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さすがに詩人ゲーテです。一プラス一、それは「公開せる秘密」だといっているのです。私どもは、ただそれを神秘的直観、宗教的直観によってのみ、知ることができるといっているのですが、公開もる秘密とは、まことにうまいことをいったものです。宗教的直観によるのだという語は、ほんとうに味のある、意味ふかい言葉だと在じます。いったい、私どもお互い人間のもつ、言葉や思想というものは、完全のようで実は不完全なものです。思うこと、いいたいこと、それはなかなか思うように話すことがでないものです。最も悲しい世界、最も嬉しい境地というものは、とうていありのままに、筆や口に、表現できるものではありません。イヤ、筆にはまだ、どうとも書けましょうが、言葉では、とても思いのままを、率直に、他人につたえることはできないのです。
文殊と維摩の問答
ところで、これについて想い起こすことは、あの「維摩経」にある維摩居士と文殊菩薩との問答です。あるとき、維摩が文殊に対して、 不二の法門、すなわち真理とはどんなものか、と質問したのです。その時、文殊菩薩は、こう答えています。
「不二の法門は、私どもの言葉では、説くことも、語ることもできないものです。真理は一切のわれわれの言葉を超越しています」
そこで今度は、反対に文殊菩薩が、維摩居士に同じく、不二の法門とはなんぞや?と反問しました。すると、維摩はただ黙って、何も答えなかったというのです。
「時に維摩、黙然として、言無し」
と、「維摩経」に書いておりますが、黙、然、無、言、の一句こそ、実に文殊への最も明快な答えだったのです。さすがは智慧の文殊です。
「善いかな、善い哉。乃至、文字語言あることなし。これ真に不二の法門に入る」
とて、かえって維摩の「黙」を歎称しているのです。古来、「維摩の一黙、声雷のごとし」といっておりますが、この黙の一字こそ、非常に考えさせられる言葉だとおもいます。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)