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ナイト1960さん
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nana's7さんComments
こんにちは、今日は原爆がいかにして作られることになったかを検証したいと思います。
以下の内容はフリー百科辞典ウイキペディアによるものです。
1938年1月 ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンが原子核分裂を発見。
彼らはウラン235に衝撃を与えて分裂させることに成功した。
1939年1月 デンマークの物理学者ニール・ボーアがワシントンの学会で核分裂発見を発表。
1939年3月 米コロンビア大学でエンリコフェルメ(イタリアから亡命)、レオ・シラード(ハンガ
リー生まれでアメリカに亡命したユダヤ人物理学者)、ウオルター・ジン(ハンガ
リー物理学者)たちが核分裂実証実験に成功。
1939年頃 ドイツ国防軍は、ドイツと占領地区から非ユダヤ人系の物理学者を一人残らず
召集、原爆製造の可能性について討論した。この頃アメリカよりも核分裂理論
は進んでいた。
1939年8月 シラードはドイツがウランを使って新エネルギーを開発する恐れがあるとの指摘
した書簡を当時のアメリカ、ルーズベルト大統領に提出し、ウラン研究推進を勧告
します。その書簡にはアルベルト・アイシュタイン(ドイツ生まれのユダヤ系物理
学者で1940年にアメリカ国籍取得)の署名がありました。
1939年9月 ドイツ・ナチス政権下のドイツ国防軍兵器局の下で原爆開発の為の実験が試み
られるようになった。この時、ユダヤ系物理学者は追放または亡命しており、残
ったドイツ人学者で開発が進められた。(この時は大きな原子炉の製造は可能
でも爆撃機に搭載出来るような爆弾の開発は不可能だと見ていた)
1939年 ルーズベルト大統領は「シラード=アインシュタイン」の書簡に応えて「ウラン諮問
委員会」を設けたが、その報告は具体性に欠けており、大統領の注意を惹かなか
った.
1940年春 ナチスドイツは科学者達の要請により、ノルウエイにある世界最大の重水製造
工場を占領。これにより、中性子を減速させる為の重水素を製造可能となった。
1940年 デンマークの理論物理学者ニールス・ボーア(後にマンハッタン計画に携わった
ユダヤ人物理学者)によってドイツの核兵器開発の様子がアメリカに伝えられ、
各地の大学で核分裂の研究が一斉に始まった。
同年 ヒトラーのユダヤ人迫害から逃れた物理学者、オットー・フィリッシュ(オーストリア
出身のユダヤ系物理学者)とルドルフ・パイエルス(ドイツ生まれのイギリスのユダ
ヤ系物理学者)の二人は、ウラン235の核分裂連鎖反応の臨界量がわずか450
グラムほどでしかないことを計算で導き出した。これはすでに開発されているウラン
濃縮技術で原爆製造が可能だということを意味していた
1940年 フィリッシュとパイエルスはドイツが既にこのことを知っているのではないかと
考え、事態の緊急性をメモにしてイギリス政府に通報した。
第一メモ・・・「適当量のウラン235で非常に効果的な爆弾が構成出来るだろうという
結論に達した」
第2メモ・・・「もしかりにドイツ人がこの兵器を現在所持しているか、将来所持すると
仮定した場合、最も効果的な応戦は、同種の爆弾による対抗的脅威で
あろう。攻撃の為に爆弾を使用するつもりはなくても、出来る限り早く、
迅速に生産を始めることが重要だと私達には思える」
同年 イギリス政府はこのメモを重視して、物理学者を中心に原爆の詳細を検討する
「モード委員会」を作った。しかしイギリス政府は、戦費を賄うのに手いっぱいで
あり、またドイツの爆撃も激しくなったこともあって、アメリカにこの情報を提供し
共同で原爆開発を進めることになる。
同年 ルーズベルト大統領はこのモード委員会の報告書と先の「シラード=アインシュ
タインの書簡」により、原爆開発を決定した。
こうしてアメリカの原爆開発は始まりました。マンハッタン計画のスタートです。
次回は原爆完成に至るまでのの過程とそれに携わった物理学者達の苦悩を検証したい
と思います。
いつもクリックありがとうございます!またよろしくお願い致します。