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12月16日付の熊本日日新聞朝刊に、農民作家、山下惣一氏の東京での講演が紹介されています。山下氏の発言には、しごく共感し納得する部分が多い。山下氏の講演をうまくまとめて紹介してくださった、熊日記者、渡辺直樹氏に感謝します。●「儲かる農業」について「これまで農業が続いてきたのは儲かったからではない。農業が必要だったから」「『儲け』とは付加価値であり、原料を生産する1次産業にはない。 生産者が得ているものは『対価』。それがあまりに低い。」生産者が得ているものは『対価』だというのは確かにそうだと思います。サラリーマンが得ている給料は労働に対する『対価』であって、『儲け』ではないですからね。それと同じだと思います。また、それがあまりに低いというのも同感です。林業なんかさらに低いです!●「大規模化」について「(棚田が広がる)唐津のような場所は規模拡大が難しい。」「たとえ集約がうまくいったとしても、農地を提供した農家の次の世代は、 地域を離れる可能性が高まり、地域社会が成り立たない。」まさに、「久木野まるごと農場」が直面している問題です。規模拡大をコスト削減につなげることは不可能だと言って過言ではないと環境です。。耕作放棄地を出さないように引き受ける田んぼを増やしていけば、収量は増えますがコストも増えます。対価としての販売額が増えることはあっても、儲けが増えることにはならないのです。一方、農業経営が成り立つかどうかというよりも、地域社会が成り立つかどうかのほうが重要な課題です。そういう意味では、「久木野まるごと農場」のような組織の役割は大きいと思っています。これまでの世代は農業機械への投資に対する抵抗感は少なかったようですが、若い世代はそうはいきません。農作業を引き受けてくれる組織があることで助かると感じる人は多いはずです。山下氏が言うように、「次の世代は地域を離れる可能性が高まる」ということとは違う側面があると感じます。●「競争」について「農業を続けてきた『ムラ』は運命共同体であり、競争原理とは相いれない。」「ほかの商売では同業者がつぶれたら儲かるが、農業は違う。 『お前が頑張らないと俺も頑張れない』。そういう関係である。」横並びですべての農業者が農業を継続していければ理想なのでしょうけど、ある程度は集約されていくと思います。これまでのように農業者を「農家」と呼び、親から子へ経営を引き継いでしていくシステムは限界に来ています。「家」で経営を引き継ぐのではない別の仕組みを作る必要があります。「久木野まるごと農場」を立ち上げたのは、そういう理由からです。「久木野まるごと農場」は農地を守ろうとしているのではありません。農業者をサポートするのが主たる目的です。農業があるから地域社会があるのではなく、「地域社会が存続すれば農業も存続する」という考え方です。『ムラ』が運命共同体があることに間違いはありませんが、その存続に必要なのが『核』だと考えています。それは強力なリーダーかもしれません。また、「久木野まるごと農場」のような集落営農組織もそうです。ある程度の規模拡大も必要ですし、集約も必要だと思います。新たな地域社会の仕組みを考えていかなければなりません。
2013.12.16
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存亡の危機にひんしているオーストラリアの稲作について論じた、2007-3-14付日本農業新聞の論説は、非常に興味深い内容です。30年程前、理想的な農業の姿だともてはやされたオーストラリアの稲作が、いまや存亡の危機にひんしていることを伝える一方、持続的なアジア型稲作の評価もしています。※URLを紹介するので、ちょっと読んでくださいませ。 ↓◆豪州の稲作/近代的農法の落とし穴 ↓http://www.nougyou-shimbun.ne.jp/modules/news1/article.php?storyid=124自然を相手にする農業は、自然条件や土地条件、また販売のやり方等によっていろんな形があるのが当たり前。それぞれ一長一短あるはずです。どういう形がいいとは一概には言えません。まして、一番分かっているのは百姓自身であり、農業はこうあるべきだと、会議室で論じてもらっても困ってしまいます。農業の理想的な姿なんて、「ない」と言ったほうがいいかもしれません。棚田での稲作も、効率面だけで見ると悪い評価しか受けませんが、環境とか食味、あるいはグリーンツーリズムといった視点で見ると、欠点と思われていたものが長所になるのです。画一的な評価をするのは、そろそろやめましょうよ。いろんな価値観、いろんなスタイルがあるから面白いし、いろいろな形で全てが成り立つような社会が望ましいのではないでしょうか。
2007.03.15
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走ってきた二人の者が、家の角で偶然衝突した。其の刹那、 失敬なと怒るものと、 失礼しましたと謝るものとの二つの性格がある。前者は人を責むる方で人間の出来が悪しく、後者は事故を責める方で人柄が善い方である。私は既往の経験からして、 己れを責むることを忘れて、人を責むるものとは共に事をなしてはならぬことを痛感したのである。私は終生絶対に報復的行為はせぬことを決めて居る。怨みに思ふ者に、復讐をすれば溜飲は下がるだらうが、斯くしては互に討ちつ討たれつ、際限なしになつて来る。人を恨んで世間を狭くする暇には、新に知人を得て世間を広め度い。 反省心のなきものは人格の行き詰りといふ。人と事を構ふる時、自己を省みずして、人のみ責むるやつは、人格の行き詰りで、一切成功出来ぬ人物である。斯様な者は年と共に世間を狭めて行く。理の当然なことでも、人を責めず、許して置けばこそ相手が将来其の非を悟った時は、必ず其の徳に服して、永久に仕へるであらう。大人物は人を責めない。これは、昭和の農聖」と人々から称えられた松田喜一(1887~1968)の著書『理想の農業』に書かれている「人柄の善悪」という文章です。諸君よ・・・・・、諸君は果して自らを責むる人であるか、若しかしたら人を責むる側ではないか。反省心を失つて、人格の行き詰りになつては居ないか。こう問われれば、小生などは大いに反省すべき点がありそうです。人格が行き詰まってしまわないように、気をつけたいものですね
2006.11.11
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朝、歯磨きをしていたら前歯が欠けてしまいました(⌒ロ⌒;)もともと虫歯で治療をしたことがあったのですが、だんだん薄くなっていき、最近は透けるようになっていました。鏡を見るとメチャかっこわるいです。とほほ(T▽T)さっそく歯医者を予約し、夕方行ってきました。待合室で雑誌を読んでいると、おもしろい記事を見つけました。週間文春 1月19日号「パソコンを捨てて農作業せよ!」 養老孟司▼ここ数十年の日本社会の問題は都市化に尽きる。田舎が消えた。しかし、街だけでは生きられない。だれかが米を作り、作物を栽培し、山林を維持していかなければならない。▼人間は頭だけで生きているのではない。▼年に1ヶ月は田舎に住んで、田畑や山林で身体を使って働く。田植えや草取りや杉の間伐をする。それを義務づける。▼それを参勤交代と呼び、まずは霞ヶ関のお役人から始める。なんと素晴らしい提案なのでしょう\(^O^)/さすが、養老先生! 農業や林業の大切さがわかっていらっしゃる。山童はうれしかったです。(;;)ゥゥゥ泣霞ヶ関のお役人には是非やって欲しいですよね。一般の企業の人には、義務づけとまではいかないまでも、ボランティア休暇制度を、農業や林業の分野まで対象を広げてもらえばありがたいと思いますねぇ。あまり広まってはいないようですが、現在のボランティア休暇は災害時の支援活動や障害者・お年寄りのための福祉活動が対象となっているようです。>年に1ヶ月は田舎に住んで、田畑や山林で身体を使って働く。田植えや草取りや杉の間伐をする。そうした活動を、国や企業が支援するようになるとおもしろいですね。品目横断的経営安定対策などという政策より、ずっといい。
2006.01.20
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―― 自分が変われば、世界が変わる ――ひたすら土に生き、人を指導しつづけた昭和の農聖松田喜一。汗を流すこと、苦労することが人を育てるという考えのもと、設立した農事実習所の生徒達の先頭に立って働き続けた。農事実習所はこんな言葉をつたえている。 「土作れ 人間作れ 作物作れ」※ たなだなんだなあ ~熊本の偉人達~ より抜粋お盆を前にまったくの偶然でしたが、昭和の農聖と呼ばれた 松田喜一 先生のお墓を見つけました。現在の宇城市、旧不知火町から八代へ続く通称農免道路沿いにありました。ところで後でふと思ったのですが、今回は「お~っ、すごい!松田喜一先生のお墓を見つけたぞ~っ!」と喜んで、お墓にお参りしただけで帰ってきてしまいましたが、記念碑の案内板があったのでもしかしたら近くに記念碑もあったのかなぁ?今度また記念碑も探しに行こう( ̄▽ ̄)、ご存知の方は教えてくださいm(_ _)m
2005.08.13
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6月27日の日記で、スタジオジブリ・プロデューサー鈴木敏夫氏の「目標を持つな」という言葉を紹介しましたが、今日も同じ話題です。内藤誼人著「パワーセルフ!―最強の自分になる心理学―」(ダイヤモンド社)では、心理学の視点からそのことについて触れてあります。ちょこっと、引用>>理想があまりにも現実ばなれしていて、手に届かない場合、努力すればするほど、かえって無力感に襲われてしまうことがある。これを心理学者は「理想病」とか「病的な理想」と呼んでいる。【正常な理想】「私はこうありたいと思う「うまくいったら嬉しいな」「理想の一部でもかなえばいいや」「失敗すると落ち込むけど、自信を喪失するするほどじゃない」【病的な理想】「私はこうあらねばならない」「うまくいっても、まだまだ満足できない」「完ぺきに理想を達成できないなら、無意味だ」「失敗する自分が許せない」「~ねばならない」とか「~べきだ」という思考によってなされる仕事は、すべて病的なものである。それは恐怖によって突き動かされているだけであり、メンタル・タフネス力があるとはいわない。もし病的な理想に心がとらわれてしまうなら、理想を小さな理想に分割してみるといいだろう。そして、たとえ小さな理想でも、それが達成できたなら、心から喜ぶのである。そうすることによって、最終的には大きな理想をも達成できるようになる。往往にして私たちは、子供たちに対し、「~ねばならない」「~べきだ」というような理想を押し付ける傾向があるかもしれません。画一的な価値観に基づく理想でしょう。多様な視点で目標を設定することが大事なんでしょうね。
2005.07.01
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昨日の日記の続きです。農業経営を続けていこうとすれば、相応の所得が必要なことは言うまでもありません。しかし、農業の目的というのはそれだけではありません。いつものように、松田喜一著「理想の農業」を覗いてみましょう。>私は、農業を以って単に生活の資を得る業とは思はぬ、言い換ゆれば、金を取るばかりの為の農業とは考へぬ。幸福を求めんが為の農業と思って居る。しかして幸福を得るためには、心、身体、物質の三富が要るから、私共は、一、農業を以って心の富を養い、二、農業を以って身体の富を得、三、農業を以って物質の富を築き、たいと思って居る。>農村の盛衰は、人々の収入の多い順序で栄え、収入の少ない順序で衰えていくべき筈であらねばならぬのに、実際は収入は何程多かつても栄えるでもなく、何程少なくても飢死はせない。>繁栄は天の時と地の利ばかりでは行かない。好景気が来ても、収穫が多くても、其ればかりでは農村は栄えぬ。矢張り人間の力が ―― 強い力が入らねばならない。>(一)働くこと、(二)手腕を練達すること、(三)地力を増進すること、の三つの条件を基礎とし骨格とし、これに農学という肉をつけてこそ立派な農業が出来る。農業の担い手は、規模の大小、所得の数値ではないはずです。面積が何ヘクタール以上ということではなくて、やはり『人』をみてほしいと思います。規模は小さくても、意欲的に農業に取り組んでいる人を切り捨てるようなことは、しないでほしいものです。
2005.01.16
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今でこそ農業というのは、ただ生産するだけでは駄目で、「販売まで視野に入れておく必要がある」「消費者の嗜好をつかめ」などと言われていますが、これはすでに昭和のはじめ、松田喜一先生が指摘されていることなのです。―――― 〈理想の農業〉より引用 ――――――昔の農業は生産のみで済んだが今の農業は 生産、加工、運搬、販売、の四つの事業から成り立っている。(途中、省略)只作り出すだけが百姓と心得て居るのは、大変な誤りで、生産だけなら百姓ではなくて、二十五姓である。即ち生産、加工、運搬、販売を合わせて百姓なら四項の四分の一では、百姓ではなくて二十五姓ではないか。二十五姓では立てる道理がない。故に将来の農業は、一時も早く共同一致によりて、完全なる百姓となることである。―――――――――― 引用ここまで ―――――最後のところにあるように、松田喜一先生は、農業には共同の力が必要だと言われているのです。さらには、「人間の使命は、宇宙の共存共栄に貢献すること」だともおっしゃっています。しかし、現代社会は「共同一致」「共存共栄」とは反対の方向に進みつつあるようです。このことは松田喜一先生も嘆かれています。「宇宙の共存共栄に貢献する」という意味を、しっかりと考えてみたいと思います。
2005.01.04
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▼私の住む水俣には、あまり高い山はない。最高峰が大関山908メートルである。今朝はその大関山の山頂付近が真っ白になっていた。12月に入ってからも暖かい日が続いていたが、ようやく寒くなってきたようだ。今年も残すところ2日になってしまったが、やはり少しは寒くならないと正月がくるという気はしないものだ。▼今年は異常気象に泣かされた年だった。相次ぐ台風の襲来で、農業関係にはかなりの被害が出た。これも地球温暖化の影響だろうか。異常気象というのは、今年に限ったことではなくなってくるのだろう。▼年末になると「一年を振り返って」という話をよく聞くのだが、どうもこの「振り返る」というのは苦手である。過去を振り返ると自分の未熟さばかりが思い出され、落ち込んでしまうのだ。反省はそのときそのときにやっているので、まとめて反省する必要もないだろう。▼ただ、来年は少し具体的に目標を定めたいと思っている。プライベートでも仕事でも確固たる目標を持つ必要がある。そうしなければまったく進歩がなくなってしまうような気がするのだ。▼実はこれも松田喜一先生の教えなのだ。「理想の農業」の第一編が、この「目標」というテーマから始まるのだ。・・・弓を射るには目標が要る。舟を漕ぐにも目標を要し、途を歩くにも目標が要る。弓にして然り、舟にして然り、歩にして然り、況や人の一生に目標なくして行けようか。・・・人の一念は強い。実に強い。其の強さは目標に活きるからである。目標がなければ、腐れ縄より弱いであらう。再び考へて見るがよい。諸君に如何なる目標があるか。お互いに、一日たりとも、一時間たりとも目標なくして過ごしてはならない。
2004.12.29
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昔から成功した人間には皆成功の 『動機』といふものがある。其の『動機』といふのが正に此の『一角破り』である、余計なことは要らぬ。一事でよい。僅かでよい。それが徹底して、見事にやりつけることが出来たら、其処から 『心の萌芽』を生ずる。一角を破れ、・・・・・・ 一角を破れ、・・・・・・ 諸君どうでもして一角を破れ、・・・・・・ 何か一事やってやってやりつけようではないか、一本のマッチから大火になる如く、微細な心のひらめきから大事業が感性されることを思へ。・・・・・・ 深く思へ。・・・・・・ 着手は成功の半なり(松田喜一著「理想の農業」より)「一芸は道に通ずる」という諺があります。あるひとつの芸を極めた人は、他のどんな分野でも人にぬきんでることができるという意味です。稲盛和夫は著書「成功への情熱」の中で、「ひとつのことを極めることは、すべてを理解することなのです。すべてのものの奥深くに、真理があるのです。」と書いています。ただ、この一芸を極めるというのはなかなか難しいですよね。極めることができずに他のことに手をだして、結局広く浅く、何にも物にならなかったという人が多いんじゃないでしょうか。そこでもうひとつ「理想の農業」から、ご紹介しましょう。古人の所謂、 運、鈍、根、とは穿った訓である。運とは天運『人事を尽くして天命を待つ』事であり、鈍とは脇目をふらぬこと、一事に従事した以上は、尚以上によいことがあってもけっして見向いてはならぬ。それと根とは根気のことで、何事も根気強く忍んで居れば、必ず運は先方から開けてくる。急いではならぬ。 果報は寝て待て、 しばしば移植する木は生長せぬ、というのが、そのことである。何事も根気強く、というのがとにかく一番必要なことのようです。
2004.12.28
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「ドン底主義」は、「心の置きどころひとつ」ということであろうが、この「心の置きどころ」を松田喜一先生は、「心の標準」と表現されている。【理想の農業、より引用】 ここに甲と乙との二人の者があり、甲も5千円、乙も5千円の財産と仮定する。それのみならず、家族から何から一切同様の事情、境遇であるとする。然らばこの二人の者の幸福は、少しも違いはない筈であらう。然るに仮に、甲は10年前は千円だったのが、今は5千円になったのであり、乙は同じく10年前迄は1万円であったのが、今は5千円に成り下がったのであるとすれば如何である。現在の境遇さえ同様であるなら同様に幸福と思ったのが、その出発点ひとつ付け加えて見ると忽ち幸福に雲泥の開きが出来て、甲は希望に輝き、乙は失意に泣くという違いになってくる。恐ろしいのは出発点である。否、心の標準である。(中略)故に人間は、心の標準が下がっているものは一生感謝があり、余裕が出て来る。思えば我等一生の運命を支配する大問題ではないか。 【引用ここまで】松田先生は、この心の標準というのを「一生の運命を支配する大問題だ」と言われているのである。心の標準ひとつで、人生が幸福にもなれば不幸にもなるということだ。しかし、「一生感謝がある。」という境地までには、未熟な小生など到底達することはできそうもないな。
2004.12.25
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わが身の不幸を嘆いていらっしゃる方は、多いと思います。回りを見渡せば、皆それぞれに幸せな暮らしを送っているように見え、自分だけが不幸な運命を背負っているかのように思えることさえあります。そんな方のために、いいことを教えてあげましょう。天地の不幸を一挙に撃退し、立ち所に幸福界に飛び込むことができるという秘法があるんです。それが、松田喜一氏が言われるところの、『ドン底主義』です。 10町持って不景気で困る人は、5町持ちの顔を見に行けば必ず不景気は治り、5町のものは1町、1町のものは何にも無い者の顔と、段々自分より困っている者の顔を見、之を持って心の標準とすれば必ず不景気は治る。 米のなる木で作りし草鞋 踏めば小判の跡がつく 上を望めば限りはないと 下を見て咲く百合の花 不景気不景気と悔やんでみても、不景気が治るではなし、むしろ心の標準を下げて、下段の構えで戦ってはどうか。 ドン底主義とは、心の標準をドン底に置くことである。最も辛い時、最も不自由な場合を当然となせば、悪かった所で当然、それよりも好かったら之は思ったよりも結構となる。感謝の素もまた此のドン底主義である。世に強い人とは、此のドン底主義の人、世に幸福な人もまた此のドン底主義の人でなからねばならぬ。上を見ればキリがないですね。禅の言葉の「知足」というのも同じことでしょう。現状を認識し、自分の足元をしっかりと見つめるということでしょうし、感謝する、ということでしょう。松田先生、ありがとうございます。
2004.12.23
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松田喜一著「理想の農業」を貸していただいた。松田喜一は、昭和20年代から30年代にかけて熊本県八代市で農民道場を開き、「昭和の農聖」と百姓衆に崇められた農業者であり、彼を師と仰ぐ農業者は多い。その松田喜一が昭和4年に書いた本である。借りてきたのは昭和13年に出された改訂第10版であるが、70年ほど前の出版物でありかなり傷んでいる。慎重にページを開く。古書の独特の匂いがある。農業書であるが、農業を行う上での考え方や経営の姿勢などについて、松田喜一の考えが書き込まれている。第一編 農民精神の修養 ~ 目標弓を射るには目標がいる。舟を漕ぐにも目標を要し、、途を歩くにも目標がいる。弓にして然り、舟にして然り、歩にして然り、況や人の一生に目標なくして行けようか。・・第二編 農業経営の実際第三編 農作法の改善文章の一つ一つ、言葉の一つ一つに感銘を受ける。実際の現場の中から生れてきた言葉である。すべてを紹介することはできないが、今後、この日記の中で少しづつ紹介していきたいと考えている。
2004.12.22
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