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今日は、母の命日だ。病院に駆けつけた私を待ちわびていた母は、 苦しい息をしながら、明日は貴女の誕生日ねと言う。 そして、誕生の時の詳しい話や、命名の由来などを たのしそうに話してくれた。そして、 ♪ ハッピーバースディトゥーユー♪ の歌を 歌ってくれた。 その時はもう、ほんとうに苦しそうだったのに… そして、一度だけ、 くるしい…と小さい声でつぶやいた。 それなのに、「あのね、このくらいじゃあ死ねないのよ」 と、冗談を言った。夜は、入れ歯をはずして、 クスリの液にいれて、眠った。気丈な母だ。 次の日の朝 あまりの苦しさに「今日は死ねそうだ」と小さくつぶやいた。そして、 夕方義姉に入れ歯をちゃんと入れてちょうだいと 頼んではめてもらっていた。母はベッドのパイプを しっかりにぎりしめて目をつむっていた。 今、こうして書いていると、母は 勇躍して死に立ち向かっているようだった。 私の59才の誕生日に88才で死んだ母。 バトンタッチされた母の人生のつづきを、私は生きたいと思う。 それが母の願いかもしれない。
2007.12.23
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お婆ちゃんも、母の長兄も亡くなってから、母の次兄は、家を整理して、自分等は、嫁の実家近くに住んだ。次兄は、数学的な頭脳が良かった。中学生の頃は、先生が、彼に数学の授業を任せて、なんと、自分は、麻雀をしていたそうだ。大人になってからは、長く田舎の校長先生を勤めた。やたら穏和なお人好しの次兄は、数学が得意であるのに、お金に関して、脳天気だった。彼の妻は、姉が、証券会社の社長夫人だったので、戯れにお婆ちゃんの家を整理したお金を全部株に変えてしまったし、また、全部無くした。次兄は、私の母に電話してきて、「薫子ちゃん、こういうわけで、君にあげる財産は、何にもないよ。ごめんね~。だけど、よかった~~、ほっとしたよ~~だって、株は、家内がやったんだよ、僕がやったんじゃあないんだから~!ぼくがやって、失くしたんだったら、彼女に、どんなに怒られたかしれないよ。あ~~よかったなぁ~~」と、いかにもうれしそうに言ったのよと、母は私が大人になってから話してくれた。どこの家も、財産なくすより、妻が怖いのか~? 現在も元気で晩酌をしながら夫婦仲良く、100才近くを生きている。それにしても、曾お爺さんの大きな大きな財産は、やっぱり、3代目がつぶすことになったんだね。曾お爺さんごめんね。叔父に代わってお詫びします。ごめんなさいね曾お爺さんの心を思うと、曾お爺さんが、哀れだな~と、これを書きながらふと、思った。
2007.12.22
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母の祖父という人は一代で財産を築き上げたから、息子の代で、財産を失なってもらいたくないと思っていた。よく、昔からの話しにあるような、放蕩息子が財産を食いつぶすことがないようにと、息子をスパルタ教育で、育てた。息子は厳しさに堪えられず、お酒に逃げるようになった。私の母が、2才の時、とうとう血を吐いて死んだのね。 たった2才で父を亡くした母は、周りの人からは、「今は遠くに行っているけど、すぐに帰って来るんだよ」とおしえられて、それを信じて育ったのだが、5才の時、向かいに住んでいる従兄弟のま~ちゃんが、「薫子ちゃんのお父ちゃんは死んだんだから、(仮名です)もう、帰ってこないんだよ」と言うのだ。信じられなかった母は、まあちゃんのお爺ちゃんに聞いてみようということで、従兄弟の家の二階に、二人で上がって行った。 「お爺ちゃん、薫子ちゃんのお父ちゃんは死んだんだよね? もう、帰ってこないよね~?」と、ま~ちゃんが聞いた。するとそこには、まあちゃんの 家族が3人いたのだが、一瞬しーんとなって、皆、目を伏せたのを母は見逃さなかった。5才の母は悟ったのだった。いそいで家にとって帰り、裏の庭まで一気に走って行って、瀬戸でひとりで泣いたんだって。
2007.12.22
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母は子供を叱ったことがあまりなかったと思う。しかし、私は一回だけ、怒った目の母を覚えている。小学校の2年生の時だった。母が肺炎で寝ていたとき、私が、弟の虫取り網を取って返さなかったので、弟が泣きわめいたのだ。母は、起きあがって、わたしから網を取り上げてちょっと、輪の部分で、私の、肩あたりをつついて、いかにもつらいという目で、私を見た。よほど、体の具合が悪くて、子供達がうるさくて、耐えられなかったのだろう。あの、瞬間のきつい目は、もう、決して母がこんな目で、私をみて欲しくないと心に刻むに充分すぎる目だった。母が悲しまないように、よい子でいようと思った。私の母の父親という人は、その父に、異常なまでに、厳しく躾られたから、心が、ひどく傷ついてそのアンチテーゼとしてか、子供を猫かわいがりするようになった。妻が、ある日、なにげなく子供を叱った時だった。「いやだぁ==」と、腹わたをしぼるような声を夫は出した。「子供を叱らないでくれぇ」夫は、悲しい悲しい目をして妻に言ったのだった。それ以来、妻は、子供を決して叱れなくなったそうだ。つまり、私の母は、一度も母親に叱られたことがなく育った。そして、私も母に叱られたことは、ほとんどない。我が家の兄弟が叱られているのを見たこともない。それなのに、私は、子供達を怒り飛ばして育てた。ごめんなさ~~~~~~い。
2007.12.22
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最近はタトゥーが大流行。普通の女性まで、彫っている。私もぜひ、タトゥーを入れてみたい。36年ほど前は、自分で左の腕に絵の具で、何か描いたりしてた。あこがれだな~しかし、絵の具と違って、本物の入れ墨は、色がイマイチだ。それに、皺だらけの背中の般若が泣き顔になって、いま三だろう。ま、冗談ですが…25年ほど前かな? 国定忠治の村近くにいたころだった。やはりこの地はヤの字のつく御仁が多かった。ある日、クリーニング店に行ったところ、若い人がいなくて80才くらいのしょぼくれたお爺ちゃんが応対してくれた。ひょっと、お爺ちゃんの二の腕をみると、「房子 命」と読めた。ほほ~~お爺ちゃんやるじゃん! その昔、房子さんに惚れてたんだな。このお爺ちゃんも、彫り物なんかしちゃって、若くて、カミソリみたいに、ぶっ飛んでたんだろうな~~~~房子さんも気っ風のいい姐さんだったかも~~~~なんてね。(奥のほうで、よたよたしてたお婆さんじゃあないだろうな絶対。)
2007.12.21
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戦後すぐ、小さかった私達子供の遊びの中に、 “写し絵” というものがあった。 それは、今で言えは、シールのようなもので、 台紙に、絵が裏にしてくっついていて、 それを濡らして、体につけ、そ~~っと台紙を剥がすと、 美しい絵が皮膚の上にきれいに現れる。 それは、皮膚と同化してるから、刺青のようだった。 しかし、本物の刺青は、色彩が、くすんでいるが、 この、写し絵は、色が極彩色で、それはそれは美しい。 私達子供達は、いろんな写し絵を体のあちこちにつけて 楽しんだ。しかし、なかなか上手に台紙が剥がれなくて、 ところどころ、破れた絵ができる。ところが、小学生の 上のお姉さんたちは、とっても上手に剥がせる。 うまく仕上がった 絵をみると、子供達は一様に ためいきをつき、お姉さんのように、きれいにできたら、 どんなにうれしいだろうと、じっとみんなで、のぞき込み、 その絵に、見いるのだった。そんな、時代を生きたからか、 タトゥーには、特別興味があって、30才の頃は、自分で アクリル絵の具で、好きな絵を左腕の上のほうに描いたりして おしゃれを楽しんだ。最近は、若者にタトゥーが大流行。でも、あの、色はあまり好きじゃない。くすんでる。それに、いやになったとき、どうするのよ?削れないでしょ?
2007.12.21
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戦後すぐ、1948年頃、沼津に住んでいた。何にもない時代に、何故か、我が家の茶箪笥に、直径25cmくらいの大きな鉢があって、その中にバターが、山盛りあった。冷蔵庫というものは、上段に、氷を入れて冷やす小さな物だった時代だから、あまり入らない。バターは、そのままいつも、茶箪笥にあった。わたしは、毎日石蹴り遊びに使う石を持ってきて、バターを手でとって、べたべた塗って、すべりをよくするのに使っていた。大人になってから、母にそのことを言うと、「あら~そうだったの?」と、のどかに笑っているのだった。卵かけご飯については、終戦後は、鶏を飼っていない家の子供は皆、同じ思い出を持っている。たったひとつの卵を兄弟で食べるから、ほんの少しの卵の味に、これは、醤油かけご飯ですね?と言ってもいいくらいの、卵ご飯を食べるのだ。それが当時の、卵かけご飯でした。今も、たま~~に我が家で卵かけご飯を食べるが、それは、お茶碗一杯に卵一個だ。おいしい。
2007.12.21
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私が小学校に入学するとき、母は、肩から斜めにかけるカバンを、私に用意した。それは、真っ白の布製で、小さなカバンの真ん中に赤いボタンがぽつんと付いていた。今、思い出すと、はっとするほど可愛くて、愛らしい愛らしいカバンだった。しかし、私は、クラスの数人がしょっていた、あのランドセルが欲しかった。その心の悲しみを、ふと思い出して母に告げたのは、もう、かれこれ自分に、孫が出来たころだ。それを聞いて「あら~?!貴女はランドセルがほしかったの~?」と、のどかにおどろく母だった。そして、母自身は、あの大正時代に、なんと、赤、ピンク、と、忘れたが、もうひとつ違う色のランドセルを3つも持っていて、毎日、どれにしようかな~と考えて、とっかえひっかえ、使ったそうだ。ひ、ひどい! わっ! 涙
2007.12.20
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毎朝、兄と姉達が学校に楽しそうに行く姿を見てぜひ、私も早く行きたいと思い、毎日、母にせがんだ。しかし、まだまだという返事だけだった。あるひ、とうとうがまんができなくなった。母はきっと、私の行く時期を忘れているのだろうと思えてならなかったのだ。だからその日は、母に強く訴えながら泣いた。 母は、「今から村の役場に行って聞いてみましょう」と。一緒に村の役場に連れて行って、大きな声で「この子はいつ学校に行けますか?」と聞いたすると役場の女性が大きな声で、「来年の4月からです」と答えた。やっと納得できて、その後は安心して暮らした。 母もえらかったね。
2007.12.20
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小学校2年生の時、私はみんなが履いているような紅い塗り下駄がほしかった。でも、母はいつも、無地の桐下駄ばかり買うのだった。ある日ショウウィンドウに濃いピンクの地に花がたくさん盛り上がっているような塗り下駄をみつけた。今度こそ、これを買ってもらいたいな~と思って母に言うと言下に、「みっともない。桐の下駄が一番いいのよ」と、言うのだった。今、思えば、私もそう思う。 が、子供の私には、紅い塗り下駄が燦然と輝き、素敵にみえた。とうとう、下駄を買う日が来た。「私が一人で買ってくる===」と言ってお金をにぎりしめて走った。まんまと塗り下駄を手に入れて、「あのね、桐下駄は無かったの、これしか無かったから」と言っておずおずと母にさしだすと、「あらいやだ、返してらっしゃい、桐下駄があるとき買いましょうね」と言うのだった。私の幼い作戦は散った。
2007.12.20
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私が5才の頃住んでいた街の近所に、ハイカラなおじちゃんが住んでいた。外国に長く住んでいたそうで、何も無い時代に、いつもおいしいお菓子を手作りして、私達兄弟をもてなしてくれた。カラメル焼きもそのひとつ。とってもやさしくて、いつも面白いおはなしをしてくれた。その中でも、特別面白くて、私達姉妹に一番人気のあったお話はじゅげむじゅげむのお話だ。「じゅげむじゅげむごこうのすうりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまあつうんらいまあつ食うところに住むところやぶらこうじのぶらこうじぱいぽぱいぽぱいぽのふうりんがんふうりんがんのおぐうりんだいぐうりんだいのおぽんぽこぴいのぽんぽこなあのちょうきゅうめいのちょうすけさん」これは、5才の時に覚えたままです。 おしまい
2007.12.19
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小学生だった1950年頃の女の子はみんな、部屋ではお手玉、おはじき、せっせっせ、外では、まりつき、ゴム跳びをして遊んだ。遊びには、多くは、歌がついていたものだった。お手玉の歌♪いちれつらんぱんはれつして(ここのところ意味不明)日露戦争始まってさっさと逃げるはロシアの兵死んでも尽すは日本の兵5万の兵を引き連れて6人残して皆殺し1月8日の戦いに(この月日は、うろ覚え)ハルピンまでも攻め落としクロポトキンの首を取り東郷元帥万々歳 東郷元帥万々歳 ♪今思いだしてみると、こんな残忍な歌を歌ってたのか?と感慨深い。まりつき歌♪うちの裏の化け猫がおしろいつけて紅つけて紅がないから買いに行って人から見られてちょっと か~く~せ ♪これは、何やらオカルトだな。せっせっせの歌、(2人で、向かい合う手遊び歌)せっせっせ~ いちかけにかけてさんかけて、しかけでごかけで橋を架け(ここで、2人で、卍型に手首をつかむ)はしの欄干手を腰に(ここで、手を腰)遙か向こうをながむれば、(ここで、手をひさしのように)十七、八の姉さんが花と線香手に持って、(ここで、両手で、花をもつしぐさ)姉さん姉さん何処行くの、(ここで、お互いに肩をたたく)わたしは、九州鹿児島の西郷隆盛娘なり、明治10年9月24日切腹なされた父親のお墓詣りに参ります、お墓の前では手を合わせなみあみだぶつと拝みます(ここで手を合わす)拝んだあとから幽霊がふうわりふわりと、ジャンケンポン!ほんとうに、こんなことやってたのか~~~と、自分でも信じられない。お手玉の歌母さんご覧よ 向こうから父さんによく似たおじさんがお馬に乗って 剣下げてたくさんたくさん歩いてるもしやぼうやの父さんが帰ってきたんじゃ あるまいか あるまいかまた母さんを泣かせるの 夕べも言って聞かせたがまだ坊やには わからない あの奥座敷の仏壇にそなえてあるのが 父さんよ 父さんよまだまだ、戦争の香りがたくさん残っていたんですねぇ
2007.12.19
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昔、子供の頃は、お祭りなんぞに行くと、きまって見せ物小屋がたった。入口で、客寄せの男がわめいている。私達は、ぞろぞろ歩きながら、何だろう~~と耳と目をそばだてる。「可哀想なはこの子でござる~~」という、哀調を含んだ声がひびく。たまらず、5円か、10円を払って、中にぞろぞろと吸い込まれる。山の中で、たった一人で生きていた男というは、生きた蛇を鼻から入れて、口からだしたり、その反対をしてみせるのだ。その上、まわりには、蛇のぶつ切りが、散乱していて、それを食べてしまうのだ。ふと、上を見上げると、ロープで天井に蜘蛛の巣が作ってあり、その上には、直径20センチくらいの胴体の蜘蛛が、大きく足を広げていて、顔は、人間の女の首なのだ。その女は、目を開けたり、閉じたりして、じっとしているのだ。どんなトリックなのか、いまだに分からない。分からない。そんな見せ物小屋は、最近はありますかね?
2007.12.18
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1946年頃は、終戦直後だったから夏は扇風機もなかった。夜遅く父が帰ってきて、「暑いからみんなで泳ぎに行こう!」と言って、子供達4人を引き連れて近くの川に行った。月明かりの中、父を始め、みんな橋の上から、ドボンドボンと飛び込んだ。私は、4才か5才だった。しかし、それまでの私は、まだ、一度も泳ぐということを経験したことがなかったのだった。飛び込んだ直後、がぶりと水を飲んだ。むやみに手足を動かしているうちに、浅瀬にたどりつき、立った。それで、泳げるようになった。らんぼうな時代だったねぇ。 弟は、1才か2才の頃、私達と遊んでいて、向かいの家の中の広場にあった深い人工の池に落ちた。「子供が落ちた===!!」っと私達は叫ぶ。家内中の大人達が、走って集まって来た。弟は手足をばたばた動かしておぼれながらも泳いでいた。岸近くにきたとき大人が腕をのばしてぐいと引っ張り上げた。 助かった。それを見ていた私は、泳ぐというのは、足と手をばたばたやったら良いのだということを学習していたらしい。
2007.12.18
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終戦で、父が復員して来たとき、お婆ちゃんが、母にこう言ったという。「男の人はね、妻子が困窮しているのを見るとどんなことをしてでも養おうと思って、つい、悪いことに手を出してをしてしまうんだよ。だから夫の前では、あまり窮状をみせないようにね」いつもは、じゃがいもを細かく刻んでまぜたご飯だったが、それ以来、父が帰って来る日は常にご馳走だった。父は安心して、妻子を置い会社再建に走りまわり、はまりこんでいて、時々帰ってくるだけだった。しばらくすると、父は、以前の同僚たちを連れて帰ってくるようになった。それは、非常に生活に窮している人々だったから、食べさせてあげて、おみやげを持たせるのだった。そういう暮らしを続けているうちに、ある日父は、お婆ちゃんと母を前にして、意見したという。「日本国中の人々が皆、困っているときに、この家だけ、贅沢にしてはならない」その時、お婆ちゃんは「潮時だ」と思ったそうだ。その夜、お婆ちゃんは母に「そろそろ夫と自活したらいいね。」と告げた。母は父に「貴方と一緒にがんばりたいから、家族を一緒に連れて行って」と。
2007.12.17
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夫の仲間が、ある時、妻と一緒に集まろうという企画をした。皆、相当の年齢になっていたから、ちょっと良い温泉宿に集合。宴もたけなわになって、カラオケに移行。すると、軍歌が出た。やたらに、いきり立って軍歌の大合唱。旅館の人々に、右翼の集団と勘違いされるんじゃないかしら?と、心配になるほどだ。皆、世の中の為にとひたすらボランティアをしたりする平和人なのに、戦中に中学生だったから、歌と言えば、軍歌しかなかった。しかたがないのだ。実は、何故か私はほとんどの軍歌が歌える。開戦のころ生まれたから、本当は赤ちゃんで、何も知らないはずだし、両親も周りも穏やかな、平和人のかたまりのような連中、そんな環境に囲まれて育ったのに、何故か軍歌が頭に自然に住み着いている。その日歌った20くらいの軍歌は、全部歌えた。特に、母が絵本をみながら、歌ってくれた「広瀬中佐」の歌は絵本の絵を鮮明に覚えている。広瀬中佐が船内を「杉野=!杉野=!」と探している挿絵。そして、流れ弾が、広瀬中佐を貫いたときの劇的なくだり。軍艦の周りの海に、爆弾が落ちている様相。暗い空に戦闘機が飛び交っている図。そして、母が震えるような、哀しい声で歌う旋律。♪轟く筒音 飛び来る弾丸 荒波洗うデッキの上で闇を貫く中佐の叫び 杉野はいずこ 杉野はいずや♪♪船内くまなくたずねる三度 呼べどこたえず探せど見えず船はしだいに波間に沈み 敵弾いよいよあたりにしげし♪♪今はとボートに移れる中佐 飛び来る弾にたちまち失せて♪りょじゅんこうがい恨みぞ深し 軍神広瀬とその名残れど♪ 戦争の悲惨を思って、母にもたれて泣いた幼かったあの頃のこと。
2007.12.17
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私たちは、すごく気分のいい店をみつけると、 うれしげにお休みの日なんかに行く。 駅前の酔○伝は、ちゃきちゃきのボーイさんがたくさんいて、 安くておいしい 居酒屋さんだったが、2年くらいでつぶれた。 新しくできたホテルの中にすてきな和食の店、○膳という なかなかのおしゃれな店があった。 お客さんが来ると必ずそこに連れて行ったけど、3年でつぶれた。 同じホテルの洋食のおしゃれな店。水曜日の昼に 1000円で、ステーキ定食をだしてくれて、うれしかった。 2年でつぶれた。 あたしたちって、死に神か?疫病神か? いやいや、普段は、私たちが入るとなぜかお客さんがわっと来るよね~なんて 自己満足してたんだけどな~~~? 現在の、この田舎に来てからも、 安くて気分がいい温泉の、カンポの宿をみつけて、 1回次女一家を呼んだのに、郵便局の縮小のあおりで、 3年で締めちゃった。 ここには、お洒落な店がぜんぜん無いけど、 お隣のお隣のお隣のそのまたお隣の市まで出たら、いろいろある。 目抜き通りに新しく、洒落たステーキ屋ができて、今度、 もう一度行こうと話していたら、あっという間につぶれた。 あああ、あの葱塩ステーキ!もう一度食べたかったなぁ。
2007.12.16
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父が戦地から帰ってきて、初めて父のいびきを聞いた自分は 大きな恐怖を味わった。そのブルトーザーの様な響きは 部屋中をびりびりさせるようだった。恐ろしかった~~。 中学生になってから、母に 「側であんなに大きな音がして、よく眠れるの?」 と、聞いたことがあった。母は笑って、小さな話をしてくれた。 昔、母が小学生だった頃、大好きな女の先生がいて、その先生は、 でっぷり太っていて、優しくて、何でもすばらしく教えてくださるから 心から尊敬していたのだが、ある日急に亡くなった。その時から母は、 何でも分からないことがある時、悲しい時、寂しい時、お墓におまいりしては、いろいろな相談したいことを 、一人で話をしていたそうだ。 女学生になっても、時々、お詣りしては、報告したり、質問したりして そこで胸に浮かんだ心のままに気持ちを決めていたのだった。 その女の先生が、ものすごい豪傑のような、いびきの持ち主だったと噂で聞いて知っていた。だから結婚して、初めて夫のいびきを聞いた時 「ああ、あの先生と同じだわ!」と、とてもしあわせに思ったのだった。 「だから、いびきを聞くのはうれしいのよ」と。 私は、その話を聞いて、その頃の愛読書の「リーダーズダイジェスト」に、 投稿したいなと中学時代は思いつづけていたが、果たせなかった。 だから今日はこのエッセイをここにUPして、UP記念日にします。
2007.12.16
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戦時中、母の実家で疎開生活をしていたとき、一緒に住んでいた、義理の叔母が猫好きで、たくさんの猫を飼っていたが、私にいたずらされるのを嫌って、「猫をいじめたら猫魂(ねこだましい)が来ておまえをさらっていくよ」と言った。叔母は冷たい美人だったから、その冷たい大きな目が怖かった。ある日、ちいちゃな可愛い赤ちゃん猫をだっこしていたら黄色い水を吐いて死んでしまった。私は自分が殺してしまったかと思い、それからは、毎日、猫魂(ねこだましい)がわたしをさらいに来ると思って心配していた。 終戦になって父が復員してきて、夜中に初めて大きな父のいびきを聞いた。それは、父が家にいる、初めての経験だったから、私はまだ、豪傑いびきというものを知らなかった。それは、猫魂がわたしをさらいに来た音かと思い、急いで、掘りごたつの中に入って一晩中、汗をだくだくかきながら、ふるえていた。4才か、5才の時のことです。
2007.12.16
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変態性欲という言葉がある。この記事を書こうと思って、改めて辞書を引いて驚いた。すごい言葉なんだね?というのも、中学生の頃、流行言葉だったのよ。中学生という時代は、あまり深く物を考えもせず、過激な言葉を面白がって使うものだが、(今でも?汗)実は、我々も本当の意味を知らずに、使っていたらしい。50年以上前の私達の中学生のころは、ちょっと、変わった雰囲気の男性に出あうと、「ちょっとちょっとぉ~さっき、変態がいたのよぉ~」などと、ひそひそ声で目くばせなどをして、女の子は、面白がっていた。その男性が、変態性欲だというつもりはなく、ちょっと変わった人、という軽い意味なのではあるが、本当の言葉の意味からすると、過激である。ところが、1年くらい経つと、HENTAI という言葉の最初の文字から、変態が、Hに変わった。「ちょっと、ちょっとぉ~さっき、Hがいたのよ~~」と言うようになった。また、しばらくすると、いやらしい人を指して、「Hだ~」という風に変わって行ったのだが。それから、50年後。最近若い夫婦などが、テレビで、アッケラカンとして、週2で、えっちしますぅ~~~などと言っている。夫婦間のSEXは、正常で、美しい、自然な行為である。それなのに、そんな言葉を使うなんて、元を正せば、「週2は、変態性欲で…」ということになっているのをだれもご存じないのだ。その度に、私は、「ば~~~か」 と、思うのです。文句ございますか?
2007.12.15
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小学生の頃は、親の都合で、学校を4つも変わった。最後に、4年生から6年生まで通った学校でのこと。私達子供達は、固有名詞の何にでも、(お)を付けた。お人形、お針箱、お弁当箱、お鞄、おぞうり、お靴、お机、お椅子、お筆箱、お帳面、お鼻紙、お石鹸、お歌、おのど、お鏡、お口、お顔、お洋服、お前掛け、お砂場、etcあまりにも、何でもおを付けるので、6年生の時、新しい先生が、皆を集めて、「これからは、(お)を付けないように。何でも(お)を付けると不自然です(おみおつけ)のようなことになります!」とおっしゃるので、私達は驚いた。特に、石鹸に、おは、付けないようにと言われても、私は、内心、おが付かない石鹸なんて、あり~?変な先生だこと!と思っていたが、その後は、(お)を付けないといけない物にも、付けることを忘れてしまって、がさつな女になり果てて、今に至る。 涙
2007.12.15
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おいしい物をたくさん食べてきて、ちょっとランク付け。 貧乏人だから、食った食ったという割に、にゃんにも知らないのでは ありまするぅ~~~ (^^; m(._.)m m(_ _)m第一 「生麩のおまんじゅう!」 (生麩でこしあんを包んだおまんじゅうです。) 皮は、小麦の生グルテンで作られていて、 もちもちで、ぷりぷりで品の良いこしあんが入っている。 お餅ではなくて、生麩でできてるところがすてきなの。 昔は、京都や、金沢の有名店にしかなかったから、 貴重だった。 最近では、冷凍で、ど~~こにでもあるようになったから 特別な気分はなくなったが… ほんとうに、大好き!第二 大阪の鶴屋八幡の、 黄身餡(きみあん)の生菓子! 昔から、あこがれであるばかりだ。やたら高いし、ほとんど 口に入ることなどないが、あんが、特別おいしい! たぶん、卵の黄身を特殊技術でおいしいおいしい餡にしてあるのね。 しっとりしてるのに、さらりとして、 ふっくらしていて、ほっこりしてる。 食べたああああ~~~~い。第三 金沢の老舗の菓子屋 石川屋の、「山野草」というお菓子。 お菓子の種類で、黄身時雨(きみしぐれ)という種類があるが、 黄緑と黄色の黄身時雨をそっと固めたような、なんとも 口あたりの柔らかな、口の中で、ほろりと融けるような、 しかも、しっとりしていて、見た感じは、やさしい色合いですてき。 やはり、見た目も大切よね! 第四 ああ!まだまだあるんだけど… 今回は、このくらいにしといたるわ!(めだか風に言う)
2007.12.14
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私の母は、霜柱(しもばしら)というお菓子を愛でていた。それは、落雁を作る前の粉を、小さな缶の中に詰めてあって、その中に、飴が、ひっそりと霜柱のように、埋めてあるのだ。飴は、普通の飴ではない。飴の糸で作ったような、白くて薄いもので、それを、口の中に入れると、す~っと融けて食べたのか、まだ食べていないのか、定かではないというお菓子なのだ。こんな風流なお菓子があるものか?というような妙なるお菓子なのだ。このお菓子は、作る季節があって、その時節に、時々取り寄せていた。マンハッタンで生まれてマンハッタンで育った、アメリカ娘が私の母の家に遊びに来た時、彼女の口の中にそれをひょいと、入れてあげたら、彼女が、とても驚いて、感動したらしく、「これは、本当に日本ならではの、すばらしいお菓子ですね。こういうお菓子をアメリカの母におみやげにしたい」と言ったそうだ。「あの娘は、日本の味が、解る娘だね」と、私の母は面白がっていた。
2007.12.14
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生チョコを知ったのは、1970年頃だったか、お客様の接待をして気に入ってもらい、後日、頂いたチョコレートが生チョコでした。驚きましたね!このトリフって!これは、何?!世の中にこんなおいしいチョコレートがあったものか!ってね!当時、一番手近に、手に入れられる店は、空港でした。用事で、空港に行った時だけ、買うことができたものです。1995年ころ、友人の店で、お食事しながら雑談中、私が、「夫とは、趣味も、考えも、思いも、合うところが全然ないのよ」などと、言っていたら、店の無口な板長さんが、いきなり、「 それじゃあ、子供はできん!」と、言ったので、皆、ひっくり返って笑ってしまいましたが、その板長さんがこれを食べてごらんと言って出してくれたのが、“ 芽かぶ ” 初めての芽かぶは、おいしくて、おいしくて、何だ?何だ?と、大騒ぎ。包丁で、わかめの芽の皮をきれいに剥いて、細く切ったのだったから、貴重品。ほんとうに、驚いた。しかし、その後、あっと言う間に、機械で処理されたものがスーパーに出回って、私も食べ飽きて、今は振り返りもしなくなった。あの、手作りの芽かぶ、もう一度食べたい~~~~
2007.12.13
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おいしいもの 、大好きな食べ物ってどんなものがあります?私は、戦後の貧しい日本がだんだん繁栄して、いろいろなおいしい物が外国から入ってきて、お洒落なものがたくさん並んだし、新しい食べものがうれしかった。おいしい物、新しいものは逃さず食べてきたような気がする。1973年ごろ、大学時代の友人からお菓子が届く、ミルフィユ、こんなおいしいお菓子が世の中にあったのか?と感動した。これは、未だに好き。この頃は駄菓子にも登場している。1974年頃、ある地方で暮らしていたが、お客様に何をごちそうしようかと考えて、お金持ちの若奥様に聞いたところ、「最近ピザと言うあたらしい食べ物がでてきましたの」「お好み焼きを洋風にしたような物よ。」と言うことで初めてピザを知ったの。1976年頃は、何かおいしいお菓子はないかしら?」と若いお嬢さんに聞くと、「レアチーズケーキというお菓子が出てきましたよ」と教えてもらう。さっそく買ってお客様に出した。そのおいしさに、しばらくレアチーズケーキにはまってしまう。1978年頃、初めて生ハムというものを知った。こんなおいしいハムがあったものかと、びっくりして母に教えてあげる。母「私はね、5才のころから知ってるの」私「え=====????」聞けば母の年の離れた一番上の兄が、本ばかり読んでぶらぶらしている男だったのだがいつもアメリカの雑誌を見ては、自分の為だけに一人でおいしいものを輸入する店に頼んで送らせて食べていたのだ、それで、母は小さなころから輸入したものを、郵便局に受け取りに行かされ、料理までさせられたから、時々ちょこっとごまかして食べていたのだそうだ。だから大正時代の田舎の少女だった母は、おいしいものを早くから知っていたのでした。
2007.12.13
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兄と姉2人は、東京の山の手で子供時代を暮らした。学校から帰って、食事していると、お友達が、呼びに来る。「み~~さ~~子~~ちゃん、あ~~そ~~び~~~ま~~しょお~~」 と節をつけて、玄関に立つ。 (名前は、仮名あしからず、)食事中の姉たちは、「い~~ま~~ご~~は~~ん~~、あ~~と~~で~~」とゆるやかな節をつけて返すのだ。そう言った、のどかな、のどかな中で幼年期を過ごし、皆、お姉様、お兄様という呼び方が一般的だった。戦時中、田舎に疎開して言葉を覚えた私だけが、田舎風に、お母ちゃん、お姉ちゃん、お兄ちゃんという言い方で育ってしまった。同じ家族の中にあって、不思議ねぇ~~~??? 涙激出大滂沱
2007.12.11
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私のお婆ちゃんの、大きな庄屋さんだった実家のことを一話だけ書きます。お婆ちゃんの兄が、家を継ぎ、それから、その息子の代になってから、お人好しのぼんぼん息子は、ある選挙に祭り上げられた。何度も担ぎ上げられ、すべての財産は選挙活動に消えて行く。かなりの資産家であったが、田舎の選挙のこと、財産もみんな人手に渡り没落した。子供達は、家の宝物を売ったお金でやっと、大学を出してもらった。その宝物の中のひとつに、エピソードがあるのだ。屏風と、金蒔絵の碁盤があった。昔々、何時の時代の、何の戦いかは、知らないが、戦があった。ある日のこと、怪我をした2人の侍が、助けを求めて、この家に逃げてきた。一人の侍は、大きな屏風を担いでいたし、もう一人は金蒔絵の碁盤を担いで逃げてきた。その屏風は大切な家宝らしくて、侍達は、負傷していたのに、必死で担いで逃げて来たのだった。2人は、手厚く看護を受けて、1年ほどを過ごしていたが、一人の容態が悪化して、亡くなった。もう一人の侍は、元気になって去っていくことになり、お礼にそれらを置いて出て行ったと言う。その残された宝物が、のちに子供の学費に変えられたそうだ。
2007.12.10
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母は、小学生の頃は、雨などで、外に出られない時、タバコを吸って遊んだそうだ。キセルに、刻みタバコを小さく丸めて、きゅっと詰める。火を付けて、煙を吸い、廊下に、つばきとともに、煙をだして、煙の入った唾の円いボウルが、廊下にいくつできるかを楽しんだそうだ。母の兄は、中学校のころ寄宿舎に入っていたそうだ。それも、一年生で入ると、いじめられるから、3年生くらいから入寮させると、お婆ちゃんは考えたそうだ。寮から帰省する時には、お婆ちゃんは、お酒を用意して、キセルには、刻みタバコを、丸めてきゅっと詰めて、刻みタバコを容器にふわ~~っと、美しく盛りあげ、それらを、きちんと盆に並べ、「あの子は無口だから、こうでもしなきゃ、しゃべらないからねぇ」と言って、息子の帰りを楽しみにして待ったという。大正時代のお話。戦時中疎開しているとき、私は、お婆ちゃんがキセルでタバコを吸うのをじっと見ていた。キセルに刻みタバコを丸めてキュッと詰めて、火を付けると、一服か、2服でそれは終わり、火鉢の中にある、五徳(やかんを乗せる台のような物)の縁にゴンッ!と、キセルの首を叩いて、カスを出すのだった。ですから、時代もののテレビドラマの中で、キセルでたばこを吸う場面には、いつも不満だ。なぜなら一回詰めたら、何服でも、吸うマネをしたり、いつまでも詰めたままでいるからそんなの違うよ~~~と、思うのだ。え?そんなのかんけ=ね=ってか?
2007.12.10
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私が、小学校の時の夏休み、姉がテニスをしに高校に行くのに、 「一緒においで」と言う。姉は、さっそうと短いスコートに着替えて、テニスコートに立った。そして、ちょっと素敵な男生徒に「私の妹です」と 軽く紹介して、二人でずっと、ず~~~っと、ず~~~~~~~~っとテニスをした。 私は所在なくテニスコートの側でそれを見ていた。なかなか終わりは こなかった。 母が小学生だった大正時代、母の姉は、時々お琴をかかえて、 合奏をしに出かける。母の姉は、「一緒においで」と言って、私の母を連れて行く。 ある家の二階に姉だけ上がって行って、 ひとりの素敵な男性とお琴のレッスンをするのだった。で、 その男性は尺八を吹く。2人が、ずっと合奏を楽しんでいるあいだ、 小さな母は所在なく、玄関のあたりで、ず~~~~~っとず~~~~~っと、ず~~~~~~~~~~~っと、待っていたそうだ。 やがて、お琴と尺八の音がとだえて、姉が降りてくると、 やっと帰れるのだった。 なんじゃ?親子で、同じ体験かい?
2007.12.09
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母の白髭お爺さんという人は、自分が、築いた家の財産をつぶしたくなかったから、息子をスパルタ教育で育てた。ところが、厳しすぎ、ぐれてお酒に溺れた。「飲もう飲もうのOOさん」という有り難くないあだ名がついた。だから、白髭お爺さんはますます家の為に、良き嫁を探さねばならなくなった。仕事で時々逗留する大地主があった。昔は庄屋さんだった家だ。むちゃくちゃ大きな地主で、哀しい言い伝えもある◎▼池という大きな池も持っていた。今でもある。昔、この池を造る時、◎さんと、▼さんという2人の娘が、人柱になった。その娘たちの名を冠した池の名前だ。その、大きな地主の奥さんが、地味な人で、大奥様然とせず、ちっとも威張らず、非常にすばらしい働き者だった。朝はだれよりも早く起き、家中の朝ごはんを整えるしっかり者だった。白髭お爺さんは、こういう家の娘さんをもらえば、我が家も安泰だと考え、娘を大酒飲みの、どら息子の嫁に迎えた。(この嫁が、私のお婆ちゃんなのだ。)嫁にきてみると、親子が非常に仲が悪いので、それの仲を取り持つのに、毎日、苦労したそうだ。白髭お爺さんが亡くなってから、すぐに、母の父親もあいついで亡くなった。その時、母は、2才だった。嫁を探した目利きの白髭お爺さんの望んだ通り、夫亡き後、私のお婆ちゃんは、戦後まで、家を守りぬいた。
2007.12.08
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お婆ちゃんの家の裏に大きな倉があった。私達が疎開したころは、中は空っぽで、誰かが嫁入りに持ってきた黒塗りの長持ちが一つ二つころがっていただけだ。ある日、私が何かやっちまったらしい。母は怒って、小さな私を倉に閉じこめた。しかし、重たい鉄の扉に10センチほどの隙間を作っておくことも忘れなかった。ぴったりと閉めるには忍びなかった母だった。ところが、そこは、子供達のかっこうの遊び場だったから小さなわたしでも、ぐいとがんばれば、思い扉を開けることもできたのだ。しかし、一人で開けて逃げることはいけないと自覚していたので、「おか~~ちゃ~~ん、あ~~け~~~て~~」と、大声で泣いた。母の兄が声を聞きつけて来て、「おおおお、怖いおかあさんよのぅワシがおかあちゃんに言ってやるから」と、言って解放してくれた。その倉は、戦後進駐軍に接収されて、米軍の物資で満杯になった。守衛のアメリカ人がいつも銃を持って立っていたそうだ。3年くらいして、お婆ちゃんは、家を息子に譲った。あの倉を売って当座の資金を作り、孫のいる東京で余生を過ごした。
2007.12.07
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大正7年、全国に米騒動が起きた。 母の村は、山国の小さな田舎だったにもかかわらず、大きな地主さんが かたまって住んでいた村で、 西本願寺の米倉と言われたところだったから、 打ち壊しの一団が、おしよせていた。 あそこの家が壊されている、今度はどこそこだ、という噂がとびかっていた。母の家も小作人の人々を抱えていたから、米倉があった。 家には、母の父亡き後、ずっと手伝い、采配をふるっていた叔母がいて、 その叔母は、昔から気っ風のいい、眉のきりりとした美人の、腹のすわった、度胸のある、男勝りの女性だった。 ここで叔母は、大きな酒樽をいくつか用意させて待機した。 「今、○○家がやられている、次はここです!!」と 伝令が金きり声で叫んだ。 叔母は、扉を全部開いて、広い土間の真ん中に すっくと立って待ったそうだ。 どどどどどっと、暴徒が押し寄せて来たとき、叔母は大声で、 「皆さんご苦労様です!さあ!どんどん飲んでやってください!!」と 叫んで、次々に酒を酒樽からついで、 じゃんじゃん飲ませたのだそうだ。 その女性の機転で、打ち壊しを免れた。その女性のひとり息子さんを、私の母は、戦後、亡くなるまで、お世話していた。
2007.12.07
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母の田舎は、地方の小さな田舎町だったにも関わらず、地主さんたちがかたまって暮らしていた。どの地主さんも苦学生を応援するならわしがあった。母の実家も、苦学生を応援していた。その中に東京帝國大學を出て、お役人になった人が出て、ある日、故郷に錦を飾ることになり、世話になった母の実家に逗留した。その時初めて、長女(母の姉)がすでに嫁いでしまったことを知らされたのだった。夜、お酒を飲むほどに、酔うほどに、彼は嘆いた。「何故?何故?何故?私の為に取っておいてくれなかったんです?!!」「何故?何故?取っておいてくれなかったんです?!!」 と、お婆ちゃんを責め、男泣きに泣くのであった。お婆ちゃんは、彼の気持ちはうすうす知ってはいたが、将来彼が我が娘に、結婚を申し込んでくれるかどうか分からなかったから、安心できなかった。その頃、隣町の造り酒屋の若旦那さんが、何度も足を運んで結婚を申し込んでいたので、つい、そちらに長女を嫁がせてしまったのだった。お婆ちゃんは夫亡き後、一人でやってきたし、まだ若かったから、娘の将来が、不安で、つい、急いでしまったのだった。
2007.12.06
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母の姉は、その昔、小町と言われた。そして、その姉の娘は、長じて、ミス☆★に選ばれた。私の家には、絶対に、決して起こりえない誉れだ。しかし、私が、初めて叔母に出合った時、でで~~んと太ったおばさんは、小町の片鱗さえなかった。また、ミス☆★だったと聞いた娘の夢子(仮名)さんのほうも、私が初めて会った時にはすでに、おばさんだった。おばさんでも、最近の女性は、きれいにしているから美しいけれど、その私の従兄弟の夢子さんは、いつもすっぴんだったし、髪は、ひっつめて、後ろでぎゅっと輪ゴムでしばっただけで、服装は、どうでもいいようなかっこうで、つっかけを履いてたし、第一、ぜんぜん女らしい物言いとか、美人に付きものの色っぽい仕草が、なかった。ぶっきらぼうなしゃべりかたで、どこにでも、ころがっている様な、隣のおばちゃん風でしかなかった。だから、(母は、ああ言ってるけど、ウソだろう。)(だれでも、自分の家の事は、良いように言いたがる、あれだ。)と、内心思っていた。大体、同じDNAをもってる我が家に、一人でも美形がいたかい?悲しいけど、答えは明白だった。ある日、母は入院した。私がそばで、看病しているとドアが開いて、夢子さんと、赤ちゃんを抱いた女性が入室してきた。「これ、うちの娘。孫ができたのよ~」と、夢子さん。がががが====ん!(掃きだめに鶴)とは、このことだった!子供を抱いた娘は、たまごのようなつるつるの輝くようなしみ一つ無い、すっぴんの顔、どこをとっても麗しい清らかな、目鼻立ち、美しい放物線を描く眉、そして、黒々とした、つぶらなまなこ、長いまつげ、形のととのったかわいい鼻の穴。ぽっちゃりとした口もとは、口角が、すっと上がって、私達のような、への字になっていないのだ。ぴかぴかに磨かれたすらりと伸びた真っ白な手足。子供を産んだばかりなのに、くいっと締まったウエスト。やっと、納得した。従兄弟の夢子さんも、昔は、こんな風な女性だったんだ!そして、おばさんも、小町だったんだね!
2007.12.05
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親孝行をしたいと思って日本一と謳われている能登の◎◎屋に母と、2泊したことがあった。なるほど日本一だけあって、値段も目が飛び出たが、サービスもなかなかのものだったし、館内は、日本情緒漂う、すばらしいものだった。私達は、夜、館内にしつらえた江戸風の舞台を観た。客は、他所のホテルからも、ぞろぞろと、来ていたようだ。旅芸人の座長は、裕◎◎という芸名らしい。相当のお爺さんで顔にどんなに厚化粧をほどこしても、その老醜を隠しおおせるものではないほどに、痩せさらばえて、ひどい女形さんだった。ところが、オーディエンスの真ん中真ん前に座った女性が、「ゆ===ちゃ====ん!!!!」と奇声を挙げている。立ち上がって両手を振ったりして、たったひとりで大騒ぎ。私は、その女性を見て仰天した。その日、母と温泉に入って、脱衣所で涼んでいるとひとりのでっぷりと太ったお婆さんが付き人の女性と入浴してきた。その着物や帯を見て、あまりにもりっぱなので、声をかけずにはおれなかった。「もしもし、失礼ですが、貴女の着物と帯は、すてきですね!」と言ってしまった。かの、お婆さんは、じろりとわたしを睨み付け、あんたなんかとしゃべるもんかと、言うように、ぷいっと、無視した。すると、つきそっていた女性が、「あのね、この着物は、作家さん★★で、200万円します。帯は、作家さんが◎◎で、一点物で、300万円くらいするんですよ~」と、ささやいた。その上、一番上等の部屋に1ヶ月も逗留していると言うではないか!その、がまがえるのようなお婆さんは、むすっとはしていたのだが、どうだ、参ったか!と言っているようにも見えた。私達は、恐れをなして退散したのだが…くだんのお婆さんが、まるで、小娘の様に、金切り声を発しているんです。そして、舞台では、座長の爺さんが、江戸町娘姿になって、ぴたりと両手をつき、「▼▼さま~~!この度は、衣装一式をお贈り頂きまして、ありがとうございました!今日はこの衣装で踊らせていただきまする~~」と、たったひとりのお婆さんに向けてごあいさつをしているのだ。こういう世界を見たことがなかったから、驚いちゃったな~~~~~!!!!ほんと。お婆さんは、追っかけかな??
2007.12.05
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母方のお婆ちゃんは、裕福な家の子供だったので、日本舞踊や、三味線、長唄などを習ってお嫁にきた。夫が早く亡くなったので、その習い事が役に立つ時がきた。色々な人や、子供が、踊りや三味線を習いに来るのだ。昔からの家業の店の仕事の他にそれもやっていた。ついでに、お婆ちゃんの家に疎開していた我々子供達も習い事をさせられた。ある日、4年生の姉が、なかなか三味線が覚えられないと言ってお婆ちゃんはかんしゃくをおこした。それまで、一度も怒ったことのないお婆ちゃんがかんしゃくを起こしたのだ。「この子は築山に捨てる!!」と言いながら、姉を引きずって行こうとした。2年生の姉と、4才の私は、「お婆ちゃんごめんなさい!ごめんなさい!」と叫びながら姉の足にとりすがって泣きわめいた。2人でとりすがられたら、お婆ちゃんも築山まで、ひっぱって行くことが出来なかった。助かった。
2007.12.03
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疎開していた頃、ある日二人の姉と私は田舎の道を遊んで橋の上まで来た。3人で橋の欄干にもたれていると、2年生の姉の下駄がポロリと落ちて、橋の下の汽車の線路に、カパッ!っと、はまった。その時、汽車が向こうの方からこちらに向かってくるのが見えた。3人は、青くなった。下駄がはまってるから、汽車が脱線する!と思ったのだ。とっさに4年生の姉は、決心して、転がるように土手を降りた。残ったふたりは、「おねえちゃ~~ん!おねえちゃ~~~ん!」と声を限りに、泣き叫んでいた。首尾良く姉は下駄を線路からはずして、逃げた。汽車は、大きな煙を吐き上げながら、通り過ぎていった。怖かった。姉が下駄を持って登って来るまで、二人はずっと泣いていた。
2007.12.03
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戦時中は、田舎にはすでに、車というものが無かった。家の前を荷車を曳く馬がぽっこぽっこぽっこと、ひずめの音をたてて通り過ぎていくのだ。ある日荷馬車が、我が家の前に止まっていたとき弟のひたいに、荷馬車の後ろが、がたんとぶつかった。人々が家に、走り込んで「坊ちゃんが怪我をした===!! 」と叫ぶ。母は押っ取り刀で、飛び出した。額から血が噴き出して、黄色のセーターを真っ赤に染めていた弟を抱いて、母は、脱兎のごとく医院に走った。医者は額を麻酔なしで、縫った。弟は、1.2才だったはず。しかし、全く泣かなかったので、この子は強い男の子だと、ずっと近所の評判になった。弟の手術の後、母はひょいと私を抱き上げて、「この子は扁桃腺が腫れてますから診てください」と、医者に言った。「はい、あ~~ん」私は、口を開けなかった。どんなに皆が、おさえつけて、口を開けさせようとしたか!(私は死んでも口を開けるもんか)と思っていた。ただただ怖かった。大人達は、あきらめた。
2007.12.02
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近所に医院があった。戦争の為、その頃はもう、田舎には、麻酔薬もあまりなかった。だから、ちょっとした手術には、麻酔を使わなかったようだ。小さな私も歯茎が腫れた時、麻酔なしで、切られた。酷い時代だった。あるひ、子供達は「爪を取るから見に行こう」と言って、ガキ大将と共に、お医者さんの窓からみんなで、固唾をのんでのぞいていた。「痛いよ~~痛いよ~~痛いよ~~いたたたたたたたた」と大の大人が泣いていた。その泣き声がいつまでも続いていた。私達はしゅ~~んとなって、恐れおののいて帰った。怖かった。
2007.12.02
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戦時中だった。父は、出征中だ。母は疎開先の家から、夫の実家に、生まれたばかりの5番目の子(私の弟)を見せに行こうと思い立った。赤ちゃんをおんぶして、お弁当を持って汽車に乗った。下車してからは、山越えの道を、必死でとぼとぼ歩いた。母はまだ若く、31才くらいだっただろう。やっと、峠のところまで来て、ぽつんと立っている一軒の家をみつけて、縁側で、お弁当を食べさせてもらおうと思ったそうだ。おじいさんが出てきて、どうぞどうぞと快く、承知してくれたので、あかちゃんを下ろして、おにぎりを食べたとおもいねえ。すると、お爺さんが、コップに何やらジュースを持ってきてくれたのだ、喉が渇いていた母は、ごくごくっと飲んで「おいしいっ!!」と叫んだ。赤いいちごジュースだったのだ。すると、お爺さんは、にこにこして、今度は、オレンジジュースを持ってきてくれた。たちまちごくごくっとのんで、「おいしいっ!!」と叫んだ。そしたら、また、お爺さんは、ぶどうジュースだったか、パイナップルジュースだったかをもってきてくれた。そこで、やっと、母は、ひとごこち着いて、何故こんな戦時中の、何にもない時代に、こんな山の中に、おいしい飲んだこともないようなジュースがあるのかと聞いたのだ。すると、おじいさんが言うには、たった一人の息子が、陸軍にいて、時々、物資を持ってきてくれるんだそうだ。それにしても、お爺さんも気前がよかったねえ。母は、うれしかっただろう!あの時代。お爺さんは、そろそろ、荷車が通るのを知っていたから、母を待たせて、それに乗せてくれたので、夫の村に楽に行くことができたという。重い赤ちゃんをおんぶして山越えしたら、どんなに大変だったか知れないのに、そんなことより、おいしいジュースが、もっと、もっと、うれしかったんだそうです。
2007.12.01
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母の実家の前の道路を隔てて、庄屋さんだった家があった。その家の中は、我が家よりもよほど広く、大きな土間が広がっていて、家の中に、弟が落っこちた深い池があったり、子供達が学校ごっこをした、すてきなガラス張りの温室もあった。そして、そのまた奥に小さな離れがあって、そこが、この家の長男さんの療養の家だった。 私達子供は、みんな彼が大好きで、「ひろきっちゃん」と呼んでいた。彼は、お坊ちゃまで育ったからか、昔の戦争の時、出征して、過酷な軍隊規律に耐えられず、心の病気になったのだった。 彼は、人形を創ることに明け暮れていた。窓からのぞくと、作った人形が、所狭しと、天井から釣り下げられているのが見えた。子供達は、時々ひろきっちゃんに人形をねだった。「あれ、ほしい~」というと、「あげられません、あげられません」と言いながら、かならず、とってくれるのだった。
2007.12.01
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疎開していた田舎での暮らしは、母はいつも開墾畑で一日中働いていたから、子供達は、いきおい、お婆ちゃんとの生活になっていたが、夜だけは、母の隣で眠ることができた。母と一緒に眠れるのは、姉2人と私の、女の子だけの特権だった。母は、毎晩お話をしてくれた。それは、童話だったり、母の作ったお話だったりするのだ。その中で、一番の人気は、母の創作の 「迷子の子ヒバリ」の話だ。それは、毎晩私たちが、繰り返し繰り返しねだったお話。ある日子ヒバリは、麦畑をお散歩に行ったの。でもね、迷子になってしまったの。おかあさ~~~んおかあさ~~~んと呼んだの。だけど、お母さんは見つからなかったの。おかあさ~~~ん、おかあさ~~~んと子ヒバリは何度も何度も呼んだの。でも、麦畑の麦の穂が、風にゆれてさらさらさらさら言うだけなの。さらさらさらさら言うだけなの。おかあさ~~~んおかあさ~~~んおか~~~~さ~~~~~ん子ヒバリは泣いたの。そして、母は、悲しい悲しい声で♪ お家忘れた子ヒバリは、広い畑の麦の中、母さんたずねて鳴いたけど、風に穂麦が鳴るばかり♪ の歌を歌うのでした。母の声は、少し震えていて、哀しい哀しいふし回しなのでした。すると、3人の娘たちは、母に取りすがって泣きじゃくったものです。私はあんなに悲しい物語は後にも先にも聞いたことがない。
2007.11.30
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1945年、母の田舎に疎開していたころ、土間からすぐ上がったところの部屋が、夏など田舎風に、障子で仕切られることのない部屋になっていて、そこで、みんなで食事をしていた。弟が、食事しながら眠ってしまうと、母は、抱っこして布団のある部屋に寝かせにいくのだった。それが私には、うらやましかった。4才のわたしも、母に抱っこされて布団に運んでもらいたかった。ある日、食事をしながら、眠たくなったふりをして、狸寝入りをしてみた。まだかな?まだかな?しばらく待っても抱っこしてくれない。幼い私は、そのうち、本当に眠ってしまった。真夜中だった、ふと目がさめて、あたりをうかがうと、何か様子が変だ。床がざらざらしている。真っ暗な中、「おか~~~ちゃ~~ん」何度も呼んだ。お婆ちゃんが来て、小さな電気を点け、「おやおや落ちたのねぇ」私は、食事した場所で、そのまま布団を掛けられていたのだ。ころころ転がって、土間に落ちて、目が覚めたのだった。私の小さな作戦は、再び行使されることはなかった。
2007.11.30
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戦時下、父が出征し、私たち母子は東京を去って、母の実家に疎開していた。 お婆ちゃんの家は、広く、子供達は、2階の倉庫になっている ひろい部屋で時々遊んだ。そこには、梅干し用の樽がたくさん おいてあって、空っぽの樽に入ってかくれんぼをしたりした。 樽のなかには、まだ、梅干しが残っているのもあった。何十年経った 物か知らないが、それは、全部、かりかりに固まって塩が吹いていた。 遠くから、薬として、もらいに来る人もいた。まだ、お爺ちゃんが 生きていたころ作った物だから、当時わたしが3才だったとしても、もう、 かれこれ、30年以上は、ゆうに越えた梅干しだった。遊びながら、 時々塩で固まった梅を食べた。薬の様な味がした。 その他に、一度ものぞいたことがない2階があった。 なぜ、行けなかったかと言うと、そこには、階段がなかった。 外からも、そんな部屋があるということは、ぜんぜん分からない 部屋の作りになっていた。ナチの目をくぐって暮らす、ユダヤ人の隠れ家に ちょうどいいといったものだ。そこは、昔、お上の目を盗んで、 こっそり酒を造る為の部屋だったそうだ。はしごを掛けて登ったら、 すぐにはずして、2階の部屋は、隠すようになっていたのだ。 母の昔話しでは、(大正時代だが、)母の姉と、兄が 大げんかをした次ぎの日から 、姉の大切なお琴が消えた。いったいどこにあるのか、だれも長くみつけることが出来なかった。兄は、隠し部屋にこっそり 隠して知らん顔をしていたのだ。が、ある日、また、そっと出してあったと。
2007.11.29
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中学2年生の頃だった、そのころ、山の上にあった我が家の窓から眼下に広がる町をながめるといつも気になる家があった。ちょっとした丘があって、その家は建っていた。うっそうとした木々に囲まれて、赤い屋根と白い壁は、空想をかきたてるに充分だった。 そう、あの家には、きっと足の悪い少年が車いすに座って、いつも窓から外をながめているの。寂しくて、お友達もいないの。いつも空をみて、小鳥とお話するだけ。かわいそうな少年… 私はその自作の物語に浸りきった。そうだ、今日はその少年に話しかけに行ってみよう!と思い詰めた。 さっそくひとりで、山をおりて、その家のある丘に登った。ぐんぐん近づいた。家のまわりは木々が茂り、垣根も高く、中は何も見えなかったが、勇気をだして少年に会おうと思った。 と、突然だった!わんわんわんわわわわわわわん!!!!!!! 大きな犬が垣根越しに吠え立てた!! 垣根のちょっとした隙間から首を出して牙をむいている。 今にも飛びださんかまえだ。 私はびっくりして一目散に逃げて帰った。 夢は終わった。 少女だった私の空想は、何かに触発されての物かな?と考えてみましたらありましたね~~~~! 1955年フランス映画「我が青春のマリアンヌ」 これだ!
2007.11.25
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楽天に戻ってきました。どうぞよろしく!
2007.11.24
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