2010/03/25
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○最近、聖書を読んでおられる方で真剣に救いを求めていると思われるある青年からこんなメールをいただきました。「私は救われて天国に行きたいのですが、良い行いをたくさんして善行を重ねると天国に行くことが出来るのですか?」というような内容のものです。今回はその青年と同じような疑問をお持ちの方もおられるかもしれませんので、この真面目なご質問にお答えいたします。私は、聖書に基づいてこのブログを書いていますので、このご質問に対しても聖書に基づいてお答えしたいと思います。

 多くの日本人は、もし天国と地獄があるなら(実際にあるのですが)、修業を積んで善行をたくさんした立派な人が天国に行き、悪行を行い、殺人、強盗、詐欺、誘拐などの極悪な犯罪を行った人が地獄に行くのだろうと漠然と考えているようですが、真実はそうではないのであります。聖書を読んでいる方の中にもそのような誤解をなさっておらっれる方が多いのも事実ですが、神のみことばである聖書は決してそのようには教えていないのです。人の考えと神のみ心とご計画は明らかに違うことが分かります。

 私が若い頃、道を歩いていたら、自転車に乗った二人の外国人(白人)に呼び止められ、一枚の紙切れを渡され、たどたどしい日本語で何か話してくれたことがありました。あとでその紙切れをよく見ると、それには絵が描いてあり、その絵というのは、一人の男性が小船に乗り、二本の櫂(かい:Oar)で船を漕いで前に進もうとしている絵でありました。そして、その二本の櫂の一本には、「信仰」と書いてあり、もう一本の櫂には「行い」と書いてありました。つまり、その絵は、天国に行くには、信仰と行いの両方が必要だという意味だったのです。これは、明らかに間違った異端の教えであり、聖書の教えではありません。

 このみことばは、使徒パウロがエペソに住んでいたクリスチャンたちに宛てた手紙の一部ですが、明確に書かれていることは、次のことです。
人が救われるのは、まず神の「恵み」によるものであること。
人が救われるのは、キリストを信じる「信仰」によるということ。
人が救われるのは、神からの「賜物」であるということ。
人が救われるのは、決して人の行いによるものではないということ。

 まず、最初に恵みとは何かということを理解する必要があります。「恵み」というのは、それを受ける価値のない者に示される神の愛です。神が、ご自身に反逆している罪深い人間を愛されるなら、それは恵みであります。目上に対する愛は尊敬であり、同等の者に対する愛は情愛であり、そして、目下の者に対する愛が恵みであると考えると、「恵み」を理解するのに役立つと思います。私たち人間は聖よい神様の前にはみな汚れた罪人であり、当然の裁きを受けるべきなのですが、神はご自身の限りない愛を持って私たちを愛してくださっているのです。「恵み」とは、この世の最も悪い者をも救うために天の最も良いもの(神の御子)を与えてくださったことです。

 聖書を読めば分かりますが、恵みは人の善行とか行いには全く関係がないことをはっきりと教えています。もし、人が善行によって救われるのならば、救いは恵みではなく、(善行に対する)報酬ということになります。神は、人間に対して何の負い目もありませんし、罪人(すべての人)を救う責任も義務もありません。神が人に与える「救い」は、神が人間に対して果たすべき義務や責任ではなく、まったくの好意の贈りもの(神の賜物)なのであります。そして、「信仰」というのはその神からの贈り物を受け取るために差し出す手に例えることが出来ると思います。

 ですから、恵みと律法を混同してはならないのです。人は律法を守ることによって、または善行によって救われるのではありません。律法は人間的に善人であり正しいと思われている人をも罪ありとします。また、恵みは最も悪い人をも救うことができるのです。殺人を犯した犯罪者であっても、罪を悔い改めて、キリストを信じる信仰によって救われることが出来ます。しかし、この世の人々の目には善人に見える人であっても、神に対して悔い改めてキリストを受け入れないならば永遠の滅びに入るのであります。

 イエス様が全人類の罪の身代わりになって十字架に架かられたときに、その両側に二人の強盗が十字架に付けられました。そしてそのとき、二人の強盗は十字架上のイエス様を罵っていました。ところが、一人の強盗は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)とご自身を十字架に付けた者たちのために祈られたり、十字架上のイエス様の崇高なお姿を見ているうちにがイエス様が救い主であることを悟り、悔い改めてイエス様を救い主と信じて、その信仰を告白したのであります。その時、イエス様は彼に次のように言われました。

 ですから、もし人が救われるとすれば、神の恵みによるのであります。しかし神が聖であられますから、罪を見過ごすことはできません。罪を罰せられるのです。聖書の福音は、神がご自分の聖さを保持しつつ恵みによって罪人を救うことがどのようにして出来るかを、私たちに教えます。神の御子イエス・キリストは人間の罪に対する神の怒りと審判とを身代わりにお受けになられました。この御業によって、神は主イエス様を信じる者の罪を赦してくださることができるのです。繰り返しますが、救いはキリストを信じることによってのみ与えられる神の恵みのみ業であり、賜物であります。

 どうか、あなたもご自分の善行や修業、または世の宗教などに頼らずに、神が人類に与えたれた唯一の救い主イエス・キリストを信じて救われてください。



 ・・・・・hope to see you again・・・・・

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最終更新日  2010/03/25 05:35:13 AM
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