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昨年の10月初めの頃でしょうか、TBSの「新知識階級クマグス」という深夜番組から電話があり、口説きの専門家として出演していただけないかとのこと。その番組を見たことがなかったので、とりあえず面白そうなので、見てから連絡する、ということで電話を切ったのでした。これがきっかけとなって、この番組には何度も出演することになったのですが、驚いたことに、「クマグスを見た」という人からずいぶん連絡があり、また口説き本を増刷する、リメイク本をつくる、新しく書き下ろしてほしい、という依頼まできています。それだけではありません。同時に出演した合コンの女王、水谷舞さんとも親しくなり、一緒に組んで何か仕事をしようか、という話にまでなってしまいました。恐らくまだ別の話が持ち込まれるかもしれません。私がここでいいたいのは、「面白そう」と思ったらすぐ行動に移す、という決心です。その行動が、面白い人生を演出してくれるのです。かりに「口説き番組なんてアホらしい」と思って断ったら、その後の面白いことは、何も生まれなかったのです。そしてなお、ここがいいたいのですが、私が行動を起こしたことで、水谷舞さんという1人の女性の考えにまで、影響を与えたということです。これは彼女にかぎらず、誰の場合でも同じであって、自分の行動は必ず他人に影響を及ぼすものです。そして、この影響力の大きい人ほど、有名になるなど、有利で大きな存在になっていくことでしょう。いま人気の坂本龍馬という男は、丁度そんなタイプだったと思われます。一介の土佐浪人でしたが、彼が行動を起こすことで、最初は少しずつ他人に影響を与え、遂には天下を動かすほどの影響力をもつに至ったのです。その龍馬は多分、最初は「面白そう」というところから、始めたのではないでしょうか?大阪が面白そう、江戸が面白そう、外国が面白そう・・・・と、考えたら、即座に行動に移したようです。すると、まだ誰も考えつかない時期に行動を起こすのですから、当然注目されます。注目されれば、その存在は益々大きくなり、影響力も強まるのです。あなたもぜひ、どんなことでも「面白そう」と最初に思ってください。それが自分を大きくする第一歩なのです。「つまらない仕事だ」と、いい加減にしないことです。つまらなくても、面白くして見せる、という心構えをもつことで、多分あなたの運命は、劇的に面白い人生に変わっていくと、私は思うのです。
2010/02/27
「いいことも悪いこともつづくから、気をつけないさい」若い頃私は、ある占い師から、こういわれたことがあります。多くの人たちから、さまざまな教訓をいただいてきましたが、長い間、私の頭の中にこびりついているのは、この教えです。それというのも、私の57年に及ぶビジネス人生で、まさにこのことが、何回も起こったからです。それでも、いいことがつづくのはうれしいことですが、悪いことがつづくとなると、いまだったら、うつ状態になるのもよくわかります。恐らく誰でも1回や2回は、この経験があるのではないでしょうか?私の人生最悪期は35歳頃でした。 週刊誌の編集をしていると、実にさまざまなことが起こります。売れ行きの悪い時期だと、それだけで気がめいりますが、そんなときにかぎって、悪いニュースが飛び込んでくるものです。部員が事故を起こした、芸能記事で訴えられた、暴力団が押しかけてきたなどなど、編集長としては、からだがいくつあっても足りません。こうしていくうちに、私はある法則を発見したのです。それは「1つ悪いことが起こったら、必ず3つつづく」というものです。そこでデスク以上を集めて、不安なもの、危ない記事などがあるか、調べさせることにしたのです。こうしていくことによって、3つつづかなければ幸運だった、と思うようにしたのです。これは現在の私の人生哲学になっています。つい先頃、元巨人投手の桑田真澄氏の実父が焼死しました。すると2、3日して、今度は彼の元義兄が暴力事件を起こして、逮捕されています。2つつづけて悪いことが起こったのですから、もう1つ起こる可能性が高いのです。「2つあることは3つある」と覚悟しておけば、非常時を切り抜けられるでしょう。「ゴマキ」こと後藤真希は元「モーニング娘。」のアイドルでした。彼女は16歳の時に3階建ての家を建てて、母親にプレゼントしています。今回、この家の3階から、この母親は転落死しています。その前に夫は山で遭難死しており、息子は強盗致傷で逮捕服役中です。ともかく3回連続して、悪いことがつづいてしまいました。このように、1回悪い運が体に付着すると、なかなか洗い落とすわけにはいきません。「運が付く」といっても、幸運とはかぎらないのです。私の人生をふり返っても、どうしてこんなに悪いことばかりつづくのか、と思わず泣きたくなることもありましたが、これだけはどうしようもないのです。それでも60年近く、ビジネスを継続できたということは「悪いことは3回つづく」と観念した点にある、と思っています。あなたも、この教えだけは覚えておくほうがいいかと思います。3回つづいて当然と思って備えていれば、覚悟ができるからです。でも人生が楽しいのは、「いいことも3回つづく」可能性があるからです。そう考えれば、「自分の人生もまんざらではないな」と、満足できるでしょう。年の初めの教えとして、メモしておくことをすすめます。
2010/01/31
井上陽水の「紅白歌合戦」出演が内定した、とスポーツ紙が報じている。陽水はこれまで「恥ずかしい」という理由で断ってきたといわれる。たしかにサングラスをかけるタイプには2種類あって、1つは威圧を加える男女に多い。強さを誇張したいからなのだが、近寄りたくないタイプだ。もう1つは、恥ずかしがり屋である。他人から目をじっとみつめられると、目をそらすタイプがいる。好きな人にみつめられたら、思わず目を伏せたり、モジモジするものだ。これによって、自分が好かれているかをテストすることもできる。それはともかく、目を見られるのが恥ずかしくて、サングラスをかける人も、意外に多いものだ。井上陽水もそうなのだろう。彼の癖毛にサングラスをかけはじめたスタイルは、1974年ではないかといわれているが、実はその頃から彼の実力が発揮されている。くわしいことは省くが、彼が運命的に激変し、それが上昇していったきっかけは3つある。まず第一は、大学受験に失敗したことだ。彼の生家は福岡県の歯科医であり、彼は父のあとを継ぐべく、九州歯科大を受験したが、3度不合格となってしまった。だが、この失敗があったからこそ、歌手の井上陽水が生まれたのだ。ここが人生の面白いところで、「失敗は成功の母」ともなるのである。第二は「陽水」という本名の漢字を芸名に使ったときだ。芸能界というのは、大体において本名を嫌い、事務所はすぐ芸名を用意する。陽水の場合もそうだった。もともと井上は「いのうえあきみです」といっていたらしい。本名は「陽水」と書いて「あきみ」と読む。この「あきみ」が井上の魁偉(かいい)な容貌に似つかわしくなかったので、いくつかの芸名が用意されたのだが、あるときプロデューサーから「名前はどういう字を書くのだ?」と聞かれて、「陽水」と書くと、「そんないい名前だったのか!」と驚かれたらしい。ここで吉田拓郎に対する歌手として「拓郎と陽水」の2強時代となったのだ。この名前をつけた両親にいくら感謝しても、足りないくらいだろう。第三のきっかけは、文壇に彼のファンをつくったことだった。たまたま五木寛之が彼の生家の近くの出身だったが、井上の家系は、明治の社会主義者であり、大逆事件で死刑になった幸徳秋水(こうとくしゅうすい)とつながっていると書いたことも、大きなプラスになった。これが事実かどうかはわからないが、安保闘争時代だけに学生にうけたことは間違いない。人間は、一つのきっかけで大きな運をつかむのはむずかしい。小さい運であれば一つでも上昇するが、大きく羽ばたくとなると、陽水のように、三つくらいは必要となる。この三つのきっかけのつくり方は、次回この稿で説明しよう。あなたも大運をつかもうではないか!
2009/11/17
本当に思いがけないことで、記憶が甦えることがある。最初は「週刊新潮」が報道したものかと思うが、スポーツ紙もそれを大きく取り上げた。それは酒井法子が「千葉県大網白里町」に住んでいるという記事だった。いま現在、彼女は全マスコミをふり切って、どこに住んでいるかを隠しきっている。これは珍しいケースで、もしかすると新聞、テレビ、週刊誌の「調査能力」は不況のため、格段に落ちてしまったのかもしれない。それは別として、この「千葉県大網白里町」は私にとって懐かしい匂いのする町で、太平洋戦争終結の前夜、4年間にわたって住んだところなのだ。私はその半生を通じて、自分でも「すごいな」と思ってしまうのは、常にタイミングよく、時代の波頭にぶつかってきたことなのだ。今回の「大網白里町」報道は、時代の波頭と何の関係もないが、しかし、仮に私が現在週刊誌の編集長であれば、他社の報道を、はるかに引き離すことができるだろう。この町がどういう雰囲気を漂わせた土地なのか、手に取るごとく知っているからだ。1人の人間にとって、自分だけの話題をもつことは、予想以上に大切だ。それは確実に運命に変化をもたらす。たとえば編集会議で「のりピーの潜伏先は大網白里町ってところらしいぞ」と、デスクが話したとき、「そこなら、私が4年間、疎開で住んでいました」といったらどうだろう?これによって、注目されることは、いくらでもあるものなのだ。私は長年、週刊誌の編集長を務めてきたが、世の中に出て有名になったり、あるいは出世コースに乗った人のほとんどは、その人ならではの実話をもっていたように思う。それこそ、時代の波頭の白いしぶきを浴びた人たちなのだ。日本経済新聞朝刊の連載「私の履歴書」を読んでいると、「へえ、この人があの事件の黒幕だったのか!」「この人があの大事業の提案者だったのか?」と驚くことが多い。朝日新聞に連載されている瀬戸内寂聴の「奇縁まんだら」を読んでいても、実に大勢の人物と多くの事件に出会っている。だからこそ、いま作家の頂点に立っている、と私は信じてる。もし、有名になりたければ、奇縁を結び続けることだ。いや、奇縁かどうかは別として、人でも場所でも事件でもいいから、できるだけ興味をもって、「その場に立つ」ことだ。私はかつて公娼制度の廃止の日、わざわざ吉原の赤線に行っている。1957年3月31日のことだが、当時26歳だった。明日から吉原はなくなる、という前日にその場に駆けつけたということは、「歴史的立場にいた」ことを意味するし、いまになってみれば、そんな人はめったにいない。これは一つの例に過ぎないが、運命というものは、時代の転換点の現場に立つ人には、必ず有利に働くように思う。そんな記憶の小箱を一つでも多く、持っていくことをすすめたい。
2009/11/01
「クレヨンしんちゃん」の作者、臼井儀人さんが群馬県の荒船山で遭難した。連載していた双葉社によると、臼井さんのカメラには、山頂から撮ったあたりの風景が映っていたが、最後の1枚は絶壁真下の風景だったという。恐らくは、身をのり出して撮った直後に転落したと思われるが、私たちの運命は常に、スレスレのところで生死を分けている。「そんなムリしなければよかったのに」ということは、誰にでもいえる。埼玉県の住宅が火事になり、老夫婦は一旦逃れたが、息子2人が2階にいる、ということで、父親は再び屋内に入っていった。子を思う父親の心は、結局仇となって、3人の焼死体が見つかったという。恐らく本人は助け出せると思って、中に入ったのだろうが、生死はほんとうに微妙なところで分かれてしまうようだ。私の知っている例では、戦争中、ポケットに部厚い手帳を入れていたおかげで、弾丸が貫通ぜす、助かった人がいる。その手帳は紙質がよく、外側がレザーだったが、これが命を救ったといっていた。近頃の本のように紙質が悪ければ、弾丸は簡単に貫通するらしい。こう考えると、なにが運命を左右するかわからないが、ムリをするにしても、しないにしても、運というものは、人事を超越するものがあるだろう。かつて、私の知人がタクシーに乗っていて、大事故に遭ったことがある。このとき1人は助かって、1人は死んでしまった。亡くなったほうは、まじめで誠実な人柄で、酒も飲めない体質だった。助かった男は、ふだんから酒乱の気があり、いつも上司から注意を受けていた男だった。警察の調べでは、なんと酒を飲んでいたため、事故の瞬間に、からだがタコのようにぐにゃぐにゃになったことで、衝撃が柔らげられたのだという。一方、亡くなった男は正気であったため、事故に対して瞬間的に身構えたため、かえって強い衝撃を受けてしまったのだ。これで酒は飲んでいるほうがいい、とはならないが、生死を分けるものは、人柄や生活態度でないことはたしかだ。しかし、運命というものの怖さ、不思議さを知っていれば、ほんの少しでも悪運から逃れることができる。ある医者が実に不思議なことを教えてくれた。「目まいがして、外を歩くのが不安だったら、傘をもって歩くといい」という。「それは、とっさのときに、傘をついて、よろけるのを防ぐということですか?」と尋ねると、そうではないという。「人間は2本足の生き物だが、傘を1本もっていると、頭の中で3本足になったつもりになり、それだけで心も身体も安定する」というのである。科学の立場からいえば、「そんなことはありえない」という医師もいるだろう。しかし神社のお札ではないが、それを身につけているだけで、心の安心感を保てることも事実である。ムリはしないに越したことはない。しかし、ムリしなければならないときも、現実にはあるのだ。そんなとき、なにか1つでも、心の支えになるものをもっているほうが、運命は味方してくれるような気がする。ペンダントに好きな人の写真を入れておくだけでも、大きな違いになるという。それは、そこに触るだけで、一瞬心が落ちつくからだというが、あなたもこの教訓を実行したほうがいい。
2009/09/24
早稲田運命学研究会の先輩というか、兄貴分に、経営アストロロジー協会という団体がある。その名の通り、こちらは経営者が集まって、星と仕事の関係を、実地に生かしている。この協会の女性会員だけに、先週「自分の運命の見つめ方」という話をしたのだが、ここでは、大きく、3つのポイントをあげた。(1)自分の運命より大きな波が押し寄せたら、必ず飲み込まれる(2)人の行く道の反対に、幸運が待っている(3)女性の運命には「愛と性」という、思いがけない障害があるかりに戦争が起こったら、個人の運命は、国家の運命に飲み込まれてしまう。勤務している会社が倒産したら、社員1人ひとりの運命は、完全に狂ってしまうのだ。どんなに幸運の星の下に生まれても、とりあえずは、その激変から逃れるわけにはいかない。とはいえ、その激変の中で、再び個人の運は芽を吹くのである。次に、大勢の行く道を歩くことは、あまり上策ではない。大衆というのは熱狂しやすく、その先には、破滅が待っていることすらある。そんなとき、立ち止まって、反対の方角を歩いていくには勇気がいるが、そのほうが正しいことがしばしば起こる。私は天邪鬼(あまのじゃく)で、みんなが寝入っている深夜に働いている。この原稿も午前2時に書いているが、そのほうが、よい原稿が書ける気がするのだ。さらにもうひとつ、これは女性にとって危険な瞬間だが、愛と性によって、いまの幸せが、瞬時に吹き飛ぶこともある。この男にめぐり合わなければ、運命は激変しなかったものを、運命のいたずらによって、人生に複雑性が加わってしまった女性の数は、驚くほど多い。もちろん、上昇運にめぐり会う女性もいるが、その多くは不幸への道をたどることになる。「私にかぎって、そんなことはありえない」といっていても、これだけは、なんともいえない。なぜなら、恋や愛というものは理性ではなく、感情によってわき起こるものだからだ。いや、電流のようなものだ、という女性もいるだけに、全世界で恋愛小説は、毎日毎日、尽きることなく生産されていくのである。脇から見ていると、明らかに「この女性の運命は激変し、どん底に落ちていく」という姿が映って見てることがある。本人はわからなくても、そばにいる人のほうが、はっきりわかってしまうのだ。できれば、そばの人に「私の生き方は大丈夫か?」と、ときどき聞いたほうが安全なのだが。
2009/09/18
ここにスタートがそっくりの2人の法子(のりこ)がいる。2人とも九州の福岡出身である。この2人は歌手になる希望を抱いて上京した。サンミュージックの相沢秀禎会長に認められたのだった。そして2人とも東京の堀越高校を卒業した。蒲池(かまち)法子はここで松田聖子と名づけられた。酒井法子は本名のままデビューとなった。これにはわけがあるが、それを見抜いた相沢秀禎は、さすがに鋭い。酒井法子は、イラストレーター、漫画家としての才能ももっていたという。中学生の頃から、「のりっぺ」とあだなされていた法子は、その頃「のりピーちゃん」というキャラクターを生み出し、日本自動車工業会の交通安全ポスターにも使われたほどだった。相沢は最初、「法子」は固すぎると考えたに違いない。松田聖子の例も、頭をよぎったかもしれないが、この「のりピー」というキャラが、おきゃんなレディというキャッチフレーズにぴったりだ、と思ったのだろう。これが「いただきマンモス」「うれピー」という「のりピー語」を生むことになった。売り出しは大成功だった。2人の法子は順調にスターへの道を突進し、運命はそのまま光輝くかに見えたが、2人の運命の分かれ道は、父親が死んでから後の環境にあったのではないかと私は推測する。父親か亡くなっても、松田聖子は、早くから福岡から上京していた母親がいて、娘のために精神的な支柱となっていた。一方、酒井法子は、不幸にも、実の母親とは幼いときに別れ別れとなったままだった。若い女性タレントにとって、家族の支えがあるかないかは、とても大きい。松田聖子の場合は、結婚、離婚、不倫などなど、ありとあらゆる喜びと悲しみを経験しながらも、常にそばに母がいる、という心の安定感があったのかもしれない。いわば、男に頼らずにすんだのである。ところが酒井法子は違った。両親との別れによって、男に頼らざるをえなくなってしまった。そして結婚したのが、高相祐一だった。酒井法子の運命にひび割れができたとすれば、このときだろう。この夫によって、覚醒剤をすすめられたことで、順調だった生活は一挙に暗転し、転落してしまった。この覚醒剤だけは、禁断の木の実だった。松田聖子は見ようによっては、非常に奔放だが、同世代の女性にとっては、むしろ憧れであり、自分たちができないことを、代わって行動してくれているようにも思えるのだろう。むしろ松田聖子に親近感をもちこそすれ、去っていくファンなど1人もいない。しかし、麻薬、覚醒剤は違う。一部の熱狂的なファンは、このあとも、のりピーから 離れはしないだろう。しかし多くの女性たちは、そうはいかない。どんなに好きでも、夫や子どもをもっていれば、いつまた再犯で、逮捕されるかわからない歌手に拍手を送るわけにはいかないからだ。結局、酒井の場合は相当厳しい制裁を受けることになるだろう。2人の法子の運命は、ここで決定的な差となってしまった。しかし今回の場合、酒井本人には、こうなることは、薄々わかっていたはずなのだ。運命の神は、それを傲慢にも見逃した酒井を、許さなかった。
2009/08/14
手の指には左右10個の指紋があるが、足には12個の指紋があることは、あまり知られていない。もちろん足指は10本だが、指紋は、左右の親指の下にある丘にもあるのだ。この左右の丘をじっくり観察してみよう。ここは大地に立ったときに、地の神に「私はいまここにいます」という信号を送っている丘、と解釈することができる。では天の神に信号を送っている部位とはどこか? 髪の毛であり、拍手、柏手(かしわで)である。だから昔から髪には神が宿るといわれてきた。柏手は「私はいまここにいます」と天の神に送る信号であり、いい音を出す人ほど、神の耳に届きやすいといわれている。つまり、神の恵みを受けやすい人でもある。私の足の裏の丘には、左右とも正しく巻いた足紋がある。この足紋がきちんと巻いている人ほど、らせん状に地中深く住む神のみもとまで、信号が届いていく。私はこのことを、22歳のとき、占いの天才であった作家の五味康祐氏から指摘された。「きみは天の神より地の神に愛される。地に足をつけて、じっくりと仕事をつづけていけば、必ず成功する」私が運命というものを意識した瞬間だった。実際、以後の50年以上、私の運命はこの通りで、ときに地に足をつけていない儲け本位のことをやると、必ずドカッと運命が落ち込んだ。それは驚くほど正確で、神さまが目の前で私の一挙一動を見つめているのではないか、と思うほどだった。要は私の場合は、株式投資をはじめ、その種の投資はしてはいけない体質なのだ。このことを本当に悟ったのは、わずか15年ほど前のことだった。それまでの私は、心のどこかに自信めいたものが居座っており、「失敗はありえない」と思っていたのだ。しかし、いまようやく、運命の神は間違いなく、私自身を直視していると悟り、神の前に畏れを抱くようになった。だからこそ、1人でも多くの人に、運命のよろこびと恐れを知ってほしいのである。一体、あなたはどういう運命をもっているのか--それもなるべく早く、正確に知ってほしいと願っている。
2009/07/28
「長生きは遺伝子部分が25%、残り75%は生活習慣」と唱える医師がいる。慶應大学医学部眼科の坪田一男教授がその人だが、非常におもしろい説だ。「わが家は長生きの家系だ」と思っている人々は、地方の村落に多い。そこには食事を含めた、一定の生活習慣が根づいているからだが、長生きの遺伝子部分は、まったくわかっていなかった。かりにこの「長生き」を「運命」としてみたらどうなるだろう。私たちは誰でも、25%の運命遺伝子をもっている、といえなくもない。「4人に1人は成功する」とは、よく知られた法則だ。10人中2人が成功し、8人は2人のための踏み台になる「8:2の法則」は、誰でも知っていよう。しかしこれまでは、「10人中成功者は2人」と定義づけられてはいたが、あとの8人に救いはなかった。ところがこの長生きの理論でいうと、生活習慣さえきっちりしていれば、誰でも成功者の中に入れることになる。たとえば、いくら豊かになっても、早く死んでしまったら、その人は失敗者だ。運命というのは、意外に平等だと思うのはこの点だ。私の知人に、大金を握った男がいたが、何回妻に逃げられ、最後は孤独死をしてしまった。この男の人生は幸せだったのか、不幸だったのか?私は不幸だったと思う。なによりもまず、健康であることが運をよくする条件だと信じている。そうであるなら、今日から生活習慣を変えてみよう。なにも早寝早起きだけが生活習慣の改善ではない。いままで、人と会うのが面倒くさいと思っていたなら、その習慣をやめて、どんどん人と会ってみよう。それだけでも、運命は大きく変わってくる。「自分は運に見離されている!」と思っている人でも、そんなことはない。「運命はメビウスの帯」のようなもので、いつまた運が戻ってくるか知れない。まず生活習慣を改めて、運の上昇期を待つことにしてみては?
2009/07/17
大嶽部屋の三段目力士吉野(21)が「右肩上り」という名前に改めた。吉野はこれまで番付が上がったと思うと、次の場所で負け越して、また逆戻りしてきた力士だ。そこで大嶽親方が、思いきって「右肩上り」という力士名にしたのだが、まさにこれは運命の瞬間だ。恐らくこの力士の心の中には、「もう負け越せない」という気持ちが、強く植えつけられたに違いない。宮崎県の東国原英夫知事にしても、自分から自民党に「総理大臣の椅子を!」と要求した瞬間から、火の玉のようなエネルギーが、胸の内に赤々と点ったのではあるまいか?おもしろいことに、これまでは誰1人として、彼を首相候補と思わなかったのに、彼が自分の口から話したとたん、首相の影が歩きはじめたようになってしまった。結果としてはどうなるか、まったくわからないが、彼の勝負のカンは鋭く、少なくとも、彼の運命は一時的に、上昇気流に乗った感がある。私はこういうタイプを嫌いではない。日本人の多くは、自信がありながら「私なんて、まだまだ」と、一見遠慮してみせる。それでいながら推されないと、不満を顔に表わす。最近の人々は、アメリカナイズした思考をもっているので、こういうタイプはお呼びではないようだ。その証拠に、朝青龍を傲慢だと批判する人々は、ほとんど高齢者だ。中年以下の人々は、強ければ素直に拍手する。かりに東国原知事が選挙に出たら、やはりブームを起こすだろう。いまの人たちは、自分から運命を変えようとする人に対しては、ほとんど好感をもつ。このことを知って、あなたも自己主張、自己表現をしてみてはどうか?運命の重い扉は、必ず開いていく!
2009/07/08
第2回の勉強会が開かれたが、この日も参加者は40名を超えて、ぎっしりだった。この日は1人ひとりの「運命図」というものをつくろう、という話を中心にしたのだが、私たちはある程度、運命は決められている、と考えるべきなのだ。そして、その通り生きていくほうがいい。わかりやすい例として、明治維新の立役者になった坂本竜馬をあげてみよう。なぜ竜馬が土佐(現・高知県)の片田舎から、江戸や動乱の京都に出られたかというと、彼の家系は豪商であり、先祖は京都出身、太平洋に面した湾に住んでいたため、大船や貿易の知識もくわしく、さらに父は大砲、鉄砲上手といわれたほどだった。これだけ見ても、彼は幕末の立役者になるべく、生まれついていることがわかるだろう。現代の私たちも、自分の家系の職業をくわしく調べることによって、いまの自分の職業が合っているかどうか、一目瞭然となる。この日はなんと、カリスマコンサルタントの本田健氏をはじめ、錚々たるメンバーが何人も参加して、全員が研究会に入会したので、この勉強会のあとの二次会も大にぎわいだった。本田健氏は『ユダヤ人大富豪の教え』(大和書房)で一挙にスターダムに上がったお金の専門家だが、いつもは千人単位の聴衆の前で講演している。それが、この小さな研究会で、運命のあり方を勉強していこうというのだから、他の参加者たちから、驚異の目で見られて当然だろう。それこそ「自分の体を運ぶことで、運命を切り拓こう」という、この会の趣旨にふさわしい生き方だ。早稲田運命学研究会HP
2009/06/17
人間ははたして善なるものか、悪なるものかは、大変むずかしい問題だ。性善説を唱えたのは孟子(もうし)だ。彼は人間は生来--(1)あわれみの心をもっている(2)不義を憎む心をもっている(3)へりくだりの精神をもっている(4)正と不正の判断力をもっているこの4つの心を持っているのだから、これらを養っていけばよいと考えた。これに対して荀子(じゅんし)は、欲望を自然のまま放置すると、社会を破滅させるとして、そのためには「礼」を教えなければならないと、唱えている。このどちらが正しいかは、少しの間脇に置いておいて、私たちが毎日使っている心に関する漢字を、ここに書き出してみよう。(A)忘、怨、忌、悲、愚、悪、愁、慾、懣、忿、怠、怒、恐、惑、懲--(B)慈、恋、恵、悠、念、威、怒、恩、感、恕--これを見ると、悪しき心のほうが、ずっと多いと思わないだろうか? 残念ながら、善なる心の漢字のほうが、少ないのである。最近のニュースを見ると、とても「性は善である」とは、いえないようになってきた。良心のかけらもないような政治家、経営者、弁護士、医者がゾロゾロ出てきている。運命を考えるとき、あまり性善説にかたよると、むしろ危険だろう。悪人の世の中を、どう生き抜いていくかを考えるのが、これからの運命学の勉強になると私は思っている。
2009/05/24
女子プロゴルファーの諸見里しのぶが、メジャー大会であるワールドレディス・サロンパス・カップに優勝した。22歳の若さでメジャー2勝目の快挙だが、最終日は「母の日」ということもあって、がんばったという。しかし「母の日」は、全選手にとっても同じことで、諸見里だけのものではない。にもかかわらず、彼女はこの日に執念を燃やした。こういう例は、それほど珍しいものではない。子どもが生まれたので、ホームランを打ちたかった。父の1周忌なので、優勝の姿を亡き父に見せたかった・・・かつて長島茂雄も、昭和天皇の天覧試合で、逆転ホームランを打つという強運を見せた。このとき長島は、ほかの選手より天皇に対する思いが強い、といわれたが、祈りの強さ、深さは、運命を変える不思議さをもっている。なぜ、これらの人々の祈りが幸運を呼んだのか?祈り方がほかの人たちと根本的に違っていたと、私は思う。私たちは「勝たせてください」と結果を求めてしまうが、これではムリだといわれる。神に心を透(とお)すには、感謝の念を先立たせることにある。母や父に感謝するのは当然として、わが子が生まれたのも、神のご加護があったからで、父母や神に深く感謝するのも当たり前なのだ。長島選手も、まず天皇を迎えて試合できることに、感謝したのではあるまいか? 企業でも利益を生むためには、社長は毎日、仕事をつづけられることを、神仏に感謝しなければなるまい。ご利益(りやく)は、神仏が認めた人にだけ与える、ごほうびなのだ。
2009/05/16
私の書籍担当編集者に、T君という男がいる。彼は実に熱心で、企画をたてているうちに、私にも「これは売れるな」という自信が涌いてくるのだが、もう1つ彼は運がいい。あるとき、彼は私が懐かしがっていた豆大福を買ってきてくれた。若い頃、その店のそばの、光文社に勤めていたことがある。ところがこの店は、昼には売り切れてしまうほどの人気なのだ。彼は私のために、売り切れないうちにと、急いで行ってくれたのだが、何人かが行列していたという。ショーケースには、もう数が少ない。かりに1人がたくさん買ったら、手には入らない。ところが彼がいうには、「私で最後でした」と、汗を拭き拭き笑ったこれは、考えようによっては、運といえないような話だが、実はそうではない。彼はツイているし、私もそのツキをもった豆大福を食べたことで、次の本がツクであろうことを予感している。運というと、相当大きなものだと思うかもしれない。もちろん大きな運もあるが、そういうものは、めったにあるものではない。「1円を笑う者は、1円に泣く」という言葉がある。「千円札を拾うな」といった著者もいたようだが、私は1円でも拾うべきだと思う。その1円が運のツキはじめになるからである。実際、1円玉がなくて困ることは、いくらでもある。小さなツキを喜ぶ人間になりたいと、私は思っている。
2009/05/04
松下幸之助は、社員の採用基準を、次の2つに決めていたという。(1)優秀であるか?(2)運が強い実例をもっているか?優秀な人間を採用することは大事だが、そんな社員ばかりでは、うまくいかない。頭でっかちになってしまうからだ。そこで松下幸之助が考えたのは、何であれ、運の強い人間を採ることだったという。それも強運の実例を聞いたというのだ。たしかに「私は運が強いと思います」というだけでは、信用しようがない。そこで実例をあげさせたのだろうが、実例のない人は、とっさにつくるわけにはいかない。実にすばらしい採用法だと思う。私は、運の強い実例をいくつももっているが、あなたはどうだろうか?「宝くじに当たった」というのでもいいが、ふだんから実例をつくっておくと、意外なことに、とてもトクをする。誰でも、運の強い人を、そばに置きたがるからなのだ。この考え方は、運命論からいうと--•(1) 運は、そばにいる人に移る•(2) 運の強い人によって、運の弱さが消えるこういうことになる。一番わかりやすい例でいえば、運の強い人の運転する車に乗っていれば、危機一髪のときでも、助かることになるだろう。あなたのそばの、運のいい人を見つけよう。
2009/04/29
今回の草なぎ剛の逮捕と家宅捜索は、弁護士も会見でいっていたが、たしかに切ない話だ。特に家宅捜索については、本来なら、警察に抗議したいところだったのではあるまいか?しかし、ここで抗議すると、「ジャニーズ事務所の横暴」といつた空気が流れるのを恐れて、穏便に収めたような気がする。私は草なぎ剛のイメージを落とさないためには、一歩引いた姿勢は正しかったと思う。運命の衰退を食い止めた感じだ。「運命はメビウスの帯」というのは、私の持論だが、メビウスの帯とは、帯を一回ひねって両端を貼り合わせると、表も悪もなくなってしまう。つまり表通りを颯爽と走って、幸運を謳歌していても、本人の気づかないうちに、裏通りに入り込んで、運を失ってしまう恐ろしさがあるのだ。鳩山総務相はこの事件の前日まで、将来の総理候補といわれるほどの強運だった。ところが事件直後、「めちゃくちゃな怒りを感じる。最低の人間としか思えない」と発言したことで、多くの人々の反感を買ってしまった。そんなに憤るほどのことなのか、ファンならずとも疑問に思った人も少なくない。運命の怖さ、不思議さは、こういうところにある。事件を起こした草なぎ剛には、警察の姿勢に対する不信感の高まりもあって、同情の声が強くなった。一方、胸を張った鳩山総務相は、大きく株を下げてしまった。では、なぜ警察は大勢の人の前で全裸になったわけでもないのに、逮捕だけでなく、家宅捜索まで強行したのか?恐らく現場で酔いも手伝って、彼が反抗的態度を示したからではなかったか? あるいは逃げようとする姿勢が、警察官を刺激したのだろう。当然、有名タレントの顔は知られており、もともと反感をもつ警官もいたかもしれない。また家宅捜索は、大麻が出れば手柄になるので、強行したのではあるまいか? 少々行き過ぎではあるが、いまの時期なら、トラブルになるまいという読みもあったのだろう。その読みは当たったが、大麻はまったく空振りに終わった。私はこの事件をきっかけに、彼は一段と大人になるような気がする。それも俳優として大成するのではあるまいか?運命の神は女神だが、女性たちから「もうキライ!」の声も空気も、まったくないからだ。むしろきつすぎる仕事量に同情の声が強い。運命にはふだんの言動が大きく関わる。彼の場合は、好青年の感じが強かっただけに、若干、運命量は減ったが、また増やせるだろう。温かく見守ってやろうではないか。*「なぎ」は機種依存文字のため、ひらがなで表記しました
2009/04/25
私は20年以上、人間ドックに入ったことがない。入れば、必ず医師から「くわしい検査をしなさい」といわれるような気がするからだ。別にそれを怖がっているのではなく、私の出版界での恩師が、人間ドックから出てすぐ、亡くなってしまったからなのだ。検査漬けになって、たしかに1つの病気が治ったとしても、その間に気力と体力が萎えてしまったら、元も子もなくなってしまう。わたしの主治医は・・・(1)声の強弱(2)顔の色艶(3)血圧この3点で、私の健康状態を見る。声が大きく、力強ければ、それだけで大丈夫だ、ともいうし、血色がよければ、それもプラスにする。運命が上昇するか下降するかの分岐点は、体力の自信にある、といっていいかもしれない。健康でありさえすれば、たとえ一時的に下がっても、上げられる自信があるのだから、心配はないのだ。「忙しい人ほど病気をしない」という言い伝えがある。たしかに企業の社長や流行作家、タレント、スポーツ選手など、ほとんど病気をしないが、これは、体力と気力の充実にある。私はいま自分の運命が見えているが、それは体力と気力の裏付けがあるからなのだ。気持ちが、暗くなってはいけない。
2009/04/19
私は、天運と地運の2つの運を信じている。天運はまさに「天」からの贈りものだ。この「天」を解釈すれば--1)ある日突然、舞い込んでくる福音2)電話、又は手紙、メールなどによる幸運の知らせ3)いつ、神が舞い下りてくるかわからないので、陰ひなたのない努力4)天が、その人を気にいって、与えてくれる運この4つの幸運ではあるまいか?織田信長が桶狭間の合戦で勝利した日は、直前まで晴れていた。ところがイザ合戦!と宿敵、今川義元の陣地に向かおうとした、その時、突然の豪雨となっている。これこそ、突然、舞い込んできた福音だったに違いない。こういうケースは、私たちの一生でも、必ず何回かは起こせるものなのだ。また「地運」とは、なんだろう?1)「犬も歩けば棒に当たる」という、足を使った幸運2)どっしりと大地に足の裏をくっつけておく信念と勇気3)自分の先見性に従って、分岐点で迷わない4)立っていられる健康運。寝込んでは地運は去っていく5)土地をもっていれば、運は離れないこの5つに尽きる天運にせよ、地運にせよ、ときならぬ幸運が舞い込むこともあるが、努力も必要になってくる。さらには、健康と、時代を見抜く先見性も大切だ。あなたに、これらが備わっているだろうか?
2009/04/04
私は人と会って話を聞くのが、天性好きらしい。 基本的に、相手が話をしたいというのなら、こちらの都合さえつけば、何時でも飛んでいく。特に夜は遅かろうと、ちっとも気にしない。このことは、いまの若い人たちにはムリだ。自分の時間と仕事の時間を、はっきり分けるからだ。そしてそれは当然だ。しかし、運命を自分でいい方向に動かしたい、というのであれば、人生のある一時期くらいは、人づき合いに夢中になったほうがいい。歴史の中にいるときは、それがのちに歴史になるとは、誰も思っていない。私は作家の三島由紀夫が自決する前の数年間、彼ともっとも親密な時間を過ごした。彼はすでに、歴史の中にいることを意識していたに違いないが、私はそんなことを、これっぽっちも知らなかった。「ボディビルをやりたいので、櫻井君、一緒にジムに行かないか」彼から、こう誘いを受けたときも、まさか自決のための体づくりとは思わなかったので、「部下を1人つけますよ」と、私は遠慮してしまった。いま思っても、もったいなかった。あなたも、いま現在、歴史をつくっているとは、まったく考えてもいないだろう。しかし、もしかしたら、数十年後に、大きな歴史のうねりの中にいたことを、知るかもしれない。運命も自分では、なかなか見えないが、歴史よりは見える。なぜなら、運命は自分でつくっているからだ。この方向に進んでいけば、明らかに、運はよくなると信じたら、思いきって突っ走ろう。自分の時間がなくなるなんて、ちっぽけな考えは捨てよう。
2009/03/27
ウィークデーであれば、誰でも仕事として来てくれる。しかし、わざわざ日曜日に顔を出す編集者は、めったにいない。私はこうして、当時の流行作家の、お気に入り編集者になっていったのだった。この方法は、いまでは恐らく使えないだろう。日曜日にモノ好きに会ってくれる有名人など、いないからだ。しかし、相手がよろこぶことは、考えられないわけではない。一時期、「アッシー君」という男たちが、女性の人気を集めたことがあった。私が教えていた女子大でも、授業が終わる時間に、若い男たちが車に乗って待っていたものだ。女子学生は当たり前のような顔をして、その車に乗り込んで帰っていく。まさにアッシー君だが、これだって、女性をよろこばせるひとつの方法だ。なんにせよ、相手をよろこばせることは、それだけ、相手のふところに深く入っていくことになる。その後も、私が作家たちに重宝されたのは、「櫻井君、今夜空いてる?」と声がかかったとき、よほどのことがないかぎり、「空いてますよ」と、すぐ答えたことだった。櫻井に電話すれば、必ずやってきてくれる--このことは、私の運命を、よりよい方向へと向けてくれた。なにしろ、ほとんどの作家は夜が強い。仕事にせよ、遊びにせよ、それは夜の時間に決まっている。とはいえ、編集者だって家庭があるだけに、そうそう作家の勝手を聞いてはいられない。ところが私は、独身時代だけでなく、結婚してからも、夜は平気だった。
2009/03/21
「劇的な出会いは幸運をもたらす」という運命の教訓は、その後女性との出会いでも、証明されることになった。ある年の2月末、私は1人の女性と会うことになった。なにげなく「では2月の29日に」という約束をしたのだが、考えてみれば、この年は閏年(うるうどし)だった。彼女はこの日の出会いに、こちらが驚くほど興奮していた。これはデートでも、なんでもなかったのだが、彼女のほうで、勝手に「今度会えるのは、4年後ね」と、盛り上がったのだった。このとき私は、劇的な効果の大切さに思い当たったのだった。運命は、案外、つくろうと思えば、できるのかもしれない、と考えたのだ。そういえば、私は社会人になった年の日曜日は、オーバーにいえば1日も休まず、作家の家を訪れて回った。とはいえ、特に仕事熱心だったわけではなかった。兄の家に下宿していたこともあって、休日はできるだけ、迷惑をかけたくなかったからだった。ところが、この当時は、休日に作家を訪ねると、どうの家庭でも歓待してくれた。なぜなら編集者は作家にとって、めしの種であり、編集者が来てくれれば、作家の夫人は、内心とてもうれしいのだ。また私には、1つ特技があり、小さい頃から習っていた将棋の力は、作家を凌駕するほどだった。だから私が突然顔を出すと、将棋好きの作家や画家は、ニコニコ顔になってくれた。
2009/03/11
五味康祐夫妻が驚いたのは、大学を卒業して、わずか3ヵ月の男が、とりあえず薄茶を、礼儀に則って喫したからだった。もし、光文社の社長夫人から、茶室に招かれていなかったら、私は目を白黒させる以外なかったろう。なにしろ、茶の湯など、それまで見たこともなかったからである。私はつくづくと、運命は連環する、と思った。これはいい運だけでなく、悪い運もつづくのではないか?現在、麻生首相が苦境に立っている。最初は漢字が読めない首相だと、ひやかされただけだったが、その後次々と悪い面が出てきたと思ったら、とうとう、中川財務相の酔っぱらい事件まで起こってしまった。これは、明らかに悪運の連環だろう。自民党としても、安倍、福田と2代つづいて首相の座を投げ出したが、3度目も、目前に迫ってきている。これも連環だ。反対に、私のように、講談社から子会社に回されたことで、よい連環がつづくようなこともあるのだ。五味康祐と親しい仲になったのは、たったこの1回の対面だった。この頃の五味は貧乏のどん底にあり、夫人は大阪からもってきた着物を、ほとんど質屋に入れていた時期だった。芥川賞の受賞を、ラジオと新聞が報道したが、まっ先にお祝いにかけつけたのは、この質屋の主人だった。「そんなエライ人とは、まったく思っていなかった」と、主人は正直に話したという。
2009/02/20
私が芥川賞作家、五味康祐と親しくなれたのも、実は運命の不思議がある。私の大学は東京外国語大学だが、専攻はロシア語だった。卒論はプーシキンという詩人論だが、このプーシキンは、妻の不倫問題で相手の男と決闘し、その傷がもとで死んだのだった。このことから私は剣の戦いに興味を抱き、日本の歴史小説、時代小説を耽読していたため、五味康祐ばかりでなく、同じ芥川賞作家の、松本清張とも親しくなるチャンスをえたのだった。さらにおもしろいことに、私は光文社の社長夫人のお宅で、大学4年時に、抹茶の席に連なったことがあった。このとき、この出版社に入るとは思っていなかったが、ひょんな縁で、若い女性たちのお茶の席で、社長夫人から正式な飲み方を教わったのだった。私は卒業時に、講談社に合格した。と思っていたら、3月末になって、なんと野間社長から呼ばれて、肋膜(ろくまく)であることを告げられ、子会社の光文社に行け、と命じられたのだ。光文社とは、あの社長夫人から、お茶の飲み方を教えられた出版社ではないか! これが運命の不思議と思わずに、いられようか。さらに、初めて五味康祐のお宅に伺ったとき、なんと五味夫人と本人から、抹茶の接待を受けたのだ。五味康祐は31歳、私は22歳である。互いにそんな若さでありながら、初対面では、抹茶をたてられ、それを頂くという場面になったのだ。そして今度は、五味夫妻が、私の頂き方を見て驚く番だった。
2009/02/07
クリスマスの宵だった。東京・神田の道すじには、折からの細かい雪に見舞われて、寒々しい光景だった。まだ戦争の傷跡も癒えない1951年(昭和26年)のことである。その道をやせこけた、ひょろひょろの青年が歩いてきたが、ふと流れ出る音楽に足を止めた。 クリスマスソングとは、まったく無関係のヴィオラの音だった。レコード社という看板が目についた。青年はそのまま、レコード店のガラス戸にもたれかかるように、その音に聴き入っていた。「ヴィオラ・ダ・モーレ」である。しばらくして、そこの店主が、ガラス戸の人影に気づいた。しかし、その人影は動かない。「どうしたんだろう?」と店主が外に出てみると、なんと、1人の青年が涙を流しているではないか。「さあ、寒いから中に入りなさい」この青年こそ、翌年、文芸誌「新潮」に取り上げられ、さらに芥川賞を受賞した「喪神」の作者、五味康祐だった。このとき30歳になったが、「ヴィオラ・ダ・モーレ」の旋律に、涙が止まらなかった。彼はこのとき、魂を空に飛ばして聴き入っていたのだ。貧しくて、クリスマスというのに、妻と一緒に食事もできなかった。しかし、この旋律から彼は、作品の構想をえたのだった。このレコード社の前を通りかかったのも偶然なら、彼の好きな曲が聞こえてきたも偶然だった。しかし「運命の瞬間」とは、そういうものなのだ。もし、五味がこのとき、この道を通らなかったら、芥川賞が生まれただろうか?さらには、私が彼と知り合うこともなかったろう。そしてもう一歩進めるならば、彼から手相や人相の基礎を教わることもなかったろうし、この研究会もなかった。●早稲田運命学研究会http://w-unmei.com
2009/02/01
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