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千駄木は通称「谷根千」の一部であり、従って下町と見なされています。しかし、下町然としているのは不忍通り沿いの低地だけです。千駄木は不忍通りの西側ですが、その不忍通りには西側から本郷台地が迫っており、その台地の上は高級住宅地が広がっています。千駄木は下町の中の山の手という感じです。写真1 観潮楼跡 藪下通りに面する家の前に門の礎石や敷石が残っている。団子坂を上った本郷台地の上には、森鴎外の邸宅跡があります。ここからは遠く品川の沖が見えたところから、鴎外は自宅を観潮楼と名付け、ここで「雁」「高瀬舟」「阿部一族」「渋江抽斎」などの作品を書き、与謝野鉄幹、石川啄木たち歌人を集めたり、幸田露伴、斎藤緑雨などと文学論を談じたと言います。(写真1)写真2 漱石猫の家また、鴎外の住居跡から本郷台地を南へ行くと、英国から帰国した直後の夏目漱石が居を構えて「猫」「ぼっちゃん」などの小説を書いたと言われる漱石の旧居跡があります。今は塀に一匹の猫の像が立っているだけですが、ここは漱石が教授として勤務した本郷の東京大学にも近いところでした。(写真2)写真3 旧安田楠雄邸庭園本郷台地は、明治の文豪二人が住んだところですから、今でも下町とは違った格式のある屋敷町の面影を残しています。鴎外の観潮楼跡から北に進むと、安田財閥の創始者安田善次郎の孫にあたる安田楠雄氏が住んでいた邸宅があります。大正時代に建てられた近代和風建築として保存されています。(写真3)写真4 須藤公園立派な豪邸が建ち並ぶ整備された屋敷町を東に抜けて坂を下るところに須藤公園があります。須藤公園は、江戸時代の加賀藩の屋敷跡であり、明治には長州藩の品川弥二郎の邸宅となったところで、小さいながらも勾配を利用した風格のある公園です。(写真4)写真5 半床庵狸坂を上りきった所に都有形文化財に指定された久田流茶室の半床庵があります。一般の人は中へは入れませんが、和風の門構えと土塀で囲まれた風雅な屋敷です。昔はこの付近は雑木林が広がる俗称「狸山」と言われたところで、狸坂を下りたところが根津の谷で、谷戸川(藍染川)が流れていました。(写真5)写真6 坂の町 千駄木本郷台地から不忍通りに下りる斜面には、狸坂、狐坂、貉坂という名前の細い坂道がありますが、昔の風景を思い出させる名前です。今は下町に近い台地は生活するのに便利なので、台地から坂下までの間には戸建て住宅がぎっしり建て込んでいて、千駄木は閑静な坂の町です。(写真6)(以上)
2011.11.21
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東京で花街だったところには今でも旨い物屋が多いそうです。昔の花街は三業地と言いいまして芸者屋と待合と割烹料理屋が軒を連ねていたたところでしたから、高級割烹料理屋の名残りがあるためでしょう。浅草、新橋、人形町には江戸時代から花街がありましたが、震災、戦災で焼かれたこともあり、往時の名残りは見つかりませんが、戦災に遭わなかった根津や湯島などに古風な料理屋が残っています。根津の裏通りを歩いていたら木造三階だけの料理屋がありました。今では串揚げ専門店として有名な「はん亭」ですが、これも根津遊郭の近くの割烹料理屋の名残でしょう。一葉記念館を訪れた後、足を伸ばして土手通りを行くと古い木造の天麩羅屋と桜鍋料理屋が並んで建っていました。ここは吉原大門の近くですから花街近くの旨い物屋の名残でしょう。いずれも戦災を免れた古い木造の建物なので花街の名残りを感じさせます。(写真1、2)江戸時代に大山街道の休憩所だった道玄坂上の円山町には130年ほど前から花街があり、大正時代には賑やかな三業地だったそうです。渋谷の円山町は今ではラブホテルが集積する地域ですが、三業地名残りの高級料理屋が未だ一、二軒営業しています。(写真3)都内に続々と起ち上がる超高層ビルには、都市景観を楽しみながら食事できる高級レストランが数多く出店していますが、昔の花街近くで、下町に残る江戸の郷愁を感じさせる古風な木造の料亭や食事処で静かに食事を楽しむのもよいものでしょう。以上写真1 根津の串揚げ専門店「はん亭」写真2 土手通りの天麩羅屋と桜鍋料理屋写真3 渋谷円山町の高級料理屋
2024.01.27
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高島平団地光が丘パークタウンの公園光が丘団地のショッピングセンターとゴミ焼却所東京の街は、中心部の高層化を抑制し、市街地を横に広げて発展してきました。都市住民の住宅は、山手線のターミナル駅を始発駅とする私鉄の延伸に支えられて郊外に広がりました。やがて郊外も住宅地を確保するのが難しくなり、郊外での住宅の高層化が必要となります。こうして生まれた郊外の高層団地に、高島平と光が丘の両団地があります。両方とも民間開発ではなく、政府の住宅公団が計画、建設しました。高島平団地への入居は昭和47年(1972)に始まり、光が丘団地へは昭和58年(1983)です。居住人口は高島平が2万人、光が丘が3万人です。交通の便は建設時に都営三田線が高島平に、遅れましたが都営大江戸線が光が丘に直接入っています。両団地とも郊外と言っても、その後に出来た多摩ニュータウンほど都心から遠くなく、都心への地下鉄で直結しており、また多摩ニュータウンのような丘陵地帯ではなく平坦な土地にあります。両団地とも諸条件は良く似ています。しかし、二つの団地には入居時期が約10年の違いがあります。この10年間に団地住まいのニーズを満たす方法について多くの前進があり、居住者のための利便性が大きく改善されました。その違いは、日常生活のためのショッピング施設、憩いの場としてのオープンスペース、共用できる文化施設などです。高島平団地が建設された昭和40年代は、サラリーマンの住宅需給が逼迫していましたから、とにかく住むところを確保することが至上命題でした。こうして羊羹型の高層ビルが整然と、しかし味気なく建ち並んだのです。ショピング機能は出勤、帰宅のときに便利なように駅前に纏めて造られました。光が丘団地は光が丘パークタウンと称せられるように建設時から広大なオープンスペースの公園が用意されました。米軍住宅だったグランドハイツの返還時に建設されたのも幸運でした。地下鉄大江戸線が中心部に入り、そこにモダンなショッピングセンターも出来ました。ゴミ焼却所の煙突までが真っ白な貴婦人のようです。賃貸住宅の場合は居住者の若返りがありますが、両団地ともに入居者の高齢化が進んでおり、新しいニーズが出ています。その要請に添った団地機能の改善が望まれます。外国では大規模な住宅建設は公的機関でも行いますが、民間主導ですすめるケースが多くあります。英国では工場が郊外に移転すると鉄道沿線に従業員のためのニュータウンを造成するのです。米国の企業城下町は自動車社会ですから道路沿いに開発が行われました。欧米のニュータウンは日本のように密集せず、広域に広がっています。それだけ街としての機能をより豊富に備えています。それに引き換え日本の団地はベッドタウン型です。これからは、住むだけでなく、学び、交わり、働く機能を備えた街に変わる必要があります。遅れて開発された多摩ニュータウンではそのような動きが始まっています。(以上)
2008.12.21
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江戸時代から今日に至るまで江戸・東京は、湿地帯を開拓したり地先の海を埋め立てて、町の領域を広げてきました。しかしお台場はそれらとは違っていて、海の沖合に島を造って出来た孤立した陸地でした。というのは、お台場は、町の領域を拡大するためではなく、江戸という都市を外敵から守るための要塞島として造成したからです。アメリカのペリー艦隊が開国を迫り浦賀沖に現れ(1853)、幕府は江戸防衛のため海上砲台島を江戸湾に築きました。幕府の当初の計画では南品川の漁師町から深川の洲崎にかけて二重の首飾りのよう12基の砲台島を並べる予定だったと言いますから、その位置は現在の東京ベイエリアと呼ばれる東京湾岸地域に相当します。幕府には財政的余裕がなかったので最終的には6基の台場しか造りませんでしたが、1年後に日米和親条約が締結(1854)されたので、幸い砲台は一発の大砲も撃たずに済みました。そして六つの台場は昭和の初めまで残っていました。その後、船舶の航行に邪魔になるので取り壊され、残ったのは第三台場と第六台場の二つとなりました。現在のお台場は、この第三台場をベースにして埋め立て拡大したものです。第六台場はレインボーブリッジ展望台の足下に野鳥の無人島として残されています。(写真1、2、3)写真1 第三台場の石垣はかなり高い。写真2 第三台場の内側の遺跡写真3 野鳥の休息所 第六台場現在のお台場と言われる地域は、東京港埋立第13号地と第10号地を合わせた地域であり、行政区分で言うと、北部は港区台場、西部は品川区東八潮、南部は江東区青海となります。お台場は行政区が三つの区に跨がること、もともと島でしたから陸続きの埋立地と比べて往来に不便だったこと、そして何よりも広大な土地であることで、開発には長期間を要し、未だ完成していません。戦後の昭和38年(1963)から埋立地としての開発が本格的に開始されました。昭和49年(1974)最初にお台場の西部の突端に船の科学館が開館しましたが、そこに至る途中の土地はすすき野の広がる荒野であり、東京港の海底を掘削した残土で埋め立てている最中でした。(写真4)写真4 埋め立て途中のお台場のすすきの原それでも昭和54年(1979)に13号埋立事業が完成すると、臨海副都心開発の検討が始まります。マイタウン構想懇談会、東京都長期計画、東京テレポート構想、昭和61年の第二次東京都長期計画と矢継ぎ早に計画が打ち上げられます。お台場の建設作業は昭和64年(1989)から始まりましたが、折しも土地バブル(1988~91)が発生してり、その絶頂期に船出したお台場開発は、間もなくバブル崩壊に遭遇します。バブル崩壊(1991~1993)の逆境を打開するため、お台場で「世界都市博覧会」を開催(1996)することを計画しましたが、当時の青島都知事は開発見直しを主張して、博覧会を中止させました。世界都市博覧会が中止と決まると、お台場への企業進出や移転のキャンセルが相次ぎ、オフィス街として開発する計画は大幅に遅れます。その開発の遅れを取り戻すべく東京都では第三セクターを設けて開発事業の継続を図りますが、その後の開発は苦戦を強いられました。しかし、その間にも公共交通機関の建設整備は着々と進められました。平成5年(1993)お台場への架橋であるレインボーブリジが完成し、平成7年(1995)モノレールゆりかもめが完成します。平成14年(2002)りんかい線が大崎で埼京線と繋がり直通運転が開始され、千葉方面へは新木場では京葉線との乗り換えが可能となりました。(写真5、6)写真5 虹に見える夕方のレインボーブリッジ写真6 モノレールゆりかもめの高架線路そのため徐々に経済界にお台場に進出する気運が出てきて、フジテレビ本社の移転(1997)が実現しました。お台場新都市は日本の情報発信基地にしたいとの狙いがありましたから、最初にマスメディアの大企業が進出したことの意義は大きいものがありました。(写真7)写真7 フジテレビ本社ビル 独特のデザインが人目を惹くそして平成11年(1999)に石原知事が就任して、お台場の新都市開発事業は本格的に動き出します。折しも世界で都市間の国際競争が激しくなり、海外から優れた企業や人材を日本に惹きつけるよう日本の各主要都市も魅力的になろうとの気運が高まりました。そのため、政府は平成14年(2002)都市再生特別措置法を改正し、平成23年(2011)特定都市再生緊急整備地域を選定しました。そして、お台場はその特定地域の一つに選ばれ、首都として国際的に魅力ある都市造りに弾みがつきました。お台場はその目玉にとして注目されています。東京の都心部に集中する都市機能を臨海部に移転させる必要性から始められたお台場の臨海副都心構想は、首都の国際競争の強化のためにも必要不可欠の政策になったのです。それにしても、お台場の新都市開発は、土地バブルの崩壊に遭遇し、また「世界都市博覧会」の中止という行政的失敗により、思わぬ苦戦を強いられました。しかし、今やお台場の新都市は開発の遅れを取り戻しつつあります。(写真8)写真8 若洲海浜公園から見たお台場の高層ビル群 次回にその姿を見てみましょう。(以上)人気ブログランキングに参加人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ
2015.02.21
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続いて裏通りの代表例として「マロニエ通り」を取り上げます。「マロニエ通り」は銀座二丁目交差点で銀座中央通りと直角に交差する道です。外濠通りにあるプランタン・ビルとマロニエゲート・ビルの間がその入り口で、銀座中央通りにある銀座松屋の脇を通り、昭和通りに達して終わります。「マロニエ通り」は、その名の通りマロニエの並木道で、まろやかな小ぶりの柔らかな葉で覆われます。(写真1、2)「マロニエ通り」は裏通りの中での目抜き通りでして最も人通りの多い道です。入り口に当たるプランタン・ビル前は、何時も横断歩道を渡る人で混み合っています。因みに「マロニエ通り」に次いで賑わう裏通りは、銀座松坂屋(改築中)がある銀座五丁目交差点をよぎる「みゆき通り」です。「マロニエ通り」に人通りが多いのは、有楽町駅から銀座方面へ来る人にとって、「マロニエ通り」が松屋、プランタンという百貨店、およびシャネル、カルティエ、ブルガリ、それにルイビトンという有名ブランド店への通り道になっているからです。(写真2、3、4、5、6)それだけではありません。「マロニエ通り」の自慢は、藝術的美しさを誇る二つの高層ビル、デビアス銀座ビルとミキモト銀座二丁目本店ビルが「マロニエ通り」に建っていることです。デビアス社は南アフリカに本社のあるダイヤモンドのメジャーでして、デビアス銀座ビルはその旗艦店です。ミキモト銀座ビルは世界の真珠王御木本の銀座本社ビルです。(写真7、8)デビアス銀座ビル(平成19年2007竣工)は建築家光井純の設計によるもの、ミキモト銀座ビル(平成17年2005竣工)は建築家伊東豊雄の設計によるもの、共に世界的に知られた日本の建築家の作品であり、極めて個性的な建築美で道行く人々の目を楽しませてくれます。この二つのビルは、互いに意識して、銀座裏通りにパブリックアートとして展示されたと思います。「マロニエ通り」は道幅は狭いので、二つの高層ビルの全貌を眺めるのに苦労しますが、不思議な曲線の デビアス銀座ビルと、全ての窓が三角形のミキモト銀座ビルは、しばしショッピングの足を止めて、一見するに値します。日が暮れてビル内の光りが灯ると、個性的なビルは表情を変えてひときわ美しく見えます。(写真9、10)ダイヤモンドと真珠を売る会社のビルが同じ裏道に並んでいるというのは、いかにも銀座らしい豪華さです。(以上)写真1 マロニエ通りの並木写真2 プランタン・ビル写真3 松屋百貨店 左端はルイビトン専門店のファサードに写真4 シャネル写真5 カルティエ(現在改装中であり、写真は改装前の姿です)写真6 ブルガリ写真7 デビアス銀座ビル写真8 ミキモト銀座二丁目本店ビル写真9 デビアス銀座ビルの夜景写真10 ミキモト銀座二丁目本店ビルの夜景人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ
2016.10.05
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写真は、総武線錦糸町付近を流れるコンクリート底を露わにした大横川の姿です。名前は「大横川親水河川公園」と云いますが、ご覧のように水は流れていません。そしてだれも利用していません。もともとの大横川はこのコンクリートの下を暗渠となって流れています。大横川は江戸時代に湿地帯が埋め立てられたとき運河として開鑿された川です。この川のもう一つ東側に横十間川が流れています。これも江戸時代に開鑿された運河です。これらの川に「横」の文字が付いているのは、江戸城から見て横(南北)に流れているからです。江戸時代、大規模な水害対策として利根川の流れを東に向けて銚子沖へ流すようにしました。それまでは利根川は東京湾に注いでいました。ということは、東京の地勢としては川は北から南へ流れるのが自然なのです。従って、大横川も横十間川も隅田川と並行して流れる水量の豊かな運河だったと思います。大正、昭和と時代が進むと、墨田区、江東区は都市型工業の集積地となります。地下水の汲上げによる地盤沈下や工場汚水の流出などで、流れがよい筈の大横川、横十間川でも洪水や汚染が問題になりました。その対策として河川を暗渠とし、その上は綺麗な水を流して親水公園にしました。しかし二階建ての河川では無理があります。写真のように一部ではコンクリートの川底を曝した無様な水無しの大横川となりました。二階建ての暗渠は皇居の外堀、飯田濠でも見ました(「濠の上の濠はグロテスク」2008.6.8 ) 。これでお濠の見栄えが良くなる訳ではありません。多額の工事費をかけて自然を破壊しただけです。大横川の暗渠も同じ愚を犯していると思います。陸地に架かった嘗ての橋と、何にも使われていないコンクリートの広場は異常な光景です。大横川は上流で北十間川につながっています。北十間川は隅田川につながっています。ですから大横川の水量は調節出来る筈です。大横川の暗渠の部分は開渠にして自然の姿に戻した方がよいでしょう。そうすれば夏は涼しくなり、冬にコンクリート面の埃が舞うこともなくなります。江戸の時代には豊かな水で風流だった墨東の地域を昔の姿に戻そうではありませんか?(以上)
2009.02.18
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料亭 新喜楽料亭 金田中料亭とは高級な日本料理を提供するところで、屡々政治家が密談するところと人々は聞かされています。格式ある料亭は一見さんお断りであり、お客の秘密を守ることが固いので政治秘密や企業秘密を話し合う政治家や財界人に利用されると云うのです。そのような高級料亭として、東京では新喜楽、金田中が知られています(写真)。その他にも関西系の料亭、吉兆、辻留、美濃吉、なだ万などが東京に進出していますので、今では一般の人々も美味しい日本料理を楽しむことが出来ます。日本橋人形町にある料亭、玄冶店濱田家がミシュランで最高ランクの三つ星を獲得したと騒がれたのは二、三年前ですが、美味しい日本料理を提供する料亭は国際的にも注目を集めています。しかし、そもそも料亭とは、自前の板前が料理を作り、座敷で芸妓を呼んで客をもてなすところでした。料理も大事ですが、同時に日本的接待の様式を大切にしました。料亭の建屋は、日本式に造られていて、外見は簡素であり、看板などは表札程度に小さく掲げて、ひっそりとした佇まいです。本来ならば、建屋は庭園の中にあって静かな環境が望ましいのですが、都内では無理です。大抵は通りに面したり、ビルに囲まれています。中に入ると屈曲した廊下があり、部屋の出入りの客が直接出会わないように工夫されています。部屋は畳敷きで床間があります。古来、畳を敷かれた日本間は神聖な所であり、床間はその神聖のシンボルでした。すべての料亭は、この日本式を踏襲しています。今の料亭はグルメ指向の料理店ですから、料理店の店構えが簡素なものが多くなりました。ホテルの中に出店している料亭には、玄関もなければ曲がった廊下もない、和風食堂と同じです。しかし、グルメ指向の日本料理の食堂は、料理が美味しければそれでよいでしょう。むしろ料亭と称する疑似料亭の方に問題があります。戦前、料亭に似て非なるものに待合がありました。待合は、料理屋、芸者屋と連携して遊興の地を構成していました。それを三業地と云いました。戦後、多くの三業地の待合が料亭に変身したと云われています。待合は料理屋から料理を取寄せていたのですから、自前の料理の伝統はありません。待合は貸座敷業でしたから設備もそこそこです。料亭と云ってもピンからキリまであるのです。(以上)
2009.03.08
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表参道くらい建設した当初の目的から掛け離れた、思いがけない発展を遂げた街路はないでしょう。表参道はその名前の通り、明治神宮へ参拝する通路として造られましたが、今では国内外の有名ブランド店が建ち並ぶ、東京でも有数のファッション・ストリートになっています。京都の伏見桃山陵に葬られた明治天皇の遺徳を慕った東京市民が、東京にも明治天皇を祀る神社が欲しいと願い出て、大正時代に明治神宮が誕生しました。そのとき青山通りから神社正面の鳥居に通じる道として表参道が造られました。。明治神宮が造営された頃は、今の代々木や原宿あたりは荒れ地であり、人々が訪ねる場所でもなければ、当然のことながら大きな道もありませんでした。明治神宮が創建されたので、そこへ行く道路として大正8(1919)年に若木のケヤキの街路樹を植えた広い表参道が生またのです。今まで見た来た日本橋、銀座、新宿の街路には、今日の繁栄をもたらす過去の遺産がありましたが、荒野に誕生した表参道にあるのは、明治神宮の大鳥居とケヤキ並木だけでした。戦後の昭和30年代に撮られた表参道の写真を見ますと、戦災で焼かれて植え直された背の低いケヤキ並木が続く沿道には、同潤会アパートメントと、その向かい側に中層のビルがあるだけです。同潤会青山アパートメントは、関東大震災後の昭和2(1927)年に閑静な参道沿いに建設された、当時としては鉄筋コンクリート造りの高級集合住宅として目立つ存在でした。表参道周辺に大きな建造物が建ち始めるのは、昭和39(1964)年に東京オリンピックが開催された前後からです。表参道と明治通りが交差する神宮前交差点の角にセントラルアパートが建ち(昭和33年)神宮橋近くに米国スタイルの高級マンションのコープオリンピアが建ち(昭和40年)、その後、ヴィラ・ビアンカなど、パレフランス(昭和48年)など高級マンションが次々と建ちます。そして、そこにデザイナー達や文化的な仕事をする人達が好んで住むようになります。(写真1)表参道の始点は JR 原宿駅の近くの神宮橋です。神宮橋から少し進んだところに明治通りと交わる神宮前交差点があり、表参道の賑わいはこの交差点を起点にして始まります。新宿と渋谷からの交通の便が良く、また現在の代々木公園一帯に戦後暫くワシントンハイツという米軍の将校用住宅地があったことで、ハイセンスな人々の集まる街と見られました。神宮前交差点から表参道交差点までの表参道は、片道二車線の車道の両側に駐車レーンのある広い道路です。中央には分離帯もあるので、両側の歩道にあるケヤキ並木の大木が枝を伸ばしても、街路への圧迫感がありません。(写真2、3)表参道がファッション・ストリートへの変化を見せ始めたのは、昭和40年代(1960年代中頃)と言われています。もはや戦後ではないと言われたのは昭和31年ですが、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビの三種の神器も行き亘る昭和40年代には、人々はファッションへの関心を持ち始めた頃です。神宮前交差点の角に昭和53(1978)年ラフォーレ原宿が開店し、アパレルを中心としたファッションの街として広く知られるようになります。更に洒落れたレストラン、カフェも増えて、大人の街としてスタートした表参道に多くの若者や女性が先端的で洗練された表参道に集まるようになります。(写真4)来訪する客筋の変化に応じて、表参道の既存の商店も販売商品を変えたり充実させます。例えば玩具屋として外人観光客にも人気のある KIDDY LAND は、昔は地元の文房具屋でしたし、同じく外国人観光客専用のオリエンタルバザーは日本橋の古道具屋がワシントンハイツの米国人向け土産物店として出店(昭和26年)して東洋的ファサードの店舗を構えています。(写真5、6)更地同然でスタートした表参道は、その後、内外の有名ブランド店が次々と出店してきて、隙間のない街並みに成長します。ケヤキ並木にはイルミネーションが取り付けられて夜も賑わいます。(写真7、8)昭和初期の同潤会青山アパートメントは変化する街並みに合わなくなり、建築家安藤忠雄の手で平成15年モダンな表参道ヒルズに生まれ変わります。上層階を住宅とした複合商業施設ですが、同潤会青山アパートメントの外観を一部残して歴史の記憶に配慮しています。(写真)9、10)(以上)写真1 高級マンション コープオリンピア写真2 表参道の車道写真3 太いケヤキ並木写真4 神宮前交差点にあるラフォーレ原宿写真5 KIDDY LAND写真6 オリエンタルバザー写真7 中層ビルの表参道街並み写真8 中層ビルの表参道街並み写真9 表参道ヒルズ写真10 残された同潤会青山アパートメントの一部人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ
2017.01.18
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日本橋小伝馬町の交差点馬喰横山問屋街を訪れる人々 1馬喰横山問屋街を訪れる人々 2浅草橋の人形問屋の一つ 吉徳江戸時代には、隅田川とそれに通ずる運河を通って日本橋に物資が集まりました。日本橋から江戸の街々に、或いは江戸の近郊に、それらの物資は配送されました。日本橋は江戸時代から商業の街であり、流通の拠点でした。その歴史と伝統は、今も日本橋界隈に色濃く残っています。昔の物資集散地は、江戸の牢屋敷街として有名だった伝馬町辺りにあったのでしょう。伝馬町という地名は全国の交通の要衝地にありますが、当時は運送は馬に拠っており、運送業者を伝馬役と言い、彼らが住んだ町が伝馬町でした。日光街道への出発点であった付近には、小伝馬町と大伝馬町という町名が今も残っています。その隣に馬喰町と横山町がありますが、ここは東京でも有数の繊維問屋街です。馬喰横山新道問屋街は、街路の両側に繊維関係の問屋が隙間なく店を構えている一大ショッピング・センターです。これと並行して、やや規模の大きい問屋が並ぶ横山町大通りがあります。馬喰横山の繊維問屋街を通り抜けたところは、浅草橋のたもとです。神田川に架かる浅草橋を渡って江戸通りを北上すると、浅草橋駅辺りには日本人形の卸問屋が集まっています。人形好きの人なら誰でも知っている久月、秀月、吉徳の大きな看板が目に入ります。ここから蔵前橋までの江戸通りには、人形卸店の外におもちゃ、模型品、文房具、ビーズなどの服飾品、室内装飾品など、色々な問屋が散在しています。浅草橋から蔵前橋に至る江戸通りは、東北道や常磐道への街道筋ですから、小伝馬町辺りの伝統的な問屋街が延びてきた新しい問屋街です。隅田川の西側を北上する江戸通りは、流通業の拠点として恵まれているようです。その先には、関東最古の浅草寺があり、庶民の盛り場の仲見世があります。蔵前橋から少し行った江戸通りには、キャラクター・メーカーの大手バンダイの本社もにあります。日本橋小伝馬町から始まった江戸の流通業は、これからも江戸通り沿いに発展していくでしょう。(以上)
2007.10.21
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東京の都心部では超高層ビルが続々と建ち上がり、超高層ビルが集中する街区が幾つも生まれていますが、日本における超高層ビル群発祥の地は新宿西口でした。ここは以前、淀橋浄水所があったところで、70年余りの長い間、都民に水道水を供給していた場所でした。昭和40年(1965)浄水所が他所へ移転して、東京には珍しく纏まった空き地が出来たので、昭和52年(1977)東京で初めての超高層ビル群の建設が始まりました。当時の東京の市街地は、容積率制限のため中低層ビルが殆んどでしたから、西新宿に日本で初めて高層のオフィスビルが建つというので大いに注目を集め、何本かの超高層ビルが姿を現すと、人々から「のっぽビル」の愛称で呼ばれました。その後、昭和60年(1985)までに14本の高層ビルが完成し、平成3年(1991)には東京都庁が移転してきて西新宿の街区の骨格が定まりました。(写真1、2)写真1 新宿西口超高層ビル群を遠望する写真2 新宿西口超高層ビル群を覗き込む沢山の超高層ビルは一定の間隔を置いて配置されたビルは、形態と色彩が個性的ですが、中でも1990年に竣工した東京都庁舎は目立ちます。バブルの時代に丹下健三によって設計された巨大な二つの庁舎は、バベルの塔ならぬバブルの塔と揶揄されましたが、構造の重厚さの中にも表面に現代性があるあるデザインで、ランドマークになっています。(写真3、4)写真3 夕方の都庁舎写真4 幾何学的美しさを見せる都庁舎新宿東口(山手線の内側)には新宿三丁目の商店街やデパートがあり、更にその奥には歌舞伎町などの繁華街があるので昼夜分かたず賑やかですが、新宿西口は駅周辺を除いて夜はひっそりと静まります。新宿三丁目が新宿の街の消費を代表するなら、西口の超高層ビル街は都市型サービスを供給し生産するところであり、企業であれば本社機能が集まるところです。従って、超高層ビルが何本建っても昼間の人口は増えますが、夜の人口がそれ程増えるわけではありません。現在の住民は熊野神社の神主さんと新宿中央公園に集まるホームレス達だけだと皮肉られています。それに加えて、新宿西口の超高層ビル群が形成する街区には、日本橋や銀座の街のように人々が散策して楽しめるような街路がないのです。ビルとビルの間隔が広いのでビルの住人はそのビルの中で用事を済まして、他のビルへ移動することも少ないのです。新宿西口の街区が平面的な街区としてではなく、垂直的なビル単位の街区となった理由ないし原因は、ここが建築家の発想ではなくて土木家の発想で造成されたことです。そして、この土地は土木家が腕を振るうに適した地盤構造でもありました。(写真5、6)写真5 超高層ビルの基盤は浄水場の底写真6 浄水場の深さを示す壁ここで先ず気がつくことは、超高層ビル街を通り抜ける道路が立体化されていて便利なことです。それが容易に実現出来たのは、この土地が淀橋浄水場跡地であったためです。地盤が地表より掘り下げられていたので、その落差を活用した道路造りが容易に出来たのです。逆に言えば、それだけ地表の高さの街路の両側を楽しい商店街にすることが難しかったと言えます。(写真7)写真7 街区内の道路は立体交差既存の商業地に超高層ビルを建てる場合は、既存の周囲の商店街とビルとの出入りが容易になる工夫をします。例えば六本木ヒルズやミッドタウンは、ビルと周囲の街とを一体化しています。また品川再開発のように既存の商店街がない場合でも、全ての超高層ビルを近接させて建てて、歩道デッキのスカイウエイの回廊で繋ぎ、恰も一つに合同ビルであるかのように設計しました。その点で新宿西口の街区は超高層ビルが夫々独立して、孤立した街がいくつも垂直に立っているようです。しかし、そうすることで生じた余裕地が豊富にあるので、この街区は全体としてゆったりしています。その余裕を生かして、新宿アイランド・タワービルの前にパブリックアートを配置した一廓があります。近くにはホテルもありますので、仕事で集まる人々だけでなく、旅行者にも憩いの空間になっています。(写真8、9)写真8 新宿アイルランド・タワービルの前のパブリックアート空間写真9 新宿アイルランド・タワービル近くのパブリックアート超高層ビル街の先駆者である新宿西口は、後から誕生した品川や新橋・汐留などの超高層ビル群とはひと味違った街区です。(以上)
2013.07.11
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銀座から延びてきた中央通りは、今の新橋駅の東側で第一京浜国道に繋がります。丁度その場所で溜池、虎ノ門方面から延びてくる外濠通りが合流します。その交差点に旧汐留駅はありました。従って、旧汐留駅の跡地は、日本橋、銀座、品川、浜松町の旧東海道の路線上にあり、かつ、霞ヶ関の官庁街にも繋がる、立地的に見て都心の一等地でした。このような優良地が何故遅くまで開発されずに残されていたかと言うと、次のような事情によるものでした。国鉄を分割民営化する際に、民営化する JR 各社の経営を安定化するため、旧国鉄の膨大な債務を肩代わりする国鉄清算事業団を作りました。この事業団は国鉄の旧債務を負うと同時に不要な旧国鉄用地を所有しました。国鉄清算事業団は、膨大な債務を減らすために、貨物輸送の必要性が無くなった旧汐留駅の跡地を一刻も早く売却するつもりでしたが、時あたかも土地バブルの盛りであったので、国鉄清算事業団の土地売却がバブルを煽ることになるとして延期させられたのです。ようやく平成4年末頃までには土地バブルも収まり、平成7年(1995)に旧汐留駅の跡地について土地区画整理事業の全体像が決まりました。その構想に従い開発街区ごとに開発業者に土地が売却され、その区域単位でビルの建設を進めました。その結果、10数年の年月を掛けて所謂シオサイトが完成したのです。開発の全体計画では、一応、街区毎に商業施設などの業務商業系複合ゾーン(A~C街区)と、文化・交流系複合ゾーン(D、E街区)と、その他のゾーン(住宅、公園)に性格付けがなされていますが、出来上がったシオサイトは、そのような機能整備が十分でなく、外観も雑然として統一性に欠けるものになりました。(写真1、2、3、4)写真1 銀座側からみたシオサイトの看板ビルのシティセンター写真2 シオサイトの主要ビルの陣容は不揃い写真3 メディアタワーなどの裏側も不統一写真4 新橋駅西口前から線路越えに見たシオサイトのラインナップは凸凹例えば、六本木ヒルズや赤坂アークヒルズなどの再開発地区が持っている街の統一性および周辺市街地との整合性は、シオサイトにはありません。またシオサイトと同じく多くの超高層ビルで構成された品川駅東側の港南街区は整然としていますが、シオサイトのビルの配置やスタイルは無秩序なのです。また、街の外観から見た不満だけでなく、シオサイトの中心駅である大江戸線汐留駅を降りてシオサイト地区内を散策しても迷いやすく大変不便なのです。勿論、新都市のシオサイトには、地下通路と地上道路とデッキ通路の三層の通路が整備されていて、夫々の街区は結ばれていますが、通路を整備しても機能の配置が雑然としていれば外部から訪問する人々は迷ってしまいます。(写真5)写真5 デッキ通路を歩く人は少ない。六本木ヒルズや赤坂アークヒルズは、森ビルという一私企業が、長い年月をかけて多くのバラバラの所有者の土地を買収統合して広域の街開発を行った例です。それに対してシオサイトは、国鉄清算事業団一社が所有していた纏まった土地でしたが、それをわざわざ分割してデベロッパーに分譲して、夫々が好みのビル建築を許したのが、この結果だと思います。六本木ヒルズや赤坂アークヒルズの場合は、分割されていた土地を統合して一社の指揮の下に再開発したのに対して、汐留跡地の場合は、折角公的機関が纏めて所有していた土地を分割して開発業者にバラバラに再開発させたというのは、誠に皮肉で不可解なことでした。本来ならば旧汐留跡地の所有者である国鉄清算事業団が総合指揮者となり、分譲を受けた再開発業者に対して整合性のある街造りの条件を付けるべきでしたが、国鉄清算事業団はバブル期の高値で売る機会を逸したので、土地を高く売ることに精一杯で、そこまでの配慮が及ばなかったのでしょう。司馬遼太郎は、嘗て「土地と日本人」と言うエッセーで、国鉄の駅前はどこでも汚なく店舗が互いにどぎつく自己主張しているために醜悪という美的用語さえ使いにくいとまで酷評していました。そして次ように付け加えました。「国鉄の駅前は、その町の顔であり、ひとつの象徴でもある。他の町の者がそれについて罵倒すれば、その町のひとびとは名誉心の問題として抵抗を感ずる。たしかにひとびとは駅前を景色として共有しているのである。ただ、一面ではそうであるとは思っていない。駅前の土地は、その所有の多くが国鉄であり、他の多くが、商店、会社のものである以上、そこで何が建てられ、何がこわされようとも、所有権所持者の自由だと思っている。」一旦建ち上がった超高層ビルは、大地震でもなければ、半世紀以上に亘り建ち続けるでしょう。海側の美しい浜離宮庭園越しに醜いシオサイトを見ると、司馬遼太郎の言う駅前の醜悪が高層化して立ちはだかるのを見ることになります。(写真6)写真6 浜離宮庭園越しにシオサイトの全貌を見る。(以上)人気ブログランキングに参加人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ
2013.05.04
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都内で最初に誕生した環状道路は明治通り(環状5号線)です。最初に開通した部分は渋谷から神宮前交差点迄ですが、この部分は、昭和3年(1928)に渋谷川沿いの道路を拡幅整備したものです。その後、明治通りは渋谷区、新宿区、豊島区、北区、荒川区、台東区、墨田区へと延びて江東区の夢の島に達し、都内を一周する33kmの長大な道路になりました。環状道路は、元々放射線道路の迂回路の役目を果たすものでしたので、開通後暫くは街並みは閑散としたましたが、一番早く開通した渋谷から神宮前までの明治通りは、原宿近くの表参道交差点付近を中心として、渋谷方向と新宿方向の左右に向けて、賑わいのある立派な街路に成長しました。戦前は、表参道交差点も明治神宮参拝の人々が訪れる静かなところでしたが、戦後に明治神宮の南にワシントンハイツと言う米国空軍の兵舎と家族用宿舎が建設されて、原宿周辺にも米軍関係者が訪れるようになり、アメリカ文化の香りが漂う地域に変化します。戦後間もない日本人にとって、アメリカ人の生活スタイルやファッションは時代の先端を行く憧れの的でしたから、多くのファッション・デザイナーや文化的職業人が原宿周辺に集まりました。現在の表参道のファッションストリートが、銀座、新宿、六本木などの街並みとは一味違った西欧的雰囲気が強いのは、このような街の発展のスタートに原因があるのです。いま神宮前交差点の四つ角に東急プラザ表参道原宿(平成24年竣工)がありますが、嘗てここには中層階のセントラルアパート(昭和33年~平成10年)が建っていて、その名の通り、米軍関係者のアパートだったのです。しかし、米軍関係者が去ると間もなく、下層階に商業施設が入り、上層階はオフィスとなり、雑誌、出版に関係する文化人たちの仕事場になりました。平成時代に入るとセントラルアパートはティーズ原宿(平成11年~22年)という総合商業ビルとなり、GAPの旗艦店が入居してファッション・ビルに様変わりします。表参道のファッションストリートの発展は、このティーズ原宿が出発点でしたが、その向かい側にラフォーレ原宿が出店して夏のグランバザールを開催して大熱狂を呼び起こし、それで明治通りがアパレルの街として全国的に有名になる切っ掛けでした。現在はティーズ原宿は東急プラザ・ビルとなり、明治通りを挟んでラフォーレ原宿と対峙しています。(写真1、2)神宮前交差点に地下鉄千代田線の原宿駅が誕生すると、JR原宿駅を乗り降りする人々と合わさって、神宮前交差点の人通りの多さでは、渋谷のスクランブル交差点を思わせる程の賑わいです。この交差点を渡る人々は、表参道のファッションストリートへ行く人、明治通りをショッピングする人、そして竹下通りに集まる若者達、更には裏原宿という裏道を探索する人の群れです。(写真3、4)(以上)人気ブログランキングに参加しています。応援をよろしくお願い致します。人気ブログランキングへ写真1 神宮前交差点角に建つ東急プラザ表参道原宿写真2 神宮前交差点角に建つラフォーレ原宿写真3 神宮前交差点を渡る人の波写真4 神宮前交差点を渡る人の波写真5 神宮前交差点を360度写す万華鏡
2019.06.26
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