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オリンピック嫌いになりそう2代目タイガース非公式サイトです 突然でごめん これは先代が書き溜めていた下書きの中から発見した記事 2011年の4月に書いてんのよね 公開しないまま10年以上たってる なにかためらうことがあったのかな? それとも2回目の東京オリンピックがあったときに公開しようと思ってて忘れてたのかな? タイミングは変なんだけど、せっかく見つけたから公開してあげよう 先代怒るかな? 悲劇の日本シリーズ1964 大洋ホエールズ(現DeNA)とのし烈なデッドヒートの末、タイガースがセ・リーグを制したのが9月30日。甲子園での中日とのダブルヘッダー第1試合に12-3と大勝してのことだった。その24時間後、タイガースナインは休む間もなく、同じ甲子園で南海ホークス相手に日本シリーズを戦っていた。 レギュラーシーズン翌日からの日本シリーズ 雑誌発売は間に合ったのか? とんでもない強行日程はシリーズ史上初のナイターとなった。南海・スタンカ、阪神・村山実の両エースの投げ合いは、スタンカの3安打完封で南海が先勝。スタンカの出来もさることながら、阪神は主力選手の「優勝後のけが」が最大の敗因だった。 胴上げの周りにはファンが押し寄せて何が何だかもみくちゃ リーグ優勝決定の瞬間、甲子園のタイガースファン約2000人がグラウンドになだれ込んだ。選手に抱きつき、握手を求めて手を引っ張る...。外野を守っていた山内和弘、藤井栄治はベンチにすら戻れない。 山内は「ファンに左腕を引っ張られて、ヒジが痛くてしょうがない」。「左ひざを捻ってしまった。腰も痛い」とは藤井。他の選手も大なり小なり、擦り傷、切り傷など被害を受けた。 3番と5番の山内、藤井は前夜の中日戦で2人合わせて、4安打4打点も、傷だらけの体で第1戦のスタンカに挑み7打数0安打に終わった。 はしゃぎすぎたファンも疲れていた。30日のリーグ優勝決定の日、中日戦の観衆は3万3000人。ところが、晴れの日本シリーズ第1戦のはなんと1万9904人と2万人を割った。阪神と大洋のいずれが優勝するのか最終戦まで分からず、前売り券の販売ができなかったことも影響したが、当日券売り場に朝から並んだのは、わずか100人。 本当にガラガラのスタンド 「これじゃ、秋のオープン戦と変わらん。気合いが入らん」と気が抜けてしまったのは阪神・吉田義男遊撃手。集中力を欠いたのか、吉田は阪神唯一のチャンスとなった6回一死一、二塁で併殺打。5回には2点目のきっかけとなる失策も記録している。 10月1日は東海道新幹線が開通した日でもあり、東京オリンピック開幕が目前に迫っていた。開会式が始まる10月10日までに全日程を終える目的で、3月20日からスタートしたセ・リーグのペナントレース(阪神は21日に開幕戦)だったが、雨にたたられ結局第7戦が行われたのが、どうしても避けたかった10月10日だった。 3勝3敗での最後の決戦の観衆は1万5172人。アジア初の五輪という大イベントに日本シリーズは"大敗"。おまけに甲子園でスタンカに計3試合完封されたタイガースは以後21年間、勝利の女神に見放され続けた。 南海にとっても後から見れば最後の日本一となったが、国家的イベントのオリンピックの前に、マスコミは試合結果を簡単に伝える程度の寂しい扱いだった。 なんのこっちゃ 大阪球場のほうがようけ入っとるやないかい タイガースファンは五輪のほうが大事やったんか?笑うでホンマ追記 以上が当時の原稿なのね なんでそのころ書いたのか聞いてみたんだけど すっかり忘れてたって やっぱり覚えてなかったんだ しいて言うなら この年は真弓監督の3年目で マートン ブラゼル メッセンジャー スタンリッジと外国人に恵まれてたし 鳥谷 平野 新井貴 金本 さらに城島も入って打線が充実して前の年に2位になってる それでこのシーズン開幕のころはセリーグの優勝候補と言われてたのね 2009年の真弓監督1年目には道頓堀で行方不明だったカーネルサンダースも見つかって呪いもとけてた それで「材料はそろった 日本シリーズいけるっておもって書いたのかもしれん」だって でも結果は 統一球の影響をモロに受けて主力打者がそろって成績がガタ落ち 4位で終わってるの たぶんそれで原稿は忘れてしまって没になってたんだろって ふ~ん
2023年02月24日
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星野阪神白星発進 新生星野タイガースが開幕7連勝を飾った2002年。その記念すべき開幕戦勝利を伝える新聞です。これはたくさん残してありました。 今回発見できたのは以上です。まだどこかにあるのかなあ。次の大掃除では別のところも探してみたいです。おしまい。 にほんブログ村
2016年01月07日
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マーク・ジョンソン代打逆転サヨナラ3ラン 1999年7月9日付日刊スポーツです。これにはしびれましたねえ。 野村監督の1年目、球団も全面的にバックアップするため、メジャーリーガーのマイケル・ブロワーズとジョンソンを補強しました。メジャーのプライドが邪魔をして素直になれなかったブロワーズに比べ、ジョンソンは優良外国人選手でしたね。 同日付のスポニチもありました。当時の非公式サイトも、よほど嬉しかったんでしょうね(笑) 代打逆転サヨナラ弾というのは、タイガースの外国人選手として初の快挙だったんですよ。この時、非公式サイトはテレビでライブ中継を見ていましたが、思わず飛び上がりました。 ところで、野村タイガースの1年目の出だしは悪くなかったんです。4月は前半が悪かったんですが後半に6連勝があって、11勝11敗の5割で2位に付けています。5月は13勝9敗と勝ち越してがっちり2位をキープしていました。 ジョンソンのサヨナラが出た7月8日時点でも37勝35敗の3位で、まだ貯金があったんですよ。7月中盤から負けが先行してきて、9月は4勝17敗とボロボロになってしまいましたが・・・ にほんブログ村
2016年01月06日
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ノムさん監督就任決定 この出来事については、いろんなものを残している人も多いんじゃないかな。タイガースにとってブレイザー監督以来の大変革でしたからねえ。ノムさんも最初はやる気満々でしたよね。それが、簡単な球団じゃないことがわかってきて、だんだんぼやきが増えていったんだけど・・・ 1998年10月26日付けスポニチでは、「3年でV請け負った!」と。本人が豪語したわけじゃないでしょうけど、球団もファンもそういう期待感を持ったのは事実でした。 同日付の日刊スポーツも残してありました。セリーグの人気球団で読売のライバルであるタイガースの監督に就任することは、ノムさんにとっても嬉しかったんでしょうね。発表前にペラペラしゃべっちゃったようです。 残念ながら野村監督の3年間はすべて最下位。でも赤星をはじめ種まきはしてくれたので、星野監督になって優勝につながりました。3年でと言ってたVは5年かかったわけです。サッチー脱税事件で解任されなければ5年間やってたかもしれないですから、ノムさんも結果が出せなかったのは不本意だったでしょうね。 にほんブログ村
2016年01月05日
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川尻 ノーヒットノーラン達成 1998年5月27日付けスポニチです。これも残してありました。長い低迷時代に一筋の光明のような快挙でしたよね。 試合は5月26日の対中日9回戦、場所は倉敷でした。タイガースも5安打で2点という貧打でしたが、打たせて取る川尻のピッチングが冴え渡りましたね。 奪った三振はたったの2個。16個がゴロで、あとはフライです。フォアボールは2個与えましたが、110球の省エネ勝利でした。 この年の川尻は、脱税事件のペナルティで3週間の出場停止処分があったりして出遅れたため、これが3勝目ですが、その3勝は全て中日戦です。結果的には25試合で10勝5敗、防御率2.84の好成績を収めています。ただし、大記録もカンフル剤にはならず、チームは4月から10月まで全て月間負け越し。8月のロードでは12連敗を喫するなど、52勝83敗、勝率3割8分5厘の最下位に終わっています。お客さんにしていた横浜にも8勝19敗と散々でした。あまり思い出したくないシーズンですね。 にほんブログ村
2016年01月04日
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年末に大掃除をしていたら、古いスポーツ新聞が出てきました。自分でも忘れてしまってて、かなり色があせてしまってますが、自分自身が残しておこうと思って残していたものなのでしょう。今見ると懐かしいなあと思います。 数はありませんが、せっかくなので何回かに分けて載せてみますね。久慈、関川 電撃トレード まず1回目はは1997年10月14日のスポニチです。これは、久慈+関川+金銭と大豊+矢野の電撃トレードのニュースですね。 記事のコメントでは、久慈は「誠意がない、球団に怒り」と。関川は「呼ばれて行く、頑張るだけ」でした。 下の方には「桧山、放出も」なんてのもあるし、変革が求められる時期だったんですね。 同日付の、中日スポーツも残してありました。大豊は「新天地で頑張る」、矢野は「正捕手でやる」とコメントしています。 いずれにしてもこのトレードはちょっとショックだったですね。大物打ちがほしかったので大豊の獲得はある程度理解できましたが、3割を打てるようになってきた捕手・関川を放出というのには納得できなかった記憶があります。 にほんブログ村
2016年01月03日
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2015年7月20日阪神0-2読売 15回戦(神5勝10敗、甲子園)やっぱりやられた 今月16日のブログでも紹介したように、新顔の外国人投手を苦手としている伝統は継続していますね。特に今年は、対読売に限ってこの傾向がひどすぎます。5勝10敗とダブルスコアになってしまったのも腹が立ちますが、10敗のうち、ポレダに4敗、マイコラスに2敗ですよ!偏りすぎです! 今日もヒットの数は読売と同じ7本なのに、散発なんですよねえ。岩田はそれなりに粘りの投球ができて7回1失点ですから、何とかしてやらんと! 今思えば、赤星がいたころはもっと攻撃も多彩だったし、相手が意識してくれて勝手におかしくなってしまうような場面もありました。今は、赤星が一人で記録したシーズン盗塁数を、チーム全体ですらクリアできない。相手に考えさせる、警戒させるというような場面すら作れていません。実に変わってしまってるなあと感じます。 今日は渡辺謙さんが観戦していたようですが、単調な攻撃で結局点が入らない今のタイガースの野球をどんな思いで見ていたのか・・・ 来季は赤星にスタッフ入りしてほしいと思うのは非公式サイトだけとは思えません。一軍スタッフに入ってほしいけど、ファームでもいいよ。とにかく積極的に仕掛ける攻撃が必要だし、そういう選手を育てることが重要です。 でないと、結局補強に頼る体質から抜けられないまま、Bクラスの常連に落ちていくような危機感を感じてしまうこの頃です・・・ http://professor-mino.blogspot.com/
2015年07月20日
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5年20億 でも、金額の問題じゃありませんよね。鳥谷選手が居ることそのものが大切。 阪神で優勝したい今年はリーグ優勝して日本一になりたい 会見では頼もしい言葉が聞かれました。5年契約ということはタイガースで骨を埋める決意をしたということ。ファンとしてこれほど嬉しいことはないです。 入団2年目にリーグ優勝を味わって以来、あと一歩というところで勝てなかったのが相当な心残りになっていたようですね。 人生の岐路で大きな決断をした鳥谷選手。気持ち的には吹っ切れたでしょう。あとはタイガースでリーグ優勝、そして日本一の夢に向かって、力強くチームを引っ張ってくれると確信します。
2015年01月23日
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2014年8月27日 東京ドーム読売4-5阪神 20回戦 阪神11勝9敗キャプテン鳥谷大活躍! いやはや苦しい試合だったよね!なおかつ絶対負けられない試合!この試合が如何に大切かをしっかり認識してそれにふさわしいプレーをしてくれたのが鳥谷選手だ。第一打席こそ三振に倒れたが、そのあとは4安打ですべての得点機に貢献しました。 まず6回はチャンスを広げてゴメス選手のタイムリーにつなげるヒット。8回は読売のリリーフ山口の乱れに付け込んで1点差に追い上げるタイムリーツーベース。そのあとマートン選手がゲッツーでも同点にできたのは鳥谷選手が呼び込んだといえる。さらに延長に入って1死からマシソンにプレッシャーを掛けるヒットで出塁し、ゴ メス選手の決勝2ランにつなげました。ゴメちゃんもこれぞ4番の働きだったよね。 岩田投手は初回にいきなり村田の3ランを浴びて暗い立ち上がりでしたが腐らず、6回まで追加点を与えずに粘ったのも大きかったね。その後の中継ぎも良くがんばったしね。スンファンも阿部の1発はもらってしまったけど、昨日の錯乱したような内容からは立ち直った。今日はチーム全員でつかんだ勝利だと思うこういう野球で3戦目を戦ってほしい!絶対勝って!!! http://professor-mino.blogspot.com/
2014年08月27日
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2014年4月10日阪神6×-5DeNA 3回戦 甲子園重い試合に勝てました 最終回、無死2塁から鶴岡選手のバントで俊介選手がサードタッチアウトになったときは、正直延長戦を覚悟しました。ソーサのコントロールが悪いことで福留選手が四球でつないでくれたので、上本選手のサヨナラヒットにつながりましたね。 それまで4打席凡退の上本でしたが、2日前と同じような場面で投手も同じソーサ。思い切りよく初球からファーストストライクを打ちに行って、前進守備のライトの頭上を超えました。この打席は上本選手の集中力が優っていたと褒めてあげていいと思います。 先発の歳内投手は、結婚、奥さんの出産と、気合の入る状況で、「やらなければ!」という意気込みを感じる序盤の投球でした。先取点をもらったことで4回は力んでしまったのかリズムを乱した感じでしたね。4回で替えられてしまいましたが、序盤の内容を見れば十分次回に期待が持てます。ぜひ先発の一枚に定着するよう、次のチャンスでいい結果を出してほしいです。 どうやら6番には良太選手が落ち着きそうですね。簡単に三振しなくなってきましたし、粘れるようにもなってます。打てばムードメーカーとしてベンチを明るくするし、今の状態が保てればレギュラー定着でいいと思います。マートン選手の後を打つ選手が当たっていると得点力もさらにアップしますから、良太選手には調子を維持してほしいですね。 そうそう、鳥谷選手も打席で積極性が出てきたし、きっちり振り抜けるようになってきました。いよいよ調子を取り戻してきたかな。読売線に向けて明るい材料です。 連日厳しいゲームが続いているので、中継ぎ以下の投手陣もフル回転しています。ベテランが多いだけに、登板が過密になると疲労の蓄積が心配です。読売3連戦では先発投手に粘りの投球を期待します。対読売、頑張って勝ち越そう!!! http://professor-mino.blogspot.com/
2014年04月10日
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2014年4月6日ヤクルト8-15阪神 3回戦 神宮 非常に厳しい試合を逆転でものにしました。両外国人選手が予想以上に頑張っていることが大きな勝因です。この状況で借金1。2人が1年中この状態ならいいのですが、当然好不調の波がありバイオリズムのような浮き沈みはあります。ということは2人が悪くなった時には借金1どころじゃないわけです。得点力が下がれば投手陣の頑張りも必要ですね。いまはそういうものが不安定なバランス状態で戦っています。どこかで総崩れが起こりそうな気はしますね。 今日は良太、俊介を使い、福留は代打にすら出さなかった。安藤も投げさせなかった。この辺は批評はやめて長い目で見ていこうと、自分自身の気持ちを切り替えました。スタメンは日替わりで行くのか、若手を徐々に固定化していくのか、梅野なども少しずつ正捕手へ向けて出番を増やしていくのか、西岡が戻った時もしも上本が好調だったらどうするのか。そういう部分で、自分が思うなりの好い方向性が見えてくるまでは細かいことは書かないことにします。 http://professor-mino.blogspot.com/
2014年04月07日
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マイク・ラインバック ガッツという点では、ミスタータイガースと呼んでもよかった センスは二流だったけど、決して弱気にならず、打撃でも守備でも、ひたすら白球に向かっていく姿勢は素晴らしかった。もちろん負け試合でもモチベーションを下げず、ファンに失礼にならない全力プレーに徹していた。 さびしげでしたが優しい笑顔が忘れられない。アマチュアにもお手本になる選手でした。今の阪神にも、そんな素晴らしい選手が増えてくれることを心から待ち望んでいます。今の情けない阪神を見ていると、どうしても過去に逃避したくなります。何となくラインバックが懐かしく思い出されました。 http://professor-mino.blogspot.com/
2012年07月05日
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いろいろと整理していたら懐かしいものがでてきました。甲子園球場観戦者に配られていた「タイガースかわら版」です。これは2001年の第5号。表紙は10年前の福原忍投手です。 野村監督3年目で、エース級の働きをしてた頃。まだスリムで、ばねを感じる投球フォームの頼もしい姿です。 今は、中継ぎか敗戦処理か分からない使われ方で、結果もよかったり悪かったりの不完全燃焼。でも老けこむにはまだ早いですよ。 球速は150キロくらい出るんだからもう一花咲かせることはできるはず。コバヒロから8回の男を奪い取る気迫で頑張りを見せてほしいと思います。 超弱い頃の阪神を支えてくれたこともあって、福原さんにはもう一度優勝の輪の中で感激を味わってほしいと願っています。
2011年05月19日
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いよいよ交流戦に突入します 阪神はホームゲームは黒虎ユニフォームで迎え撃ちます。1948~49年の2年間しか使用されなかったこの黒虎ですが、伝説のダイナマイト打線を生んだ強そうなユニフォームです。 昨年も大爆発でした。 黒虎で臨んだ8月17日~19日の横浜3連戦。12-8、11-2、10-4と圧巻の3連続2ケタ得点で3連勝。つづく8月24日~26日の広島3連戦は1勝2敗と負け越しましたが、25日には球団新記録の22得点をたたき出し、6試合で合計60点を記録しました。 縁起のいい黒虎で交流戦いただきだ! ここで黒虎にまつわる古い話を少し。昨年秋、ベースボールマガジン社が発行した阪神タイガース75年史に懐かしい写真がありました。向かって左から別当薫、若林忠、藤村富美男です。 こうして見ると別当さんに比べ藤村さんはかなり背が低いことがわかりますね。ところがバットの長さをよ~く比べてみて下さい! 藤村さんのがはるかに長い! なあるほど!これが「物干しざお」なんだと初めて実感しました。古すぎましたか?半世紀以上前だもんね・・・ それにしても黒虎ユニフォーム、迫力ありますよね。この3人が怖いおっさんみたいだからかな?この伝統のユニフォームをまとったタイガース現役選手たちの爆発を期待してます。早く借金返してくれ~
2011年05月16日
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1985年日本シリーズ優勝の祝勝会一番手前に現監督がいます。 やっぱり真からはしゃいでいるようには見えない。むかしから遠慮深い人だったんですね
2011年05月11日
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巨人の星特別篇 猛虎花形満 昨日は試合が中止になったので、DVDボックス全3巻を一気にみました。これ、発売されたのは10年以上前なのかな? たまたま去年の暮れにジョーシン電機のWEBショップ蔵出しセールがあり、1セット限りなんと9割引き! 1万円のところ1000円で買ってそのままになっていました。持ってる人も多いかも。 ある程度の内容はご存知でしょう。甲子園大会で星飛雄馬が負傷していたことを後で知った花形はどうしても決着をつけずにはいられず、未成年のくせに父親にも相談せず阪神入団を決めてしまう。 巨人の星投手と戦うためライバル球団タイガースに入る設定はいいが、この人たぶん星しか見えていない。戦えるならどの球団でもよかったんじゃないかという匂いがする。新巨人の星ではヤクルトでカムバックしてるし・・・。 それはそれとして、花形は星が次々とあみ出す魔球を打倒するライバルとして、ときには星の姉明子に想いを寄せる一人の男として、物語に欠かせない人物となっている。 大リーグボール1号打倒の試合はあの「バッキー荒川乱闘事件」のあった試合に設定されていて、その異様なムードがよく描かれている。梶原一騎は人間的には好きになれないが原作者としてストーリーの作り方は上手い。 縦縞のユニフォームを着た花形はやはりミスタータイガースの雰囲気がぷんぷんしている。 劇画の年代が古いので制度が違っていたりして面白い。花形の様なスーパースターがドラフトで入団していない。また、花形は高卒といっても入団年で言うと田淵より先輩なのだ。えらいおっさんなわけだ。 藤本定義監督などは懐かしいを通り越していたが、この当時の阪神-巨人戦の雰囲気などもよく伝わってくるし、読売側が阪神をどう見ていたかなども描いていたりする。「歴史」という目で見ると面白い作品だった。
2011年04月23日
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今年もまた、4月17日がやってきました。 26回目の記念日。あ~、毎年あの再現を夢見ています。 思い出す度に奇跡としか思えない。優勝するときは何か神がかりの出来事があるはず。今年は? きっと何か奇跡がおこることを信じています!1985年の「アサヒグラフ」から 生々しい記事でいやはや今でも信じられない!
2011年04月16日
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空白の一日(連載第9回)番外編2 江川初登板返り討ち!1979年6月2日 巨人4-5阪神 後楽園阪神 000 100 400 5巨人 020 010 010 4 ダイナミックでもなく、力強さも感じさせない。ゆったりしたフォームから、突然ビュッとスピンの効いた快速球がくる。投げる球種はストレートとカーブ。たったこれだけなのに相手をねじ伏せてしまう。まさに怪物だった。 その江川卓のデビュー戦。読売は本拠地後楽園球場での阪神戦を選んだ。スタンドは5万人の観衆で埋め尽くされ、巨人ファンも阪神ファンも異様なムードでプレイボールを迎えたが、江川はイメージとは違った姿を見せる。 速球よりもカーブを主体にしたかわすピッチングで、人を食ったようなスローカーブを織り交ぜてきた。これは阪神打線も想定外で、4回表にスタントンが外角高めの速球をぶっ叩き、ライトへ豪快な5号ソロを打ち込んだのを除けば、6回まで完全に翻弄されてしまう。 一方、阪神先発の山本和行は、2回裏にショート真弓(現監督)の失策をきっかけに2点を先行されると、5回裏にはシピンの11号ソロを浴びて1対3。江川有利の展開になっていく。 阪神ファンの間に重苦しい気分が漂い始めた終盤7回表、口火を切ったのは若菜だ。スローカーブ(江川はシュートのすっぽ抜けと言ったが怪しい)を狙いすましてレフトスタンドに運ぶ3号ソロ、1点差に迫る。さらに二死後、真弓がセンター前、続く榊原は粘って四球を選び、3番ラインバックにつないだ。 ここまで3打数ノーヒット2三振。しかし、試合後に「バットはよく振れていたので今日は1本打てると思っていた」と語ったように、ラインバックは内角低めの難しいコースのストレートを見事にとらえライトスタンドへ逆転3ランを打ち込んだ。阪神ファンは狂喜乱舞、一方の巨人ファンは一つの区切りとして肩の力が抜けたという瞬間だった。 まさに返り討ち! 期待はしていてもまさかここで本当に一発が・・・ふさわしい場面で、もっとも劇的な結果になったものである。この1本だけでもラインバックの名がタイガース史に残るという会心の一打だった。このあと後半立ち直った山本和が、6回以降を中畑のソロ1本だけに封じて完投し、5対4と逃げ切って江川に初黒星を付けた。 阪神は因縁の対決で3発を浴びせ、プロの恐ろしさを見せつけることはできた。しかし、打ったラインバックが「あのプレッシャーの中でよく長いイニングを投げた」と感心したように、江川はただものではなく、その後、対阪神の通算成績36勝18敗が示すように、どちらかといえば苦手な投手になっている。 1年目の江川は「野球留学」や出場停止など1年以上のブランクがあり、実戦から遠ざかっていたため、本領を発揮し始めるのは2年目からである。それでもこの年、9勝10敗ながら防御率2.80、セリーグ第3位の成績を残し、怪物の片りんを見せているのは敵ながらさすがだった。 ところで、小林は前日の6月1日に投げており、ファンが期待する因縁の直接対決は持ち越された。というよりも1979年には実現していない。その気になればローテーションは調整できたはずだが、ブレイザー監督は野球の本質ではない話題で騒ぐのを快く思っていなかったようで、無理に対決させようとしなかった。そのため、ブレイザー監督在任中は実現せず、翌1980年5月、同監督が解任され、さらにその3ヶ月後の8月16日が初対決になった。 PS写真が古いね~(我が家秘蔵の新聞なので変色してます) 空白の一日は結局9回目までになりました。キリのいい10回目を1980年の直接対決で締めくくりたいんですが・・・試合内容が悪く小林さんは敗戦。今回はここで打ち止めにして宿題にします。根気よく読んで下さった方にはお礼申し上げます。
2011年03月30日
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空白の一日(連載第8回)番外編1 「阪神小林」デビュー戦1979(昭和54)年4月10日 阪神4-3巨人 (1回戦 甲子園 38000人) 巨人 000 111 000 3 阪神 010 300 00x 4 小林は、1979年4月10日、江川より一足先に巨人戦で先発デビューする。舞台は甲子園。 開幕2カード目の「この日に投げさせてほしい」とキャンプ中からブレイザー監督に直訴しての志願登板だっただけに、試合開始からムキになっているのが見ていてもよくわかった。 1回から3回まで0点に抑えるが、圧倒的に勝負球はストレート。どこまで持つかなんて考えていない。投げる8割がストレートといってもいいほど真っ向から巨人打線にかみつき、ねじ伏せようとしている。 気迫あふれる小林を最初に援護したのが女房役の若菜である。2回裏の第1打席でライトスタンドに先制1号ソロ、阪神が1点を先行した。ところが、スタミナを無視して飛ばす小林は単調になり、4回表、投手の加藤初にタイムリーを許して同点にされてしまう。 しかし、今日は特別な試合だ。気迫が空回りして苦闘する小林を見て、阪神打線は黙っていなかった。4回裏、先頭の4番竹之内が四球を選ぶと、すかさず5番ラインバックがレフトへ勝ち越しの1号2ランホームラン。さらには続く中村勝が追い打ちの1号ソロだ。 ところで、若菜? ラインバック? こりゃ江川のデビュー戦でのホームランの顔ぶれじゃないか。偶然か? じゃあスタントンは? ちなみにこの日のオーダーは次のとおりである。1(遊)真弓 2(一)藤田 3(三)掛布 4(右)竹之内 5(左)ラインバック 6(二)中村 7(捕)若菜 8(中)島野 9(投)小林 おやおや?スタントンがいない。実は彼と阪神との契約は4月1日に成立したばかりで来日が開幕に間に合わなかった。スタントンの公式戦初出場は4月14日だった。間に合っていれば奇跡的な偶然もあったかもしれないが。 さて、4対1と援護をもらった小林だったが、力投がたたって中盤でバテてきた。5回には張本に1号ソロを浴び、6回にも代打原田にタイムリー二塁打を打たれて1点差に迫られる。しかし、ここからが小林の真骨頂。かわすピッチングに切り替え、ねばりの投球で8回一死まで持ちこたえた。ここで中畑に三塁線を破る二塁打を打たれ、ついに限界、竹田にスイッチとなった。 ここまで139球、毎回の12安打を浴びながらも3点でしのいできたのは気力だろう。この力投にこたえ、阪神は竹田から池内とつなぐ完璧なリレーで逃げ切って小林に移籍後初勝利をプレゼントした。阪神ナイン全員が「この試合は絶対に負けられない」「どうしても小林を勝たせたい」という気迫で臨んだ結果である。 こうして小林さんはひとつの区切りをつけました。試合後の取材に「やっぱり意識しすぎてしまいました(笑)」と正直にコメントするあたり実に爽やかでした。しかし、試合内容を振りかえれば、クールで爽やかな印象とは対照的に、本当は意地っ張りで芯が強く熱い人だということがよく伝わってきます。次回は番外編26・2 江川初登板返り討ち!です
2011年03月29日
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空白の一日(連載第7回)小林激動の1日(その2) 残された時間はわずかだ。決断した小林は再び交渉の席に戻る。以下青字部分は東京スポーツ新聞の記事からの抜粋である。 夜12時の締め切りまで1時間を切った1979(昭和54)年1月31日の午後11時すぎ。ボクはホテル・ニューオータニの一室で長谷川実雄球団代表と再びひざを交えた。「お受け致します」。悔しさで震える指先にグッと力を入れ、契約書にハンコを押した。同時刻、江川も阪神の小津正次郎球団社長と入団、移籍の手続きを済ませていた。 男らしく(実際は張り裂けるような思いで)事態を受け入れた小林は深夜の記者会見に臨んだ。 日付が変わった2月1日午前0時15分。ボクは読売新聞社8階の会議室に場所を移し、記者会見に臨んだ。大勢の報道陣を前に、今も語り継がれる気丈なセリフを吐く。「野球が好きだから喜んで阪神へ行く」。そして「同情してほしくない」。(中略)カッコいいことを言ってはみたけど、もう1人の素直な自分は寂しくて寂しくて仕方がなかった。深夜の記者会見を終えたボクは、黒塗りのハイヤーでホテル・ニューオータニへ戻った。身も心もズタズタに切り裂かれ、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。 泣いた、泣いた。誰に気兼ねすることもなく、たったひとりの部屋で大泣きした。悔しくてたまらない。でも、どうすることもできない現実。(以下略) 記者会見の席での小林はきっぱりと話し、爽やかに受け答えた。多くのプロ野球ファンは小林の潔い態度に救われた。事態が収束に向かって大きく動いたからだ。とくに阪神ファンはモヤモヤが一気に晴れて、感激の拍手を送った。しかし、あの名セリフは血を吐くような悔しさを押し隠してのものだったことが、この回想録によって初めて本人から語られた。今更ながら頭が下がる。 小林の阪神移籍はすぐ認められたが、江川は野球協約を守ったように見せるため、開幕前日まで阪神所属のままだった。約2カ月間、2人は同時に阪神の選手だったわけだ。4月7日、晴れて読売に入団した江川には、さらにペナルティとして5月末までの出場停止処分が科せられ、デビュー戦は6月以降となった。また、金子コミッショナーは例の「要望」を撤回したうえで、混乱をもたらした責任を取る形で2月8日に辞任している。 回想録はまだ続くが、小林激動の一日はこんな流れだった。ぜひ東スポの特集記事「小林さんが語った江川事件」を検索していただきたい。http://www.tokyo-sports.co.jp/tag_lists.php?tag=%E6%B1%9F%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6 なお、小林さんはのちに「本当は阪神になんか来たくなかったんだ」とぽつりと漏らしたことがあるそうです。若菜さんが何かで語っていました。小林さんの胸の内を考えると阪神ファンとして複雑な気持ちになります。次回第8回は番外編1阪神小林のデビュー戦をダイジェストで!
2011年03月26日
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空白の一日(連載第6回) 小林さんの激動の一日と言ってしまいましたが、こればっかりは他人に分かる話ではありません。ここは東京スポーツ新聞にご本人が綴った回想録に全面的に頼っています。小林激動の1日(その1) 期限ぎりぎりでのトレード成立。小林サイドの一日を追っていく。以下青字部分は東京スポーツ新聞の記事からの抜粋である。 31日朝、タクシーで羽田空港に到着した。報道陣がボクをどっと囲み、カメラマンが一斉にフラッシュをたく。巨人の主力クラスの選手なら決して珍しい光景ではない。ボクはこの時点でもまだ、宮崎キャンプの出陣取材だと思っていた。(中略)ロビーで数十人の報道陣に囲まれたボクは、いつの間にか球団職員に両脇をガードされていた。 こうして小林は一階ロビーから外へ誘導されていく。そこには読売新聞社の旗の付いた一台の黒塗りハイヤーが待っていたという。 「オッ、オッ、オレだったのか...」。ようやく事態を把握したボクはぼうぜんと立ち尽くした。車中の記憶は完全に飛んでいる。阪神にトレード放出されるショックで何も覚えていない。それほど頭の中は真っ白だった。どれくらい走っただろうか。ハイヤーはホテル・ニューオータニの駐車場に滑り込んだ。 ホテル到着が昼12時半ごろ。到着すると長谷川代表が待っていて、すぐに本題に入った。 「今日の夜の12時までに決めなければならない。そうじゃないとご破算になる。阪神に行ってくれ」。長谷川実雄球団代表はそう切り出した。「夜12時ならまだ間があるので、ボクに考える時間をください」。そう申し出て、トレード通告の場はひとまずお開きとした。(中略) ボク1人でどう決断を下せというのか。公私にわたってお世話になっていた人たちに相談するしかなかった。(中略)いろいろな人に相談を持ちかける中で、複数の球界関係者からある有力情報がもたらされた。「巨人は本気だぞ。トレードが成立しなければ新リーグを発足させるつもりだ」--。ボクは再び目の前が真っ暗になった。 この時点で、すべては小林の返事一つにかかっているということに気付き、本人も愕然としただろう。次の一節がすべてを要約している。 ボクは全身が震えた。何ということだ。ボクの腹ひとつでプロ野球界が大変なことになる。巨人残留、阪神移籍、それとも引退か、などと揺れている場合ではなくなった。もはや結論は一つしか出せない。追い込まれ、切羽詰まったボクはトレード通告を承諾するしかなかった。 短い時間で追い詰められていった様子は悲壮です。 次回は激動の1日(その2)を
2011年03月25日
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空白の一日(連載第5回) 年が明けて1979(昭和54)年1月、江川との交渉権を得た阪神は「トレードを前提とした交渉はしない」という方針を表明したうえで、前年10月から就任していた小津正次郎球団社長が江川との交渉を進めたが、4度にわたって物別れに終わる。当時は「ブルドーザー」、のちに「小津の魔法使い」と呼ばれる小津社長でも厚い壁は崩せないと見られた。 読売側は江川との契約を解除して阪神にボールを投げたうえで牙をむいた。もしも江川のトレードが実現しなかった場合はプロ野球機構から脱退して新リーグを結成するとほのめかし、実際に西武やヤクルトに働きかけるなど強引な態度を変えようとしない。こうなると駄々っ子の開き直りとしか言いようがないが、本当にやりかねない。コミッショナーは追い詰められていた。 ここで浮上する一つの疑惑がある。阪神と江川との交渉はいかにもわざとらしく、対外的なポーズではなかったのかという疑問である。これは阪神と読売およびコミッショナーが了解の上の芝居で、実際には阪神から読売に対してトレード要員を指名し、読売内部での最終決定をするための時間稼ぎだったというのがひとつの定説なのである。それは以下の展開が証明している。 1月31日、船田代議士の事務所で15時過ぎから阪神と江川親子との交渉が始まり、16時00分、阪神は江川と契約する。16時10分から、小津社長、江川が記者会見を行い、江川は背番号3で、阪神の支配下選手として登録されることになった。当時、新人選手の入団契約最終期限がこの1月31日だったので、ギリギリ瀬戸際での契約成立だった。江川はトレードについての質問には一切答えなかったが、「安芸キャンプに行くのか?」の問いに窮して記者団の失笑を買っている。 一方、読売側はすでに動いていた。同日午前、小林はキャンプ地である宮崎に向かうためハイヤーで羽田空港に着いたところを、球団職員に引きとめられ、昼過ぎにはホテル・ニューオータニへ連れ戻されている。江川の記者会見の時間には、すでに代表からトレードを通告され茫然としていたのである。 誰が見ても阪神、読売が申し合わせ、この1日を落としどころにした同じタイムテーブルに従って進めたとしか思えない。こうなると阪神も結果的には野球協約142条を破る出来レースに加担したに等しく、多くの阪神ファンが複雑で割り切れない気持ちを抱いた。しかし、そんなどんよりした気分を打ち消してくれたのが、深夜に行われた小林の記者会見だった。クライマックスである小林さん激動の1日は次回に。
2011年03月23日
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空白の一日(連載第4回) 批判の大半は読売の強引な態度に集中し、江川に対しては「ルールに従って阪神に入れ」という声が圧倒的だった。しかし、読売、阪神の両者が「江川は自分の所へ入団するのが筋」と言って譲らないのでまったくの平行線である。2者の話し合いで解決することは難しい。この膠着状態の解決には、コミッショナーがその役割を果たすことが求められた。 ドラフト会議から1カ月が過ぎた。むなしく新年を迎えるのか・・年の瀬も迫った12月21日、金子鋭(かねこ・とし)コミッショナーが動いた! 「鈴木セリーグ会長の判断を支持する」として、読売側の提訴を却下したのである。また、ドラフト会議については「巨人が自らの意思で欠席したものであってすべて有効である」と結論付けた。社会常識にかなったすばらしい裁定である。これには手放しで世論も拍手を送り、一連の騒動も終息に向かうと思われた。 ところが、コミッショナーの英断で決着したかに思えた事件は、翌12月22日に急展開し、さらに混とんとした経過をたどる。この日の夕方、金子コミッショナーは一転して読売に対し、阪神とのトレード交渉を進めるよう「指令」を出す。その一方で江川に対して阪神と契約するよう強く「要望」したのである。 ん、何だこれは? 提案されたトレードは、最終的に「江川の読売入り」が前提になっている。今度は野球協約第142条が定める「選択選手の公式戦開始前日までのトレードの禁止および契約を譲渡する前提での契約の禁止」という決まりを、コミッショナー自らが両球団に対して「破ってくれ」と発言しているのである。 これが良識的な裁定を下した翌日のコミッショナー発言とは信じられない。驚天動地の展開に再び世論は沸騰した。 金子コミッショナーの「強い要望」をうけても、阪神側は表向きには「契約できた場合、江川は絶対にトレードに出さない」との見解を示した。ところが読売側はコミッショナー指令をすんなり受け入れる形で、12月27日、江川との契約をさっさと解除してしまったのである。このままでは江川を阪神に取られてしまうはずなのに??読売には勝算があるのか?それとも実は出来レースなのか?激論渦巻く中、新しい年を迎える・・・ 続きは次回に。社会問題に発展 コミッショナ-批判のプラカードまで!写真は東京スポーツ:2006年05月26日付紙面から出典しています
2011年03月21日
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空白の一日(連載第3回) ここで少しさかのぼって、江川サイドに立って「空白の一日」に至ったいきさつを考えてみる。 作新学院3年生だった1973年、巨人入りを夢見る江川は、表向きには進学を宣言する。それでもドラフト会議では阪急ブレーブス(現オリックス)に1位指名されてしまった。入団を拒否して法政大学に進んだのは本人の選択の自由で、これをダーティということはできない。しかし、「怪物」と言われた江川がプロの舞台で投げる姿を一刻も早く見たい勝手な世論は、プロ入りを拒む江川にもどかしさを感じていた。 高校時代にプロレベルの力を持っていた江川である。東京6大学野球での4年間は就職浪人していたに等しい。江川本人にとっても、プロ野球関係者やプロ野球ファンにとっても長い年月だった。1977年秋、江川は「読売以外に指名された場合は拒否する」と宣言して、2度目のドラフト会議を迎えることになる。 運命の11月22日。日本中が固唾をのんで見守るなか、1番くじを引いたクラウンライター・ライオンズは迷うことなく江川を指名する。当時は「完全ウェーバー方式」が採用されており、競合なしで選択が確定してしまった。江川はクラウンとの入団交渉を拒否すると、社会人野球にも進まず、作新学院職員に籍を置き、「野球留学」と称してアメリカへ旅立ってしまう。 世論は沸き立ち、江川に対する風当たりが強まったが、同時にドラフト制度の抱える欠点についての議論も巻き起こり、ついに国会にまで飛び火した。「ドラフト制度は職業選択の自由に抵触」、「民法90条違反」、「独占禁止法違反」などが指摘され、人権問題にも発展したのである。 1978年2月16日の衆院法務委員会には、井原宏プロ野球コミッショナー事務局長、鈴木龍二セリーグ野球連盟会長、三原修パリーグ野球連盟会長、野球評論家の川上哲治、同じく荒川堯が参考人として招致され、意見を述べている。とにかく妙にネチネチした質疑が行なわれているので興味ある方は次アドレスを参照のこと。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/084/1080/08402161080002a.html 1978年11月のドラフト会議から「完全ウェーバー方式」が廃止され、重複指名の場合は抽選を実施するという制度改正が行われたが、この国会議論の影響を受けてのものと考えて間違いないだろう。その裏で、読売、江川らを取り巻く関係者が政治的に暗躍したのではないかという疑いはぬぐいきれない。 しかし、ここまで手を打っても、江川が確実に巨人入りするには、依然として「複数指名による抽選」というハードルが残っている。もはや「空白の一日」だけが単独で獲得するために残された最後の手段だった。江川が社会人野球に所属せず、「野球留学」を選んだことも、野球協約を研究したうえでドラフトの対象にならないように細心の注意が働いていたと推測できるのである。 こうして一連の経緯を見てくると、政治力なくしてはありえない展開であり、もはや江川一人のわがままというには事が大きすぎる。本人は言い訳していないが、江川自身も周囲の大きな渦の中で翻弄されていた一人だったのかもしれない。 さて、話を戻して・・・ 契約を盾に開き直る読売! ドラフトで獲得した交渉権を有効とする阪神! 板挟みとなったコミッショナーはどうする? 本題が何も進みませんでした・・・続きは後日。
2011年03月18日
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空白の一日(連載第2回) 野球協約上の虚をついて電撃的に江川と契約した読売は、セントラルリーグに対し、契約の成立を認めるよう申請した。これを受けた鈴木龍二セリーグ会長は、本来のドラフトの精神に悖るとして無効と判断し、読売と江川との契約申請を却下する裁定を下す。当然の対応だった。 ところが、この裁定を不服とした読売は、翌日のドラフト会議のボイコットを宣言。これはプロ野球機構という組織に属する者同士の信頼関係を破壊する行為に他ならない。読売の暴挙・暴言に他球団も怒り、報道を聞いた世論も騒然とした空気に包まれていった。 本当に読売は会議に出席しないのか? 読売の既成事実をこのまま認めてしまうのか? 江川指名に踏み切る球団はあるのか? 様々な憶測をはらみながら日付は変わった。 1978年11月22日、読売は宣言どおりドラフト会議を欠席する。読売のために用意されたテーブルには誰も座っていない。この異常な状態のなか、ドラフト会議は残る11球団によって淡々と進められた。 注目の一巡目。 阪神、南海、近鉄、ロッテの四球団が江川を強行指名し、抽選の結果、阪神の岡崎義人球団代表がくじを引き当てて交渉権を獲得する。 しかし、江川は読売との契約を有効として入団を拒否。読売はNPBコミッショナーに対し契約の正当性を提訴するとともに、「全球団が出席していないドラフト会議自体が無効だ」と言い放ったため、またもや火がついたように世論は騒然となったのである。写真は毎日JP・NewsBox「日本プロ野球ドラフトの歴史」から出典
2011年03月17日
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なにもかもが不透明 3月16日も練習形式で非公開。マートン1発、ブラ好調など新聞でその一端を垣間見るだけです。今日も練習試合で林、俊介が連発など、チームとしてはいいニュースが伝わっていますが、震災被害は深刻さを増しています。 同じく16日、パリーグは理事会を開き、どうやら当面4月12日まで開幕を延期する方針を固めた模様。セリーグは3月25日開幕を堅持しているようです。そんななか阪神の鳥谷選手会長が南社長に開幕延期を要望したことも伝わっています。まだまだ紆余曲折がありそうです。 現実に疲れてしまいましたので、しばらく昔話を綴ることにします。小林繁さんが亡くなって1年以上がたってしまいました。あっという間でした。ますます風化していく「あの事件」について書き留めなければなりません。何回かに分かれますが興味のある方はお付き合いください。空白の一日(連載第1回) ドラフト会議を翌日に控えた1978(昭和53)年11月21日午前9時30分、読売の正力亨オーナーは突然記者会見を開き次のように発表した。 「本日午前5時に江川卓君と契約した。彼とは自由に契約できるものと判断する」 会場は東京赤坂の船田中衆院議員の事務所。正力氏、江川氏のほかに後見人として船田氏が同席するという異例の会見だった。 これを聞いた記者団は、「ドラフト会議を翌日に控えているのに、何を血迷ったか???」と首をかしげた。ところが、確かに当時の野球協約第138条には「前年獲得した交渉権はドラフト会議の前々日をもって喪失する」という取り決めがあり、ドラフト会議の前日に「空白の一日」が存在していたのである。 しかし、この「空白の1日」は、事務処理等のためにドラフト会議の準備期間(閉鎖日)として便宜的に設けられた「紳士協定」で、当然ながらこんな形での悪用はしないとの相互信頼に基づいて設けられた条文であることは言うまでもない。 また、この年の7月31日にはドラフトの対象が「日本の中学・高校・大学に在学している者」から「在学した経験のあるもの」と改定されていたが、発効・適用するのはドラフト会議当日の22日からとなっており、ここにも仕掛けがあった疑いが残っている。 江川は、前年のドラフト会議でクラウンライター・ライオンズに指名され、これを拒否して「浪人生活」をしており、確かに11月20日をもってライオンズの交渉権は消滅している。さらに社会人野球にも属さず「在学している者」でもないことから、ドラフト対象外の選手と解釈でき、11月21日には自由に契約できてしまうことになるわけだ。 この二つの協約上の隙をついて、読売と江川は入団契約を交わし、開き直ってしまったのである。あすの会議はどうなるのか! 注目のドラフト会議は次回。左が江川卓(えがわすぐる)氏。中央は作新学院経営者で衆院議員でもあった船田中(ふなだなか)氏。右側は船田氏の秘書である蓮実進(はすみすすむ)氏。 この写真は毎日JP・NewsBox 「1978年11月21日 江川投手、「空白の1日」で巨人へ」から出典しています。
2011年03月17日
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