俺など、本来、人が悪いから、ちゃんと世間の相場をふんでいる。
上がった相場はいつか下がる時があるし、下がった相場もいつか上がる時が
あるものさ。その間十年、あせらずじっとかがんでおれば、道は必ず開ける
事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。才走ってはうまくいかない
勝海舟の言葉です。
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俺が、慶喜公の心変わりに翻弄されている頃、
坂龍は、水面下で大政奉還に向けて動いていたのだ。
土佐藩船「夕鶴」で坂龍が後藤象二郎と相談し
作成されたのが「船中八策」だ。この中には、俺の考えが盛り込まれていたのだ。
この「船中八策」を基に、土佐の
山内容堂公が慶喜公に建白書を提出。
これを受けて、15代将軍徳川慶喜公は、遂に「大政奉還」を英断したのだ。
しかし、これは慶喜公の駆け引きであって、
実質は、徳川家の直轄領地を放棄せず、
外交権もそのままで己主導の新しい国家形態を維持すべく
実質的に日本政府を代表し続けていたわけだ。
つまり、大政の名は譲ったが、実は譲らなかったわけだ。
これに怒った、薩長の討幕派と組む公家の岩倉具視は
明治帝の臨席のもと「王政復古」の大号令を発したのだ。
更に宮廷
での"小御所会議"で慶喜公の辞官・納地を強引に決定する挙に出て、
慶喜公の実権は喪失したのだ。
慶喜公は京を出て大坂城に入り、
旧幕府の陸海軍勢力を大阪に集結し京都の朝廷に無言の圧力をか
け討幕派との対決姿勢を鮮明にし、内乱の方向に向かっていった。
外交権を握られたまま、思うにならないまま薩摩藩は過激派浪士など"御用盗"を使って、江戸市内の放火、強盗など徴発活動に出たのだ。
この活動に乗り、江戸市内を取り締まる幕府側、庄内藩が江戸薩摩藩邸焼き
討ち事件へと広がり、上方に伝えられると慶喜公の「討幕ノ表」から更に「戊辰戦争」と繋がってしまう。
このような情勢の中、俺は江戸城へ登城し、時局の対応を進言したのだ。
「内戦は避けたい。内戦に乗じて、列強が虎視眈々と我が国を植民地にせんと狙っている。
そのためにも薩長両藩の徴発に乗ることなく冷静沈着に見守る」
と述べたが江戸城を預かる
人々に判る筈もなく、
逆に薩長の回し者との疑惑を受け、俺は決然として辞職したのだ。
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☆ この時、海舟は決然として辞表を叩きつけています。
この時の主論は、戦いあるのみ! 海舟の話など誰も聞く耳持たなかったのです。
少数意見の中に、真実がある!! こういうこともあるのが世の中というものです。
ただ一人、正論を述べた海舟の胆力は、並外れたものがあったのです。
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その後、明治元年(1868年)官軍の東征が、始まると、対応可能な人材がいなかった幕府は、またしても海舟を呼び戻して、陸軍総裁に任じています。
陸軍総裁とは、海軍を含む、徳川家の軍隊の総指揮官という最高ポストなのです。
徳川慶喜から全権を委任された海舟は、
幕府の代表として西郷との談判に望むことになるのです。
愛と勇気と希望と団結のシンボルである、このバッジは、素晴らしいパワーを持っています。
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