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背番号36(その3)
2代目タイガース非公式サイトです
みなさんこんにちは 背番号36の第3回目です
仕方がないんだけど今回もあまり活躍できずに終わってしまった選手3名です。その中で2番目に出てくる江田昌司さんは9年間在籍してるわ その中で背番号「36」を6年間着けてます。でも9年の在籍通算でも58試合に出ただけなのよ。
今回も3名の選手を紹介するんだけど 読んでくれてる人で「この選手は聞き覚えある」って人はそんなにいないとおもう
ただし3人目の投手は高校時代にバッテリーを組んだ相棒が「国民栄誉賞」を貰ってるから 知ってる人はあるかな?
有光 磐明(ありみつ いわあき)内野手
山口県出身で高校は下関商業。左投げ左打ちの外野手で、3年春の選抜大会で 甲子園出場を果たすが1回戦で敗退している。
1962(昭和37)年にタイガースへ入団し背番号「69」を着ける。入団後の2年間は二軍生活を送った。2年目の1963(昭和38)年に背番号を「36」に変更している。
1964(昭和39)年に1試合の出場記録があるが打席数は0になっているので、代走か守備固めだったと思われる。1965(昭和40)年はまた1年間二軍生活を送り、シーズン終了後に退団した。
あまりにも情報が少なく、出場試合も4年間で1試合のみ。以上のような記録しか書くことができないため「知恵袋」の力を借りて入団までの様子を掲載しておく。
1962 年
強打の下関商有光磐明外野手( 18 )=左投左打、 1 ㍍ 77 、 75 ㌔=も阪神入りを決意した。
大洋と激戦のすえ阪神入りとなった有光外野手も昨年の選抜大会出場でホームランを打ってスラッガーぶりに注目されていた。有光外野手には大洋が先輩引地の線でいち早く名乗りをあげていたが、さらに東映、阪急、近鉄、阪神が争奪戦に加わってこんとんとしていた。
このなかで積極的だったのは阪神で、東京駐在の佐川スカウトが下関の同選手宅を訪れて獲得に熱意をみせ、このほど入団の確約を得たもの。
これを見ると選抜でホームランを打ったことでプロから評価されたことがわかるが、結果的にはプロのレベルではなかったようだ。
現在は税理士をしておられるという。以下のような他の税理士さん方と共著執筆したハウツー本がある。

江田 昌司(まさし) 内野手
千葉県船橋市出身で高校は千葉商業。1年生から頭角を現し、レギュラーとなるが、県下では習志野高校が強い時代だったこともあり甲子園の舞台は踏めないまま終わっている。
1963(昭和38)年にタイガースへ入団し背番号「70」を着ける。ここでもまた「知恵袋」に頼って入団時のいきさつなどを見てみる。
1962年
7月26日、千葉県で習志野高校と並んで優勝候補の筆頭にあげられていた千葉商は、千葉敬愛に5-4で惜敗したため、同校野球部江田昌司遊撃手の阪神入りが決定的となった。
同選手は上尾高の山崎遊撃手とともに関東高校野球界きっての大型内野手との評判があり、今春5月千葉で行われた関東大会で強打を振るい、一試合の2打席連続本塁打をふくめ大会を通じて3本塁打を放った。
この活躍によって江田株は急上昇、早くから交渉を進めていた阪神はじめ巨人、大毎、大洋などが獲得に乗り出した。だが最も早く交渉に入り、終始積極的に勧誘した阪神の独走の形となり、他球団のくい込む余地はなかった。
千葉商の敗戦によってスケジュールを終えた同選手は、近日中に阪神佐川スカウトと最終的な話し合いを行い、入団決定の運びになるものと思われる。
同選手は外野手から内野手に転向今春二塁から遊撃に回ったものである。1㍍79、78㌔の恵まれた体の持ち主。守備に堅さがあり打撃もラフなところはあるが、内角球にはめっぽう強く、ツボにくれば外野席にたたき込む長打力を持っている。関東大会で記録した3本塁打はいずれも左翼スタンドにたたき込んだ豪快なものであった。
河西スカウトの話
「一度東京へ行って江田君を見たことはあるが、その後の交渉は東京駐在の佐川さんがやっているはずだから、くわしいことはわからない。」
江田は2年目の1964(昭和39)年に背番号を「39」に変えて2年間着け、1966(昭和41)年からは「36」に変えて6年間着けた。
1965(昭和40)年にプロ初出場を果たすが、1試合1打席のみで結果は三振だった。
在籍9年間のうち一軍でプレーしたのは6シーズン。二けたの出場ができたのは1970(昭和45)年の1シーズンだけだが28試合に過ぎない。しかも17打席にしか立っていないので守備や代走だけの出場が多かったのだろう。
以下、退団当時の様子も「知恵袋」の情報に頼ることにする。
1971年
江田内野手が、このほど球団に任意引退を申し入れ、これが受理された。
9年間のプロ生活に別れを告げることになったが 「もうこれ以上やっていてもダメだと思うし、第一、野球を続ける自信もなくなったので辞めようと決意したんです。お世話になりました」 報道陣の取材に、江田はこう応じている。
江田といえば、千葉商業時代は「長島二世」といわれ阪神でも大いに期待されたが、成績の方はさっぱり。ことしはファームで内野コーチの手伝い役をしていた。
というわけで、通算成績は58試合46打数11安打4打点で本塁打は0。4四球14三振で打率 . 239。これで9年間クビにならなかったのは奇跡的だろう。
植木 一智 投手(再再掲)
植木さんは背番号「5―4」が初登場で、その後「29―3」でもまた登場してるんだよ 覚えてますか? それとも過去の記事読んでない? ではもう一度ダメ押しで掲載しますから読んで頂戴
京都府出身。高校は平安高校(現:龍谷大平安)では左投げ左打ちのエースとして同級生の衣笠祥雄とバッテリーを組んでいた。3年時の春夏甲子園に出場しており、いずれもベスト8まで勝ち進んでいる。

卒業後は龍谷大学へ進学、リーグ通算64試合登板、26勝17敗、防御率1 .
47、313奪三振の好成績を残している。2年時春のリーグ戦では近畿大学戦でノーヒットノーランも記録、速球派ではないが落ちる球を武器に緩急で勝負するサウスポーとしてドラフト候補になっている。
1968(昭和43)年のドラフト会議でタイガースの2位指名を受ける。すでに社会人の 三菱重工神戸入りが内定していたがプロ入りを決断 、1年目は背番号「5」を着けている。
この年のドラフト会議は今でも空前絶後の大豊作と言われており、1位のメンバーは次表の顔ぶれだった。
2位以下とは実力がかけ離れ、各チームの4番やエースに育つ素材がずらりと名を連ねており、名球界入りした選手も多い。
タイガースの1位は田淵幸一。ちなみに高校同期の衣笠はドラフト制が始まる直前の1965(昭和40)年に広島カープへ入団していた。
植木は投手としては珍しい「背番号5」をもらっているが、当時は江夏豊とベテラン権藤正利しか左の先発がいなかったため、大きな期待をもって迎えられたと言っていいだろう。
ルーキーイヤーの1969(昭和44)年は12試合(先発3)に登板して0勝2敗、防御率4 . 32という期待外れの結果に終わっているが、実は登板数ではこれが植木のキャリアハイになる。
2年目以降の登板は、4試合0勝0敗、11試合1勝1敗、4試合1勝0敗、3試合0勝0敗で、一軍戦力にはなれなかった。
背番号「29」を着けたのは2年目の1970(昭和45)から2年間、その後の2年間は「36」を着けている。
大学では活躍できたが結局プロで通用する力はなく、1973(昭和48)年はプロ入り最少の3試合登板に終わったため、このシーズンを最後に引退している。
プロ5年間の通算成績は34試合(先発7)2勝3敗、74回2 / 3を投げて39奪三振、自責点41で防御率は4 . 92という数字しか残せなかった。
「知恵袋」をみると次のような記述がある。
1973年
阪神は10月26日、植木一智投手( 27 )を任意引退選手にすると発表した。
同投手は昭和44年のドラフト2位指名で竜谷大から阪神入り、同46年に初勝利をあげたがこの年1勝1敗の成績で、プロ入り通算2勝とふるわず、自信をなくしていた。こんごはサラリーマン生活に入る予定。
植木投手
「阪神で5年間お世話になったが、何の未練もない。もうユニホームを着ることはないだろうし、どこの球団から誘われてもいく気はない。これからは就職先を見つけます」
まとめ
みなさん読んでみて新鮮だった? (笑)
知恵袋にばっかり頼ってて申し訳ないんだけど それだけ情報や記録が少ないのよね 写真もほぼ残ってないし その点ご容赦ください
選手としての有光さんや江田さんを覚えてるって人はいるかな? 当時バリバリの阪神ファンだったとしても記憶してないかも 試合に出てないからねえ・・・
江田さんは写真はないけど入団時と退団時のことが「知恵袋」で出てくる珍しいケースだわ
植木さんは平安高校で衣笠祥雄さんとバッテリーだったってことで覚えてる人がいるかも 大学ではかなり活躍してるしね プロに行かず三菱重工へ入ってたら違う人生だったんだろうな
さて次回も3名を予定してるけど 中に8年間「36」を着けた選手が出てきます でもやっぱり50年位前のことだし知ってるって人は少ないかなあ
背番号36-4につづく
