園芸 0
外食 0
お出掛けしました♪ 0
四季の生活 0
楽天ブックスのお買物 0
全298件 (298件中 51-100件目)
こんばんは3/31 安福寺鐘楼落慶法要 開山珂憶上人312回忌こちら庫裡前の門から 去年秋の台風で被害を受けた四の門の修復が終わり、すっきりと綺麗鐘楼修復が終わり 3/31はお目出度い落慶法要冷たいけれど 晴れて 天からも祝福されていました。私も 鐘を撞かせて頂きました。(写真は私ではありませんモデルさんになって頂きました)鬼瓦と葵の御紋の下の瓦(葵の御紋は 影になって見えにくいです)私には 安福寺さんの地形がわかりませんでしたが西から東に撞き、響きます。鐘が ドレミファ...のどの音に当たるか 耳を澄ませて下さい~~ と おしょうさん私には 全然わかりませんでした。思いっきり強く撞くのではなく、適当な力で撞くと 綺麗な響きが 続くのですね。安福寺おしょうさんのブログより鐘楼修復の時に降ろした鬼瓦の裏に年号が刻まれていました。貞享元年、1684年。釣鐘には元和三年(1683年)と刻まれているので、建立された当時の鬼瓦であると考えることが出来ると思います。およそ、330年前の瓦が使ってあることに驚いたと同時に、貴重な鬼瓦の存在を知ることができ、嬉しい限りです。庫裡の前の330年前の鬼瓦本堂へ移る前におしょうさんに尋ねました。“本堂内は撮影してもいいですか?” “どうぞどうぞ”本堂は 聖徳太子○珂億様式と言われたような...○は 忘れてしまいました 左のお経を配布して頂いて読経するのは 阿弥陀如来様 和尚様 約40名の檀家の方々と一体になれるような感じでした。 法話では「二河白道」のお軸を 拝見しながら、鐘楼のお話下3枚は 副住職様の説明して頂いて 撮りました。鐘の西には 阿弥陀如来様が彫られ東にはお釈迦様が彫られています。私達は その東の方に生きていて 死んだら 阿弥陀如来様に導かれ 西方浄土の西へ辿り着きます。安福寺さんの鐘の音がドレミファ...の ミに当たるそうです。(それを研究している学者が 解明しました) 阿弥陀如来様の西から お釈迦様の東に向かって撞いているから その「ミ」が出るのだろうと。「ミ」の音が一番美しいそうです。ごめんなさい...何故 「ミ」が阿弥陀如来様なのか?肝心な事が 私の中でアヤフヤなのです。機会があれば 尋ねたいです。珂億上人が 330年前にそれをわかっておられて鐘楼を造られたのが凄いとのことです数珠繰りは 初めてで 楽しかったです。数珠の中に大きいのが巡ってくるので その時 上に掲げて拝みます。御本尊阿弥陀如来様にお礼申し上げて(もっと きれいな金でしたが、写真はくすんでいます)最後に 懇親会手入れが行き届いたお庭を見ながら 移動お心がこもった手作りのお料理 粕汁も美味しく 飲みかけになってしまいました。 人気のおぜんざいも 撮り忘れました。というのは おしょうさんや檀家の方々との お喋りに 熱が入ったからです。檀家の方の家紋は 葵の御紋の方も居られるらしいです。そして 私が安福寺さんのファンになった事も 話題になってしまいました(恥ずかしい)副住職さんの スマホから 「歴史秘話ヒストリア」の時の井上あさひアナウンサーや 鶴田舞さんとの写真を見せて下さいました。「歴史秘話ヒストリア」は 聖徳太子の夾紵棺取材でしょうか?庫裡へ入った時に出された御干菓子一枚は尾張徳川光友公の葵の御紋一枚は安福寺さんの御紋 茗荷の御紋でしょうか?法要や懇親会で 横に座るように促して下さった藤井寺市から来られた御婦人と一緒に帰り檀家の皆様とも 親しくさせて頂きました。阿弥陀如来様の不思議な お導きの御縁によって 安福寺さんに 御縁がありました。最初に 御紹介下さった 偐山頭火さんに 一番先にお礼申し上げます。300年に一度の鐘楼修復落慶法要開山珂憶上人312回忌法要厚かましくも この法要にお参りさせて頂きより近しく親しみを持った仏教でした 偐山頭火さんブログこちら私の過去のブログこちら、こちら、こちら
2019年04月01日
コメント(22)
こんばんは昨日の続きですフェルメール展を出て 車の駐車場近くの茶臼山へ戻りましたその途中 河底池から通天閣ユキヤナギが満開河底池では 自然がいっぱい鳥が 餌を捕っていました。茶臼山に登ったことがないので 登頂を試みて(笑)標高26mの山に登頂成功木陰から通天閣同じくあべのハルカス茶臼山(大阪市のHPより)天王寺公園の北東部に立つ茶臼山は、大坂冬の陣では一帯が徳川家康の本陣となり、大坂夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となったことでよく知られています。また、茶臼山には、5世紀ごろの前方後円形古墳という説と、和気清麻呂が上町台地を横断する堀川を掘った名残が河底池であり、その際、掘り出した土を積み上げたものが茶臼山だという説があります。茶臼山で 女学生が写生している先は 綺麗な椿こそっと撮らして頂きました。我が家の太平楽はピンク その真紅版みたい。茶臼山には この椿が多かったです。ツルニチニチソウも 暖かい陽差しに嬉しそう。けん家持さんのブログこちら 茶臼山の美しい「卜伴椿」を探したけれど、探せませんでした。階段やスロープが複数あるので、違うルートだったのでしょう。この後 姉からの “大阪市立美術館を出たから 迎えに来て~”の電話。駐車場から 北を向いていたので グルッと 天王寺公園を回って 天王寺駅前交番の場所まで行くつもりが...お彼岸の為 一心寺の前は大混雑人力車も 通っています。本来左折する1本手前の道路を 行けるだろうと間違って(笑) 目の前に 通天閣新世界に迷い込んでしまう...姉夫婦と 無事1時頃に 会えて姉は ロザンの宇治原くんと管ちゃんをフェルメール展で見た~と。会いたかったなあ~次は あべのハルカスマリオットホテルGKへ。
2019年03月21日
コメント(20)
こんばんは今日3/20 天王寺へ フェルメール展朝9時20分に 家を出て 大阪市立美術館に10時半頃着。入口には青色のベルト たくさんのスミレ凄い人人人でした。同じ時期の他の人の作品も展示されていましたが、それらは観ずに フェルメールの6作品だけを凝視。みんな左からの光が差し込み 実際に作品を観ると光の表現を温かく感じました。でも 人が居ないところで 鑑賞したい~~美術館二階 休憩場の窓から 美術館のシャンデリアも綺麗大阪市立美術館は住友家の旧邸宅 慶沢園と共に大正年間に寄贈されました。姉夫婦と約束していたのですが 館内では 一緒ではありませんでした。美術館を出て 1時間程の私の自由行動(笑)の後 会いました。姉は フェルメールの熱烈ファンらしく 姉に誘われたのですよ“美術館売店で額を買ったのよ”と見せてくれました。今回 展示されていた中にはないのですが この作品が一番好きなのだそうです。ガラスが入っているので 光ってしまい 上手く撮れていません。他の事は 明日からにさせて頂きます
2019年03月20日
コメント(18)
こんばんは昨日3/18 スカイランドHARADAで 飛行機撮影兵庫医科大学病院が10時、早く終了。去年は 尼崎寺町訪問。11ヶ寺のうち ただ一寺 専念寺を参拝していない。それは 横に置いて(笑) 今年は ユニチカ記念館こちらを予定していたのですが、水曜日しか開館していなくて断念。何故 興味があったか?というと 去年3月行った尼崎寺町善通寺の壁の赤レンガがユニチカ記念館から移築されたものです。こちらそれならば 田能資料館こちら猪名川流域の弥生時代の遺跡で 弥生時代の建物がある屋外施設もあるという。でも 月曜日は 休館日なので屋外施設だけでも観たいと問い合わせると 門自体が閉まっていて ダメ。それならば、と ゆったり遊びに変更スカイランドHARADAこちらへ。阪神高速道路を行けばよかったのに、兵庫医科大学病院から一般道を走ったので50分程もかかってしまい、11時前。スカイランドHARADAの駐車場に着くと いきなり 大きいスカイランドHARADAは こんな場所飛行機が次から次へと離発着するのを 体感出来ます。飛び立つ時の 凄い轟音飛行機雲がいっぱい向こうに 待機している さっきのジャンボが飛び立つのを観たい~ ↓masatosdjさんこちら 下記のように教えて下さいました。 訂正させて頂きます。ありがとうございます。 「残念ながら4つのエンジンのジャンボは伊丹には降りられませんこれはボーイングB-777でしたね。伊丹では一番大きい機材です それも特別塗装で綺麗でしたね。)いつか わからないので それまで マンホールカードを戴く為に 二階の原田処理場管理事務所へ。二階も綺麗二階から滑走路のんびり撮っていると 動いてる~~慌てて 駐車場へ戻って興奮して たくさん 撮ってしまいました(笑)ウルサイですが、お許しを目の前で Uターン久しく遠くへ旅行しないので 飛行機に乗らないし 飛行機の事も全然わかりませんが1時間程 暖かい陽差しの中 飛行機を観て 子供のように楽しみました。写真に写っている子供達と一緒に出来るなら走りたい気分でした 昨日は ここでコンビニ弁当を食べましたが今日は☆もも☆どんぶらこ☆さんこちらのお店で ランチ 洋風ランチが多いのですが 今日は丼。男性にも好まれそうで 美味しかった~~
2019年03月19日
コメント(24)
こんばんは最後の目的地 亀の瀬地すべり対策室へ 行こうと走っていると「道明寺天満宮」の道路標識。又々 寄り道をしてしまいました(笑)こちら最初に 紹介させて もらった記事です。大阪から奈良へ繋がる国道25号線を走っていると 「亀の瀬」の標識が見えて もうすぐかしら?知り合い(30代後半)は いつもここを通勤しているという。通勤し始めて ずっと 大きな工事中。いつ終わるのだろう~?と。奈良県王寺町HPこちら大和川の大きな橋を渡るようにナビでも ここから向こうに 行けない地すべり資料室は 開いてないちょっと見学したかったのですが... 上のHPからの 昭和初旬写真多分 私は HP写真の右から 撮っているのかも、です。見学したかったのだけれど 仕方なく写真だけ。JR列車 青虫色は普通列車 白いのは速い方 この「亀の瀬地すべり」を知ったのは 偐山頭火さん「大和川が閉塞した」こちらでした。「1級河川大和川、国鉄(JR)本線そして主要幹線道路国道25号線の三本も重大なインフラに影響を受けるため」(偐山頭火さんの記事)たゆみない努力をされているのですね。ここからの景色は 眺めが良く 雄大でしたでも 工事の邪魔をしないように 長居は出来ません。地すべり資料室入口の告知を観にいっただけになりました。
2019年02月16日
コメント(22)
こんばんは安福寺の駐車場でナビ設定し 応神天皇陵が近いので 行ってみよう(応神天皇は4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の高い天皇)でも 正面の駐車場がナビでも記載がなくて わからない、陵の姿は見えるのにその周りを 40分近くグルグル。すると 「誉田八幡宮」こちら の標識が。後で知った(こんだはちまんぐう)の読み方。立派な八幡宮右近の桜、左近の橘が しっかりと前に。ご祈祷を受けておられました。誉田八幡宮の前は こんな風流な東高野街道?でしょうか?社務所で 神武天皇御陵への行き方を尋ねてみました。“わかりにくいですよね、高速道路の高架下を曲がるのですから”と サッと 地図を下さいました。ありがとうございます。きっと 尋ねる参拝者が多いのでしょう。「誉田八幡宮」と「神武天皇御陵」は 北と南の端っこ「誉田山古墳群」柏原市のHPこちらと呼ばれているようです。西名阪道高架下(東高野街道)を走っていると 標識もないけれど、いつかTVで紹介しているのを観ていた「...古墳」?多分 栗塚古墳又は 東馬塚古墳?高架下に古墳が...さて 着いたものの応神天皇陵の入口がわからない。でも ここにも 古墳が道路を挟んで ここにも誉田丸山古墳?振り向くと 駐車場の細い入口を発見駐車して 奥に進むと 立派な前方後円墳の御陵でした。応神天皇陵でアルに似た猫が通り上手く撮れませんでした。右:応神天皇陵に不釣り合いのような、何? この辺りには、20位の古墳があるのでしょう。二上山から西は 死者が眠る地と定められて この地方に仁徳天皇陵などの 大小古墳が集まっていると聞きました。道中 迷って苦労してしまいましたが、応神天皇陵にお参りして すっとした気持ちで 次は最終目的地 「亀の瀬地すべり」へ。
2019年02月15日
コメント(20)
こんばんは安福寺こちらをお参りしましたこの前に安福寺に参った時 こちらとこちら転んでアザを作った柏原市立歴史博物館を訪れた日です(笑)石川沿いに山門前の駐車場は知っていたけれど、安福寺裏の上の駐車場が見当たらなくて 玉手山公園の周りをウロウロやっと見付けて以前 ここへ 駐車したことがあるのに、辿り着けませんでしたここを下ったのはいいけれど、どこに行けば表かわからない...上の駐車場だったら 徳川家のお墓に上から行けると思ったのが 浅はか。庫裡の裏で 迷子になっていたら 男性が出て来られて 向こうへ去って行かれるので “すみませ~ん”と尋ねると 副住職だった~上の駐車場から来たら 迷子になってしまった~鐘楼の志納をしたい旨を話したら、こちらへ~と。これが 男なら泥棒に間違えられたことでしょう(笑)四~五人位の方が出て来られ、私自身は慌てていて、ホッとして 状況をはっきりと覚えていないのですよ“どなたかの紹介ですか?”偐山頭火さんの 御紹介と申し上げると とても喜んで下さり、ご住職様と奥様と親しくお話しさせて頂きました。奥様と私は 同学年なのでした。今年 ご住職様と奥様は金婚式を迎えられ、“二人で ここまで やって来られました”、と。又 偐山頭火さんとは お二人がお若い頃からのお付き合い、そして 楽譜の初版本と音源を納められた日の事こちらなども。それを お部屋に繋がる土間の上がり口で 美味しいお茶を戴きながらその向こうには 畳のお部屋江戸時代 和尚様は ここから 土間へ下りずに 御駕籠に乗って出掛けられたお部屋だそうです。他にいっぱい お話を伺って 多分 約半時間。 鐘楼屋根瓦葺き替え工事中お庭にある鬼瓦の裏を見せて下さると、貞享元年(1684年)浄土宗 玉手山 安福寺のブログから「釣鐘には元和三年(1683年)と刻まれているので、建立された当時の鬼瓦であると考えることが出来ると思います。およそ、330年前の瓦が使ってあることに驚いたと同時に、貴重な鬼瓦の存在を知ることができ、嬉しい限りです。」お話している土間に 新しい瓦が置いてありました。ここに 名前が記されます。両親の戒名、姉や弟の名前も志納帳の末尾に記されるでしょう。安福寺は徳川尾張家の菩提寺左の階段を登って墓所へ青いシートは去年の台風の跡。再興された珂億上人様式の本堂が下に見えます。ちょっと 階段を間違えて 難儀したり(笑)慰霊塔がいっぱいある ここへ出て右端が 光友公の墓所への階段(初めはわからなかったので 先に歴代住職のお墓へ)歴代住職のお墓ここかな?徳川家のお墓は?ご住職様が 仰った事が この時 判明無理だと思ったら 下から 手を合わせて下さい、と。気を付けて 時間をかけて登り葵のご紋が 確認出来て ホッこの狭い階段を注意して下り、後は 普通に戻れました。ご住職様が 転ばずに帰って来るか 心配して下さって庫裡の大きな門を開けたままで 待っていて下さいました。一緒に案内してあげたいけれど お葬式の用意がある、と。奥様は 足を痛めておられるご様子。その時の御説明、真ん中は 光友公、左は妻(千代姫でしょうか?)、右は息子 左右の小さなお墓11基は お付きの女性達。一番左の奥のお墓は 今で言う秘書のお墓。結界の中に お付きの女性達のお墓があるのは 珍しいのだとか。“気を付けて”の 優しいお言葉に見送られて心満たされて おいとましました
2019年02月14日
コメント(18)
こんばんは今日は 表題の場所に行ったのですが、まとめていなくて...その為 先ずは 花から(今日の状態をお伝えしたくて)道明寺天満宮こちらへは行くつもりがなかったのですが、道路標識を見て、急遽 立ち寄りました。梅が有名だからです。拝殿までは 階段がなく スロープなんですね。初詣など混む時には 嬉しい配慮ですね。梅園へ見事な枝垂れ梅ですが、まだまだ蕾本殿の裏手なので 本殿を裏から見る感じもいいです。一望に観梅出来る場所があったので 登ってみました。ちょっと ガッカリですね さざれ石は 河内長野市滝畑から 寄贈されたと。去年 訪れた滝畑という名前を懐かしく感じました。梅園拝観料は 300円でした(笑)梅は まだ香りがしなくて 人も4~5人だけで 寂しいものでした。一週間位 先になるのでしょうか?梅の蕾もいいですが、やはり開花して 花も香りも楽しみたいものです
2019年02月13日
コメント(20)
こんばんは次は 河内長野市の金剛寺⇒富田林市寺内町へ小万知さんと 11/21金剛寺こちら説明や写真は 上をご覧下さい。以前 若草読書会で 南北朝に付いて 槙麻呂さんが講義もして下さいました。南北朝時代には南朝方の拠点に鎌倉時代の終わりには、後醍醐天皇との関係ができ、南北朝時代に、金剛寺は南朝方の拠点となり、正平9年(1354)からの6ケ年にわたり、南朝の後村上天皇が、子院の「摩尼院〔まにいん〕」と「食堂」を行宮*として用いていました。その間、 一時、北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)及び直仁親王が、子院「観蔵院」に幽閉されたことがありました。*天皇が行幸のとき、旅先に設けた仮宮(仮の御殿)。(天野山 金剛寺のHPより)金剛寺を出て 天野川沿いを歩いて 「摩尼院〔まにいん〕」を 横に見て私が初めて小万知さんに連れて行ってもらった時の感動をYoshikoさんにも 感じて欲しかったのですが、それは 押しつけだったかも(笑)次は 金剛寺本坊 北朝 御在所 へ。室町時代に造られた庭園だから 上皇方は ご覧になられなかったのでしょうね。 巡らされた回廊を 三上皇の御在所に 行きます。写真右が御在所どこに行った時だったか、同じ椅子を見ました。お茶席に通じる場所でしたが、それは 待合の為の椅子だったと思います。回廊にある それも 上皇にお目見えする為の椅子でしょうか?お部屋部分は 撮影禁止でした。簡素ながら 何十畳もあるお部屋が 印象的。ここから Yoshikoさんが希望した 富田林市寺内町へ 向かいました。寺内町では お決まりの 11/17 旧杉山家住宅こちら訪問と 興正寺別院参拝。旧杉山家住宅では やはり 心に染み渡る狩野派の障壁画を撮って倉も開放されていました。寺内町こちらを 歩いているのは 観光客らしき人ばかりのように見えました。興正寺別院でも やはり 狩野 寿石の襖絵を撮ってしまいました。こんなに素晴らしい襖絵を間近で 見られ、写真もOKの 寛大な寺院です。Yoshikoさんの買い物に付き合って 羽曳野市の道の駅「白鳥の郷」へ寄り、バタバタと3時に 帰途につきました
2019年02月01日
コメント(22)
こんばんは 観心寺こちらに参拝しました。701年 役行者が開祖とされる史跡本山。梅、紅葉の時期は 美しいでしょう。 観心寺には 参拝したことがなく、偐山頭火さん観心寺こちらに刺激されました。(1/30の 写真は 全部 カメラのレンズが汚れの為 まともではありません)楠 正成の像後醍醐天皇は当寺を厚く信任され、建武新政後(1334年頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、現在の金堂ができた。正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願される。延元元年(1336年)、神戸の湊川で討死後、正成の首級が 当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。 その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は 史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。(観心寺のHP)本堂で 何をされているのか、尋ねてみました。厄除け祈願された方の名前が書かれた布を 節分の日 星まつりに本堂に架けられます。建掛塔(正成の三重塔建立の夢の跡)後村上天皇檜尾陵参道に惹かれてぐねぐねと曲がった階段最上階が見えない~~これを曲がると 陵が見える~と 期待を込めてドンドン登って行っても見えない~~暗いし泣きそう~~陵に登り切った場所から下を眺めると下る時に大雑把に階段を数えてみると 約150段。こんなに大変だったら 参拝しなかったのに、わからないとは、凄い力~~とにかく 後村上天皇檜尾陵を参拝してきました(笑)開山堂の階段を登ると楠木正成の首塚観心寺を出てランチは 調べておいた “洋食 おとぎ屋”観心寺から 車で1分。民家をレストランにして 畳敷きで 落ち着いた雰囲気。11:30だったから 空いていたけれど 次から次へとお客さん。人気のレストランなのでしょう。お味噌汁が家庭的で美味しい。 次を急ぐので バタバタとコーヒーを頂き 車中の人(運転手)こんなに苦労して 観心寺の後村上天皇檜尾陵を参拝してきたのだから、金剛寺へも行かなくては14世紀 南北朝時代の南朝 後村上天皇は 北朝 光厳・光明・崇光三上皇と直仁親王を伴って 金剛寺へ。6年後、金剛寺が財政的に(そう聞いたような)支え切れずに 観心寺に行宮を移されたとか。後で 振り返った折には 観心寺と言えば 私の中の思い出では「後村上天皇檜尾陵」が 最大のものとなるでしょう(笑)次は 河内長野市の金剛寺⇒富田林市寺内町へ
2019年01月31日
コメント(24)
こんばんは今日は 大阪、奈良、和歌山の境の河内長野市へ行きました。友達のYoshikoさんと 二人でした。彼女は 河内長野市「花の文化園」⇒「くろまろの郷」でランチ⇒寺内町の希望だったのですが、その希望を打ち破って 観心寺⇒洋食のおとぎ屋でランチ⇒金剛寺⇒富田林市寺内町となりました(笑)幹線道路沿いでは 富田林市のPLの塔を見ながら南へ走りました。明日から 紹介させて頂きます。(8:30~16:00 82kmでした。)今日は11℃もあって 風もなく 気持ち良く回れました
2019年01月30日
コメント(20)
こんばんは四天王寺にお参りして 初大師をぐるり四天王寺の駐車場着が 9時35分位。既に 駐車場が満車。時間が勿体ないので 姉達二人を降ろして初大師を回るように促し 私は駐車を待ち、15分程で入れました。本堂をお参りして 警備員さんに頼んで 記念写真も撮って頂きました。チャッカリと...姉は 生徒さんへの大島紬も購入出来ました。\2,000.- 帰宅後 生徒さんに見せたら 大変気に入ってもらえたそうです。生徒さんが 姉の指導によって縫うのですが、出来上がったらライン写真を送ってくれるように頼んでおきました。どんな服が出来上がるのか 楽しみです。1時間程で四天王寺を出て 天王寺へ行った本来の用を済ませて 11時には 奈良へ出発しました。次は 楽しみにしていた 奈良のランチ。姉妹の車中のお喋りが 絶品です(笑)
2019年01月22日
コメント(18)
こんばんは安福寺を出て 11:00だったので、次は 柏原市立歴史資料館へ左:JR高井田駅踏切 右:高井田横穴公園入口 ここを通り過ぎて 左:柏原市立歴史資料館 右:常設展示物 じつは 大和川付け替えに尽力した中甚兵衛の子孫から寄贈された資料を見たかったのですが、それは 秋の展示で終わっていて残念でした。ということで 係の方から“柏原市立歴史資料館に展示されている火熨斗が出土した場所に行ったことがないなら 行ってみませんか?”と提案されました。 それは 高井田横穴公園こちら内にあり、柏原市立歴史資料館からは 裏側から入ることになります。3/7 ひのし柏原歴史資料館で展示されていたもの こちら歩いて行くと 最後の美しい紅葉を楽しみました。今どき咲いているつつじの花このように 季節外れを「ときじく」(けん家持さんに教えてもらった言葉) 落ち葉が いっぱいの道登り切った所に 高井田山古墳公園内で最も高い場所に位置していて5世紀後半に造られた直径約20mの円墳石室内のレプリカここから 火熨斗が 出土しました。高井田山古墳を下ると高井田横穴高井田横穴は6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られたお墓で、調査によって約160基が確認されており、実際は200基以上あるものと推定されています。(横穴群の説明文は柏原市のHPから 抜粋)偐山頭火さんのコメントこちらより「安福寺と同じ凝灰岩で出来た地質ですので掘りやすかったことが掘られた一番の理由であったでしょう。つい最近まで地域のおばさん達は鍋底を研く砂をこの辺りで取っていたと聞いています。磨き砂ですな。凝灰岩は火山の噴火灰が固まったもので、近くの二上山や明神山の噴火が原因とされてきましたが、最近の研究では紀伊半島北部に広がる室生火山岩の一部と考えられるようになっています。広範囲に様々な影響をおよぼしていますね火山灰は。高井田の横穴にも線刻画が描かれていて、その一つはゴンドラを漕ぐ様にも見えます。前が大和川、そして対岸では船氏王後の墓誌が出土しているので、川そして船と古代史ファンの想像をかき立てます。国宝である王後の墓誌は三井財閥の所有で現在国立博物館に保存されています。」高井田横穴公園内は 小鳥に優しいのですね。行き帰りは 石川や大和川ほとりを通りました。 石川は11月の訪れた河内長野市滝畑に発し 大和川に流れ注いでいます。ブドウ、柏原ワインで有名な柏原市のマンホール今回 安福寺をお参り~高井田横穴公園訪問。偐山頭火さんのコメントより「歴史の交差点の様な場所に安福寺があったと云うことは、逆に言えばそのような場所故にここに安福寺ありと言えるのかもしれませんね。すべて一本の糸で繋がっているようにも見えますね。」まさに 古墳時代~大坂夏の陣~中甚兵衛~河陽鉄道、玉手山遊園地の一本の線知らない事だらけで まだまだ 勉強していきたいと思います偐山頭火さんは yahooブログでは河内温泉大学こちらのお名前です。26日の失敗柏原市立歴史資料館の入口 5段程の階段で 小雨が降っていた為か、滑って スッテンコロリン。転んだ時は 何が起こったか、わかりませんでした。臀部から膝の裏側に青あざ、赤あざ、黒あざが残りました。不名誉な付録です(笑)
2018年12月30日
コメント(20)
こんばんは昨日の私のブログのコメントに 偐山頭火さんが PCの検索では知る事が出来ない貴重な事をどうぞ ご覧下さい。こちら 安福寺の一の門に入った途端に 安福寺横穴群こちらがあり、異様な雰囲気に包まれ、びっくりしました。偐山頭火 さんの説明「安福寺のある玉手山自体が古墳時代後期から戦国時代、江戸時代(松尾芭蕉も来訪)そして近代に至る複合遺跡のような場所ですね。表向きは寺、中身は尾張徳川家の仏間のような存在だったとも言えます。」一の門から二の門に至両サイドに「横穴」があります。線刻画が描かれていますが、横穴群の成り立ちとは少し遅れるという説が強いようです。傍には 修験者の滝、不動明王偐山頭火 さんの説明 庫裡の前に 「割竹形石棺蓋」「これは寺と直接関係がありません。近くで発掘されたのを寺領をお借りして置いているだけです。これも、大変貴重で芸術的にも文様がすばらしいと言われています。」安福寺の宝物こちら手水鉢として使用されていました。写真では あまり わかりませんね。三の門の奥には尾州徳川家三代の廟が並んでいると 偐山頭火 さんとけん家持さんによって 教えられました。引き返さずに そのまま登って行けばよかったので、惜しいことをしました。次に 訪れる宿題が 又々 出来てしまいました昨日の最後の写真に「河内国安宿郡」があります。それに付いて 偐山頭火 さんから「安宿つつじが咲き誇っていて有名だったそうで、市の花にも指定されているようです。玉手山は桜もすばらしいですが つつじのシーズンに、大坂の陣で亡くなった庶民や武士の冥福を祈りにお参りされるのも良いでしょう」柏原市に こんなにも立派なお寺があることを知り、来年 つつじが美しい季節の訪問にしましょう偐山頭火さんのコメントを写真に沿うように 抜粋させて頂きました。偐山頭火さん、文章をバラバラしてしまって 申し訳ありません。
2018年12月29日
コメント(16)
こんばんは12/26 小雨が降る中、柏原市に向かいました今年3月 安福寺こちらに お参りするつもりが迷って断念したことを思い出して けん家持さん 偐山頭火さんお二人に教えて頂きましたのに 全く自信がありませんでした。自宅を出たところで 小雨が降っていたので くじけそうになりましたが、27日からは最強寒波がやって来るとの予報、(今日は予報通り ハラハラと初雪でした。)今年の宿題は 今日やり遂げなければ、と出掛けました。自宅からは 安福寺がある玉手山まで10km程です。玉手山公園まで辿り着きましたが、休園の為にバック、又 細い道を1分程行くと 安福寺の門を見つけてホッ駐車場もあって これも 再度 ホッもりたさんこちらのyahooブログでも 門を撮っておられます。由緒あるお寺は 小雨模様で 急な坂道両横には35基の横穴式古墳があります。(これは 明日 紹介)又 次の門をくぐり広大な庫裡右手は 玉手山公園の森でしょう。(玉手山公園も安福寺の寺領です)左手に 本堂(珂億上人によって建てられた)お賽銭箱も ないのです(駐車場へ戻った時、駐車場の隣のお宅の男性が 丁度 外に出ておられて 尋ねるとやはり本堂に お賽銭箱はないとの事でした)手を合わせた だけでした。最後の門から少し登りましたが、多分 今年3月に迷った駐車場に着くのかしら?と 途中で止めました。お墓もあるようでした。鐘撞き堂があり、雨が目立つようになって来ました。山門の隣に 神社の鳥居がありましたが、庫裡の前が 本殿なのでしょう。苔むした石垣の横は 相当急で 雨に濡れた参道を 滑らないように戻りました。どなたにも会わず、庫裡でピンポ~ンの勇気がなく、ただただ 深閑な雰囲気を吸ってきました。山門を出た所に こんな標識がありました。明日は 安福寺横穴群に付いて紹介させて頂きます 今年 3/7の後 偐山頭火さんから お話を聞きました。内容は(以前も紹介しましたが、もう一度) 玉手山古墳の上の供養塔は 「大坂の陣供養塔」と尾州「徳川光友三代廟」であり 安福寺の珂億上人によって建てられました。 大坂夏の陣の徳川のみならず 豊臣も 又 そこに亡くなった武士達、庶民の為にも建てられたものです。ここからは 今は木が茂っていて 見えませんが その頃は大坂城が見えました。ここら辺では 一番高い場所だったのですね。大坂の陣400年を記念して 今年も5月(と言われた気がします)に 安福寺によって法要がいとなまれました。 安福寺は 歴代尾張徳川家により援助を受けていたので お金持ち寺で 徳川家から 多くの寄進があり、檀家は必要ありませんでした。 (その証拠に 今年11月、安中新田会所跡 旧植田家住宅を訪れた時「安中新田の開発の主体は 安福寺住職と周りの有力百姓だった事を知りました。 安中新田の中の 安福寺が所有する新田は 半数に及んだと言います。」) 夾紵棺も 安福寺から叡福寺へ寄進があった返礼に贈られたものだろうという事です。 明治維新になって 徳川家がなくなってから 檀家をとるようになりました。 今年 3/7 柏原歴史資料館こちら今年 3/7 玉手山公園へ(安福寺へ行けなかった理由)こちら今までわかった事が ようやく繋がって来ました。
2018年12月28日
コメント(15)
こんばんは12/21 大阪市内車散歩の余録です。大阪市内からの帰り道に豊臣大坂城石垣を撮りました。京阪東口から一本内に入った目立たない狭い道路で車では アッという間に通り過ぎてしまう為に以前から 気になっていました。現在の大阪城は 徳川が築いた立派な石垣です。が、これは 一般家庭の自然石のままの石垣のようですね「 平成元年 大阪府立男女共同参画・青壮年センターの建設に伴う発掘調査で、 地表より、約2m下のところで野図積みの石垣が東西約21mにわたって発見された。」泉布観を見学したい方は 「報道発表資料 重要文化財「泉布観」を一般公開します.」こちら「泉布観」は 普段は一般公開されていません。平成31年1月25日(金曜日)まで 応募できます。先日の「しまい大師」に付いて ビッグジョンさんこちらから京都 東寺の「しまい弘法」と四天王寺「しまい大師」に付いて御質問されました。私も わからず、疑問に思っていたことなので、四天王寺さんに尋ねてみました。四天王寺では 21日は弘法大師の命日⇒大師会(だいしえ)22日は 聖徳太子の命日⇒太子会(たいしえ)と呼び、2日間 法要がいとなまれます。「しまい....」というのは 一般的な呼び方ということです。四天王寺と東寺では 呼び方が違います。というのが 電話解答の内容でした。勉強した 数々です
2018年12月26日
コメント(18)
こんばんは21日最後は 太閤園から10分足らずで行ける造幣博物館へ行きました造幣博物館は 明治元年から 今年が「明治150年」に当たることから 「明治期の造幣局」をシリーズテーマとしていました。造幣博物館の訪問は初めて 又 桜の通り抜けが有名ですが、それも行った事がありません。正門で 名前を記帳。番号札を胸に付けて 入館を許可されます。帰りに番号札を返還。 正門から200m程の造幣博物館へ そこまでは 大川のほとりを歩くので楽しいです。欽明門創業当時のガス燈石炭ガスを 造幣局で製造、明治初めに灯ったガス燈は我が国最初のものといわれています。造幣博物館館内では 写真OKビデオを観て明治期の造幣局は 大阪 しいては日本の科学、化学の発展に貢献したことがよくわかりました。帰りは3:30になり 冬至にもなると 薄暗くなっていました。桜橋(銀橋)の新旧も眺められました。帰り道 ビデオに写されていた 一号線を挟んだ信号を渡り 旧桜宮公会堂と泉布観を訪問旧桜宮公会堂国の重要文化財である正面玄関は、1870年建設の造幣局を移築しレストランに再生 青竜山石を使った玄関ポーチの6本の列柱(桁行約2.85m、梁間約15m)が美しく、その建築様式はローマ時代のトスカーナ式です。 屋根は銅板で葺いた三角形の切妻造(きりづまづくり)で、屋根と柱を支える軒蛇腹(のきじゃばら)も特徴的です。 玄関戸の両脇には、円形状(アーチ型)の窓が配されており、石造りの柱とともに、優美で力強い建築美をつくりあげています。(旧桜宮公会堂HPより)泉布観は今年3月 内部見学しました。2018年3月 泉布観こちらこれで 欲張りな21日が 香り高いコーヒーを頂いたところで終わりました造幣博物館は、明治44年(1911年)に火力発電所として建てられた建物で、造幣局構内に残る唯一の明治時代のレンガ造りの西洋風建物です。昭和44年(1969年)に建物の保全を図り、当局が保管していた貴重な貨幣などを一般公開し、造幣事業を紹介するため当時の外観をそのままに改装し「造幣博物館」として開館しました。 平成20年(2008年)より「人に優しい博物館、環境に配慮した博物館、魅せる博物館」を目指し、展示や設備に最新の手法を導入し、皆様方により親しんでいただけるよう大改装を行い、平成21年(2009年)4月にリニュアルオープンしました。(造幣局HPより)(大阪造幣局は明治4年大蔵省造幣寮として創業式)
2018年12月25日
コメント(14)
こんばんは天王寺から大阪城近く 車で20分程の太閤園 淀川亭で昼食太閤園こちら朝早く出掛けたので、予定通りに予約時間に間に合いました。ここから 紹鷗(千利休の茶の湯の師匠)の塔が見えていたのですが 下手な写真、見えません。黒豆やクワイなど おせち料理の先取りでした。ご飯は 朱鷺茸という珍しいピンクのキノコが入っていました。 食事後 7000坪といわれる庭園の散策。石橋は 小豆島産の一枚岩で出来ており、西日本一と言われています。ここでも 最後の紅葉狩りが出来 太閤園では2時間程の贅沢な昼休み休憩友達は 食事、淀川邸の雰囲気、庭園に満足してくれました太閤園は行きやすくて何かある毎に お世話になっています。直近のブログは 2018年04月28日 こちらもご覧下さい。クリスマスイブの今日は 形ばかりの家での食事
2018年12月24日
コメント(20)
こんばんは大阪市立美術館で 新書派協会展&ルーブル美術館展を鑑賞しました。茶臼山のタイムス駐車。道すがら 今年最後の紅葉を楽しめました。茶臼山古墳茶臼山一帯は大坂夏の陣の舞台になり、真田幸村が活躍しました。標高26mの山です。河底池は 8世紀 和気清麻呂が大和川や河内湖の排水と水運の為に造ったと言われる池河底池から茶臼山の全景通天閣が紅葉の向こうに寒桜と紅葉紅葉狩りしながら大阪市立美術館へ地階では 新書派協会展伊勢志摩の友達が この協会所属の先生に 伊勢志摩で4年前から習っていて、社中展に出品して 奨励賞を戴いたと喜んでいました。去年も見せて頂きましたが 確かに腕を上げられたと感じました。 右は 新書派協会会長 近藤攝南先生の書ここまで来たのだから、と 次はルーブル美術館展勿論 撮影ですので HPからナポレオンの肖像画やデスマスク美術教科書で見た作品も多く ギリシャ ローマの作品も含めて110点もありました。ルーブル美術館へは 行った経験もなく こうして地元で鑑賞出来るのは 大変 幸せなことでした。でも あまりの作品の多さ そして平日にもかかわらず、人の多さに 人酔いをしてしまいました。天王寺公園では 頭の中も身体も満杯になり次は 太閤園のランチに向かいました。尚、Yahoo ブログの12/19もりたさん茶臼山散策こちらもご覧下さい。
2018年12月23日
コメント(14)
こんばんは12/21 8時40分頃 四天王寺に着きました駐車場から南大門へ入って初めて気が付きました。21日は 「しまい大師」だったのですこれは 狙ったのではなかったので、ラッキー「大師会」を見た経験がありませんでしたので。月例の縁日「大師会(だいしえ)」のうち、年内最後の「しまい大師」という。「しまい大師」を見たい 逸る気持ちを抑えて 抑えて 先ずはお参り。ご本尊の救世観音像は 中宮寺の弥勒菩薩半跏思惟像に似た 優しいお顔に感じました。中国の方に声をかけて スマホ写真を押してあげ、私たちも 記念写真を撮って頂きました。五重塔に登ることが出来ますので 急な螺旋階段を5階まで。写真ですので てっぺんまで登ったところで、外を撮りました。賑やかな「しまい大師」の様子が 見えています。さぁ、五重塔を降りて 下界の古美術品や古着、食品など多彩な露店へ。左上は 隕石だそうで 売れていましたよ。 刑務所作業所の露天は お客さんが一人も居ないので“サクラ”のつもりで 見たのが 思わず買い物私達が去る時には お客さんが寄って来ました。良かった、良かった左上:友達は 刑務所作業所の露天で 紫檀の文鎮2,300円と 小さなまな板400円右:私は 古着屋さんで 500円の着物 友達は 4年前から お習字を習っていて、燃えているようです。良い記念になるでしょう。私は 解いて 何か服を縫うかしら?と姉へのお土産 仕付け糸が 付いている真新しいものでした。10時過ぎに 駐車場を出る時には 車が順番待ちをしていました次は 大阪市立美術館へ向かいました。四天王寺五重塔を舞台に上方落語:鷺とり 桂枝雀 上方落語には「天王寺詣り」「弱法師」「鷺とり」「戒名書き」など四天王寺を舞台とした演目がいくつかある。(ウィキペディアから抜粋)
2018年12月22日
コメント(22)
こんばんは今日は朝7:30に家を出て午後5:30帰宅。四天王寺~天王寺公園内美術館で書道展、ルーブル美術館展~太閤園でランチ~大阪造幣局の造幣博物館と 行ける限り(笑)、周って来ましたというのは、伊勢志摩の友達が 奈良へ来たので、でした。ところで、今朝の大阪は 濃霧で前も見えない位で、電車などは混乱したようでした。友達は 約束の時間よりも30分遅れて来ました。一つ一つ明日からに させて頂きます
2018年12月21日
コメント(16)
こんばんは11/21 小万知さんと御一緒のランチ 等々小万知さんが 予約して下さった 河内長野市のビュッフェレストラン「奥河内」 地元の産品で調理されて 美味しかったです。ビュッフェ、時間制限がありました(笑)駐車場は 広々富田林市寺内町 興正寺別院の柱に貼られていました。小万知さんも仰いましたが、私も同感小万知さんから アルに戴いたハスの実のプレゼント嬉しくてすぐに遊び始めました。小万知さんのお陰で 最高に楽しい「河内古民家巡り」+αでした。ありがとうございました
2018年11月30日
コメント(16)
こんばんは11/17 旧杉山家住宅の帰りと、 11/21 小万知さんとの最後に富田林市寺内町に周りました。小万知さんは 旧杉山家住宅を訪問したことがあるけれども興生寺別院には拝観されていないと。西條合資会社(天野酒)さんから寺内町まで約20分程。まだ 2時だったので、それでは、と向かいました。以下の写真は 11/17と11/21のものです。寺内町の中央に開発根本寺院である興正寺別院が置かれています。桃山城門の一つといわれる表門表門のピンポンを鳴らして挨拶すると 拝観出来ます。前の道路境内上がらせて頂きます。結界から中へ入らなければ 写真を撮ってもいいと許可を頂きました。1692年 狩野 寿石の襖絵(狩野信政を父、狩野探幽娘を母として、その長男として生まれる。)竹梅図松図この絵を見て頂きたくて 小万知さんをお連れしましたという私も もう一度 じっくりと見たかったのです。寺内町こちらをゆっくりと眺めながら帰途寺内町は16世紀の宗教自治都市「街路のほとんどは直行しておらず、角で少しずらされた「あてまげ」によって、まっすぐの見通しが妨げられている。」 がわかります。古い用水を残してあって 防火意識の高さ寺内町は一段高い台地上に、土居にて周囲を囲んでいて 四方の出入口に門を構えています。ここが 山中田坂(やまちゅうだざか)かしら?小万知さんと共に 狩野寿石の襖絵に感銘を受けたことが 最高に嬉しかったです
2018年11月29日
コメント(18)
こんばんは以前 お話したように ランチまでの時間潰しに訪れたところが、エライ事に(笑)女人高野 天野山 金剛寺こちらこんなに由緒ある歴史的なお寺だとは... 驚いてしまいました。平安時代の重文の建物、仏様が殆どです。金剛寺の楼門全景後村上天皇が植樹の桜五佛堂法要があったのでしょう。五佛堂の廻廊の向こうには 観月亭。南北朝両朝の天皇上皇が観月されたところ。多宝塔受付の方が説明して下さいました。屋根は 「こけらぶき」です、と。我が国最古の多宝塔の形式。こけらぶきについてはこちらを御参考に。金堂は 今年修復されて 美しい朱色中の大日如来は 優しいお顔で 魅了され 格子戸の隙間から手を合わせました。食堂(じきどう)南北朝時代 後村上天皇が6年間 正庁とされた天野殿同じ頃、北朝の光厳、光明、崇光の三上皇と直仁親王の御四方も御座所とされた為、奇しくも南北両庁が同座されました。金堂と鐘楼の間から見える屋根気になったので、小万知さんが 軽トラの庭師さんに尋ねて下さいました。「尼寺だけど 今日は出掛けておられて 拝観出来ませんよ」受付で尋ねてみても 同じ答え。金剛寺を出て 周ってみました。「南朝 行在所 摩尼院」その前の 天野川の渓流が 美しく 清らか紅葉も楽しめました。北朝御座所となった本坊ここで Uターン。ブログの後先が 反対になりましたが、酒蔵「西條合資会社」から。「金剛寺は僧坊酒 天野酒を造り、信長、秀吉、家康に贈っていた。この天野酒を秀吉が好み、心を入れて造るように命じた。その後 寺での酒造りは 明治以降廃れ、「西條合資会社」が寺の許可を得て造るようになった。」素晴らしい寄り道で、再度 ゆっくりと拝観したくなりました
2018年11月27日
コメント(28)
こんばんは天野山 金剛寺とランチは後で記事にする事として西條合資会社 旧店舗を目指しました。小万知さんが お買い物でポイントカードも持っておられる位に よく御存知なので駐車場もスイスイ高野街道 酒造通りの垂れ幕旧店舗は工事中 見学させてもらえず、スタンプ押印してもらいました。杉玉を触ってみたかった~~どんな感触かしら大きな酒樽が外に店内にも 大杉玉小万知さんが 我が家の仏壇にお供えの買い物をして下さいました11/24(土)夜の事、ブローチが歪んでいたので、直そうと 前歯で噛むとガリッ前歯が折れましたカッコ悪いのですが、今日まで我慢。歯医者さんが 縦に半分折れた歯を継ぎ足して下さいました。料金千円程(笑)最近 手土産やら なんやかやで 硬い石切参道の紅梅焼を利用しています。私の近くには 名物という程のものがないのです。“あまり硬くもないよ”と言うものの 最近 私は一枚も食べていません(笑)どなたかの“硬い、硬い。歯が折れてしまいそう..”が 跳ね返って、私の歯が折れたのでしょう。これからは 柔らかで上品な花ラグ饅頭にしましょう
2018年11月26日
コメント(18)
こんばんは小万知さんに無理をお願いして 河内長野市へ付き合って頂きました。待ち合わせ場所には 犬クウちゃんのお散歩途中の御主人様も一緒。初めてお会いする優しい御主人様。小万知さんのお宅のお花達にも御挨拶。そして、梶谷家住宅こちらへ61号線沿いに走るときれいな紅葉で 停車小万知さんが“ここに温泉があったはず”奥を見ると荒れた屋根61号線を外れて細い急坂道路を行く(これは帰りの下り道路)梶谷家住宅 昭和56年に滝畑地区にダムが建設され、ダム によって水没することになった滝畑地区の梶谷家住宅が移築されました。(滝畑ダムは 大阪府内のダムでは、最大規模のダム)この鐘楼は何故 同じ場所にあるのか?疑問に思い 訊ねようとしても 無人。多分 ダムに水没する前のお寺の鐘楼でしょう。岩湧山の頂きに茅場この札を見て 振り向くと茅場を所有利用している滝畑地区では 「キトラ」と呼んでいます。岩湧山897.2m山頂の茅場は 面積約8ヘクタールです。今日11/25 川中家屋敷林訪問そこでの 御当主様のお話“河内長野市の茅葺屋根は岩湧山の茅場で賄えるが、他市の茅葺は高くついてしまいます”と。とても 重要な茅場なのですね。力石滝畑地区の滝尻弥勒堂内に置かれていたもので 若者が力競べをした石。約120kg無人なので 自分でスタンプ押印自由に上がっても良いと 促されて大きな金毘羅さんのお札こんなに大きなのが あるのですね。別棟の展示場もグルリ江戸時代後期には 滝畑地区の農兵銃の扱いに慣れた農民が 狭山藩の村方騒動や沿岸警備の為に農兵となって活躍故郷が ダムの底に沈んでしまうなんて 哀しいですね。大きな滝畑ダムを眺めながら 帰りました小万知さんが 予約して下さったランチ時間には早いので小万知さんお勧めの天野山金剛寺へ向かいました。
2018年11月25日
コメント(16)
こんばんは富田林市 旧杉山家住宅こちらへ羽曳野市畑田家住宅から ナビで確かめると20分程。時刻は12時。羽曳野市だけで帰るつもりが それならと...コンビニで お腹を満たし、Go入口の戸口を開けてちっぽけな私は 呑み込まれる威圧感に包まれました。見学者は 5~6人で 静か。上のリンクから「商人の町として計画的に造られた町・富田林寺内町。その中でも1600年代からの寺内町繁栄の中心的存在だったといわれるのが旧杉山家。最盛期にこの屋敷の中で働いていた者は使用人だけでも70人という記録があるそうで、 寺内町最古・最大の南河内地方農家風建築様式であり、屋敷地は一区画(千坪、現在は430坪)を占め、」「明治の明星派歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもあります。」番台でしょうか。格子戸から 表通りが見えます。立派な仏間も拝見大床の間奥座敷茶室手前の床を歩くと キュッキュッと鳴きました。(二条城の鶯張りの廊下みたい...)お便所も 撮ったのですが、これは(笑) ごめんなさい。 二階は 明治時代に珍しかった螺旋階段でこれは、歌人・石上露子が造らせたもの二階は資料館になっていました。11/16 河内古民家巡り 河澄家を訪れました。河澄家は 石上露子の母親の実家だったことを けん家持 さんから教えて頂きました。石上露子に関して 大きな豪商、庄屋の二つのお屋敷を訪ねたことになりました。帰り際に 寺内町の興正寺別院を拝観されては いかが?と色々 御親切に教えて頂きましたので、それでは...と次々と 周った一日でした。それは 又 別の日に...11/22 けん家持さん偐万葉・ひろみ篇(その14)こちらを詠んで下さいました。是非 御覧下さい。
2018年11月24日
コメント(16)
こんばんは11/17 吉村家訪問の後 畑田家住宅こちら「明治期の旧家の趣をよく残している庄屋屋敷」へ吉村家から畑田家住宅へは20分程 混雑する商店街を抜けて近鉄恵我ノ荘駅だったかと...畑田家住宅の門門にある小窓は 来訪者が誰か 確かめる為御当主さん(大阪大学名誉教授)の説明を受けて外は 納屋をアトリエにしておられる洋画家の義弟さんが説明して下さいました。土塀が 少しだけ残って蔵にねずみが入らないように 防ぐ板御親切な説明を受けておいとましました今日は小万知さんに 付き合って頂き、河内長野市 梶谷家、西條合資会社旧店舗(天野酒)へ行って、一日 楽しく過ごさせて頂きました。これで 8スタンプ 撃破しました。追々 ブログ紹介させて頂きます。
2018年11月21日
コメント(18)
11/17 河内古民家巡り 吉村家、畑田家、旧杉山家へ一人で先ずは吉村家のHPこちらへ羽曳野市へ9:20出発。「1615年の大坂夏の陣で焼かれ 直後の建物江戸中期以降、丹北、八上(現在の羽曳野、松原、八尾、大阪市)の両郡内十八ヶ村の大庄屋」門の中へ入って 感激茅葺の屋根が凄いインパクト 今年葺き替えが終わったところとか左は1798年 物置、大門、潜り戸、供部屋、下男部屋の総茅葺の入母屋造り右は 母屋の大和棟ビデオを観たり、ボランティアの方の説明を受けたり。御当主さんの姉妹である上品な方に案内されました。60年前の子供時代までは ここで住まわれました。民家としては最初の国宝住宅から 重要文化財に指定。屋敷地1600坪、建物156坪あります。スタンプラリーの時期は 公開部分は土間や庭だけ。4月には 他も観れるとの事。 土間正面下男部屋は 中二階土間を挟んで 女中部屋は反対側の吊り部屋 梯子から土間部分大変大きなウルシの木が 真っ赤で綺麗受付ではお歳をめした御当主自らが説明されていました
2018年11月20日
コメント(24)
こんばんは次は 安中新田会所跡 旧植田家住宅外観八尾市のパンフレットから中は自由に観れます。ビデオを観て学習(パンフレットから)安中新田の開発の主体は 安福寺住職と周りの有力百姓だった事を知りました。安中新田の中の 安福寺が所有する新田は 半数に及んだと言います。(以前 玉手山公園に行き、安福寺を探したのですが、迷って断念。いつか必ず参拝したいです。)マンホールを見ながら おいとま大和川の長さは 奈良県桜井市~大阪湾まで約68km。(淀川は75kmと言われています)約300年前 この長い川を江戸幕府は 約8ヶ月間で付け替え工事決行。河内という名は 淀川、大和川、石川に挟まれた地域です。郷土の歴史を勉強しました古来、大和川の治水には、多くの人々が取り組んできました。788年、摂津大夫であった和気清麻呂は、平野川、石川と合流した大和川の一部を、今の天王寺公園の南側に通して大阪湾へ流そうと計画しました。多くの予算と人夫約23万人を使ったにもかかわらず、完成には至りませんでした。江戸時代に入ってからは、河村瑞賢が安治川の改修・大和川の浚渫・川中のヨシの刈り取りを行うことで洪水を防ごうと計画、3年がかりで改修工事を行いました。しかし、瑞賢の死後、2年連続で大洪水が起こり、年貢を納めることができない村が出るまでに至る事態が起こったのでした。(ネットから抜粋)
2018年11月15日
コメント(18)
こんばんは古民家巡りは 偐山頭火さん「松永白洲記念館 河陽鉄道120年によせて 」こちらで知りました。そこで 先ず 藤井寺市 松永家住宅下は 偐山頭火さんの説明より「明治期の当主松永長三郎が支配人を務めて敷設に多大な貢献をした「河陽鉄道」、今も近鉄最古の路線の鉄道として機能している道明寺線の史料も多く保存されていることでも有名です。江戸時代には四代にわたって医業も生業になされたいたので、漢方医学に関する資料も豊富に残っているという珍しい記念館です。」※コピペして楽をさせて頂きました。偐山頭火さん ありがとうございます。松永家住宅の門松永家は漢方医で お籠に乗って往診漢方医の薬箱館長が熱心に説明して下さいました。入館無料なのに、お茶お菓子の接待、感謝尚、写真撮影は OKでした。駐車場から松永家住宅まで歩いた 一般家庭の庭にピラカンサの実が見事。その間の ノウゼンカズラのような花は何でしょうか?造花に見えましたが 生でした。小万知さんが コメントで「アブチロン」と教えて下さいました。ありがとうございます。大和川付け替えに反対した 元庄屋の松永家水量が多く、豊かな その大和川の横を走って往き帰りしました。河川敷が綺麗な所もありましたが、車を停められず、下だけ。約300前 江戸時代の大和川付け替えでは 付け替えによる影響大和川の旧流路にあたる中河内では河川敷の跡地や大きな池の跡地が新田(深野池は深野新田などに、新開池は鴻池新田などに)となり、とくに川床跡の砂地に適した木綿栽培や綿業がさかんになった。 一方、新しい大和川(「新大和川」))の通った現在の松原市、大阪市南部の平野区などは多くの農地を失った上、もとあった川が新しい川に分断されて、上流側では大和川手前で水があふれ下流側では水量が減り、困窮する結果となった。かつて農業用水確保のために造られた依網池を地形の問題などで分断せざるを得ず、池は埋め立てや土砂の堆積などで消滅した。さらにすぐ下流の浅香山付近の高台を避けるために急激なカーブとなったため、付近は新たな氾濫地帯となった。 大量の土砂が河内平野や大坂に流れなくなり、大坂の港や河川は港湾機能を若干回復したが、代わりに堺に運ばれるようになり、北側の河口付近に大量の土砂が堆積していった。その結果、河口の南には新たな新田が開墾された。また、戎島付近の港にも土砂が堆積するようになり、堺の港湾都市としての地位は低下した。 」(ウィキペディアより)上の問題は 藤井寺市も同じだったことでしょう。次は 安中新田会所跡 大和川付け替え推進派 旧植田家住宅へ向かいました今日は 京都宇治 萬福寺参拝しましたが、明日も古民家巡りを紹介させて頂きます。
2018年11月14日
コメント(24)
こんばんは11/12 羽曳野市 中の太子 野中寺(やちゅうじ)へ河内古民家巡りの為 藤井寺市まで行くなら藤井寺市の隣 羽曳野市の野中寺へと...野中寺(やちゅうじ)/羽曳野市こちら「聖徳太子が建立した46寺院のひとつ太子の命により蘇我馬子が造ったと伝えられ、南河内郡太子町の叡福寺を「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺を「下の太子」と呼ぶのに対し、野中寺は「中の太子」と呼ばれています。本寺は丹比郡野中郷を本拠としていた渡来系氏族の船氏の氏寺ではないかと言われています。」 本堂 境内の全景正面の本堂までの真っ直ぐな参道を挟んで右に創建時の金堂基壇跡、左には創建時の三重塔基壇跡がある。 野中寺は享保年間(1716-1736)の火災でほとんどの堂宇を焼失し、現存の堂宇の大半はこれ以降再建されたものである。(古寺巡訪より)金堂跡塔跡ヒチンジョ池西古墳石棺 大師堂鐘楼お染久松のお墓が墓地にありました。お染久松の塚は 参拝した大東市 野崎観音にもあります。本堂を少し奥へ進むと 拝観受付があり、気付かなかったので、奥が深い野中寺は再度 参拝したいお寺になりました。次は 藤井寺市の古民家 松永家を訪れました下には 興味深い事が書かれています。野中寺(やちゅうじ)こちら
2018年11月13日
コメント(14)
こんばんは11/7 最後はミライザ大阪城でコーヒータイム大阪城のすぐ前にあり、開店約1年ミライザ大阪城の前身【 旧・大阪市立博物館/陸軍第四師団司令本部 】こちら建築物として贅の限りを尽くしています。それもその筈、「建設費は天守閣建設のための市民からの寄付金150万円中、半額以上の80万円を占め、これは天守閣の47万円、公園整備費用の23万円を遥かに上回る割高なものだった。」中もレトロな雰囲気が素晴らしいです。屋上は 大阪城を眺められるレストラン西陽が当たるのが厭で、2階を選びました。テラスからも 眺めがいいです。帰りのロードトレインで 大阪城京橋口横に砲兵工廠跡のここを撮れました。いつも気になっていた建物です。ロードトレインのスタッフさんが仰るには、“最近 砲兵工廠跡を見学した。何かに利用出来るように計画を練っているらしい”と。ミライザ大阪城のように 見事に生まれ変わるのが 楽しみです。大阪砲兵工廠こちら明治3年大阪砲兵工廠創設から昭和20年敗戦までの歴史がわかります。昔 国鉄大阪環状線(JRではなく国鉄でした)に乗ると、大阪城東側の軍需工場跡が無残に放置され、鉄くず拾いの人達の姿が見えました。あの大阪城附近が美しく変身したのは 嬉しいことです。帰る頃には 太陽が沈んで暗くなっていました
2018年11月09日
コメント(21)
こんばんは鯛めしや『はなび』の後は 大阪城へいつものように 森の宮駅前駐車場から 大阪城公園ロードトレイン歩くと 極楽橋を渡ったり 青屋門をくぐったりで 近道出来るのですが、それよりも楽をして 約2kmをゴトンゴトン 紅葉は もう少しというところ極楽門を過ぎて終点 豊国神社まで豊国神社を横目に見て 桜門大阪城最大の蛸石の傍で 城内案内ボランティアの方に質問私“正門はどこ?”“大手門を入り、桜門が正式な門で 1万石以上の大名が通れる。入るとすぐに 枡形になっていて、当時 その向こうは 巨大な両側の石の上に櫓があり、桜門と櫓を閉めると 閉じ込められ、上から鉄砲の攻撃。大阪城には 桜門、京橋口、玉造の三つ、青屋門は開かずの門。桜門と同じような造りが それぞれに あった。京橋口は 京都方面からの人、玉造口は 東からの人の出入り。玉造口は戦時中 軍によってその造りは壊された。”へぇ~~、そうなのですね。いっぱい 教えて頂きました。ありがとうございます。日本で一番古い洲本城(昭和3年)の模擬天守の後に造られたのが大阪城(昭和6年)だそうです。友達が 長い間 大阪城へ上っていないというので、天守へ上り黄金の茶室などの展示スペース階を観ました。直近の大阪城は 9/18 こちら9/18は 台風21号の後で関空閉鎖観光客も少なく 木々も倒れていて、その後始末が 昨日も まだのようで、木々が片付けられず 哀れでした。次は ミライザ大阪城で コーヒータイム大阪観光わくわくナビこちらから抜粋2代目大坂城は、豊臣時代の初代大坂城を埋めて、その上に再築され、そして 3代目大阪城は、徳川時代の 2代目大坂城の石垣の上に、豊臣時代に造られた初代大坂城の天守をモデルに再建されたと言うことになります。多くの人が現在の見事な石垣を見て、豊臣秀吉の築造だと誤解しています。しかし実際は、石垣も堀も全てが徳川時代以降のものなのです。
2018年11月08日
コメント(29)
こんばんは禁野車塚古墳枚方八景を調べる為に枚方市HPを見て、「禁野車塚古墳」があることを知り、香里団地の並木を観た帰りに寄ってみました。車のNAVIで探しましたが、記述がなく見付からない...天野川沿いの緑部分を目標に京阪交野線「宮之阪駅」線路を渡り、天野川の東岸を走ると、 それらしき誰も居ない静かな公園墳丘の後円部でしょうか? 枚方市HPから 貼り付け①.禁野車塚古墳解説板より 全長100mの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。後円部の直径57mあり、前方部を西に向けています。前方部はかなり削られていますが、後円部は2段築成された様子が観察でき、葺石(ふきいし)と埴輪の存在も認められます。 内部構造や副葬品などについてはあきらかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。 したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末~5世紀初頭頃と推定できます。この地域が淀川と天野川の合流点を望むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。 2002年文化庁、大阪府、枚方市教育委員会②.文化財説明板 禁野車塚古墳は、天野川右岸の低位段丘上に築造された前方部を西に向けた前方後円部です。 1966年に墳丘測量、1970年に範囲確認調査が実施され、埋葬施設は不明ながら、その規模は 全長110m、後円部計57m 同高9.9m、前方部幅40mと、北河内屈指であり、4世紀中ころの築造と推定され、天野川水系の古墳時代を考える上で不可欠の古墳として1972年に現状の墳 墳丘測量図(2008年作成)と復元イメージ丘部が国史跡に指定されました。 2006年前方後円部南東側(現在地)で範囲確認調査が実施され、現地表下2.6mにおいて後円部墳丘裾を検出することができ、後円部径が60m前後と、従来考えていたよりも大型になることが判明し、2007年に古墳南側の既存の公園部分と合わせて史跡の追加指定を受けました。 そして2008年の再測量調査の結果、全長120m、後円部径63m、前方部幅55mという規模の復元案が提示されるようになりました。 また倒卵形気味の後円部に撥形(ばちがた)の前方部が取付き、後円部から前方部に至るスロープも明瞭であるという墳形の特徴が奈良県桜井市の箸墓古墳(はしはかこふん)等に類似し、築造時期も4世紀初頭以前に遡る可能性が浮上するに至っています。 このように禁野車塚古墳は、大阪府内でも数少ない、最古クラスの前方後円墳であり、淀川左岸の古墳時代のはじまりを解明する上でも重要な古墳ということができます。 2008年12月枚方市教育委員会航空写真は こんなに凄いのですね。天野川土手で見た花(下の名前は?の域です)ホシアサガオモミジバルコウソウアメリカアサガオ真紅のカンナセイダカアワダチソウは悪さをするけれど、なかなか綺麗枚方市マンホールは 菊香る秋にピッタリ淀川を下る30石船と共に禁野車塚古墳を見付けただけで満足してしまい ゆっくりと周りませんでした。又 行ってみたいと思っています。
2018年10月23日
コメント(14)
こんばんは昨日は 枚方八景「香里団地の並木」を観て 姉と二人ランチ もうすぐ紅葉、綺麗でしょうね。枚方市HPから 「枚方八景」東洋一といわれた香里団地は、昭和32年に建設されました。現在、大通りのケヤキ並木、イチョウ通りの並木といった街路樹は、昔からここに生えていたかのように枝葉を空に張っています。ランチは 大通り前の「Felice DINING 」初めてのお店でしたが、大満足でした。 魚料理はパイの中に サワラとエビ特に 底のおこげが 美味しかったです。 香里団地は お洒落な街に再生されていました。枚方八景も観ることが出来、美味しいランチも出来、一挙両得でした
2018年10月22日
コメント(28)
こんばんは映画を観た帰り、枚方市の万年寺山へ立ち寄りましたビッグジョン7777さんの 「枚方の万年寺山」ブログこちらで知ったからです。説明なしに 写真だけを羅列しますが、ビッグジョン7777さんのブログを御覧下されば 詳しくわかります。姉も何度か 訪れたことがあるというのですが、枚方八景の一つ「万年寺山の緑陰」だとは知らなかったようです。御茶屋御殿跡の案内御茶屋御殿跡の展望台淀川や河川敷、高槻市も見えて 広々。ここをグルッと周ると「万年寺山遺跡」そして 意賀美(おかみ)神社へ到着大木が台風21号被害でしょう。倒れているのが 哀れです。下りの階段から 京阪電車すぐ横を走っています。階段の上りには気付かなかった「亀石地蔵堂」姉が言うには“電車に乗っていても わかる位に大きな立派な石の亀が置いてあった。あれは どこへ”万年寺山で見た花ヤブランが 壮観ツユクサが 一緒に咲いていますが、はっきり見えません。黄色の菊みたいな可愛い花 けん家持 さんが 「アキノノゲシ」と教えて下さいました。ありがとうございます。近い所にも名所があるのですね今晩6時前の夕焼け夕焼けにも様々な表情
2018年10月08日
コメント(22)
こんばんは大阪市立大学理学部附属植物園の続きです。水生植物の続きコガマエゾミソハギ秋らしい花タコノアシ 面白い名前です、なるほどドクゼリ「ドクウツギ、トリカブトと並んで日本三大有毒植物の一つとされる。」恐いのですね陸の植物へ移ってヤシ園のヤタイヤシビワみたいなのが 落ちています説明を見ると、食べれるんですって味見をしたら 良かったかも(笑)生活に密着した植物のコーナーインドソケイにイトトンボ鮮やかな空色のチョウマメチョウマメの豆は食用ビッグジョン7777さんこちらのお庭で こんなに珍しい植物を育てて居られます。ナスの白と黄珍しい植物がいっぱいあるので、又 行きたくなる植物園です
2018年09月28日
コメント(12)
こんばんは台風21号被害の為 一部しか周れませんでしたが、充分に楽しんで来ました咋晩 姉から読売新聞に以下の事が書かれているのを伝えてくれました。記事の内容は「この植物園には 樹木が15,000本あります。その中の370本が被害を受けて 完全に修復するには30年かかります。」そうそう、先ず最初に 我が家でも咲いているナンバンギセル入口近くのパンパスグラスの下。そろそろ終わりでした。以下 目に止まった花だけですが、羅列します。見流して下さい。(自分の記憶に残しておきたく)色とりどりの熱帯スイレンが見事朝 早かった(10時頃)ので、スイレンの美しい姿が 見れました。パラグァイオニバス向こうは 台風被害を受けた木です。以前見た オオオニバスの花は ピンク色だったような気がしますこちら「2016.11月に オオオニバスの花を 「咲くやこの花館」で見ました。 白が一日目 ピンクが 二日目 翌々日には茶色に変色」上は 一日目に咲いたばかりの初々しい姿でしょう。下は 名前は スル―天の川から引いていると聞きました 綺麗な水だから メダカ、オタマジャクシ、アメンボウが泳いでいましたが、上手く撮れず。絶滅危惧種が多い 日本種のコーナーミズアオイの綺麗な紫が 目を惹きました。コウホネはスイレン科だったのですね。何コウホネだったのか...ヒメコウホネコウホネアサザ初めて見たのは 石清水八幡宮でした。ヒメシロアサザ小さくてとても可愛いヒツジグサ未の刻に咲くから 未草ですって...画像が多くなってしまいますので、水のコーナーは終わらせて頂いて 陸は明日にさせて頂きます
2018年09月27日
コメント(16)
こんばんは姉に付き合ってもらい、大阪市立大学理学部附属植物園こちらへ行きました。台風21号の影響で 植物園の奥に入れなく、重機が入っていました。午前中は晴れ間も出ていたのですが曇って来たので慌てて 園に今日、園を訪れたのはクリスマスに使うスラッシュ松の松ぼっくりを買う為でした。園には 参考になる作品も展示されていました。そして 姉の家で コーヒータイム帰る3時頃は ワイパーも利かない位の豪雨が降りました。植物園では 台風被害の為 入口辺りだけが歩行可能。それは 明日以降にさせて頂きます。猛暑だった今夏の思い出はどこへやら今晩は 暖房を点けています
2018年09月26日
コメント(16)
こんばんは大阪城からダックツアーに参加八軒屋乗り場まで車 ナビ通りでしたが 左折を見逃しました。戻る為に 10分は費やし 1:15乗船時間が迫る中 焦りました。街中は Uターン出来なく 不便です(八軒屋とは 淀川三十石船の船着き場天満に八軒の宿があったことから命名)ダックツアー90分は 水陸両用バスに乗ります。(水上30分 陸上60分 3,500円)なかなか目立って こちらから見ているのか、見られているのか...(笑)窓ガラスはなく、風を受けて気持ちいいです。40人乗れるのですが、私達2人を含めて4人だけ。どこに座ってもOK(笑)台風21号の影響で 外国人が少ないせいでしょう。その狙い目で 大阪観光を決めた私でした 先ず知らなかった~~大阪の「筋」は南北、「通り」は東西の道路。土佐堀通り御堂筋中之島公会堂2016.7/28 中之島中央公会堂のガイドツアーこちら歴史博物館、NHK、大阪城、太閤園の前を通り太閤園こちら、こちら桜の宮公園川岸から Splashu Inバスの大型運転手さんから 船長さんに運転交代陸から水へ ちょっと 水しぶきがありましたが、それ程ではありません。案内のお姉さん、吉本出身かと思う位に 滑舌良く面白い 大川遊覧 泉布館2018.3/17 泉布観 こちら大阪造幣局水色の丸いのは 貨幣。紙幣ではなく硬貨大きな噴水を見てUターン自分の姿を八軒屋から見えます。バスが川に浮かんでいるようです(笑)陸へ上がる時は静かに今 渡って来た大川を陸から天神橋筋商店街が見える天満宮天満橋は大塩平八郎の所縁の地。あまりよくわかりませんでした。京橋口交差点辺りに 豊臣時代の石垣が小さく残っているのを 車窓から教えてもらいましたが、撮れず。豊臣時代の石垣は 徳川によって 埋められました。けれど 大阪人は 太閤さんの大阪城だと 信じています(笑)(大阪城石垣公開プロジェクトから写真を拝借) 解散して まだ3時、スエズ運河方式の毛馬閘門まで30分程。ちょっと走りました。2017.4/6 「蘇れ!淀川の舟運」大川お花見こちら、赤川鉄橋~毛馬閘門こちら2017.9/29 「蘇れ!淀川の舟運」毛馬閘門~天満橋こちらお昼御飯は おにぎりだけだったので、晩御飯は いつものお寿司屋さんで ちょっと贅沢。二日目も 目いっぱいの大阪観光でした
2018年09月23日
コメント(12)
こんばんは朝8:30出発 大阪城に向かいました友達が 若い頃に行っただけとの事。森の宮に着いたのは 9時過ぎ。ここから 大阪城公園内を走るロードトレインに乗車。9時20分頃だったか、始発。公園内では 9/4台風21号の被害 大木も倒れていました。同席した中国人姉妹(のような)から 色々尋ねられて 初めは昔覚えた中国語で応対。けれど 私のわからない中国語に彼女達が スマホの同時通訳画面を出して、スムーズに会話が成立(笑)今は 便利ですねぇ上品な美しい姉妹でした。極楽橋で 乗り換え。というのは 終点の豊国神社まで乗ると 一番天守閣に近いのです。ふと お濠巡りの御座船の方を見ると すぐに出発する模様。10分程待って 20分の所要時間お濠から眺める大阪城。石垣の高さは一番高い所で34mあるそうです。残念なのは 以前乗船した時は 船頭さんが面白おかしく説明してくれたのですが 今回は録音。3年前に 御座船に乗っています。その記事を御覧下さいこちら私は2度目だったから 感激がなかったのですが、友達は 満足してくれたでしょう。下船して 極楽橋からの 多分一番美しい天守閣豊国神社近くの桜橋を渡り 旧第四師団司令部庁舎(もと大阪市立博物館)が改修された「MIRAIZA OSAKA-JO」はっぴを着たボランティアガイドの方にミライザ大阪城の件を尋ねようと声をかけました。“御存知のように大阪城は昭和初期 市民の寄付によって再建された。その時に 陸軍庁舎も一緒に建てることを条件に大阪城建設を認められた。大阪城建設と同額金額で軍庁舎が建てられました”へぇ~~ そんな事、知りませんでした、勉強18日の観光客は 台風の被害で 相当少ないようでした。その証拠に 普段は 天守閣へ上る階段の下まで溢れる観光客ですが、18日はそれがありませんでした。先ずは 8階の天守閣へ大阪駅方面 スカイビルは隠れて見えません。阪急ヘップの赤い観覧車「MIRAIZA OSAKA-JO」や豊国神社NHKや歴史博物館7階以下は展示室になっていて、観たかったのですが、次の予定に間に合わない...桜橋の近くでは 市が出ていて、誘惑に負けそうでしたが、 次の予定に間に合わない...ロードトレインで 森の宮まで戻り、お昼を食べる時間もなく、コンビニで おにぎりを買いました。公園内は広くて 時間がかかります。次のダックツアー乗船の為に 天満橋八軒屋に急ぎました大坂城公園地図こちら
2018年09月22日
コメント(10)
こんばんはランチの後はあべのハルカスから 阪堺線の路面電車を見ながら 真っ直ぐに20分程の住吉大社こちら友達が何十年も前、家族と暮らした家が近くに在ったので、思い出探しに 一緒に行きました。この路面電車に乗って 私も その家を訪問したのが 懐かしいです。駐車場から歩いて行くと、社務所辺りで何やら楽しそう~~子供さん達のお神楽でしょうか?見せてもらおうと 見ると アッ警備の方は居られるものの 報道陣が全然居ないので 私的にお参りされたのでしょうか?去られる際のワゴン車の安倍昭恵さんが手を振られたので、振り返しました。その場には 私達しか居ませんでした。私達に挨拶して下さったのだから 礼儀でしょう鳥居前からお参りするのが これまた礼儀と 正面まで歩きました。振り返ると 路面電車が有名な反橋(私達は太鼓橋と呼んでいます)≪反橋は渡るだけで「お祓い」になるとの信仰があります。≫なかなかの急な階段。反橋のてっぺんから 反橋を写した橋を写しました。ここで、お札を求めました。第四本宮から 第一本宮まで順にお参り 住吉大社を出て 外国人に人気の新梅田シティが一番よく見える場所へ。南から北へ一直線。四つ橋筋から 土佐堀通 に向かい、約40分。 安藤忠雄氏「希望の壁」と スカイビルが一番よく見えるスポット一日目は 無事終了。6時頃には家でゆっくりしました
2018年09月21日
コメント(22)
こんばんは名古屋からの旧友とのシーンを振り返ります17日10時過ぎに 彼女と会いました。待っている間に撮った天王寺駅前商店街。周りは激変なのに、ここだけは 子供の頃と全然変わりありません。母親が 近くに在った叔父のお寺へ行く為に 私の手を引いて歩きました。茶臼山の河底池や あべのハルカスを眺めてから 一心寺参拝。四天王寺にも 行きたかったのですが、時間がなくて パス。天王寺界隈にも 人力車のお兄さんがいるのですね。振り返って ニコッと笑ってくれました。これは 載せないと申し訳ないあべのハルカス57階「GK」で昼食あべのハルカス駐車場に入るのは ちょっとややこしく去年12月 車で行ったのに間違って やっと 入れました(笑)この日 選んだのは和食通天閣が下に 今さっき 訪れた茶臼山の河底池、一心寺、案内したかった四天王寺が上から綺麗に見れました。ランチを済ませて 次へ向かいました前回のZK食事は 2018.12.22こちら
2018年09月20日
コメント(16)
こんばんは8/8 岸和田へ行った時 道端で見た アカバナユウゲショウ夕化粧と言いますが、昼間に咲いていました岸和田城の入口で展示されていた酒造用の甑用大釜(こしきようおおがま ) 岸和田市にある 信貴本家酒造から寄贈されたものです。「 信貴」とあるので、奈良県にある信貴山 朝護孫子寺と関係あるのかな?と撮ったのです。大窯の下にあるシュロの葉は誰かが置いたのでしょうか?(笑)8/12のタロとアルタロは暑くて、暑くて あられもない姿(笑)アルは 流し台のバットに納まって 自分の尻尾で遊んでいます。アルは猫にあるまじき行為猫も 水が恋しい暑さなのでしょう。8/3 猫は水を嫌うのに アルは水で遊んでいます。タロとアルの食器を洗っていました。アルには悪戯をされるので、2階だけで暮らし まだ1階デビューをしていません。2階は料理用流し台ではないので 好きにさせています。先日は 秋風が吹くように感じたのですが、まだまだ まだまだ暑いです
2018年08月12日
コメント(16)
こんばんはランチには がんこ寿司五風荘へ向かいました着くと 無料駐車場があるではありませんか。有料駐車場から ここへ車を移動。(有料駐車場といっても 1時間無料。1時間毎に¥100)安いのですが、タダ程安いものはないので(笑)がんこ寿司五風荘こちら12:30には 席に着けました。数日前 予約電話をしたところ、“予約をすると10%のサービス料がかかります。平日は空いていますよ。”当然 飛び込みで...(笑)食事はこんな風情がある庭園を眺めながら奈良 百楽荘や 太閤園 淀川邸を 彷彿とさせる 設定でした。私は 寿司定食、友達は 蕎麦定食 食後のコーヒーも とてもゆっくりした 一時間半程のランチでした。繁華街のがんこ寿司とメニューは同じかもしれませんが、雰囲気が違えば こんなにも素晴らしい食事になるのですね。(合計2,000円程)その後 庭園を散策岸和田城「新御茶屋」、「薬草園」の跡地に明治4年(岸和田城の廃城年)から 寺田財閥が 10ヵ月をかけて造営された「五風荘」。回遊式の日本庭園で3000坪の敷地があり主屋と庭園を見渡せる3つの茶屋がある。庭園の見学は自由となっている。なお、五風荘は現在がんこフードサービスが日本料理を提供する店舗として活用している。2時10分頃には 車に乗り込み、往は1.5時間かかったのですが、復は渋滞がなく、スイスイ。40分程で 東大阪へ帰れました。そして ペリカンの家さんでコーヒータイム。岸和田行きを御覧頂き ありがとうございます
2018年08月11日
コメント(20)
こんばんは岸和田城を出た後、岸和田だんじり会館へ向かいましたじつは、どうでもいいか...と 思っていたのですが、これが 私達三人の大ヒット岸和田だんじりこちらは 300年続き、勇壮 迫力とスピードで有名 全国に知られています。時には 亡くなる方も居られる位に 勇壮であり、危険です。岸和田だんじり会館へ入ると ビデオが始まったところなので すぐに部屋へ入るように促され、圧倒されました。それが 終わると 館内が明るくなり、昔のだんじりが展示されているのが浮き出されました。(全部 その町々から寄贈)紙谷町だんじり(天保12年製作)岸和田最古のだんじり(文化.文政年間製作)彫り物も凄いです沼町 (明治34年製作)その後 階を変わり、3Dで、凄い迫力の4分間平日でもあり、入館者は 私達3人だけでした。“ウワ~~、ウワ~~”と 大声を上げて お祭り現場に居る気分になれました。その後、係員さんの 詳しい説明を聞きました。海側と山側の9月と10月に お祭りは分かれていて報道されるのは 9月のお祭り。曳行のかき手の手伝いをお互いに行います。81基もの だんじりがあり、1基が1億円もかかります。そうそう、その為か 町会費は600円らしい。(うち辺りは、300円です。)だんじり会館は 市役所の建物であり、丁寧な説明をして下さった係員の方々は 観光協会所属だと仰っていました。3人とも “良かったね。こんなに凄いとは思わなかった”と話しながら 岸和田だんじり会館を出ました岸和田のだんじりは他の山車のように慎重に角を曲がるのではなく、勢いよく走りながら直角に向きをかえる。言葉では簡単だが、重さ四トンを超えるだんじりを走りながら操作するのは容易ではない。祭りの二日間、だんじりは定められた曳行路を何周も何周も駆け巡り、そして曲がり角ごとに「やりまわし」を行う。その迫力とスピードにおいては岸和田だんじり祭を上回るものはないと言える。昔は、穀物がたくさん取れるよう祈願したお祭りでしたが、今は社会の構造も様子も変わってきました。収穫をともに願い、祝うといったことからはじまった一年に一度の祭りは時代がかわり、社会が変わる中にあっても、人々の気持ちの根本に流れる「地域」を結びつける精神は、ずっと、つながってきています。(HPより抜粋)
2018年08月10日
コメント(18)
こんばんは8/8 純子さん、yumiさんと岸和田へ行って来ました。阪神高速東大阪線~近畿自動車道~阪和自動車道~堺泉北道~阪神高速湾岸道往復120kmでした。二人を迎えに行って 1時間程で到着の予定でしたが、通勤時間で 道路は激混み。1時間半かかって 10時半到着。コインパーキングに 車を入れて GO本丸の石垣には南東および南西側下部に周堤帯が存在する。これを犬走りと呼ぶ。城の防衛という見地から見ると非常に不利であり、なぜこのような構造にされたかはわかっていない。脆い泉州砂岩で造られた石垣が崩れるのを防ぐためという説が有力である。(ウィキペディアより抜粋)岸和田城は 1827年落雷によって天守を焼失。現在の天守は昭和29年に市民の寄付や旧城主の子孫である岡部氏の要望などにより再建された。 総工費は当時の金額で3460万円。(ウィキペディアより抜粋)大阪城も 大阪市民の寄付で昭和初期に再建されたものです。郷土愛に 乾杯です岸和田城の門先ず 天守閣の望楼下の八陣の庭と呼ばれる庭園の全貌が眺められます。さっき 渡って来た阪神高速湾岸道の岸和田大橋後ろには コンビナートや 船も見えました。後で ランチに行く予定の がんこ寿司五風荘3階の天守閣の望楼は 風がきつくて 帽子が飛ばされそうで脱ぎました。連日の猛暑でしたが、8日は 幸いにも 少し暑さが和らいでいました。31℃は 涼しく感じるのですね。資料展示室は ざっと 見回っただけです。岸和田城には 40分程の滞在でした岸和田城こちらこれ、面白く わかり易いです 和泉国守護であった楠木正成が甥の和田高家を岸和田に派遣して岸和田古城を築かせた。「岸」と呼ばれていた当地に和田氏が城を築いたことによって「岸の和田」と呼ばれ、「岸和田」へ変化したと言われている。(ウィキペディアより抜粋)尚、けん家持さんの岸和田へ・銀輪散歩こちら、続、続々により、岸和田城があるという事を知って 訪れたものです。
2018年08月09日
コメント(16)
こんばんは6/27 交野市立教育文化会館(歴史民俗資料展示室)で 交野の歴史を学びました。入口で ボランティアさんが居られる事を知り、お願いすると 快く説明して下さいました。 左:説明中のボランティアさん右:神宮寺は葡萄しか知りませんでしたが、遺跡もあったのですね。 今からおよそ2万年前の交野で、ついに旧石器時代がスタートしました。この頃から交野町神宮寺山麓の地に、握槌(ハンドアックス)を持った旧石器文化はじまる。6000年経つと交野市丘陵地の山麓部(藤阪、津田、神宮寺、星田、四條畷)にナイフ型石器を持った旧石器文化あらわれる。交野町神宮寺山麓に早期縄文時代の文化あらわれる。交野市星田旭に中期縄文時代の文化あらわれる。弥生時代の文化の展示もありました。紀元280年、肩野物部氏の祖先、伊香色雄命 (いかしこおのみこと)大和から磐船谷を下って天の川地方に入り、枚方伊加賀に住んで、この沿岸に農耕文化を広める。お話が前後している点があると思いますので、興味がおありでしたら、カタノの歴史こちらを御覧下さい。 以下、写真を撮ったものだけ紹介させて頂きます。三角板革綴衝角付胄(さんかくいたかわとじしょうかくつきかぶと)こちら古墳時代の戦闘に使われたものが 車塚古墳群(昭和48年、交野高校建設にあたり、発掘)から見付かりました。骨壷に使われたもの。奈良~平安時代に火葬が行われていました。 南北朝時代の廃寺となった尼寺から 見付かった「阿弥陀如来立像」あどけない童子のお顔みたいでした。(ガラスで上手く撮れませんでした)江戸時代の高札 二階へ上り、機織りをされているのを見学させて頂きました。河内木綿を栽培から 糸を織り、布にされています。倉治には 機織り神社があり、七夕さんの行事の際は賑わいます。 気が遠くなるような作業です。織り方の記録がないので、昔の布を見て 研究、伝統を絶やさないように頑張って居られます。その姿勢に頭が下がりました。撮っても良いとの承諾を得ました。二階には 少し前の時代の道具が展示されていて、懐かしい物もありました。説明を受けないと、きっと さぁ~ッと見過ごしてしまうものを 深く勉強させて頂きました。(とはいうものの 内容が深過ぎて 頭に中を通過してしまいましたが...)軽妙な語り口でお話して下さった 奈良大学学長 水野正好教授(先年お亡くなり)が 交野の遺跡にも尽力されたと ボランティアさんから お聞きして ここでも活躍して居られたと 懐かしく嬉しくなりました。1時間程もの熱心な説明を受けて 頭も心も満杯になりました。楽しい時間をありがとうございました
2018年06月29日
コメント(14)
こんばんは6/27 交野市立教育文化会館(歴史民俗資料展示室)こちらを訪れました。駐車場が建物の裏にあるので、入口を探しました。そこで、先ず この一角が見えて アッここ正面入口 重厚なこと中世ヨーロッパの城郭の雰囲気がある 屋根部分に狭間 下のビッグジョン7777さんのお写真が 素敵なのですが、私もせっかく撮ったので、御覧下さい(笑)ビッグジョン7777さんが詳しく説明して下さっているので、こちらを御覧下さい。二階は 機織り実演を見学出来ます。その天井は交野無尽金融株式会社時代の会議室で、お洒落なレリーフ。右:レトロな時計がかかっていました。 近畿大阪銀行は 昭和4年 交野無尽金融株式会社として設立。昭和17年 大阪市内に無尽金融株式会社が移転したのに伴い、交野町へ寄贈。以来 昭和45年まで交野町庁舎として使われました。無尽金融株式会社は今の銀行です。頼母子講(たのもしこう)みたいな存在だった事を初めて知りました。(ボランティアさんの説明を受けて)御参考に 無尽こちら一歩 入口をくぐると 昔 銀行であった雰囲気がプンプン。余談ながら 以前 惜しまれながら解体された 大阪駅前の大阪中央郵便局のレトロな建築、特にヒンヤリとした柱や石畳床を思い起こされました。ホテル ヒルトン(ロビーで)が出来るまで 郵便局 又は 大阪駅前の旭屋書店が 友達との待ち合わせ場所でした。交野市立教育文化会館の素晴らしい建築を味わい、うっとりしてしまいました。近くにありながら 全然知らなくて ビッグジョン7777さんのブログによって知る事が出来て 感謝です。更に 交野市内の歴史を紹介する「交野市歴史民俗資料展示室」では 熱心なボランティアさんの説明を1時間程に わたって受けました。交野市は こんなに歴史が古い所にはビックリでしたそれは 次に...
2018年06月28日
コメント(18)
全298件 (298件中 51-100件目)