2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
2006
2005
2004
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
唐津街道を行く(その3)商家が並ぶ赤間宿跡進取の気性、街に宿る編集委員 須貝道雄(58) 芦屋から次の宿場である赤間までは約20キロ。福岡教育大学が見えてくれば、もう赤間宿跡は近い。にわかに若い学生の姿が目につくようになる。 赤間宿跡のある宗像市は、かつて玄界灘を制した『宗像海人族』の本拠地でもあった。彼らは、九州沿岸から60キロの海上に浮かぶ沖ノ島を崇拝。潜水漁労を営み、航海術にたけていた。その歴史は宗像大社の神宝館でうかがい知ることができる。 沖ノ島では4世紀から10世紀にかけて、国家的な祭祀が執り行われた。戦後の遺跡調査で約8万点の奉献品が出土、すべて国宝に指定された。朝鮮半島の新羅からもたらされた金製指輪やササン朝ペルシャからの伝来品とみられるカットグラス破片。宗像族と国家的祭祀の関係に空想は膨らむ。 さて、赤間宿跡では、不動産業の出光良治さん(58)宅を訪ねた。築270年という古い商家の建物を唐津街道沿いに今も維持している。出光姓は赤間に多い。出光興産の創業者・出光佐三は当地出身で、生家が良治さん宅の向かい側。同じ出光でも直接の関係はない。良治さん宅は蛭子屋の屋号で江戸時代から商売をしていた。 「醤油の醸造から始まって、両替商や質屋、呉服商もした。幕末から明治にかけてが最も栄えましたね」。案内された座敷に、脇差を横に置いた老夫婦の絵が飾ってある。1863年に亡くなった9代目。裕福な商家の暮らしをほうふつさせる。しかし、その40年後に出光家は急速に没落する。 「失敗のもとは櫨蝋だったようです。福岡藩が奨励したが、みんな手を出して生産過剰になった」。櫨とはハゼノキで樹高が10メートルになる。実から、ろうそくの原料になる櫨がとれる。明かり需要が増えるに従い、櫨蝋は福岡藩最大の特産品になった。だが、明治という時代がそれを受け付けなかった。約50ヘクタールの田地を失い、自宅も半分売却、半分は人に貸した。 現在は売却した家も取り戻し落ち着いた生活だ。38年間教職を務めた伯母らの奮闘が大きかったという。数えて16代目の良治さんは九大を卒業。大阪で会社員となり、30歳で関西外大の大学院に入った。文化人類学の視点から出光家の研究をしようと考えた。 160年前に作成された家系図をもとに、結婚の形や本家・分家などについて修士論文を英文で執筆。日本語の蛭子屋物語を加えて自費出版したところ、米国議会図書館が購入するというおまけがちた。その後、教員資格をとり、高校の英語教師として地元で働いている。 「幸い、土地があったので福岡教育大学の学生向けにアパートの経営もしています」。40年前に移転してきた大学が赤間の大きな”財産”になっている。 赤間から約5キロ西に原町がある。旧唐津街道の休憩地だ。築150年以上とされる造り酒屋の家屋が、そば店になっている。5代目の真武伸好さん(33)が腕をふるう。営業マンだったが、趣味のそば打ちを生かして2年前に開業した。進取の気性を旧街道ははぐくんできたのだろうか。
2007年11月25日
コメント(4)