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私は、2004年6月に鹿児島市の山形屋文化ホールで開催された「田中一村展」に鑑賞に出掛けたが、会場に入ると「富貴図」の衝立がどんと置いてあった。この絵は一村が1929年3月に衝立に描いたものだが、彼が従来描いていた南画の傾向とは異なり、その精緻な描写と濃密で華麗な彩色は、写意よりも写実を重んじる中国の院体画の影響を受けて描かれたもののように思われる。 しかし、円山応挙に有名な「孔雀牡丹図」があり、一村はどうも円山応挙のその絵から孔雀の姿を除き、太湖石と牡丹の配置を変えて写し取り、それを一村流にかなりデフォルメして描いたようにも思える。 この「富貴図」の衝立画は、その一番手前に描かれた赤色の牡丹の花とその少し奥にある薄紫色の牡丹の花を斜めに寝かせる配置の仕方や、かなり形状をデフォルメして鮮やかな青色に彩色された太湖石の存在は予定調和的な絵画的構成を意図的に打ち壊そうとしており、一村が画家としての新境地を切り開こうとする意欲を強く感じさせるものがあった。しかし、残念ながら絵画的に成功しているとは言いがたい。 さらにこの「富貴図」の衝立画の裏に「竹と蘭」の水墨画が描かれているが、この水墨画には風雅さが欠けており、なんとも不気味である。そして、この水墨画の左上に楊炯の「幽蘭賦」の詩句全文が小さな字で画賛としてびっしりと書かれている。この衝立を一村はどのような精神状態のなかで描いたのであろうか、非常に気になるものがあった。 それで、上海商務印書館から出版された四部叢刊集部所収の明刻本影印版『盈川集』を調べてみたところ、そこに楊炯の「幽蘭賦」が載っていた。この「幽蘭賦」は、「惟うに幽蘭の芳草、天地の純精を稟(さず)かり、青紫の奇色を抱き、竜虎の嘉名を挺(ぬ)く」と幽蘭(ひそやかにけだかく咲く蘭の花)の素晴らしさを讃えている。 また大矢鞆音『田中一村 豊穣の奄美』(日本放送出版協会、2004年4月)は、世田谷郷土資料館の武田庸二郎氏がこの「幽蘭賦」 について、「楊烱はこの中で屈原の名を挙げており、全文にちりばめられた修辞は、屈原の『離騒』に似た表現がある」と指摘していることを紹介するとともに、また渡邊明義氏の『水墨画の鑑賞基礎知識』(一九九七年二月、至文堂) の一節に、「蘭は香草で、深林に生じ、辺に人無くとも芳香を発つ。このことから、君子の修道して徳を立て、困窮しても節を変えないことに喩えるのである。讒言に遇い、ついには汨羅に身を投じた、楚の忠臣屈原の『離騒』には蘭が度々登場し、祀りごとにも尊重された香草であるが、蘭を縄で結んで腰に帯びるようなこともあったのである。このことから蘭は遠く屈原を想うことに繋がるのである」との記載があると紹介している。 確かに「幽蘭賦」中に「若夫霊均放逐」という詩句があり、この「霊均」とは屈原のことであり、彼の長編詩「離騒」で「余を字(あざな)して霊均と曰う」としている。また、「幽蘭賦」中の詩句「結芳蘭兮延佇」は、「離騒」の「結幽蘭而延佇」から採ったものであろう。 さらに「含雨露之津潤、吸日月之休光」という詩句が出てくるが、これは魏の思想家で竹林の七賢の一人でもあった嵆康の「琴賦」中の詩句「含天地之醇和兮、吸日月之休光」から採ったものと思われる。なお、この人物はその批判精神が魏王朝で権勢を掌握していた司馬氏の憎悪の的とされ、死刑に処せられている。さらに、「幽蘭賦」には、「雖處幽林与窮谷、不以無人而不芳」(幽林と窮谷に處るといえども、人無きを以て芳しからざるとはせず)との句があり、これは『孔子家語』の「芝蘭生於深林、不以無人而不芳」から採ったものと思われる。 この「幽蘭賦」には、自らが説いた政治理念を生前には為政者から採用されることなく各地を弟子たちと流浪した孔子、讒言を受けて放逐されて汨羅に身を投げた屈原、司馬氏の憎悪の的となって処刑された嵆康が隠されており、そんな「幽蘭賦」の作者の楊炯自身が則天武后打倒の企てに連座して左遷されたことのある人物であった。 当時21歳の一村は、どのような思いからこの衝立の裏に「竹と蘭」の絵を描き、そこに画賛として「幽蘭賦」を書き込んだのであろうか。衝立の表の「富貴図」に描かれた奇怪な形をした青い太湖石から受ける印象も含めて考えるに、そのとき彼の心には「幽蘭賦」の最後に詠まれている様に、「鴻歸り鶯去りて紫莖歇(やす)み、露往き霜来たりて緑葉枯れ、秋風之一敗、蒿草とともに芻(か)らるるを悲しむ」(雁が歸り鶯去って紫色の蘭の茎が枯れ、露の季節が終わって霜が降りるころに緑の葉が枯れ、秋風がこれをヨモギとともに枯らしてしまうのは悲しいことだ)とするような寂寥感が存在していたのではなかろうか。この寂寥感は、画家としての才能に強い自負を持ちながらも、他方でこれまでの自分への画業への確信が揺らぎ始め、新たな境地を切り開こうと模索を開始したときに必然的に生じる不安と焦燥感に由来するものではなかろうか。 なお上記のことは、拙サイト「やまももの部屋」の「田中一村の遊印」のつぎのページに詳しくアップしています。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/poem.htm
2016年10月27日
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1938年に一村は千葉市千葉寺に転居し、姉の喜美子、妹の房子、祖母のスエと生活することになり、奄美に移住するまで同地に20年間暮らすことになる。当時の千葉寺は、田園が広がり、竹薮や杉、栗の樹木が生い茂る自然豊かな農村地帯であり、一村はそれらの豊かな自然を対象に絵画制作にいそしんだのである。 1941年に太平洋戦争が始まり、一村は1943年 船橋市の工場に板金工として徴用され、体調を崩して闘病生活に入ることになる。日本の敗戦直前になって一村の病もやっと癒えたが、その頃に彼は盛んに観音菩薩の像を描き始める。健康を回復し、また戦後の解放感のなかで一村の創作意欲は大いに燃え上がる。 画家としてのアイデンティティを模索し、複雑にも重なり錯綜する山や川を越え、目指すべき路を見失って彷徨うことも幾たびかあったであろう一村であるが、戦後まもない1947年、宋の詩人・陸游が七言詩「遊山西村」で「山重なり水複なって 路無きかと疑えば 柳暗く花明かるく 又一村あり」と詠んだように目の前にぱっと明るい視界が広がったのである。その年、彼は「白い花」と題する日本画を描き上げるとともに、画号を一村と改めている。朝の陽光を受けて瑞々しい緑の葉のなかに無数の小さな花を咲かせるヤマボウシの清楚な姿を見事に描き上げたこの絵は、一村の最高傑作の一つに数えられるものであろう。 私はこの「白い花」の絵の実物を鹿児島市立美術館で「田中一村 新たなる全貌」展(2010年10月5日~11月7日)で初めて見たのであるが、近くに寄ってよく見ると岩絵具で描かれた緑の葉がとても厚くこってりと塗られていることに意外な感じを受けた。しかし、かなり離れて見ると、朝の光を浴びたやまぼうしの葉とその白い花がとても清々しく爽やかに感じることができた。 1947年、「白い花」を描いて以降、彼は画号を「一村」に改め、南画も再び描き始める。しかし、それらの南画には「倣蕪村」、「倣木米」、「倣鐵斎」といったように先達の作品を倣っているということを明確にしている。 1953年には襖8枚に「花と軍鶏」という絵を描いており、岩絵具による筆遣いも「白い花」よりさらに洗練されたものになっている。この襖絵の軍鶏は一村の自画像と評されている。 しかし、一村が本道と信じる道を歩いて目的の場所にたどり着くまでにさらに10年以上の歳月が必要だったようである。 千葉時代は一村の絵画制作を考える上で重要な雌伏の時期と言えるが、無名の日本絵画の画家として経済的には非常に苦難の時期であった。 中野惇夫「奄美に逝った孤高の画家、田中一村」(『季刊銀花』1992年春第八十九号)に1959年3月に一村が中島義貞氏宛てに書いたつぎのような手紙が掲載されている。「東京で地位を獲得している画家は、皆資産家の師弟か、優れた外交手段の所有者です。絵の実力だけでは、決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはその何れもありません、絵の実力だけです。」 また千葉時代の田中一村の生活状況を知る上で、『田中一村作品集―NHK日曜美術館 黒潮の画譜』(日本放送出版協会、1985年8月20日)に掲載されている一村が岐阜の児玉勝利氏宛に書いたつぎのような内容の手紙の下書きがとても興味深い。なおこの手紙の下書きに奄美の「紬工場で五年働きました」とあることから、1967年頃に書かれたものと推測される。「細工場で五年働きました。細絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最後の繪を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。 画壇の趨勢も見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず只自分の良心の納得行くまで描いています。一枚にニケ月位かゝり、三ケ年で二十枚はとてもできません。私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから……。 千葉時代を思い出します。常に飢に駆り立てられて心にもない繪をパンの為に描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。 私の今度の繪を最も見せたい第一の人は、私の為にその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の繪の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の数人のともに見て頂ければ十分なのでございます。私の千葉に別れの挨拶なのでございますから.....」 一村のように「学閥と金と外交手腕」を持たない無名の画家は、千葉時代に姉の喜美子や岡田藤助氏等数人の友人たちの支援を受けながら、「常に飢に駆り立てられて心にもない繪をパンの為に描き稀に良心的に描いたものは却って批難された」としている。 南日本新聞編『アダンの手帖 田中一村伝』には、「飢駆我」(飢え我を駆る)という遊印が一村にあり、それが陶淵明の「乞食」(こつじき)という詩の冒頭の「飢来駆我去」に由来していること、一村はその遊印を幾つかの絵に落款として押していることが書かれている。 それで、陶淵明の「乞食」という詩のことを調べてみたところ、角川書店から「鑑賞 中国の古典」シリーズの第13巻として出された都留春雄・釜谷武志『陶淵明』(1988年5月)に「乞食(食を乞う)」の詩の原文とそれについての解説、口語訳が127頁~130頁に載っていることが分かった。参考のために、同書の陶淵明「乞食」の口語訳を下に紹介させてもらうことにする。 食物がなくなってひもじくなると、いても立ってもいられずに家を出る。 いったい自分はどこへ行くつもりなのか。 歩いて歩いてこの村までやってきた。門をたたいて(食物を乞おうとするが) その言い方はまことにつたない。 家の主人はわたしの気持ちを理解してくれて、物を恵んでくれた。 ここまで来たかいがあったというものだ。 話が弾んでいるうちに日が暮れ、出された酒は遠慮なく飲んだ。 新しい友人ができたことを心から喜びうたって詩を作った。 あの洗濯ばあさんのようなあなたの思にいたく感じ入るが、 自分に韓信のような才能のないことを恥ずかしく思う。 胸にしまった感謝の気持ちをどう表現すればいいのだろう。 死後あの世からでも恩返しをせねばなるまい。 なお『田中一村 新たなる全貌展図録』、2010年10月)に拠ると、1960年頃に描かれた色紙「紅梅丹頂図」にこの「飢駆我」の遊印が押印されているとのことである。このとき一村は、奄美から1960年 5月に岡田藤助氏の襖絵制作依頼を受けて千葉に戻っている。おそらく奄美でこの「飢駆我」の遊印を篆刻し、千葉に戻ったときに描いた色紙「紅梅丹頂図」に押印し、支援者の岡田藤助氏に贈呈したものと想像される。なお同上図録に「昭和30年代に描かれた色紙」として「マダラハタとフジブダイ」にも「飢駆我」が押印されていることが指摘されている。 前掲書の南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』で中野惇夫は、遊印に「飢駆我」と彫った当時の一村の心境をつぎのように内在的に理解しようとしている。「この陶淵明の『乞食』の詩を読むと、なぜか一村の気持ちが切々と伝わってくる。この詩に託して、自らの気持ちを、表していたと思われてならない。故なく人の援助を受けることは、衿持が許さなかった。しかし絵を売らず、定収もなく、絵の探究を続けるには、不本意ながら人の恩を受けざるを得ない。人に受けた恩は、いつも心に重く負担となってのしかかった。絵かきとしての一村は、絵をかいて報いるよりほかに道はなかった。千葉時代は、絵は売らなくとも、ささやかな恩に報いるために絵をずいぶんかいた。それがまた心の傷として残ったのではないか。いくつかの絵に『飢駆我』の落款が押してある。絵を受け取った側が、一村の意をどこまでくみとってくれたのか、いささか心もとない。」 そうなのであろうか。勿論この「飢駆我」の遊印には支援者からこれまで援助を受けてきた画家の「心の傷」も刻み込まれていることは間違いなかろう。しかし、この「飢駆我」の遊印がいつ頃篆刻されたのかおおよその見当がついたとき、私はこの遊印に込められた一村の思いが分かったような気がした。前掲書の『田中一村 新たなる全貌展図録』(2010年10月)によると、この「飢駆我」の遊印は1960年頃に色紙に描かれた「紅梅丹頂図」に押印されているとのことである。 1958年に奄美に渡った一村は、そのとき「絶対に素人の趣味なんかに妥協せず自分の良心が満足するまで練りぬく」(前掲の大矢鞆音『田中一村 豊饒の奄美』に引用されている1959年3月に奄美から千葉の知人に宛てられた手紙)ことを決意しており、支援者の経済的援助なしに独力で生活していくことを決意している。そう決意したとき、生計を立てるために支援者の個人的趣味に妥協に妥協を重ねて来たこれまでの自分を振り返りつつ、支援者たちからの非常な解放感を覚え、「飢駆我」の遊印を篆刻したのではなかろうか。 一村は、50歳のとき住みなれた千葉から奄美大島に渡り、これまでとはまったく異なる自然と対峙して新たな美を創造することになるのであるが、それら奄美で描かれた作品は支援者の意向から解放された状況において創作されたものだということも忘れてはならない。
2016年10月21日
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田中一村は、1926年4月に東京美術学校(現在の東京藝大美術学部)の日本画科に入学している。同期の入学生に加藤栄三、橋本明治、東山魁夷、山田申吾などがいた。たが、その3ヶ月後に退学している。 その頃、日本美術界では横山大観、安田靫彦、小林古径、前田青邨、速見御舟、川端龍子、土田麦僊、村上華岳等が活躍していた。 ところで、田中一村は東京美術学校の日本画科に何を学ぶつもりで入学したのであろうか。彼がもし幼い頃から親しみ、また優れた能力を大いに発揮して来た南画の道を志し、美校でそのための研鑽を積むつもりであったとしたら、彼は大いに戸惑うことになったであろう。一村が入学した東京美術学校には南画を学ぶ環境などは存在しなかった。東京美術学校はアーネスト・フェノロサや岡倉天心が創設の準備にあたり、1889年に開校しているが、開校当初の日本画科の教員スタッフとして、主任教授に橋本雅邦、教授に結城正明、狩野友信、川端玉章、巨勢小石が迎えられている。なお、近藤啓太郎『日本画誕生』(岩波書店,2003年4月)は開校当時の教員スタッフについてつぎのように述べている。「雅邦、正明、友信はいずれも狩野派、玉章は四条派、小石は土佐派であって、フェノロサが嫌っていた南画(文人画)の画家は一人もいなかった。当時の南画はきわめて俗化していたということもあるが、フェノロサは一種の漫画として見ていたようなところもあった。」 フェノロサが1882年に『美術真説』で南画(文人画)を批判して、「文人画卜称スル一種ノ画風ヲ以テ真ノ東洋ノ画術トナシ、之ヲ奨励スルト謂フ説ニシテ熄(や)マズソバ、真誠ノ画術起ルノ期ナシ。之ヲ譬フルニ、油絵ハ磨機ノ頂石ニシテ文人画ハ其底石二等シク真誠ノ画術其間ニ介(ハサマ)リテ連(シキ)リニ磑砕セラルカ如シ」とし、文人画こそが真の東洋の画術なりとするような謬説が存在する限り「真誠ノ画術」の発展などは期待できない、「真誠ノ画術」は西洋画と文人画とが挽き臼の上下の石のようになって粉々にされている、と語ったことは有名である。では、フェノロサにとって文人画のなにが問題だったのであろうか。彼は『美術真説』でつぎのように語っている。「文人画ハ、天然ノ実物二擬スルヲ主トセザルノ一点二就テハ稍賞スべキモノアルモ、其目的トスル所ノ妙想ハ画術ノ妙想ニアラズ。其実文学美術ノ妙想二外ナラズ。諸美術妙想ノ形状ハ各同ジカラズ。詩文ノ妙想ハ必ズ画ノ妙想卜同ジカラズ。文人画ニ就テ人心ヲ感ズルハ、畢竟文学上ノ関係二由ルモノニシテ、毫モ画ノ善美二関セズ。殊二文人ノ毎ニ磊落疎率ヲ喜ブモノハ、果シテ何ノ由アルヤ。是レ蓋シ画二係ルノ故ニアラズ、別二其源因アルヤ明ケシ。文人画ヲ目シテ真誠ノ画トナスハ、画ヲ目シテ音楽卜云フト何ゾ択バソヤ。」 すなわちフェノロサは、南画(文人画)について、天然自然をそのまま模倣するものではないという点において些か評価していいが、それは「画術の妙想(アイディア)」ではなく「文学の妙想(アイディア)」に過ぎず、文人画を本当の絵だというのは絵画を音楽だというのと同じことだと批判している。 さて、一村が入学した当時の日本画科の教授は、小堀鞆音(1864―1931)、川合玉堂(1873―1957)、結城素明(1875-1957)、松岡映丘(1881―1938)であった。小堀鞆音、松岡映丘はともに土佐派の手法を継いで歴史画を得意としていた。川合玉堂は狩野派の流れを継いで情緒豊かな風景画に優れていた。結城素明(1875-1957)は最初は四条派の川端玉章に師事し、さらに円山応挙の写生の精神を受け継いでいた。 湯原かの子『絵の中の魂 評伝・田中一村』は、一村入学当時の東京美校についてつぎのように解説している。「教授陣には小堀鞆音、川合玉堂、結城素明、松岡映丘等を擁していた。このうち小堀 輌音と川合玉堂は帝国美術院の会長、結城素明と松岡映丘は審査委員と、いずれも東京 画壇の有力者であった。美校での指導は、主として結城と松岡があたっていた。両者とも、院展離脱後の文展に不満をもつ新進気鋭の画家が、芸術の自由な研究と個性の表現を求めて結成した『金鈴社』というグループの同人で、素明は洋風の写生を日本画のなかに積極的に導入する道を開き、映丘は歴史画と古典の研究から、大和絵の伝統を新時代に生かす新興大和絵を起こした。ともに大正から昭和にかけての東京画壇に新風を吹き込むと同時に、教育者としても辣腕をふるった。(中略)当時の美校では大和絵を中心に、基本のデッサンに重きをおいた技術指導がなされていた。とくに結城素明は、外遊の体験から、客観的描写にすぐれ独創性を重んじる西洋絵画に対抗していくには、これからの日本画は素描力と独創性が大事だと主張していた。 授業内容は、一、二年生では植物写生が主で、厳密に緻密に写生し彩色をほどこした作品を、一週間に一枚提出することが義務付けられていた。三年生になると鳥の剥製の写生や風景写生が取り入れられた。画学生たちは、こうしてみっちりと鍛えられたのだった。」 このような東京美校に入学した一村はどのようなことを思ったのであろうか。湯原かの子『絵の中の魂 評伝・田中一村』はつぎのように想像している。「画壇を代表する有力教授、厳格な技術指導、将来の日本画壇を背負って立つべき画家の卵である級友たち。米邨にとっても、希望と誇りにあふれて始まった美校生活のはずだった。ところが米邨は間もなく、自分の目指すべき画道と美校の校風との問に相容れないものを感じ始めた。それまで研鑽を積んできた南画は画壇の趨勢ではなく、美校には南画を専門にする教授はいなかった。それに級友たちも、多くは家から仕送りを受けている比較的裕福な家の子弟たちで、自分とは別世界の住人に思われた。」 一村は結局、美校に入学して三ヶ月後に退学してしまうのであるが、美学入学の体験は梁井朗氏が「ギターを持った流しの歌手的職人」の世界と評した昔風の南画等の絵描き世界からさらに視野を大きく広げる機会を間違いなく与えたことであろう。 湯原かの子『絵の中の魂 評伝・田中一村』は、「美術学校でたとえ短期間といえども新しい日本画の潮流に直接触れたことは、大きな体験だったに違いない」とし、美校同期入学の若林景光の一村についてのつぎのような興味深い証言を紹介している。「学校に長く居らず、在学中も学校の教育など問題にしていないような態度だったのに、奄美の絵を見ると学校で習った厳密な写生を踏襲しています。それを非常に大切に守り、ますます深め、高めていってますね。みんなが卒業後はそれから離れていったのとは対照的で、たいへん珍しいタイプです。写実の厳格さは見事なもので、同期生の中でもあれだけの技術を持った者はいないでしょう。」 では、田中一村はなぜ東京美校に入学してすぐに退学したのであろうか。その理由として3つの説がある。すなわち、(1)修学困難説、(2)修学不要説、(3)美校からの追放説、以上の3説である。 まず第1説の修学困難説であるが、南日本新聞社編『田中一村伝 アダンの画帖』は、美校に入学後、「梅雨の期間に、結核が再発、安静を命ぜられた。家庭の事情も美校生活を続けられる状態になかった」としている。家庭の事情というのは、「大正十二年九月の関東大震災で麹町の家が焼失し、米邨の家族は南画家の小室翠雲の家の離れに身を寄せ世話になっていた。父稲村も病に倒れ、姉喜美子はまだ女学校を卒業(大正十二年)したばかりで、琴の名取を目ざして師匠のもとに習いに通っていた。長男孝は一家を背負って立たねばならなかった。美校に通っている余裕などなかった」というものである。 第2説の修学不要説は1926年12月に開かれた田中米邨画伯賛奨会の趣意書に書かれている。南日本新聞社編『田中一村伝 アダンの画帖』に紹介されている同賛奨会の趣意書には、一村の美校退学を説明して、「画伯今年四月東京美術学校に入学す。しかるに教授らも驚嘆していわく、〝この天才児すでに南画の妙域に達せり、何ぞ美術学校等の平凡課程を修するの要あらんや〟と。ここに於て退きて独自おおいに東洋絵画の淵源を探究して、さらに自家の新機軸を発揚せんともっぱら研究に没頭す」としている。 第3説の美校からの追放説は、加藤邦彦『田中一村の彼方へ 奄美からの光芒』(三一書房、1997年10月)で紹介されている。加藤邦彦は、1996年1月に細谷達三(一村と同期に美校日本画科に入学)にインタビューしているが、そのとき細谷達三は、加藤邦彦につぎのような衝撃的な話を語っている。「入学しても、すぐに学校をやめさせられた生徒が三人いた。学校の方針に合わなかったのか、個性が強すぎたのかよく分からないけど、田中君もその一人だった。自分は、田中君が『君の絵はとても良くできていて学校としては教えることはもうないので……』といわれたと聞いている。つまりデッサンとか絵の具、色の使い方が学校のそれに合わなかったからでしょう。」 また、加藤邦彦は鈴木草牛(一村と同期入学。1988年死去)の夫人にもインタビューしている。そのとき夫人は、鈴木草牛から「田中君は日展系ではなく、派閥もちがうから、学校に受付けられずに退学した」と聞いていたということを加藤邦彦に語っている。 興味深いことは、第2説の修学不要説と第3説の美校からの追放説とは一枚のコインの表と裏の関係にあるように思われることである。コインの表を「教授らも驚嘆していわく、〝この天才児すでに南画の妙域に達せり、何ぞ美術学校等の平凡課程を修するの要あらんや〟と」だとして、コインの裏側には、美校が一村を「君の絵はとても良くできていて学校としては教えることはもうないので……」という婉曲な表現で追放したことが不鮮明ながらも刻まれているように思われる。 こうして美校を退学した一村は、胸に複雑な思いを抱きながら、「ここに於て退きて独自おおいに東洋絵画の淵源を探究して、さらに自家の新機軸を発揚せんともっぱら研究に没頭す」ることになる。一村が「本道と信じる絵」のために南画から離脱するのは、彼が美校を退学してから4年後のことである。
2016年10月06日
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以前、田辺周一さんが「ニライカナイ 田中一村」というサイトを運営され(現在は「田辺周一 ホームページ‥行雲流水の日々‥」http://www.hitotonoya.sakura.ne.jp/)、同サイトにそのとき田辺さんご自身が奄美で撮影された晩年の田中一村の貴重な写真や一村との出会い等についての興味深いエピソードを紹介しておられた。 この田辺周一さん運営のサイト「ニライカナイ 田中一村」に「遊印とルリカケス」と題されたページがあり、そこに1977年9月11日に69歳の生涯を閉じた田中一村の遺品の中に彼が篆刻した遊印(自分の名や号を用いないで、筆者の好む詩句・成語などをを篆刻した印章)の写真とそれに関連する簡単な説明が載せられていた。 この一村の遊印は奄美の田中一村終焉の有屋の住居に遺されていたもので、所有者は笹倉慶久氏で、友人の田辺周一さんがいま保管しておられるとのことである。生前から一村に私淑していた笹倉氏は、一村が他界した後、処分場に廃棄されていた遺品のなかから記念になるものを収拾されていたが、その一つがこの遊印だったそうである。 それで、田辺周一さんにお願いして、晩年の田中一村の写真とこの貴重な遊印を押印したものを送信してもらった。その結果、この田中一村が遺した遊印には「自吾作古 空群雄」(吾より古を作り、群雄を空しうす)と刻まれていること、さらにこの「自吾作古 空群雄」が呉昌碩(中国の清代末期から民国にかけて篆刻書画壇で活躍した人物)の詩の一句「自我作古空群雄」に由来していることが判明し、一村が「古今の優れた人々の業績にとらわれずに自ら道を切り拓く」意味をこめて篆刻したことを解明した(太田秀夫「田中一村の遊印の彼方に」『鹿児島国際大学短期大学部研究紀要』第75号、2005年3月)。 なお、この遊印の実物を私は鹿児島市立美術館で開催された「田中一村 新たなる全貌」展(2010年10月5日~11月7日)で初めて目の当たりにすることが出来た。またこの展示会のカタログの図版241に「印『自吾作古空群雄』(一村所有)一顆」との解説入りでこの印鑑の写真が掲載されていた。 しかし、この遊印がいつ頃田中一村によって「自吾作古空群雄」と篆刻され、実際に彼自身のどのような絵画に捺印されたのか判明できないでいたのだが、奄美新聞の2015年2月14日のインターネット版記事にこの「自吾作古空群雄」の文字が篆刻された遊印が押印された田中一村の絵画が奄美市の田中一村記念美術館に寄託されたことが報じられた。 この奄美新聞のネットの記事は 「一村転換期の作品奄美へ」との見出しで、2015年2月14日に栃木市の会社役員の櫻井秀美さんから田中一村の南画的形式の日本画「雁来紅図」が奄美市の一村記念美術館に寄託されたそうで、同作品は1931年夏(一村23歳)に描かれたlものとのことであり、作品右下の遊印には「自吾作古空群雄」の文字が記されているという。 「雁来紅図」が描かれてた1931年と言えば、田中一村が 「蕗の薹とメダカの図」を描いて「本道と信じる絵」の道を進むことを宣言した年であり、彼が南画から離脱し、これまでの支持者と絶縁し、帯留め、根付け、木魚などの木彫によって生計を営み始めたと思われた時期である。しかし「自吾作古空群雄」の遊印が押印されている南画的形式の縦軸に日本画「雁来紅図」をその年の夏に描いているように、やはり経済的理由等から人から依頼されれば絵画も描き続けたようである。そのことを伺うことの出来るようなことが、一村自身が奄美に単身移住した翌年(1959年)に書いた手紙のなかでつぎのように回顧している。「私は二十三歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなく、当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養うことになりました。そのときの作品の一つが、水辺にメダカと枯れハスとフキノトウの図です。今はこの絵をほめる人もだいぶありますが、そのとき、せっかく芽ばえた真実の絵の芽を涙を飲んで自ら踏みにじりました」(昭和三十四年三月、中島義貞氏あての手紙) ところで、この一村の手紙に書かれている「本道と信ずる絵」とはどのような絵のことなのであろうか。彼はこれまで慣れ親しんだ南画世界では実際に見たこともない中国の山水を大家の絵を模写して描いて来た。彼は直接目にした自然の対象の息吹を感じ取り、その造形の美しさを独自の技法で掴み取り描きたいと思ったのであろう。 そんな一村は、1931年夏(一村23歳)に南画的形式の縦長の掛け軸に日本画「雁来紅図」を描き、その右下に「自吾作古空群雄」の遊印を押印している。彼は自分なりに感じた雁来紅(ハゲイトウ)の美しさを独自的表現で描こうとしたのであろう。
2016年09月29日
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鹿児島市立美術館で「田中一村 新たなる全貌」展が2010年10月5日~11月7日開催されました。今回の展示会は、まず千葉市美術館で2010年8月21日~9月26日開催され、続いて鹿児島市立美術館で開催され、最後に奄美市の田中一村記念美術館で11月14日~12月14日開催されるとのことです。 私は10月31日にこの展示会を見るために鹿児島市立美術館まで出かけました。今回の田中一村の絵画の展示会には、初公開の資料や作品を含んで約250点も並んでおり、一村ファンとして大いに満足させられましたが、特に嬉しかったのはこれまで2回訪れた奄美の田中一村記念美術館でも見られず、また2004年6月に鹿児島市の山形屋文化ホールでも見られなかった「水辺にめだかと枯蓮と蕗の董」、「白い花」、そして「自吾作古 空群雄」と刻された遊印を実際に見ることができたことでした。 まず、「水辺にめだかと枯蓮と蕗の董」ですが、これは一村が23歳のときに新しい傾向の絵として支持者に見せたが、全く賛同を得られなかったものだそうです。この絵は、彼が従来描いてきた中国の南画風の筆遣いと絵柄柄ではなく、ありふれた風景をそのまま素直にスケッチしたものでした。また、この絵には特に目新しい絵画的な構図や技巧が凝らされているようにも思えません。 早春の河原の土手に小さな蕗の薹が一個だけポツンと顔を出し、川ではメダカも泳ぎ出している。しかし、蓮の葉や茎はまだ枯れたままで、その姿がなんともわびしげである。一村はそんなありふれた風景の中に新と旧、生と死、活力と衰退といった自然の摂理を深く感じ取ったのかもしれない。自分自身が強く心に感じたものを自分ならでは表現方法で描き出したいと思ったのでしょう。 つぎに「白い花」の絵ですが、初めてこの「白い花」いう絵の実物を私は見たのですが、近くに寄ってよく見ると緑の葉がとても厚くこってりと塗られていることに意外な感じを受けました。しかし、かなり離れて見ると、朝の光を浴びたやまぼうしの葉とその白い花がとても爽やかに感じられます。画家としてのアイデンティの確立を目指して新たな模索を始めた一村が、数えで不惑の歳を迎えた1947年にこの「白い花」を描き、柳が青々と生い繁り花が鮮やかに咲き誇る豊かな村里へと通じる「本道」をやっと見出したものと思います。 しかし、一村が本道と信じる道を歩いて目的の場所にたどり着くまでにさらに10年以上の歳月が必要だったようです。一村は、50歳のとき住みなれた千葉から奄美大島に渡り、これまでとはまったく異なる自然と対峙して新たな美を創造することになるのです。 さて、最後に「自吾作古 空群雄」と刻された遊印のことです。この遊印の存在を私が初めて知ったのは、 田辺周一さんが運営しておられる「ニライカナイ・田中一村」(現在名は「Syuich Tanabe Homepage」)のHPでその写真を見たことからです。なお、私はこの遊印の考察結果をすでに拙HP「田中一村の遊印」 にまとめています。この遊印は奄美の一村終焉の有屋の住居に遺されていたもので、一村他界後、処分場に廃棄されていた遺品中から笹倉慶久が記念として収拾、所有者は笹倉氏で、友人の田辺周一さんがいま保管されていると思います。私は、田辺周一さんのご好意でこの遊印が押印された画像を拝見することができ、そこからこの遊印には「自吾作古 空群雄」という言葉が刻されていること、さらにこの言葉が呉昌碩の漢詩から由来していることを知ることができました。
2010年11月12日
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papadasさん、お久しぶりです、やまももです。 田中一村のことで拙ブログにコメントをいただくようなことはほとんどありませんので、9月14日にアップしました「 田中一村を描いた映画『アダン』を観ました」と題した拙文に papadasさんから「一村、ボクも好きです」とのコメントを寄せていただいて大喜びしています。また、映画「アダン」で田中一村を演じた榎木孝明について、「彼は大学時代のクラブの後輩だったりします」と書いておられ、ビックリしています。もし機会がありましたら、彼の熱演をご覧になられたらいいですね。彼の迫真の演技は敢闘賞ものだと思います。 私が好きなものの中に宮部みゆきの小説、西岸良平の漫画、そして田中一村の絵がありますが、papadasさんからこれまでいただいたコメントからpapadasさんもこれらの作品がお好きなことが分かりとても嬉しいです。 ところで、田中一村の絵が好きな方は世間に多数いらっしゃると思うのですが、若い世代が中核を占めるブログの世界では一村ファンは極めて少数派だと思います。そのことは、田中一村の生涯を描いた映画「アダン」を観たときに大いに実感させられました。映画館は満席だったのですが、観客の大半を年配の方が占めていました。ですから、団塊の世代の私がなんだかとても若い世代に属するように感じたものです。なお、最近、宮部みゆき原作のアニメ映画「ブレイブ・ストーリー」を観たときは、逆に観客は若い人が多く、そのときは私がえらく場違いなところに来ているような気がしたものです。 ところで、papadasさんが運営しておられる「papadas's 生活と意見」を拝見させてもらいましたら、奥歯の周囲が腫れてこられたために食べ物が充分に噛めず、体重が3kg近く減ってしまわれたとのことですね。ダイエットばやりですが、こういう「ダイエット」は辛いですし、本当に健康を害してしまいますよね。それで再来週に歯医者さんで抜歯されるとのことですが、早く食事を楽しく食べられるようになればいいですね。
2006年09月17日
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みなさん、こんばんは、やまももです。 私は画家の田中一村の絵が大好きで、拙HPにも「田中一村の遊印」という拙文を載せています。そんな田中一村の画家としての苦闘を描いた映画「アダン」が鹿児島でも上映されましたので観に行って来ました。 この映画は、松山善三が脚本を書き、五十嵐匠が監督し、榎本孝明が田中一村を演じています。それで、観終わっての感想は、絵を描くことに精魂を傾ける田中一村の芸術家としての真摯な姿が榎本孝明の迫真の演技を通して描かれているとても真面目な映画だと評価したいのですが、なんだか余りにも生真面目過ぎるため、映画として面白みに欠ける作品だなという感想も持ちました。 映画の前半に、軍鶏を描くのに自ら軍鶏の動作を真似て首を振り足をバタバタさせる一村が描かれていましたが、このような絵に没入する画家のひたむきな姿は、私の心を打つとともに、またその滑稽な姿に思わず笑みも浮かんできました。こういう田中一村の常人離れした側面を思いっきり客観的に描いたらよかったのではないでしょうか。私が思いますに、田中一村という人物はかなり浮世離れした考え方をしていた人で、その言動も第三者から見たら相当の奇人変人的なものだったと思われます。そういう田中一村の人物像とその絵画の本質を第三者にユーモラスに語らせるとともに、そこから浮かび上がってくる芸術家としての無垢の魂に観客が自然と心打たれ共鳴するような描き方が出来なかったのだろうか……などと観終わった後に心の中でそんな勝手な注文をつい付けたりしてしまいました。 それから、何より残念なのは田中一村が実際に描いた絵画が画面にほとんど出てこないことです。これはおそらく一村の絵の著作権を継承する一村の遺族の方と映画製作上でこじれたことからこうなってしまったのだと思われますが、ことの経緯はどうであれ、画家を主人公にした映画でその絵が正面に据えられて語られないのは致命的ですね。田中一村が従来の自分の技法では描き出せない奄美の亜熱帯の自然にどう対峙し感応したのか、その自然の生命を画家として画布にどう汲み上げ再現していったのか、その芸術家としての苦闘の過程を一村の実際の絵を通して映画にしっかりと描き出してもらいたかったですね。 なお、一村が奄美の自然を画家として自分のものにし絵の中に表現していく過程について、映画では少女アダンと一村との嘘っぽい交流を通じて象徴的に描こうとしたようですが、このよな手法はスクリーンのなかでただ空回りしているだけで、私には少女アダンのエピソード部分はただ退屈なだけでした。
2006年09月14日
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よしだかさん、初めまして、やまももです。 田中一村の牡丹の絵とそれに書き添えられた画賛について、よしだかさんのブログの「朝雲」と題された記事から貴重な情報を得ることができ、大変感謝しております。また、私のブログにわざわざコメントを寄せてくださり、この田中一村の牡丹の絵と画賛についての記事が「南海日日新聞」の10月5日に連載の第29回目のものとして載ったこと、その記事の筆者が一村記念美術館の顧問をしておられる大矢鞆音氏である等のことを教えてくださり、非常に恐縮するとともにまた大いに感激しております。 田中一村が扁額に描いた牡丹の絵には李商隠のつぎのような「牡丹」の詩を画賛に用いていますね。錦帷初捲衛夫人 繍被猶堆越鄂君垂手亂翻雕玉珮 折腰争舞鬱金裙 石家蝋燭做曾剪 荀令香爐可待熏 我是夢中傳彩筆 欲書花片寄朝雲錦幃初めて巻く衛夫人 繍被なお堆し越鄂君手を垂れ乱翻す雕玉の佩 腰を折り争そい舞う鬱金裙石家の蝋燭は做りて曾って剪り 荀令の香爐は薫るを待つ可けんや我はこれ夢中に採筆を傅え 花片に書して朝雲に寄せんと欲す なんとも難解な詩なので、インターネットでこの李商隠の「牡丹」の詩をちょっと調べてみました。そこで分かったことは、李商隠が様々な故事を用いて牡丹の花の素晴らしさを賞賛しているということです。 例えば、「石家蝋燭做曾剪 荀令香爐可待熏」という句では、晋代の石崇は薪の代わりに蝋燭を用いるほど家が裕福で、荀令という人物の家では香炉を用いずとも芳香が漂ったそうですが、そのような故事を用いて牡丹の富貴さや香りの芳しさを表現しているそうです。それから、「朝雲」は巫山の神女を指すようですね。 これらのこと、簡単に分かるわけがないですね。やたら典故を用いて飾り立てた漢詩ですから、いまの私たちの心に訴えるものはあまり無いと思うのですが、若かりし頃の田中一村はどのような気持ちでこの詩を牡丹の絵の画賛に用いたのでしょうかね。 なお、鹿児島市の山形屋で開かれた「田中一村展」で購入した『奄美を描いた画家 田中一村展』(日本放送出版協会、2004年1月)では、扁額に描かれた牡丹の花の絵を「扁額 花」として掲載しており、描かれた時期は「昭和三年」(1928年)としています。また、この絵はいまは田中一村記念美術館が所蔵しているとのことです。それから、山形屋で開かれた「田中一村展」につきましては、私のホームページに「田中一村展を見て」と題して紹介しております。
2005年10月10日
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私は田中一村の絵が大好きで、私のホームページに「田中一村の遊印」というページを設けたほどですが、その田中一村が描いたある南画の画賛について新たに判明したことがありましたので、そのことをこのブログで紹介したいと思います。田中一村は詩画一如の南画の世界で育まれた人間です。幼い頃から筆を握って南画を描いていた一村にとって、漢詩は絵を描く上での欠かせぬ基本的な教養であるばかりではなく、またそれによって美的感性を磨くとともに、その価値観の土台を形成し、さらに自らの日々の心情を託したり慰め励ましたりしていたと思われます。 田中一村の若い頃の画号は「米邨」(べいそん)だったのですが、1947年春に画号を「柳一村」と改めています。この「柳一村」という新しい画号は、陸游の詠んだ漢詩「遊山西村」の詩句中の「柳暗花明又一村」(柳暗く花明かるく 又一村あり)から選び取ったものだそうです。 そんな田中一村が米邨時代に描いた南画には、多くの場合、中国の漢詩が画賛(画中の余白に書き添えられた詩や文章)として書かれています。しかし、私のような人間には、それらの画賛の詩の多くがどのような詩人によって詠まれたものか残念ながらよく判りません。 昨年、全国で「奄美群島日本復帰50周年記念 田中一村展」が開催され、鹿児島市でも6月に山形屋で同展が開かれましたので、喜び勇んで出かけましたが、会場に飾られた米邨時代の南画にもやはり私にとって「詠み人知らず」の画賛が幾つもありました。 ところで、山形屋の会場に展示されていた一村の絵の中に、扁額に描かれた牡丹の花の絵もあり、そこにやはり漢詩が画賛として添えられていましたが、それが誰によって詠まれたものか今日になってやっと判明しました。 昨日、よしだかさんが運営しておられるブログに田中一村関連の記事が載っていることを知って同ブログを拝見したのですが、その2005年10月07日の「朝雲」と題された記事につぎのようなことが書かれてありました。地元の朝刊の「新・田中一村」という連載に、田中一村が米邨時代に描いた牡丹の絵の画賛についての言及があり、それが李商隠が詠んだ詩であったというのです。そして、よしだかさんは、その「最後の一行は、高橋和巳の訳によると、『この私の恋心を牡丹の花弁に書きしるし、巫山の方なる神女のように美しいお方に、その手紙を届けたく思う』となっているのだが、原文は『花片に書して朝雲に寄せんと欲す』となっているだけだ・・・『朝雲』にそんな複雑な意味があるのかな?」とコメントをされています。 この「花片に書して朝雲に寄せんと欲す」との字句を見て、私はそれが山形屋の会場に展示されていた扁額の絵に添えられていた画賛の結びの句「欲書花片寄朝雲」の漢文を読み下したものであることに気づきました。そうしますと、この扁額の牡丹の画賛は、李商隠の「牡丹」という詩から引用したということが判りますね。嬉しかったですね、前から気になっていた一村の南画の画賛の詩句の一つが判明したのですからね。 なお、「朝雲暮雨」という言葉がありますが、黒子知視さんのホームページの「慣用句辞典」にこの語句の説明があります。それから、一村が画賛に使った李商隠の「牡丹」の詩をはつぎのようなものです。錦帷初捲衛夫人 繍被猶堆越鄂君垂手亂翻雕玉珮 折腰争舞鬱金裙 石家蝋燭做曾剪 荀令香爐可待熏 我是夢中傳彩筆 欲書花片寄朝雲
2005年10月09日
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