごく鋭いセンサーを持っているのですよ。その後私達が退院する3日前くらいに、初めてその人の部屋にお見舞いの人が来て、長々と居られたみたい。その後からは、ぜんぜん部屋から出てこなくなったのも、不思議。お爺さんも、さみしかったのかもね。かわいそうなお爺さん。逃げたりしてごめんね。
2008.09.30
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夫が他の街で倒れ入院したことがあった。暗澹たる思いで、入院の用意を持ち、夫の入院先に向かった時のこと。私は、気が動転していたから、車をやめて、久しぶりに電車に乗った。私は、すごく田舎に住んでいるので、電車の中は、がらがらの空きである。そのガランとした車内に、若い父と、その娘たちは、乗ってきた。父は聾者だった。小学校3年生くらいのお姉ちゃんと父親は手話でにこにこしながら話しをしている。時々下の5才くらいの女の子もははは…と笑う。あ、小さいのに、手話が、分かるんだな~と思い、家族の姿を、ちらちらっと、見ていた。しばらくして、今度は、そのちいちゃな妹のほうも手話で話し始める。お~~!みんな手話が、出来るんだな~と感心する。車掌さんが回って来た。お姉ちゃんが、車掌さんの言葉を、手話でお父さんに通訳する。すばらしい。それから仲良く、ずっと3人は、手話で話しつづけ、時々、声を挙げて笑った。とうとう1時間ほど、彼等の降りる駅に到着するまで、親子は楽しそうに話し続けていたのだった。私は、すごく心が温かくなった。「ああ、これが、本当の親子だなぁ~」と心から感動した。今時の家族で、これほど仲良く話す親子がいるだろうか?大抵、子供が親に何か言うときは、すねたような物言いをするし、父親は、ぼそりと、短いセンテンスで言葉を出すし、母親などは、最初からきんきん怒った声でものを言うのに出くわす。その日も、ミスドでコーヒーを飲んでいたとき、2組の親子連れが入って来たが、「何?!忘れた?!」と言うやいなやそのすらりとした若き母は、息子の頭をゴン!としたたかに叩いた。そんな、哀しい人間ばかりのこのご時世に、その聾者という父を持つ家族は、聾者だからこその温かな結束ではなかったかと思えるやさしさ。(お父さん、聾者でよかったねぇ!)と、つい思わずにはおれませんでした。
2008.09.28
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私の最も好きな映画のひとつにヴィスコンティーの「ヴェニスに死す」がある。 (1912年トーマス・マンの小説)この映画に、初めて出会ったのは、テレビ放映された1975年ごろだ。まだ、私は若く30代だったし、子育ての最中だったし、私の一番輝かしく充実していた、気力も体力も健全な時代だった。それなのに、ずっとこの映画が好きだと言う不条理な自分が不思議で、何故この映画が好きなのかと、今更ではあるが、自問自答してみた。で、結論として、思うこと、それは、こういう映画にしびれるという自分は、人間が持つ感性の中では高度な感性を持っていると言うことではないか?と、はっきり、うぬぼれてみると、いやらしいですね? だはは…ヴィスコンティの世界は、 美しくもあり、また、残酷だ。映画の終りに、不幸な死という結末を迎えることが多い。彼のテーマは、耽美頽廃という、堕ちて行く美学だと言ってもいいと思う。主演のダーク・ボガードという俳優は、好きではないが彼が追い求めている、美少年のビョルン・アンドレセンは、まるで、漫画家の描く美少年そのままの美しさだ。私は、自分の人生の中で、映画の中でも、こんな美少年は、その前も後も、見つけたことがない。物語の中で、ダーク・ボガードは、少年と一度も、言葉を交わすこともできず、ただ、ビョルン・アンドレセンを求めてさまよい、ただ、目で追いつづけ、耐えつづけ、ひとりだけの恋と愛の心情を狂おしく燃やす。ダーク・ボガードは、初老であり、髪も薄くなりつつある男であり、高名な音楽家でもある。その一線を、少しも越えることは出来ず、少年への恋心と、心情を伝えることもできず、微塵すら、愛を得ることはないのだった。その、苦しみ悩む姿が、非常に哀れであり、醜くもあった。ダーク・ボガードの底知れない哀しみは、彼だけでなく、私自身も、強烈によじれるような切なさに襲われ、私の肺腑にも、涙の溜まりがひろがって行くようだった。
2008.09.17
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オードリー・ヘプバーン主演の「ティファニーで朝食を」という映画は、日本人の大好きな映画の一つで、当時は、大ブレイクしたにもかかわらず、私は、やっと、2007年のある日、たまたまテレビのスイッチを入れた時に放映していたので、おや、珍しいこと!と、思い、 観るチャンスに出会った。思ったとおり、オードリーヘプバーンは、美しく、可愛らしく、妖精のような小悪魔であって、ファッショナブルで、ファンタジックな映画に仕上げてあった。驚いたことは、オードリー・ヘプバーンの役どころだった。農場経営者の夫から逃げだして、マンハッタンで、ひとり、映画女優というふれこみで、男を騙しながら、体を売ってふらふらと、浮き草のように、パーティーからパーティーをまわっているような生き方をしている女なのだ。最後に結ばれる恋人になるジョージ・ペパードも作家というふれこみで、金持ちおばさんを騙し、金持ち女に、かこわれているつばめという設定だった。しかし、決して、ちょっぴりでも、ほんの少こ~~しでも、いやらしく、薄汚く、濃厚で、狡猾で、下品、には、描かれていないのだ。やっぱり1961年なのだ。
2008.09.08
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ジョン・ウェインも亡くなって、隆盛を誇った西部劇も衰退した。あの頃は、敵と言えばインディアンに決まっていたものだ。007映画のように、敵は、ソ連と決まっていた時代もある。アメリカの昔の戦争映画では、敵は大体ドイツに決まっている。「バックトゥーザフューチャー」の敵はリビアだったな。この数十年、新しい映画をほとんど観たことが無い私。最近は、何が敵とされる時代なのでしょう?宇宙人でしょうか?仮想敵国を、「目には目を」という信条を持つ国にした場合、きっと、作者はアサシンに狙われるから、危険ですよね。
2008.09.06
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数年前の事、木を育てる仕事をしているお爺さんのテレビドキュメントを、観ていたら、最後のほうで、「こういう、形の良い木は、全部、東京に出荷します。 形の悪い木は、地方に残ります」とおっしゃる。 参りましたね。それ以来、公園など歩いている時は、大きな木の幹をさすって、「君も、東京に行けなかったのか…」と、声をかけるし、ニュース番組など、観ている時も、地方テレビのアナウンサーの、ちょっとブス子ちゃんが出てくると、「貴女も東京に行けなかったのね?」と、慰めの言葉をかける。
2008.09.04
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ドラマや、映画や、小説の中のおかまさん達って、たのしい。私は、大好きだ。一度ぜひ、おしゃべりしてみたいと思うが、現実には、なかなか遇うこともない。1995年に観た映画 「太陽と月に背いて」では、詩人のランボーと、ベルレーヌ のベッドイン場面で怖気が出た。シリアスな、映画は、正視できない。観たくない。ある日、郵便局で、いろいろ聞くことがあって、職員さんに説明を聞いた。長々とかかって、やれやれと終わりだな、と、最後にその職員の男性が「こういうことになっております」と言うことばを言った。でも、言い方が変だった。「こゆせかい」と、気取って言ったのだ。私は、あっっと思って、彼の顔をちらと見た。ただの普通の男性だった。でも、最後に、彼も、気を抜いた時、ふっと発した言葉は、絶対、そちら風の言葉だった。こんな田舎にも、人知れず、そんな生活があるのかもね。
2008.09.03
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前の地方にいた頃、 病院の待合室に座っていたら、お婆ちゃんが、趣味で、 貼り絵をしていると言う。元気を出してもらおうと思って 見たいです~と言ったところ、ある日 貼り絵を持ったお婆ちゃんが、拙宅をたずねて来られて驚く。 その時、外で待っていたお孫さんの車を見てびっくり! 古い古い外車を、派手に改造してあった。 わ~~い!私は、こういうのが大好きだ。 とんがった茶髪の恐そうなお兄さんだったけど、 お婆ちゃんを車で送ってくれるんだから、 そんなに恐ろしくはないだろうと思って、話かけて見た。 私、 「私もこんな風に、車を改造してみたいです~~」 若い男 「こういう改造は、法律違反だから貴女にはできない」 と、にべもない。 まあ、法律違反の改造などは、知りませんが、私は、 生まれ変われるものならば、車改造!こんな楽しいことをしてみたい。 アメリカなんか、でっかいタイヤに付け替えた車で、 いろんな障害を乗り越えるレースを、 (30台くらい並べてある車の上をのり越えるなど…) テレビで観る時があるが、愉快だなと思う。大好きだ。 それから~ 色んなお店の入口のデコレーションを、 ブリキなんかを切ったり付けたり、形造ったり、描いたりして 立体的に面白く飾り立てたりすることもしてみたい。 いくら思っても、もう、すべては遅いけど…涙
2008.09.01
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先日、近所のAお婆さんから「茗荷の甘酢漬け」をいただく。わ!内心こういう甘酢というのは、大嫌いだと思う。でも、自慢の茗荷を、わざわざ持って来て下さったのですから「うれしい~~!ありがとうございました!」と、元気いっぱい喜びの声を挙げる。お婆さんも満足そうだ。よかった。お婆さんが元気になるならば、いくらでも、演技は、できる。で、すぐに誰かにあげちゃうのも申し訳ないし、一個口に入れてみた。「お、お、おいしい~~~~~~~~!!!!!」びっくりした。こんなものが、やたらおいしいなんて??うそでしょお??そうだった、このAお婆さんの下さる煮物も実においしい。そこで、思い出したことがあった。私はこの地方に引っ越して来てからこの地方独特の「梅干しの甘酢漬け」に出会った。近所の梅干し婆さんBさんCさんが下さるのは、「げ=!」という代物で、つくづく嫌いだと思い、なんてまずい物をつくるんだろう?普通の梅干しがおいしいのにぃ~不思議だな~甘い梅干しなんて、食い物じゃねえよ~、と思うのだった。(勿論、顔では、にっこりしてますが)ある日、ここに来てから知り合いになった友人が、大きな梅干しの瓶をかかえて来て、甘酢の梅干しだからあげると、言う。母の漬けたもので、すごくおいしいから一個食べてみろみろと、薦める。げげげ、内心いやだったけど、いつもの様に、「うれしい=====!!!!」と大げさに喜んで、一個口に入れた。「お、お、おいしい~~~~~~!!!!!」ほんとうに、おいしかった!おいしくておいしくて、3つも一度に食べてしまった。若い時に、初めておいしい物を食べた人は、甘酢の梅はおいしい物であると、脳にすり込まれるでしょう。本当に、腕の良い人が作った物を食べた人が、そのおいしさにあこがれて、私も作って食べようと思い、どんどん広がって行ったのでしょう。子育ては、最初に、にんじん、ピーマン、など、おいしく料理して食べさせてあげないと、「まずい、嫌い」が、すりこまれてしまうと、思った。 私はもう、遅いけど…涙 子供達、お代官様、お許しくだされい~~~~
2008.08.27
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夫の甥にあたる夫婦達から、ひとり息子の可愛い入学式の写真が送られてきた。私は、日ごろ行き来のない甥のことだが、かわいいチビちゃんの写真に感激して、すぐに、お祝いを贈ってあげようと思い、夫の了承を得た。お洗濯物を干しながら、ふと、私自身の甥夫婦のことを思い出した。姉が亡くなってからは、時々、甥たちはどうして暮らしているかと、心配していた。甥は、父も母(私の一番上の姉)も亡くした後は、私が頼りだろうに、一度も何も、泣き言を、言ってこない。そういえば、子供たちは、もう、大人になっているし、2番目の子供も大学生だろう。それにしても、彼等の事を、心配している割には、私は、何もしてやっていないのだった。夫の甥は、今をときめくIT関連の有名会社に勤め時々外国にも出張している。多分、生活に困ってはいないだろう。それに反して、私の姉の子供達は、それほどではないのだ。お祝いをあげたり、何かするとしたら、姉の子供達にこそ、すべきだったではないか?思えば、彼等は、何かと自分たちの事を、私に知らせれば、お祝いを要求している様に取られてもいけない…とでも思ったのかもしれない。私達に頼って、迷惑をかけてはいけないと、固く、自分たちの心に決めていたのかもしれないではないか。反省すると同時に、急に悲しくなって、夫にそれを告げながら、涙が止まらなくなった。夫は、僕たちは、みんなの為に色んなことを、がんばってやってきた。人間は、平等に出来ることもあるが、出来ないこともあるよ。だから、今回は、かわいい楽しい写真を送ってきたし、そんな縁に触れて、素直に何かしたくなったんだから、それでいいんだよ。そう言って、すぐに、お祝いの手紙をしたためていた。そして、お菓子でも送ってあげようよ。と、私をうながした。
2008.08.26
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50年ほど前のことその日は、台風が来て、東京の街は、荒れていた。丁度、兄は暇だったのか、今日は良いところに行こうと言って私を銀座に連れて行ってくれた。銀座に、水が溢れて、私達は、足首まで水に浸かりながらざぶざぶざぶざぶ歩いて、「銀座和光」に入った。兄は、かっこつけて、私に、日本一の高級店を見せたかったのでしょうが、日が悪かったね!びっしょびしょの、濡れ鼠の私達兄妹を見て、和光の女店員さんは、クスクスクスクスと笑った。顔から、火が出た。オードリー・ヘプバーン主演の映画で、「ティファニーで朝食を」というのがあります、女優兼娼婦のヘプバーンは、いつかは金持ちの男を騙してティファニーで、買い物が出来るような生活がしたいものだと、ずっと憧れていて、パーティーの夜が明けた朝帰り、ふらふらと、ティファニーの店のショーウインドウの前で買ってきたパンを袋から出して食べるという冒頭のシーンが有名だ。銀座和光といえば、そんなティファニーに匹敵するほどの店だったから、笑われても仕方なかった。その後は、決して近寄りませんでした。(今は、お店知りません。もう、50年も、前のお話です。)
2008.08.23
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夫が、終期高齢者じゃない~後期高齢者になったら大変ですよ~皆様若くて?しっかり者の?妻の私がこころしていないと、ただならぬことになるのよ。せんだって、夫が後期高齢者になって、医療健康保険証が夫婦とも変った時に大騒ぎしたことから、緊張していたにもかかわらず、また、ポカをしてしまった。医療保険料の督促状が、最近、届いた。え?これは、テレビで大騒ぎしていた様に、いただく年金から自動的に差し引かれるってことになってたんじゃないの?夫から、委任状をもらって私が、さっそく市役所に出向く。私 「いつ、現金で納めることになったんですか?」お役人様 「良く読めば、7月8月9月分は、現金で自分で納めるように 書いてあるのがわかるでしょ?」私 「分かりませんでした。そんな通知は、いつあったのですか?」お役人様 「貴女が今、手に広げてもっている紙面の 上のほうに、7月××日と印刷がありますから、7月××日に、 貴女は、それを読んでるのですよ。(アホタレ) 皆、(アホタレだから)督促状を持った人が、どんどん来て困ります。 そりゃ、文面は、わかりにくいでしょうけどね」私のように、若くて?ぱりぱりした?人間でも分からないのに隣の椅子に座った、よぼよぼのお爺ちゃんに分かってたまるか~可哀想に、どこから来られたのか?あの山から下りてきたんじゃないだろうか?くっそ==ちょっとは、(わかりにくくて、ごめんなさいね)くらい、言ってほしいな~もっと、年寄りにも分かるような書き方、出来ないのかな~~?たった70円の督促料金だけど、何か、腹立たしい事この上無い気分。腹立ちまぎれに7月8月9月分を全部まとめて支払った。それにしてもものすごい金額だ。ひとつき分が、夫の給料の3分の1だった。これから、まともに生きていけるのかどうか分からない。もう、孫が来ても、牛のステーキは食べさせてやれないかもね。 わあ~~~~~ん!!!涙怒濤
2008.08.22
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一昨年、次女一家が来たときは、 深いプールで子供をささえられなくて、うっかり 孫と一緒に溺れそうになった。 昨年は、 ちび達も用心深くなって、プールの端っこにつかまりながら 上手に泳いで、私を安心させてくれた。 今年は、ついに、全く私の手を離れたようだ。 夫と私はプールサイドのパラソルの下で、 空をみていればよかった。 田舎だから、人もまばら。のどかです~~ やおら 「君もちょっと泳いできたらどう?」と、夫。 空は青く青く澄み、 太陽の光を受けたプールの水面は、 きらきらきらきら輝いて私を呼んでいる。 ほとんど人がいない深いプールに近づいてみると、 プールの底は、その光の浪模様をきらきらきらきら映して まるで、クリスチャン・リース・ラッセン の絵のように、 美しい異次元が広がっている。 「よし、泳ぐ」 初めは、端っこで、そろそろ泳いだ。 次ぎは、少し離れて2コース目あたりを泳ぐ。 だんだん大胆になって、とうとう真ん中のレーンを泳いだ。 深い深いプールのゆらゆらゆらめく光の浪の中は、 幻想に満ちて、気が遠くなるようなここち良さ。 このまま、永久に息をつがないで泳いでいけそうな気がした。 ぷかぷか浮いたり、もぐったり、蛙になっていただけだが、50メートルを6往復した頃、にわかにプールの輝きが消え、 まるで、屋内プールのような、とろ~んとした、 ただのつまらないプール色に変化した。 空を見上げると、 大きなぶ厚い雲の軍団が、まさに太陽を覆ったところだった。 「つまんないな~太陽がないプールなんて。もう、上がっちゃお」 先にあがって待っていると、 子供達も出てきた。ザ==と、雨が降り出し、 タイミングよく家路を急ぐ。 でも、 私は、年齢をわきまえず、はしゃぎ過ぎたようだ。 体をどう扱って良いやら分からない、断末魔のようなひどさ。 あのお産を2度もする夢を見るほどの苦しみだった。 警告! 忠告! (自戒?) 「皆さん、66才になって、年に一度も運動をしない人は 急に600メートルも泳いではいけません。死ぬかもしれません」 だはは…
2008.08.21
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我が街。この小さな街には、すさまじく、 スーパーマーケットが 6軒もある。 我々夫婦2人の静かな日常に、 子供達が来るということが決まったら、 まず 夕方7時頃、 肉類を買いに出かける。 この時間は、肉類すべてが半額になる時間だと、 スーパーに勤める友人に教えてもらったのだ。 6軒のスーパーを3日ほど、はしごすれば、 20枚のステーキは半額で、ゲットできる。 かたっぱしから、冷凍にする。 スライスした肉も半額で2キロ、ゲット。 かたっぱしから冷凍にして、 成長盛りの肉に飢えた子供達を待つ。 小市民の智恵と、意地である。 思えば、次女が小さかった頃は、家族で外食すると 決まって、彼女が一番高価な物を「これ!」と 指さしていた。 我々が、懐具合を思って、適当なものを選ぶのに反して、 何の躊躇も無く、一番おいしい物を選んでいた次女。 その次女が 「子供達に、ほとんど牛肉をたべさせられないのよ、 グラム100円というのがある時だけ、ちょっと食べさせられるの」 と言う。 この言葉は、どんなに笑いながら、冗談で言われても、 私の胸をかきむしるに充分な一撃だ。 だから、あっと言う間に私の脳波は狂って、 グラム980円の霜降り肉や、580円のスライス肉を買ってしまうのだ。 半額だけど。 涙怒濤
2008.08.20
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帰省してきた子供達、いつもファミリーレストランや、くるくる寿司店の喧噪の中の食事だけじゃ、教育にもならない。ホテルでマナーを教えなくちゃと、夫の言で、我が街のたった1軒のシティーホテルへと、行く。車の中で、子供達に、訓辞をたれる。ホテルは古く、寂れてはいても、皇太子ご夫妻もみえる高級な処だからして、いつもの様にだだをこねたらあかんえ、静かに、おとなしく食べよ。と、諭す。さすがに、子供達も察したか、割合落ち着いている感じだ。しかし、油断はできない。食事中に、その辺を走ったり、嬌声をあげたり、ごろんと寝っころがったり、しないでもないのだ。食事中頃だった。ボーイさんが、コップに水を注ぎにきた。そしてあっと言う間にコップを倒し、水がテーブルに広がった。ボーイさんが、やっちまったのだ。ボーイさん、あせりまくり。私はと言えば、うれしかった!!!やったやった~「あああ、これで、私は、チビ達が何をしでかしても、ぺこぺこすることはないぞ、フィフティーフィフティーじゃんか~~ははははははははははは」と、内心、黄金バットの高笑い (あ、ニコルさんの様だわ)ホテルを出てから、娘が私に耳打ちしてきた。「お母さま、さっき、私、ほっとしたのよ~~!」 あ、私と同じこと考えてるやんけ~
2008.08.18
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ずっと忙しくて、 ちょびっとでも、ここにかき込む元気はなかった。 次女一家が今年は長く長く遊びに来ていたのだ。 次女の夫は、今、流行の 「名ばかり管理職」だから、なかなか一緒には我が家に来れない。 最後の3日間だけ、やってくる。 だから、チビギャングを3人、 娘と私達夫婦が世話をすることになる。 それはそれは、大変な作業だ。 うげげげげげげ==ほんとうに大変だ。 そして、 ついに 帰って行った。 やった=========!!!!!! もう、来ないでね=====!!!!! 心の中で、電車にむかって大声で叫び、 最後の力をふりしぼって、家にたどりつき、 どうと倒れる。 もう、決して立ち上がれないだろうと、繰り返し思う。 その夜は、恐ろしい夢をみた。 夢、 私は、入院している。 私は、何故か、赤ちゃんが生まれたのだ。 私にそっくりのじゃがいもの様な顔の男の子だった。 何故66才で、赤ちゃんが生まれたのか? そして、 なんと数日後には、 もう一人赤ちゃんが生まれているのを知る。その赤ちゃんは 卵のような瓜実顔の小さな男の赤ちゃんだった。 私は驚き、 66才で何故赤ちゃんを2度も、産んだのか?不思議だなぁ~と、 考えているところで、目が覚めた。 疲れ切った体の反応だろうか? 夢の中で、 2度もお産をするというほど、疲れていたのだろう。 え? 密かに自慢してるって? いえいえ…
2008.08.17
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今日こそ、本当に読まなくてもいい話ですからね。大学に登校するのを長い年月忘れていることに、ある日気が付いて、非常にあわてるという哀しい悪夢を見続けた私が、ついに、その悪夢から解放されて24年も経った。ところが、今朝方その夢の続きと言うべき悪夢を見た。夢去年、大学に復学したことになっていた私。数学は無理なので、代わりに社会を受講していたのだが社会の授業に数学的な計算がたくさん出てきてこれは、私には、無理だ。もう、今更、大学で勉強なんか無理だな~「もう、止めちゃおうかな~」と思い、数ヶ月ほど大学に通っていなかったことを、急に思いだしたのだ。しかし、あれほど大学に行きたい思いを家族に認めてもらっていたのに、ここで、あきらめていい物だろうか?いや、すぐ行こう!3月までに、あと、8ヶ月もあるじゃないか!必死に勉強したら、何とかなるかも知れない。と、思い直しお弁当と鉛筆とノートを取って、家を出ようとしたところで目が覚めた。布団の中でぼうっとしながら、ああ、夢だった。大学に復学なんかしてないよな~~それから、そうそう、ああ、42才の頃、一応、通信教育を受けて、小学校教諭の免許だけは取ってこの話には、ケリがついていたじゃないか==!!と思い出す。私は、大学なんか行きたくないし、学校での勉強なんか大嫌いだ。それなのに、何故、大学大学って、夢を見るのか?不思議だ。あんなにあっさり大学を中途退学して、結婚したのにね?不思議だなぁ~?
2008.07.31
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私は丁寧語が使えない。66才ともなってしまうと、今さら変わることは出来ない。もう、遅すぎて、いくら気をつけていても、つい、口から、ぞんざいな言葉が飛び出てしまってしまった…と、ほぞを噛む。恥ずかしい。お里が知れる。お座敷に出せない人間だ。年々、自分の育ちの悪さを思い知る。若い頃、麗しい言葉が出来ない大人は、変人だと言うことに一度も気が付かなかった。たとえば学生時代は、何でも、一個と数えるのが流行だった。お魚でも、一個食べるとか、何か一個しゃべって~、とか、そういう言葉を言っていたら、夫にそんな言葉は使わないで、ちゃんと、一匹とか、ひと言とか、言いなさい、と何度も言われてやっと直ったものだ。(でも、大体、夫のお説教は、聞かない性格だったらしい)直ったのは、一個という表現だけだった。40才くらいになって、自分自身、あれ?私は、おかしいんじゃないかな?と思うようになり、少し反省。電話口で、「はい、○○○で、ございます」と言えるようになったのも40才くらいになってからだ。それまでは、「○○○で~~す」なんて。馬鹿みたいだけど、学生の時、何となく結婚したからなのか、いつまでも、学生気分のまんまで、年だけ取った。何故?そんなアホみたいな大人になってしまったのか?つらつら思うに、私が、飛んでる女の子だった頃、ちやほやされて、いつまでも、元気印の、そのおかしさを、みんなが愛でてくれていたことを、良いことだと錯覚したまま、年を取ったからだろう。(よくいるよね?変な婆さん。それが、私だとは思いたくないが…)その他私は、一度も宮仕えをしたことが無い。毎日、死ぬほど働いているけれど、お給料をもらったことがなく、まあ、夫のお手伝いであって、突き詰めていけば、責任がなかったところが大きいのかな?小さい頃、兄や姉の友人が全員御父様御母様お兄様お姉様という人々の中にいても、母は、「お父ちゃんお母ちゃんと言って」と教育した。だからかもしれないという訳でもないと思うが、何故か、私だけが、敬語も、丁寧語もできない。不思議。長女のお姑さんは、「ございます」を連発し、すばらしい流暢なていねい語で電話をかけてくる。電話口に出た私は、どぎまぎして、舌を噛みそうになるのだ。
2008.07.25
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ブログを作るのは、簡単ですけれど、自分がホームページを作って管理するのは、ちょっと違う。alexさんから、「陰険5メガサイト」と、一笑されたホームページを作って、早、9年になりますが、このサイトは、訪問者ほとんどゼロですし、掲示板へのかき込みもほとんどゼロだ。私自身、そこの更新は、ほとんどしてないし、更新の度に更新のやりかたを失念してしまい、毎回うろたえる。年を取ってから覚えたことは、すぐ忘れるって、ほんとうよ~~涙4日前のこと、久しぶりに更新したところ、何と!作ったページが、ちゃんと送れなくて、とうとう、ホームページを新しく作り直すはめになってしまった。ところが、次の日もまた、ちょっと直したところ、ページが、ちゃんと送れないのです。あせりまくりでした。で、試行錯誤の末、とうとう分かったことは、私が、ホームページのいろいろなページを一つのフォルダに置かず、あっちこっちばらばらに置いているので、同じ名前のページが3つもあったりする始末で、その為、同じページなのに、アドレスがばらばらに出来て、迷子になってしまうという事が、諸悪の根源だったと言うことを、遂に私のお粗末な脳が、発見しました。ホームページの基本的なことが、できていないし、知ろうともしないで、過ごした年月。よくも、よくも、9年間、何も知らずに、まぐれだけで、ホームページを操っていたことか!!基本の勉強無しに、マニュアルを読みもせず、感だけで、過ごすのが、私流。世の中をなめまくりの私。でも、とうとう諸悪の根源を理解できた!めでたい!!思うに、実生活そのものだね?身辺も整理整頓しなくちゃ!たいがいこんな具合の人生なのよね?回り道ばかりして…… 涙
2008.07.18
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ちょっと忙しすぎて何もかき込みできません。8月まで、お待ちくださいね!ごめんなさい。目先のことに追い回されているのです。それと、30日間限定のflashのお試しソフトでflashの作成に没頭しています。去年は、お試し期間に使用書を読んでいたら理解できないうちにお試し期間が過ぎて、操作不可能になり、涙でした。そしたら、今年も、何だかそうなりそうで…意味不明なことが多すぎて…ちょっとあせっています。来年には、きっと、もっと簡単に私のような、婆さんでもチャラリンコと創れるような簡単ソフトが開発されることでしょう。それまで、泣きながら、挑戦します。
2008.07.13
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不登校 という病気がある。 ちょっと前は、 登校拒否 という名前だった。日本で、そんな病気がまだ、ぜんぜん騒がれていない時代の昔々。次女にそんな兆候が表れた。始まりは、幼稚園への、登園時間がくるころ、「お腹が痛い」という言葉からだった。それが、毎日起こるようになっても、そんな病気があるとはつゆ知らなかった私達は「あ~~、また始まった~~○○ちゃんのお芝居が~」と軽く受け流していたものだ。でも、おかげで、それ以上は大げさなことにならなくて、小学校3年生を迎えた。ある日とうとう、学校に行けなくなってしまった。次女が、ぽつりぽつりと話す、上級生のいじめっ子グループのことを、先生に告げたところ、先生達は何も気がついていなかった。6年生のいじめっ子グループは、謹慎を食らった。別の小学校へ全員転校させられたらしい。次女の学校は、すごい。普通、世間では、いじめられた方が、転校するのが常識だ。有り難かった。でも、傷ついた心は、すぐには元に戻らなかった。1ヶ月間、私の実家の母が、私の直ぐ上の姉と一緒に過ごさせてほしいというので、面倒をみてもらった。夏子姉さんは子供がいなかったので、とても喜んでいたのだ。そこでの次女の生活は、朝になるとお腹が痛いと言って、学校をお休みした。何も食べられないのだった。声も出ないようだった。授業の終わる頃の時間になると急に元気になって、食事をぱくぱく食べるやら、夏子姉さんと楽しく遊んだり、仕事場に行ったりしたそうだ。再び朝になると、お腹が痛くなるのだった。で、毎日、同じ事の繰り返しの1ヶ月だったそうだ。とうとう、先生から、転校手続きに必要な書類を渡された。私の父に挨拶に行くと「あのな、できたら転校させない方がいいよ」と、言う。私は、それで、腹が決まった。「そうか、よし、がんばってみよう」と。後に、姉が嘆いた。「私と○○ちゃんとは、楽しく暮らした1ヶ月だったのに、帰る時、親と一緒に車に乗った○○ちゃんは、一度も私を振り返ってくれなかった。親って、そんなにいいもんだろか?」と。今になってそれを思いだすと、私自身、姉に、感謝の気持ちをしっかり現していなかったような気がする。夏子姉さんごめんなさい。それからは、学校に行かず、夫と私と次女と、3人で、いろんな楽しいことをして、元気づけた。一緒に尾瀬に行ったり歩いたりもした。1ヶ月ほど経った頃、学校に行くと、言う。私達は、大喜びで、元の小学校に帰った。すっかり治ったかと思っていたが、戦いは、まだまだ続いた。次女は、中学生になるころ、極度に怖がっていた。中学校で、いじめられるんじゃないだろうかと言うのだ。どんなに景気をつけても、不安がぬぐえず、毎日心配するのだった。中学生になって、登校すると、大抵気分が悪くなって、保健室に行って、休んでいた。クラブ活動は、姉の影響で、ブラスバンドに入った。長女も高校のころ、ブラスバンドで、トランペットを吹いていた。ブラスバンドのトランペットがうまくなるにつれて、次女は、自信がついて来たらしい。ファーストを担当するようになって、ますます元気になった。もう、保健室には行かなくなった。高校生になって、英語の弁論大会があった時、消極的な次女には、先生からお声がかからなかった。しかし、次女は、弁論大会に出たかった。と、言うのは、姉も、兄も弁論大会で、賞をもらっていたから、いつか自分も出たいと密かに決めていたらしいのだ。ある日、先生に出させてほしいと自分から言ったところ、次女は内向的なやつだと思っていた先生は、まさかと驚いたが、しぶしぶ、地域の小さな英語弁論大会を探して、出させてくれた。そこで何と次女は、優勝してしまった。先生も生徒も友人も驚き、校内で、数回、発表の機会を作ってくださった。次女は、すっかり不登校の病気を克服した。いや、自分では、まだちょっと片鱗が、残っているようだと、言っている。現在3人の子供の肝っ玉かあちゃんにはなってはいるが。次女がまだ、小さな2才だった頃から5才まで、私達夫婦は、忙しすぎて、車で、走りまわっていて、いつも留守勝ちだった。子供達の世話をお手伝いさんにまかせっきりだった。それが、小さな次女には、辛かったにちがいない。それが、トラウマになったらしい。それが、そもそもの原因だと思う。
2008.07.02
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私の子供達がまだ小さかったころの、 私の絵本の選び方の基本、それは 絵がすばらしいということだった。 第一条件とする最も重要な要素は、とにかく、 絵がいちばんだった。 その頃、と言っても40年も前だが、 イラストレーターの杉田豊さんが大好きだった。 とっても美しい色彩とフォルム。彼の絵は、後に切手になった。 その切手を13年前に、50枚買ってしまったが、 あまりにも素敵なので、まだ使えずにいる。 子供達に内容も絵もすてきな本を選べたのは、たった1冊だ。 <スーホの白い馬>という絵本を買って、夜休むまえに 3人のチビ達に、読み聞かせた。 白い馬が死ぬとき、私が泣いてしまって、声にならない。 毎回、読むたびに、私は泣いてしまうのだ。 あれから36年経って、最近、友人にやっと、孫が生まれたと言うので、 お祝いの中に<スーホの白い馬>を入れた。 読んでみたら、本屋さんで、また、泣いてしまった。 息子さんから、お礼状が来て目を通すと、驚いたことに その息子さんの小学校の国語の教科書の中で <スーホの白い馬>を勉強したそうだ。出世したものだ。 そうそう、話は飛ぶが、 私の大好きなピーター・ポール&マリーの<パフ>という歌も 小学校の音楽の教科書になったそうだ。フォークソングも出世したね。 楽しい絵本と言えば、安野光雅氏の、 <旅の絵本>というのが一番好き。大好き。 絵本の中には、文字が全く無い。 中世のドイツの町を旅人が旅をするのを ただ、追って描いてあるのだが、 それが、とっても愉快だ。よくよく見ると 有名な昔の画家の描いた絵の瞬間が、上手に取り入れてあって、 だまし絵のようで、探し当てるのが、非常に楽しい。 子供達がもう、大人になってしまい、 絵本にぜんぜん興味が無くなって久しいが、 15年ほど前、本屋さんで、ちょっと手にとった絵本には参りました。 <100万回生きた猫>という絵本だ。 あまりにも、感動して、滂沱と涙が吹き出て、 足元のコンクリートが涙で、濡れてしまった。 いそいで、5冊ほど買い込んで 娘と、知人に贈った。
2008.07.01
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私は、乗り物に酔う子供だった。 どこに行くにも、蒸気機関車の時代だったけれど、その都度、酔うのだった。 いつでも、吐いて吐いて、辛かった。 あの、真っ黒な蒸気機関車の煙の臭いは、特に苦しかった。 吐き気をもよおしてしまうのをがまんしながら、 どこかに行くのは、悲しかった。 夏休みに一家で、箱根にお泊まりに行った時は、 車の中で吐きすぎて、 次の日は、もう、絶対、車に乗りたくないと言ったので、 家族は、母と一緒に車で帰り 父と私だけは、歩いて箱根の山を下りた。 小さな私だったが歩くほうがましだった。 1日かかって歩いて、父とふたりで、箱根の山を下った。 次の年の夏休みは、江ノ島に泳ぎに行った。 車酔いの為、吐いて吐いて、非常に辛かった。 両親は、 普段は口にできない大きなバナナの房をはりこんでいた。 そのころ、 バナナというフルーツは、お金持ちの家の人しか 食べられない高価なものだったのだ。 それなのに、私は、 気分が悪くて1本も口に出来なかったのが残念だった。 とうとう、恐れていた 小学校の修学旅行がやってきた。 バスの旅だった。 何故か、気分が良かった。 普段は、車の近くまで来ると、あのガソリンの臭いで あっと言う間に気持ちが悪くなるのに 全く、気分が悪くなることはなかった。 楽しい楽しい修学旅行が出来た。 そして、その後、すっかり車に酔うことが無くなった。
2008.06.22
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