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電車の中で本を読んでいたら、あまりにもおかしくて、ひとりでへらへらわらってしまった。すると、私の前に立っていた高校生の男女6.7人がさーーーっと、向こうに移動した。それから、まもなく、本に感動して、涙が吹き出てきた。老眼鏡を外して、涙を拭き、続けて読もうとしたところ、向こうに移動した、高校生たちの、ひそひそ声が耳に入った。「今度は、泣いてるよ~」「ひゃひゃひゃ~」すると、ひとりの男の子が、「喜怒哀楽があって、いいじゃん」」と、言ったのが聞こえて、また、ひとりで笑ってしまった。気味の悪い婆さんだね!気をつけなくちゃ、若者に嫌われますよね!
2008.02.17
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数年前、すってきなレストランに一度連れて行ってもらった。葡萄畑の中に建つ、まるで、フランスの田舎の我が家といったつくり。テラス風の内部の3方が全部ガラスドアになっていて、ガラス天井の内部に 、ぶどうが這わせてあり、巨峰がたわわに、実って、たくさんぶらさがっていたのです。丁度、秋の一日で、巨峰は、熟し、おいしそうな香りを放っていました。お茶をのんでいますと、 ぽとり ひとつぶの巨峰の粒が私のおさらに落ちました。 すてき!!感激しました。 それからというものは、あんな家に住みたいなあ~と夢みています。でも、私は、残念ながら蜂アレルギーで、2匹の蜂に一度に刺されたら命があぶないと医者に言われているからちょっとダメかな?あの、甘い香りに吸い寄せられて、蜂がぶんぶん飛んでくるから。 ♪朱鷺子殺すに刃物はいらぬ 蜂の2匹もいればよい♪残念だわ!
2008.02.16
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去年の夏でした。お隣の保育園から、毎日、毎日 夏祭りの太鼓のお稽古の音がドンドコドンドコ終日鳴っている。 最近の太鼓の音の取り方って、自分たちの子供の頃とずいぶん違う。 タントコどっこい すっチョン すっチョン すっチョン と、 女の先生が、リズムをとって声をからして叫んでいる。 子供達は、先生の声に合わせて太鼓をたたく。 ここで、問題発生である!!!!! タントコどっこい では、どこで太鼓をたたくか??だ。 昔の我々なら、タンで、打つと思うのよ、しかし、 タンとこどっこいの、コイのところで打つのよ~~!!!! それから、すっチョンの部分では、すっ、で、打たないで、 チョンで打つのよ~~~!!!! こういう時代になってしまいました。 日本のリズムは最初に主音が来て次ぎに従が来ます。あの酒席での、手拍子の要領ですよね?日本古来のリズムも、今風に変化してきているのに気付いて 驚愕しました。昔の流行歌は、外国のだって、言葉がわかりやすくてメロディーに乗れました。今は、前の言葉と次ぎの言葉の頭がくっついたような歌い方になっていて、言葉が崩れて、わかりにくい。たとえば、日本の流行歌でさえ、ミスチルの、"しるし"では、ゆっくりの曲だから、私にも、比較的わかりやすいから例にすると、♪最初から こうなることが 決まってたみたいに♪と、歌う時、昔なら、言葉のとぎれが、そのままリズムに乗って歌われたものなのに、さ~~いしょか~~~らこなるこ~~とがきまて~た~~み~~たいに~~♪と、歌う、だから、いしょか らこなるこ とがきまて たいに というふうに、言葉が変なところで切られてる上に、前と後ろがくっついて、わけが分からない言葉になってしまう。よ~~く聞かないと、意味不明。我々、婆さんには、全く歌えない。 涙 激流 逆噴射 滂沱
2008.02.16
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私の誕生日に息子が初任給でプレゼントしてくれたテレコが、壊れた。若い人に、テレコと言ったら「それって、何ですか?」だと~!「テープレコーダのことよ!」「へ===?」へ~もないもんだ。さっそく、大型電気店に。もう、カセットデッキなんかどこにも置いて無かった。でも、昔のテープも聞きたいし。やっと、テープもCDもMDも 聴けるデッキをみつけ購入。ある年に、渋谷のLOFTのレコード売り場に行ったら、CD売り場と化していて、レコードなんか、ただの一枚も置いてなかったことを思い出す。ついでに、私が小学校3年の時、駅に行ったら、少し前までずら~~~~~~~り!と並んでいた人力車が、タクシー(昔は、ハイヤーと、言った)に代わっていて、ただの一台も人力車が無かったのが、不思議だった。時々、小さな歴史の転換期に居合わせる。20世紀と21世紀をまたがって生きてる私達。たくさんのエポックメイキングな時を過ごしているような気がする。
2008.02.16
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昔は、優雅なベッドカバーを掛けて室内を麗しくしてみたいと思うこともあったが、長年使っているのは、黒と白の太い縞々柄 のデザインと、10センチ角のチェッカーズフラッグ柄である。いかにも男の子の部屋だぞ、という色気のないものに決めて久しい。ある日、ビデオが故障して電気屋の兄ちゃんが修理に来てくれたと思いねえ。お兄ちゃんは 、修理の後で、直ったかどうか確かめるから、何かテープを貸してくださいと言う。私はそこらにあったテープを渡す。そこにはたまたま、岩下志麻さんの、「心中天網島 」が録画されていたんだね。すると、丁度、ベッドシーンというか、あられもないシーンが延々と出てきて、それを私達二人は狭い寝室でじっと観るはめになったと、思いねえ。そんな時、部屋のベッドカバーがピンクの花柄だったりしたらどうよ。いくら、お婆さんでも、相手は、男性。 (気味悪いですよね~~~?) え?どちらが?ですか?って!? うるさいわねぇ!だから、それからは、黒と白の太い縞々柄とか、チェックの柄になったってわけ。
2008.02.15
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朝、鏡にむかっていると、テレビでは、加賀まりこがインタビューを受けている。私も、若い頃、加賀まりこが 大~~い好きだった。あの、自由奔放さが、まぶしかった。あこがれだった。加賀まりこは、色んな男性遍歴を重ねたが、63才になって、とうとう生涯を共に生きていく男性に、出会ったようだった。「いつまでも、一緒にいられる二人でいたい」と、言う。ようやく、63才の年齢になって、孤独に、気が付いたのであろう。いつまでも、一緒にいられる二人でいるには、お互いが、わがままな心を乗り越えないとできない事である。若い頃は、小悪魔と呼ばれ、和製ブリジッド・バルドウと呼ばれ、小生意気で、気が強く、才能に溢れ、個性的で可愛く、美しく、その奔放な態度を愛でられ、その人を食った物言いを愛された。後ろ盾も大きく、お金はうじゃうじゃ持っていたから、おもいきり我が儘をしても、ちやほやされて、面白がられて、楽しく生きて行けたが、年をとったら、ひとりぼっちは、やっぱりさみしい。われわれ庶民は、一旦結婚したら、「いつまでも、一緒にいられるように」真摯に努力して暮らすのは、自明の理である。私の父は、まっしぐらに自分の道を走る明治の男だった。母は、「二人の、めざすものが、同じだったから、どんな夫婦の難関にも、がっちり手を携えてがんばれた」 と、言っていた。私が可愛がってる羊歯の鉢植えは、両手を広げてもあまりある大きな植物に育った。毎日それを見て、まるで、ジャングルのようだわ!ステキステキ!と喜んでいた。それを、ある朝、夫様が、切り刻んでほんの一握りの大きさにしてくれました。(手のひらサイズ)「だって、葉っぱに虫がついて、枯れるかもしれなかったよ。すごく、すっきりしてあげたから、もう、大丈夫だよ~~」と満足そう~~に言われても、10分ほどは、口を聞きたくないな~~と、思った私。が、私の剣幕に、しょんぼりした夫の様子をみると、すぐに、気をとりなおして、もとのやさしい私に戻ったじゃんか? やい加賀まりこ!くやしかったらやってみな! だはは...涙 (笑)
2008.02.14
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長女は、こころのきれいな貧しい男性と結婚した。初めて、我が家に夫婦で遊びに来てくれたとき、おみやげは、<からすみ>だった。からすみは、1つ、6千円もするから、驚いて、貧乏人がこんなものをはりこむなんて、無駄なことをするものだと思い、また、その気持ちがもったいなくて、あだやおろそかには食することができないなと思ったので、何か記念日に食べようと、大切に、その日が来るのを待っていた。ある日とうとうその日が訪れた。めったに顔を出さない夫の兄が、我が家を突然訪問したのだ。冷蔵庫の奥深く眠っていた<からすみ>が、陽の目をみた。ででででも~、カビがはえていて、ちょっとかじってみたら、とんでもない味!食べられるような味ではなかった。嗚呼!!長男は、心の美しい、貧しい娘と結婚した。母ひとり娘ひとりで、ニューヨークで健気に生きて来たのだ。ある日、初めて我が家に妻を連れて長男が帰省した。おみやげは、<フォワグラ>の缶詰だった。こんな上等の物をおみやげにするなんて!もったいない!と、思い、また、その気持ちがありがたくて、あだやおろそかに食べられないぞと思い、冷蔵庫の奥深くしまった。ある日、引っ越しをすることになって、冷蔵庫内を点検した。あの、フォアグラが出てきた。賞味期限を3年過ぎていた。誰にも言えず、そっと捨てた。子供達よ!ごめんなさ~~~~~~~~~~~~い!!!!貧乏人の上に貧乏性の私、子供達のまごころを頂き損ねるの巻でした。涙
2008.02.14
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母は、晩年は、姉の看病に捧げ切っていたが、すでに、母自身の体も弱ってきていたので、母を引き取って一緒に暮らしたいと、私は考えていた。何度か、一緒に暮らす練習をしてもらったことがある。病気入院中の母の退院の日を待って迎に行き、車で、我が家に連れて帰った。楽しく過ごしていたが、ある日、母が風邪をひいてしまった。風邪をひくとすぐ肺炎になる母なので、急いで夜間で診てもらい、即入院。その夜は部屋が無いので、ICUの部屋に入れられた。朝、会いに行くと、熱の中「ここの看護婦さんは、皆、ドイツ語で話すのよ~、つらいわ、早く、部屋を変えてもらってね」と訴える。初めての地方の言葉にとまどったのかな?と思ったが、ちょっと違う。毎日毎日、「帰りたい」と、訴える。良く良く聞いていると、帰りたい場所は、生まれ故郷のことだと分かった。大変だ==!母が呆けてる==!私はあせった。すぐにかかりつけの病院に帰らなくちゃ、このままだと母はダメになる。「今は、退院させられません!何があっても責任取りませんよ!!」という、医師の言葉を背に、母を、車に寝かせて、夫とともに、走って走って走って走って5時間を走り抜いて、母の行きつけの病院に送り込んだ。後日、母が、笑いながら話してくれたことは、あの日、夜中に目が覚めたので、ここは、どこだろう?と、思って、見回わしてみて、ベッドを下り、廊下を歩いた。「あ===!ここは、私のいつもの病院じゃないか==!!!」と、忽然として正気にもどったそうだ。そして、母は、すっかり健康を取り戻した。それ以後、私は、母と暮らすのを断念した。
2008.02.13
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2008.02.12
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母は、人間としての正しい生き方をひたすら求めていたから、ふらふらと恋愛遊戯に傾くことは、あまりなかったようだ。その頃の女学生たちは、着物の半襟だけには、お洒落の限りを尽くす。絞りだったり、刺繍だったり、縮緬だったり、染めだったり。(半襟というのは、着物の中に着る長襦袢の飾り衿のこと)ところが、母は、呉服商のむすめだったにもかかわらず、いつも、無味乾燥な黒の半襟をしていたそうだ。クラスは、軟派と、硬派に別れていて、彼女は硬派のボスだった。登校すると、「薫子さん~、ほらぁ~恋文よ~」などと見せびらかしにくる軟派の娘もいたが、「ふん」 と思っていたそうだ。結婚してから、今で言う、ボランティアの奉仕活動に明け暮れていたが、町の有力者夫人が、ひらひらと現れて「あら~ご苦労様~~薫子さん大変ね~」と、言うだけなのを、苦々しく思った母。いきなり、「ご苦労様とおっしゃるなら、少し、活動なさったらどうですか?」とどなりつけてしまったそうだ。それが、とんでもない大騒ぎに発展して、責任者がすっ飛んできて、ひどくひどく叱られた。昭和7年頃の世の中は、まだまだ封建思想が強い時代だった。若い女が、町の有力者夫人を負かしてはいけなかった。さすが強気の母も、しょんぼりしていると、お爺さんが近づいてきて、「薫子さん、あのな、世の中は、正しいから良い、正しくないから悪いというものではないんだよ、人は、特に女性は、周りから愛される人間じゃなくちゃ協力者が得られないんだよ」と言われたと。母は、目からうろこが落ちた。ああ、今まで、真実の生き方、正しい生き方が、一番すばらしいと思いこんで生きてきたが、人から愛されることが、正しさより上だなんてことは、知らなかった、と。そう気が付いた母は、その日から、お化粧をし始め、お洒落をしたり、女性らしいやさしい表現を試みたりするようになったそうだ。私の知る母は、いつもいつもお洒落だった。身だしなみを整えて死に向かった。
2008.02.12
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母は、毎日、自分に問いかける生活をしているうちに、何がこの世で一番尊いか?どんな生活をしたら満足か?と考えて、"結局 、人が生きるということは、自分自身の生活そのものを一生懸命生きて、ずっと後で、ああそうだったのかと思うものではないか"と思い至ったのでした。そうしたら、芸術家こそ、真の生き方かもしれないと思い始めていたけど、普通の生き方も、捨てたものではないかもしれない、と思うと同時に、芸術家の友人達が、心の底で、急に色あせた様だった。それから、自分は何がしたいのかな?とじっと考えると、心の中から、結婚を望んでいる自分がいることに目ざめたのです。苦労している母を幸せにしてあげたいと、そればかり思っていたのに、反対に心配ばかりかけていたことにも思い至ったのでした。自分が結婚することこそ、母が一番喜んでくれることだったと。不思議なことに、結婚しようと、決心した次の日に、お見合いのお話が来て、すぐに、結婚の運びとなったと言う。めでたし、めでたし。この母の話を聞いたのも、私が50才に近いころでした。ブログを書いてみて、私が結婚を決めた時と、ちょっと似通っているところがあるのに、気がつきました。
2008.02.12
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毎年この時期に名刺の新しいのをつくるのですが、8年も使ったプリンター (EPSON 3300C)が、遂におしゃかになった。それで、早速、新しい(EPSON PM-G860)を入れた。そしたら、5枚くらいプリントしたところで、印刷ができなくなる。おかしい。もういちど、プリンターの、CDをいれなおしてみるが、だめであった。電気屋さんへ電話を入れて、プリンターをかかえて行く。電気屋さんでは、調子よく、動く。(生意気な、プリンターだこと!)そんなことで、一日中電気屋さんにいた。帰ってきてから、ふと、新しいプリンターばかりに気をとられていたが、まてよ?もういちど、名刺のソフトを入れ直してみようと思った。じゃじゃ~~~ん!すごい!プリンターが、スムーズに動きました~~~!!ばんざ~~~い!皆様も、あたらしいハードウエアを入れた時には、お気を付けくださいね!
2008.02.11
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もし、生まれ変われるものなら、どんな人になりたいか?一昨年、弟と、メールで盛り上がったことがあった。で、私は、ボンジョビみたいになりたい。私は、歌が大好きなのに、なんと!地声は、ソの音までしか出ません。しかも、声が悪い。しかも、低音も出ない。しかも、リズム感も悪い。少し、音程もはずれるらしい。あああ、だったら何か楽器を弾けるようになったらよかったのに、生来の怠け者で、何事も続かないのだ。でも、歌は大好きだから、いつも何か鼻歌を歌っている。歌手になって、人を楽しませたり、癒したり、元気を与えたり、感動を与えることができたら、どんなにうれしいだろう!私は生まれ変われるものなら、ボンジョビのようにヘビメタで、がんがん歌いまくって、でっかい音を響かせて、ニューヨークの、ど真ん中で騒ぎたい。すると、すぐ下の弟は、僕は、ローリング・ストーンズに入れてもらうんだと言う。だから、今頃は、ミック・ジャガー と一緒に世界を歌いながらツアーしてると思うんだ、などと言う。どちらも、趣味がアホらしい。66才になっても、何ひとつ、人生の悟りの境地に至らない兄弟ではある。 一人で、近所にお買い物に行く時は、毎回、一番好きな、イーグルスの、<ホテルカリホルニア>を聴きながら運転する。たいてい、一つの歌が終わらないうちに到着してしまうから他のアーティストの歌は、ぜんぜん聴けない。46年一緒にいる夫は、お互いに、自分の趣味は、尊重しあっているから、私の趣味について、夫から、反対されたり、揶揄されたりは全くないが、私が、夫の趣味を熟知しているのにくらべて、夫は、いまだに私の好きな歌をひとつも知らないと思う。 たぶん。私が、グラミー賞のイベントが好きだということは、知っているみたい。まあ、お互い様の部分もある。毎日、一緒に食事をしながら365日46年間も夫の趣味の囲碁将棋を観つづけてきたが、ひとつもルールを覚えない私。何故か?そこだけ、脳の働きが欠落しているようだ。
2008.02.11
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他の娘さんのように、平凡に嫁にいくのをためらった母の、新しい友人とは、冒険をたくさんしたという。地方の田舎町に、ひとりの洋画家が住んでいた。外国の絵に大きな興味を抱き、アトリエにおじゃましたそうだ。絵の具の匂いの満ちた広い部屋に、暗い絵のキャンバスが、置いてあった。そこに、いろんな絵描きさんや、小説家などが集まって、わいわいと、絵のこと、文学のこと芸術の話しに花が咲くのだった。母と友人は、珍しくて、楽しくて、面白くて、わくわくし、でも、こわごわいっしょにいたそうだ。モデルをしているという女性の経営する喫茶店に行って、コーヒーを飲んだりもしたと。仲間たちがお酒をのみながら、芸術の話しをしだすと、終わりが来ず、とうとう夜になってしまうこともあり、時々、そのアトリエに置いてあったベッドに、友人と泊まらせてもらったりしていたそうだ。その母が77才のころ、その友人が、はるばるたずねて来た。私は、ふたりを静かな喫茶店にいざなった。二人は時を越えて少女に還ったようだった。手をしっかり握りあって、声をそろえて、ちいさな声で、ドイツ語の歌を歌い始めた。映画の挿入歌だったのか?私はただただ驚いて、二人に見入った。いつも明るい母は、鼻歌をよく歌ってはいたが、ドイツ語の歌を披露したのは、それが最初だった。ひょっとして、デートリッヒの歌だったかもしれない。ああ、あの歌を、もう一度聞きたいと思う。そして、誰の何の歌だったのかを、知りたい。そうすれば、もう一度、母に逢えるかもしれない。
2008.02.10
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母は、女学校と専攻科を卒業して家に帰って来てみたら、まわりの友人達が、皆、嫁入り前の大人になっていた。母は、結婚という、型通りの人生に身を置くのをためらった。もっともっと人生には何かがあるのではないかと、考えていたそうだ。そのころ新しくひとりの友人が出来た。学生気分の抜けない2人は、非常に気があって、2人で、いつも何かを探っていた。大正時代と言っても、田舎ではまだまだ女性の自由はなかった。ある日二人は、近くの街の、工場の隣に飲食店をみつけた、入って行くと、「あんたたち、工場の娘?」勇気を出して、「酒と、刺身!」と言ってみた。案外すっと口から出た。一度こう言ってみたかったのだそうだ。2人で、お酒とお刺身を食べて、店を出ると、「こわかったあ~~!」と、友人は言った。次の朝、目が覚めて、昨日はお酒を飲んだから、不良になったかな?お酒を飲む前の自分と、今の自分は、変わったかな?と、思ったが、どこも変わってないじゃないか~と思ったりもしたのよ。と、母がおちゃめに話してくれたのは、私が大人になって、分別のついた45才くらいの時だ。ってゆうか、その頃、たまたま近所に住んで、母の家に毎日世話などしに行けたから、母の昔話のお相手ができたのだ。
2008.02.09
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母は、女学校の寄宿舎に入った時、自分が読んで感動した、外国の小説のような、女子寮を夢見た。自分が入寮したからには、ぜったい、すてきな女子寮にしたかった。入ったばっかりで、彼女ははりきっていた。いろんなアイデアを出して、彼女が理想とする外国のような雰囲気にしたかった。ある日、構内で、3年生のお姉様方に取り囲まれた。その中の、背のすらりとした美しい上級生が、「薫子さん。あんたって、えらいんだってねえ」と。その目は、冷たく光っていたそうだ。それでも母は、ぜんぜん意に介さず、心の理想をちゃくちゃくと築くことに明け暮れた。母は、73才くらいになって、初めて同窓会に行った。そのころは、父の看病ばかりであったから、母は絶対に行かないと言い張った。それまでも一度も行ったことがなかったけれどたまたま、そのことを私達姉妹が知って、どうしても母を同窓会に行かせたいと、強く思った。それで、姉妹が順番に父を看病し、母に少し長く旅をしてもらった。それは、彼女が同窓会に出席した、最初で、最後になった。その旅で母は、2つ年下の懐かしい友人に、出合った。母は、こころはずんで、うれしく、聞いた。「ねえ、あの頃、私達が寮長だったころが一番よかったでしょ?」ひとこと、「怖かった」と。
2008.02.09
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家の大黒柱を失って、お婆ちゃんは必死で働いていたから 私の母は、子供の頃、子供用の絵本とか、おもちゃなどは 与えられなかった。だから、かたっぱしから兄の本や、大人の本を 読みあさった。そのころ流行の文学は片っ端から読んだ。 ちょっと成長してからの愛読書は中央公論。新聞を隅から隅まで 読んでいた。兄の友人が集まると、口角泡を飛ばす激論になったが いつも、母もその中にあって、誰にも負けない論客だったそうだ。 母は、大学に行きたかった。 でも、お婆ちゃんは、とても母をたよりにしていた。 家中で、たよりになるのは、母だけだったのだ。 だから行けなかった。 母の無念を知ったのは、私が相当のおばさんになってからだ。 母の気持ちをもうちょっと早く、学生時代にでも知っていたら、 もう少し、ましな人間になったかもしれない。 親の心子知らずだ。 いやいや、いやいや、やはりこんなもんなんだろう。 人間の生くる道は、わからないものですよね。私は、母に学問を与えてあげたかったと思う。 母は、結婚以来、一度も本を読んだことがなかった。 捨てていたんだと思う。私は見たことがない。 ある日、短歌の勉強会の30名くらいが どうしても思い出せない短歌があって、みんなが困っていたそうだ。 ところが、お茶出しのお手伝いに来ていた母には、 すぐに分かって、こそっと、教えたと言っていました。それなのに、私は、ろくろく本を読んでいなくて、申し訳ない娘です。
2008.02.08
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昔からよくげっぷをする。娘が「そんなに下品な人は外国にはいけませんよ」とよく怒る。娘が怖いから、げっぷをしないようにしようと注意してるのに、つい「げっぷ!」とやってしまっては、(あ、今の、叱られる~)と娘を恐れる。娘が結婚していなくなってからも、ずっとその繰り返しだ。この間、お休みで遊びに来た時も、さんざん叱られた。「貴女が怖いから、注意してるのよ~」と言うと、「げっぷをした後で、びくびくするふりをするだけよね~」と、言われる。見抜き見透しだ。私の母は、ひどいげっぷの女王だった。普段、家の外では、おすましなのだが 、ひとたび私と二人だけになると、「うぐぐげ=!」と、すさまじい。「私のげっぷは、だれにも負けないわよ」と母はブラックジョークをかまして、得々としている。入れ歯のカタカタいう音もすごい。普段は何にも音をさせないのだが、例によって私と二人きりになるとカタッカタッ カタッカタッと音をたて、「こんな音は、貴女にはできないでしょお?」と、ブラックにかましてくるのだった。
2008.02.07
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高校生の頃、人に頼まれて、ゴルフ場のバイトをちょっとした。アルバイト料が、1万円そのまま手つかずにあった。卒業するとき、母に日頃の感謝を込めて、全部あげた。数日後、母は真っ白なレースのブラウスを着て、「ありがとう!これを買ったのよ!」とうれしそうに私に告げ、くるりとターンして見せた。わたしは、びっくりした。私の高校時代の感覚は、まだまだ古く、母親像というものは、三益愛子さんの演じる母子物の映画に出てくるような、自分がひもじくても食べず、子供にだけは食べさす母とか、母が亡くなった後に引き出しの中から、あの時のお金がそっと娘の名前で貯金してあったとか、そういう昔風の、古い女の図が、常識だった。ほんとうに、ぶったまげた。母は、現代的な、新しい女だった。
2008.02.07
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母の晩年、母は、あたらしいマンションに引っ越すことになった。ちょうど、姉の看病に疲れて、母も、入院中だったので、私は、たった一人で、一ヶ月間で母の家の引っ越しをした。あまりにも大変だったので、最後には脳みそが動かなくなった。思えば新品のやたら上質の塗りのお椀も、高価で新品の印傅のバッグも無感動で、ぽんぽん捨てたし、一度、手伝いに来てくれた嫁が「あっ!私がプレゼントしたばっかりのコーヒーメーカーを!」と言って、拾い上げても、知っちゃあいねえよ~!という具合だった。疲れはてて、正常には判断できなくなっていたのだ。母のアルバムの入った大きな茶箱5箱を全部捨てた2日後の夜。病院で、母がぽつんと、「夏子が死んだら、あの写真を使ってね」と言った。私は、明るく「うん」と、即答したものの、内心、どきりとしていた。あの写真というのは、夏子姉さんが、まだ、元気だったころ、何を思ったか、友人と、「私が死んだ時に使う写真を撮るのよ~~」と言ってはるばる飛行機に乗って、えらく遠い有名な写真館に写真を撮ってもらいに行ったことがあった。その直後夏子は、車の事故で、植物になった。それで、母はその時の写真のことを、私に、頼んだのだ。母の大切なものを全部捨てた私は、この写真すらも捨てたとは、母に言えなかった。夜中に友人に電話で打ち明けると、一緒に探しにゴミ集積所に行ってあげると言ってくれた。どんなに時間がかかっても、探しだすぞと決心していた。懐中電灯を持って、ものすごい量のゴミ集積場に行った私達。すさまじいゴミのどこにそれはあるのか?夢中で探した。あった!!!信じられない話しだが、それは、短時間で見つかった!何故か、写真のところに、体も目も手も行ったのだ。こういうのを奇跡というのかな?母をこれ以上悲しませたくないという一心が、奇跡を生んだのではないかと思う。あの写真は、今も、姉と共に、眠っている。
2008.02.06
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母の亡くなる3年前だった。長男が、(私の兄)新しいマンションに引っ越すことになった。体の弱ってきた母も、長男と同居を決めたので、私が、母の家を片付けに行った。80数年間の荷物の山は、これからの生活スペースに納まらない。新しい、たった3畳の倉庫に入る物は限られる。気丈な母は「見ればおしみがかかる、見ない間に全部捨てよ」と私に処分をまかせた。夫に1ヶ月くらいの期間をもらって、一人で母の荷物を何もかも捨てる判断をした。両親の思い出の写真が大きな茶箱に5個。全部捨てた。長年お稽古した花器類が100個以上あったし、茶道具もしかりだ。父があんなに大切にしていた壁面いっぱいの書籍も一冊も残さず捨てた。和服だけは、母の命だったから、母の気持ちを汲んで、お世話になった人にすべて送った。始めは、トラック2台分を、お金を出して捨てたが、後は、私も力尽きて、家と共に壊して一緒に捨ててもらった。 自分は、精神的にも、体力的にも、あまりにもつらかったから、ひとつの教訓を得た。(自分が死んでから子供達に迷惑のかからないよう、まだ元気なうちに身辺をかたずけて、シンプルにしておかないといけないぞ)ということだ。 その後、自分自身もばりばり捨てた。私はまだまだ元気いっぱいのお婆ちゃんなのだが、今しかないだろう。先日も歩きすぎて、4日後に膝が激痛を起こした。いつ、動けない体になるやも知れない。荷物を片付ける為にはちょうど良い年代なのだ。 私は、顔に似合わずお裁縫が大好きだ。いつもあちこちで買い求めた美しい布裂たちは、同じ趣味の女性にあげた。すごく大きな段ボール5箱もあったなぁ。 60年間集めたファッションアクセサリー、全部婦人会のバザーに寄付。さっぱりした。 それでも、なかなか捨てられないものもあってねえ...さりとて、お墓に持っていける訳も無し...子供達に迷惑のかからない程度には、無に近づけたいと思う今日このごろだ。
2008.02.06
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父の世話に明け暮れ、母が一人でがんばって暮らしていた頃の事。母は、何でもおおざっぱな人で、たとえば卵を買うにしても、段ボールに一箱買う。私達娘が、「こんなに買ってどうするの?」と、詰め寄っても、どこ吹く風だ。彼女には彼女の言い分があった。母は、病んだ夫の世話で疲れ切っていたし、買い物に行くチャンスもあまりない。「買えるときにたくさん買っておかないと、飢え死にしないとも限らない」と、言うのだ。その頃、たまたま近所に引っ越しして来ていた私は、どんな時でも母の呼び出しには、真っ先に駆けつける親孝行?な、娘だったんだけど、母のおおざっぱな感覚には反映しなかったようだ。その頃の、我が家の子供達のセリフ、「お婆ちゃんのところで出されるものには注意しないといけないよ、何十年前の物だか分からないからね」まあ、冗談だけど。ある日、母の庭にある倉庫に入ったら、草原だった。何だろう?よくよく見ると、箱の中のジャガイモが育って倉庫の中を蔓が占拠してしまって...
2008.02.05
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1960年頃、母がふと、大粒の真珠の指輪がほしいな~と、つぶやいた。それを耳にして、心の中で、母にきっと買ってあげようと心に決めた。でも、数年して、両親が、ハワイに行くこととなり、友人一同から、すてきに大きな粒の真珠を頂いたと、知らされたので、私の親孝行の目標が無くなっていた。母が、80才の頃だった、つれづれに昔、母の友人が持っていたという黒の真珠の指輪の話になって、そのデザインは、篭のような物に黒真珠が、収まっているところが、すてきだったという事を、私に言った。その時、いつまでもお洒落な母の目が、夢みている様だったので、よし、いつか母にそんな黒い真珠の指輪を買ってあげよう、とまた、心に目標ができたので、うれしかった。ある日、友人にそんな話をふと、漏らしたところ、知り合いの質流れ品を扱う業者さんに聞いてくれたらしい。そういう、親孝行な気持ちに感激したから、大きな黒の真珠をダイアが取り巻いている上等があるから30万円で、どう?と言ってきたので、見もしないですぐ買って、母にプレゼントした。おそらく200万円以上すると思われる。でっかい体格のアラブの金持ちがしそうな、その豪華な指輪は、母の細いしなびた指には、大きすぎて、派手過ぎて、全く、似合わなかった。私は、しまった!!という気持ちは否めなかった。母の指には、何も飾りの無い、ぽつんとひとつぶの真珠がよかった。おそらくは母も、私も、そう思ったが、二人とも口には出さなかった。
2008.02.04
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姪が婚約をした時のこと。相手の男性は、いわゆる3高で、目から鼻にぬける男子。その上性格は、温かく、皆の人気者で、仲間のリーダーだった。私の次女が、結婚の相手を探しているときには、そんなステキな男子を紹介してくれなかった親類をうらめしくさえ思ったくらいだ。幸せな結婚式。ところが、しばらくして、二人がうまく行ってない様だとのうわさ。姪の母親が心配して、私の母に何度か相談に来ていたが、若い人は、なかなか親の言うことは聞かないもので、どうしても別れるというのだった。私の母は、頼りになる女性だったので、ふたりをもとの鞘に戻してやって欲しい、これが最後と、姪の母親は、頼み込んで来た。母は、二人を呼んだ。山のように、悪口を言い合う二人。別れる決心は、固かった。ところが、母は、お別れパーティーをしましょうと言った。最後においしいものを取って、飲みましょうというのだ。両家の皆さんは、皆、驚いたが、母がぽんとお金を出したので、成り行きで、では、飲みましょうということになった。二人は目も合わさず、はしっこと、はしっこに別れて座った。そして、数時間。飲みつかれて、姪の母などは、その場で、座布団を枕に、うたた寝をし、皆さんも、三々五々帰って行った。母も、疲れてベッドに入った。ところが、真夜中、二人が私の母を起こして、もう一度やりなおすと告げたのだ。姪の母は、それを知らずに、起きあがって、「じゃあ、駅まで、送っていくね~ 」と、ねぼけ声で言った。ほんとうに、誰もが、狐につままれたようだった。一体何が起きたのか?皆が酔いつぶれたころ、二人はもう一度話し合ったのだそうだ。今は、かわいい子供も授かり、仲良く暮らしている。あの時、母は、「こういう時は、ごちそうを食べるといいのよ」と、目くばせしてみせた。母が、私に教えてくれた事、たとえば、人に何かを送るとき、「そこに、ちょっとお菓子なんかを一緒に入れること。そうすると、心も、目も、口もうれしいのよ」と。私は、今もそれを実行している。 出来ない時もあるけど。
2008.02.04
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22才の時、初めてのお産。長女を授かった。お産婆さんが、私のそばに赤ちゃんを寝かしてくれた時、「え~~??本当にあたしが産んだの~~?」という感覚、信じられない気分で、わが子を見ている自分がいた。次の子が生まれた時は、「あら~~可愛いいなぁ~~~~~」と感じた。3人目が出来た時は、お腹のなかにいる時から、なんだかしら、可愛くて、可愛くて仕方がなかった。女性は、母性本能があるといえども、最初から慈愛に充ち満ちているわけではない。少しずつ、母性は、成長するものだと思った。まあ、私が、若すぎたからかもしれないが。 長女は、遠くに嫁に行って、初めて赤ちゃんを授かった時、しばらくして電話がかかってきた。上司の奥さんが時々、手伝いにきてくれるというのだ。「あたしの赤ちゃんなのに、自分の赤ちゃんみたいに、やたらにかわいがってるのよぅ~いやだわ~ 盗られそう~」などと言うので、うれしかった。(娘は私より、ずっと母性が成熟してる。だって最初から赤ちゃんが可愛いくてたまらないのだもの)私は、いつも、だれかが手伝ってくれたり、赤ちゃんを抱いてくれたりしたら、ほっとしていただけ。
2008.01.30
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夫の父親が75才の誕生日のころは、私達の一番輝かしい時代だった。親孝行をしたいと思い、夫の両親や、妹達を呼び式典をした。そして、蟹料理のお店に行き、蟹づくしのお料理でお祝いをした。それから、皆を引き連れて四国に小旅行をした。小豆島から、高知、徳島などを回った。義父は80才で亡くなったんだから、その5年前だ。ちょっと、元気は無かったと思う。しかし、私達は若くて元気いっぱいだったから、父を車椅子に乗せ、どこどこまでも引っ張っていった。ある宿で、食事中に父は、「くるしい=」と言って、倒れた。食べ物が喉に詰まったのだ。みんなで背中をさすったりしていると、「ああ、楽になりました。ありがとう」と言って息を吹き返した。それから、両親と、1ヶ月ほど一緒に暮らした。父はそのとき、少し太った。あちこちに連れて行っても、あまり、うれしそうではなかった。父は、体が辛かったのだったが、私達は、あまりにも若くて元気だったから、父の体が、辛いという感じが、あまりつかめていなかった。仕方がない。親孝行したいとき、義父は、もう、弱っていたんだ。今の夫よりも若かったのに、何と!年取って見えたことか!
2008.01.30
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30代ともなり、世間のおつきあいのような事もありほんの少し、お茶のお稽古に通った。初めての大先生のお稽古をいただいた時だった。お茶の道具を、入口において、「不点前で、お薄をさしあげます」と、元気よくご挨拶をする。すぐに、先生のクレームがついた。「あのね、この小さな茶室に丁度よい声を出しなさい」と。目からうろこが落ちた。子供の頃から、いつも先生には、「貴女は、いつも、はきはきと、大きな声で、すばらしい」と褒められ続けて来た私。大きな声を出すのは、最もよい事だと信じて疑いを知らなかった。この茶室に丁度よい声。それは、本当の大人への第一歩だったように思う。周りに調和するありかたを教えられた瞬間だった。(ずいぶん遅いが)でも、未だにKYの女で、ずびばぜん~
2008.01.29
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ある、地方に住んでいたころ、我が家の子供達が順番に水疱瘡になって、 ついに幼稚園児の長男が罹った。心配していた日の朝、発疹が出た。 その朝は、長男が卒園記念発表会の日で、トリの演目の、大切な劇の主役だったのだ。 青くなった。もし、出演したら、みんなに移る。潜伏期間をへて、みんなにぶつが出るのは、丁度卒園式の頃だ。卒園式に出られない児童が出る。困った。 でも、出演をしなかったら、このトリの劇を一番たのしみに待っている 皆様に申し訳がたたない。全く!よくよく酷い目に遭う運命の私だ。担任の先生に電話をかけた。 若い先生は泣くように叫んだ。「私は、聞かなかったことにしてください!」と。 そして、家で、劇の扮装をさせて、出番ぎりぎりのところで、 さっと息子を裏門から連れて行き、出演して、また、さっと連れて帰る。 こういう手はずを懇願された。 わたしは、どっちにしろご迷惑をかけるんだから、先生の仰るとおりにすることに決めた。劇は、大成功だった。それでも、卒園までは、「誰にも病気が移りませんよう」と、神に祈るのだった。 卒園式の当日、園児たちは、みんな元気であらわれた。よかった! 長男の結婚相手の役で、長男と手をつないでダンスをした赤いほっぺのぶさいくな女の子も、王子様が本当に愛する恋人役をしたかわいい色白の女の子も 元気であらわれた。セーフ!!
2008.01.29
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私は、長い間、周りの人からちやほやされてきたので、 いつも、 自分が中心で、何事も回っていたような気がしていた。 結婚して、子供が2人いた時でさえ、それは、変わらなかった。 ある年、 私、28才の時だ。 私の所属していたあるサークルに独身の若い女性が入ってきた。その娘は、不細工な子だったが、せっせとがんばる明るい娘だった。 私は、ある日、唐突に 「あ、そうだ、これからは、若い娘を立てて、可愛がって行かなくちゃ~」と、思った。 それで、何でもその娘を中心に言葉をかけ、引き立てるように行動してみたら、 私以外の皆さんは、もう、とっくに、あたりまえに、自然に、 その娘さんを一番注目していたことに気が付いた。自分が一番若くて、ちやほやされる身分ではなかったことに やっと気が付いた私だった。 おめでたいね? 若い女の子から発するオーラは、 計り知れないものがあるということを学んだ瞬間だった。 べつに、そのことで、苦労したとか、いやな思いをしたとか、 そんなことは全く無かったが、 私にとって、若い女の子と、お局様との、 境目の瞬間を自覚した大事件だった。 それは、私自身の心の中だけの発見であって、 だからどうだというものではないが、 それ以後の、私の人生において、 自分が中心になってちやほやされる気分を、 自分自身に卒業させた。 ほろにがい感覚ではあった。 その後の暮らしでは、若い人を大切に大切にしている生き方だけだ。 もちろん、今では、周りは若い人ばっかりだけど…と、書こうとして、考えたら、みんな、お年寄りばっかりで、私が面倒みて元気づけてあげてるかんじなのね… なはははは…
2008.01.28
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たった一人、私にはライバルがいた。いや、私は、ライバルなんていなかった誰も、意識なんてしなかった。一人ですっくと、生きていた。と、思いたかったが、じっと、心の中をのぞくと、残念だが、彼女はライバルだったと認めないわけには、いかない。その娘は、転校生だった。育ちの良さそうな、品の良い美人の姉妹だった。妹は、かわいい美人で、私の同級生の姉のほうが、大人っぽい美形だった。二人は、目立って、たちまち取り巻きができた。実は、私は、いつもいつもでは無いが、まあ大抵は、一匹狼だった。人が、煩わしくて、うっとうしくて、みんなで、がやがやと心を合わせて物事をするのが、嫌いだったのだ。誰かが「一緒にしましょう?」と、誘ってくるのがいやだった。さっと、ひと目に触れないように、身をひるがえして行動し、食堂に行くのも一人でさっと行って、食べてしまい、誰かに、「一緒に教室にかえりましょ?」と、声をかけられたら、いやだなと、内心思うのだった。ところが、その転校生は、がやがやとみんなで、行動し、ちやほやされるのを楽しんでいるのだ。「低次元に、友人をはべらせて、何だろう?」と、その頃の私には理解できなかった。しかも、きゃぴきゃぴ遊んでいるのに、成績は、上位なのだった。ある日、何だったか忘れたが、私が、彼女のご機嫌をそこねたらしい。取り巻きの連中が、私をにらみながら、聞こえよがしに私に文句を言っているので分かったのだ。もとよりそんなことは、自分の本心であるはずもなかったので、すぐに、私は一通の手紙を書いた。誤解がとけ、それっきり手下の矛先は、収まった。25年前に電話で、話しをするチャンスがあった時、彼女が「あのころ、貴女とは、気持ちのずれがあったけど、今、うれしい言葉を掛けてくれて、ほっとした」と、言ったので、私のことを、ライバルと思っていたらしいことが分かった。いやいや、本当を言えば、自分は、全部彼女に負けていたんだが、歯牙にもかけていないふりをしていただけだ。 彼女が銀行家の跡継ぎのハンサムな遊び人と恋愛結婚して、離婚後、また、40才のころ、年下の男と再婚し、また、別れたことを、最近知った。
2008.01.20
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高校3年生になると、私は、急に、受験する体勢になった。こうなると、何でも夢中に突っ走る私だから。性格の上に大変化が起きた。私は、元々つるんで行動するのが嫌いだったから、この癖は、3年生で強く発揮され始めた。常に、一匹狼だった。人が、煩わしくて、めんどうくさかった。誰かが「一緒にしましょう?」と、誘ってくるのもいやだった。私は、自分の思い通りに、やりたいことを、ばりばりっと、あっという間にしたかったから、おしゃべりなんか、やってられなかった。しかし、友人は、私のそういった性質を理解していなかった。特に、中のひとりAちゃんは、変に私にひっつき回っていた。私は、どうやって彼女に、みつからないように、一人になろうかとあれこれがんばる日々だった。彼女が結婚して、外国で長く暮らし、帰国したとき、有志が、同窓会を開いたが、たまたま私は行けなかった。友人が電話してきた。「Aちゃんが、言ってたわよ~、あのころ、貴女に嫌われても嫌われても、ひっつき回って嫌がられてた~~って!」う~~む、言葉が出なかった。私が嫌がっていたことは、分かっていたんだな~~と。なら、どうしてほっといてくれなかったのかな~~?と。でも、ずいぶん傷つけてしまったらしいのだ。彼女を。私はただ、ひとりでいたかっただけで、何もいじわるな言葉を言ったり、したりは、しなかった。でも、あの頃、悲しそうな目をして、私をじっと見た。あの目。どんな人も温かく包んであげることの出来なかった私。私は、彼女に、何と言ったら許されるのか分からないけれど、簡単なハガキを一枚出した。「大人になって、苦労したから、私も少しは丸くなったのよ」と。でも、返事はこなかった。いつかは、逢う時もあるかもしれないが…
2008.01.20
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Yさんは、社長の娘で、体が大きく、私のクラスの女の子の中では、一番知能指数が高く、130くらいもあったが、何故か、高校時代は、めだたない少女で、能力を発揮しているとは思えなかった。おっとりして、おとなしく、やさしく、ピアノが上手で、良き母親になるタイプに見えた。大人になって、りっぱな家の跡取り息子で、真面目な好青年と結婚したのだが、数年たっても子供に恵まれなかった。舅から、やいのやいのと責められ、辛がっていたそうだ。そうこうしているうちに、夫とも、うまくいかなくなった。すると、彼女は態度を豹変させたという。気にいらぬ時は、夜、夫の部下を数人連れて、「行くよ=」と、飲みに行ってしまう姐さんのようだったそうだ。絶対に、そんな女性になるはずはなかった娘だったのに。何がそうさせたのか?うわさでは、離婚後、働きながら、常に彼女の味方だった華道の先生をしている叔母さんに、一生懸命つくしていたが、その先生も最近亡くなったそうだ。今、どうしているのだろう?クラス会にも顔を出さないが。別れた夫は、再婚したが、やはり子供は授からなかったらしい。
2008.01.20
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私がモダンダンスクラブを閉鎖に追い込んだ張本人かもしれない。ある日、女の子達の為に体育の女教師が赴任してきた。その先生は、ソフィストケイトな、すってきな人だった。特別な美人ではないのだが、背筋が、すくっとのび、髪は、茶色に染めてベリーショート。お化粧した唇は、そのころの女は皆、同じように赤い口紅を付けていたものだが、何と!彼女は、白っぽいベージュ色の口紅だった。そして、ぷんっと胸を張って、首をくいっと立て、スカート!これがすごかった!まだ流行直前だった、落下傘の様にぱっとふくれたパニエ入りのスカートをはいて、さっそうと現れたのだ。およそ、高校教師という範疇にないような、かっこよさ!その上、宝塚の男役のような、さっぱりした動きと、物言い。我がじゃがいも軍団は、よってたかって、新しいクラブ「モダンダンスクラブ」に我も我もと、どどどどっと入った。クラブ活動では、先生のかっこいいおへその見える体操服姿をまねするやら、皆、喜々として楽しんでいた。私は、体操クラブには、属していなかったが、普段の体育の時間も、とても自由に、遊ばせてくれた。皆、心から、先生が、大好きだったし、あこがれた。ある日、「もう、みなさんこのまま食堂に行っていいです」とランニング後の現地解散をさせてくれた先生。皆、きゃあ~~っと、うれしがった。たまたま私が、日誌の当番だったので、このことを、書いた。それが、問題になったらしい。どんな時も、体操が終わったら、教室に帰って一礼する習わしをしなかったからだ。先生は学校を去ることになった。大人になってから、それを昔のある先生に聞いたら、君のせいじゃないよ。それよりも、いろいろあったからだよ。と、慰めてくれたが、あの直後は、モダンダンスクラブ員から、当分の間、睨み付けられた。今だったら、ぼこぼこにされていたかもしれない。 あ~~昔で助かった~!
2008.01.19
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Mちゃんは、医学博士の娘として生まれた。生まれると同時に母親が亡くなった。父は、この子が不憫だった。しかし、3人の優秀な兄と姉がいたから、常にMちゃんは守られて、可愛がられ、大切にされていた。Mちゃんは泣き虫だった。Mちゃんと私が知り合った高校生の頃も、すぐ泣きべそをかいて、友人から顰蹙をかっていた。高校2年の時、父も亡くなった。ところが、父亡き後、急に人が変わった。ものすごく強くなって、バレーボールクラブのリーダーになり、下級生を連れて、恐いくらいに肩で風を切って、校内をのし歩いていた。卒業して、何年も過ぎたある日、出逢ったときは、センスの良いお洒落をして、きれいな娘に成長していた。Mちゃんのお姉さんは、学校一、頭が良くてきれいな女生徒だったが、センスの上で、Mちゃんに負けていた。それに、Mちゃんの方が背が高くすらっとしていたし、女の子は、卒業すると、センスが良い人は、特に美しくなるものだなぁ!と感心した。彼女は、やさしい男性と恋愛結婚し、クラス会に来て、姑さんとうまく行かないとこぼしていたが、今は、平凡にしあわせだ。
2008.01.19
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私のクラスに、すらりと背の高い、色白の、美しい女性徒がひとりいた。鼻は優しく通り、目は子リスの様、眉も、うっすらと形よく、口紅もぬっていないのに、ぷくっとしたやわらかそうな、ピンクの唇もかわいかった。恋人でもないのに、ある男生徒から切手帳をプレゼントされた。その男の子が、小さなころから、ずっと長い間収集した、宝物の切手帳だったのに、「ふ~~んありがと~」の言葉をあげただけだった。そんな彼女だったが、親が冷たくて、一緒にいたくないと言っては、時々、私にぐちをこぼした。お互いに、大学生だったころは、度々私の部屋に泊まって、長く話をした。私が、<結婚したら、絶対良い妻になるし、良い母親になるつもりだ>と、言うと、さもさもびっくりしたように、自分には、そんな自信は無い、結婚には夢がないと言うので、こちらの方が、驚いたものだ。その後、ステキな彼ができて、しあわせな結婚をしたかと思ったが家庭内では、暴力男に変貌したそうだ。クラス会で、出合ったとき、タバコの火を押しつけられた痕を私に見せて、別れたと言った。今は、ひとりで暮らしている。美人なのに愛されない人生だったけど、一生は長い。これからしあわせをつかんでほしい。どんな形かは、わからないが。
2008.01.18
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1957年私は高1だった。一人の美しい上級生がおられた。おられたなどと言いたいほど、美しいお姉様だ。真っ白な肌。鼻筋は高く通り、唇は、やさしげ、目は涼しく、スラリとした肢体。日本人離れした、くびれたウエスト林間学校などに行けば、一緒のお風呂に入る私達じゃがいも軍団は、ただただ驚嘆するばかりの形の良い真っ白なお尻。おっぱいときたら、アホ女子高生の私達でも見とれるくらい、たわわにゆれて、しかも、大きすぎず、ぶっくりした田舎のおばさん風でなく、さっくりとした形状。彼女は笑ったことがなかった。と、思う。私は見たことがない。髪をたらして、いつも静かにいた。制服でない場合、あのころはまだ、自分の服などは、すべて自分で縫って着るという時代だったから、夏になると、ぐんと胸の開いた谷間のみえみえのワンピースを縫い、虫も殺さぬ顔で着ておられた。私たち、じゃがいも軍団は「ほほ~~~」と口を開けて見るしかない。だれも、彼女に、いちゃもんをつける元気はなかった。ある林間学校の夕べだった。希望者だけで、人数は、それほど多くはなかったが、先生達のお説教の時間が終わってみると、彼女がいなかったことが判明。ざわざわと広間がゆれた。すると、どこからともなくす~と現れた。先生が「どこへ行ってたんですか?」と詰問。皆、固唾をのんだ。「星 みてました」と、鈴を振るような声で悪びれることもなく言い放った。主任の先生以下、だ~~れも何にも言えなかった。
2008.01.18
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次の時間の始まる前、ちょとした生徒間の会議があって、自分の意見が聞いてもらえなかった私は、やけに腹が立った。つい、若気の至り、「#######!!!」と、大声を挙げた時、丁度先生が教室に入って来られた。先生はすぐに「朱鷺子!立ってろ!」と命令を下した。しまった!と、思いながら、私はごそごそ立つしかなかった。しかし、こういう事件は未だかつて身に起きたことが無かった私は、面目まるつぶれのいやな気分。この教師は、とんでもない堅物だった。頭の中は、まっ四角で、心は、岩石だった。この上なく融通がきかない、石部金吉だったから、自分の運命が見えていた。ふつうの教師だったら、日頃お利口ちゃんの私だと分かれば、「おや、おかんむりですね?」などと軽くうけながしてくれただろうに…たとえ、最悪立たされたところで、すぐに、「もう、よし、座りなさい、あまり大声を出しては品性が疑われますよ」くらいのひと言で済んだはずだった。でも、彼は、正しいことしか頭にない男だ。1時間くらい平気で立たせているであろう。私はプライドが傷つきまくった。恥ずかしさをごまかす為に、すぐに、一枚の紙を廻した。そこに、「私が悪いことをしたと思う人は、ひと言書いてください。生徒を立たせたら、解決すると思いますか?」などと書いて、こそっと廻したのだ。皆、いろいろばかなことを書き、紙は、教師の目を盗んで次ぎ次ぎと、廻された。しかし長くはつづかなかった。一番前の席のSさんがいねむりをしていたのだ。紙は、机から離れ、ふわり~っと、先生の前の床におちた。万事窮す。私は職員室によばれて絞られた。
2008.01.18
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高校一年生の時は、男女の混ざった教室だった。担任は、学校一の大男、橋本先生だった。彼は癇癪もちだった。そのガタイのままにひとたび怒るとびりびりと空気が震えた。その上、やたら頭がいいので、理詰めで、やっつけられる。誰も彼に敵う者はいなかった。ある日、彼は、下校前のホームルームの時間に、どすどすと怒りながら入って来た。「こうこう、こう言ったのは、誰だ=!!」 皆、しんとする。「言った者が分かるまで帰さないぞ=!!」 と、たたみかける。私は、内心、これは、大変だと思う。この分では、何かが起こるかも知れない。これは、ひとつ、私が人身御供になるしかないかな?理由は、3つあった。1)とことん行き詰まってから、犯人が出た時、何が起こるか 分からない恐ろしさがあった。2)たとえ、私が言ったことになったとしても、たいして ダメージを受ける内容では、なかった。3)私の兄は、先生の大学の後輩だったし、年は離れていたが ちょっとした知り合いだったから、私が犯人なら矛先が、鈍って、 先生の癇癪が治まるかもしれない。私は賭けに出た。すっと立ち上がって、「私です。すみませんでした」と言った。予想的中~~~~~~~~!何となく、先生は静まってお帰り時間となった。 めでたし、めでたし。
2008.01.17
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チビで、ふとっちょのY 先生がいた。我が高校を退職され、後に大学教授になられたので、本当はりっぱな先生だったらしいのだが、そのころの私には偉大さは分からなかった。Y先生は、変わった面白い先生だった。 私たちは、その不思議に先生らしからぬ 不埒な態度が好きだった。 ある日、学校全体で、ハイキングをした。 のろのろ歩いていると、Y先生が 私を振り返って、 ニヤリとしながら上着の内ポケットから、小さなウイスキー入れを取り出して、「ほら」という感じで、わたしに見せびらかした。 そんなやんちゃ坊主の、愛すべき先生だった。 今時そんな先生はいないだろうな~。Y先生は、50才くらいで(私には、そう見えた)いやいや、30代だったかも知れない。謎?何故か独身だった。こともあろうに、私たちクラスの西本さんに惚れていた。それは、端から見ていても涙ぐましいアプローチを繰り返していたが彼女は、涼しい顔。あたりまえだ。西本さんは、めだたない、おとなしい、無口、笑わない、何を考えているのか分からない少女だった。ところが、驚いたことに、彼女は、おじさんキラーだったのだ。私たちじゃがいも軍団にはとうていわからないフェロモンが出ているらしい。それが分かったのは、ある日、私と二人で歩いているときだった。私たち生徒の絶大なる信頼をよせられている、かなりの年配の男性教師が、近づいてきて、後にも先にも聞いたことが無い、彼が作ったであろう可愛らしいニックネームで彼女に呼びかけた。私は、あまりにも驚いたので、(おお==!!△△よ、お前も殺られたのか~~?)と、内心うなずいた。彼女はあたりまえのような涼しい顔をして、受け答えするのだった。で、Y先生は、いくら好きでも、たった一人を特別扱いはできない。だから、しょっちゅう、西本さんと友人2・3名を一緒に、色んな名目で呼んで、連れ歩いた。わたしも、ダシにされて、2度ほど、NHK見学とかに行って、その後は、おいしいトンカツのご馳走にあずかった。おいしい物が何にも無い時代だったのにね。 今頃になって、クラス会に行くと、 あの頃は、しょっちゅうY先生の家にまねかれて、「ご馳走を食べていたのよね~~~」などとふとどきなことを2.3人が口走っている。全員が、共犯者だ。 くそ=!私を抜きにしてぇ~? (そこに、反応する?)汗
2008.01.17
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高校1年だった。私たちの数学の先生は 東大の数学科を出た、やたら優秀な先生だった。 私たち勉強ぎらいのアホには、もったいなかった。 ある日の授業に、先生は、うっかり4次元の世界のお話をした。 やった~~! それからの授業の始まりには、私たちは一斉に、 「せんせ~~い!4次元の世界の話しをしてくださ~~~い!!」 シュプレヒコ~ル。全員でやるのだ。 先生はとまどいながら、少しする。 私たちは、授業が進まないのでうれしい。 でも、すぐに、先生は私たちのたくらみを見破った。 毎回のシュプレヒコ~ルをじっと聞いた後、知らん顔をして 授業を進める先生。 負けました。
2008.01.17
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1957年頃は、高校2年生。教職員の先生方きってのハンサムといえばまあ、2人ほどいたが、 その中で、ギリシャ風の容貌の、人当たりのいい、穏やかなやさしい郷先生。その郷先生を心から慕う、女教師、前原先生がいた。美人で、やさしくて、私たちにもとっても人気の女性だった。あまりにも、前原先生が郷先生に恋こがれているので、 私たちまで、みんな、前原先生が郷先生と結ばれることを応援していた。 ところがある日大騒ぎ!郷先生が別の女教師中島先生と婚約したと言うのだ。中島先生は、前原先生と、タイプが正反対。強くて、はきはきして、美人でなかったし。 みんなで、嘆いたものよ。ど~~~して~~~~~???? なぜなの~~~~~~???ああ、このやさしい美人の前原先生は、これからどうなるの? とうとう退職していく前原先生の後ろ姿を、みんなで、さびしく見送った。
2008.01.16
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大学の夏休み。高校時代の友人3人くらいで遊んだ帰りに、ちょっと用事があって、知人の家に立ち寄った。裏庭で、この家の主人と立ち話をしている男がいた。初めて遇ったその男は、品のない小男で、がに股、太陽を浴びて赤銅色の顔をしていた。そして、知人の妻の言葉から、その男が、あの、高校時代のあこがれの<○○高校の宮様>の父親だと言うことを知った。私は、内心、非常に驚いて、しばらくして家を辞したところで、帰る男に何気なく挨拶し、話しかけた。そして、牛山くんの様子をちょっと聞いた。大学に行っているらしい。私が、彼は、高校時代、宮様と呼ばれていたことを告げるとにやりとして、一部歯のぬけた口を開いた。「あんた、うちの息子にほれてたんだな?」と瞬間に、ずばりと見破られた。動物的カンだろう。ちょっとあわてたが、知らないふりをした。父と息子は、全く似ても似つかなかった。しかし、よくみれば、野卑た顔の中にも、鼻筋の通ったところ、眉毛がきりりとしているところ、が、やはり、親子だということを、匂わせていたし、根は、素朴な男らしい。しかし、父親の職業は、世間では、あまり大きな声で口に出せない、ある種の仕事をなりわいとしていた。ひとり息子の牛山君は、その後、聖職についたそうだ。
2008.01.16
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中学卒業の時、 私はもう、2度と、絶対に、だれも好きにはならない 心の中に、橘君がいるから… と思って入学した高校だったが。 すぐに、ひとりの上級生が、目に入った。 成績は、学年で5本の指に入り、知的で、真面目そうな、りりしい雰囲気。無口だけど、やさしそうな眼差し。清潔そうな服装。 おっとりした、品の良い仕草。清らかで、すっきりとした立ち姿。もの静かな行動。「OO高校の宮様」というあだ名の牛山さんだった。私は、橘くんのように、半分大人のような、がさつな男の子を何故好きだったのか、全く忘れた。 彼が属するコーラス部にすぐに籍を置いた私。 でも、 一度も話しをしたことは無かった。 一度も目も合わせたことも無かった。 ただ、 彼の通る、通り道を知って、そこを自分も歩けば、 たまにすれ違うことがあるかもしれないと、 その一瞬の出会いを夢見た。 どきどきしながら、どきどきしながらあこがれ、 どきどきしながら歩いただけ。 たま~~~~に、出逢っても、すれ違う時は、うつむいて小走りになってしまった。彼が、卒業して行った時、何を、どう思ったのかは、 全く覚えていない。 おかしいなあ… こんな大事件を忘れるなんてね??
2008.01.16
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高校のバスケットクラブには、ちょこっと行った。背が高くて、林のような男の子達と一緒に、バスケットの練習をした私だったが、一度も男の子と話をしたことがないまま卒業した。3年になって、受験勉強が忙しくなったらクラブどころじゃなくなったしね。卒業後、あれは、26才くらいの頃だったか、バスケットクラブの3人の青年がふらりと会いにきてくれた。私は、小さな長男の手を引いて、立ち話。ほんの数分だったが、楽しくおしゃべりをして別れたのだ。遠い地方に引っ越ししていた私に、その中の一人の青年が亡くなったと風のたよりがあった。が、忘れて過ごしていた。36才くらいの時、彼が住んでいた街を通りかかりふと、お墓にお参りしようと思ったので、家を訪ねた。初めてあった母親は、喜んで案内してくれた。お墓の前で二人で冥福を祈った後、まるで、70才を過ぎたようにも見える、老いた母親が、遠い目をして語ったことは、驚愕に値した。母親は、若い頃、夫が、裏切りをしたと言う。こともあろうに、同居していた、実の妹に手をだした。大きな家であったが、妻妾同居という3重の苦しみに、身も心もずたずただった。が誰にも言えず、ただただがまんして暮らして行くしかなかった。息子が成長するにつけ、彼も、それを知ることとなったが、息子も家の恥を、誰にも言えず、工場の跡取りでは、出ていくことも叶わず苦しんだ。母親の辛さを見るにつけ、父ともうまく行かなくなり、生活が荒んで、とうとう、倉で、自死したのだと言う。何故、私に告白されたのかは、わからない。息子の昔の学友であり、過ぎ去って行くだけの人間だから、母親も、気持ちがふと、ゆるんだのかも知れないし、一度くらい胸の中に閉じこめた秘密を話して、楽になりたかったのかもしれない。
2008.01.15
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1957年高1の頃ある朝、職員室から、わ====っと 大声で泣きながら、上級生のMさんが走り出てきた。 先生に叱られたのだ。 廊下を、ばたばたと走りながら泣いて、 校内に聞こえるほどの大声で 「何故~?何故~~?どうして~?? どうして先生を好きになってはいけないの~~!!???」 と、天に届けとばかり泣くのだった。 Mさんは国語の先生が好きになってしまったのだ。 こんなにも、烈しい恋があるのか?と 私たち下級生は、びっくりして、教室のドアから 首をのぞかせてMさんをうかがった。
2008.01.15
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高校の美術クラブの頃、公園の子供たちの遊具に絵を描くよう、要請されて、描くことになった。大きなトンネルがトタン板で、新しく作られていたので、トンネルの外表面と、内部を、かわいい絵で飾る、と言うアイデアだ。で、内部は、水族館のように、お魚などを描く。外は、たのしい模様を描く、ということで、ある一日を部員10人ほどが、ペンキや、ブラシを持って意気揚々とでかけた。だんだん興に乗ってきて、ついにブラシを捨てて、手の平で、えいやっと描き始めた時だった。私と、同級生の山川君が「痛い!!」と、同時に叫んだ。トタンの板の継ぎ目が、鋭くナイフのようになっていたのに気づかなかった。同時に同じ右手の人差し指をさっくりと切り、二人は右手を上に挙げたかっこうで、車も無い時代、歩いて、お医者さんに行くという、なさけない目にあった。ふたりで、とぼとぼ歩くと、暑い夏の陽射しが私と山川君の陰をじりじりと焼き、汗がぽたぽたぽたぽた落ちたのを昨日の事の様に思い出す。次の日、朝の早くから、公園管理者から、クレームの電話が先生に入った。私達は急いで見に行った。なんと!ペンキが全部たれて、絵が流れ、どろどろの、世にも汚いトンネルになっていた。今のペンキはすぐ乾くけど、昔のペンキは垂れちゃうのだ。懐かしいあの頃のことは、忘れない。山川君が亡くなったのを知らされたのは、昨年だ。奥さんや、かわいい子供達を残して、先に旅立つなんて…この、エピソードを山川君に捧げる。
2008.01.15
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artクラブ美術の先生は、東京芸大の彫刻科を出た優秀な先生。私達じゃがいも軍団には、もったいない事でした。先生は、芸大時代に描いた、素描(木炭デッサン)をアトリエの壁に飾っておられた。それは、「闘志」という名前の石膏で、頭の斜め後ろ側から描いてあった。デッサンを描かせる時の先生の口癖は「頭の後ろを描きなさい」だった。私達は、面白くもない後ろの頭なんか、絶対、描きたくなかったから、一度も描かなかった。どんなきっかけがあったか忘れたが、45才くらいになって、ある日、お炊事をしてた時、突然自分の誤解に気が付いて、笑ってしまった。それは、先生の口癖についての誤解だ。紙という物は、縦横の2次元の平面だ。だから、そこに、立体を描くのには、無理がある。だから、その平面に立体をかくにあたり、前の顔だけでなく、その後ろ側の頭部の存在が感じられる様に、立体的に描けということだったんだ!後ろむきの頭を描けとおっしゃったのではなかったのだ。先生の<闘士>のデッサンが、たまたま頭の後ろ側から描かれていたので、先生の言葉を、すっかり間違えて聞いてしまったのだ。(あほや~)
2008.01.14
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セーラー服の着こなし私が高校入学した1957年のセーラー服のスカートの裾丈は3年生の真面目なお姉様方は、下から10センチくらいだった。今のお笑い番組に出てる、やっくんとか言うかわいい顔した男の子のスケバン風のスカート丈がそうだ。で、2年生の方々は、そんなのダサイと言い、自分たちは、下から20センチくらいが、一番かっこいいと思っているらしかった。私達、1年生は、最初はおとなしくしていたが、やがてお姉様方は、ダサイわ!ということになって、膝小僧が隠れるか、隠れないか、すれすれの丈になった。セーラー服のスカーフの結び方も流行があった。昔は、スカーフは、絹と決まっていた。私達の子供のころは、セーラーカラーの後ろに三角の部分が結構出てスカーフは肩から少しはみだし、ふうわりと前でやさしく結び、リボンの先が、ウエスト位置まで、たくさんふんわりとたらすのがよかった。私達の高校生のころは、後ろ側の三角は、5センチくらい出す、肩にははみ出さない。前は、ウエストまで、垂らす。私が35才頃、学校を訪れた時は、驚いたことに、スカーフは、後ろ側のセーラーカラーの下には、ぜんぜん出さず、前の垂れるところは、きちんと折ってたった3センチほど、ちょろりとだして、残りが出てこないよう、縫い込んでいた。それが一番かっこいいのだそうだ。セーラー服の着こなしも、時代時代で流転するのだ。現在は、母校の制服がセーラー服でなくなった。涙
2008.01.14
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〈クラブその2〉 手芸クラブ、手芸クラブでは、先生がひとつの作品をお手本に、材料を配って、同じものを作らすのだが、私は、ぜんぜん違った物を作った。同じ素材だから、さほど違いは無かろうと思われるが、どういう訳か、同じ物は絶対作りたくなかった。私の作品を見ると、先生は、とっても困った顔をされて、どう言ったものかと思案顔で、「う、う~~ん、」とおっしゃるだけだった。 (あたりまえか~~ )先生が、最近の若者言葉だったら、「はぁ~?」だろうな。
2008.01.14
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私達の高校は、クラブ活動が自由だった。いくつ入っても良くて、どこをのぞいてもいいのだ。だから、3年間、私は、手芸クラブ、コーラスクラブ、バスケットクラブ、英会話クラブ、ARTクラブ と、5つも所属して、ふらふらふらふらあちこちに顔を出し何も自分の物に出来なかったが、楽しく暮らした。〈クラブその1〉 英会話クラブその頃はまだめずらしかったアメリカ人の男性教師。外人を身近に見ると、不思議で不思議でたまらなくて、いつも頭のてっぺんから足の先までじろじろみていた。あまり日本人になじみの無い水色のスーツをよく着てこられた。黒の細い細い紐を蝶々結びにし、たらりとたらして似合っていた。カフスボタンは、今思い出すと、ブラックオパールではなかったかと思うが、緑とブルーがきらきら光る、それはそれは見たこともない美しい宝石を、真っ白なぱりっとしたカフスにのぞかせているのだ。髪は、金髪で柔らかく、透き通るようなピンクの肌には、金髪のうぶ毛が逆光線で光っていた。一番不思議だったのは、そのブルーの瞳だ。私は、先生のブルーの瞳をじっとのぞく。のぞいてものぞいても何か、焦点が合わないのだ。どこどこまでも、吸い込まれそうで、私の目は、先生の目に、ぴたりと、とどまる位置が見つからなかった。時々先生が、私の顔の間近で、「わっ!」と、脅かす。あまり私がじ===っと見つめるから、うるさかったんだろうね。そういうことで、英会話は、何にも身に付かなかった。残念。
2008.01.13
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