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3・11・・・あの日、東京も激しく揺れました。
私は外出して駅前のビルの地下街にいました。地下なのに、大きくゆさゆさ揺れる壁、
壁がきしむ音、ビル内に響く大きな警報音、走り回る警備員さん。 自宅にいる夫と
連絡を取ろうにも、携帯がすぐに使えなくなり、帰宅を急ぐバスの行列に並びました。
不安がつのり、並ぶ見ず知らずの人とも「どこが震源かしら?」と話し込み、行列の
中から「○○町の通り沿いの家が潰れていたそうだ」等と大声の言葉に、とうとう
直下型地震!かと震え上がりました。 あとで知った事ですが、近くで潰れた家など
無く、一か所スーパーマーケットの非常階段が揺れで外れた個所があったという事
でした。まさしく流言飛語のたぐいが一瞬にして起こる事を知った時でもありました。
帰宅してみれば、「中へ入るな! 足元があぶないよ!」と、夫が掃除機をかけている
最中。 綺麗に飾り棚に収めていたロイヤルコペンの食器類、お気に入りの陶製の人形
など、皆落ちて壊れたようでした。バカラのグラスも、ベネッチアで手に入れた思い出
のワイングラス類もぜーんぶ。越して来たばかりだったマンションの5階は相当揺れた
ようで、観音開きの食器棚も飾り棚も全部扉が開き、バタバタ揺れたそうです。
それを目撃して夫は「ちょっと、覚悟したよ」と神妙な顔をしていました。
あの時は壊れ物の片付けに夢中でしたが、その後息子たちフアミリーが来宅して10人
あまりの家族が揃った時初めて、グラスが足りない、あのお皿が無い、と気づきました。
「形あるものは必ず壊れる」・・・と、あれから、物への執着が無くなりました。
あの黒い津波が押し寄せた宮古がご実家の友人がいます。
中継映像にご実家の店舗が濁流に飲み込まれていくのを目撃して、とてもTVが観られなく
なったと聞きました。東京で物流関係のお仕事をなさっていたご主人は、救援物資を積んだ
大型トラックを、まず日本海側へ走らせて、遠回りしながら2日かけて宮古に向かって・・・
無事にご実家の皆様と再会できた!と連絡が入った時は、皆ほんとうにホッとしたものです。
あれから1週間後くらいに、銀行のロビーで町内の若い顔見知りとばったり。
小さい女の子と男の子が一緒だったので「お子さん?♪」と尋ねたら、なんとご兄弟が福島
原発事故からご一家あげて避難してきていて「この子達は甥と姪なの」と言われて、なんと
言葉をかけていいかわからなくなり、「大変ね。頑張ってね」というしかありませんでした。
本当に、身近かに感じられることが多々ありました。
そして数カ月後、
ある日乗ったタクシーの運転士さんと「あの日」の話になりました。
その人は福島から上京して働いていて、福島の親戚は皆無事だったというので「それは良かった
ですね」と言ったあと、聞いた話に絶句。 実は、仙台に嫁いでいた娘さんと小さな赤ちゃんが
津波に飲み込まれ、赤ちゃんは見つかったけれど娘さんはその時まだ行方不明だという事でした。
私は目的の場所に着いても、かける言葉も無く、後部座席に固まってしまいました。
そんな私に、運転手さんは「いや~我々は我々で頑張りますから、今、毎日を楽しく暮らせる人は
その生活を楽しんで欲しいんです。それでいいんですよ」・・・と。
何故か私の方が励まされたようで、思わずこぼれた涙と共に「どうぞお元気でいてください」と
言うのが精いっぱいで、タクシーを降りました。
あれから10年、あの運転手さんは今も東京のどこかを走っているのかしら・・・
本当に様々な事がありました。
人生観、価値観、全てがガラッと変わる経験でした。
昨夜もドキュメンタリーを観ていました。両親を失い親戚の下で育った少年。 心のケアをして
くれたカウンセラーさんの話では当時の彼は、目がどこを見ているかわからなかった・・・と、
いうのです。 祭り太鼓を叩く幼い頃の少年、すっかり凛々しい青年になった彼が汗を滴らせ
ながら力強く太鼓を打つ今の姿・・・と、カメラはその少年を10年追い続けていました。
その彼が高校を卒業し目標を見つけ、福祉関係の勉強をする為一人暮らしを始めた、と希望の
春を感じさせるものでした。
先日の夜、長い電話をした友人とのお喋りの中でも「私達の世代はダメだけれど、これからの
若い子達には期待できそうな気がするわね」という話にもなりました。
「私達の世代はダメ・・・」というところに、反論もあるかもしれませんが (^_-)-☆
経済成長真っただ中で青春を過ごしてしまった私は、甘く緩く生きてきてしまったなぁ~
と、まったくそんな気持ちなのです。
