たぬきぶたの日記2
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3連休のど真ん中。なのに、どこにも行くあてがない。悩んだ挙句が、やっと見つかった。そうだ、C575号機に会いにいこう。近くなのに遠く感じる距離ですね。職場からも、よく行くスーパーからも、ちょっと足を伸ばせば行けるのに。場所は御立交通公園です。曇り空で撮影には好都合です。小雨が降ってきたけど、この程度は大丈夫。日曜日だが、天気が悪いので、お客さんは少ない。無料の駐車場にも簡単に入れた。20年前には子どもを連れてよくきた場所です。久しぶりに来て見ると、遊具がすすけている。 おっと、写真がでかすぎた。まあ、いいや。月に200円を払って、写真の容量を増やしていますから、気兼ねなくアップしましょう。遊具のペンキが薄くなっています。エアークッションのキリンさんも汚れていますねえ。動かなくなった遊具にカバーがかけられています。ちょっと寂しい感じです。なんせ、入場は無料です。乗り物券だけが有料です。わが子が小さい頃には、もっと賑わっていたのだが。C575号機との対面は何年ぶりだろう。かれこれ10年は経っているだろう。保存状態はどうかな?おや??? きれいです。というより、最近に塗装をしたみたいですね。バンバン写しました。雪よけを付けていたのですねえ。へぇ~~、知らなかった。しっかりとペンキが塗られています。それも、最近ですね。これでもかあ~、というぐらいにベタ塗りでした。まあ、野ざらしだからこのぐらいで丁度いいかな。おいおい、姫路機関区はないだろう。 と、思っていたら、あれまあ。その経歴を見てびっくりです。へぇ~~、その昔、姫路第1機関区に所属して、山陽本線を走っていたと。おいらが写した頃は、京都の梅小路機関区の花形エースとして君臨していましたから、てっきり、京都が長いのかな、と思っていた。こうして経歴をみると、なるほど、姫路に保存された訳がわかった。このSLの保存には姫路SL同好会の働きかけが大きかった。いちおう、その同好会の欄外においらも所属していたつもりでしたが、その経歴についてはよく調べていなかった。それに、過去に写しに来ているのに、その経歴を、じっくりと読んでいなかったというのも恥ずかしい。ごめんちゃい。この全文を載せたいところですが、長くなるし、今は根性がないので、後日にします。もう一枚、これで勘弁して~。梅小路機関区の花形として、活躍を終えて、僚機の39号機とともに、重連で山陽本線を臨時客車を牽引していた。この列車は何度か撮影したことがある。そのイベントが終わって数日後のことです。夜11時になると近くの踏み切りに出かけていた。その11時に和田山から来るC57をみると、その後の1週間の運用が分かるということを、夜な夜な記録していたおいらは発見した。機関区に行って聞けばいいのだが、そんな運用順序があることも知らなかったわけですから、それを発見したときは、嬉しかったのです。そして、夜ごとに踏み切りまででかける毎日でした。勉強していないのがバレますね。その夜も、いつものように踏み切りで通過するC57を確認した。「え~~~、まさか?」 我が目を疑うとはこのことです。「ウソだろう、え~、5番だったよな。」「まさか、まさか。」 でもどうしても信じられないおいらは、急いで家に帰り、自転車を機関区へ向けた。10分ぐらいで着いた。 機関区に戻っていたC57はやっぱり5号機だった。先週まで、山陽本線を走り、この姫路第1機関区で休憩していた、5号機が本務機としてここに休んでいる。感激というか、驚き桃の木山椒の木です。ただ、正面の形式入りナンバープレートは外され、かわりの出来たてほやほやの味気ない真鍮製のナンバーが残念だった。SLの顔ともいうべき正面のナンバープレートは値打ちがあった。とくに、戦前のものは幅が広い形式入りとして、希少価値だった。戦時中の金属供出で幅広の砲金製ナンバーは軍事用に転用された。その受難をどのようにかいくぐったかは知らないが、さすが一桁ナンバーは例外だったのだろうか。姫路機関区に来たときもこのプレートをアップで写しました。いずれ、出しますね。さすがに、これは外されてしまっていた。どこにあるのでしょうね。京都の梅小路にもなかった。誰が持っているんだ~~。というわけで、それ以降は5番、11番の人気SLが播但線で活躍することになった。あの夜のことは今もびっくり仰天の出来事として覚えている。もう少し写真を載せますね。昭和45年に鳥取県の後藤工場で全般検査を受けています。Gは後藤工場です。その後ろが何か?きっと鳥取県を表していると思うのだが・・・?北海道の苗穂工場はN・H でした。だけど、そうとはいえないイニシャルもあるのです。鷹取工場はT・K だったと思う。梅小路で見たのは違うのもあった。知っている人は教えてちょ~。子どもたちのにぎやかな声を聞きながら、ずっとそこにいるのです。昭和12年に製造されて、49年(1974年)に引退するまで、37年間の活躍だった。それから、35年経っている。保守をしている人たちも高齢になっているだろうなあ。いつまで、こうして手入れしてもらえるのだろう。我が子と遊んだ日々が懐かしい。そして、ばらばらになった家族が悲しい。雨が降ってきた。涙雨か。悲しい休日だった。
2009.11.22
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