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あの名高い白隠禅師の語録の中に、 こんな味わうべき
言葉が示されています。病と闘いつつ、ついに病を征服した人のことばだけに、なかなか意味ふかいものがあります。
「世に智慧ある人の病中ほど、あさましく、物苦しいことはなきことなるぞや。来し方、行く末のことなども際限なく思い続け、看病人の好悪などをとがめ、旧識同伴の間闊(とおどおしき)を恨み、生前には名聞(みょうもん)が遂げざるを愁(うれ)え、死後は長夜(ちょうや)の苦患(くげん)を恐れ、目を塞ぎて打臥したるは、殊勝に物静かなれども、胸中騒がしく、心上苦しく、三合の病いに、八石五斗の物思いあるべし」
と、いかにもその通りで、なまじい学問をした、智慧のある人ほど、よけいに病気を苦にする傾きがあって、容易に病気に安住することはできないのです。どうせこわれものの身体です。おそかれ早かれ、一度は死なねばならぬ、という覚悟ができていそうなものですが、それが実際はできていないのです。いつまでも健康がつづくように思い、いつまでも生きていられるもののように考えているから、いざ病気にでもなると、いらざるよけいな心配までするのです。心配ならよいが心痛するのです。
死ぬことを忘れていてもみんな死に
ですから、死への暇瞬は、当然できておらねばならぬわけです。因緑ということくらい、十分に考えておらねばならぬわけです。ところが、事実は全くこれと正反対です。なまじっか学問がある人よりも、かえって学問のない人の方が、あきらめが早いのです。死の覚悟がチャンとついているのです。三合の病いに八石五斗の物思いがなくてすむのです。もちろん、それは決して学問そのものの罪ではありません。学問する人の罪です。
高神覚昇「般若心経講義」(角川ソフィア文庫)