テレビ 0
全63件 (63件中 1-50件目)
1953年12月に奄美が復帰しましたが、それから50年後に私が勤務している短大から奄美在住の生徒のために実施していた推薦入試のために名瀬に赴きました。名瀬の街のいたるところに「奄美復帰五十周年記念」の貼り紙が張られていましたので、推薦入試の受験生たちに軽い気持ちで「奄美復帰と言っているけれど、どこから復帰したの」と訊きました。すると受験生たちはだれもが首を傾げ、苦し紛れに「ソ連」、「中国」、「韓国」なんて答えるのです。受験生を苦しめてはいけませんので、四、五名質問してから、こんな「難問」を訊くことを止めにしました。 佐竹京子さんが2003年1月に南方新社から初版を出され、今年重版を出された『軍政下奄美の密航・密貿易』を送っていただきました。奄美は戦後に沖縄、小笠原同様に日本から行政分離されアメリカの軍政下に置かれました。行政分離後、鹿児島市の伊敷町旧歩兵第四五連隊跡に奄美への引揚者収容所が設けられています。いまは県立短期大学の敷地となっており、私は以前よくバスで三号線上にあるこの県短横を通り過ぎておりました。この奄美への引揚者収容施設から定員150人を遥かに超える乗客が密航船「宝栄丸」に乗船し、錦江湾を出港し、中之島沿岸で多数の死傷者を出しています。この他、日本から行政分離時代の教科書密航、密貿易等が詳しく紹介されています。 特に興味深かったのは、行政分離後の奄美の二人の教員が日本本土の六三三制となった新しい教育状況を知ろうと金十丸に乗って密航し、東京、神戸、鹿児島で教科書や教育資料を集め、奄美に持ち帰って役立て用と努力した事実です。でもこの二人の教員は密航の罪で教壇を追われてしまったそうです。
2018年08月08日
コメント(0)
ムーブメント淸水という施設で毎週木曜午前中に3時間リハビリ治療を受けています。上の写真は真面目にエアロバイク、レッドコードなどの器具を使って筋力アップの訓練を受けているしている私の姿です。 去年(2017年)5月に軽い脳梗塞に罹り、それ以降歩行時に足腰のバランスが取れず、一人では外出できず、そのときはいつも妻に付き添ってもらっています。 ムーブメント淸水ではl理学療法士、介護福祉士、看護士とスタッフも揃っており、私のような利用者に対して自宅への送迎サービスも行ってくれます。筋力アップのためのリハビリ訓練とともに休憩時間もたっぷりあり、コーヒーサービスなども受けられます。 このようなリハビリ訓練を筋力保持のために週1回受けていますが、もし可能ならば一日でも早く一人でスタスタと外出できるようになりたいと思っています。
2018年05月03日
コメント(0)
昨日は私の誕生日、「ステーキハウス藤安」に妻と二人で出掛け、サーロインステーキを楽しく食べました。 去年の私の誕生日のときは、妻と長男夫婦、次男の五人で私の古稀を賑やかに祝ったものですが、月日の経つのは早いもの、71歳の誕生日を迎えました。 去年の五月には脳梗塞を患い、今も足腰にふらつきが見られ、週一回リハビリに通っていますが、今も妻の見守りなしには外の道路を一人では歩けず、どうしても室内でじっとしている時間が多くなり、足腰が弱くなり、なんとも残念な思いでいます。
2018年04月28日
コメント(0)
2月11日、12日に次男の望が大阪から鹿児島の我が家に帰省してきましたので、私たち夫婦は彼の運転で出水まで武家屋敷や鶴の見学に出掛けました。 出水麓は、薩摩藩内に設けられた江戸時代の外城制度の麓として最大規模のものとのことです。なお、薩摩藩は領内を113の「郷」に分割し、藩の直轄郷には「地頭仮屋」、私領には「領主仮屋」を設け、その周囲に外城衆中(郷士)を配置し、郷士は農耕で自活するという兵農一致の生活を送らせるという「外城」すなわち「麓」の制度を取っていました。今回の出水訪問では、当時の面影を遺した税所邸や竹添邸などの武家屋敷を見ることが出来ました。 出水市は鶏肉・鶏卵の生産額日本第2位の「鶏のまち」でもあります。そんな出水市で新たに開発当地グルメが鶏肉と鶏卵を組み合わせた「親子メニュー」だそうで、市内のレストランで鶏肉焼き肉、鳥刺し、卵スープ、黄身二つ入り卵とご飯がセットになった「いずみ親子ステーキごはん」を美味しく賞味させてもらいました。 出水で鳥と言えば、鶏だけではありませんね。出水平野には毎年10月中旬から11月中旬にかけて約1万羽のナベヅルと約3千羽のマナヅル等の鶴が飛来してくることで有名ですね。無数の鶴が賑やかに鳴き騒いでいました。これらの鶴さんたちも2月上旬から3月下旬頃にシベリアに飛び立って行くそうです。 最後に薩摩川内市の藤川天神にお参りして帰ることにしました。天神様ですから菅原道真公が祀られています。えっ、菅原道真公は大宰府政庁の近くで生涯を終えられたのではなかったかですって。そんなこと観光(菅公)のためなら「天神様のお参りだ、行きもよいよい、帰りもよいよい」とどうでもよいのと違いまっか。
2017年02月17日
コメント(0)
昨日と今日の両日(2月10日、11日)、鹿児島にも雪が降り、朝に玄関のドアを開けましたら庭は銀世界でした。昨年の2016年1月25日には12センチの積雪がありましが、今回の積雪は鹿児島市内で1センチ程度のものですが、それでも拙宅の前の道路は凍結のために普通の自動車タイヤではスリップの危険が在り、私の透析治療の病院通いは2時間程遅らせてもらいました。 南国鹿児島も2月の今頃は寒い日が続いており、骨川筋衛門状態の私にはキツイものがありますが、来週の後半ぐらいから暖かい日がやって来るようで、そんな日を楽しみにしています。
2017年02月07日
コメント(0)
気象台によると、1月24日から25日にかけ鹿児島県内は強い冬型の気圧配置となる影響で、薩摩地方を中心に平地で20センチ、山地で30センチの積雪が予想されると報じていましたが、24日朝午前8時の鹿児島市内の我が家の庭も一面真っ白の雪景色となっていました。 県内では2010年12月31日、上空1500メートルに氷点下8.3度の寒気が流れ込んだ影響で、鹿児島市で観測史上2番目となる最大25センチの積雪を記録しましたが、今回の寒気も、これに匹敵する積雪をもたらす恐れがあると予測されましたが、1月25日に鹿児島県内の伊佐市大口で氷点下15.2度の観測史上最低気温を記録しました。また鹿児島市内で氷点下5.3度、12センチの積雪がありました。 なお、下の写真は2011年正月に撮った我が家の庭の雪景色です。 ↓ http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201101010000/
2016年01月24日
コメント(2)
8月9日に霧島アートの森で開催された山口晃画伯と同美術展については、4月24日に開かれた立川志の輔師匠の独演会においてアンコールで登場した志の輔師匠から紹介があって初めて知り、さらに4月26日のNHKのEテレ「日曜美術館」で「画伯!あなたの正体は? ドキュメント・山口晃」でこのユニークな画家とその絵の概要を知ることが出来ました。それで私たち夫婦は8月9日に鹿児島に帰省していた次男の運転で霧島アートの森で開かれている山口晃展を鑑賞に行きました。今回の展示展テーマが「汽車とかたな」ということで、刀を扱った「無残ノ介」の墨絵漫画が展示作品の約半数を占めており、それらの漫画には正直言って首を傾げさせられましたが、明治、大正、昭和、平成の時空間を超越させて自由奔放にしてかつ細緻でリアルなタッチで描き出されてた汽車や建物、乗車客の絵にはなにか懐かしくなるような不思議な世界が展開されていました。この展示会で「平成の大和絵師」と称される山口晃画伯の魅力の一端を垣間見ることが出来ました。なお、今夜(8月16日)の午後8時からNHKのEテレで「時代の先頭を走る画家・山口晃」と題して4月26日に放映された山口晃画伯のドキュメント番組が再放送されますので、興味を持たれた方はぜひご覧ください。
2015年08月16日
コメント(0)
今日(5月5日)は子供の日で、私たち夫婦の結婚記念日です。しかし、子どもたちはいまは成長して関西で働いており、GWを利用して一緒に遊びに出かけるわけにもいきません。それでも快晴のこんな日に家に閉じこもっているのもなんですから、薩摩川内市の入来の武家屋敷群のなかで「旧増田家住宅」が約3年かけて、大正期の姿に復元され、今年の3月27日に完成記念式典があったとニュースで耳にしていたので、見学に出かけることにしました。 現在の入来町は鎌倉時代に相模の国(現神奈川県)の渋谷氏(城は現在の東京の渋谷にあったそうです)が薩摩郡地方に下向して治めた地区のひとつだそうで、そこに山城の清色城(きよしきじょう)を構えて地名の入来院を名のったそうです。後に島津氏の支配下に入り、現在の入来町地区を与えられ、江戸時代の「一国一城令」発布後は私領として同地を統治したとのことです。 ところで、鹿児島の郷土民謡「おはら節」「はんや節」のみならず、「渋谷音頭」もおはら祭になくてはならぬ曲として定着してきました。なお上に書きましたように東京の「渋谷」という地名は、現在の渋谷に渋谷氏が城を構えて統治していたことに由来するとのことで、その渋谷氏の一族が鎌倉時代に薩摩の入来地区に移り住んだそうです。そんな東京の渋谷で、「渋谷・鹿児島おはら祭」が鹿児島ゆかりの芸能人らも多数参加して始まったのが1998年の4月12日のことでした。そして、2005年になって今度は渋谷音頭が鹿児島市のおはら祭で初めて踊られるようになりました。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/cityview2.htm#tenmonden
2013年05月05日
コメント(2)
「我は海の子」の歌碑が歌詞と一番ゆかりのある天保山海岸跡に建てられず、なぜそこから5キロほど離れた祇園之洲公園に建立されたのか、そのことに私は疑問を持ちましたが、幸いこの歌碑建立実行委員会の事務局長をされた故橋口峻氏の奥さまの橋口睦子様から祇園之洲公園にこの歌碑が建立された経緯をお訊きすることができました。それでこのブログで橋口睦子様からお訊きしたお話を紹介したいと思います。 故橋口峻氏は、1989年に新聞報道で「我は海の子」の作詞者が鹿児島県出身の宮原晃一郎で、天保山海岸をしのんで詠んだものであることをお知りになり、ぜひ歌碑を建立し宮原晃一郎の詩才を後世に伝いたいと思われました。なお、故橋口峻氏は鹿児島女師小学校の卒業生で、天保山海岸で水泳訓練を受けておられたそうです。 ですから、歌碑建立場所として初めは天保山海岸跡を考えられたそうですが、そこには以前すでに海軍関係の方が建てられていた小さな碑が草に覆われて誰にも知られずに存在していたことや、またその場所からはいまは海を臨むことはできず、さらに傍を国道225号が走っているために大きな記念碑を建立することができないと断念され、海と桜島が臨める祇園之洲公園に大きな記念碑を建立することを計画されたとのことです。 歌碑に使用する石は、全国有数の石材綜合会社タカタの取締役会長の高田義一氏が以前から温存されていた通称ジンバブエ黒御影石を破格の運賃に毛の生えた程度の康価で提供して下さったのですが、実際にこの石を使って歌碑として建立するに当たって、当初計画した大きさでは市当局からクレームがつき、何度も交渉を重ねてやっと現在の大きさに決まったとのことです。また、歌碑の文字を専門家に見積もり依頼したところ、それがあまりにも多額だったので、なんと故橋口峻氏自身が揮毫されたとのことです。 歌碑建立実行委員会の事務局長となられた故橋口峻氏は歌碑建立に奔走され、ついに多くの有志の方々の暖かい協力によってこの歌碑は2000年7月20日の海の日に祇園之洲公園に建立されました。ただ、睦子夫人のお話によると、ご主人はこの祇園之洲公園が多くの方が訪れやすい公園として整備されなかったことを非常に残念がられていたとのことです。 なお、橋口睦子様から「我は海の子」実行委員会が2001年4月22日に発行した『我は海の子 歌碑建立記念誌』をいただきましたので、今回の睦子夫人のお話のみならず同誌掲載の「はじめに」の言葉や「『我は海の子』の作詞者が宮原晃一郎であることの証拠となった資料二点」を拙サイト「やまももの部屋」の「祇園之洲公園 『我は海の子』の歌碑」に新たに書き加えて紹介させてもらいます。
2012年04月06日
コメント(9)
前回、鹿児島市祇園之洲公園に建てられている文部省唱歌「我は海の子」の歌碑についてご紹介しましたが、この歌碑について新たな疑問が生じてきましたので、そのことについて書かせてもらいます。 この「我は海の子」歌碑右下に記されている「『我は海の子』の由来」によると、「我は海の子」は作詞者である宮原晃一郎が「幼い日、毎日のようにかよった故郷の海(錦江湾)の天保山海岸をしのんで作詞した」ものと記されています。そうしますと、この「我は海の子」の歌碑を天保山にある「坂本竜馬新婚の旅碑」傍らの荒田川の石積み堤防(天保山海岸の防波堤跡)近くに建ててもよかったのではないかと思うのですが、なぜそこから約5キロ近く離れた祇園之洲公園の南端に建立されたのでしょうか。確かに現在の歌碑から錦江湾の海と桜島を臨むことができるのですが、できれば「我は海の子」の歌詞と一番ゆかりのある場所に建てればよかったのにと私などは勝手に思ってしまうのですが、何か複雑な事情かあったのでしょうかね。 歌碑建立の経緯について詳しい事情をご存知の方がおられましたらどうか教えていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。 なお、拙サイト「やまももの部屋」にすでにアップいたしました「祇園之洲公園 『我は海の子』の歌碑」にもそのことについての疑問を書き加えておきました。
2012年04月01日
コメント(7)
我は みなさんは「我は海の子」の歌をご存知ですね。そうです、この歌の第1節は「我は海の子白浪の/さわぐいそべの松原に/煙たなびくとまやこそ/我がなつかしき住家なれ」というもので、きっと小学校の頃に歌った懐かしい記憶があると思います。 一、我は海の子白浪の さわぐいそべの松原に 煙たなびくとまやこそ 我がなつかしき住家なれ 二、生れてしほに浴して 浪を子守の歌と聞き 千里寄せくる海の気を 吸ひてわらべとなりにけり 三、高く鼻つくいその香に 不断の花のかをりあり なぎさの松に吹く風を いみじき楽と我は聞く しかし、この有名な歌の歌詞について、誰がどこの海岸の風景を前に見て作詞したかを知っている人は少ないと思います。実は私も長い間そのことを知らなかったのですが、あるテレビの番組で「我は海の子」の歌詞の作詞者が鹿児島出身の人物で、その歌の歌詞も鹿児島の海岸の風景に基づいているということを知りました。それで、鹿児島女子大学国語国文学会編『かごしま文学案内』(春苑堂書店、1989年10月)で調べたところ、この歌の作詞者は鹿児島市加治屋町出身の「宮原晃一郎」という人物で、その経歴はつぎのようであるとのことでした。宮原晃一郎(明治十五年~昭和二十年) 児童文学者。北欧文学者。本名は知久。鹿児島市加治屋町出身。官吏宮原知貞の長男。十歳のとき、父母とともに北海道札幌に移り、明治三十人年から大正五年まで小樽新聞社に記者として勤務した。当時札幌農学校の教師をしていた有島武郎と交わり、影響をうける。その後上京し、大正七年、創作「薤露(レクイエム)に代へて」を「中央公論』に発表。これが鈴木三重吉の目にとまり、『赤い鳥』に童話を書くようになる。童話集に『龍宮の犬』(大12)、『悪魔の尾』(大13)がある。その後、独学で英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語などを習得し、北欧文学の翻訳紹介者として活躍した。 最近公開された資料により、不明とされていた文部省唱歌「われは海の子」の作詞者は宮原晃一郎であったことが判明して話題となった。小学校時代の作詞であるという。したがって、その「海」は錦江湾ということになる。 また、2011年12月にクマタツさんから「鴨池動物園等の思い出」と題されたエッセイをメールでいただき、拙サイトの「月下推敲」に転載させていただき、そのことを拙ブログ「ポンコツ山のタヌキの便り」に「クマタツさんの鴨池動物園等の思い出のエッセイ」と題して拙文をアップして天保山海水浴場のことも話題にしましたところ、ありがたいことに mastanさんからその天保山海水浴の写真が「未来軌道21 アイデンティティの確立-3」のトップに載っていることを教えていただき、またその写真に有名な文部省唱歌「われは海の子」の歌詞「われは海の子/白浪の/さわぐいそ辺の/松原に/けむりたなびくとまやこそ/わがなつかしきすみかなれ(後略)」も添えられていました。さらに同サイトには、この「われは海の子」を作詞した宮原晃一郎を顕彰する歌碑が祇園之洲公園に建立されていることも紹介されていました。 それで、2012年3月20日の春分の日にデジタルカメラ持参で鹿児島市の祇園之洲公園まで出掛け、この歌碑を撮影することにしました。なお、この歌碑は平成十二年(2000年)七月二十日の「海の記念日」に桜島をバックに建立されていましたが、「我は海の子」の歌詞のような風景はもはやなく、海辺はコンクリートの岸壁で囲われ、その岸壁の下には無数のテトラポットが並べられており、白砂もなければ松林もありませんでした。また同歌碑右下に「『我は海の子』の由来」が記されていました。 なお、拙サイト「やまももの部屋」に「祇園之洲公園 『我は海の子』の歌碑」をアップしましたので、興味がございましたらご覧ください。
2012年03月26日
コメント(1)
鹿児島市電の郡元電停正面すぐ近くにダイエー鹿児島店がありますが、この大型ショッピングセンターの西側広場にロバ、クマ、ウマ、ヤギのブロンズ像が置いてあります。この動物たち、いまはみんなブロンズで作られていますから、もちろん動き回ったりはしませんが、昔はこのあたりに鴨池動物園(1916年開園、日本で4番目に古い動物園)があって、様々な動物たちの元気な姿を見ることができたそうです。 クマタツさんからそんな鴨池動物園やその近くにあった野球場、海水浴場等についての思い出を書かれたエッセイ「鴨池動物園とその周辺の思い出」をいただきましたので、拙サイトの「月下推敲」に転載させてもらいました。また同じく拙サイトの「鹿児島の市電と街」の「鴨池電停」紹介ページからこのクマタツさんのエッセイにリンクを貼りました。 私は、鴨池や郡元の市電周辺のことを調べていたときにこれらの電停近くに動物園があったことを書籍などで知ったのですが、実際に子ども時代にこの動物園に遠足などで出掛けられ楽しまれたクマタツさんのエッセイはとても興味深いものでした。また動物園のすぐ近くに海水浴場があったことはいただいたエッセイで初めて知りました。前に鹿児島県立図書館でコピーしていた「鹿児島市観光案内図(鹿児島観光課・鹿児島市観光協会、1954年3月)」をあらためて取り出して見直しましたところ、路面電車の軌道が郡元電停から鴨池電停を通っていますし、東側の海岸には「鴨池海水浴場」という文字が見えます。 しかし現在の鴨池には動物園もなければ海水浴場もありません。1972年開催の太陽国体のために鴨池周辺は大々的に整備され、近くの海岸一帯は埋め立てられ、白砂青松の海水浴場はなくなってしまったそうですし、また動物園も鹿児島市南方の平川に移ってしまいました。 ところでクマタツさんにお訊きしたいことが一つあります。作家・脚本家の向田邦子は9歳から11歳という多感な少女期に昭和14年(1939年)1月から昭和16年(1941年)3月まで約2年間を鹿児島市平之町上之平50番地に住んでおり、彼女の「細長い海」と題されたエッセイ(文春文庫の『父の詫び状 新装版』所収)には、「海水浴場で心に残っているのは、鹿児島の天保山である」と書いています。それで、クマタツさんのエッセイを拝見して疑問が生じたのですが、彼女が住んでいた平之町からなら鴨池海水浴場も近くて便利なのに、なぜ鴨池の海水浴場については一行も触れていないのでしょうか。いろんな回答が可能と思いますが、もしよろしければクマタツさんのご見解をお聞かせ願いたいと思います。どうかよろしくお願いいたします。
2012年01月06日
コメント(19)
NHK総合テレビで12月10日(土)に土曜ドラマスペシャルとして「真珠湾からの帰還 ~軍神と捕虜第一号~」が放映されました。 このドラマは実話に基づくもので、太平洋戦争で捕虜第一号となった海軍軍人を描いたものです。いまから70年前の1941年(昭和16年)12月8日、海軍の酒巻和男少尉は「甲標的」という二人乗りの特殊潜航艇の搭乗員に選ばれて真珠湾攻撃に参加しますが、出撃した5艇全てが帰還せず、戦死した9名が軍神と讃えられたのに対し、酒巻少尉の搭乗した特殊潜航艇は敵の攻撃を受けた上に機器の故障のために操行不能となり、彼は艇に爆薬を仕掛けて海に脱出しますが、溺れて意識不明の状態で浜に漂着し、太平洋戦争における捕虜第一号となります。 当時の日本軍人は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という戦陣訓を教え込まれていましたから、アメリカ軍の捕虜となった酒巻少尉も初めは「kill me!!」と叫び、食事を取ることを断固拒絶していました。しかし、生身の肉体は食物を欲します。いつしか涙しながらも夢中でパンにかぶりつきます。こんな彼の姿に私も自然と目頭が熱くなりました。生きることを決意した彼は、アメリカ軍に英語辞典を要求し、自分の意思を伝える努力を始めます。そんな彼は、次第にアメリカの捕虜収容所で日本人捕虜たちの指導者的立場に立つようになり、ともすると自暴自棄となって暴動を起こそうとする日本兵捕虜たちを粘り強く説得し、またアメリカ軍と交渉して日本兵捕虜の命を守るために懸命に努力します。 日本の敗戦後、酒巻は帰国しますが、アメリカ軍の捕虜であった彼の許に「割腹しろ」等の非難の手紙が届き、苦悩する姿も描かれていますが、後にトヨタに勤務してトヨタ・ブラジルの社長も勤め、81歳で亡くなったとの紹介もあり、心から「よかった」と安堵させられました。 酒巻和男少尉を演じた青木崇高が熱演しており、捕虜となっても人間としての誇りを失わずに毅然と生きるその姿に自然と見入ってしまい、90分のドラマがとても短く感じられました。 なお、このテレビドラマの最後に、「真珠湾での甲標的による戦果がなかったことが判明している」とのテロップが出されていましたが、同じNHK総合テレビで2009年12月6日に放映された「真珠湾の謎~悲劇の特殊潜航艇~」でも、日本の大本営は真珠湾に出撃した5隻の特殊潜航艇が戦艦アリゾナを撃沈するという大戦果をあげたと発表し、そのとき死亡した9人の搭乗員を「九軍神」と称揚しましたが、実際にはアリゾナの轟沈は飛行隊によるものだったこと、それを知りながら特殊潜航艇の搭乗員を軍神として大々的に宣伝して戦意高揚を図ったことが明らかにされていました。 当時、獅子文六も1942年1月から12月にかけて朝日新聞に「海軍」を連載し、「九軍神」の一人で鹿児島出身の横山正治少佐をモデルにして、海軍に青春を賭した若者の姿を描いて「九軍神」称賛のプロパガンダに大きな役割を果たしました。この「海軍」の主人公の谷真人は鹿児島市下荒田町で生まれ、県立第二中学校から江田島の海軍兵学校に進学し、立派な軍人に成長し、真珠湾攻撃のときは特殊潜行艇部隊の一員に選ばれ、「九軍神」の一人として讃えられることになります。 この獅子文六の「海軍」については、すでに当ブログの2006年05月27日に「獅子文六『海軍』の鹿児島の『電車』&鴨池動物園」 と題して、谷真人が旧制中学の3年生のとき、学校の授業で興味を持った薩英戦争関連の本を閲覧するために日曜日に図書館(県立図書館のことだと思います)に行き、帰りに出会った級友の尾崎と2人一緒に相合傘で雨の中を照国神社前から天文館へと歩いていく場面を紹介しています。 しかし、獅子文六は、平凡社『世界大百科事典』でつぎのように紹介されているように、本来はリベラルでユーモア溢れる作品を書いてきた作家です。そんな作家も太平洋戦争が激化する中で戦意高揚の雰囲気に自然と呑まれていったのですね。「作家。横浜生れ。本名岩田豊雄。父は貿易商。1922年に渡仏し,パリ滞在中に J. コポーらの近代演劇運動に触発されて演劇の道を志した。25年に妻マリーを伴って帰国し,新劇興隆に尽くした。かたわら33年に獅子文六の名で《新青年》に随筆を書き出し,34年に同誌に連載した長編小説《金色青春譜》の成功を契機として小説家となった。世相の観察にもとづく鋭い風刺,変則的家庭環境にある少年少女への同情,良識に裏打ちされた正義感,演劇で鍛えた軽妙な会話,偶然の利用を含めて計算し抜かれた人物の織りなす網目と事件の展開などが,彼のユーモアにみちた家庭小説の特徴をなす。戦前には《悦ちゃん》(1936‐37),《胡椒息子》(1937‐38),《信子》(1938‐40)など,戦中には《おばあさん》(1942‐44),本名で発表した《海軍》(1942)など,戦後には《てんやわんや》(1948‐49),《自由学校》(1950),《大番》(1956‐58)などが新聞・雑誌に連載された。自伝小説《娘と私》(1953‐56),《父の乳》(1965‐67)も有名である。」 私も子供の頃、新聞の連載小説やラジオ放送、さらには映画などで獅子文六の名前はいつも目や耳に入って来ていましたし、中学校のときには文庫本になっている『悦ちゃん』『胡椒息子』『おばあさん』『てんやわんや』『自由学校』『青春怪談 』等を購入して愛読していたものです。
2011年12月22日
コメント(7)
みなさん、こんばんは、やまももです。 桜島の雄大な姿は、鹿児島に住む人々の日々の生活の中に自然と溶け込み、人々と哀歓を共有して様々な顔を見せてくれます。そんな桜島を擬人化して鹿児島の街の人々に励ましや慰め等々の言葉を掛ける詩もどきを拙サイト「やまももの部屋」の「鹿児島の市電と街」内の「鹿児島の市電と桜島」というページの冒頭に載せていましたが、関西生まれの私には桜島に鹿児島弁を使わせるなんてことはできません。もし桜島が「泣いたらあかんで」とか「がんばるんやで」なんて言うたら、なんや桜島が通天閣みたいになってしまいますがな。 前からネイティブな鹿児島弁が正しく使える人にお願いできないかなと思っていましたら、最近になってクマタツさん(ご自身のブログ)とネットで親しく交流するようになり、この方のエッセイやブログ記事等から判断してネイティブな鹿児島弁を正しく使える人に違いないと私なりに判断し、メールで「桜島の言葉の部分を適切な鹿児島弁に直したいのですが(あるいは全く別の表現でもいいです)、助言していただけないでしょうか」とお願いしましたところ、ありがたいことに快諾していただき、その結果出来上がったのがつぎのような「鹿児島の街と桜島」の詩です。 いじめっ子に泣かされて、おうちに逃げ帰る途中で振り返ったら、小山の向こうに大きな大きな姿が見えて、「しっかいせんか、もう泣かんでよかが」と励ましの声を掛けてくれるかもしれません。 彼女に振られた日、自動販売機からゴロンと転がり出て来た缶ビールを立ち飲みしたら、ビルの谷間から「くよくよすんな、良かおなごはどしこでんおっが」と慰めの言葉を掛けてくれるかもしれません。 少し息継ぎをして泳げるようになった我が子の嬉しそうな笑顔を見て、私と一緒に錦江湾の対岸から「よかふじゃったど」とほめてくれるかもしれません。 しっぽのたれた老犬を伴って坂道をゆっくり登って行ったら、ポッカリ浮かび上がって来て、「おやっとさあ」と挨拶してくれるかもしれません。 クマタツさんから鹿児島弁のご助言をいただき、うーむ、なるほど、なるほどとうなづきながら拙サイトの桜島が発する言葉を鹿児島弁に置き換えました。これで桜島が鹿児島に住む人々の日々の生活の中に自然と溶け込み、人々と哀歓を共有する本当の桜島らしくなりました。それで、拙サイト「やまももの部屋」の「鹿児島の市電と街」内の「鹿児島の市電と桜島」というページに新たにアップしましたので、もし興味がございましたらどうかご覧ください。
2011年10月09日
コメント(7)
3月12日に鹿児島中央駅前で九州新幹線全線開業を祝うイベントがいろいろ企画されていましたが、前日の午後3時半ごろに国内観測史上最大のM9.0の東北関東大地震が起こり東北・関東地方に甚大な被害をもたらしました。そのため、12日当日に鹿児島中央駅前で予定されていた九州新幹線全線開業を祝う中孝介と元ちとせのユニット「お中元」のミニコンサートが中止されました。 しかし、その中孝介と元ちとせのユニット「お中元」のミニコンサートが今日5月4日(みどりの日)午後1時からゴールデンウィークで賑わう鹿児島中央駅大階段下のステージで開催され、中孝介は「花」、元ちとせは「語り継ぐこと」を歌った後、二人で「なごり雪」「春の行人」を熱唱し、多数の聴衆がその歌声を楽しみました。なお、最後に二人が歌った「春の行人」は九州新幹線全線開業記念キャンペーンソングです。このミニコンサートの様子をビデオで撮影しましたので興味がございましたらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/cityview5.htm#otyugen
2011年05月04日
コメント(0)
旧島津氏玉里邸庭園は、島津家第27代藩主島津斉興が天保6年(1835年)に造園されたとのことですが、島津玉里邸といえば幕末薩摩藩の実権者であった島津久光の晩年の住まいとしても知られていますね。 芳即正の『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)に拠りますと、島津久光は重富島津家の当主でしたが、薩摩藩主斉彬の死後に久光の子どもの忠義が藩主に就任したことから彼自身の運命も大きく変わります。藩主忠義の藩政補佐役をしていた島津斉興が安政6年9月12日(1859年10月7日)に死去した後、文久元年2月18日(1861年3月28日)に江戸幕府より久光を藩主参勤留守中の補佐役とする通達が出され、久光はこのときに名実ともに薩摩藩の実権を握り、藩主の忠義からも「国父」と称されることになります。島津久光は文久2年2月24日(1862年3月24日)に重富邸から鶴丸城二の丸邸に移り、明治維新後も二の丸に住んでいましたが、1877年の西南戦争のとき、二の丸が政府軍よって焼かれたために桜島に避難し、西南戦争終了には指宿に移り住んでいました。玉里別邸も同じく西南戦争のときに焼失しましたが、西南戦争終了後、久光の住居として再建され、明治11年(1878年)11月17日に同邸に入り、明治20年(1887年)に死去するまでこの玉里邸を住居としていました。 玉里庭園は1951年に鹿児島市が取得し、1959年には開校した鹿児島女子高の敷地となり、同校の生徒や職員の努力により良好な状態が維持されて来ました。 この旧島津氏玉里邸庭園が2011年4月12日から一般公開されることになりましたので、昨日(4月15日)に妻と一緒に見学に出かけました。同庭園の黒門入口には「国指定名勝 旧島津氏玉里邸庭園」と題したパンフレットが置かれており、つぎのような紹介文が載っていました。 「旧島津氏玉里邸庭園は,『上御庭(うえおにわ)』と『下御庭(したおにわ)』という二つの庭園からなり、江戸時代末期の庭園の様子がうかがえます。また、庭園内のさまざまなところに、南九州独特の趣向をこらしたり、材料を用いるなどの特徴もみられます。 このように,景観にすぐれ、歴史的にも貴重なものであることから、平成19年7月26日に、国の名勝に指定されました。」 ビデオで同庭園の様子を撮影し、YouTubeにアップしましたのでご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/atuhime.htm#tamazato
2011年04月16日
コメント(0)
私の長男が友人の結婚披露宴と彼の従兄弟の大学入学祝いに参加するために一昨日(4月8日)に1年ぶりに鹿児島に帰ってきました。今日(4月10日)夕方には鹿児島中央駅から九州新幹線の「さくら」に乗って帰りましたので、私たち夫婦は彼を見送りに出かけました。 鹿児島中央駅前では昨日から東日本大震災の被災者支援のために144の企業が鹿児島特産品のチャリティ物産展を開催しており、売り上げ全額を被災地支援の義援金にするとのことでした。それで私たち夫婦も何品かをそこで購入しました。 九州新幹線のプラットホームでは、長男が乗る新大阪駅行きの「さくら580号」の出発まで時間がたっぷりありましたので、同車両の外観だけでなく、さらに車内に入って指定席と自由席も写すことがきました。
2011年04月10日
コメント(0)
2011年3月12日に九州新幹線全線が開業し、鹿児島中央駅から博多駅まで最短1時間19分、新大阪駅まで3時間45分で到着することが可能となりました。 3月12日当日には鹿児島中央駅前で九州新幹線全線開業を祝うイベントがいろいろ企画されていましたが、前日の午後3時半ごろに国内観測史上最大のM8.8(後にM9.0に訂正)の東北地方太平洋沖地震が起こり東北・関東地方に甚大な被害をもたらしました。 そのため、12日当日に鹿児島中央駅前で予定されていた九州新幹線全線開業を祝うステージイベントは中止されましたが、九州新幹線沿線府県の物産展やかごしま特産品コーナー等は予定通り開催され、買い物客で賑わっていました。 なお、当日の鹿児島中央駅前の様子をビデオカメラに撮影し、BGMに「Senses Circuit」から「雪解け」「夜明け」の2曲をダウンロード゛して編集してYouTubeにアップしましたので、興味がございましたらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/cityview5.htm#kyusin
2011年03月13日
コメント(0)
明日(9月19日)放映のNHK大河ドラマ『竜馬伝』第38回目「霧島の誓い」は、寺田屋事件で傷を負った龍馬(福山雅治)がお龍(真木よう子)と一緒に鹿児島に向かい、傷の療養のために霧島山に登るようですね。 大河ドラマでは、今回初めて鹿児島を訪れたように描かれていますが、瀬野富吉著『幻の宰相 小松帯刀伝』』(小松帯刀顕彰会、1985年7月)で調べてみますと、竜馬は2回鹿児島を訪れているようです。 1回目は慶応元年(1865年)のことで、元治元年10月21日(1864年11月20日)、勝海舟が幕府の軍艦奉行を罷免され、神戸の海軍操練所が閉鎖されたとき、西郷隆盛が勝海舟に依頼されて塾頭の坂本龍馬以下塾生約30名の身柄を大坂の薩摩屋敷に引き取り、さらに小松帯刀が慶応元年5月1日(1865年5月25日)に坂本龍馬等を連れて鹿児島に帰り、同年5月16日(1865年6月9日)まで原良の小松別邸に住まわせています。 その翌年の慶応2年(1866年)にも、薩長同盟成立後、小松帯刀は伏見町奉行配下に襲われて手傷を負った坂本龍馬とその妻のお龍さんを伴って京から鹿児島に帰り、同年3月10日(1866年4月24日)に原良の小松別邸に宿泊させています。なお、その後、龍馬夫妻は霧島栄之尾温泉へ行って保養していますが、これが日本最初の新婚旅行と言われているものですね。 鹿児島市の天保山公園に「坂本龍馬新婚の旅碑」がありますが、それはこの地から龍馬とお龍が桜島丸に乗船して薩摩を後にしたことに由来しているそうです。なお鹿児島市はNHK大河ドラマ「龍馬伝」の19日放送に合わせて龍馬夫妻の銅像を新たにいづろ交差点のブラザー鹿児島ビル前(同市大黒町)に設置するそうです。
2010年09月18日
コメント(0)
4月28日、いづろ通電停近くに「マルヤガーデンズ」が新たにオープンしました。同施設はもともと1892年に呉服屋「丸屋」として創業され、1961年に百貨店「丸屋デパート」となり、1984年に三越グループの傘下に入って「鹿児島三越」と改称し、今年4月28日に複合商業施設「マルヤガーデンズ」として新たにオープンしたものです。 地下1階、地上8階、全76店舗が入っているそうですが、嬉しいことに5階、6階にはジュンク堂書店も入っているとのことで、それで早速マルヤガーデンズにいそいそと見学に出かけ、ジュンク堂書店で書籍を購入してきました。久しぶりに天文館近辺の電車通りに書店ができたので、これからは通勤の行き帰りに気軽に立ち寄って本を購入することになると思います。 なお、外壁にはツタを植えられており、将来は「緑で覆われた館」になることをイメージしているようですが、残念ながらいまはまだ繁っておらず、7年かけて緑で覆い尽くす予定とのことです。
2010年04月30日
コメント(4)
今月の6日にイオン鹿児島ショッピングセンターが鹿児島市東開町にオープンしましたが、私も昨日(20日)はデジカメ持参で見物に行って来ました。 私は、市電やバスを乗り継いでイオン鹿児島ショッピングセンターまで行ったのですが、バスが同ショッピングセンターに近づくと、海を隔てて聳え立つ桜島と対峙するように巨大な建物が目に入ってきました。 新聞等の報道によりますと、同ショッピングセンターは店舗面積約6万5千平方メートル、延床面積約12万1千平方メートルあり、地上5階建の大型商業施設内に核店舗のジャスコを中心に170の専門店が入っているそうです。1日平均で約2万7400人の来客を見込んでおり、それに対応するために3500台分の駐車場と1000台分の臨時駐車場も設けられているそうです。 同施設には建物の西側にあるジャスコから入っていきましたが、店舗内は広々としており、そんなに混雑しておらず、買い物客はゆったりした気持ちで楽しくショッピングできそうです。私は、ジャスコでの買い物予定はなかったので、お目当ての旭屋書店を探してエレベータに乗って2階に上がり、施設内の奥(東側)に向かってどんどん歩いていきました。途中で目に付いたのは、商業施設内のあちらこちらにお客様用の休息用ソファが設置されていることでした。これはとってもいいことですね。 さて、イオン鹿児島ショッピングセンターの2階で旭屋書店を探して歩いていきましたら、「旭屋カルチャースクエア」というネオンが目に入り、沢山の書籍が並んでいました。私は、学生時代によく大阪の梅田駅近くの旭屋に本を探しに行っていました。ですから、鹿児島のイオン内に書店の旭屋が入ったと聞いて喜んだのですが、「旭屋カルチャースクエア」いう名称から察するに、ここではいろいろ文化的な講座も開かれるのでしょうね。 この「旭屋カルチャースクエア」内を見て廻っていましたら、「KIDS PARK」の文字が目に入り、その中で子どもたちが自由に本を読んだり遊具で遊んだりしていました。その周囲は児童書などが置いてあり、私も前から探していた本を一冊見つけて購入しました。 時計を見ましたら午後1時を過ぎていましたので、食事をしたいと思って1階に下りてレストラン街に行きましたら、どのお店の前も順番を待って座っているお客さんでいっぱいです。それで、ここでの食事は諦め、バスでJR鹿児島中央駅まで戻り、同駅に隣接しているアミュプラザ鹿児島の地下の食堂街で食事を済ましてきました。
2007年10月21日
コメント(0)
naomatsuさん、こんばんは、やまももです。 naomatsuさんがご自身のブログ「僕の道」にアップされた「商店街についてちょっと考えた」の記事を興味深く拝見しました。naomatsuさんが生活された和歌山市の「ぶらくり丁」と、いま生活されている札幌市の「狸小路」という2つの街の商店街の共通点と今後の振興策について考察されたのですね。2つの商店街の共通点として、「県庁所在地に位置している」、「商店街の始まりは,19世紀中頃」、「大学が近くにある」、「飲み屋街が近くにある」、「振興策を考えている」、「ドンキホーテがある」が挙げられとのことですね。 また、振興策としては、「実際に商店街に足を運ばせるような,商店街のコア・コンピタンスが必要だろう」「例えば,ある一つの分野のお店を任意のゾーンに固めるとか,ビジネス用のゾーンを作るだとか」と提案されていますね。 naomatsuさんが挙げておられる2つの街の商店街の6つの共通点を鹿児島市の天文館に当てはめて考えて見ますと、2つ目の「商店街の始まりは,19世紀中頃」と最後の「ドンキホーテがある」以外は共通しているようです。 鹿児島の天文館の場合は、拙ホームページ「鹿児島の街と市電」の「天文館通電停」で紹介しましたように、商店街としての発展は20世紀初に映画館と劇場が設けられたことから急速に活気づいて行ったようですね。私にとっても、天文館といえば映画館を観る街であり、また書店で興味のある本を探す街でした。それから季節に応じての職場の宴会が設けられる場所でもあるんですよ。しかし、自動車の普及に対応して映画館も書店も広大な駐車場面積が確保できる郊外にどんどん移っていきました。ただ、私の職場の宴会はいまも天文館とその周辺で開かれることが多いのは、やはり飲酒運転を避けるためでしょうね。 なお、naomatsuさんが「僕が思うに,これからの購買活動における『カオスの楽しみ』は,商店街という街規模ではなく,任意の商店の内部や商品に消費者は求めているような気がする」とされていますね。勿論、「任意の商店の内部や商品」の魅力が重要なことは言うまでもありませんが、商店街をぶらぶらと散策していたら何か面白いこや楽しいことに遭遇するかもしれないという街全体の「カオスの楽しみ」もまたとても大切ですよね。 私はバーやキャバレー等とは全く無縁の人間ですが、一昔前によくあった路上で客を店に勧誘する引き込みのお兄さんの掛け声などがいまとなってはとても懐かしい気がします。なんでもありの街の賑やかな喧騒と猥雑さが人々を自然とそこに呼び寄せる不思議な力を持っているのではないでしょうか。しかし、残念ながらいま賑やかな音といえば、パチンコ店から聞こえてくるチーン、ジャラジャラぐらいしかないようです。
2007年09月28日
コメント(2)
薩摩の局さん、こんばんは、やまももです。 昨日のブログの拙文へのコメントとお返事を本当にありがとうございました。薩摩の局さんを日吉町まで走らせた問題の写真とは、薩摩の局さんの従妹の嫁ぎ先のご先祖様の写っている写真で、その方が戊辰戦争のときに日置の14代領主の島津久明に従って奥羽諸藩を攻め 会津若松城攻めにも参戦されたときの従軍記念写真の一枚だったのですね。いまでは歴史的にもとても珍しく貴重な写真ですね。 また、日吉町の墓地では、「ご先祖の名前を控えていきましたら 西南戦争で 旧日置村から出陣した三番隊の中に 阿多彦助 という名前を 発見いたしました」とも書いておられますね。 従妹の方の嫁ぎ先の二人のご先祖様の写真やお墓から興味を持たれ、図書館に行って調べられて、写真は「親戚の祖先が 戊辰戦争に参戦したときの写真だったこと」、お墓に名前が刻まれた阿多彦助という方は「西南の役で戦死したこと」が判明したのですね。そのために「昼ごはんも食べずに 図書館にて 4時すぎまで 調べました」と書いておられますが、それらのことがちゃんと確認できたのですから本当によかったですね。私も篤姫等の鹿児島関連のことをこれまで鹿児島県立図書館まで行っていろいろ調べて来ましたが、なかなか判らなかったことが判明したときは本当に小躍りしたくなるくらい嬉しくなりますよ。 鹿児島の歴史に関心を持ち、また調べごとが大好きな者同士としてこれからもどうかよろしくお願いいたします。
2007年08月19日
コメント(0)
シロさん、こんばんは、やまももです。 台風4号が今日(14日)の午後2時ごろに大隅半島に上陸し、午後4時ごろには日向灘に抜けていきましたが、シロさんの家は台風の影響がありましたか。私は、午後4時ぐらいまでずっと家に閉じ込められていましたが、それでも今回の台風は予想していたほど激しいものではなく、午後5時過ぎには飼い犬の散歩に出ることが出来ました。そのときに我が家や近所の様子を見て回りましたが、道路に木々の葉っぱや小枝も大して散乱しておらず、幸いどこもほとんど被害はなかったようです。 ところで、昨日が13日の金曜日なので、シロさんは「怠惰な日常」で今回の台風に「ジェイソン」という名前を付けて、「ジェイソンさん、思い止まれ!進路を変えろ!鹿児島には来るな!」と書いていますね。 この「ジェイソン」というのは男性の名前ですが、戦後の占領軍統治下の日本において台風に「ジェーン台風」[カスリーン台風」等の女性の名前を付けていたことをご存知ですか。これは、太平洋戦争中の米軍で始まった習慣から来るものだそうですよ。 さて、シロさんから「僕はよく自分を卑下しますが、髭が濃いのも事実です」という駄洒落をいただいて大喜びしましたが、これがもし「励め、と言われても、私は若いのでまだ髪の毛は濃いですよ」なんて駄洒落でしたらきっと大いに気分を害したと思いますよ。私は自分のことを「ポンコツ山のタヌキ」と卑下していますが、しかしそれでも家では「薄い」「光る」「滑る」といった言葉を禁句にしている人間ですからね。
2007年07月14日
コメント(0)
みなみ風さん、初めまして、やまももです。 昨夜、拙ブログに掲載しました「わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば……」の拙文にご丁寧なコメントをいただき、大喜びしております。 いただいたコメントによりますと、「平野国臣の碑が伊集院にあります」とのことで、またみなみ風さんはそのお近くにお住まいなんですね。それでインターネットの検索エンジンで調べてみましたら、日置市伊集院町にお住まいの南竹力さんが作成された「伊集院」に「平野二郎国臣歌碑」の写真とその紹介文が載っていました。なお、同歌碑の写真から平野国臣の「我が胸の 燃ゆる思ひに くらふれば 烟はうすし 桜島山」の歌もしっかりと読み取ることができました。 また、みなみ風さんから、「篤姫関係を調べていましたら、このブログに辿り着きました。なかなか共感する部分も多く、調査も丁寧で感心しました」と有難いお言葉をいただき、大喜びしています。拙ホームページの「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の拙文がもし少しでもお役に立つようなことがありましたら、こんな嬉しいことはありません。 それから、「文学散歩を仕事としており、4月22日は、篤姫の指宿に行きます」とも書いておられますね。指宿の篤姫ゆかりの地を実際に行かれましたら、ぜひその探訪結果についても教えてくださいね。大いに楽しみにしております。
2007年04月13日
コメント(1)
みなさん、こんばんは、やまももです。 「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」という歌をご存知ですか。この歌を詠んだ人は、自分の心のうちに燃えるような熱き思いと鹿児島の桜島の噴煙とを比較し、自分の思いの方がずっと勝っていると言っているのですね。 私は、この歌を最初に目にしたとき、てっきり恋愛感情を詠ったものだと思ったものです。ところが、海音寺潮五郎の『西郷と大久保』(新潮文庫、1973年6月)を読んでいましたら、そこに幕末期の福岡藩藩士の平野国臣が鹿児島城下に入ろうとして許されず、伊集院でこの歌を詠んだらしいということが紹介されていました。 彼は尊王攘夷思想の持ち主で、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後、薩摩藩の協力を得ようと密入国して来たのですが、幕府の追及を恐れた薩摩藩によって領国外に追い返されているのですね。そうすると、この歌は恋愛歌ではなく、平野国臣の尊王攘夷への熱く激しい思いを薩摩藩の統治者のそれと比較して詠ったもののようですね。 なぜこんな歌を紹介したかと言いますと、めどうさんのブログ「鹿児島ふるさと便り♪」の3月20日の記事で、激しく噴煙を上げる桜島の写真を拝見することが出来たからです。なお、めどうさんは「こんなに大きな噴煙を上げている桜島を見たのは、久々だった。28年もの間故郷を離れていたので、我が目で直接見たのは10代の時以来ということになる」と書いておられます。 もし、平野国臣がこんな大きな噴煙を見たら、「わが胸の 燃ゆる思いを あらわすか 煙ははげし、桜島山」と詠ったことでしょうね。
2007年04月12日
コメント(3)
最近、私は福昌寺跡の島津家墓地のことや天璋院篤姫のゆかりの地のことを調べていて、あらためて痛感させられたことがあります。それは、鹿児島における廃仏毀釈の徹底的実行ということです。 島津宗家の菩提寺である福昌寺は廃仏毀釈で廃寺となっています。そして、島津斉彬を祀るために南泉院跡に照国神社が建立されていますが、その南泉院も廃仏毀釈のときに廃寺となったそうです。篤姫の実家の島津今和泉家の墓地があった光台寺も廃仏毀釈で廃寺となっていますし、島津今和泉家の鹿児島城下の本邸の東隣には大龍寺があったそうですが、この寺院もやはり廃仏毀釈で廃寺となっているそうです。 しかし、廃仏棄釈で打ち壊されたのはこれらの寺院だけではありません、鹿児島に存在していた全ての仏教寺院が徹底的に破壊されています。こんな例は日本の他の地域にはないことです。 鹿児島では、幕末から徹底した廃仏毀釈が行われ、薩摩藩の領内には一寺も残らなかったそうですが、中村明蔵『薩摩民衆支配の構造』(南方新社、2000年7月)は、薩摩藩での廃仏毀釈の特色として、「他藩領に先がけて進行し、結果的にはほとんど一寺も残すことなく徹底してなされたことと、藩主以下庶民にいたるまで、廃仏毀釈に協力または黙認するか、あるいは放置してきたという実態、さらには寺院跡が神社として残存する例がしばしば見られる」とし、その様な事態が生じた理由として、つぎの3点を挙げています。 まず、江戸時代の「幕藩領で、一般的に行われていた寺請制度が、薩摩藩では見出せず、かなり変則的な形をとって」おり、「寺院と民衆との直接的関係が見出しにくいこと」であり、つぎに平田篤胤門下の後醍院真柱台院や国学者・神道学者の田中頼庸らの思想が「薩摩藩の神仏分離・廃仏毀釈に多大な影響力を発揮し」、すでに慶応年間に「藩の機構、郷(外城)の組織を通じて各所で廃仏の動きが活発」になっていたこと、さらに加えて「幕末の薩摩藩における軍備拡充と経済上の観点からの要請」により、「鋳銭事業に寺院の梵鐘などを鋳つぶして、その材料にすることが計画されたこと」、以上の3点です。 なお、芳即正『島津久光と明治維新』(新人物往来社、2002年12月)によりますと、島津久光が文久2年(1862年)に「琉球救助を名目にして三年間を限り、天保通宝と同じ形の琉球通宝を鋳造することを幕府から許され、同年十二月から鋳造を始めた。担当者の市来四郎によると、三年間に二百九〇万両をつくり、三分の二の利益を得たという」としています。そうしますと、薩摩藩はこの鋳銭事業によってわずか3年間で193万両以上の巨額の利益を得たことになりますね。 また、芳即正「鹿児島藩廃仏毀釈前史」(『鹿児島歴史研究会』第3号、1998年10月)には、島津斉彬や久光の側近だった市来四郎の日記に基づき、幕末の薩摩藩の銭鋳事業と廃仏毀釈の関連が考察されています。同論文によりますと、この琉球通宝鋳造計画には当初から天保通宝の贋造も企図されていたようです。 この鋳銭事業は文久2年(1862年)の12月からを開始されますが、そのために大量の銅が必要となり、その原材料として寺院の梵鐘が狙われることになります。例えば、市来四郎の日記には、日向穆佐の悟性寺にあった藩内最古の梵鐘(南北朝末期鋳造)を文久3年(1863年)4月19日に琉球通宝の地金にするために破壊したので、「愉快言語ニ余ル」と書いてあります。 芳即正「鹿児島藩廃仏毀釈前史」は、このような薩摩藩での鋳銭事業のための原材料銅入手のために寺院の梵鐘・仏具をも標的にしたことが「後年の廃仏毀釈に心理的な影響を与えたのではないか」とし、さらに慶応元年(1865年)における薩摩藩内の廃仏毀釈の開始について、市来四郎のつぎのような興味深い記述を紹介しています。「慶応元年乙丑ノ春デゴザリマシタ、私共友達中壮年輩ノ所論ニ、斯フ云フ時勢二立至ツテ、寺院又ハ僧侶卜云フモノハ不用ナモノデアル、或ハ僧侶モ夫々国ノ為メ尽クサセナクテハナラヌ時勢ニナツタ、先年水戸家ニテモ寺院廃合ノ処分アツタ、真二英断デアル、皆ナ人感賞スル処デアル、此ノ時二当ツテ、断ジテ廃スベキ時デアルト云フ盛ンナ論ニナリマシタ、其人々ノ只今存生ノモノハ黒田清隆・橋口兼三・千田貞暁、夫レカラ私抔モ相談致シマシテ、表面二立テ建言者トナリマシタ、私モ其一人デゴザリマシタ、家老ノ桂右衛門卜云フ者二対シテ、時勢切迫ノ状況、或ハ僧侶ノ壮年ナ者ハ、只ニ口弁ヲ以テ座食シテ居ル、此時勢済マナイコトデアルカラ、若イモノハ兵役二使イ、老タルハ郡村学問ノ教員トシ、各其分ヲ尽サシメ、或ハ寺院二与へテアル禄高ハ軍用二充テ、仏具ハ武器二充テ、地所ノ如キハ、貧乏ナル士族モ居リマスカラ、夫等ノ宅地耕地二与フルナドヽノ論デゴザリマシタ、一ノ建白書ヲ作ツテ出シマシタトコロガ、桂モ兼テ同論ノ事デモアルシ、大二賛成シテ、サウシテ直グ忠義・久光ニ披露シタトコロガ、即日ニ決断致シマシタ」 慶応元年(1865年)に黒田清隆、橋口兼三、千田貞暁、市来四郎たちが廃仏の断行を家老の桂右衛門(桂久武)に申し出て、藩主の忠義や「国父」と称された久光がその提案を即座に承認しています。こうして薩摩藩内に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることとなり、寺院が次々と無残に取り壊され、経典は焼かれ仏具は兵器に化けていきました。『鹿児島百年(上)幕末編』(南日本新聞社、1968年1月)によりますと、「慶応初年(一八六五)に、千六百十六を数えた薩藩内の寺院は、ここに全滅したのである。二千九百六十六人の、かつての僧尼は、すべて還俗した。元士族は再び士族に、農は農、商は商に帰った。三分の一は、兵士になったという」とのことです。 なお、これらのことを拙ホームページの「獅子文六の『南の風』と福昌寺跡」に追加してアップしておきました。
2007年02月27日
コメント(0)
みなさん、こんばんは、やまももです。 今日は私の母の七回忌の法要を父の家で行いました。母は、2001年1月15日に大動脈瘤破裂のため突然あの世に旅立っています。享年77でした。 その後、谷山御所霊園に墓参りに行って来ました。同霊園からは桜島と錦江湾が一望できます。母も生前にこの景色がとても気に入り、父と相談して墓地をここに購入していました。今日の墓参りのときも、雄大な桜島が少し霞んでお墓の目の前に大きく広がり聳えていましたので、デジカメに撮りました。
2007年01月14日
コメント(0)
西村京太郎『西鹿児島駅殺人事件』は、お盆の帰省客でラッシュを迎える8月の西鹿児島駅を主要舞台にして展開していきますが、同作品はミステリー専門誌『EQ』に1987年3月から2回にわたって連載されたものだそうです。ですから、作者が執筆のために鹿児島市で取材したのは1986年の8月頃と推定されます。 この1986年というのは、1年間に桜島が474回も爆発を繰り返し、鹿児島市の気象台観測地点で、1平方メートルあたり15908グラム、降灰日数は219日に達した年でした。ですから、桜島の火山灰は鹿児島市を訪れた西村京太郎にも強烈な印象を与えたようです。そのため、同作品にはつぎのような場面が繰り返し描き出されます(光文社文庫版の『西鹿児島駅殺人事件』より引用)。 駅長室で、木田駅長は、急いで昼食をとりながら、伊集院助役たちと、昼のテレビニュースを見ていた。 テレビ画面には、鹿児島市内の降灰の模様が、映し出されている。 戸惑い、頭や、口をハンカチなどで覆って、逃げ惑う観光客が、映る。 市電が、巻きあげる降灰。 走って釆たバイクが、積もった灰のためにスリップして、転倒する。 店先に、品物を並べていた果実店や鮮魚店が、そそくさと、品物を、店の中にしまっている。「これじゃあ、商売にならないよ」 マイクを向けられた店の主人が、いまいましげに、空を見あげて、怒っている。 市では、購入したばかりの清掃車(ロードスイーパ↓を総動員して、降灰の除去に努めているとも、アナウンサーは告げている。 だが、今の状態が続けば、清掃の効果もなくなってしまうだろう。除去しても、除去しても、灰が降ってくるからだ。 西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)の職員は、このような桜島の火山灰の除去作業に悪戦苦闘するのですが、鉄道の場合、火山灰によって自動列車制御システム(CTC)が機能しなくなったり、遮断機が降りなくなったり、さらに架線やパンタグラフが停電状態になって列車が停まってしまったりする被害を受けるのです。 『西鹿児島駅殺人事件』の読者は、西鹿児島駅に到着した寝台特急「明星51号」で起っていた殺人事件よりも、きっと桜島の火山灰のすさまじさに驚いたことでしょう。また、殺人事件の犯人を捜査する十津川警部たちより、桜島の降灰対策に懸命に取り組む西鹿児島駅職員の姿に強い印象を残したに違いありません。ですから、この作品の題名は、『西鹿児島駅殺人事件』よりも『桜島の火山灰と戦う西鹿児島駅の職員たち』の方が相応しかったかもしれませんね。しかし、そんな題名ですと、なんだかNHKの「プロジェクトX」みたいですね。 なお、ここ10年ほどは爆発回数、降灰量が大いに減少しています。「鹿児島地方気象台」のホームページに載っています「桜島の月爆発回数」によりますと、2002年は59回、2003年は17回、2004年は11回、2005年12回、2006年15回(12月25日迄)となっています。
2007年01月08日
コメント(0)
プチジャン神父の前に姿を表した浦上のキリシタンたちが、その後神父と積極的に連絡を取るようになり、さらに村に来てもらってミサ、罪の告白、洗礼等の宗教儀式を行ってもらうようになり、ついには本原郷でひとりの老婆が亡くなったときに、檀那寺の聖徳寺での葬式を拒否して、つぎのような口上書を奉行所に差し出したのでした。「私共、先祖より申伝の儀有之、天主教の外には何宗にても後世の助けに相成らず候へ共、御大法の儀に付き、是までは余儀なく檀那寺の聖徳寺の引導を受け来り候へ共、之は全く役目迄にて、誠に上の空にて引導引受け来り候処、当今、外国人居留地へ礼拝堂建立に相成り、教化の様子承り候処、先祖伝来の趣と符号仕るに付、別而信仰仕候」 遠藤周作は『女の一生 一部・キクの場合』で、この口上書についてつぎのように書いています。「その口上書は稚拙な百姓の話し言葉ではなく、代筆した手習い師匠の文体で書かれていた。だがそれはながい間、幕府の命ずるままに従ってきた浦上の百姓がはじめて自由を訴えた言葉だった。信仰の自由を。思想の自由を。生きる自由を……。」 このような浦上のキリシタンの信仰の自由を求める動きに対し、江戸幕府のみならず明治の新政権も厳しい弾圧を加えることになります。明治の新政権の場合、天皇を中心とする神道国家体制を作って自らの権力を守り強化することを考えていたので、浦上のキリシタンの動きに非常な危険なものを感じ取ったのです。 遠藤周作は『女の一生 一部・キクの場合』のなかで、主人公のキクがキリシタンの若者の清吉に「切支丹ばやめてくれんね」と言ったとき、「できん……そいつは俺にはできん」と拒否した後、さらに「いままで父っとも母っかもそん昔から代々、信じてきた教えたい。中野郷の者ぜんぶが守っとる教えたい。そいば俺一人がなして捨てきるんね」と言わせています。この清吉の言葉を通じて、作者は浦上の中野郷の村人たちが地縁を基盤にして宗教的に強固に結びついていることを示したのだと思います。 明治の新政権は、そんな地縁的・宗教的な結びつきを持った浦上の中野郷、里郷、本原郷、家野郷すべてのキリシタンを彼らの生まれ育った土地から根こそぎ引き離し、「高知、高松、松江、岡山、名古屋、津、姫路、広島、鹿児島、金沢、松山、和歌山、郡山、大聖寺、福岡、鳥取、徳島、津和野、福山」へ分散留置することにします。そして、異郷の地に送られた彼らの多くはそこで過酷な取扱いを受けることになるのです。 なお、遠藤周作の『女の一生 一部・キクの場合』に描かれた浦上四番崩れについて、以上のことをこのブログで紹介して来ましたが、それらの文を拙ホームページの「福昌寺のキリシタン墓地」に追加しておきました。
2007年01月03日
コメント(0)
遠藤周作『女の一生 一部・キクの場合』は、「浦上四番崩れ」を題材にして書かれた長篇小説です。同小説の中で、長崎の大浦天主堂の祭壇で祈っていたプチジャン神父に250年潜伏していたキリシタンが近寄り、自分たちが浦上から来たキリシタンであることを明らかにする場面があります(新潮文庫版ですと135頁~140頁)。 なお、江戸幕府が1858年に欧米五ヶ国との間に長崎等5港の開港を認める修好通商条約を締結し、その結果、外国人のための聖堂建立も認められ、長崎には大浦天主堂は1865年に建てられています。その大浦天主堂にフランスからやって来たのがプチジャン神父でした。 プチジャン神父は、那覇で日本語の勉強をしていたとき、酒に酔っ払った中国人船員が語った「日本にはまだ、かくれて基督教を信じている奴がいるんだが……本当にあんたたちと同じように十字を切っていましたぜ」という話に強烈な衝撃を受け、彼らをぜひ探し出したいと思うようになります。 そのため、プチジャン神父は長崎に来てから街を頻繁に歩き廻り、基督教徒の子孫を見つけ出そうとします。しかし、プチジャン神父のそんな努力は全く報われず、また日本での長年にわたる過酷なキリシタン弾圧の事実を知る中で彼はキリシタン探しを諦めかけます。 そんなプチジャン神父が建って間もない浦上天主堂の祭壇の前にひざまずいて祈っていたとき、天主堂の建物の中に4、5人の日本人がそっと入り込んで来ました。きっと好奇心で中を覗きに来たのだろうと、プチジャン神父がそのまま祈りを続けていますと、そのなかの一人の女が「異人さま。うちらはみな……異人さまと同じ心にござります」と彼に小さな声でささやきかけたのです。 遠藤周作の『女の一生 一部・キクの場合』には、その後のプチジャン神父とキリシタンたちとの会話がつぎのように描かれています。 「お前さまたち、どこから参りました」「浦上」「浦上?」「金比羅山の向う」 プチジャンにはそれが何処かが、よくわからなかったので黙った。沈黙が続いた。「お前さまはまことパードレにございますか」 と若い男が懸命になれぬ敬語を使ってたずねた。 パードレ。ポルトガル語で「父」や「神父」のことだった。プチジャンはポルトガル語は知らなかったがラテン語からその意味を理解してうなずいた。「そう。パードレ」 だが若い男はまだプチジャンを疑うように、「そんなら、ゼウズさまの生れられた日も、悲しみの日のことも、よう承知されとるですか」 とたずねた。 ゼウズというのがイエスのことであるのはプチジャンにもわかったが、悲しみの日のことは何かすぐ思いつかなかった。しかし彼は復活祭の前の週のことだろうと想像した。「知っとります。今がその悲しみの日」 そう答えると青年だけでなく、その周りの男女がまるで我が子の賢さに満足する母親のように微笑んだ。「浦上は切支丹はあまた、おりますか」 とプチジャンはたずねた。今度は彼の質問する番だった。「浦上のなかでも馬込は仏教ば信じとるたい」 と誰かが答えた。その時、入口から声がした。「早う。役人の来るぞ」 その声に聖堂にいた男女はさっとプチジャンから離れた。そして煙のように出口から消えた。 昼すぎのがらんとした聖堂にプチジャンは立ちつくしていた。言いようのない感動の波が次から次へと胸中に押しよせてくる。叫びたかった。フューレ神父にこう叫びたかった。(ごらんなさい、この長崎に彼等はいたのです。存在したのです。なんという素晴らしい街でしょう) 二百年以上のものすごい迫害とすさまじい圧迫とに日本人の基督教徒は豪雨のなかの一本の木のように耐え、生き残っていたのだ。あの琉球で酔いどれの中国人が語ったことは嘘ではなかったのだ。そしてその二百数十年の間、地下にもぐりこんでいた日本人の基督教徒と最初に出会ったのが、ほかならぬ自分だと思うとプチジャンは眩暈(めまい)のしそうな興奮におそわれた。
2007年01月02日
コメント(0)
みなさん、こんばんは、やまももです。 この間ずっと福昌寺跡とキリシタン墓地について、いろいろ調べたことをこのブログに書き込んできましたが、今日それらを拙ホームページにまとめてアップしておきました。 ↓ 「獅子文六の『南見の風』と福昌寺跡 」 http://homepage1.nifty.com/yamamomo/siden/fukusyouji.htm 「福昌寺跡のキリシタン墓地」 http://homepage1.nifty.com/yamamomo/siden/kirisitanboti.htm 興味を持たれた方はどうかご覧いただきたいと思います。
2006年12月28日
コメント(0)
キリシタン墓地の前に立てられている「ザビエル歴史街道/キリシタン墓地」の説明板は、ザビエル上陸四五〇年記念に市観光課が作ったものだそうですが、同案内板には「明治三十人年(一九〇五年)、ラゲ神父が散在していた基をこの地に集めて、立派な記念碑を造った」と書いてあります。 では、ラゲ神父とはどのような人物なのでしょうか。『鹿児島史談』四号(鹿児島史談会、2000年10月)の別冊として出版された山田尚二著「鹿児島のキリシタン墓地について」という研究冊子はつぎのように紹介しています。「ラゲ(Raguet Emile 一八五四~一九二九)神父は、パリー外国宣教会員。ベルギー人。明治十二年、司祭となり来日。二十九年から鹿児島教会主任司祭。『仏和会話大辞典』、『新約聖書』翻訳、石造りの聖堂(初代ザビエル教会)建築で有名。四十四年長崎浦上教会主任司祭に転じた(H)。」 なお、ラゲ神父の紹介文の末尾に付けられている(H)は参考にした文献の記号で、『日本キリスト教歴史大事典』(教文館、1988年)のことを指しているようです。 それから、前掲の研究冊子によりますと、ラゲ神父はキリシタンの記念碑が建立された明治38年(1905年)には『仏和会話大辞典』出版のため上京中(1901年3月~1905年12月)だったため、ラウ(RaoutL,Gustave Eugane)というフランス人の神父が鹿児島教会を司牧し、キリシタン墓に実際に祭壇型記念碑を造ったのもこのラウ神父だったそうですよ。
2006年12月26日
コメント(0)
ポンコツ山のタヌキは、140段もある嶮しい石の階段を這い登ってキリシタン墓地まで行きましたが、そこで待っていたのは苔むした石ばかり。寂寥感漂う墓地には親切なガイドさんがいるわけでもなく、同墓地の前に立てられていた案内板のつぎのような説明文だけを頼りにして見学するしか仕方がありませんでした。 明治に入り新政府はキリシタン弾圧を再開し、長崎浦上のキリシタン を20の藩に分散留置した。明治3年(1870年)鹿児島藩には375人 が預けられ、廃寺となった旧福昌寺に収容され、明治6年(1873年)の 帰郷までに53人が他界したが、フランシスコ・ザビエルゆかりのこの地 では、 棄教を勧められたものの、 もっとも寛大な対応を受けている。 明治38年(1905年)、ラゲ神父が散在していた墓をこの地に集めて、 立派な記念墓碑を造った。 この案内板の説明によりますと、ラゲ神父が散在していた墓を集めて現在の場所に記念墓碑を造ったことが分かりますが、では他界したキリシタンたちの元の墓はどこにあったのでしょうか。記念墓碑の後ろにもう一つ「キリシタン墓」という石碑が建てられている区画があり、その区画内に幾つもの苔むした石が土中から一部分を露出させながら散在しています。これが元のキリシタンの墓なのでしょうか? また、廃寺となった旧福昌寺に浦上のキリシタンたち375人は収容されたと書いてありますが、彼らは帰郷が許されるまでずっと旧福昌寺内に幽閉されていたのでしょうか? 20の藩に分散留置されたキリシタンたちのなかで「もっとも寛大な対応を受けている」とありますが、どんな生活を送っていたのでしょうか? 記念墓碑を造ったラゲ神父とはどのような人物だったのでしょうか? つぎつぎとクェスチョンマークが頭の中に浮かんで来るのですが、案内板が答えてくれるわけではありません。それで、翌日すぐに鹿児島図書館に行ってキリシタン墓地について調べてみることにしました。 同図書館で調べた鹿児島のキリシタン関連の本のなかで、上記の私の疑問に一番親切に回答してくれたのが『鹿児島史談』四号(鹿児島史談会、2000年10月)の別冊として出版された山田尚二著「鹿児島のキリシタン墓地について」という研究冊子でした。 同冊子にはキリシタン墓地の概略図が載っており、昭和42年の改葬墓(市の教育委員会が建てた「キリシタン墓」のことですね)のある後ろの区画に墓柱7基、墓石約40個があると書き込まれています。また、「四十個ほどの墓石が密集している」ことから、そのようなことは「土葬の状況では考えられない」とし、明治38年に現在の区画内に周辺にあった墓と土とを集めて「寄せ墓」を造ったのであろうと推測しています。また、それらの「墓石は小さいのを数えたら五十三個にも数えられる。亡くなった全員の墓石があると思ってもよい」としています。 それから、これらの墓石について「墓石は苔むして、大部分が埋没している。露出した部分に十字をきってあるのがいくつかある。当初で十字架を刻んだと考えたい。禁制下、十字架を刻んだ墓石の存在は驚きである。敬意に値する」との注目すべき記述がありました。 この研究冊子によりますと、鹿児島に送られたキリシタンたち375人中、不改宗帰還者284人、改宗帰還者44人、死亡53人(内改宗者2人)、生児13人、残留者一家族7人とのことです。彼らは他の場所に一時分散して預けられたこともありましたが、帰郷が許されるまで大半は旧福昌寺で暮らしていたとのことです。なお、「信者たちが収容された福昌寺は、島津家の菩提寺で廃寺の折も最後まで残されていたから、明治二年末ではまださほど荒れていなかったと思われる」としています。 また、鹿児島留置期間中の後半には彼らにかなり自由が許されるようになり、多くの者が副業をしたり外で働くようになったそうですよ。しかし同冊子は、「とんなに親切を尽くされても、家財等を没収され、家族ばらばらになり異郷に流される心痛ははかり知れない」としています。 それでも、「どこより親切物語を残したのは鹿児島だった」というのは鹿児島に住む人間にとってやはり嬉しいことですね。同冊子はそのことについて、「明治二・三年は西郷隆盛が担当した藩政である。西郷の名は、直接出て来ないが、信者厚遇の背景に西郷がいるように思われる」と推測しています。
2006年12月25日
コメント(0)
nyaru3915さん、こんばんは、やまももです。 福昌寺跡近くのキリシタン墓地に行ってきましたよ。前回は、キリシタン墓地に行くためには登らねばならない石段に怖れをなして同墓地を見学することを断念しましたが、nyaru3915さんから「でも野球部の練習場ほど歩くわけじゃないですよ」「ひーこら登っていってください。大変ですけどね」と励まされて(?)、本当にヒーコラ、ヒーコラ言いながら何段も続く石段を這うようにして登っていきました。 石段の数は27段+16段+21段+17段+19段+19段+21段もありましたよ。えーっと表計算ソフトのExcelのオートSUM機能を使って合計しますと、なんと140段もあるではありませんか。私がバスでの帰りに利用した家の近くのコンクリートの階段は、数えてみましたら80段ありましたが、そのコンクリート製階段にも息を切らせて登らなければならないような私ですから、本当によく頑張ったものです。 それでなんとかキリシタン墓地にたどり着くことが出来ましたが、インターネットのいろんなホームページに掲載されている写真から想像していた以上に殺風景な墓地でした。それは山の中腹にあって、2つの石の記念碑が立てられていました。同墓地の手前にある「ザビエル歴史街道/キリシタン墓地」の説明板には、「明治38年(1905年)、ラゲ神父が散在していた墓をこの地に集めて、立派な記念墓碑を造った」と書いてあります。ラゲ神父による記念墓碑が手前の大きな石の合同墓碑で、同墓碑の後方には鹿児島市教育委員会が建てた「キリシタン墓」もありました。 なお、ラゲ神父の合同墓碑にはつぎのような文章が刻まれていました。 基督降生千八百七十年ヨリ千八百七十三年ニ至ル間ニ 於テ長崎浦上ノ公教信者ニテ信教ノ為メ追放セラレ此 地ニ於テ歿シタルモノノ紀念ニ之ヲ建ツ 明治三十八年 明治になって新たに弾圧され、生まれ故郷の長崎の浦上から鹿児島に留置されたキリスト教徒375人中、1873年に帰郷が許されるまでに53人が他界しており、その人たちがこの合同墓碑に祀られているのですね。異郷の地に隔離された彼らキリスト教徒は、どんな思いを胸に抱いて日々の生活を送っていたのでしょうかね。 また、同墓碑の右下にある小さな石碑には、十字の印に続けて「五名合葬之碑」という文字が刻まれており、その石碑の左右の側面には「パウロ源三郎」等5名の名前が刻まれていました。その裏面には「原墓地在路傍風雨之時土砂堆積損地形甚仍改葬干此地 明治四十四年十月廿一日」とあり、別の場所にあって風雨のために埋没していた墓をこの場所に改葬したようです。 それから、鹿児島市教育委員会が建てた「キリシタン墓」には、「明治初年政府に捕らえられて、鹿児島藩に預けられて死亡した 長崎浦上キリスト教徒たちの墓であります」との文が刻まれていました。
2006年12月23日
コメント(2)
nyaru3915さん、こんばんは、やまももです。 玉龍の中高一貫校について、それを知られて驚かれ、また「教頭が私の恩師だって言うことで、さらに驚きました」と書いておられますね。恩師の先生は新設の中学校の教頭になられたのでしょうか。いずれにしても鹿児島県下で初めての公立の中高一貫校ですから、恩師の先生もいろいろ大変だと思います。 福昌寺跡の件では、「休み時間とかに墓に花をあげている人がいましたね」と書いておられますね。私が校舎の裏側を通ったときも、幾つかのお墓に花が添えてありましたが、玉龍の心優しい生徒さんたちが添えたものかもしれませんね。 それから、「ところで福昌寺跡の墓よりずっと上の方に登るとキリシタン墓がありますよ。そちらに行ったことはありますか?」とのご質問ですが、残念ながらまだ行っておりません。確かに福昌寺跡に行く途中で「キリシタン墓地」の存在を示す標識を目にしたのですが、かなりの坂道を登った上にあるようですね。私は、自分のブログ名を「ポンコツ山のタヌキの便り」とするぐらいの人間ですので、前回は福昌寺跡に行って斉彬の墓を見学するだけで精一杯でした。 この「キリシタン墓地」について、私は福昌寺跡に行くまでその存在も知りませんでした。それで、後でインターネットの検索エンジンで調べてみました。その結果判ったことなのですが、明治3年(1870年)の長崎でのキリスト教徒弾圧によって教徒が捕らえられ、そのなかの375人が鹿児島藩に預けられて旧福昌寺に収容され、明治6年(1873年)に許されて帰郷するまでに53人が他界しているのですね。その53人のキリスト教徒のお墓が「キリシタン墓地」にあるとのことですので、今度訪問するときにはぜひ同墓地にも行ってみたいと思っています。 なお、明治に入っての長崎でのキリスト教徒弾圧事件のことを「浦上崩れ」というそうです。それで、この事件のことを平凡社の『世界大百科事典』で調べてみましたら、「肥前国浦上村山里(長崎市)で起こった4回のキリシタン検挙事件。崩れとは検挙事件をいう」とあり、幕末から明治初期にかけて浦上で4回に渡って隠れキリシタンの発覚・検挙事件すなわち「浦上崩れ」が起こっているとのことです。鹿児島に送られてきたキリシタンたちは「浦上四番崩れ」のときに捕まった人たちでした。その「浦上四番崩れ」について、同事典はつぎのように解説しています。「1867年(慶応3)勃発。信徒がキリシタン信仰を表明して寺請制度を拒否,68名が逮捕されたのに始まる。2年前大浦天主堂で再渡来した神父と出会い,表面仏教という潜伏態度を捨てたのである。ために幕府は異宗とせずキリシタン邪宗として取り扱い,信仰弾圧を外国公使団が抗議して外交問題化した。幕府倒壊後,明治政府もキリシタン禁制を掲げ,御前会議で浦上一村総流罪を決定,名古屋以西20藩に3384人を配流した。これを〈浦上教徒事件〉ともいう。1871年(明治4)米欧に向かった岩倉全権大使らは各国で信仰弾圧の非を説かれ,73年ようやくキリシタン禁制の高札を撤去した。信徒も釈放され事件は落着した。」
2006年12月20日
コメント(3)
nyaru3915さん、初めまして、やまももと申します。 nyaru3915さんは玉龍高校のOGとのことですね。高校に新たに中学が併設されて中高一貫校になりましたが、卒業生のみなさんはどのような感想をお持ちなんでしょうかね。 さて、そんな玉龍中学・高校の校舎の真後ろに福昌寺跡がありますので、そこに行くために同校の校舎の裏に入っていったのですが、その途中、校舎の中で談笑する生徒たちの若くて元気な声が耳に聞こえて来ました。それとは対照的に、校舎のフェンスと福昌寺跡の石塀に挟まれた細くて狭い区画に、古びた小さな墓の群れがひっそりと立ち並んでいました。 それらのなかに「旧琉球藩人之墓」「琉球僧侶之墓」「他藩人之墓」という文字が刻まれた墓石もありました。「琉球藩」というのは、廃藩置県の直後の1872年から1879年の短い期間だけしか存在していませんが、なぜそんな藩名の付いた墓があるのでしょうか。また、「他藩人之墓」も薩摩藩以外の人の墓なんでしょうが、どうしてそんな墓が立てられたのでしょうか。だれかご存知の方はおられませんかね。
2006年12月19日
コメント(1)
めどうさん、こんばんは、やまももです。 昨日、福昌寺跡に行って来ました。私の自宅から市営バスに乗って上竜尾町の停留所まで行って、その後は玉龍高校、おっといまは中高一貫教育校となって中学校もありますから、その玉龍中学・高校の校舎をまずは目指して歩いていきました。福昌寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となっていますが、その広大な敷地に1951年になって玉龍高校の新校舎が建って現在に至っていますね。 20年ほど前に福昌寺跡の墓地を訪れたことがあるのですが、ほとんど道順を覚えておらず、途中で人に道を訊いてなんとか玉龍中学・高校の校舎の裏手(北側)にある福昌寺の小さな山門の前までたどり着くことが出来ました。さらに歩いていきますと黒い大きな鉄の門扉が見えて来て、その門扉の横に鹿児島市観光課が立てた福昌寺の案内板がありました。この案内板には「寺中常に千五百余人の修行僧あり」との見出しでつぎのような説明文が書かれてあり、さらにその下に『三国名勝図会』掲載の当時の福昌寺風景の図が添えてありました。「寺の後方は山がせまり渓流が流れ、前面は広く平野が開ける。広大な寺域には大小様々な建物が並び、大きな回廊によってむすばれている」――藩政時代、領内の名所を紹介した「三国名勝図会」は、寺域として栄えたこの辺り一帯の景観を伝えています。 玉龍山福昌寺は1394年(応永元)島津一族の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を開山に、島津家7代元久が建てて、代々島津藩主の菩提所となった寺院です。曹洞宗の流れをくみ,南九州一円の僧侶を支配する僧録所、さらには勅願所として、その末寺は九州はもとより、中国・四国にまで広がったといわれます。 総本山総持寺の管長までのぼった石屋禅師をはじめ、フランシスコ・ザビエルとの親交で知られる忍室(にんしつ)という和尚や西郷隆盛、大久保利通を悟した無参(むさん)和尚などの多くの名僧を出しましたが、1869年(明治2)の廃仏毀釈で廃寺となり、跡地は玉龍高校となりました。現在、法燈は北薩川内の地で守られています。 それで、鉄の門扉の脇門から中に入りますと、前面上方に広大な墓石群が左右に存在しているようなのですが、このままではどこにどのような墓があるのか見当も付きません。しかし、門扉の中のすぐ近くにつぎのような説明を添えた「福昌寺墓地配置図」が立てられていました。「当墓地には島津歴代(六代~二十八代)とその一族、並びに福昌寺歴代住職等の墓がございます。初代から五代までの墓地は、鎌倉市西御門(初代)、鹿児島市清水町本立寺跡、鹿児島県出水郡野田町感応寺の三ケ所に、二十九代からの墓地は、当地の西方、常安峯(とこやすのみね)にございます。」 それで、幕末に積極的に殖産興業政策を推進した第二十八代藩主の斉彬の墓をその墓地配置図で確かめて墓参することにしました。斉彬は下級藩士の西郷隆盛を取り立て重用したことでも知られていますね。その斉彬の墓には大きな宝篋印塔が2基並んで立てられていました。おそらく斉彬とその正室である英姫(ふさひめ)のものと思われます。なお、英姫は一橋斉敦の四女とのことです。 では、左右のどちらが斉彬の宝篋印塔なのでしょうか。当時の日本の風習から考えれば右が斉彬の宝篋印塔で左が正室の宝篋印塔と思われます。念のためにそれぞれの宝篋印塔の側面を調べてみますと、左の宝篋印塔に「姫命」という文字が刻まれていました。こちらがおそらく正室の英姫の宝篋印塔なんでしょうね。 これだけのことで結構時間を費やしましたし、また島津藩政史については全くの素人ですので、福昌寺跡に立ち並ぶ墓石群からそれ以上なにをどう調べたらいいのか見当も付かず、その後は帰路に付くことにしました。
2006年12月17日
コメント(2)
めどうさん、こんばんは、やまももです。 海音寺潮五郎は『西郷と大久保』を著すために、西郷隆盛自身が書いた書簡等の史料をたくさん調べていると思いますが、ご指摘のようにそれらはみな「文語体で書かれた文献」であり、西郷たちが当時実際に当時しゃべっていたであろう会話を小説中で想像をまじえて再現しょうとすると、伊佐郡大口村生まれの「海音寺氏の記憶の中にあった『鹿児島弁』が、そのまま反映された可能性は高い」と思われますね。 ところで話は変わりますが、めどうさんご自身がホームページに載せられている「想い出ノート」をとても楽しく拝見させてもらいました。特にリマタというお友達がノートに書いた「宝を埋めた場所を示す暗号のような文章を見つけた」という記述をめどうさん達がすっかり信じ、みなんなで宝探しをしたというエピソードはとても面白がったですよ。 そのエピソードの中に「僕らが通っていた高校の敷地は、福晶寺という古い寺の跡地だった。島津家の菩提寺で、その裏手には島津斉彬はじめ歴代の藩主の墓が並んでいる。室町時代のはじめの頃、島津家第七代元久によって建立され、一時は僧侶が1,500人もいたということである」と福昌寺のことが出てきますね。 この福昌寺のことが獅子文六の長篇小説『南の風』(朝日新聞社が出版した『獅子文六全集』第三巻所収)に出て来るのですよ。この小説の主人公は宗像六郎太というのですが、薩摩出身の男爵家の二男坊という設定で、あるとき母親の春乃に連れられて妹の康子と一緒に父祖の地である鹿児島を訪れ、宗像家の先祖たちが眠る福昌寺に墓参することになるのですが、その福昌寺墓参のときのことがつぎのように描かれています。 「寺とはいいながら、山門はおろか、本堂すらなかった。その代りに、公園のように、掃き浄められた広い土と、手入れをした古木と背後の山の美しい緑があった。その昔、越前の永平寺に等しい大伽藍か建っていたが、維新の廃仏棄釈騒ぎに、取り毀されたことを、春乃が語った。 やがて、曾て見たことのない絢爛で、宏大な墓地が、子供達の前に展がった。最初、二人は、それを、人間の墓と信ずることが、できなかった。あらゆる方形美を示した石塀、石段、石畳の設計は、琉球あたりの王城の外壁を、想わせた。それぞれの募域は、テニスができそうに広く、一面に石畳を敷き詰め、奥寄りに、墓があった。墓は、石燈籠のような形で、なんという石か知らないが、カステラの菓子のような、黄と褐色で、南国の初夏の日光を浴びると、黄金の輝きを、放つのである。」(『獅子文六全集』第三巻、422頁~423頁) さらに獅子文六の『南の風』には、六郎太とその妹の康子が母親の春乃に案内されて「絢爛な墓地から、陰鬱な墓地への小径(こみち)」を辿って宗像家の墓地に行くまでの様子をつぎのように紹介しています。「その途中にも、幾多の墓があった。一尺でも、一寸でも、藩主の墓に近いのが、身分の高い家臣の墓だった。近いといっても、もちろん城壁のような玉垣の外だった。玉垣の内に、眠ることを許されたのは、夫人だった。愛妾だった。それから、殉死を遂げた数多の近侍だった――」「やがて、春乃が案内したのは、後の山の中腹だった。樟(くす)や椎の木が、コンモリと繁ってる下に苔の生えた石碑が、無数に列んでいた。藩主の墓からは、最も、遠い距離にあった。『宗像家のご先祖ですよ……』 春乃は、一つの粗末な墓の前で線香に火を点じた。 これが先祖の墓かと、子供達は、呆れ顔だった。亡父の彦之進は、東京の青山墓地に、大きな、家代々の墓を建てて、移霊したつもりだったから、郷里の貧弱な墓を、顧みなかった。彼としては、寧ろ、この墓の存在を、人に知られたくなかったのであろう。」「帰途に、三人は、鬼頭院家の墓へ、回った。そこは、よほど藩主の墓に近く、石碑も、大きな五輪形だった。父方と母方の身分の相違は、いやでも、子供達の眼に映った。そして、父彦之進が、男爵を頂くほど、立身出世したのに、母の実家が微禄して、今は絶家同様であることを、考えずにいられなかった。整然たる墓地の秩序も、この世を支配するまでには、行かなかった――」 獅子文六の『南の風』には、福昌寺への墓参を通じて島津藩統治下の君主と臣下の整然たる秩序を六郎太とその妹の康子が思い知らされる様子が描かれていますが、そんな福昌寺は鹿児島の藩政時代のことを知る上で貴重な史跡といえますね。それで、私もデジカメ持参で福昌寺に見学に行って来ましたので、次回のブログ記事で紹介したいと思います。
2006年12月16日
コメント(1)
めどうさん、こんばんは、やまももです。 拙ブログへのお返事に感謝します。また、そのお返事の中で、めどうさんがご自身のHPに「西郷隆盛はおいどんと言っていたのか?」を書かれた後、「実際に自分のことを『おいどん』と称する人に出会った」というお話、とても興味深く拝見しました。その方は、「おいどんな○○○」という言い方をされ、決していかつい感じではなく、うっかりすると聞き過ごしてしまうほど何気ない感じでそう表現されたのですね。 そのような話し方からも、めどうさんは、「『おいどん』とは、やはり薩摩武士が使っていた言葉ではないだろうと、以前にも増して思えてきました」と書いておられますね。 めどうさんがこれまでお調べになったことからも、私も「おいどん」は一人称単数で使われるとしても、それは謙譲的表現として使われ、薩摩の武士が好んで使うような武張った表現ではないだろうと思うようになりました。 ただ、前に読んだことのある海音寺潮五郎が書いた『西郷と大久保』を読み返してみますと、作者は鹿児島城下で育った侍たちに盛んに「おいどん」「おいどんら」といった表現を使わせていることに気づきました。 例えば、新潮文庫版ですと160頁で、西郷が大久保に「おいどんは敗軍の卒でごわす」と言っていますし、また大久保が税所喜三左衛門に「おいどんな碁を習おうと思い立ちもした」(同196頁)と言っています。さらに血気にはやる誠忠組の同志たちは「おいどんたちは欺かれたのじゃ!」「おいどんらに違約の責めはなか!」(同287頁)などと叫んでいます。 しかし、海音寺潮五郎(1901年~1977年)は鹿児島県出身で郷土の歴史にはとても詳しい作家なんですが、鹿児島県最北に位置する伊佐郡の大口村生れだそうですから、幕末の鹿児島城下の侍言葉を時代小説のなかで正確に再現しているかどうかは疑わしいですね。方言というものは、一つ川や山を隔てるだけでいろいろ差異が生じて来るもののようですし、また時代によっても地位や身分によっても大きな違いがあるようですからね。
2006年12月13日
コメント(1)
めどうさん、こちらこそ本当にご無沙汰しておりました、やまももです。 拙ブログ「ポンコツ山のタヌキの便り」に7月にアップいたしました「向田邦子居住跡地に行って来ました その2」に「やまももさんのいつも変わらぬ丁寧な文章が心地良く、また周囲の様子をなんとなく知っているだけに親近感を持って読むことができました」等のご丁寧なコメントをいただき、大変恐縮しております。 それで私の方も久しぶりにめどうさんのホームページを訪問させてもらいましたが、そこで「西郷隆盛は『おいどん』と言っていたのか?」を拝読させていただきました。 それによりますと、鹿児島城下で生まれ育った西郷隆盛は自分のことを「おいどん」とは呼んでいなかったと思われるが、旧川内市、薩摩郡の方では目上の方に対したときに謙譲の意味で自分のことを「おいどん」と称したようだと考えられるのですね、そして「おいどん」を単数1人称代名詞として使用するのは、「鹿児島弁としては、亜種的なものだと思われるが、その響きに、独特の個性と存在感があったため、代表的な鹿児島弁として広まってしまい、薩摩の英雄『西郷どん』とセットにされてしまったというのが真相ではなかろうか」と結論づけられておられますね。 めどうさんとは前に鹿児島弁の「おいどん」についていろいろ論じ合ったことがありましたが、「西郷隆盛は『おいどん』と言っていたのか?」という文章はそのときよりさらに「おいどん」という言葉について認識を深められておられますし、またとても説得的なものになっているように拝察いたしました。お陰さまで私も大変勉強になりました。 これからもいろいろ鹿児島のことについて教えてくださいね。よろしくお願いいたします。
2006年12月11日
コメント(1)
みなさん、こんばんは、やまももです。 作家の林芙美子(1903年~1951年)の本籍地は鹿児島の桜島の古里で、同地には彼女の「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の自筆の文が刻まれた文学碑があります。そんな彼女は、小学5年生頃には鹿児島市内にある山下小学校に通っていたこともあるそうです(向田邦子も同小学校に通学していたことがあります)。しかし、林芙美子にとって鹿児島は懐かしい思い出の地ではなかったようで、鹿児島県高等学校教育研究会国語部会編『かごしま 風土と文学』はそのことをつぎのように書いています。父宮田麻太郎は四国の伊予の人で行商人であった。母キクは鹿児島の紅屋林新左衛門の長女で、弟久吉が経営していた桜島の温泉自炊宿に住み、行商に出たりしていたらしい。『放浪記』 では、母は他国者と一緒になったというので鹿児島を追放され、父と下関に落ち着き場所を求め、自分は下関で生まれたと書いている。六歳のとき、母が芙美子を連れて宮田の家を出、沢井喜三郎と結婚する。喜三郎も行商人で芙美子は小学枚を転々と変わり、十歳のときには、ひとり鹿児島に帰され、山下小学校にも入った。祖母に愛されず、寂しい思いをしていたようで、学校の帰り、城山に登って火を噴いている桜島をよく眺めたという。こういう出生や幼少時の放浪体験は、芙美子の文学の性格を方向づける素地となっているようだ。 そんな林芙美子が晩年に書いた『浮雲』に鹿児島市の波止場が出てきます。主人公たちが乗った屋久島行きの照国丸が出航した波止場なんですが、その波止場について私なりに調べたことを拙HPに「林芙美子の『浮雲』と屋久島行きの波止場」と題して載せておきましたので、もし興味を持たれたましたらぜひご覧いただきたいと思います。
2006年11月23日
コメント(0)
サンセットエヴァーさん、初めまして、やまももと申します。 サンセットエヴァーさんは昨年4月に初めて屋久島に行かれ、同島で「ゆったりした時間の流れ」を満喫されたようですね。 しかし、屋久島を訪れるためにまず飛行機で鹿児島空港まで行かれ、その過程で、「降りたバス停の港までの案内図がわかりづらかった」り、「10分くらい重い荷物を持って歩く」ことになったり、「また帰りのときに港から鹿児島駅まで行ったとき利用したタクシーがお願いしたところと違う場所に案内」されたりして、「そのため鹿児島という町は観光客にあまり関心がないような印象を受けました」との感想を持たれたようですね。 屋久島は世界自然遺産として登録されているような島であり、鹿児島島にとって誇るべき場所ですね。県外から来られたお客様に鹿児島市内から同島へのアクセスを分かりやすいものにしてもらいたいものですね。ただ、帰りに「鹿児島駅」という駅を利用されたのはまずかったですね。2006年7月20日に出版された『鉄道浪漫』Vol.12に鹿児島の市電が紹介されていますが、鹿児島駅について、「鹿児島駅はJRとの乗り継ぎ駅だが、やや最果て感の漂う駅。かつては、鹿児島のターミナルとして栄えたが、現在は鹿児島中央駅にその座を譲った」と紹介しています。そんな「最果て感の漂う」鹿児島駅を利用されたので、そこで利用されたタクシーの運転手さんもめったに乗せない県外のお客さんを乗せて戸惑ってしまったのでしょうね。 鹿児島空港から鹿児島市内行きのバスに乗られ、「金生町(きんせいちょう)」というところで降りられ、そこからタクシーで5分ぐらい乗られたら簡単に屋久島行きの船が出る鹿児島本港北埠頭に到着されたことと思いますよ。帰りがもし列車でしたら鹿児島本港北埠頭から鹿児島中央駅に出られるようにされたらよかったですね。 ところで、林芙美子の『浮雲』を原作にした映画をご覧になっておられるんですね。成瀬巳喜男が監督し、高峰秀子と森雅之が主演した東宝映画「浮雲」(1955年制作)ですね。私もこの映画をDVDで観ましたが、高峰秀子と森雅之の演技が最高にいいですね。仏印から引き揚げて来て半失業状態の不安定な状況にいる森雅之の所在なさそうな覇気を失った伏目がちな表情と、女たらしの彼に執着してどうしても未練を断ち切ることの出来ない高峰秀子の表情とが複雑に重なり合って織り成されるこの映画に大いに魅了されました。また、屋久島の営林署に職を得て精気を取り戻し毒舌と笑顔が戻ってきた森雅之と、彼と一緒に暮らせるようになったにもかかわらず彼から取り残されてしまったような寂しさを感じる病床の高峰秀子の表情もとても印象的でした。 それで、この映画は鹿児島市内ロケもされており、桜島をバックにしながら第一桟橋から屋久島に向かう第一照国丸などが映し出されています。桟橋には船を見送る人たちがたくさん来ており、「蛍の光」のメロディーが流れる中、乗船客と見送り人とが紙テープを握り合って別れを惜しんでいましたが、いまはこんな光景は見られません。それから、森雅之が桟橋通りと思われる道路を歩き、果物屋さんで高峰秀子のために林檎を買う場面もありました。これらの映像は、当時の鹿児島の第一桟橋や桟橋通りのことを全く知らない私にはとても興味深いものがありました。
2006年11月22日
コメント(0)
みなさん、こんばんは、やまももです。 以前、このブログに「林芙美子の『浮雲』と現在の鹿児島本港北埠頭」と題する文章を載せ、現在の鹿児島本港の北埠頭ターミナルには「林芙美子が『浮雲』に描いたような風景は残念ながらどこにも見当たりませんでした」と書いたことがあります。 ところで、林芙美子の小説『浮雲』の登場人物である富岡とゆき子は鹿児島市の波止場から照国丸という船に乗って屋久島に渡っているのですが、では屋久島航路の照国丸という船が出る鹿児島市の波止場はどこにあったのでしょうか。 作者の林芙美子が『主婦の友』1950年7月に載せた「屋久島紀行」という文章をインターネットの電子図書館「青空文庫」で読むことが出来るのですが、そこに「四日目の朝九時、私達は、照國丸に乘船した。第一棧橋も、果物の市がたつたやうに、船へ乘る人相手の店で賑つてゐる。果物はどの店も、不思議に林檎を賣つてゐるのだ。白く塗つた照國丸は千トンあまりの船で、屋久島通ひとしては最優秀船である」との記述を見つけました。ですから、屋久島航路の照国丸は鹿児島市の第一桟橋から出ていたようです。 それで「鹿児島市観光案内図」(鹿児島観光課、1954年3月)で鹿児島市の第一桟橋を探し、さらに現在の地図と重ねて下に掲載したような地図を作図してみました。しかし、第一桟橋等がかつてあった場所では大規模な埋め立てがなされており、これでは『浮雲』に描かれている風景を偲ぶことはやはり至難の技といわねばなりませんね。
2006年11月19日
コメント(1)
みなさん、こんばんは、やまももです。 今年(2006年)も鹿児島市の秋の木市が10月15日から11月15日まで甲突川河畔の市民広場で開催され、48のお店が並び、花の苗、苗木、鉢植え等が約1000種類、約10万本を展示販売されています。 我が家では、これまでこの木市で沢山の苗木を購入し、いまではそれらが大きく育ってしまい、新たに苗木を購入して植える場所などはなくなってしまいました。それでも春と秋に木市が開かれると必ず足を運んでいるのですが、今年の秋の木市にはまだ一度も行っていませんでした。それで11月12日の日曜日にデジカメ持参で木市の会場に撮影に行って来ました。 木市で撮った写真を新たに拙ホームページの「鹿児島の木市」に載せておきましたので、興味がございましたらご覧くださいね。
2006年11月12日
コメント(0)
みなさん、こんばんは、やまももです。 鹿児島市内で映画を観るといえば、従来は天文館まで出掛けていって観るもでした。この天文館には、最盛期には映画館が16館もあったそうです。しかし、その後どんどん減っていき、今年の6月5日にシネシティ文化が休館したため、天文館には鹿児島東宝だけが残っていたのですが、同館も今日(10月11日)を最後に看板を下ろすことになり、天文館から映画館は完全に姿を消すことになりました。 それで天文館まで行って、最後の日を迎えた鹿児島東宝の建物を写してきました。しかし、どうしたことでしょうか、同映画館のどこにも閉館の案内がなく、それどころか次回上映作品名が掲示されているのです。怪訝に思ったので、チケット売り場の窓口で「ここは今日で閉館するのではないのですか」と訊いてみましたら、この映画館は閉館しますが、次回作品は鹿児島市与次郎1丁目に開業する「TOHOシネマズ与次郎」で上映されます、とのことでした。
2006年10月11日
コメント(1)
naomatsu724さん、ファジー・パパさん、こんばんは、やまももです。 naomatsu724さんが「鹿児島はずば抜けたポテンシャルを持っているのだと改めて考えさせられました」と書いておられますし、ファジー・パパさんは「薩摩藩の為政者は日本の片隅にある藩であっても、江戸幕府に伍して生き抜いていこうという姿勢があったように思います。/時代は変わっても気概を持って鹿児島の良いところを伸ばしていかないと行けないですね」と書いておられますね。 桜島が轟音を上げて噴煙を空高く吹き上げたように、薩摩の地に深く蓄えられていたエネルギーが幕末から明治にかけて爆発して新たな時代を切り開いていきましたね。ただ、現在におては、残念ながら鹿児島ならではの特質がどんどん薄れているような気がします。 しかし、小川裕夫さんが『鉄道浪漫』最新号で、鹿児島の市電が「センターポール化や軌道緑化、そして超低床車の導入など、新時代の路面電車の手本といえる取り組みにも注意したい」と書いておられます。それと同じような努力がいろんな分野で営々と行われているのだろうと思います。それらの努力に目を向けて行きたいですね。 それから、naomatsu724さんが『未来をつくる図書館』という本を読まれて、官僚主義に毒されていない「ニューヨークの公立図書館のようなフレキシブルで活気のある図書館」の姿に感銘されたようですが、、naomatsu724さんのHPの「読書記録」でも、岩波新書の菅谷明子著『未来を作る図書館』を紹介され、「ニューヨークの公立図書館のような、利用者を顧客として考える市民のための図書館が日本には現れるのだろうか…」と書いておられますね。私も購入して読んでみたいと思います。
2006年07月26日
コメント(0)
naomatsu724さん、ファジー・パパさん、こんばんは、やまももです。 naomatsu724さんのHP「自分の一番、見つけた!」のなかの「青春18きっぷを使った日帰り旅行」のアルバムをとても興味深く拝見いたしました。 城崎温泉は昔から栄えていた温泉街ですから、建物や風景がなかなか風情がありますね。ところで、城崎温泉といえば志賀直哉の「城崎にて」という短編が有名ですね。 それから、餘部鉄橋の写真には感激しました。これはとても素晴らしい鉄橋ですね。明治42年(1909年)に建設されたというのですから、本当にすごいですね。そんな鉄橋の上を列車がずっと大事故もなく運行していたのに、昭和61年(1986年)になって強風のために列車の転落事故を起こしているのはどうしてなんでしょうかね。 ところで、その餘部鉄橋の写真撮影を終えられて、餘部駅に戻られる途中で「鉄橋の写真を撮り続けているおじさんに呼び止められ、写真を見せていただく」こととなり、「いろいろ話している内に、写真をくれると思いがけない事を言ってくださり、雪が降るの中を、いずも(ブルートレイン)が餘部鉄橋を渡っている写真をいただいた」と書かれていますが、naomatsu724さんは本当におじさんゴロシ、おっとおじさんに好かれるタイプのようですね。しかしこれってとても大切なことだと思います。そういう得がたい個性は、きっとnaomatsu724さんにとって非常に貴重な財産なのではないでしょうか。 ファジー・パパさんが「Loveかごしま(鹿児島便り)」の画像掲示板で、カリフォルニアのワイン王と言われた長沢鼎や現在のサッポロビールの基礎を築いた村橋久成について詳しい説明を載せてくださいましたが、といも参考になりました。本当にありがとうございます。 なお、ファジー・パパさんは「中央駅の前にある『若き薩摩の群像』に興味があって」、そのことから鹿児島便りに「長沢鼎」や「村橋久成」のことを前に紹介されたと書いておられますね。この、「若き薩摩の群像」は、1865年に鹿児島からイギリスに留学した薩摩藩の若者17人を記念して建てられていますが、この17人の中で私が以前から知っていた人物は3人だけでした。すなわち、明治政府の初代文部大臣となった森有礼、大阪の基礎を作った五代友厚、外交交渉で活躍した寺島宗則だけでした。ですから、若き薩摩の群像が建てられて、北海道でサッポロビールの基礎を築いた人物やカリフォルニアのワイン王と言われる人物がいることを知って大いに驚いたものです。 ところで、薩摩藩が当時の国禁を犯して17名の若き藩士たちを英国に留学させた理由として、その2年前の薩英戦争での英国との交戦がよく挙げられていますね。1863年の薩英戦争では、薩摩は青銅製50ポンド砲等で英国軍艦と果敢に戦っていますが、英国軍艦は射程距離が4、5キロメートルの最新のアームストロング砲で薩摩側の砲台をことごとく破壊し、城下に多大の被害を与えてその威力を見せつけています。 そけで、すぐに英国に優れた若き藩士たちを留学させて新しい技術や制度を学ばせようとしたそのリアリズムに徹した認識力、対応力にはただただ感心させられます。
2006年07月25日
コメント(1)
みなさん、こんばんは、やまももです。 私は旧向田邸の記念碑や建物の撮影を終えた後、バスで帰宅するために山下小学校辺りから天文館の方向に歩き始めたのですが、そのときに旧向田邸と天文館とが随分と近い距離にあることに気づき、そのことからさらに向田邦子と市電との関連をつい考えてしまいました。 向田邦子が子供時代を過ごした鹿児島の街について書かれた文章には市電のことが全く出て来ないのですが、私はその理由として、市電が子供の頃の彼女にとって余りにもありふれた乗り物だったからであろうと勝手に推測していました。しかし、こんなに彼女の家から天文館が近いのなら、少なくとも天文館に行くために元気な子供がわざわざ市電に乗ることはないでしょう。それでは他に市電に乗らないと行けない場所があったでしょうか。 彼女は『細長い海」と題されたエッセイ(文春文庫の『父の詫び状 新装版』所収)で、「海水浴場で心に残っているのは、鹿児島の天保山である」と書いていますが、同エッセイで「天保山から市内のうちまではバスに乗らなくてはならない」とも書いています。このように、この海水浴場には市電では行けませんでした。そうしますと、鹿児島時代の彼女はほとんど市電に乗ることはなかったのかもしれませんね。 そんなことを考えながら帰宅した後、あらためて再読した「鹿児島感傷旅行」に天文館に言及したつぎのような文章が載っていましたが、その文章の意味が私のその日のささやかな実体験からとてもよく理解できました。 天文館は、もと島津の殿様が天文学研究のためにつくらせた建物のあったところで、東京でいえば銀座、つまり鹿児島一の繁華街である。ここの山形屋デパートで買ってもらった嬉しい思い出は、絞りの着物と一緒にまだはっきり残っている。見違えるように立派になったデパートをのぞき、素朴な盛り場からこれまた近代的なアーケードに変貌した天文館通りを散歩したが、この時もまた不思議にひとりでに足が動いて、父がよく本を取り寄せていた金港堂と金海堂二軒の本屋にゆくことが出来た。人間の記憶の中で、足は余計なことを考えず、忠実になにかを覚えているのかも知れない。 天文館は家から近距離にあったのですから、「ひとりでに足が動いて」天文館の本屋さんにも行くことが出来たのは、たとえ38年ぶりに歩く道だとしてもそんなに不思議なことではないですね。うーん、ナットク。 この私の旧向田邸を訪れたささやかな体験を「向田邦子の鹿児島の家」と題して拙ホームページにまとめてアップしておきました。もしご覧いただけましたら大変光栄です。
2006年07月16日
コメント(1)
向田邦子は1981年に飛行機事故のために突然あの世に旅立ってしまいましたが、彼女の人気はいまもとても高いですね。そんな向田邦子が「鹿児島はなつかしい『故郷もどき』」であると書いていることをご存知でしょうか。 向田邦子は、彼女が乳癌のために入院したときに「鹿児島に帰りたい」と思ったそうですが、そのことを「鹿児島感傷旅行」(講談社文庫の『眠る盃』に収録されています)でつぎのように書いています。 昔住んでいた、城山のならびにある上之平の、高い石垣の上に建っていたあの家の庭から桜島を眺めたい。知らない人が住んでいるに違いないが、何とかしてお庭先に入れて頂いて、朝夕眺めていた煙を吐くあの山が見たかった。うなぎをとって遊んだり、父の釣のお供をした甲突川や、天保山海水浴場を見たかった。山下小学校の校門をくぐり天文館通りを歩きたかった。友達にも逢いたかった。 帰るといっても、鹿児島は故郷ではない。保険会社の支店長をしていた父について転勤し、小学校五年、六年の二年を過した土地に過ぎないのである。しかし、少女期の入口にさしかかった時期をすごしたせいか、どの土地より印象が強く、故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい「故郷もどき」なのであろう。 彼女は退院後、父の思い出を中心に子供の頃のことをエッセイに書きはじめ、それを『父の詫び状』にまとめあげています。そして1979年2月に「故郷もどき」の鹿児島に二泊三日の旅に出かけますが、鹿児島空港に降り立った彼女はそのまま「昔住んでいた、城山のならびにある上之平の、高い石垣の上に建っていたあの家」に直行します。しかし、彼女の「うちは、失くなっていた」のです。そのときのことを同じく「鹿児島感傷旅行」で彼女はつぎのように書いています。 石垣は昔のままであったが、家はあとかたもなく、代りに敷地いっぱいに木造モルタル二階建てのアパートが建っていた。戦災で焼けたのか老朽化したので取りこわしたのか。 門も、石段も新しくなっていた。普通り裏山には夏みかんの木が茂り、黄色に色づいた夏みかんが枝の間から見えていたが、昔より粒が小さくなったように思えた。いや、夏みかんが小さくなったのではない。私が大きくなったのだ。その証拠に、子供の頃、見上げるほど高いと思ったわが家の石垣は、さほど高くはないのである。 思ったより高くなかった石段の上に立って、しばらくじっとしていた。春先なのに初夏に近い陽気の、みごとに晴れた日である。日の下に広がる鹿児島の街は、見たこともない新しい街であった。 向田邦子が小学校5、6年生の頃に住んでいたという鹿児島市の「城山のならびにある上之平」の家はいまはどうなっているのだろうかと思い、NPO法人かごしま文化研究所、NPO法人かごしま探検の会が発行しています『向田邦子 かごしま文学散歩』で調べてみましたら、私がいつも通勤先に向かうバスを待っている高見馬場と電車通りの交差点から歩いていける距離に旧向田邸はあるようです。高見馬場の交差点から北北西に通っている三官通りを城山に向かってほぼ真っ直ぐに歩いていけばたどり着けるようなんです。それで城山の真下にある旧向田邸まで行って写してきたのが下の写真です。 なお、旧向田邸の前には「向田邦子居住跡地の碑」があり、その碑の後ろの壁の上方にはつぎのような説明文が掲示されていました。 向田邦子は1929年(昭和4)年、東京に生まれました。29歳で初めてテレビ台本を執筆、「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などホームドラマの傑作を次々と生み出し、人気シナリオライターとなりました。その後、46年歳のとき、エッセイ「父の詫び状」を執筆したのをきっかけに小説も手がけ、1980(昭和55)年、連作短篇小説「思い出トランプ」の中の「かわうそ」など3編により直木賞を受賞しました。しかし、翌年、台湾を旅行中の飛行機事故により、51歳で突然この世を去りました。 向田は父の転勤により、10歳のときに一家でこの地に移り住み、思い出深い2年余りを過しました。「故郷の山や河を持たない東京生れの私にとって、鹿児島はなつかしい『故郷もどき』なのであろう」(「鹿児島感傷旅行」『眠る杯』)とエッセイに書き残しています。
2006年07月14日
コメント(0)
全63件 (63件中 1-50件目)