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昨日もひらひら今朝もひらひら今もひらひら櫻ひらひらひらひらひらひら千散り萬散り千萬散り散り散つても散つても散り盡(つ)きないのび太 参照元:底本『若山牧水全集 第九巻』雄鶏社 青空文庫
April 2, 2024
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苞(つと)割れば笑みこぼれたり冬牡丹 虚子 苞(つと)は、わらで作った霜よけです。中から現れるのは大輪の冬牡丹、大輪の笑みが咲きこぼれます。「咲」には「笑う」の意味もあります。 雪間の牡丹の美しさは、見る者も笑顔にしてくれます。火を焚かぬ煖爐(だんろ)の側や冬牡丹朝下る寒暖計や冬牡丹 冬牡丹頼み少なく咲きにけり 子規 子規の時代の寒暖計は、赤いアルコールが上下するアナログなスタイル。気温の上下が一目瞭然です。 『墨汁一滴』の冒頭一月一六日の記述に「病める枕辺に巻紙状袋など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置ける。」とあるので、自宅、病室の寒暖計でしょう。この寒暖計に、新年を寿ぐ輪かざりをつけたという記述もあります。 病床にあって、見る物も限られていた子規を慰める寒牡丹の句です。 引用元:高浜虚子・選『子規句集』岩波文庫 『虚子五句集』岩波文庫 *写真は上野東照宮ぼたん園で撮影
January 4, 2024
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枕草子第百二十八段から。 頭の弁(行成)から、絵か何かを白い色紙に包んで、梅の花が見事に咲いた枝につけた物を贈ってきました。餅餤(へいだん)というものを二つ並べて包んだものでした。添えられた立て文には進上餅餤一包(ひとつつみ)例に依て進上如件(くだんのごとし)別当少納言殿とあって、「みまなのなりゆき」と署名があります。「自分で参上したいとは思っておりますが、顔がみっともないので…」とみごとな筆跡で書いてらっしゃるのでした。 少納言の地位にある男性宛ての正式な進物に見立てて、物を贈るという趣向です。二月の「定考(じょうこう)」という公事の日のことです。 餅餤は、餅の中に煮合わせた鵝鳥・鴨などの子や雑菜を包んで四角く切ったものだそうです。唐菓子の一種ですが、餅は神仏に供えたり、祝賀の折に用いられる特別な食物でした。 面白い仕掛けと美しい筆跡に、中宮定子も感心します。清少納言は、真っ赤な薄様(紙)に「自分で持ってこない様な下僕は、面白くない人と思われますわよ」と書いて、紅梅の枝に結いつけて贈ります。 白い色紙と紅い薄様、白梅と紅梅の対比を意識した返しです。行成は「教養を鼻にかけた歌などで返さず、全くりっぱなお答えでした。」と、天皇や大勢の人々の前でもこの話を披露されたと伝えます。行成は「すぐ歌を返すようなありきたりの女の人でなくてよかった。あなたみたいな付き合いやすい人がよい。」とも言ってきました。
December 8, 2023
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百人一首に採られた清少納言の歌は、夜をこめて鶏の虚音(そらね)ははかるともげに逢坂(あふさか)の関はゆるさじですが、この歌は行成とのやりとりから作られました。 枕草子第百三十一段に経緯が語られます。 頭の弁(行成)が中宮様のもとに参上され、私と雑談されていましたが、明日は天皇様の元に詰めなければというので退出なさいました。 翌朝「一晩中でもお話ししたかったのに、残念です、鶏の声にせきたてられて」と、みごとな筆跡のお手紙をいただきました。 「あの猛将君の偽の鶏でしょうか」とお返事すると「私の言うのは逢坂の関のことです」とお返しになった。 そこで「夜も明けぬのに、偽の鶏の鳴き声に騙された函谷関の関守ならいざしらず、私と逢う逢坂の関は通ることを許しませんよ。しっかりした関守がいますから」と申し上げました。 またすぐに、「逢坂の関は人が通りやすい関ですから鶏が鳴かなくても待っていてくださるとか…」とお返事がありました。 機知に富んだやりとりです。もちろん、文面通りのラブレターととるのは間違いです。 行成の筆跡があまりにも見事なので、僧都の君(隆円、定子の同母兄弟)が平身低頭して二通をいただき、二通を定子が手元に置いたと書いてあります。公の贈答であったことがはっきりわかります。 清少納言の歌も、居合わせた殿上人皆の評判になりました。このような当意即妙なやりとりは、定子サロンの好むところでした。定子自身が、明るく父道隆譲りのウィット、ユーモアに富む性格であっただろうこともうかがわれます。
December 6, 2023
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さびしさはその色としもなかりかりまき立つ山の秋の夕暮 寂蓮法師心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ 西行法師 西行法師すすめて、百首よませ侍りけるに見わたせば花も紅葉もなかりかり浦のとまやの秋の夕ぐれ 藤原定家朝臣「三夕(さんせき)の歌」というと、上に挙げた新古今和歌集の361~363の歌が有名です。いずれも「秋の夕暮れ」で終わる「あはれ(しみじみとした)」な思いを詠んでいます。大体の意味はそれぞれ 寂しさというのは秋の色(紅葉する紅や黄色)によるものではなかったのですね、常緑樹の立ち並ぶ山の夕暮れに感じ入るのですから。 出家した(世俗の思いから離れたはずの)わが身にもしみじみとした思いがすることです、鴫が飛び立っていく沢の夕暮れは。 見わたせば花が咲いているのでもなく、紅葉が見られるのでもない風景なのです(が、それが情緒豊かに思われる)浦の粗末な小屋の秋の夕暮れです。です。3首とも、紅葉の色が鮮やかな秋の風景から離れた情緒を歌っています。画・のび太 「秋の夕暮れ」で終わる歌は、この3首の前には359の物おもはでかかる露やは袖に置くながめてけりな秋の夕暮 九条良経の歌があり、直後の364にもたへでやは思ありともいかがせむ葎のやどの秋のゆふぐれ 藤原雅經があります。 冬へ向かう秋という季節に感じられる「しみじみとした」「哀しさ、寂しさ」が、夕暮れ時には、一層心を捕らえます。 この「三夕」からきたことわざに「身の三夕は秋の空腹」などというのがあります。「風流から遠いわが身には、三夕の歌ならず、秋(空き)の空腹を感じるだけだ」という意味です。秋→空き→空腹という発想。私も風流に遠く「馬肥ゆる秋」に近いも。
September 16, 2023
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府中市立郷土の森博物館の村野四郎記念館 村野四郎は昭和時代の詩人で、『鹿』は、教科書にも取り上げられることが多い詩です。この詩は簡単に言うと、銃を向けられた鹿の最期の時を予感させる詩です。 森の外れで、鹿は自分が狙われているのがわかりました。すっと立った彼の中で生きる時間が黄金のように光るのです。 自分の意思と関係なく、生から死へ移行させられようとする瞬間、生きている時間は輝いてみえます。けれど、待っているのは死。鮮やかな時間の輝きは何のためなのでしょう。 絶望と虚しさしかないような時間ですが、私たち生きるものは、例外なくこの生命の終焉に出遭います。生の中に潜む、必ず一回訪れる天命、その前になすすべもない小さな存在が私たちです。 ですが、『鹿』には絶望の暗さがありません。夕日の中に、大きな森を背にすんなりと立つ鹿は、絵のような美しさです。命を奪おうとする者に対して向けられたまっすぐな視線、そこには批判も自己憐憫もありません。 すっくと立つ鹿の視点は、作者の視点でもあります。村野四郎の詩には「犬」が登場します。謙虚に客観的に自分自身を眺めるための分身なのですが、ここでの「鹿」もそれに近いと分析されます。 行く手に待つ「無」へ回帰する運命は、戦争体験とも重なります。この詩は「鹿」を通して人間存在の本質を問いかけます。「詩は思想をイメージとして人間の感情に訴えてこなければならない。詩の魅力は、心象の美が読者に不意打ちをくらわせることにある。」というのが村野氏の言葉です。 『鹿』は、その美意識に貫かれた詩です。 引用及び参照元:現代詩文庫『村野四郎詩集』思潮社
May 27, 2023
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黒田三郎の詩集のうち、一般に受けがよかったものは、恋愛詩集といわれた「ひとりの女に」と、娘との生活を綴った「小さなユリと」だったのですが、しかし、皮肉なもので、僕自身が代表作だと思っていた詩集「時代の囚人」や詩集「渇いた心」よりも、こういうプライベートな素材の詩集(中略)のほうがはるかに世に評を得ているようである。と、黒田氏は書いています。 黒田氏の意に沿わなかったようですが、「小さなユリと」は、国語教材にもなり、親しみやすい詩集です。私のような素人にも入門詩としていいなと思います。 「夕方の三十分」に代表される詩群は、奥さんが肺結核で入院中の、父と幼い娘の生活を綴っています。娘への思いやりを持ちながら、ちょっともてあまし気味なオトーチャマが、生活に振り回されている感も伝わり、温かな詩です。 こまめに妻の見舞いに行ったように詩には書かれていますが、実際の黒田氏は月に1~2回酔っ払って病室を訪ねるだけで、大声を出すので、奥さんが恥ずかしくて困ったそうです。小さなユリが寝るのを待って毎夜飲みに出かける生活だったとか。 現実の生活体験からできた詩ではありますが、純粋な生活詩ではありません。「困ったオトーチャマ」だと黒田氏自身が述べています。それでも、この詩が読者を引きつけてやまないのは、黒田氏の誠実さ、生活にまっすぐ立ち向かう姿勢が本物だからでしょう。 引用および参照元:黒田三郎『赤裸々に語る詩人の半生』新日本出版社 黒田光子『人間・黒田三郎』思潮社
May 7, 2023
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はつ夏の空青ければいよいよにふかき紅みじかかる命と知りてこは艶によそふひなげし三好達治の詩です。随筆『ケシの花』から。 青空に映える色鮮やかな紅、紫、オレンジの花々を、三好達治は「羽化して空に舞いそうな四弁の花」と表現します。 マリーローランサンの絵を思わせる「儚げにして凜とした」花とも言っていますが、ポピーの色合いははっきりしていて、マリーローランサンのパステル調にも「儚げ」という言葉にも似つかわしくないと思うのですが。 花の色と茎葉の浅緑との対比の美しさは納得できます。カルフォルニアポピー(昭和記念公園) ケシは世界で150種類ほどが確認されています。 ケシの中でもソルニフェルム種とセティゲルム種は許可なく栽培できません。アヘンやヘロインをを採取できるからです。昭和29年の「あへん法」によって、医療用アヘン供給の適正化とアヘン中毒の取り締まりが定められました。シャーレーポピー(昭和記念公園) 花壇や庭に植えられる園芸種のポピー(ひなげし)からは当然アヘンは採取できません。日本で植えられる種は、シャーレーポピー(ヒナゲシ、虞美人草)、アイスランドポピー(シベリアヒナゲシ)、オリエンタルポピー(オニゲシ)が主です。 引用及び参照元:『花の名随筆5 五月の花』作品社から三好達治『ケシの花』
May 3, 2023
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落ちてきたら今度はもっと高くもっともっと高く何度でも打ち上げよう黒田三郎の詩『紙風船』から。 フォークグループ「赤い鳥」が歌ってヒットしたことと、教科書にも掲載されたことで、黒田三郎の詩の中でも一番有名な詩です。この詩のファンも多く、ほかの詩は知らなくても『紙風船』は知っているという人も多いかと思います。 難解な語もなく、シンプルなだけにまっすぐ心に届きます。 前向きに希望をもって努力する姿は、小学校の教材にもぴったりだったでしょう。 このあと詩は2行で終わります。美しい願い事のようにただの願い事ではなく「美しい」願い事というところにどきっとします。「お金が欲しい」「楽がしたい」というたぐいの願い事は高く打ち上げられません。 どんな願い事だったら「もっと高く」打ち上げる価値があるのだろう、詩を読む人はそこを問われているのではないかと思いました。 黒田氏自身はこの詩をそんなに評価していません。三十代後半から四十代前半、後半にかけて、詩集は「もっと高く」「ある日ある時」にまとめた程度で、精彩を欠くようである。という記述もあります。「精彩を欠く」と言われた「もっと高く」の中の一編が『紙風船』です。 この詩は、黒田三郎が50歳でNHKを退職して、生活するために私立大学の講師や、職人仕事(絵や写真に添える詩を書く。校歌の作詞)を引き受けていたときの詩です。 妻である黒田光子さんの『人間・黒田三郎』に「紙風船」の詩などもこのたぐいで、バスに揺られながら5分位で作ってしまったという作品とはっきり書かれています。 雑誌『婦人生活』の巻頭口絵の写真に添えられた詩全4ページのうちの1作品で、子供たちが紙風船で遊ぶ写真に合わせて添えられた詩でした。キャッチコピーのような感覚でしょうか。 ですが、文学は受け手側がどう受け取るかで作品の価値が決まります。職人仕事からできた作品でも、5分でできた作品でも、多くの人の心をつかんだ『紙風船』は価値のある作品であることに間違いはありません。 吉野弘氏は、『現代詩入門』で『紙風船』を取り上げて現実には落下という必然を超えて高まることはないが、ありえないにもかかわらず、あえて必然に逆らい、超えようとする矛盾の実現、そこにこの詩の美しさがある。と書いています。 「もっともっと高く」とありますが、打ち上げるのは紙風船です。どんなにがんばっても限度があります。力を入れすぎれば破れてしまいます。現実にはあっけなく落ちてきてしまう紙風船だとわかっていても、子供たちは「今度こそ」「次は」という思いで打ち上げます。 同じように、かなえられなくても「もっともっと高く」「何度でも」打ち上げるものがあること、打ち上げる意志があること、の大切さをこの詩は教えてくれます。 引用および参照元:黒田光子『人間・黒田三郎』思潮社 吉野弘『現代詩入門』青土社
April 29, 2023
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五島美代子は幼少時から古典に親しみ『こころの花』に入会した歌人。母が校長を務める晩香女学校の教諭になり、後に校長職を継ぎました。 二人の娘の母となりましたが、長女ひとみは東大在学中に自死、急逝しました。長女を歌った歌も多く残しています。生きむとする吾子の思ひにひた向ひかしこみ朝の胎動をきく命を宿した母親としての思いが伝わります。命を育むことの尊さに、身の引き締まる思いがします。ほのぼのと明くる光に目をあはせ今は親ぞとわれをおもふ初めて我が子に会い、顔を見る瞬間は最高の感激。本当に痛みは全て忘れます。せい一杯両手を伸して抱かれようとする子は月に向かふ草花のやうに幼児期の全面的に親を信頼する子に、親も全霊で答えようとします。親よりもたしかなるもの何か持ちて何もたのまずと子は言い切るかまもらるる安さ憎みておもひきりゆがみたることも子は言い放つ成長した娘は、母と異なる自分自身を強く持っていきます。戸惑いながら、反目し、悲しみ、やがて受容しようとする母。しかし、心の内を告げることなく長女は急逝してしまいます。この向きにて 初(うゐ)におかれしみどり児の日もかくのごと子は物言わざりし亡くなって安置された娘。この世に生まれてきたときも、同じように寝かされ物言わぬ娘でしたが、その時との落差が悲しみを誘います。花に埋もるる子が死顔の冷さを一生(ひとよ)たもちて生きなむ吾か娘の苦しみを救ってあげられなかったのかという気持は一生母親としての自分の中に残ります。癒えることのない傷を、この後も五島美代子は歌にし続けました。亡き子来て袖ひるがへしこぐと思ふ 月白き夜の庭のブランコ 初めて目にした五島美代子の歌がこの歌でした。まだ子どもだった娘を亡くして、何年も経っていないときに詠まれた歌だと思っていました。実際は大学生になったお嬢さんだったのですね。 どこまでも愛情深く一途な母であった歌人です。4月15日が命日に当たります。 引用及び参照元:五島美代子『現代短歌大系3 新輯・母の歌集(完本)』三一書房
April 15, 2023
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「僕の心のなかでは道というものがひとつのシンボルとなっているらしく」と、黒田三郎は『生いたち』の中で語ります。第1詩集『失われた墓碑銘』でも、次いで『時代の囚人』でも巻頭詩は『道』です。 どこかに通じているはずの「道」は、逃れられない現実に帰ってくるだけです。それなのに いつも道は僕の部屋から僕の部屋に通じているだけなのである (『道』)俺は明日もこの道を行っては帰ってくるのか (『一枚の木の葉のように』) 黒田三郎は人間的に生きることを妨げるものを訴えながら、人生の始まりから終わりまで一本の道を歩き続きました。英雄になるでもなく、反旗を翻すでもなく、事実を事実ととらえ表現する人生でした。 彼は、戦争の足音の中で育ち、組織・集団・権力といったものには批判的でした。それぞれがそれぞれの中に違った心をもってそれぞれの行先に消えてゆくなかに僕は一個の荷物のように置き忘れられて僕は僕に与えられた自由を思い出す (『道』) 一人の人間の命の重さは地球より重いと言われますが、黒田氏の詩も、どんなひとりも、全世界と釣り合うほどの価値を持つという思いで、ひとりの失われた命が無名の「1」として報道されることに怒ります。 人間が人間として生きること、より人間的に生きることを愛した詩人でした。右に行くのも左に行くのも僕の自由であるすべてのものの失われたなかにいたずらに昔ながらに残っている道に立ち今さら僕は思う (『道』) 引用および参照元:『黒田三郎 詩集』思潮社現代詩文庫
April 2, 2023
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3月27日は島木赤彦の命日です。諏訪湖 赤彦は明治から大正時代のアララギ派歌人。歌のたしなみがあった祖母の教育で、五歳で百人一首を暗誦できたそうです。 短歌・俳句のほか島崎藤村に傾倒し、詩作にも励みました。正岡子規の流れをくむ『アララギ』で歌人として活躍し、後に北原白秋、前田夕暮らと『日光』を創刊、「鍛錬」「一心集中」ということを唱えました。 胃がんのため大正15年3月27日にに自宅で亡くなりました。我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる3月21日の詠。この歌が最後の歌になりました。斎藤茂吉に書き取らせたそうです。 犬も飼い主の死期を感じ取ったのでしょうか。赤彦のそばに見当たらなくなります。その犬を今晩も思い出しながら就寝するのです。梨畑に遊ぶ犬をり七十年行方不明の赤彦の犬 小島ゆかり 2月、病床にあって、隣室のこどもたちを思う歌は切ないです。隣室に書(ふみ)読む子らの声きけば心に沁みて生きたかりけり 赤彦の死は『アララギ』の一時代の終焉を意味しましたが、『歩道』『塔』『未来』と分かれた結社が多くの歌人を育てています。 引用及び参照元:斎藤茂吉・久保田不二子・選『赤彦歌集』岩波文庫 『小島ゆかり歌集 憂春』角川書店
March 27, 2023
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武士・軍人の最期を美化するため、散り際の潔さが利用された「さくら」、戦後長らく尾崎左永子氏は桜の歌が詠めなかったそうです。改めて、深く傷つきながら詠んだ桜の歌群が歌集『さくら』に多く納められています。ひめゆり部隊世代のわれは残り生(よ)の一日のさくらおろそかに見ず呼び返す声に答へず手を振りて桜の下に訣れたりしか戦中戦後わが自分史のいづこにもさくらの記憶ありてかなしむ 小学校・中学校と大抵の学校には桜の木が植えられ、桜の花は入学・卒業の記憶と重なります。新しい環境へ一歩踏み出すときの不安と輝かしさと。生命力の豊かさを感じさせてくれる桜には「咲き満ちる」という言葉がぴったりです。淡々と心に愁ひきざすまでさくら咲きみちてもの言ふごとしいのちひらく時いま満ちて朝ざくら風にかがよひて光が浄し 毎年の約束のように咲く花は、1年1年の自分の歩みとも重なります。このごろは、若い頃は考えてもみなかった「あと何回桜を見ることができるだろう」という考えも浮かびます。「残り生」と思うと、桜が限りなく愛おしく思えるのです。 引用及び参照元:『尾崎左永子歌集 さくら』角川書店
March 20, 2023
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傷…ショウ、きず、いた(む)、いた(める) 大伴家持春の苑紅匂ふ桃の花下照る道に出で立つ処女 万葉集最後期の歌人、大伴家持は、平安時代のごく初め、桓武天皇治世の早い時期に亡くなっています。有名歌人ですが、詩は平凡という評価もありました。 多作なので、中には凡作が交じっているという事実もありますが、家持以前は、歌に詠まなかったような平凡さに価値を見つけ、光を当てたのが家持であったと、折口信夫は述べておられます。春の野に霞棚引きうらがなしこの夕かげに鶯鳴くも 家持以降、寂寥・孤独を取り上げて文学にすることができると知られました。古今集につながる感傷の世界が開けたのです。悠々(うらうら)に照れる春光(はるひ)に雲雀揚(あが)り心かなしもひとりし思へば 参照元:藤井貞和 編『折口信夫古典詩歌論集』岩波文庫
March 10, 2023
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おもふことみなましぐらに二月来ぬ 三橋鷹女 二月には、とがった、鋭い、直線的なイメージがあります。刺すような寒さ、ぴんと張った空気のせいでしょうか。 二月の別名はいろいろありますが、「如月(きさらぎ)」が一番有名でしょう。「如月」は中国の二月を表す漢字で、「きさらぎ」と読ませるのは、日本の古来から使われてきた言葉を宛てたものです。 「きさらぎ」の由来にはいろいろな説があります。「寒さから、衣をさらに重ねて着る」から「きさらぎ」になったなどです。大倉山梅園 三月 旧暦二月は今のほぼ三月に当たり、梅の花の咲く月なので、「梅見月」の別名もあります。梅はほかの花に先駆けて咲く花なので「初花月」というきれいな名も。 「雪消月(ゆききえづき、ゆきけしづき)」も三月と考えるとわかります。 陰暦二月は春の半ばになり、「仲春」「中の春」「仲の月」の呼び方もあります。 「令月」は二月の別名でもありますが、ほかに「何をするにもよい月。めでたい月。」という意味もあります。 中国では、冬至を含む月(旧暦十一月)に北斗七星の取っての先が真下(北の方向)を指します。そこで、十一月を十二支のはじめをとって「健子月」と呼びました。十二月が「健丑月」翌一月が「健寅月」そして二月は「健卯月(けんぼうつき、けんうづき)」になります。 今日から二月です。 引用元:三橋鷹女『現代俳句の世界11』朝日文庫
February 1, 2023
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…とけてゆく雪のまるみ屋根の上の雪も 枝枝に残る雪もおだやかに ふっくらとまるみを見せてとけてゆく雪よ あなたは自分を失っていくというのに高田敏子の詩『まるみ』から。 高田敏子は昭和時代に活躍した詩人。モダニズムから、女性の日常生活に根ざした平易な作風に転身して「お母さん詩人」「主婦詩人」と呼ばれました。 大中恩、中田喜直の作曲で歌曲、合唱曲の詞にもなっています。 枝に溶け残った雪はこんもりとしています。屋根の雪も溶けるときは角が取れています。自分の存在が消える時に、ことさら角を落としていく姿には考えさせられます。 この連の最後「自分を失っていくというのに」の一言がこの詩の中で一番好きです。わたしの終わりはこんな風にまるくなれないだろうな…。 引用及び参照元:高田敏子『夢の手』花神社 から『まるみ』
January 24, 2023
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ほろび行くものの姿や松の内元日の門を出づれば七人の敵 高浜虚子の句です。松の内というめでたさにそぐわぬ「ほろび行くもの」の姿とは?踏襲される古来の慣習のことなのでしょうか。 「円き顔瓜実顔や松の内」と、人が集まる正月の賑やかさがうかがわれる句も残っていますが。 「美しきことはよきもの松の内」は、虚子の次女、星野立子の作。モダンな門松 虚子は柳原極堂から引き継いだ『ホトトギス』を興隆させ、大正から昭和にかけて俳壇=ホトトギスというほど勢力を伸ばしました。俳壇に君臨したからこそ「七人の敵」だったのでしょうか。 平和な句より考えさせられてしまいます。 参照元:『虚子五句集(下)』岩波文庫
January 1, 2023
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寺田寅彦は、明治から昭和時代にかけて活躍した物理学者であり、随筆家、俳人でもあります。 地球物理学、X線の結晶透過、金平糖の角の研究などを行う一方、夏目漱石の影響を受け、多くの随筆と俳句を残しています。 物理学という科学の分野と文学は、かけ離れた場所にあるように思いましたが、湯川秀樹も短歌を作っています。 科学の目で自然をみつめ、詩歌の美しさをより感じる、面白い寅彦の随筆がありました。 『思い出草』 「落ちざまに虻を伏せたる椿かな(漱石)」 漱石らしいユーモラスな句です。花ごと落ちる椿が、虻を巻き込んで地にうつぶせになっていたというのです。花から虻がにじり出てきたか、花を持ち上げたら虻が飛びだしたのか、思いがけないことに、おやっとしたところから作られた句でしょう。 この句の、落ち椿と虻の関係を、寅彦は「空中反転作用の減」という点から解説してくれます。 椿の花は仰向きに地面に落ちます。落ち始めはうつ向きでも、花の形に対する空気抵抗、花の重心の位置などの物理的条件から空中で回転して仰向きになるのです。 ここで、虻が花にしがみつくことで重心が移動し、花は「虻を伏せたる」形になるのではないかと寅彦は予想します。実際実験した結果を論文に残しています。 自分は物理的な考察により、自然現象の現実性が強められ、詩の美しさが高まるような気がする。物理学者の鑑賞眼がおもしろいと思う随筆でした。 12月31日は寺田寅彦の命日です。 参照元:小宮豊隆・編『寺田寅彦随筆集 第四巻』岩波文庫
December 31, 2022
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福寿草は別名「元旦草」とも言い、正月の飾り花として重宝されました。 幸田露伴も『花のいろいろ』で、小さな鉢に植えて1月の床の間に飾ることが定着しているようだと言っています。福寿草の鉢をおきかふる幼子や縁がはのうへに移る日を追ひて福寿草の莟いとほしむ幼子や夜は囲炉裏の火にあててをり福寿草のかたき莟にこの夕息ふきかけてゐる子どもはや 島木赤彦の歌。 幼い子どもが遠くまで行って買ってきた福寿草の鉢の歌です。 なかなか花開かないので、幼い子は、日光が当たる場所に鉢を移動させたり、囲炉裏のそばに置いて暖めてみたり、花が開くようにと一生懸命です。「しはす」の題が付いているので、お正月の飾り花になるのでしょう。 純粋な子どもの心と、見つめる父、赤彦の心が伝わってきます。花の名の通り、幸福と長寿を祈りたくなります。 引用及び参照元:斎藤茂吉 久保田不二子・選『島木赤彦歌集』岩波文庫 『幸田露伴全集 第29巻』岩波書店から『花のいろいろ』
December 30, 2022
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12月20日は「ブリの日」です。 12月は別名「師走」。ブリは漢字で書くと「鰤」さかなへんに「師走」の「師」です。そこで12月に。 20日は2(ふ→ぶ)+0(輪りん→り)の語呂合わせで、この日になりました。 結構大変なこじつけ…に思えますが。 まあ、冬は寒ブリのおいしい季節です。 「ブリ」の名前には、脂がのっていることから「あぶら」→「ブラ」「ブリ」になったという説もあれば、身が「ブリブリ」しているからという説もあります。 ブリは、大きさによって呼び方が変わる出世魚。関東の場合だと、モジャコ→ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリと名前が変わります。養殖物を「ハマチ」天然物を「ブリ」と呼んで区別する場合もあります。 出世魚で縁起がよいことから、故郷長野では、照り焼きを正月のお重に詰めていました。 近隣の富山県、石川県、さらに新潟県の佐渡で自治体の魚になっているそうです。午後の雨がつつめる家にわれはわが包丁を磨ぐ 鰤を待たせて佐佐木幸綱 四句までは何ともない日常の光景です。さらっと読んでいると最後の句で脚を払われたような感覚になります。お待たせ、鰤さん。思わず笑顔になる歌です。 引用元:『佐佐木幸綱歌集 百年の船』角川書店
December 20, 2022
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葉牡丹の渦のまんなか我が一生 三橋鷹女 私たちは、自分の人生を自分の思うように生きているつもりですが、上から俯瞰したら、ほんの小さな世界をくるくると生きているだけなのかもしれません。 葉牡丹は、アブラナ科の植物で、葉を「牡丹」の花に見立てた命名です。葉が冬季の花壇の彩りになります。 花は4~5月に開花しますが、大体それまでに刈りとられてしまいます。 参照元:『現代俳句の世界11』朝日文庫
December 10, 2022
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「十二月八日」とふ日にかすかなる反応をする世代ぞわれは岡井隆 昭和16年12月8日午前3時19分、日本軍がハワイ・オアフ島の真珠湾のアメリカ軍基地を奇襲し、3年6ヶ月に及ぶ太平洋戦争が勃発しました。 この日が「太平洋戦争開戦記念日」です。 私たちの世代も既に戦後派。終戦記念日は覚えていても、「十二月八日」には反応できない世代かも。ながらへて九条の改悪見んとするいのちとはかく不条理なもの岩田正 引用および参照元:岡井隆『鉄の蜜蜂』角川書店 岩田正『泡も一途 岩田正歌集』角川書店
December 8, 2022
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柿捥ぎて柚子もぎて秋明るさをもぎて静かに土におくなり平凡の思想きらへど柿の木に柿は実りて世をたのします 馬場あき子 柿や柚子が秋の明るさという感覚が新鮮です。 桃栗3年柿8年。柿の木は生長して実をつけるまで8年の歳月を必要とします。そして、1年の時をかけて今年の実をつけます。 実りの秋は輝いています。毎年の約束を守ってくれる大地に、土に感謝です。「薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花サク。 ナニゴトノ不思議ナケレド。」 は、北原白秋の詩『薔薇二曲』の一節。柿の木に柿が実るのも至極当たり前なのですが、この平凡が世の中を豊かにします。 奇をてらうことだけが全てではないのは、馬場氏の思想でもありましょう。 引用元:馬場あき子『歌集 葡萄唐草』立風書房
November 18, 2022
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与謝野晶子の、ことさら「女性であること」を強調した歌は好きではありませんが、教科書にも載る銀杏の歌は鮮やかに印象に残っています。金色の小さき鳥のかたちして銀杏散るなり夕日の岡に与謝野晶子何より彩りの輝かしさが印象に残ります。マンダリン・オレンジ色の夕日が当たる場所に、きらきらと黄色い葉が落ちてくる絵が浮かびました。いちょう並木(横浜) 黄色く色づいた葉がはらはらと散ることを「黄落」と言います。この季節が「黄落期」です。銀杏散るひと葉ひと葉の独楽(こま)まはりくるくると前世来世がまはる小島ゆかり 落ちてくる銀杏の葉を、晶子は「小さき鳥」にたとえ、小島ゆかりは「独楽」にたとえます。 小島ゆかりの歌は、三遊亭圓生の「水神」をモチーフにした歌群の一首目。銀杏の落ち葉がくるくる回る人混みの中、縁日で店を出す女がいて、赤ん坊を抱いた杢蔵が通りかかる場面です。 くるくる回る銀杏の葉に、くるくる回る運命が重なります。私たちの人生もくるくる回る銀杏の葉のようなもの。 引用元:『小島ゆかり歌集 憂春』角川書店 与謝野晶子『恋衣』
November 11, 2022
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「灯火親しむ」というと読書に励むことを指します。 元は韓愈の詩『符読書城南詩』の…燈火稍可親、簡編可卷舒。……灯火稍(ようや)く親しむべく、簡編可巻舒すべし。…から来た言葉で、「秋の初めの涼しさがやってきたら、灯りをともして書物を巻いたり広げたりと、読書に励むのがよい。」というような意味でした。昔の「本」は巻物でしたから、巻いたり広げたりして読むわけです。 韓愈は白居易と並ぶ中唐の詩人ですが、散文の文体革命を行ったことで有名です。李白と杜甫を尊敬し、その詩風を継承しました。運命をかけた大勝負をするという意味の『乾坤一擲』も出典は韓愈の『過鴻溝(鴻溝を過ぐ)』です。 「灯火親しむべし」の語は、漱石の『三四郎』にも見られます。 三四郎の帝大の同級生に、三四郎と共に広田先生を尊敬する与次郎という男がいます。「そのうち与次郎の尻が次第に落ち付いて来て、灯火親しむべしなどどいう漢語さえ借用して、嬉しがるようになった。」と書かれます。漱石の頃には既に「灯火親しむ」は漢語として定着していたようです。 参照元:幸運社・著『四季の言葉 ポケット辞典』PHP文庫
October 25, 2022
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読むつもりで買ひ込んだ本いつのまにか消えて行くほかの本に食はれてこれから読む予定の本をかたはらに積み上げて 一寸 淡い虚しさ岡井隆 何だか笑ってしまいます。身に覚えのある苦笑いです。 口語でわかりやすい歌で同調できます。しかし「ほかの本に食われて」の表現は誰にでもできるものではないですね。 「一寸」の前後の空白も、心境がしっかり伝わってきます。 内容は誰もが経験することかも知れませんが、表現は非凡です。 買ったら同じ本が棚にあったとか、図書館で同じ本を何回も借りてしまったという経験も、あるあるです。若い頃はこんなことなかったんですけどね。 それでも、本がある生活はやめられません。 10月23日から11月9日は読書週間です。この機会に読書習慣を。 参照元:岡井隆『銀色の馬の鬣』砂子屋書房
October 23, 2022
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王林は青いやさしい酸をもて北より届くひとすぢの水尾みちのくの林檎歯に当つくれなゐの一つはぴしと雪凍る音 馬場あき子 王林は、黄緑色の果皮の表面に茶色の果点があるため、「そばかす名人」の名もあります。「ナシリンゴ」とも。ゴールデンデリシャスと印度りんごの交配種です。 紅系のりんごのように色づきを気にせず栽培できるため、生産者にも人気の種だそうです。「ふじ」「つがる」に次ぐ生産量を誇ります。 昔のりんごたちに比べると甘味が強く感じられますが、紅りんごに比べると「青いやさしい酸」味です。 紅のりんごは、「つがる」か「ふじ」でしょうか。歯に当たったりんごが「ぴしと雪凍る」音を立てるというのは、雪のある地方で過ごしたことがないと実感できない表現です。 しゃきっとした歯ごたえは、寒い地方からの贈り物です。 参照元:馬場あき子『歌集・葡萄唐草』立風書房 『馬場あき子歌集 鶴かへらず』角川書店
October 14, 2022
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海や川などで、木くずが一所に流れ寄せられることがあります。これを「(木積)こつみ」と言うそうです。(天盤を支えるために、坑木を井桁状に積み上げることを指す「木積(こづみ)」という言葉もありますが、それとは別です。) 「こつ」は万葉集では「許都」とい書かれ「くず、ごみ」の意味。「み」(万葉集の「美」)は「水」のことです。堀江より朝潮満ちに寄る木屑(こつみ)貝にありせばつとにせましを(堀江から朝潮が満ちてくると流れよってくるこの木屑が、真珠を宿す貝ででもあれば土産にしましょうが。)大伴家持 (万葉集)流れ寄るのが木屑であればまだいいのですが、現代ではポリ袋だったりします…
October 3, 2022
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山茶花や世の身勝手もみつくして今朝の寒さに咲く意志を持つ人招く力をもてる一碗の茶の小さなる席の山茶花 馬場あき子 園芸種の山茶花は寒さに強く、真冬でも鮮やかな花を咲かせます。凜とした意思を持って咲く花という印象があります。どんな「世の身勝手」を見てきたのでしょう。 山茶花は正式なお茶席には使わないという説?流派?もあるようです。「茶」の字がつくからか? 「茶」には人と人を結ぶ力があります。茶道のお作法はただの「型」ではありません。どういう動作をしたらお客さんに気持ちよく見てもらえるか、どういうしつらえがお客さんに喜んでもらえるかという、おもてなしの心からできた「型」です。 たとえば気温が低い季節は、火が直接見えて目にも暖かい「炉」を用いますが、気温が上がる季節には、直接火が目に入らない「風炉」を用いるというように。 寒い季節に目にする山茶花の紅は、何とも暖かな色です。 参照元:『馬場あき子歌集 鶴かへらず』角川書店 『歌集・葡萄唐草』立風書房
October 1, 2022
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小学校の国語の教科書に三好達治の詩が載っていました。蟻が蝶の羽を引いていく様子を、ヨットのようだと例えた詩「土」です。 たった4行の詩なのですが、比喩が効いていて、陸上から海上への空間の広がりが感じられる詩です。蝶よ 白い本蝶よ 軽い本…と、軽やかに飛ぶ蝶を本に例えた詩「本」も、4行の中にすうっと水平線までの空間が広がります。 参照元:『三好達治全集 第一巻』筑摩書房
September 21, 2022
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女郎花咲きみだれたる野辺のはしにひとむら白きをとこえしの花若山牧水女郎花 牧水は『秋草と虫の声』で、最も早く秋を知らせる花として女郎花を挙げます。女郎花が1本で咲いても群れて咲いても悪くないのに対して、男郎花は余り群れない方がよいと言います。 女郎花と男郎花は似た花形ですが、たおやかな女郎花に比べると、男郎花のほうが芯が太い感じがします。女郎花霧に咲き男郎花霧を抽(ひ)く 水原秋桜子「抽く」は、ぬきんでる、引き出すの意味です。女郎花が霧の中に受動的に咲くのに対して、男郎花は霧をぬき、能動的に咲くという対比でしょうか。 参照元:『日本の名随筆94 草』作品社 から 若山牧水『秋草と虫の声』 堀口星眠・選『現代俳句の世界2 水原秋桜子集』朝日文庫
September 16, 2022
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8月22日は島崎藤村の命日に当たります。藤村は小説家のほか詩人としても有名で、「千曲川旅情の歌」の「小諸なる古城のほとり…」はよく知られます。 「常盤樹」という詩もあります。常盤樹の枯れざるは百千の草の落つるより傷ましきかな 落葉樹は、葉を落として再生します。生き返ったときの若葉は鮮やかです。 対して、常緑樹は落葉することなく、常に同じ色で立ち続けなければならない。何かを振り捨てて新しい自分になることはできない。人と重ねて考えると、大変なことかもしれないと思います。おごそかに立てよ常緑樹 参照元:島崎藤村『藤村詩集』岩波文庫
August 22, 2022
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花火の輪どんとどどんと爆ぜ重ね夜空しだいにしぼみてゆけり馬場あき子 コロナ禍で、大規模な花火大会は中止になることも多いのですが、夏空に上がる花火は見応えがあります。 「どんとどどんと」がいいなと思います。「爆ぜ重ね」る花火は日本特有のものです。外国では「どんと」1回爆ぜて終わり、その後はまた次の「どんと」というのが、打上花火だそうです。 花火が終わるときの空、確かに空までしぼんでいくような感じがします。見る人の心も重なるからでしょう。 花火の残像が残るように、心に残る一首です。 参照元:馬場あき子『阿古父』砂子屋書房
August 11, 2022
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地球ほろびて未知なる星に目覚めたるごとし爽昧(あけぐれ)のかなかなの声 馬場あき子 「かなかな」は蜩(ひぐらし)、カナカナ蟬。六月下旬から七月に発生し九月中旬ごろまで鳴きます。鳴くのは朝夕。寒蟬、秋告げ虫とも言い、秋の季語です。どこかはかなげな鳴き声が秋のイメージなのでしょうか。 「爽」は明るい、「昧」は暗い意味で、「爽昧(そうまい)」は夜明けの意味になります。「あけぐれ(明け暗れ)」は夜明け前のまだ薄暗い時分。 ミンミンゼミの声だったり、昼に聞く蟬の声では「未知なる星に目覚めたる」ような気分にはならないですね。 参照元:『馬場あき子歌集 鶴かへらず』角川書店
July 31, 2022
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どくだみの白けつぺきの匂ひもて人遠ざくる道までは来つ 馬場あき子 東京府出身の歌人、能作者、馬場あき子氏の一首です。「潔癖の匂い」が心に落ちます。 ドクダミは特有の匂いがあって、名前も「毒」がつくので敬遠されますが、毒があるどころか生薬として活用されてきた薬草です。白い十字の花びらに見える部分は苞で、中央の穂のような部分が花です。あぢさいも薔薇もその色衰へて晴れゆく風のいかにさびしき 馬場あき子 紫陽花が似合う長雨の季節が明けると夏です。 参照元:馬場あき子『歌集 葡萄唐草』立風書房
June 15, 2022
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大学に入って間もない頃、史学部の先輩が「これ何のことかわかる?」と謎をかけてきました。二つ文字牛の角文字直な文字歪み文字とぞ君は覚ゆる「恋しく思っています」が正解で、幼い娘が父親へ送ったラブレターです。 出典は『徒然草』第六十二段。後嵯峨天皇の第二皇女、悦子内親王が幼くしていらしたとき、父君がいらっしゃる仙洞御所に参上する人に言付けたラブレターだそうです。父君がメロメロになりそうな…。 引用および参照元:吉田兼好 島内裕子・校訂・訳『徒然草』ちくま学芸文庫
March 23, 2022
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何となく、今年はよい事あるごとし。元日の朝、晴れて風無し。 石川啄木正しくも時の歩みやお元日 松本たかし 引用元:石川啄木『悲しき玩具』 『現代日本文學大系95 現代句集』筑摩書房 から『松本たかし句集』 今年こそ穏やかな時の中を歩めますように。
January 1, 2022
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亡びてしまつたのいは僕の心であつたろうか、亡びてしまつたのは僕の夢であつたであらうか (生前未発表詩篇「昏睡」から) 10月22日は、中原中也の命日です。 中也は亡くなる前の年の冬、鎌倉に移り住みました。その前年には長男の文也が亡くなり、中也は発狂状態に陥ったといいます。 「亡き文也の霊に捧ぐ」と記された詩集『在りし日の歌』の原稿は小林秀雄に託され、中也の死後刊行されました。 中也は心の奥底にある深い悲しみを詩で語り続けました。「たゞ私の個性が詩に最も適することを、確実に確かめて日から詩を本職としたのであつた。(「在りし日の歌後記」)」 しかし、詩でさえその悲しみを昇華させることはできませんでした。 倦怠(中也は「けだい」と読ませ「懈怠」の意味で用いています)の谷間にある自分から、世間に対立する苦悩、人生に衝突し社会から離脱する悲しみと、時を経ても悲しみから抜けることはできませんでした。 小林秀雄は中也を「詩人というより告白者」といいます。自己の最も秘密の部分をあえて人に伝えたい欲求から抜け出せなかったと。なんにも訪なふことのない、私の心は閑寂だ。 (「閑寂」から) 空に雲雀が上がる4月、庭の小鳥、光に溢れる平和で美しい風景が広がる中、取り残されたような私の心は孤独です。 有名な「一つのメルヘン」も、悲しみを示す言葉は1つも出てこないのに、「さらさらと」差す陽、流れる水を通して透明な悲しみが透けて見えるようです。メルヘンは、遙か彼方の物語だと言われているようです。 私たちは中也ほど不幸を負っていないかもしれません。子を失う不幸とも病苦とも無縁かもしれません。ですが、普段思い思い出すこともない、心の底にある悲しみが、中也の詩に揺さぶられるような気がします。 引用及び参照元:『中原中也全詩集』角川ソフィア文庫 絵はのび太・画
October 22, 2021
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ひぐるまのかたへに深きわが憂ひうれひ近づくそのひぐるまにひぐるまは地にくろきかげおとしたりそこを踏みゆきし寂しき我は 向日葵は明るいイメージが強い花ですが、ここでは向日葵の影に焦点が当てられます。 夏の日差しの中、光を浴びる向日葵ではなく、地面に落ちた影に目をとめて、私はひぐるま(向日葵)の影を踏んで歩いて行くのです。向日葵の花と空の光が明るいだけに、影の暗さが際立ちます。喀血の報せ握れり眼の前にかがやきくらしひぐるまの花このとき、作者は愛しい人が喀血したという報せを受けていました。 多くの若い命が結核という不治の病で失われた時代でした。作者の大熊長次郎もまた、結核に罹り闘病の苦しさの中、睡眠薬自殺を遂げました。さきはひをつねの日享けて生けりよと思ひしものをいまはむなしき 医学の進歩によって、結核は不治の病ではなくなりました。ですが、その時代の医学では治せない病気は常に存在します。 同様に、医学の進歩をもっても、完全に障がいをなくすこともできません。過去なら助けられなかった生命を救えるようになったことによって、後遺症も一定数残るからです。 病苦で自殺する方がないように、手厚い支援を望みます。 引用および参照元:『現代短歌全集 第五巻』筑摩書房 から 大熊長次郎歌集『蘭奢待(らんじゃたい)』*「蘭奢待(らんじゃたい)」は東大寺所蔵の黄熟香の別名。作者は少年時代、友人とこの名前の雑誌を作っていました。
August 5, 2021
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わが幼子頬熱くして立つ見れば蟇(ひき)ひとつなぶり殺ししところ子ども時代の残酷性は、一時の通過点だといいます。父親である国世氏はどう対応したのでしょうか。今日一日怒らざりし我を思いつつ遊び疲れし子を歩ましむ真剣に子どもと向き合ってしつけをしている父親像が浮かびます。歌集『真実』には子との関係を歌った歌も多く出てきます。まつわりて騒ぐ子供らを嘆きつつ幾年かここ物書きて来ぬ家のうちいづこに居てもきこえ来る子の恐れなき声を愛撫す子育てする上で大切なことを伝えていると思われる歌。やうやくに性(さか)見え来る子供らに多くを望むことなくなりぬ私はこれができなくて失敗したので。 7月30日は歌人でありドイツ文学者でもあった高安国世の命日です。 引用および参照元:『現代短歌全集 第十巻』筑摩書房
July 30, 2021
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生きのこるわれをいとしみわが髪を撫でて最期(いまは)の息に耐えにき吉野秀雄の『寒蟬集』から。 妻、はつ子は胃を病んで鎌倉の佐藤外科入院に入院しましたが、8月の終わりに4児を残して亡くなりました。死にゆく自分の苦しさより、残される者への心遣いを伝える妻の仕草に、哀しみが募ります。病む妻の足頸(あしくび)にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし物食はむ力もつきし汝が膳をいきどほりもちて我はむさぼる無邪気に母にまとわる子、次第に弱っていく妻、そして訪れる死。事ついにここにいたりぬ死床(しのとこ)の敷布の襞をわれはみつむる 冒頭の歌は、後の回想のように詠まれた歌ですが、死を前に妻が肉体関係を迫るという、壮絶な愛の歌もあります。互いの愛情の深さがうかがわれます。真命の極みに堪えてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれこれやこの一期のいのち炎(ほむら)立ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹うらやましい愛情の深さです。 後に吉野秀雄は再婚しましたが、その婚礼の席でこう詠みます。この世に二人の妻と婚ひつれどふたりは我に一人なるのみ 亡き妻の死を詠んだ『短歌百余章』で歌人としての地位を確立した吉野秀雄は、生涯結社や流派に属することなく独自の歌風を貫きました。子規の『竹乃里歌』を手本に歌作を始め、會津八一を師と仰ぎましたが、自分の道をしっかり歩いた人です。歌風は写実的、万葉集への傾倒もみられます。 7月13日は吉野秀雄の命日です。 参照元:『現代短歌全集 第十巻』筑摩書房
July 13, 2021
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紫陽花は咲きあふれたり月光(つきかげ)の青きひかりは庭にかがよふ朝風は閃(ひらめ)くに似てすがしけれ紫陽花の露をふきこぼしたり紫陽花のある風景を爽やかに詠んだ歌に思えますが、実は連作の中間にわが眠りいずくに求(と)めむけふのたより友の二人が血を喀きにけりの歌が挟まれています。 月が輝く(=「かがよふ」)庭に今を盛りと咲く紫陽花、あふれる生命を目にする作者の元に、友の喀血の報せが届きます。 当時、肺結核は不治の病です。喀血は死の予感を感じさせます。 眠れぬ夜を過ごした作者の目前に広がる情景は、あくまでも爽やかです。かなしみは露になって吹きこぼれます。 作者の大熊長次郎自身も結核を罹患していました。アララギ会員になり、古泉千樫に師事し、「日光」同人を経て後に「青垣」を創刊しました。 参照元:『現代短歌全集 第五巻』筑摩書房
June 26, 2021
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5月11日は、川端茅舎、中村草田男と並び称される俳人、松本たかしの命日です。 松本たかしは能楽師の家に生まれましたが、病気のため後継者になれず、高浜虚子の門下に入り俳人として活躍しました。 その句は、写生でありながら用いる語は詩的で、空想化された句とも受け止められると、師である虚子は評しています。ものゝ芽のほぐれほぐるゝ朝寝かな深い観察の上に主観が土台となって生まれる句(虚子解説)。 「ものの芽」は春の季語です。木の芽、草の芽、いろいろな植物が芽吹きやわらかく伸びてくるのを感じると、朝寝をする自分も心がほぐれてくるような…春の柔らかな雰囲気です。かずかずの物芽(もののめ)の貴賤おのずから同じ「もののめ」の句ですが、植物でさえ生まれたときから貴賤が決まっているといいます。人もまた然りでしょうか。赤く見え青くも見ゆる枯れ木かな枯れ木の色が赤や青に見えるという経験は凡人にはないのですが、松本たかしにとっては真実の見え方なのです。どうしたら、枯れ木が赤青に見えるのか知りたいところですが、それがわからないのが凡人なのかもしれません。 引用および参照元:『現代日本文學大系95 現代句集』筑摩書房
May 11, 2021
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前田夕暮の歌というと、教科書に載っている向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよが、まず浮かびますが、年代によってずいぶん作風が変わっているのですね。下記は第一歌集『収穫』で歌壇に登場したころの自然主義短歌時代の歌です。清新な歌です。木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな「向日葵は」の歌は、大正期にゴッホ、ゴーギャンらの西洋文化が日本にも入ってきて、文学界にも影響が現れた頃の歌です。ゴッホの「向日葵」に触発された歌だそうです。この時期の歌は、光・色彩にあふれた生命感に満ちた作風。 主宰する『詩歌』も最盛期で、歌人に加えて、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥、高村光太郎らの詩人もこぞって寄稿していました。その『詩歌』が廃刊になり『天然更新の歌』で歌壇に復帰したころの歌。朝風に咲きあふらるる青樫のざわめくみれば既に春なり昭和に入ってから自由律作品も作歌しました。これは前田夕暮のイメージにありませんでした。自然がずんずん体のなかを通過するーー山、山、山晩年はまた定型に復帰しましたが、夕暮が後の口語短歌のこそを固めたと言われています。木の花のにほふあしたとなりにけり老いづきし妻をいたはらむ 参照元:秦野市立図書館 編集・発行『生誕130年記念資料特別展ー前田夕暮の生涯』
April 20, 2021
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呼吸(いき)すれば胸の中(うち)にて鳴る音あり。 凩(こがらし)よりもさびしきその音! 啄木の死後刊行された、第二歌集『悲しき玩具』冒頭の歌です。 石川啄木は岩手県岩手郡の生まれ、父は曹洞宗の寺の住職でした。盛岡中学校(現・県立盛岡第一高等学校)に進学しましたが、カンニングや出席日数不足、成績不振のため中退しました。 教科書に必ず載るような歌人ですが、性格に難ありで、恩を受けた人でも上から目線でけなすような傲慢な一面があったようです。 既婚でありながら、短歌の添削依頼者に恋文を送ることもありました。「はたらけど/はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり/ぢっと手を見る」の歌が有名ですが、親友の金田一京助の息子、春彦に言わせると、生活の困窮の原因は、娼妓と遊んだ遊興費がかさんだためとか。 清貧な啄木というイメージとはずいぶん違います。教科書だけではわからないものです。人とともに事をはかるに適さざる、わが性格を思ふ寝覚かな。 啄木は借金も多く、金田一京助、宮崎郁雨初め63人から1372円という額を借りていたそうです。友人からの援助で何とか生計を保つ状態でした。 啄木は、貧困と挫折で鬱屈した心情を歌います。鬱屈した心を持たない成功人であったら、啄木の歌は生まれなかったでしょう。人がみな同じ方角に向いて行く。それを横より見てゐる心。この歌が啄木の神髄を表している気がします。 明治45年4月13日、父と妻、若山牧水に看取られて、啄木は肺結核のため亡くなりました。26歳でした。葬儀の指揮は土岐善麿がとり、漱石も参列しました。 引用および参照元:『日本文学全集12 国木田独歩・石川啄木』集英社
April 13, 2021
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行きくれて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度 平忠度は清盛の異母弟。歌人としても優れ、藤原俊成に師事しました。平家一門と都落ちした後、都へ戻り、百首の歌を俊成に託しました。世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。これに候ふ巻物のうちに、さるべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙つて、草の陰にても嬉しと存じ候はば、…。(平家物語)(世の中が落ちついたならば、勅撰和歌集のお達しもあることと存じます。ここに持参いたしました巻物の内に、歌集にふさわしい歌があれば、一首でも採択していただければ、あの世に行ってもうれしいことに思います。励みとなります。) 忠度は朝敵となったため、俊成は詠み人知らずとして「故郷の花」一首を「千載和歌集」に採りました。山桜さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな 文武両道に優れた忠度でしたが、一の谷の合戦で六郎太(岡部忠澄)に討たれました。 六郎太は箙(えびら)に結ばれた文を解いてみて、冒頭の歌から大将忠度と知り、死を惜しんだと言います。忠度の死は、敵味方なく惜しまれました。箙に結ばれた辞世の一首が冒頭の歌です。
March 25, 2021
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お天気 一切わかりません朝刊夕刊 ありませんから始まる「二月三十日の詩」は、当たり前の事実からちょっとユーモラスな事実鼻毛 伸びませんを経て、シリアスな「存在」の事実に至ります。 「ない」「いない」二月三十日ですが、意外なところに存在がありました。ユーモラスですが、ぴりっと山椒の味がする詩です。 参照元:小池昌代・編『吉野弘詩集』岩波文庫
March 1, 2021
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2月8日は節忌、長塚節の命日です。 長塚節は子規に師事して短歌・写生文を学んだ歌人、小説家です。漱石の推挙を受けて『東京朝日新聞』に連載された『土』は農民文学の先駆けになりました。 『アララギ』『馬酔木』に短歌作品を発表しましたが、結核のため37歳の若さで亡くなりました。 『土』を読んでみましたが、重い、苦しい作品です。漱石が序文で「自分には書けそうもない。技倆や天賦の力だけでなく、作中の事件や背景が長塚君以外の研究に上がっていないという意味で」と述べていますが、この時代、庶民は小説の主人公たり得なかったことがわかります。 長塚節にしても豪農の家に生まれ、「土」の描写は小作人の体験に因ります。ですが、情景も心情もリアルです。生きも死にも天のまにまにと平らけく思ひたりしは常の時なりき知らなくてありなむものを一夜ゆゑ心はいまは昨日にも似ず咽頭結核で余命宣告を受けたときの歌です。 生死は天の決めるところで従うまで、と思えるのは自分の健康に心配のないときであって、死が現実に迫ってくると認めがたいもの。命の終わりが迫ってくると知ってしまった今日の心は昨日までの気持ちとは全く変わってしまった。 思いが率直に伝わってきます。そして、闘病中、病室の内で雨音を聞き、咲き残った山茶花を自らに重ねた歌山茶花のはかなき花は雨故に土には散りて流されたり山茶花のあけの空しく散る花を血にかも散ると思ひ我が見る早世が残念な歌人、作家です。 参照元:『長塚節名作選三』春陽堂書店
February 8, 2021
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今年の立春は2月3日、明日です。最近はずっと2月4日が立春で、3日になるのは明治以来だそうです。 「立春」の「立つ」は、今まで存在しなかったものや神秘的なものが忽然と姿を現すことです。虹が現れることを「虹が立つ」という言い方もします。「ついたち」も新月が初めて姿を現す日のこと。ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香具山かすみたなびく新古今和歌集の二首目の歌。「太上天皇」の作とありますが、「太上天皇」は位を退いた天皇の尊称で、略称が上皇。ここでは後鳥羽上皇を指します。 新古今和歌集の冒頭の歌はみよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり摂政太政大臣、藤原良経の歌です。 両歌に登場する「かすみ」「かすみて」は春に限って使うことばです。春の夜は「おぼろ」。中味は霧や靄(もや)と同じですが、文学では「霧」は秋、「かすみ」は春と使い分けます。吉野 春が来たとは言っても一年中で一番寒い時期です。太陽の位置によってこの日が冬と春の境目とされるだけなので、実際の体感とは異なります。ですが、何となく日が延びてきたことが実感され、「もう春」だと思うと心は弾みます。 参照元:金田一春彦『ことばの歳時記』新潮文庫
February 2, 2021
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目出度さもちう位なりおらが春 一茶の有名な句です。「ちう位=中くらい」は、「あまりめでたくもない」という意味ではなく「とりわけめでたいというのではなく、いつも通り素のままで」という意味です。 親鸞は門松を迷信として、正月になっても立てなかったといいます。一茶も親鸞に倣い「小さなこの家で、門松も立てず、いつも通り阿弥陀様にお任せして正月を迎えよう」という心境でできた一句です。 句集『おらが春』の名は、この一句からつけられました。『おらが春』は、一茶の没後25年に、白井一之(いっし)が、一茶の俳文・俳句をまとめて刊行したものです。12月29日はその成立の日です。 表題の句に代表される他力本願、宗教への帰依が大きなテーマになっています。そして、長女さとの誕生と死も描かれます。(こぞの五月生れたる娘に一人前の雑煮膳を据ゑて)這へ笑へ二つになるぞけさからは昨年の五月に生まれた娘は正月のなると一つ歳をとって(かぞえ歳)二歳になります。一茶の喜びがストレートに伝わってくる句です。 しかし、その子は天然痘にかかり、年明けて六月に亡くなりました。露の世は露の世ながらさりながらこの世は、はかない世とは知っていても、いざかわいい娘が逝ってしまうと、はかない世だからとあきらめられるものではありません。 一茶は最初の妻、菊との間に三男一女を授かりますが、いずれも満二歳前に夭逝しています。再々婚の相手やをが一茶の死後産んだ娘やただけが長生きしました。ともかくもあなた任せのとしの暮れ何をおいても阿弥陀仏にお任せする年の暮です。 参照元:矢羽勝幸・校注『父の終焉日記・おらが春 他一編』岩波文庫
December 29, 2020
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