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2代目タイガース非公式サイトです背番号の変更があったみたいなので背番号史の合間に挟ませてもらいますよ 中野拓夢が背番号を「51」から「7」に変更大竹耕太郎は「49」から「21」へ 阪神は11月21日に来季の背番号の変更と新加入選手の背番号を発表した。 今季まで「51」を背負った中野拓夢内野手(29)は、「7」に変更。真弓明信氏、今岡誠氏、糸井嘉男氏らが背負った番号となる。 また、現役ドラフト1期生で来季虎4年目を迎える大竹耕太郎投手(30)は「49」から「21」。 2024年育成ドラフト1位ルーキー・工藤泰成投手(24)が「24」から「49」、同3位ルーキー・早川太貴投手(25)が「31」から「51」となる。 また日本ハムからトレード移籍となった伏見寅威捕手は「17」、西武を戦力外となった元山飛優内野手は「00」に決まった。 7番と言うと外野手のイメージなんだけど 真弓さんはショートやセカンドもやってたんだよね 今岡さんもショートやサードだった 大竹さんの21番っていうのは主に投手だね むかし遠山さんも着けてたし岩田さんや秋山さんもだったよね 秋山さんが引退してから空いてたんだ 工藤投手や早川投手は今までより大きな番号になるんだなあ 何か意味があるのかな 次はないぞっていうような・・・ とにかく心機一転 新しい背番号でさらに好い結果残そう!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月28日
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背番号36(その1)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号史を再開するよ 「36」の第1回目です 始める前にちょっとお伝えしておくけど タイガースでは戦前に使われた番号は「39」までなのよとくに30番台後半の番号は創立当初には使用されてなくて 創立4年目の昭和14年から使われるようになったから 戦前に着けてる人は少ないのね 「36」は1名だけだよ 戦争をまたいでブランクがあって 2リーグ分裂の1950(昭和25)年に復活する番号です 球団数が増えて選手が不足するようになって 急にたくさん入団させたからよでは背番号「36」の第1回は戦前の1名と戦後の2名を紹介するね この3人を知ってる人っているのかなあ?小林吉雄 内野手最初に「36」を着けたのは小林吉雄。山口県出身で旧制山口中学の出身。学生時代の球歴はWEB上で見つけることができない。1939(昭和14)年に大阪タイガースに入団し背番号「36」を着ける。Wikipediaを見ても、入団年と退団年が書かれているだけで、あとは「詳細情報」として年度別の成績が掲載されているだけだ。168センチ66キロの内野手という情報は残っているが、どのポジションかもよく判らない。1939年に2試合、1940(昭和15)年に2試合、1941(昭和16)年に5試合に出場しているが、これがプロでの実績のすべて。通算9試合で6打席、6打数0安打0打点1盗塁1三振、打率.000である。退団理由も不明で軍からの招集という情報もない。亡くなられたのは1977(昭和52)年3月29日となっているので戦死されたわけではない。さすがにここまでさかのぼると知恵袋でも何の情報も見つからない。画像などの資料もなくお手上げである。今はこれ以上書くことができない。丸岡 武 外野手(再掲)丸岡さんは23-2で紹介済みなんだけどみなさんご記憶にあるかどうか?23と言えば永久欠番よね 吉田義男さんの直前に「23」を着けていたのが丸岡さんです 今回は一部修正を加えて再掲するよ背番号「36」を着けた2人目の選手は丸岡武。滋賀県彦根市出身で彦根高校卒業、左投左打ちの外野手。2リーグ分裂の影響で極端な選手不足となった1950(昭和25)年2月にタイガースの入団テストを受けて合格し背番号「36」をもらうが、その年は1軍でのプレーはない。170センチ60キロの外野手で、1952(昭和27)年までの3年間在籍している。最初の背番号「36」は1年間着けただけで、あとの2年は「23」に変えている。1951(昭和26)年に背番号を「23」に変更し守備要員で公式戦4試合に出場する。1打数1安打というのがこの年のすべてだった。 1952年は24試合に出場、12打数2安打2盗塁3三振の数字が残っている。ここで現役を引退、その後社会人チームの日鉄二瀬に入ったという情報もあるが確認はできない。 写真やプロフィールが残っているのが奇跡的である。プロフィールでは「彦根商」となっている。横井 啓二 捕手・内野手石川県金沢市の出身。横井は旧制金沢三中(現金沢桜丘)時代に春選抜の甲子園に出ているが初戦敗退。卒業後は社会人野球の日鉄鉱業二瀬に入社している。日鉱二瀬の真野晴美監督が当時のタイガースの松木謙治郎監督の先輩(明治大学)に当たるという縁で紹介されて1951(昭和26)年にタイガースへ入団している。丸岡が「23」に変えたことで空いた背番号「36」を着けることになった。横井は石川県初のプロ野球選手で捕手や内外野ほとんどのポジションをこなすユーティリティ性の高い選手だったと伝えられる。正式な選手登録は翌1952(昭和27)年だった。1953(昭和28)年までの3年間在籍はしたが、公式戦に出場することはできず、プロをあきらめて退団。タイガース退団後は日鉄鉱業二瀬に復帰し、1957(昭和32)年まで現役選手として社会人野球でプレーした。まとめさすがに古い話だし 3名ともあまり試合に出た選手じゃないので資料は限られているね 人柄とかプレー振りなんかはもう知ることができないわみなさんどうでしたか? 今となっては昭和30年代くらいまでは完全に「歴史」になってるなという感じがするよね 要は直接見たり聞いたりという証人が段々少なくなってきてるからだとおもう 戦前に職業野球を見たなんて人は少なくとも2代目の周りにはいないわということで個々の選手にコメント書こうにも書きようがないので ここらで第1回目を切り上げます背番号36-2につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月28日
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2代目タイガース非公式サイトですシリーズ17番目としてご紹介するのは IN THIS MOMENT(イン・ディス・モーメント)というバンドだよ 聴いたことあるかな?前回とりあげたワーロックのドロシーさんと同じで イン・ディス・モーメントも女性ヴォーカリストのマリア・ブリンクさんの呼びかけで2005年に結成されたユニットなのよ 結成時のメンバーで現在も残っているのはマリアさんとベースのクリス・ハワースさんだけね音楽的な特徴衣装やメイクなどは1970年代のプログレッシブ・ロックを思わせるわね ピンク・フロイドとかアリス・クーパーなんかに影響されてるのかな?中世的なオカルティズムを感じさせるステージも雰囲気あるのよね あまり聞き慣れないんだけど 音楽的にはオルタナティヴ・メタルとかインダストリアル・メタルなどの特徴を持っていると評価されているわ ちょっとだけ言葉の意味をWikipediaで調べてみましたオルタナティヴ・メタルヘヴィなギターリフ、メロディックで刺々しいヴォーカル、他のヘヴィメタルと比べ、型破りなサウンド(とりわけAメロ)、実験的なアプローチをすることが挙げられている 1980年代中期に勃興し、1990年代に入り人気を博した。インダストリアル・メタル1980年代後半に生まれた音楽ジャンル。スラッシュメタル、ハードコア・パンクの音楽的側面を持ち、ギター・リフ、シンセサイザー、打ち込み、サンプリング、ディストーションをかけたボーカル等が使用されている。オーソドックスな楽器ではなく加工技術を多用した音作りがされる。ヤバい感じのマリア・ブリンクWikipedaではマリアさんは幼い時に母親から影響されて音楽・・・しかもロックに魅力を感じるようになったんだって お母さんがブラック・サバス パティ・スミス ローリング・ストーンズなどを叩き込んだみたい お母さんもヤバいわね アルバムデビューは2007年の「Beautiful Tragedy」です ミュージックビデオやステージ写真を見ると 確かにもうオカルトだね まあ2代目はこういうの好きなんだけど実際のサウンドは?聴いてみると別にガチャガチャしてる感じじゃないし 音はいろんな加工はしてあるのかもしれないけど ストレートなロックと言えるよ マリアさんの声は透き通ってよく通るので聴きやすいわ 曲によってはデスメタル調のしゃがれ声だったり使い分けしてるけど基本は綺麗な声なのよスタジオアルバム一覧 2007年にアルバムデビューして約18年(これ書いてる現在が2025年)で8枚のアルバムを出してるから ほぼ2年に1枚ペースを守ってる メンバーチェンジが多いわりに安定して成長したバンドと言えるわでは これまでにリリースされてるスタジオアルバムを紹介しますね2007年 Beautiful Tragedy かなりハードなロックで すべての曲の歌詞をマリアさんが書いてるのよ このアルバムの発表に合わせてツアーが行われ 来日もしてます 2008年 The Dream このアルバムのマリアさんはシャウト系の唱い方をしていないよ バンドの変化を追求した結果1作目よりポップになった感じがする この作品から「オルナタティヴ」と言われるようになったみたい 2010年 A Star-Crossed Wasteland すべての曲の歌詞はマリアさんが担当 MNSミュージックでは「パワフル」「これまでのアルバムより一段とヘヴィ」と評価され 「モダン・メタルの傑作」とまで言われたのよ 聴いてみる価値あるよ 2012年 Blood ビルボード15位初登場 アメリカレコード産業協会(RIAA)からゴールド認証を受けた「名盤」 2014年 Black Widow これまでのアルバムよりも「より滑らかでポップ」との評価 2017年 Ritual これは独立した音楽アルバムではなく「ライブショー」であり、「動画で楽しむのが一番だ」 ・・・という評価 2020年 Mother あらゆる規模のライブ音楽体験が依然として危険にさらされている中、このアルバムの雰囲気はさらに特別な意味を持つ・・・との評価 2023年 Godmode かなりエレクトロニック音源を使っていて「インダストリアルメタル」と呼べるアルバムという評論が多いね IN THIS MOMENT はもうアメリカだけじゃなく世界的にも認められているバンドです しかも毎回色調の違うアルバムを発表して評論家を驚かせているのよ 同じところで足踏みしない 常に新しい独創性を追求する姿勢は まるで衰えを知らない これからも一定のペースで変化を繰り返して楽しませてくれそうなバンドだわ さて猛虎異人伝を一休みしてガールズバンドを挟ませてもらいました 明日からはタイガース背番号史36を一気に掲載するよ! 全8回にわたって長々とつづけるけど ちゃんと最後まで読んでよね ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月27日
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列伝36 マーヴェル・ウィンMarvell.Wynne (1991)生年月日:1959年12日17日背番号40 左投左打・外野手出身地:アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ球 団:阪神(1991)表彰等: 特になし阪神在籍:1年 123試合453打数104安打44打点13本塁打6盗塁18四球96三振 打率.230(1)オマリーと同時入団で期待度は高かったウィンウィンは1983(昭和58)年にピッツバーグ・パイレーツに入団し、3年間ほぼレギュラー級の地位にいた。2年目の1984(昭和59)年は154試合に出場して653打数174安打39打点24盗塁で打率2割6分6厘を記録しているが、これだけ打席に立っているのにホームランが0というのが気になる。パイレーツ時代には3年間で9本塁打しか記録していない。 1986(昭和61)年にはサンディエゴ・パドレスに移籍し、3年間規定打席には及ばないものの準レギュラーとして過ごしたが4年目となった1989(平成元)年のシーズン途中にシカゴ・カブスにトレードされている。 1990(平成2)年までメジャー8年で940試合2693打数664安打244打点40本塁打、打率2割4分7厘。同年入団のトーマス・オマリーが9年466試合1213打数310安打131打点13本塁打、打率2割5分6厘だから、数字の上ではウィンに期待する声が多かったのは頷ける。ウィンの年俸は約1億4000万円、一方のオマリーは約6500万円だったことが当時の評価を物語っている。ただしウィンは早打ちであまりフォアボールを選ばない選手だった。オマリーが通算133四球で151三振なのに対し、ウィンは通算191四球で398三振というところに大きな違いがあった。オマリーはウィンの約2倍のペースでフォアボールを選んでおり、逆に三振は半分以下だ。(2)1年を通じて出場し規定打席もクリア・・・メジャーでは主に1番を打つことが多かったウィンだが、阪神は開幕からオールスター前まで3番オマリー・4番岡田彰布・5番ウィンというクリンナップを組んでいる。しかしウィンはメジャー通算13本塁打のオマリーよりホームランが少なく、打率も2割2分7厘で確実性もなかった。 そのため後半戦では3番岡田・4番オマリー・5番真弓明信というクリンナップに切り替え、ウィンは6番や7番に下げられている。前半戦で7本塁打だったウィンは最終的に13本塁打に終わり、打率も2割3分0厘でセリーグ規定打席到達者では最下位。相変わらず打撃向上は見られなかった。しかも当初から危惧されたように、選んだフォアボールがわずか18個なのに対し三振は96個と選球眼が全くないこともメジャー時代と変わっていない。(3)全力プレーはファンも評価したが1年で解雇ウィキペディアににも掲載されているが、5月19日の中日9回戦のあわやサイクルヒットのエピソードがある。第1打席で2ベース、第2打席で3ベース、第3打席で3号2ランを打って王手をかけた第4打席。打球は長打コースに飛びウィンは全力疾走で2塁まで行ってしまう。これはメジャー流のチームプレーだろう。第5打席は回ってこず記録達成はできなかったが、4打数4安打3打点の活躍だった。 怠慢プレーが目立つオマリーに対して、1塁への全力疾走などウィンはチームプレーを実践していたようだ。これは長くレギュラー級でメジャーを過ごしてきた選手ならではのプライドでもあるだろう。逆にオマリーは3Aが主で手抜きを覚えてしまっていたものと思われる。しかし結果は数字がすべて。3割20本80打点をクリアしたオマリーは残留、総合的にはるかに劣るウィンは1年で解雇されてしまった。マーヴェル・ウィン[完]ウィンの年度別打撃成績ウィン選手は123試合にでてるからシーズンを通して使われてるんだけど 2割3分でホームラン13本では来年また使おうって気にはならないよ 18個しかフォアボール選んでないし それでいて96三振だからメジャー時代と傾向は変わってないわ 早打ちでブンブン振っていくタイプ 日本の野球に順応しようという気持ちがなかったんじゃないかな? 1億4千万円は高い買い物だったねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月26日
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列伝35 トーマス・オマリー③(9)幻となったオリックスへの金銭トレード問題のある言動が増えたオマリーに手を焼いた中村監督は、9月から三好球団社長と協議を重ね、シーズン終了前にはすでにオマリーを来季の戦力構想から外すという結論に達していた。1994(平成6)年10月17日早朝、球団からオマリーに対しFAXにより「来季の契約は結ばない」という旨の通知がなされる。一方でオマリーを敵に回したくないことから、移籍先をパリーグに限定したオマリーのオリックスへの金銭トレードによる譲渡もほぼ決定し、オマリーの代理人に打診した。ところがオマリーは強い「セリーグ志向」を持っており、「オレにはセ各球団の投手のクセを熟知しているという宝物がある。試合のために移動していく町にも慣れている。これを無駄にする手はないだろう」と言ってオリックス移籍プランを一蹴し、阪神の保有期限11月30日が過ぎるのを待った。 晴れて自由契約選手となったオマリーは12月17日、ヤクルト・スワローズと契約する。4年連続3割を記録している好打者をみすみす放置する野村監督ではなかった。同一リーグ、なおかつ2年前には優勝を争ったヤクルトへの移籍には阪神ファンも困惑し不安視した。そしてそれは翌年現実のものになる。(10)1995年シーズンは野村監督の指導で別人に阪神在籍4年ですっかり「わがまま放題」になっていたオマリーに対し、野村監督はキャンプで厳しくメニューを与え消化させ、根気よくチームプレーの大切さを説いた。次第に野村の考えを理解したオマリーは若手に混じって5000メートル走もこなすほどになり、公式戦で結果を見せる。本拠地が甲子園球場から狭い神宮球場に変わり、強い浜風もない。この環境の変化もオマリーにとって大きなプラス要因になった。 本拠地の初戦となった1995(平成7)年4月11日の中日1回戦では、ヤクルト球団としても12年振りとなる3打席連続ホームランを放ち、野村監督をして「ワシがキャッチャーでも抑えられんよ」とまで言わしめた。4月28日からの対阪神3連戦(甲子園)では3試合連続ホームランで阪神ファンを奈落に落とす。ヒーローインタビューは「ヤクルトファンノ、オウエン、クダサーイ!」に変わり、阪神ファンを落胆させている。 高打率に加えてホームランまで量産したオマリーが、この年のヤクルトの独走の原動力だったのは疑問の余地がない。125試合に出場して打率3割2厘、31本塁打、87打点の成績だが、フォアボール96個が効いて4年連続で最高出塁率のタイトルに輝いた。打ち取りにくい打者として他球団から恐れられ敬遠が増えて23個を記録(球団新記録)している。ヤクルトは9月30日にリーグ優勝を決め、オマリーはリーグMVPを受賞した。(11)日本シリーズでもMVP、伝説的な「小林・オマリーの14球」オマリーは日本シリーズでも全5試合で安打を放ち、19打数9安打4打点2本塁打7四球という抜群の成績で貢献してMVPに輝く。 中でも第4戦で見せた「小林・オマリーの14球」は日本シリーズ史に花を添える逸話となっている。それはヤクルトが3連勝で迎えた第4戦。2年ぶりの日本一を前に神宮球場は揺れていた。試合は同点の11回裏、1アウト1・2塁という一打サヨナラの場面でオマリーに打席が回ってくる。オリックスのピッチャーは5人目の小林宏でこの年、先発として8勝を挙げていた。オマリーは2球で追い込まれるが、そこからファウルで粘り7球目にあわや日本一を決めるサヨナラホームランとなる大ファウル。 その後、両者は一歩も譲らずフルカウントのまま14球目に低めの変化球をオマリーが空振り三振してしまう。この対決は今も『小林・オマリーの14球』と語り継がれている球史に残る名勝負だった。試合は延長12回表にオリックスが1点を勝ち越して逃げ切り、一矢を報いて対戦成績はヤクルトの3勝1敗となった。オマリーは後年、この打席を次の様に振り返っている。「お互いに全て持っている力を出し切った勝負だったよ。日本シリーズは優勝できたけど、あそこで三振してしまったのは今でも少し悔やまれるね(笑)」この手に汗握る対決は動画が残ってるよ 約13分と長いけど興味ある人は次を観てね(1995年 日本シリーズ第4戦 オマリー小林の14球 - YouTube)(12)1996年も3割を記録するが野村監督の我儘で解雇1996(平成8)年、オマリーは打率3割1分5厘18本塁打97打点と活躍している。タイガース時代から6年連続の3割越えだった。しかし、シーズンオフに落合博満が巨人を退団すると、野村監督の興味はそっちに行ってしまう。オマリーは落合に4番の座を空けるために10月24日に戦力外の憂き目を見ることになる。野村は自ら2度も落合と交渉に臨んだが空振りに終わり、落合は日本ハムと3億円で契約している。思ったようにはいかなかった。(13)その後のオマリーオマリーは日本でプレーする中で日本人の持つ好い習慣が身に付き、のちに指導者になってからも役に立ったと語っている。 「時間に余裕を持って行動するんだ。早く来るのが当たり前。時間通りに来るようじゃ遅刻。遅刻するくらいなら来ない方がマシってね。若い頃から良い習慣を身に付ければ、後々に人生の助けにもなるからね。」2002(平成14)年に星野監督の就任とともに特命コーチとして2年間若手選手の指導や外国人選手のケアにあたってチームに貢献し、2003(平成15)年のリーグ優勝につなげている。 2004(平成16)年から2009(平成21)年まで阪神の駐米スカウトに就任したが、推薦したルー・フォードやケビン・メンチなどが全く当て外れに終わったため退任している。なお、2004年6月に勃発した近鉄とオリックスの合併問題に伴う球界再編で、楽天とライブドアが名乗りを上げたとき、もしライブドアが承認された場合にはオマリーが監督に就任することが決まっていたが、楽天が認められたため立ち消えになっている。 2013(平成25)年10月に打撃コーチ補佐に就任、2016(平成28)年まで務め、マット・マートンやマウロ・ゴメスへのアドバイスもしていた。 トーマス・オマリー[完]オマリーの年度別打撃成績 アメリカではメジャー9年間で466試合2割5分程度の選手だったのに 日本に来て大化けしたね これは驚きだわ「ホームランが少ない」という評価については運悪くラッキーゾーンが1991年オフに撤去されたのが響いてるかもしれない 入団1年目だけしかゾーンがなかったのよね 最初からヤクルトに入っていたら毎年30本以上打ったとおもうこの当時のオマリーさんを実際に見てた先代が言うには守備も下手じゃなかったんだってね 膝の具合さえ悪くなければかなり上手かったらしいわ 肩もだけどスナップが凄く強くてサードからの送球も正確だったと言ってるよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月25日
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列伝35 トーマス・オマリー②(5)2年目は優勝争い 新庄のフィーバーのきっかけもオマリー入団2年目の1992(平成4)年は「亀新フィーバー」が巻き起こり、阪神の長い暗黒時代で唯一の優勝争いをしたシーズンだった。亀山努はすでに開幕から起用され、その俊足を生かした盗塁とトレードマークとなるヘッドスライディングで人気者になり、4月25日の中日4回戦ではチャンスの場面で岡田の代打として打席に立つなど、世代交代の象徴になりつつあった。 一方の新庄剛志のフィーバーのきっかけはオマリーが作った。オマリーは5月に入って右手を骨折したことで戦線を離脱。5月26日の大洋6回戦で新庄がオマリーに代わって7番サードでプロ初のスタメン出場すると、2回裏の第1打席で初球をレフトスタンドに運び鮮烈なデビューを飾った。6月にオマリーが復帰しても、新庄はセンターに守備位置を変えてそのままレギュラーをつかんでいる。(6)ファンも優勝を確信したが最後の最後で失速し2位オマリーは大洋で4年連続3割を記録しながら解雇されて阪神に入団したジム・パチョレックや成長著しい八木裕などと中軸を担い、最後まで優勝争いを面白くしてくれた。最終的に打率3割2分5厘の数字を残し、最高出塁率のタイトルに輝いている。OPSは.993とハイレベルだった。残念なのはホームランが1年目の21本から15本に減ったことだが、出場試合数が130に対し111だったことやラッキーゾーンが撤去されたことを考慮すれば、かなり好い数字だろう。セリーグは阪神、巨人、ヤクルトが争う展開で9月を迎え、阪神は9月9日から19日までの8試合で、引き分け1(八木の幻のホームランが出たヤクルト18回戦)をはさんで7連勝を記録し2位巨人に3ゲーム差をつけて首位に立っている。ところがこの19日の大洋戦の試合後のインタビューが問題だった。翌日から13試合の長いロードに出るにあたって、中村勝広監督は5万5千人の大観衆を前にして「大きな土産を持って帰ります」とやってしまう。球場はファンの大歓声に包まれたが、これはまだ言ってはいけないセリフだった。 案の定、ロードに出たとたんに4連敗。結局13試合のロードは3勝10敗に終わり、10月7日にヤクルトに逆転負けを喫して首位を明け渡すことになる。そして迎えた10月10日、甲子園でのヤクルトとの最終戦は荒木大輔を打ちあぐみ、2-5で敗れて目の前での胴上げを許すことになってしまった。 最後の詰めが甘かった阪神は2位タイでシーズンを終了している。9月11日のヤクルト18回戦で八木の放った「幻のホームラン」に原因を求める声が多いが、その試合の10回から18回までの9イニングを一人でリリーフしたヤクルトの岡林洋一を攻略できなかった阪神がふがいなかったというべきだろう。(7)すっかり溶け込んだ3年目「ハンシンファンはイチバンやーっ」在籍3年目の1993(平成5)年はすっかり阪神に溶け込み人気者になっている。7月11日のオールスター第2戦(グリーンスタジアム神戸)では4打数4安打、4回には佐藤義則から2ランホームランを放つ大活躍でMVPになり、ヒーローインタビューで「ハンシンファンはイチバンやーっ」が飛びだし、その後は恒例となる。 松永浩美の加入でファーストにコンバートされたこともあって1年を通じて体調面の問題もなく125試合に出場し打率3割2分9厘で首位打者になっている。ホームランも阪神在籍で最多の23本、OPSは前年を上回る.994の数字を残した。 その中で首位打者争いは最後までわからなかった。10月20日終了時点で、大洋のロバート・ローズがダブルヘッダーの2試合を残して480打数157安打で打率は3割2分7厘1毛、オマリーは1試合残して432打数141安打で打率3割2分6厘4毛だった。決着は10月21日。オマリーは1打席目にヒット、2打席目もセーフティバントを決め、打率を3割2分9厘4毛に上げてベンチに下がる。一方のローズはダブルヘッダー第1試合で4打数1安打、打率は3割2分6厘4毛に下がってしまう。そのまま第2試合に出場したローズが1、2打席で凡退し望みがなくなった時点でオマリーの首位打者が決定した。(8)「ヤンチャ坊主がそのまま大人になったような男」は戦力外にオマリーは3年間よく働いてきたが、4年目の1994(平成6)年になると緩みがでてくる。現場ではまだまだ頼りにしたいオマリーだが、フロント側からの視点で見ると問題点も見えてきたようだ。 ポジションはサードに入ることが多かったが、ひざの故障を理由にバントシフトのダッシュを拒否したり、「気が散るから自分の打席の時にはランナーを走らせるな」というようなプレー上の注文が増えたほか、「新外国人選手にどうか」と言って自分の知り合いの選手を売り込んだりと、我儘な言動が目立つようになる。実際に選手からも「今までいろんな外国人選手と付き合ってきたけど、あれだけ愛想の悪い男は初めてや」という声まで聞こえたという。外からは分からない一面があったようだ。オールスターゲームでは、監督を務めた巨人の長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍をアピールしたことも久万オーナーの耳に入り、「ヤンチャ坊主がそのまま大人になったような……」と不興を買っている。 公式戦では124試合で打率3割1分9厘、15本塁打でそれなりの数字だったが、ホームランが減ったことと、それ以上にそれまでの3年間が29本、30本、32本だった二塁打が18本に減ったことの方が深刻だった。明らかに膝の状態が悪化しており、出塁してもまともに走れないでないでは後続の打者の成績にまで影響する。表向きは本塁打が少ないこと、守備が緩慢であることを理由にしているが、シーズン終了後の契約更改交渉でオマリー側が高額な年俸と複数年契約を要求してきたために阪神側があきれ果て、戦力外となったらしい。34歳になり前年より成績が落ちたにもかかわらず、すでに約2億円になっていた年俸以上を要求されてはやむを得ない。オマリーは1995(平成7)年からヤクルトでプレーすることになるが、そのまえにちょっとしたゴタゴタガあったようだ。それについては③で記述する。トーマス・オマリー③へつづく ①~②はタイガース時代のオマリーさんを見てきました 次回3回目がオマリーさんの最後になるけどヤクルト時代を紹介します タイガースファンにとっては苦い思い出かもしれないけど我慢して読んでみてねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月24日
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2代目タイガース非公式サイトですタイガースで4年 スワローズで2年 タイガースでは背番号1を着け とても印象深い選手だったオマリーさんなんだけど 最初に先代が背番号史の公開を始めた頃はひどくあっさりした記述になっているのね 先代は参考資料などはたくさん収集してるんだけど 各背番号についてブログ3~5回くらいに収まる感じで進めてたみたいなのね そのために個々の選手の紹介の文章はごく短いわ 要はいろんな逸話などを削ぎ落してしまってるオマリーさんほどの実績ある選手を簡略化してしまったのは惜しいので 先代が集めた資料や下書きメモから詳細な記事に構成しなおして3回に分けて掲載するよ ぜひじっくり読んでみて! 列伝35 トーマス・オマリー①Thomas.Patrick.O'Malley (1990~1994)生年月日:1960年12日25日背番号1 右投左打・内野手出身地:アメリカ合衆国ニュージャージー州オレンジ球 団:阪神(91~94)、ヤクルト(95~96)表彰等:首位打者1回(95)、最高出塁率4回(92~95)、最多勝利打点2回(95・96) ベストナイン1回(95)、ゴールデングラブ賞1回(92)、セリーグMVP1回(95) 日本シリーズMVP1回(95)、オールスター出場3回(93,94,96)、同MVP1回(93)阪神在籍:4年 490試合1721打数548安打304打点74本塁打6盗塁 315四球298三振 打率.318(1)パリッシュ引退の穴を埋める補強ランディ・バースを解雇した翌年の1989(平成元)年にセシル・フィルダー、1990(平成2)年にはラリー・パリッシュといずれも長距離砲を補強した阪神だったが1年づつの綱渡りになっている そのあとを受けて1991(平成3)年に入団したのがトーマス・オマリーだった。ところが後年になって、非公開だった事実をオマリー自身が語っている。「1990年、メジャーでプレーする私に阪神から誘いがあったんだ。これは後から知ったんだけど、その2年も前から阪神は私にオファーしてくれていたんだ。その頃の私はメッツであまりパッとせず、このままメッツに残るか、もっと試合に出られるチームに移籍するか悩んでいたんだ。それでシーズン終了後に思い切って阪神に電話したんだよ。あれは人生で最高の決断だった。」ということはフィルダーを選んだ当時、オマリーにも打診していたということになる。突然決めたわけではなく、すでに2年前からオマリーの才能を評価していた阪神スカウトの眼は確かだったわけだ。(2)成績が伸びず移籍を繰り返したメジャー時代オマリーは1979(昭和54)年にサンフランシスコ・ジャイアンツからドラフト16巡目で指名され高校卒でプロ入りしている。サンフランシスコ・ジャイアンツ時代ね まだ少年だ!1982(昭和62)年にメジャーデビューすると、翌1983(昭和58)年には135試合に出場しており、410打数106安打45打点5本塁打、打率2割5分9厘の成績を残し、このままレギュラーへ近づいていくかに見えた。ところが期待されて迎えた1984(昭和59)年は伸び悩んだうえに成績も不振、シーズン途中にシカゴ・ホワイトソックスへ放出されてしまう。ここから放浪が始まり、1985(昭和60)年にはボルチモア・オリオールズ、1987(昭和62)年にテキサス・レンジャース、1988(昭和63)年にモントリオール・エクスポス、1989(平成元)年にはニューヨーク・メッツという具合に1~2年ごとに移籍を繰り返した。 成績も低迷したままで、1983年以外は100試合以上出場したシーズンはなく、選手として長期間くすぶっている。大きな変化を求めて阪神のオファーに応じる決断になったというのが真相のようだ。メジャーで実働9年の実績があり、阪神に来た1991年は31歳だった。(3)阪神1年目に全130試合出場、3割・20発を達成1990年10月25日に契約と同時に入団が正式発表される。背番号は「1」に決まり、1年目の年俸は50万ドル(日本円でおよそ6500万円)だったという。1991(平成3)年の春季キャンプ当初からバッティングでは尋常でない選球眼とミート能力が高く評価された。ただし長打力については物足りなさを指摘する声が多かった。ポジションはサード。守備範囲は広くないが、スナップスローが素晴らしく、捕球してしまえば糸を引くような送球でアウトにする場面が見られた。隣は同じ1991年に入団したマーヴェル・ウィン選手シーズンに入ると変化球の多い日本人の投手に対し広角に打ち返す器用さを見せているが、バッティングに関してオマリー本人は相手投手が右投げのときは重いバット、左投げのときは軽いバットを使っていたと語っている。「右投手用のバットは910~920グラムで左投手用のバットは900グラム。左右の差は10から20グラムだったと思う。左投手は外に逃げて行く変化球を投げるので、バットが軽い方がボールをギリギリまで引き付けてライトへ引っ張ることができた。科学的根拠はないが、それでいい結果を残せていた」1年目に130試合476打数146安打81打点21本塁打で打率3割7厘を記録したオマリーだったが、ファンからはロバート・レッドフォードやビル・クリントン米大統領に似ているという方で人気者になっている。(4)対戦した谷繁元信が認めた好打者オマリー実際に対戦した谷繁氏が「配球が難しかった」と感じた5人の外国人打者の一人としてオマリーの名を挙げ、「5人には技術があって、ピッチャーだけでなくキャッチャーのことも考えて打席に入っている」という共通点があったと証言している。特にオマリーについては次のように語る。「バットコントロールがうまくて、ストライクゾーンの中ならどのコースでも芯に当ててくるようなイメージがすごく強かったですね。実際、そういうバッティングが多かった」「引っかけさせてセカンドゴロか、ショートゴロを打たせる。だから、基本は低めの曲がり球です。右ピッチャーならシュートやフォーク、左ピッチャーだったら外に逃げるスライダー。手を出させながら、凡打に打ち取りたい。でも、配球を読んでいてボール球にはなかなか手を出してくれないんですよ」 谷繫の言うことは実際に数字にも表れていた。まだ特徴をつかめていなかった1年目はフォアボールが57個だったが、2年目以降は94個、75個、87個となっている。ヤクルトに移ってからも96個、74個だ。 これはバッテリーが攻めあぐねて歩かせることが多かった証拠と言える。特にスコアリングポジションにランナーがいる場合は状況に応じたバッティングをしてくるため、警戒して最悪歩かせることが増えた結果である。トーマス・オマリー②へつづく次回は2年目から4年目のオマリーさんです ずっと3割打ってるんだよねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月23日
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2代目タイガース非公式サイトですみなさん またまたごめんなさい ウィッグス選手はパリッシュ選手を飛び越していましたね 改めて入れ替えます ちょっと忙しくて混乱してるので許してね列伝34 リチャード・ウィッグスRicherd.E.Wieligman (1990)生年月日:1962年10月21日背番号42 左投左打・外野手出身地:アメリカ合衆国ミズーリ州球 団:阪神(90)表彰等:なし阪神在籍:1年 26試合47打数9安打4打点1本塁打0盗塁 打率.191 (1)メジャー経験のない無名選手 獲得の価値があったのか?本来の名前の読み方は「リチャード・ウェリグマン」。どういうことで登録名が「ウィッグス」になったのかは不明。1985(昭和60)年にデトロイト・タイガースと契約してプロ入りしているが、メジャーに昇格した経験はなく無名の選手。 下のカードはタイガース傘下の1Aレイクランド・フライングタイガース時代のもの。 1990(平成2)年、外国人選手枠が3名だったなかで、タイガースはマット・キーオ、ラリー・パリッシュに加え、スペアの意味合いの強い3人目の外国人選手としてウィッグスと契約している。来日直前はデトロイト・タイガース傘下の3Aトレドでプレーしていた。当時27歳だったが、8月中旬までパリッシュがしっかりと4番を務め、ホームラン数でリーグトップを走っていたこともあってほとんど出場の機会がなかった。5月8日の中日3回戦がデビューで7番スタメンレフトに入り3打数1安打、9日が3打数2安打で初本塁打が出たため、翌10日に打順を6番に上げたところ3打数ノーヒット。5月25日まで使ってみたが打率2割4分、ホームランも出る気配はなく、そこから長い二軍生活になった。(2)長い二軍生活でも川藤コーチに可愛がられる「ウグイス」? 2023年5月7日のアサ芸プラスに面白い記事が掲載されたので抜粋掲載してみる。本来ならメジャー経験もなく、パリッシュがいたため1軍に昇格するチャンスはなかったかもしれない。当然、開幕から二軍暮らしが続いたが、そのパリッシュが古傷のヒザの状態が思わしくないこともあり、シーズン中に途中退団。思いもよらず、一軍でプレーするチャンスが巡ってきたのだ。結局は26試合に出場して、47打数9安打、1本塁打、4打点、打率1割9分1厘というふがいない成績で、わずか1年で解雇されてしまった。当時、中村勝広監督の下、外野守備走塁コーチを務めていた川藤幸三氏は、なぜかこのウイッグスをかわいがった。一軍外野守備走塁コーチという肩書こそあったが、高知県安芸での春季キャンプでは「俺は無任所コーチみたいなもの。いや、無任所ではなく無責任コーチや」と自虐に話していたらしい。その川藤氏が時間潰しの相手に選んだのが、「ウイッグス」だった。キャンプ中は、グラウンドから離れた場所に設けられたゲージに連れ出し、付きっきりで打撃指導にあたっていたものだ。また、1軍に昇格した後もウイッグスの打撃指導は川藤氏の仕事で、甲子園では試合前にも室内練習場に呼び出し、打撃練習をさせていたという。ウィッグスは甲高い声の持ち主で、気弱な性格だった。川藤氏の指導に黙々と応じ、時には「私の打撃は間違っていた」と、蚊の鳴くような声で話していたらしい。川藤氏からウグイスと呼ばれていたが、それはウイッグスをウグイスといい間違えただけ。だが1年の間、言われ続けた本人がその間違いを指摘しなかったというのだから、プロのアスリートには不向きな性格だったかもしれない。(3)結局何しに来たのか???このアサ芸さんの記事は2023年だから2代目が引き継いでから書かれたものです 先代の原稿にはなかったのよ・・・ということはウィッグス選手についてはこの記事がなかったらほとんど書くことが無かったってことなのね・・・これを読む限りおよそプロの選手と思えない軟弱タイプだったようだが、川藤氏に指導されて余計に打てなくなったのかもしれない。8月にパリッシュが退団してのち、待望の出場機会に恵まれても活躍する様子がないままシーズンは終わり、上記の記事にあるような数字しか残せず戦力外となった。ホームランは5月9日に打った1本だけに終わっている。リチャード・ウィッグス[完]ウィッグスの年度別打撃成績これはちょっとひどいわね そもそも何で契約したのかな? この選手を覚えてる人っているの? 顔を知ってるって人がいたらすごいよ 情報も少ないけどどう見ても役に立ってないよね 川藤さんに「ウグイス」なんて間違えて呼ばれ続けても文句も言えないなんて情けなさ過ぎるよ 笑っちゃうわ それでも記事によると川藤さんに指導されて忠実にフォームの改良に取り組んでたんだって・・・ だめだわこの選手ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月22日
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列伝33 ラリー・パリッシュ②(6)フィルダーに逃げられた阪神が緊急補強1989年に38本塁打をマークしたセシル・フィルダーの引き留めに失敗した阪神は焦っていた。このままでは前年5位というチームを任される新任監督の中村勝広がか細い戦力で戦わなければならない。そこへ入ってきたのが「野村ヤクルトがパリッシュを解雇」というニュースだった。まさかの本塁打王解雇は阪神にとって朗報ですぐにオファーを出した。 のちにわかったことだがパリッシュ側はひざの故障を考慮して、パリーグの球団からの打診を待っていたようだ。指名打者制があれば1年もたせる自信があったのだろう。パリーグ球団から話が来たかどうかは明らかではないが、そうなっていたらまた40本を超えるホームランを打っていたかもしれない。結局パリッシュは年が明けた1月13日、阪神と年俸100万ドル(約1億4500万円)で1年契約を結ぶ。背番号はなぜか「44」を選ばず「45」を着けることになった。乱闘事件も水に流してチームメイトに(7)阪神ファンは大歓迎 パリッシュも期待に応える 1990(平成2)年、36歳を迎えたパリッシュは、いきなり関西マスコミから「バースの再来」と熱烈な歓迎を受けた。フィルダーがいなくなってガックリしたところへ、前年のホームランキングが来たわけだから当然の反応だった。ペナントレースが始まると「4番・ファースト」で存在感を見せ、落合博満(中日)と本塁打と打点のタイトル争いを繰り広げた。 6月に調子を落とし、一時的に打順降格もあったが、7月は9本塁打で再び落合を突き放し、7月23日時点で25本塁打、69打点で二部門のトップに立っている。1990年のセリーグは巨人が独走したため、夏場には野球ファンの興味はパリッシュと落合による個人タイトル争いに移った。(8)ついに膝の爆弾が破裂しかし8月中旬、ついにパリッシュの左膝が限界を迎えてしまう。膝に補強器具をつけているためじん帯の痛みがひどく、担当医から「手術が必要だが、リハビリしてもプレーできるかどうかは5分5分」という診断が下った。パリッシュは「あと25試合、ごまかして我慢すれば打撃タイトルの出来高ボーナスも手に入るかもしれない。だが、どうしても打席で体重の移動がスムーズにいかない。残念ながらもう限界だ…」と観念する。そして8月22日の大洋20回戦の試合後、中村監督に次の様に伝えたという。 「左ヒザが痛い。休ませてほしい。タイトルにはこだわっていないから、チームの将来のために若手を使ってもらっていい」8月25日から甲子園に戻ってヤクルトとの3連戦まで出場。「3番・2塁」で先発した3戦目の27日の試合前、「申し訳ないが、もうプレーできない」とチームメートにも涙を浮かべながら別れの挨拶をしている。 しかし、阪神球団側は「明日(28日)、本人と話し合う」とコメントしただけで、実質的な引退試合にもかかわらず、本拠地に集まったファンに対し、セレモニーもなく静かにパリッシュは最後の試合を終えた。8月29日にようやく球団事務所で会見を開き、パリッシュは正式に現役引退を発表している。引退の理由については次の様に語っている。「8歳からずっと野球をやってきた自分にとって野球は人生そのもの。しかし、内角の速いボールを打てなくなったときに、もう現役としてやっていけないと思った」8月29日時点で、28本塁打はセ・リーグのトップ。ホームラン王のまま、元大物メジャーリーガーらしくユニフォームを脱いだ。その気さくな性格は日本でも愛され、8月31日の帰国時には、見送りにいった記者たちから馬のぬいぐるみがプレゼントされたという。荒々しく見えるパリッシュだが、故障でポテンシャルが低下した状態でプレーし続けることを良しとせず、若手を使ってくれと譲る潔さなどは、さすがメジャーの大物は紳士だと感じさせてくれた。(9)補足・ワニについて「ワニ? まさか、ワニを食べると言ったことが日本であんなにセンセーショナルに伝えられるなんて、想像もしていなかったよ。だって、私はフロリダでは毎日、ワニに会っていたからね。フロリダにはたくさんの川、池、沼があるんだ。水辺があれば、そこには必ずワニがいる。ゴルフ場にもいるよ。彼らはグリーンによく寝そべっている。きれいに刈られた芝は、ワニにとって寝心地がいいんだろうね(笑)」ラリー・パリッシュ[完]パリッシュの年度別打撃成績パリッシュさんのメジャーでの実績ってすごいじゃん ホームランは通算250本超えてるんだよ 日本に来たメジャーリーガーの中でも上位クラスよね ①で紹介したように1年目にヤクルトで全試合出場してホームラン王になってるから 「ヤクルトの助っ人」というイメージが強いかなあ タイガースでは中途半端になっちゃったからあまり印象が強くないわ惜しかったのは膝の故障だよねえ でもこれがなければそもそも日本に来てないかな? メジャーで選手生活を全うしてたとおもう 痛い膝で1年目に42本でホームラン王 タイガースでも8月中旬での28号はリーグトップだったわけだから メジャーの実績がウソをつかなかった選手 現役バリバリの時代を見てみたかったなあ ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月21日
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2代目タイガース非公式サイトですみなさん大変失礼しました 猛虎異人伝のパリッシュ選手が順序を待ち換えて公開してしまいました 改めて第1回を公開します 明日もう一度2回目を載せますのでご容赦ください 列伝33 ラリー・パリッシュ①Larry. A. Parrish (1990)生年月日:1953年10月10日背番号44 右投右打・一塁手出身地:アメリカ合衆国フロリダ州ウィンターへブン球 団:ヤクルト(89)、阪神(90)表彰等:本塁打王1回(89) ベストナイン1回(89) オールスター出場1回(90)阪神在籍:1年 105試合381打数95安打80打点28本塁打0盗塁 打率.249 (1)メジャー通算15年で256本塁打の大物パリッシュは1974(昭和49)年にモントリオール・エクスポスに入団。同年からメジャーを経験し、2年目からレギュラーに定着、1979(昭和54)年には153試合544打数167安打82打点30本塁打で打率3割7厘の成績を収めるなど強打者として活躍する。1982(昭和57)年にはテキサス・レンジャースに移籍するが、ここでも6年間レギュラーを張る。1987(昭和62)年には152試合557打数149安打100打点32本塁打で打率2割6分8厘と34歳にしてキャリア最多のホームランを記録している。ところがシーズン中に痛めた膝を手術して臨んだ1988(昭和63)年、全く成績が上がらず68試合で打率1割9分0厘、7本塁打となったところで、レンジャースはパリッシュを放出。シーズン後半はボストン・レッドソックスでプレーしたが52試合で2割5分9厘、7本塁打だった。通算1789安打992打点256本塁打の成績を誇るパリッシュも、ケガによりメジャーをあきらめたが、ヤクルト・スワローズが興味を持って獲得が決まる。本人は「当時、年配の選手たちが仕事を見つけるのは大変でした。ここで稼げるよりも多くのお金で日本に遊びに行くオファーをもらった」と語っているように最後のひと稼ぎのつもりだったようだ。(2)「ワニ男」スワローズへ入団1989(平成元)年、ヤクルトへ入団したパリッシュは会見に臨み、好きな食べ物を聞かれて「ワニのステーキ」と答える。絶句する記者たちを前に「フロリダではみんな普通に食べるよ」と説明したが、マスコミは翌日の新聞で「ワニ男」と命名してしまった。年俸9000万円(当時のレートで約65万ドル)とは実績に比べるとはっきり安い。しかし、すでに地元で競走馬を5頭も持つなど15年のメジャー生活で十分な富を得ていたため気にしなかったという。それ以上に、膝を3度も手術したことで、パリッシュ自身もどれだけのパフォーマンスができるかの判断が難しかったのも理由にあるだろう。「シーズン25本塁打で80打点ぐらいは自信がある。ランナーを返すのが自分の仕事」と語ったが、弱気ともとれる数字だ。しかし、ペナントレースに入るとホームランを量産し続ける。(3)本人も驚く本塁打ペース4月は打率3割2分0厘、6本塁打、13打点。5月はさらに上昇して打率3割4分3厘、11本塁打、20打点と大爆発。月間MVPを獲得してヤクルトファンを熱狂させる。このシーズン、ヤクルトの関根潤三監督は、池山隆寛、広沢克巳、長嶋一茂などの若手人気選手に対し三振を恐れず思い切り振らせる「のびのび野球」を展開している。パリッシュは池山や広沢とともに「100三振トリオ」と呼ばれながら「4番・ファースト」として若手中心のチームをけん引し、オールスターにもファン投票で選出されるなど、実力と人気が伴う活躍を見せた。 パリッシュは公式戦130試合にフル出場しており、打率2割6分8厘ながら、42本塁打、103打点でOPSは.892。本塁打王とベストナインに輝いている。(4)阪神戦での大乱闘で退場の逸話1989年5月31日のヤクルト・阪神6回戦(神宮)での出来事。もともと怒りっぽい性格のパリッシュが巻き起こした騒ぎは、「1イニング2度乱闘」として日本のプロ野球史に残る事件だ。 乱闘の前には伏線がある。阪神の先発野田浩司は3回途中でノックアウトされ、代わった岡部憲章がワイルドピッチ。ここでホームに突っ込んできた3塁走者のパリッシュと衝突して負傷退場する。岡部に代わってマウンドに登った3番手の工藤一彦が報復とばかりにパリッシュの次の打席で危ないボールを連発したことで両軍に不穏な空気が漂う。6回裏にまたパリッシュの打席が回ってきた。マウンドの阪神4番手はルーキーの渡辺伸彦。これが故意か手元が狂ったかわからないが、パリッシュの左手にデッドボールを当ててしまい激高したパリッシュがマウンドに向かって詰め寄った。ホントにチョップが決まってるよ!しかもボールが当たったはずの左手で! 慌てた捕手の岩田徹が制止しようとしたところ空手チョップをくらわされ、これをきっかけに両軍入り乱れての大乱闘になった。審判がパリッシュに退場を告げて両軍はベンチに下がったが、すぐに第2ラウンドが控えていた。阪神の渡辺は続投し二死となったところで中西親志の頭部へ危険球!パリッシュの伏線もあって怒り狂った中西がマウンドに突進すると渡辺は外野へ向かって全力で逃げる。 追いかける中西を岡田を中心とした阪神の内野陣が取り押さえようとする。これを見ていたヤクルトベンチはまた飛び出し、両軍もみ合う乱闘第2ラウントに発展してしまった。和田さんの飛び蹴りがすごい!外野に避難した渡辺をヤクルトの小谷コーチが執拗に追い回し 渡辺はセンターからライトの間をぐるぐる走り回って逃げ続ける。外野スタンドの阪神ファンから「頑張れ」「逃げ切れ」の声援が飛ぶ中、栗山英樹が小谷コーチを止めたことで何とか無事に逃げ切った。 この第2ラウンドは、渡辺が危険球でのセ・リーグの退場者第1号となったほか 渡辺を追いかけた小谷コーチが足に肉離れを起こしたという。大荒れに荒れたこの試合は9-13でヤクルトが勝利。ヤクルトは広沢が9号を放っただけだが、阪神は7本ものホームランを打ったのに敗れている。当時の守備走塁コーチだった柏原純一が振り返るには、「当時はやられたらやり返せが当たり前だから乱闘は普通だよ。岡部の負傷の報復があったと思う。パリッシュにひどいスライディングをされて〝いってまえ〟になったんじゃないか。クリーンアップは狙われるよ。ヤクルト側も死球が1回ならいいけど、1イニング2回になったらいくわね。引っ込みがつかなくなる。故意か故意じゃないかは分かるからね」今では考えられない喧嘩野球の時代の出来事。パリッシュは第1ラウンドで退場しているから2ラウンドには加わっていない。しかし原因を辿っていくとパリッシュの危険スライディングから始まっていたことがわかる。こうした荒々しく喧嘩っ早い性格がシーズンオフに禍を起こすことになる。 (5)野村ID野球にパリッシュは不要メジャー時代の実績に恥じない来日1年目の成績だったパリッシュは当然次のシーズンの残留を誰も疑わなかっただろう……と思いきや、シーズンオフに状況は一転する。関根監督に代わって野村克也の新監督就任が決まったからだ。 10月初旬にパリッシュ側は、日本での交渉でヤクルトと年俸1億円でほぼ契約合意に至ったとみなし帰国している。しかし、11月末に日本にいる友人から「新聞にパリッシュ解雇と書いてあるけど本当か?」と連絡がきて、慌てて代理人が球団に問い合わせたら「そのとおりです」と返答があったという。パリッシュは翌年の働き口を突然失ってしまった。膝に不安があり、三振が多い(リーグワースト2位の129三振)こともあったが、乱闘に見られるように気性が激しいワニ男は、野村の考える野球に合わないと判断され戦力外となったという。ホームラン王の解雇は野球ファンを驚かせた。ラリー・パリッシュ②に続く今回1回目はパリッシュさんのメジャーでの実績やヤクルト時代のエピソードなどを紹介しました 次回2回目はタイガース時代に焦点を当てるよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月20日
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2代目タイガース非公式サイトです前回15回目のディストーピカに続いて 女性ヴォーカルを前面にしたヘビーメタルバンドを紹介するね オール女性編成のバンドはやっぱり少ないのよ いずれ出てくるとおもうから気長にお待ちくださいさて今回ご紹介するワーロック(ウォーロックと読む場合もあるがこの稿ではワーロックとします)は1989年に解散してしまってる古いバンドですよ 知ってる人いるかな? ワーロックの歴史結成されたのは当時西ドイツだったジュッセルドルフ 女性ボーカルのドロ・ペッシュさんを中心にした「スネイクバイト」という名のグループとして産声を上げてます 結成時のメンバーはヴォーカルのドロシー・ペッシュ(略してドロ) ギターのマイケル・バスティアン ベースのフランク・リッテル ドラムのトーマス・フランケの4人 1984年にデビュー・アルバム「バーニング・ザ・ウィッチーズ」(これは第6回で紹介したバンド名と同じだわ!)をリリースし、始めてドイツ国外でツアーを行って好評を得ます 1985年に大手レコード会社フォノグラムと契約してセカンド・アルバム『ヘルバウンド』をリリース イギリスツアーで大成功を収めてメジャーなバンドに成長してくるのね1986年にはイギリスのキャッスルドニントンで開催されたモンスターズ・オブ・ロック・フェスティバルに史上初めて「女性がリーダー」というバンドとして出演してる モーターヘッド、デフ・レパード、オジー・オズボーン、スコーピオンズなどのビッグネームと共演し世界的にも認められる存在になったのねその後はビッグネームのツアーのサポートバンドとして活躍 主だったところではW.A.S.P. ジューダス・プリースト ディオ メガデスなどそうそうたるバンドとステージを共にしてるこう書いていると順調に成長しているように見えるんだけど 現実には激しいメンバーチェンジを繰り返していて 1988年の後半には結成時のオリジナルメンバーで残っているのはドロ・ペッシュさんだけになってしまうのよ メンバーの中のドイツ人もドロさんだけ この辺りで嫌な感じになってるわ しかもマネージャーとの権利トラブル訴訟が発生して「ワーロック」のグループ名が使用できなくなり、仕方なくドロさんはグループ名を「DORO」に変えてソロ活動に近い状態になってしまうのよということでワーロックは1988年をもって消滅してしまったわけね でもソロとなったドロさんはまだ活躍してるよ 失っていた「ワーロック」の使用権も取り戻して「Warlock」名義で楽曲も発表してる 今回は省かせてもらうけどねワーロックの音楽性とメンバーの変遷 最初は1970年代のヘビーメタル創世期からのサウンドや構成を色濃く残していたんだけど 最後に行き着いた4枚目のアルバムではその歌詞にファンタジーやオカルトへの言及が一切なくなってるって特徴があるのよ これは当時では非常に珍しいケースで コアなファンを獲得するスタンスから もっと広い支持を得ようとするきわめて商業的な思惑もあったようね聴くことができる楽曲は?ではリリースされたアルバムなどを紹介していきますね1984年 Burning the Witches(LP盤アルバム) 9曲を収録したデビューアルバム 現在アマゾンミュージックで視聴不可 1985年 Hellbound(LP版アルバム) 9曲を収録したデビューアルバム 現在アマゾンミュージックで視聴不可 1986年 True as Steel(LP版アルバム) 11曲を収録したサードアルバム 現在アマゾンミュージックで視聴不可 1987年 Triumph and Agony(LP版アルバム) 10曲を収録した4thアルバム 現在アマゾンミュージックで視聴不可 メンバーチェンジを繰り返してるから権利関係が難しいのかな? 結成から4枚目までのアルバムは聴けません でもこれらのアルバムの中の曲はドロさんが書いたものが多いから 今でもドロさんのバンドによってライブでは演奏されているよ ということでソロ活動してるドロさんの最新アルバムがこれだ!Warriors Of The Sea アマゾンミュージックで視聴可能! 10曲収録されたダブルEP版で2025年10月24日にリリースされたほやほやのアルバムですよ 内容的に2部構成になってるね前半5曲は アルバムタイトルの「Warriors Of The Sea」と「Tattooed Angels」という2曲が新曲 「Touch Too Much」はAC/DCのカヴァー曲 あとの2曲が過去にリリースされた曲 後半の5曲はライブからピックアップされたもの という構成ですが5曲とも未発表の録音みたいね これはうれしい さて最近のドロシーさんですが・・・61歳になられた今もバリバリやん!すごっ!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月18日
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背番号35(その7)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第7回目ですさてあと4人になったわ 今回まとめて紹介するってことで最終回にしますね今回は最後に才木浩人投手が登場しますが 実はこのブログを今まとめてるのが日本シリーズ初戦の10月25日なのよ 多分ブログの公開は1ヶ月くらい先の11月末くらいになるとおもうから メジャーなのか残留なのか騒がしい時期になってるかもね(予定より若干早くなりました)では4名の選手を順に見ていきますが あまり好い番号と言えなかった35番に光をともしてくれたのが才木投手・・・それでも一時期は育成になって「121」を着けてるから 一筋縄でいかないのがこの35番みたいですねルー・ポート 投手 ルイス・ウィリアム・ポート。アメリカのイリノイ州クック郡エバーグリーンパークの出身。1990(平成4)年のドラフト29巡目でサンフランシスコ・ジャイアンツから指名されてプロ入りしている。1999(平成11)年にアナハイム・エンゼルスに移籍し、同年メジャーに初昇格。4年間で127試合4勝4敗6セーブ6ホールド、の成績を残している。星野監督2年目の2003(平成に15)年にジェフ・ウィリアムスとともにタイガースに入団した。背番号は退団した舩木が着けていた「35」を引き継いでいる。メジャーでの数字を比べる限りウィリアムスよりも良く、150キロの速球とスプリットが武器で、中継ぎやクローザーを経験してきていることもあって、タイガースでも守護神候補として期待される。 しかしふたを開けてみると、一軍で投げたのはわずか8試合。9回1/3で16安打を浴び、防御率9.64と使い物にならない。故障もあってファームで飼い殺し状態になり、シーズン終了後に解雇されている。これというエピソードもなく、書くことがない。成績は8試合0勝1敗1セーブ。9回1/3で1四球8奪三振、防御率9.64。タイガース退団後はアメリカの独立リーグや台湾プロ野球などを転々としてプレーを続けたが2011(平成23)年に現役引退している。40歳まで現役を続けたのはある意味立派だった。牧野 塁 投手東京都出身で高校は山梨学院大付属高校。甲子園大会への出場はできなかったが三振がとれる大型右腕としてプロから評価され、1992(平成4)年のドラフト会議でオリックスから3巡目に指名されて入団している。オリックスには11年在籍し、中継ぎとして働いてはいるが安定感がなく、登板数が2桁だったのは4シーズンしかない。ストレートは150キロが出せるしスライダーも悪くないが、コントロールが思うに任せなかった。 岡田監督1年目の2004(平成16)年、斉藤秀光・谷中真二との2対2の交換トレードで、葛城育郎と共にタイガースへ移籍してきた。背番号はポートが着けていた「35」に決まる。移籍1年目は27試合に登板して1勝0敗、32回2/3を投げて33奪三振で防御率2.48と戦力になっている。 しかし2年目の2005(平成17)年はわずか2試合。2イニングで防御率9.00で終わり、3年目はファームでくすぶっていたところ、シーズン中に坂克彦とのトレードがまとまり、東北楽天ゴールデンイーグルスへ移籍する。楽天では先発もこなすなど1年目にプチブレイクしたが長続きせず、2008(平成20)年の7月に佐竹健太との交換トレードで広島東洋カープへ移籍。 広島では2009(平成21)年までプレーし、同年10月に戦力外となり、12球団トライアウトに参加したものの獲得球団がなく引退している。 実働17年という細く長いプロ野球人生で222試合(先発27)に登板しており、通算13勝23敗2セーブ4ホールド、388回2/3を投げ、175四球337奪三振、自責点187で防御率は4.33の数字を残した。多分トライアウトで声がかかればまだ投げ続けたのだろう。やれるところまでやり抜いたという意味で評価したい。 引退後は独立リーグなどで監督などをしていたが、2023(令和5)年にスカウトとして古巣オリックスに復帰すると、翌年に投手コーチ、2025(令和7)年から二軍投手コーチとなっている。坂 克彦 内野手・外野手茨城県新治郡出島村(現かすみがうら市)の出身。中学までは軟式野球部だったが常総学園高校に進むと1年生からレギュラーに抜擢される。内外野どこでもこなせるオールラウンダーで3年連続夏の選手権で甲子園に出場している。 3年時の2003(平成15)年夏には決勝に進み、ダルビッシュ有を擁した優勝候補ナンバーワンの東北高校を破って全国制覇を成し遂げている。高校通算35本塁打と長打力も十分。 2003(平成15)年のドラフト会議では大阪近鉄バファローズから3位指名されて入団している。 ところが2004(平成16)年のルーキーシーズンが終わると球団が消滅。分配ドラフトにより2005(平成17)年から東北楽天に移籍するが、この年も一軍の試合に出ることがないまま過ごした。 2006(平成18)年6月に牧野塁とのトレードでタイガースに移籍する。もらった背番号は「35」だった。このシーズンに初めて公式戦の出場機会を得るが、わずか2試合5打数0安打1三振に終わっている。タイガースに来てから6年間は守備要員の役割が色濃く、出場も2010(平成22)年の28試合が最多だった。 ところが2012(平成24)年に和田監督が就任するとスタメンでも起用されるようになる。実際にバッティングは柔軟性があり広角に打てる。2012年こそ18試合だったが、2013(平成25)年には111試合に起用され、2014(平成26)年も88試合、2015(平成27)年も87試合と出場機会は多かった。 ところが2016(平成28)年に金本知憲が監督になると、二軍に置かれたまま一度も一軍に呼ばれず、完全に戦力外の扱いになってしまう。実際にシーズン終了後の10月2日戦力外を通告され退団して自由契約選手になる。12球団トライアウトに挑んだが獲得球団はなく、NPBを去る。タイガースでは10シーズンで背番号35を着けておりこの番号を着けた最長の選手だ。プロ通算成績は、376試合455打数96安打45打点5本塁打37四球108三振、打率.211だった。坂の素質からすればもっと好い数字が残せたはずだが生かせないまま終わったのは残念だ。高校を卒業して入った近鉄が1年で消滅。訳が分からないまま楽天に移籍し、半年もしないうちにタイガースへトレード。高校からプロ入りしたばかりの青年には過酷な環境の変化だった。もし安定した球団に指名されていたら、まったく違った人生になっていたのではないか。2017(平成29)年から独立リーグの大阪ゼロロクブロスでプレーしながらコーチ役も務めた2019(令和元)年から生まれ故郷の茨城に戻り、BCリーグ茨城アストロプラネッツの監督に就任し、背番号35を着けている。才木 浩人 投手 2025(令和7)年現在「35」を着けているのは、兵庫県神戸市西区出身の才木浩人。野球を始めた当時は捕手。中学2年のときに投手へ転向している。才木が中学3年だった時のエピソードを能見篤史が語っているので掲載しておく。2025/9/8 スポニチアネックス 能見氏は現役時代に参加した野球教室で当時中学3年生だった才木に出会ったといい「僕は覚えてます」。能見氏は才木に「背が高くてフォームがきれい。スカウトに言っておく」と伝えたといい、当時の才木について「こんなに理にかなった投げ方する子いるんだって、その時凄く印象的だった」と振り返った。ただし能見氏のような目で見れる指導者は少なく、高校野球界では特に目立った選手として見られてはいなかった。そのため強豪校からの勧誘も無かったので神戸市立須磨翔風高校へ進学している。高校でも全国的な大会には出ていないが、ストレートは148キロを出しており、日本だけでなくMLBの球団もチェックする投手に成長した。 2016(平成28)年のドラフト会議でタイガースから3位指名されて入団し、背番号「35」を着けることになる。ルーキーイヤーの2017(平成29)年は2試合ながら一軍で投げており、中継ぎで1ホールドを記録している。 2年目は22試合で14試合に先発、6勝10敗1ホールドと活躍。82回で85個の三振を奪って素質の高さを証明した。2019(令和元)年も5月に一軍に上がり2勝を挙げたが、3試合目でノックアウトされて降格となり、5月19日のウェスタン広島戦の試合で肘に違和感を感じたことから降板し以後は治療とリハビリでシーズンを終える。2019年に先代が鳴尾浜で撮った才木投手当時はワインドアップだったのね 2020(令和2)年になっても肘の状態は改善する様子がなく、11月にトミー・ジョン手術を受けることになった。以後回復に専念するため12月8日に支配下から外し育成選手契約となって背番号は「121」となる。 2021(令和3)年はファームでも全く試合に出ることはなく治療に専念し、年俸は700万円まで下がってしまう。2022(令和4)年2月に実戦復帰すると4月12日のウェスタンでは150キロを計測し、5月4日に支配下契約に戻り、再び背番号「35」を着ける。7月3日に一軍に上がり、以後9試合に登板して4勝1敗と復活を遂げた。三振も47イニングで43個を奪っており球速も上がっている。2023(令和5)年、岡田監督が就任しローテーションの一角を担うことになるが、まだ1年を通じて投げ切る体力がなかったのかシーズン中に腰痛を発症するなど延べ2カ月程度ファーム調整の期間もあったため19試合で8勝5敗1ホールドと納得のいく数字ではなかった。2024(令和6)年、前年MVPとなった村上頌樹を目標に置き、万全でシーズンに臨むと25試合すべて先発登板して13勝3敗、防御率1.83の成績を挙げる。2025(令和7)年も24試合登板して12勝6敗、防御率1.55で初タイトルとなる最優秀防御率投手に輝いた。 2023年3月6日に行われたWBC強化試合で、大谷翔平に対して投げた会心のフォークを片膝をついて片手でバックスクリーンへ放り込まれたことが発奮材料になったのか、急激にメジャー志向が強まり、現在は球団にその意志を伝えている。まとめみなさんいかがでした これで「35」はひとまず終了となりました 最後まで読んでくれてありがとうポートさん覚えてた?多分みんな忘れちゃってるよね 活躍してないし牧野さんもねえ・・・第1次岡田監督のころだし、2年いたけど2試合しか出てないし 子供だった2代目にはまったく記憶にありません坂さんは覚えてる 12~13年くらい前かなあ 結構出てた気がする 終盤の守備固めみたいなのが多かったけど バッティングも好かった記憶があるわ最後は才木投手 手術からよく立ち直ってきたよね 一時期育成契約になってしまって「35」が途絶えたんだけど 復活してまた着けてくれてますメジャー行きの気持ちはもう揺るがないんだろうね でもタイガースにいる間は戦力としてしっかり貢献してくれるとおもうよ背番号36につづく では次回からだけど 息抜きに「ガールズバンド」を1つはさませていただき そのあとはしばらく「猛虎異人伝」を掲載する予定 背番号史はちょっと一休みするけど「36」も一気読みしてもらえるよう現在最終チェック入れてるところです 待っててね 才木投手もテル君も来季は残留決まったね 来季はリーグ連覇してもう一度日本選手権に挑戦してほしいわブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月17日
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背番号35(その6)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第6回目です 今回もまた3名を紹介しますが 1人目は捕手で一時期はレギュラーも取った選手 背番号35を着けたのは1年だけね2人目は中日を戦力外になった選手で最晩年の2年間をタイガースで終えた外野手3人目はこの背番号「35」で唯一のドラフト1位の投手 この人は7年間着けてるんだよこうやって聞いてみて皆さんお分かりになるかな? 突然訊ねられると難問だよね 平成になってからのことなので 一定の年齢以上の人ならわかる人はわかるとおもうけど すぐには答えが出てこないでしょうでは順次見ていくよ 読み進めば「あっ そうか!」となるかもね山田 勝彦 捕手 (再掲)山田さんはすでに「27-7」で紹介済みです 実際は27より先に35を着けてたんだね ということで一部修正したうえで再掲します愛知県名古屋市熱田区の出身で高校は東邦高校。1986(昭和61)年、高校2年の春にセンバツ大会に出場しているがこの時は控え投手だった。1回戦で敗退したなかでリリーフ登板を経験している。センバツ以降は外野も守ったりしていたが、秋に新チームとなって本格的に捕手に転向するとみるみる力をつけ、半年で東海地区ナンバーワン捕手と評価されるようになる。バッティングも好く高校通算で24本塁打を記録している。1987(昭和62)年のドラフト会議ではタイガースから3巡目で指名されて入団する。背番号について整理しておくと、最初の背番号は「61」で1988(昭和63)年~1991(平成3)年の4年間着ける。1992(平成4)年に「35」に変えるが1年間着けただけ。1993(平成5)年に「27」へ変えて2002(平成14)年まで10年間着けたのち、トレードで日本ハムファイターズへ移籍することになる。ルーキーの1988(昭和63)年はファームで33試合、2年目の1989(平成元)年に初めて一軍に上がるが、出場したのは1試合のみ。3年目の1990(平成2)年はまた1年間ファームで過ごした。1991(平成3)年から一軍戦力の一角として認められるようになり、この年は66試合に出ているが打率.128。期待されていた打撃は伸びてこなかった。 背番号が「35」に変わった1992(平成4)年、「新亀フィーバー」に乗っかるように山田も台頭し、生涯唯一の100試合以上の出場を果たしている。成績は114試合313打数64安打31打点4本塁打、打率.203というもので、これがキャリアハイとなった。またこの年で嶋田が引退したため、1993(平成4)年から背番号を嶋田が着けていた「「27」に変更している。 当時は1990年に入団してきた関川耕一が強力なライバルとして存在していたため、なかなか正捕手定着ができなかった事情がある。捕手としては拮抗していたがバッティングでは関川のほうが優っていたし足も使えた。そのため関川は打力と俊足を生かせる外野手に転向していき、1996(平成8)~1997(平成9)年は山田が正捕手の座についている。 ところが1997年のオフに関川がトレードで中日ドラゴンズに移り、交換で移籍してきた矢野燿大が強力なライバルとして立ちふさがったため、出場機会は激減していく。1998(平成10)年は矢野が110試合、山田は69試合とレギュラーの座を奪われ、以降は21試合、45試合、54試合、39試合と控えに甘んじている。2002(平成14)年には星野監督が就任し、そのオフに戦力構想から外れて伊達昌司とともに日本ハムファイターズへトレードされてしまった。日本ハムでは3年間プレーしており、最初の2003(平成15)年こそ40試合に出ているが、2年目が3試合、3年目は1試合に終わり2005(平成17)年オフに現役を退いた。 引退後は楽天、オリックス、阪神でバッテリーコーチなどを務め、2022(令和4)年からはかつての同僚だった新庄剛志が監督を務める日本ハムで一軍バッテリーコーチを務めている(2025年現在)。通算成績は795試合1753打数360安打130打点21本塁打、93四球388三振、打率.205である。 南牟礼 豊蔵 外野手 宮崎県都城市出身で県立都城工業高校。高校時代は全国大会などの主だった大会で活躍した実績はない。高校から社会人野球の電電九州に進み、1980(昭和55)年、1981(昭和56)年と連続で都市対抗本戦に出場したことで評価が高まり、1981年のドラフト会議で阪急ブレーブスから3位で指名されてプロ入りしている。日本ハムには足掛け10年在籍したがレギュラーを取ったことはない。100試合以上出場できたのは1989(平成元)年の1シーズンだけだ。その年ですら打席数は192に過ぎず、クビにならずに10年も置いてもらえたのが不思議なくらいだ。1991(平成3)年に土井正三監督が就任するとさすがに戦力外と見做されたのだろう。春先から出場機会がほとんどなくなったため、ドラゴンズの星野監督に直訴してシーズン中の5月に川畑泰博との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍する。中日では移籍したシーズンに56試合に使われたが、1992(平成4)年、1993(平成5)年はほとんど使われなくなり、戦力外通告を受け自由契約公示された。ここで手を差し伸べたのがタイガースで、足の慢性的な故障で守備に難のある石嶺和彦を補う守備固め要員として1993年11月8日に入団が発表されている。背番号は山田が返上して空いていた「35」に決まった。 移籍1年目の1994(平成6)年は96試合に出場し96打席に立っている。これは単なる守備要員だけでなく代打の起用も多かったことを示す数字だ。実際に89打数22安打12打点2本塁打と勝負強さを見せたシーズンとなった。 しかし翌1995(平成7)年は全く一軍で使われず、シーズン終了後には自由契約選手となって退団。ダイエーの入団テスト受けたが受験中にひざを壊し、現役続行をあきらめて引退している。通算成績は546試合747打数186安打78打点13本塁打、57四球122三振、打率.249だった。引退後は整体師の資格を取り、兵庫県西宮市に「みなみむれ接骨院」を開業している。舩木 聖士 投手 広島県三原市出身で県立尾道商業高校時代は3年でようやくエースになったが怪我もあり全く頭角を現すことができなかった。卒業後に社会人のNKK(日本鋼管)へ入社してからじわじわ実力をつけ、1995(平成7)年の都市対抗野球本戦で準優勝。久慈賞を受賞する活躍を見せたことで上位候補・即戦力の評価を受ける。同年のドラフト会議でタイガースの1位(逆指名)で入団、背番号は退団した南牟礼の着けていた「35」を引き継いでいる。 ただし、体格的には174センチ89キロで、近代の投手としては小柄なうえにちょっとぽっちゃり気味。本格派というよりスリークォーターで、150キロ近いと言われたストレートも実際に投げてみると140キロ台前半だった。この年のドラフト会議出は福留孝介が7球団競合、単独でなら他の選手でも狙えたはずだが、約束してしまって浮気ができない逆指名というのが災いしたケースではないか。 ルーキーイヤーの1996(平成8)年こそ20試合で17先発し、6勝9敗の成績を残すが、防御率は4.49。期待された2年目の1997(平成9)年は、24試合17先発と積極的に起用されいるが、1勝8敗、防御率4.84と2年目のジンクスというのか実力通りというべきか、全く通用しない。その後は5年間で2勝しかしていないが、1999(平成11)年に野村監督が就任し、舩木を18試合(先発7)に投げさせている。これはあまりの投手不足から舩木を使わざるを得なかったためと言われている。しかし防御率は3.86でキャリアハイの数字なので、舩木もよく頑張ったのだろう。2001(平成13)年のシーズン終了後、3年連続最下位の野村監督が辞任する。星野仙一が新監督になると2002(平成14)年のシーズンは4位に順位を上げる。そしてそのオフにチーム編成に大ナタが振るわれた。ドラフトに備えることと、大物のFA争奪戦に全部参戦しようという腹もあり、実に24人が戦力外やトレードでタイガースを去ることになる。舩木もその中に入っていた。 解雇を受けて舩木はロッテ・オリオンズのテストで認められて入団。2003(平成15)年から2年間プレーするが、17試合0勝0敗と結果が出せず、2004(平成16)年を最後に現役を退いた。通算では101試合(先発44)、9勝24敗、314回2/3を投げて159四球234奪三振、自責点178、防御率5.09に終わっている。引退後はトレーナーになるための勉強をし、2007年からスポーツDEPO尼崎下坂部店にアドバイザーとして勤めている。まとめ山田さんのタイガース時代は 暗黒時代にすっぽり入っちゃってるのよね 手薄な投手陣をリードするのは大変だったんじゃないかな?もっと評価されても好いとおもうけどなあ ライバルも関川さんや矢野さんがいたからレギュラー守るのはきつかったとおもうよ南牟礼さんはよく判んないよ 何でとったのって言っても本文に書いたように石嶺さんの補助的な守備要員ぐらいしか理由は無さそう 代打では少し貢献したらしいけどねドラフト1位の舩木さんはファンもがっかりしただろうな 先代は初めて見たときの体型で絶句したみたい その後もぶくぶく太っていく一方だったから「3年目くらいでもう要らない」っておもってたって背番号35-6につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月16日
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背番号35(その5)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第5回目です 今回も3名を紹介しますが まだまだなじみの薄い名前が続くかな でも1人目の峯本さんは引退後にフロント入りしてから出世してるよ 2人目の服部浩一選手は7年間着けてるんだけど記憶してる人は少ないとおもう3人目の岡島さんは先代も知らないって言ってるから多分知ってる人は少ないんだろうね 3人とも現役では活躍出来なかったけど それぞれ第二の人生で頑張ってるよでは順次見ていこうね峯本 達雄 外野手和歌山県東牟婁郡古座町出身。高校は県立新宮高校で甲子園大会への出場経験はない。高校卒業後は新日鉄堺に入社し、徐々に力を付ける。1976(昭和51)年の都市対抗で見せた長打力を高く評価したタイガースが、同年秋のドラフト会議で4巡目で指名し入団が決まる。背番号は山本重政が返上した「35」を受け継いで在籍の5年間着けた。ルーキーイヤーとなった1977(昭和52)年は、まずウェスタンリーグでアピールしている。その当時の様子がYahoo知恵袋にでているので引用する。1977年ウエスタンリーグ阪神のルーキー峯本が乗りに乗っている。7月9日の広島戦でプロ初ホーマーとなる満塁アーチをかけたのが始まりで、11日の同カードでまたも満塁ホーマー。そのあとの近鉄戦でも仲根から同点ホーマーを打ち込んで、まさに一人で打ちまくっている感じだ。この間、6試合で25打数10安打、3ホーマーの15打点という働きぶりは手がつけられない。ノンプロ・新日鉄堺の出身。ドラフト4位指名だが、そのパンチ力に目をつけた小林スカウトが強引に口説き落として入団にこぎつけた経緯がある。腕っぷしの強い、見るからに頑丈そうな体。佐野(仙好)にもうひと回り筋肉をつけたようなタイプだ。礼儀正しく、用具の後片づけなどもすすんでやっている。入団発表の席で、吉田監督が一目見て惚れ込んだというエピソードもある。なかなか頼もしい活躍を見せたようだが、この年は足を骨折したこともあって一軍に呼ばれることはなかった。初めて一軍に上がったのが1978(昭和53)年、後藤次男監督の時だった。7月に登録されると5日の中日15回戦で代打に起用されてプロ初のホームランを記録。しかしこの年は17試合にとどまり18打数2安打1打点8三振で打率.111という数字しか残せなかった。1979(「昭和54」年は、ウェスタンで62試合55打点を挙げて打点王のタイトルを獲得したほか、打率.309、10本塁打と抜けた成績を収めているが、一軍からはまったくお呼びがかからなかった。1980(昭和55)年もウェスタンでは突出した存在で、60試合46打点16本塁打で打率.272の数字を残しているのに、一軍ではたった1試合しか出場させてもらえない。1981(昭和56)年も在籍していたが、一軍どころかウェスタンの試合にすら出場がない。怪我でもしてしまったのか、それともやる気が失せてしまったのか、事情が分かる資料は見つからない。峯本はこのシーズンを最後に現役引退している。プロ通算では18試合19打数2安打1打点1本塁打9三振、打率.105。引退後は1982(昭和57)から阪神職員として残り、用具係・スコアラー・管理部査定担当・編成部査定調査担当・管理部次長・管理部長を経て、最後は球団本部長まで上り詰めてのち2015(平成27)年に退職した。2024年にはタイガースOB会副会長に就任し、掛布会長を支えている。服部 浩一 内野手京都府京都市伏見区の出身で高校は京都商業。高校時代は193センチという規格外の長身を生かしエースピッチャーとして活躍、3年時の1977(昭和52)年には夏の甲子園に出場し、2回戦で敗れたものの注目される存在になる。卒業後は大阪商業大学へ進学すると、すぐ野手に転向し、関西6大学リーグ通算92試合301打数95安打44打点8本塁打、打率.316の数字を残した。1981(昭和56)年のドラフト会議でタイガースから6位指名されて入団する。背番号は引退した峯本達雄の「35」を継承した。 長距離砲として期待される服部は、長身を生かして一塁手として育てられる方針となった。ルーキーイヤーの1982(昭和57)年はファームでじっくり鍛えられて一軍登録はされなかった。そして初めて一軍に上がり飛躍しようという1983(昭和58)年にランディ・バースが入団してくる。服部のプロでのキャリアは1982年から1988(昭和63)年の7年間で、このうちルーキーイヤーを除く6年間バースと被っている。これは不運というほかないだろう。球団もバースが長期にわたって中心打者になるとは想像もしていない。一塁に抜擢しようとしたとたんにバースが壁になってしまったという悲劇だ。服部のプロ入り初出場も、試合終盤で退いたバースに替わる守備固めだった。プロでは6シーズンで一軍の試合に出ているが、その通算は45試合17打数1安打1四球8三振、打率.111という寂しすぎる数字だ。1988年の5月にバースが帰国、そのまま解雇されても、服部に出番は回ってこなかった。7月に2試合に出てプロ入り初、しかもプロでの唯一のヒットを記録したがその後抹消され、オフに引退している。その後は父親の経営する土木関係の会社に入った。地元京都で少年たちの野球教室で指導する服部さん さすがに193センチ!岡島 厚 捕手群馬県太田市出身。県立太田工業高校時代は無名の存在。卒業後は神奈川大学に進学している。大学時代もWikipediaをみても「大学選手権に出場」という記載しかなく大きな活躍はしていない。1983(昭和58)年のドラフト会議では、その岡島をロッテ・オリオンズが4巡目で指名している。この年のドラフトはロッテでも史上最悪のドラフトとも言われるが、1位で川端順を抽選で外し、3位の長富浩志には拒否され、ほかの指名選手は誰一人まともな戦力に育っていない。岡島もそういう選手の一人だった。ロッテには5年間在籍したが、一軍の試合に出たのは1986(昭和61)年の1試合のみ。4打数1安打0打点、これがプロ通算記録でもある。1988(昭和63)年のオフに戦力外を通告され自由契約選手となり、タイガースのテストを受けて合格し入団するが、選手として合格したわけではない。タイガースでは最初背番号「35」をもらったが1991(平成3)年まで3年間着けたのち、1992(平成4)年から「96」を着けている。現役とは言いながら実態はブルペン捕手だった。 1993(平成5)年まで現役にとどまりオフに引退。結局タイガースでは一度も試合に出ることはなかった。その後も同じ背番号を着けてブルペン捕手として1999(平成11)年までタイガースに残った。退団後は民間企業に入り、今は役員になっている。まとめ今回の3名はそれぞれ一軍での出場が 18試合 45試合 1試合 これだけしか出てないのよね なので大した資料も見つからず どうやって話を盛ろうかと苦労したんだけどお読みいただいた通りです 峯本さんはファームでは抜けてるのに何故だか一軍に呼ばれない。以前背番号22で紹介した喜田剛さんと同じような感じ トレードに出してあげたほうが活躍するチャンスがあったかもしれないけど タイガースで引退したことで球団本部長までなれたってことね 人生はわからないのよ服部さんはよく7年置いてもらえたねって言う感じなのよね 大学出て7年間だから29歳の年までいたんだよ この成績なら4年目くらいで消えていくこともありうるよ岡島さんはプロに入る実力じゃなかったんだろうけど 野球の下積みを経験して社会に出たときにそれが生きたんだろうね 何事も挑戦し挫折したとしても そこから得るものはあるんだとおもう背番号35-6につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月15日
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背番号35(その4)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第4回目です 今回は3名を紹介しますが やはりなじみのない名前が続く感じ 情報が少なすぎて内容的に盛り上がりもないから 読んでる皆さんも退屈とかめんどくさいとかおもうかもしれないなあでも 2代目も34番あたりから退屈を感じながらも気力を振り絞って書いているので 応援すると思って最後まで読破してよね 下の方の「いいね」クリックもお忘れなくお願いします!但田 裕介(たじた ゆうすけ) 投手東京都小平市小金井の出身。1969(昭和44)年、堀越高校3年の春に選抜大会に出場し、決勝戦まで勝ち上がる。最後は三重高校に敗れて準優勝にとどまったが、好投手の印象を残す。同年夏の選手権でも甲子園の土を踏み、準決勝まで進んだが日大一高に敗れた。秋のドラフト会議ではタイガースが3位で指名しており、かなり期待感を持っていたのではないかと感じられる。プロ入りの当時や入団後については情報がほとんどないが、Yahoo知恵袋に当時の記事が投稿されていて村山実新監督の談話もあるので全文掲載させてもらう(決して手抜きではなくホントに情報がほとんどないのよ💧)1969年阪神は11月22日午後4時、大阪・北区梅田町の阪神電鉄本社6階会議室でドラフト3位指名の堀越高・但田(たじた)裕介投手(18)=1㍍74、68㌔、左投左打=の入団を発表した。発表には母親麗子さん(41)と田辺・堀越高野球部監督が同席した。阪神のドラフトによる選択選手の入団三人目である。なお背番号は未定。但田はことしの選抜大会の準優勝投手。高校球界では三沢高・太田(近鉄入団)と並ぶ本格派投手として注目を集めていた。柔らかいからだを使って真っ向から投げおろす速球が武器で、オープン戦ながら2年生の秋には1試合18三振を奪ったこともある。この日午前、大阪入りした但田はすぐ西宮市甲子園の合宿虎風荘を見学。ピッチングのままの強気な性格らしく、発表の席でも元気いっぱいだった。 但田投手「いつかはプロでやりたかったので、大学へいって肩でもこわしたりしては指名してもらえないと思い、プロ入りに踏み切りました。それに甲子園で投げたかったし、阪神が好きだった。阪神のゲームはしばしばテレビで見ただけですが、江夏さんのように力で押していく投手になりたいと思います。三沢高の太田君についても、あっちはあっち、ぼくはぼくなりにやって、一日でも早く第一線で投げられるようにするだけです」 村山監督「はっきりした性格の子なので楽しみにしている。言葉どおり一日も早く第一線に出られるよう一生懸命やってほしい」 どこから引っ張ている記事なのかわからないが、かなり詳しく伝えられているし、当時の空気感もわかるのでありがたい。176センチ67キロの体格は当時としても普通より少し細い。左投げという希少さと甲子園大会での度胸の良さを買われての3位指名だったと思われる。背番号「35」はルーキーイヤーの1970(昭和45)年だけ着け、1971~72年は「50」に変えられた。在籍は上記の3年間だけで、まったく一軍での登板はない。誰にも気づかれることなくフェードアウトしていった投手だ。こうして入団時の意気込みを語る談話が残っているだけに「もののあわれ」を感じてしまう。 上甲 秀男(じょうこう ひでお) 外野手愛媛県出身で地元の県立北宇和島高校。この選手も情報は少ない。というより、よほどのタイガースファンにとっても「耳慣れない選手」なのだろう。右投げ右打ちの外野手で180センチ76キロと体格にも恵まれていた。高校を出ると電電四国に入社して社会人野球でプレー。1970(昭和45)年の都市対抗野球四国予選の5試合で3本塁打を記録したことで一躍プロの注目選手となり、同年秋のドラフト会議ではタイガースから7位指名を受けて入団し、背番号を変えた但田が着けていた「35」を受け継いでいる。情報が少ない中、またYahoo知恵袋に頼ることになるが、以下のような記事が投稿されているので引用させていただいた。1970年 上甲(じょうこう)秀男外野手(23)=1㍍80、76㌔、右投右打、電電四国、北宇和高出身。 上甲は、ことしの都市対抗四国予選で、5試合に3ホーマーをマーク、そのうち一本は、松山球場のバック・スクリーンへライナーでとばした長打力の持ち主。 上甲外野手「長打力に自信を持っている。反面、三振も多いが、それもぼくの魅力だと思っている。とにかく思い切りのいいバッティングをやっていきたい。高校時代は、捕手もやったりして、もうひとつだったが、ノンプロにはいってから伸びたと思う。得意のカーブ打ちを生かして常時出場が目標です」残念ながら上甲はまったく一軍を経験することなく1972(昭和47)年に引退している。わずか2年間の在籍だった。山本 重政 投手 (再掲)実は山本さんは背番号「26―3」で紹介済みなんだけど 少しアレンジして改訂版という感じで掲載するよ兵庫県加東郡社(やしろ)町の出身。1960(昭和35)年、県立社高校2年時の夏の県予選の小野工業戦において毎回奪三振で完全試合を達成したことで一躍プロから注目される投手となる。翌1961(昭和36)年夏の県予選、姫路工大付属高校選で今度はノーヒットノーランの快投を見せて評価は高まった。1962(昭和37)年、高校卒業後は立命館大学へ進学、1年春に3勝を挙げてエース格になるが、近鉄バファローズの別当薫監督が惚れ込み、1年生の山本を熱心に口説いたため、春のリーグ戦が終わると中退して入団している。山本は同年6月から一軍で25試合に投げており、2勝5敗、61回1/3で60三振を奪うなど即戦力として活躍、防御率3.77の数字を残した。 以降1969(昭和44)年まで近鉄に所属し、268試合に登板、35勝63敗の成績を残している。おもに中継ぎが専門だったが、若いころの1963(昭和38)年にはリーグ最多の35試合に先発、翌1964(昭和39)年には21試合に先発し自己最多の12勝をマークしている。近鉄最後の年となった1969(昭和44)年はわずか4試合の登板に終わり、オフに戦力外を通告されて自由契約選手として公示された。ここに手を差し伸べたのがタイガースの村山監督だった。現役監督と言っても村山自身が衰え、江夏一人に負担がかかるチーム状況だったためベテランの山本も貴重な戦力と見たのだろう。入団時の背番号は「26」だった。タイガースには1970(昭和45)年から77(昭和52)年まで8年間在籍、村山・金田・吉田と3代にわたる監督の下で投げている。 タイガースでは、2種類のカーブを主体にする技巧派に転じ、中継ぎとしていい働きをしており、在籍8シーズンのうち4シーズンで防御率2点台前半の好成績を残して貢献した。1973(昭和48)年には背番号を「35」に変更している。1976(昭和51)年はわずか2試合しか登板は無く、現役最後のシーズンになった1977(昭和52)年は背番号も「63」となって、現役登録ながら実態はバッティング投手として持ち前のコントロールを生かし、打撃陣の調整に一役買っている。プロでの通算成績は424試合(先発88)、40勝67敗4セーブ、1117回2/3を投げて422四球、782奪三振、自責点420,防御率3.38だった。現役引退後も1978(昭和53)年に二軍投手コーチ、翌年からスコアラーに転じて2002(平成14)年まで24年間も務めた。その後、2003(平成15)年から2007(平成19)年までフロントの企画調査担当を務めたのち退団している。まとめ但田さんと上甲さんについては 上記以外に書くことが見つかりません 2人とも一軍に登録されたことがないので何の数字も残ってないしなあ 投手不足の時代にかき集められ 結果「使い捨て」みたいになっちゃったね(使ってすらいない?)3人目の山本重政さんはオールドファンには記憶にあるかもしれないね 万年最下位時代の近鉄では大きく負け越し 1963(昭和38)年には野村克也さんに当時の日本新記録になる52号を浴びてるよ これが破られなかったら打たれた山本さんの名前も長く残ったとおもうけど 翌年に王貞治さんが55本を達成したので消えちゃった・・・1970(昭和45)にタイガースに来て中継ぎで数字だけでは表せない貢献をしてるわ スコアラーとしても分析能力は一流で 長くタイガースの作戦面で貢献してくれたんだね背番号35-5につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月14日
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背番号35(その3)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第3回目です 1人目の交告(こうけつ)弘利さんは2代目と同じ岐阜県の出身 中津川市だから県でも一番東にあたり 中央高速道路の恵那山トンネルを抜けると向こう側は長野県ね 残念だけど5年間在籍して公式戦は通算12試合にしか出てないわ 情報も少ないし写真もない今回は交告さんを含め2名の紹介にします 2人目の選手はすでに「猛虎異人伝10」で紹介した助っ人外国人選手だよ 覚えてるかな?交告 弘利(こうけつ ひろとし)投手実は2代目の地方にはこの苗字って珍しくないのよ 「纐纈」という字を使ってる場合も多いよ 同じように「こうけつ」って読むんだけどね 初めて見る人は絶対読めないだろうね 余談でした岐阜県中津川市出身。高校は岐阜短期大学付属岐阜高等学校(現・岐阜第一高等学校)。180センチ75キロの恵まれた体格のサウスポーで、高校2年時にはすでに東海地区ナンバーワンの逸材とみられていた。知恵袋に入団前後の情報記述が残っているので少し長いが掲載しておく。東海地方で本格派の速球投手ナンバー・ワンの折紙をつけられている岐阜短大付属高二年生、交告(こうけつ)弘利投手(17)は、地元中日をはじめ、近鉄、阪急、南海、大洋から誘われていたが「中退~プロ入り」に踏み切り、このほど家族会議の結果、阪神入りときめた。同投手は2年生ながら、上背があり、左腕から投げおろす速球は超高校級の球威をもっている。今春近鉄がいちはやく目をつけ、岐阜県中津川の自宅を訪ねた。その後、中日、阪神、南海、大洋が名のり出て激しい争奪戦となった。今夏の予選前まで中退する考えはもっていなかったが、予選後中日の攻勢が激しくなり、中日は本多スカウトが連日自宅参りして口説いたため、中退に傾いた。中退に踏み切った1963年7月20日すぎごろには、スタートの早かった近鉄と、地元の中日が有力だった。とくに巻きかえしの強かった中日に傾きかけたが、家族の「地元ではあまりに身近すぎるので遠い球団の方が本人に独立性がもてる」という意向から中日の縁はうすくなった。近鉄江田スカウトが都市対抗野球で東京に出かけたスキに阪神が強力に話を進め、30日夜自宅を訪ねた中日本多スカウトに父親が「阪神入り」の意思を明らかにしたもの。180センチ75キロ、左投左打。高校2年生に対してものすごい争奪戦だが、ドラフトの無い自由競争時代はこんな感じのスカウト合戦が日常だったのだろう。交告は1963(昭和38)年のシーズン途中での入団で、背番号はとりあえず仮番号の「69」を経て「58」番をもらうがこの年の登板はない。翌1964(昭和39)年、福浦健次の退団に伴って空いた「35」を受け継ぐことになる。しかし事実上のプロ1年目と言えるこの年、当時の阪神の投手コーチだった杉下茂も惚れ込んだ逸材と言われるが、実際に目の当たりにすると横手投げに近いフォームはギクシャクしており、ボールの伸びや切れは感じられなかったらしい。現実は体が硬く修正が難しい投手でプロでは伸び悩むことになる。初登板は1965(昭和40)年になったがシーズン5試合に投げただけ。次の1966(昭和41)年も5試合、1967(昭和42)年は2試合になってしまい、もう伸びしろはないとみなされたようだ。1968(昭和43)年も在籍したが登板はなく、シーズン終了後自由契約選手となってプロから身を引いた。通算成績は12試合(先発3)で0勝2敗、18回2/3を投げ被安打18、11四球、9奪三振、自責点8,防御率3.86だった。ジョー・ゲインズ 外野手ゲインズ選手はすでに「猛虎異人伝」で先に紹介してるわね なのでそちらから短縮版として転載させてもらうね1969年1月14日、戸沢球団社長が自らロサンゼルスに赴いて、当時ツインズ傘下の3Aデンバーに所属していた黒人選手ジョー・ゲインズ外野手と契約した。ゲインズはレッズ~オリオールズ~アストロズでメジャーを経験しており、通算362試合に出場、771打数186安打95打点21本塁打の成績を残している。マイナーリーグの通算949試合で打率2割9分8厘、76本塁打という記録を見る限りでは好打者だ。 1968(昭和43)年は、3Aハワイ・アイランダース(過去にバッキーやカークランドも在籍)に所属し、打率2割8分7厘、8本塁打で25盗塁という数字を残している。どちらかと言えば俊足のアベレージヒッターだろう。ゲインズは1969年2月14日に来日、入団時の年齢は32歳で、身長183cm、体重83kgの体格は、日本人に混ざってもそれほど目立たない感じだった。このときのコメントでは「変化球打ちには自信がある。打率2割9分以上、80打点、本塁打は15本プラス・アルファーが目標数字だ。」と語っており、本人にも中距離打者という自覚があったようである。背番号は引退した交告から「35」を引き継いでいる。ゲインズは、3月2日の対阪急オープン戦に代打で初出場、そのままレフトの守備についたが無安打だった。3月8日の南海戦には3番・レフトで先発出場し、盗塁を決めたが、3回の守備で果敢に飛球を追ってレフトのフェンスに激突してしまう。右顔面を強打して大阪厚生年金病院に運ばれ、検査の結果、右頬骨の骨折でそのまま入院という事態になったが、3月10日の精密検査で経過は良好との診断で退院を許される。 ここからがゲインズの頑丈さの驚くべきところで、3月15日の対ロッテ戦で早くも先発出場し、オープン戦初安打を放つ。3月20日の対近鉄戦の初回には、エースの鈴木啓示に先制3ランを浴びせ、大怪我を感じさせない回復ぶりを見せて周囲を安堵させた。ただし、オープン戦での打点は鈴木から打ったホームランによる3打点のみ。打率は1割5分7厘と振るわず、不安は残った。1969年4月12日、対大洋の開幕戦は3番レフトで先発出場し、公式戦初安打を記録。翌日のダブルヘッダー第2試合で2安打、続く15日のアトムズ1回戦でも1安打を放つと初盗塁も決め、順調な滑り出しを見せた。ところが4月19日の中日戦以降、ヒットは2試合に1本のペースに落ち、完全に失速してしまう。ゲインズが目覚めたかと思わせたのは、5月27日の対アトムズ(現ヤクルト)4回戦だった。この日の阪神打線は記録的な猛打を振るっている。3回表に1点を先取、5回表に2点を加えて3対0とリードして迎えた6回表、打者18人を送る猛攻で1イニング日本タイの12安打を浴びせ、挙げた13得点は日本新記録。 この中で、ゲインズの来日第1号2ランも飛び出した。前日までの成績が、打率1割8分3厘、打点1、本塁打0という内容で、信用を失いかけていたゲインズだったが、チームの勢いに便乗して来日第1号を含む2安打4打点と活躍したのである。翌日にも第2号2ランを放ってようやく調子が上向くかに見えた。しかし、6月に入ると1日から6試合連続ノーヒット。この間にチームも首位から転落し、ゲインズは6月中旬から7月上旬まで約1ヶ月間、試合を遠ざかる。スタメンに復帰した7月12日の中日戦で、第3号3ランを放ったが、これが日本での最後のホームランになった。オールスター後の後半戦では代打要員としてベンチを温め、結局シーズン通算では、出場わずか51試合、打率は2割5厘、11打点、期待された盗塁も4個に終わっている。公式戦終了後の10月23日、戸沢球団社長は梅田の電鉄本社にゲインズを呼んで戦力外を通告し、本人も了承し退団が決まった。ゲインズはあまり活躍できなかったので写真がほとんど残ってない。そのかわり当時のテレビアニメ「巨人の星」の第117話の中で登場シーンがある。その試合のスコアボードの画像と合わせて掲載しておく。まとめ交告さんは高校2年の時から争奪戦が始まってたっていうから凄い選手のように聞こえるけど 入団してみるとすぐに評価が下がってるみたいなのね 投球フォームが横手投げに近いとか伸びとかキレなんて高校在籍時にわかりそうなもんだけど?争奪戦になって目がくらんだのかな?それとも中日にとられるくらいなら妨害してやれってことだったかもしれないねゲインズさんは「異人伝」の方で もうすこし詳しく紹介してるので見てない人は読んでみてね(猛虎異人伝10 ジョー・ゲインズ | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ)背番号35-4につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月13日
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背番号35(その2)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 楽天ブログがサクサク動くようになったね どんな不具合だったのかわかんないけどホッとしました ということでまた公開していくよ しばらく背番号史「35」を続けてくねでは背番号35の第2回目です 1952(昭和27)年で辻喜美さんが引退して 次の1953(昭和28)年は空き番でした 1953(昭和28)年から「35」を着けるのが長尾旬さん この人も全く聞いたことがない選手です今回は長尾さんを含め3名の紹介になるけど 多分読んでる皆さんも「・・・」の選手ばかりかなあ でもタイガースの一員だった人たち 今回読んで覚えてあげてね長尾 旬 投手静岡県の出身で高校は県立池新田高等学校。特に強豪校というわけではなく高校時代は無名。卒業後社会人野球の東邦レーヨンに進む。1953(昭和28)年のシーズン途中、大阪タイガースの入団テストに合格して入団している。背番号は空いていた「35」が与えられた。身長180センチの大型投手だったが体重は68キロと非常に細い選手だったようだ。ただし当時の御園生二軍監督の談話が「yahoo知恵袋」に紹介されているので掲載しておく。長身の長尾(池新田高)のスライダーは、打撃面において常に中心となった最高殊勲選手横山(扇町商)のたくましい打力とともに「まさに一軍もの」しかし1年目は一軍での登板はなく、2年目の1954(昭和29)年にプロ初登板を果たすが、先発して打者6人に対して3安打1四球で3点を失い1イニング持たずに交代させられた。3年目の1955(昭和30)年は一軍で投げることはなく、ウェスタンで最優秀防御率0.79を記録している。それでも球団は3年で見切りをつけ、オフに近鉄パールズへトレードされてしまったので、タイガースでの登板は3年間で1試合のみで終わる。近鉄には1956(昭和31)年から2年間所属したが、計16試合で3勝0敗の成績を残して引退した。プロ通算成績は17試合(先発3)3勝1敗、31回を投げ13四球、3奪三振、自責点9、防御率2.61である。 土井 豊 投手(再掲)じつは土井さんは背番号12-3で紹介済みなのよ もうすっかり記憶が飛んじゃってます ということで再掲ね和歌山県那賀郡池田村(現紀の川市)の出身。175センチ76キロと均整の取れた左投手だが、県立那賀高等学校時代は無名の投手だった。和歌山の新宮高校で3度の甲子園に出場しノーヒットノーラン3回の剛腕だった井崎勤也(1956年タイガース入団)をマークしていたタイガースの青木スカウトが和歌山県大会で偶然見つけたというのが入団の逸話となっている。土井も速球派投手で1956(昭和31)年にタイガース入団。背番号は「35」を着けた。2年間は二軍で過ごし、1958(昭和33)年が一軍デビューとなる。この年は20試合に登板して2勝1敗で防御率は3.23だったが、2勝はいずれも4月に挙げたものだ。1959(昭和34)年シーズンを前にした寸評が残っているので掲載する。「阪神には貴重なサウスポーの一員だ。シュート、速球、カーブと球質は豊富で制球力が加われば鬼に金棒。昨年2勝1敗と星こそ少ないが安定したフォームと自信で昨年の実績は軽くあげられそうだ。」かなりの好評価だが、その後はこれといった活躍ができず、1959年は1試合、1960(昭和35)年は登板すらできなかった。1961(昭和36)年に背番号を「12」に替えて9試合投げたが勝敗に関係できずに終わり、オフには交換トレードで大毎オリオンズに移籍する。オリオンズには2年間在籍したものの、実質的にはバッティング投手のような存在で、1963(昭和38)年を最後に現役を退いた。通算成績は33試合(先発5)、2勝1敗、69回1/3を投げ26四球40奪三振、自責点23、防御率2.96だった。 福浦 健次 投手 じつは福浦さんも背番号30―4で紹介済みでした 掲載当時より資料が増えたのでちょっと加筆して再掲するね東京都北区の出身で高校は中央商業高等学校(現:中央学院大学中央高等学校)。181センチ78キロの大型サウスポーで、1961(昭和36)に高卒新人としてタイガースに入団し、背番号「35」を着けた。新人の頃は大きな期待が欠けられたようで、初めてのキャンプの様子を伝える記述が残っている。1月23日からの自主トレーニングに参加した福浦をみて、藤本コーチは「これはいける。上半身の骨格がしっかりしている」とほれ込んだ。その後報道陣が「新人で名前の売れた人がいませんね」といおうものなら、藤本コーチは「冗談じゃない。野球は名前でやるものじゃないよ。ウチの新人投手をみてくれ」と福浦を指さした。その福浦は1回朝井、吉田に連安打されて無死2・3塁になったが、併殺で切り抜け、三併殺でかわして、打者13人で4安打、無四球、速球はまだのびを欠いているが、外角低目へのコントロールがあり、カーブも低目をねらってコースがいい。若い選手にきびしい藤本コーチも福浦には「まあこんなものだろう。投げれば投げるほどよくなる。球が重いしフォームが安定している。なによりもスピードがあるのが魅力だ」と合格点を与えている。これを読む限りではかなり評価が高い。1年目は5試合にリリーフ登板して9回1/3を投げ被安打10、5四球、6奪三振、自責点4、防御率3.60の記録を残す。ところが2年目の1962(昭和37)年は一軍公式戦の登板なし。3年目の1963(昭和38)年は1試合に先発して5イニングを投げて3失点、敗戦投手になっているのが唯一の登板だった。1964(昭和39)年は1年間ファーム、1965(昭和40)年に背番号を「30」に変えてみたが、結局一軍に上がることはなく、オフに戦力外を通告される。タイガースには5年間在籍したわけだが、実働2年で計6試合の登板、0勝1敗、防御率3.60の実績しか残せなかった。自由契約となって、1966(昭和41)年は西鉄ライオンズと契約したが登板はなし。1967(昭和42)年と68(昭和43)年にそれぞれ12試合のリリーフ登板をしたが勝ち負けには関係なく、この2年間の防御率も4.01に終わっている。さらに2年間、1970年まで在籍しているが一軍復帰はできず引退している。プロ通算成績は30試合(先発1)0勝1敗、57回を投げて18四球17奪三振、自責点25、防御率3.95。まとめ今回の3名は2リーグに分裂して各チームが選手不足になり 何でもかんでもかき集めてた時代に入った選手だね この背番号30番台の選手は補欠とか育成枠とかいう色合いが強いとおもう なので写真もほぼ残ってないのよ 報道とかされるようなレベルじゃないから今回の3人もプロ通算の登板数がそれぞれ17試合 33試合 30試合しかないのよ しかもみんな20代で引退してる 言わば使い捨てに近い選手たちなのね まだドラフト制度も無いから 好い選手はお金を出す球団に持っていかれちゃう やむを得ず地方で評判のいい選手を 積極的にどんどん確保してたんだろうね今回の3名は入団時には素材としての面白さを持っていたようだけど なかなか球団の期待通りにはいかないわ高校から直接入ってくる選手が多かった時代なので 力の差を感じて挫折していく子も多かったのかもしれない・・・背番号35-3につづくブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月11日
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背番号35(その1)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは 背番号35の第1回目です 始める前にちょっとお伝えしておくけど タイガースでは戦前に使われた番号は「39」までなのよとくに30番台後半の番号は創立当初には使用されてなくて 創立4年目の昭和14年から使われるようになったから 戦前に着けてる人は少ないのね 「35」は1名だけだよ 戦争をまたいでブランクがあって 2リーグ分裂の1950(昭和25)年に復活する番号です 球団数が増えて選手が不足するようになって 急にたくさん入団させたからね第1回は戦前の1名と戦後の2名を紹介するね 最初の人はもう何度も登場してます でも後のお二人は???中田金一 捕手・内野手・外野手(再掲)中田さんは背番号「16」「23」で紹介しているけど 改めて全文を掲載させてもらいます大阪府の出身で日新商業時代の1938(昭和13)年には一塁手として選抜大会で甲子園に出場している。この年に捕手としてタイガースと契約し、入団当初は背番号「35」を着けた。163センチと当時としても小柄な選手。お笑い芸人のような面白さがあり、チーム内の人気者で「金ちゃん」と親しまれていた。主将や監督として時代を共にした松木謙治郎が「笑いすぎて横腹が痛くなるほどだよ」と著書に書いており、「彼は道を間違えた」とみんなから言われてからかわれたという。次の写真の一番右の眼鏡の選手が中田金一。その左の小さい人物はグラウンドボーイなので間違えないように! 実際に笑い話として後に本人が語っているが、主審にグラウンドボーイと間違えられ、試合中に「きみは危ないから隅に行ってなさい」と注意された事実があったという。本人曰く「グラウンドボーイのほうが僕より背が高かった(笑)」。1年目となる1939(昭和14)年は11試合9打数1安打1打点に終わったが、2年目の1940(昭和15)年は64試合に出場しており、157打数35安打14打点1本塁打、打率.223の数字を残す。 1941(昭和16)年は24試合と出場が減り、翌1942(昭和17)年に応召されて満洲方面へ出征。戦後も1948(昭和23)年までシベリアに抑留されて辛酸をなめた。 帰国した1948年10月に背番号「16」でタイガースに復帰したが出場は1試合のみ。1949(昭和24)年が2試合、1950(昭和25)年は背番号を「23」に変えたが4試合の出場に終わり引退している。 出場106試合211打数43安打1本塁打15打点1盗塁32三振、打率.204が通算成績である。 引退後はセリーグの審判員になった。村田 弘 投手1950(「昭和25」年に入団し、中田金一が背番号を「23」に変えたことで空いた「35」を着ける。公式戦には一度も出場が無いし、NPB在籍者名簿にも1年のみ在籍という記録しかなく、出身地やポジションなども不明。Wikipediaにもページがないため生年月日などの情報もわからないが、かろうじて投手だったことは判明。残念だが村田に関してはこれ以上知る術がない。本人を知る人・・・同級生や同僚などが証言してくれないとお手上げである。辻 嘉美 捕手福井県出身。NPBの在籍者名簿によると1951(昭和26)年から52(昭和27)年まで2年間在籍したという記録があるが、公式戦の出場はない。「知恵袋」には、退団後は1953(昭和28)年に社会人のツルガセメントに入社したという記載がある。別の資料を見ると「捕手」と記載されたものは見つかるが、それ以上のことは現状では調べようがない。プロ入り前のことも含めて情報提供を募るしかないが70年以上前のことだけにもう難しいのかもしれない。まとめ中田さんはある程度レギュラークラスで働いたこともあるから数字も残ってるし 当時のムードメーカーだったから同僚の証言なども残ってるわでもほかの2人はほぼ情報なしね 公式戦にも出ていないから数字も残ってない 残念だけど在籍したということと背番号しか確かな情報はないのよ 背番号30番台の後半はこういう人がたくさん出てきそうね 実際に「35」に限っても 2代目が知る範囲の時代ですぐに思い浮かぶのは才木投手くらい おぼつかないけど坂(さか)さんもそうだったかな?というような程度だから・・・背番号35-2につづくブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月09日
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列伝32 セシル・フィルダーCecil. G. Fielder (1989)生年月日:1963年9月21日背番号44 右投右打・一塁手出身地:アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス球 団:阪神(89)表彰等:なし阪神在籍:1年 106試合384打数116安打81打点38本塁打0盗塁 打率.302 (1)ライバルが多く、くすぶっていた若手時代1982(昭和57)年にドラフト4巡目でロイヤルズに指名されてプロ入り。1985(昭和60)年にブルージェイズに移籍し、同年メジャーに初昇格している。しかしファーストしか守れない上に、ファーストにはウィリー・アップショー(のちダイエー・ホークス)やフレッド・マグリフ(メジャー通算493本塁打)など強力なライバルも多くレギュラーになれないまま4年間を過ごす。1988(昭和63)年オフ、出場機会に飢えていたフィルダーは、アメリカ国内に限定せず、自分をレギュラーとして確約してくれる球団を探していた。そこにオファーを出したのが阪神だった。1988年の阪神は6月にバースを解雇しており、代わりに獲得したルパート・ジョーンズが役に立たずシーズン終了後に解雇。しかも掛布が現役引退してしまって追い詰められていた。チーム立て直しのためにどうしても即戦力の大砲が必要だった。阪神は、年俸12.5万ドルだったフィルダーに105万ドルを提示したという。ただし、ふたを開けてみないとわからないということで契約期間は1年だった(2年契約で2年目は選手側にバイアウト権があったとも憶測される)。この時点では仕方のない話で、シーズンで大活躍し たった1年で去っていくことになるとは思ってもいなかっただろう。(2)キャンプからオープン戦では弱点を露呈メジャー4年間で220試合に出場し558打席506打数123安打84打点31本塁打を記録。打率は.243とやや確実性に欠けるが、190センチ124キロの巨体は、まともに当たれば軽くスタンドまで運ぶポテンシャルに期待を込めての獲得となった。 背番号はバースから「44」を継承させている。当時25歳、のちにフィルダー自身が「向こうにリーグがあることさえ知らなかった」と語っているように日本に対する知識は皆無に近かったようだ。1989(平成元)年2月、キャンプに合流すると豪快で荒々しいスイングから、「荒熊」の異名を授かる。ところが実戦形式の練習で御子柴進の球がバットに当たらない。簡単にひねられてしまい、首脳陣の表情が曇る。さらにオープン戦すべり出しの数試合で14打席10三振と三振の山を築き始め、インハイのストレートで起こされ外角に逃げるスライダーをことごとく空振りしてしまう。しかも外野フライが欲しい場面でもホームランしか頭にないのか大振りして三振するため、チームプレーという面での意識改革も必要だった。(3)石井バッティングコーチの指導で変身当時の村山阪神の打撃コーチだった石井晶はこの惨状を見て、打席に立たせて構えたまま外角低めへの変化球をひたすら見送る特訓を課している。もともと飛ばす才能はあるから、つり球を見逃せれば打率もあがりホームランも出るという信念で取り組ませた結果、フィルダーも根気よく続けるうちにボール球に手を出さなくなっていく。 特訓でもわかるがフィルダーは若かったこともあってかアドバイスに耳を傾ける素直さがあった。助言から食事も肉類を控えて魚中心に切り替えるなど改善を図り、来日時は124キロあったウェートは、シーズン中に100キロそこそこまで落ちたという。(4)来日第1号で10年振りの開幕戦勝利に導く特訓の成果はペナントレースが始まると見事に開花する。1989年の開幕戦となった4月8日の広島1回戦(広島市民球場)に3番ファーストで出場。劣勢の8回表、スコアは0-4だが無死満塁のチャンスを迎え、2番金森永時の2点タイムリーで2-4となったところで打席に立つとレフトスタンドへ逆転3ランを放つ。これで5-4とし逆転勝ちを収めたわけだが、阪神にとって10年ぶりの開幕戦勝利だった。 しかし4月はまだ完全に対応できていたわけではなく第2号が出たのは28日の広島3回戦(甲子園)なので、かなり時間がかかっている。ただしこれをきっかけにして30日の同5回戦で3号、5月2日の巨人4回戦(東京ドーム)ではキングコングの看板に当てる推定160メートルの第4号2ランと波に乗る。ちなみに4月30日時点での打率は3割4分5厘、明らかに特訓の成果が出ている。(5)調子の波の少ないホームランバッターへと進化5月は月間8本塁打を放ったが、打率が徐々に下がっていき、31日には2割8分2厘だった。しかし、ホームランをコンスタントに打つため、それまで岡田が4番を任されていたが、6月1日からフィルダーが4番に起用される。6月も9本塁打を打って月末には20号に到達しており、打率も3割を回復、もはや不動の4番となった。岡田とは仲が良く 他チームの投手の持ち球やクセ配球の特徴などのアドバイスを受け感謝していた30号は8月6日の広島17回戦(岡山)で打っている。本稿では広島戦のホームランが多い印象になってしまっているが、実は一番多く打ったのは大洋戦だった。シーズンを通じて16本も記録している。8月13日には横浜球場で33号、34号、35号と3打席連続ホームランを放つがこのうち2本目と3本目は場外ホームランだった。大好きな横浜球場で息子プリンス・フィルダーと2ショットプリンスはのちにメジャーリーガーとなりシーズン50発でキング通算では319発を記録 父親譲りの強打者に成長する(6)タイトルを確実視されるも不用意な骨折でリタイアフィルダーが38号を打ったのは9月9日の大洋20回戦。そして迎えたのが9月14日の巨人25回戦だった。この時点で2位のパリッシュ(ヤクルト)に2本差、3位の落合博満(中日)に11本差をつけてホームランダービーのトップを走っていた。ところが第4打席で三振に倒れると、悔しさで地面に叩きつけたバットが跳ね返り、右手小指に当たって骨折。そのまま離脱してフィルダーのシーズンは終わる。ホームラン王は42本でパリッシュがとり、落合も40本に到達、フィルダーは3位だった。 残り24試合を残してのリタイアがなければどこまで延ばしただろうか?本人は相当な自信があったようで のちに次のように語っている。「打撃面で自信が揺らぐことなかった。私はいつでもいい打撃をしてきた。だから、打撃で何かが問題になったことは全くない。日常的にプレーさえできれば、うまく行くことはわかっていた。だから384打席で38本塁打も打てたんだ。シーズン途中に手を骨折してしまったからそこでシーズン終了となってしまったけど、もし、怪我もなく出場し続けていれば、50発は打っていたと思う」 (6)メジャー復帰、2年連続二冠王!シーズン前の打撃フォーム改造と特訓によって変化球にも対応できるようになり、出場106試合で38本塁打、81打点、打率.302、長打率.628、OPS1.031というハイアベレージを記録したのは素晴らしく、阪神は引き留めに説得を試みるがフィルダーは退団。2年300万ドルを提示したデトロイト・タイガースと契約した。 メジャーへ戻ると、日本で身につけたストライク・ボールの見極めや配給への読みなどが生きたのか、1990(平成2)年には51本塁打132打点で二冠王。翌1991(平成3)年も44本塁打133打点の2冠王、1992(平成4)年には124打点で打点王と驚異的な活躍でスター選手になる。その後はヤンキース、エンゼルス、インディアンズでもプレーし、1998年に現役を退いている。以降は息子プリンスの代理人を務めるなど、引退後の生活も順風満帆と思われていた。しかし、2004年にデトロイト・ニュース紙の報道で、フィルダーのギャンブル中毒とアルコール依存症が原因で自己破産と離婚をしていた事が発覚し、息子プリンスとの関係も破綻してしまった。その後、消息がわからなくなっていたフィルダーだが、ギャンブルやアルコールの依存症治療を受け、2007年に独立リーグの監督として社会復帰を果たした。現在は、息子プリンスとの関係も修復され、落ち着いた余生をフロリダで過ごしているという。セシル・フィルダー[完]フィルダーの年度別投手成績 フィルダーさんは阪神の歴史を語る上で省けない選手になってるね そもそも球団は最初あまり期待してなかっただけに 残留交渉の着手が遅れてしまったのかな この成績なら当然残留なんだけど 本人も1年間日本でやって これだけの成長ができて メジャーへ戻っても十分やれるって感触があったんだろうねきっと それにしても息子さんもすごい選手になってるし たしか一時阪神入りのうわさもあったんだってね 2011年ころだったらしいけど うわさに過ぎなかったようね ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月07日
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2代目タイガース非公式サイトです2025年3月21日のファム・ファタールで途切れてしまってる「魅惑のガールスメタルバンド」 久しぶりに掲載するよ 不定期ではあるけどこれからもボチボチと更新していくからね 関心のある人は実際にサウンドを聴いてみてね今回15番目としてご紹介する「ディストーピカ」は2019年にアメリカのコネチカット州トランブルで結成されたヘヴィメタルバンド 結成した途端にコロナ禍に見舞われてろくにライヴ活動もできず実質的なデビューは2022年なのよ これから知名度が上がっていく段階だとおもう実はほかに「Dystopia」(ディストピア)というバンドがあるからややこしいんだけど こちらは1991年に結成され2008年で活動を終えたバンドで今は存在しないよバンドの由来「Dystopica」の読みはいろんな資料やレビューによってまちまちで、「ディストピア」や「ジストピー」「ディストーパ」など複数あって定まっていないのよ 2代目はスペルを尊重して「ディストーピカ」と表記しますね(見る限りこう読むしかないような・・・)日本版Wikipediaにはまだ項目がないから情報も少ないけど とても好感の持てる音楽性を持ってるわ 好い曲も多いから今後有望なバンドとして紹介します ガールズバンドとは言えないんだけど女性ヴォーカルのメタルバンドなので・・・ ユニット名は「Dystopica」なんだけど これは英語の「Dystopia」をもじったものなんでしょう 意味としてはユートピア(理想郷)の対極的なのがディストーピア(暗黒郷)という感じかな 前者は「理想的過ぎて実現できない世界」 後者は「悪すぎて実現できない世界」 まあバンド名をあまり追及しても意味無いか? 女性ヴォーカリストのベッキー・ブライドーがメンバーを集めて結成したユニットで バンドの2025年現在のラインナップはつぎのとおりヴォーカル:ベッキー・ブライドーギター:ロブ・ミュラードラムス:エーリッヒ・ベンダー(結成時はクリスチャン・ベラギン)ベース:ルーカス・デラポルタ ディストーピカは 「ハードロック ヘヴィメタル スラッシュメタル プログレッシブメタルをブレンドした独特のサウンド」というような評価をされてるんだけど これでは分かりにくいよね2代目は1970年代から80年代にメタル・ゴッドと呼ばれたジューダス・プリーストの影響が大きいバンドとみているのよ 2024年にリリースしたシングル「Freewheel Burning」はジューダス・プリーストのLP「背徳の掟」の第1曲目をカバーした曲だから意識してるんだなって判るしまた一方で ヴォーカルのベッキーは小さい時から母親の影響を受けてアイアン・メイデンを聞いていたと言ってるから 注意深く聞くとそれも感じられるかな 特徴としては全体的にかなりメロディックなギターリフと力強い女性ボーカルの調和がとれてて ハードでありながらもつい聞きたくなる魅力を持ってるわ1970年代と80年代のクラシックなヘヴィメタルの影響を受けたディストーピカは、骨太なクラシックロックにモダンでプログレッシブな現代的要素を混ぜ合わせて融合し復活させてるって評価になっているよ 以下にアマゾンミュージックで聴けるものを紹介しておきます 2020年 「Broken」(デビューシングル) シングル盤は聴けないけどEP盤「Perception」で聴けます2021年 「You Can't Look Away This Time」(シングル)シングル盤は聴けないけどEP盤「Perception」で聴けます 2021年 「Perception」(EP盤アルバム)収録は実質的なデビューアルバムね 上記2曲を含む全6曲 2022年 「Deception」(EP盤アルバム) 2023年 「Far From Perfect」(シングル)後述のLP盤アルバム「Infinite Reflection」に収録 2023年 「Them Bones」(シングル) 2023年 「Flight Of Icarus」(シングル) 2024年 「Infinite Reflection」(LP盤アルバム) 初のフルアルバム 全12曲で「Far From Perfect」も収録 2024年 「Freewheel Burning」(シングル) ジューダス・プリーストのカヴァー曲 ジューダスより柔らかタッチ 2025年 「Semblance of Order」(EP盤アルバム) 2025年8月にリリースされたばかりの全7曲の最新EP盤アルバム この最新アルバムに関しては以下のようなレビューがあるよ「彼らのサウンドを定義するメロディックで進歩的な本能を尊重しながらも、7曲すべて、22分強にわたってより重く、より主張的なアイデンティティへ移行している。あらゆる文体の可能性を網羅しようとはせず、過剰に曲がりくねっているわけでもない。その代わりに、スラッシュと伝統的なヘヴィメタルの獰猛さと、プログレッシブでコンテンポラリーなメタルの現代的な噛みつきを融合させることに焦点を当てた結果、親しみやすく、将来を見据えた音楽が生まれた。現在4枚のアルバムをリリースしているバンドにとって、この種の芸術的明快さは重要であり、ピークではなく、むしろエキサイティングな新時代の始まりを示唆している。」これはディストーピカを現代のメタル界で注目を集める準備ができているバンドとして位置づけようとしているレビューね まだ実質デビュー5年程度のバンド これからこそ注目していきたいわ ミュージックビデオも出してるし インスタ(X)やユーチューブではたくさんの画像や動画が見つかるよ ぜひライヴ映像もご覧になってください 素敵なんだよ!このシリーズって どれくらいの人が見てくれてるのかな見に来てくれた人は「いいね」をお願いします!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月05日
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列伝31 ルパート・ジョーンズジョーンズさんについてはすでに背番号史「00-1」(2023年5月7日)で紹介済みなんだけど 2年半くらい経ってるから肉付けをしながら再度掲載しますね といっても書くことがほとんどない選手・・・Ruppert. S. Jones (1988)生年月日:1955年3月12日背番号00 左投左打・一塁手出身地:アメリカ合衆国テキサス州ダラス球 団:阪神(88)表彰等:なし阪神在籍:1年 52試合169打数43安打27打点8本塁打4盗塁 打率.254(1)バースの後任で途中入団 メジャーでの成績はバース以上第二期村山監督の1年目にあたる1988(昭和63)年、バースが長男の治療問題で帰国し、再来日が絶望となったことで6月27日にバースの解雇を発表した阪神だったが、最下位に沈むチームを立て直すため彼に代わる新外国人選手の獲得に迫られ、浮上したのがルパート・ジョーンズだった。1973(昭和48)年にカンザスシティ・ロイヤルズに入団。1976(昭和51)年にメジャー初昇格するも 翌年には新球団シアトル・マリナーズへ移籍する。マリナーズ時代はすべて規定打席をクリアしており、3年間で51本塁打を記録するなど中心選手として活躍している。1977年(昭和52)年と79(昭和54)年にはホームラン20本以上を記録しておりかなりの長打力を持っている。その後もニューヨーク・ヤンキース、サンディエゴ・パドレス、デトロイト・タイガース、カリフォルニア・エンゼルスと4球団を渡り歩き、阪神入りする以前の1987(昭和62)年までのメジャー通算記録は1331試合4415打数1103安打579打点147本塁打で、打率が.250。数字だけを見れば日本に来る助っ人選手の経歴としてはかなり上の部類かもしれない。少なくともメジャー通算で130試合9本塁打の実績しかなかったバースに比べたら遥かに格上の選手だ。しかも左打ちでホームランも打てるとあって、バースの後釜にふさわしいと球団が評価してしまったのも無理はない。(2)球団初の背番号{00」 弱肩で打撃も振るわず解雇背番号は「00」を着ける。阪神で初めてこの番号を着けた選手になったわけだが、解雇されたバースの背番号「44」をなぜ引き継がなかったのかはよくわからない。スキンヘッドでキューピーのように頭の真ん中がとんがっていたため「ゼロゼロ怪人」というあだ名がついた。 試合に出たのは7月から。バースの抜けたファーストを任されたが、プロ入り後の12年間で5試合しか守ったことがなく、阪神では27試合で7失策を犯して使い物にならず外野に回されている。 また、シーズン途中に日本に来るような選手は何らかの問題があることが普通であり、ジョーンズは肩に故障を抱えていた。 外野からまともにカットマンに返すことも困難な状況で、外野フライを捕球した後はソフトボールのように下手投げで内野手へ返していた。肩の故障は打撃にも影響したようで全く期待を裏切る結果となってしまう。阪神での成績は、52試合169打数43安打27打点8本塁打、打率が.254だった。1年で解雇となったのは言うまでもない。 パリーグのチームに入ってDHでフルシーズン出ればホームラン20本以上を打てた可能性は高いが、成績よりもベンチ内で香を焚くなどの奇行で有名になった。ルパート・ジョーンズ[完]ジョーンズの年度別打撃成績あまり語る気になれない選手だわ メジャーの成績は悪くないのよ バースさんより断然いいわ バースさんを解雇して大慌てでの緊急補強だったからこの数字に騙されちゃったのかなあ・・・ きっと肩を痛めてアメリカではお呼びじゃなくなったので 引退までにもうひと稼ぎしようと日本に来たんじゃない? ふざけんな!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月04日
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監督の差が歴然2代目タイガース非公式サイトですワールドシリーズは苦戦の末4勝3敗でドジャースが勝ち、球団として初めて2年連続のワールドチャンピオンに輝きました おめでとうございます 2代目はテレビを観ている中でロバーツ監督と藤川監督の差というものを痛感したのよ それについて書き残しておくわロバーツ監督の考えを選手たちも理解ロバーツ監督はポストシーズンを戦うにあたって選手たちに自分の考えを徹底して伝え納得させていたんじゃないかな コミュニケーション能力が素晴らしいよ今年のドジャース投手陣はけが人続出で シーズンを通じてローテーションを守り抜いたのは山本由伸投手一人だったおそらくポストシーズンは山本投手中心でプランを立て チームの全員にも周知して理解させていたとおもう 実際にワイルドカード~地区シリーズ~リーグ優勝決定シリーズ~ワールドシリーズという4つのステージすべてに山本投手を登板させてるよ 全部で6試合も しかもワールドシリーズでは3試合で最後は連投だよ これはチームメイトも山本投手も「監督が考えたPSの方針」として納得の上だからできた荒技だよ だから山本投手は連投を自ら志願してる監督の方針がチームに徹底され みんなが理解したうえで自覚をもって戦い抜いた結果がワールドチャンピオンだったとおもう藤川監督の秘密主義と独善一方、藤川監督はどうだったか2戦目の先発がデュプランティエ投手だと発表されたとき 2代目はどういうプランなのかよく判らなかった もつれて6戦7戦となったときに誰が行くのか?おそらく選手たちも判らなかったんじゃないかな? コーチ陣は才木投手を推していたけど藤川監督がデュープさんで押し切ったと報道されてるよね 監督はモイネロさんが来ると決め打ちして点を取るのが困難だから「あえてエースをぶつけることはない」と判断したとしかおもえない しかも不調からの回復が万全とは言えないデュープさんをあえて出したのは「どうせモイネロ投手を打てないから」というような考えが頭にあったとタイガースナインだって推量するわよ これでは「監督は自分たちを信じてないんだ」とおもう選手がでてきても不思議じゃないわ 2人の監督の違い ロバーツ監督はポストシーズンを展望し 最も大事な試合や困ったときは「ヤマモトで行く!ヤマモト頼みだ!みんなヤマモトが投げる試合は絶対勝つんだ!分かったか!」ぐらいのミーティングしてたんだと想像てします あの延長の試合のあと殊勲打のフリーマン選手が言ってるよ 「ヤマモトがブルペンで準備していた もうここで彼に投げさせてはならないとおもった」ってね 監督の考えを理解し 今何をすべきかを心得てる証拠だよ 正念場になると予想される第6戦の先発で頑張ってもらうためにってことよ 藤川監督の場合は 選手たちはデュプランティエ投手が2戦目に先発したことで この先どう戦うのか見当付かなくなったんじゃないの? 多分藤川さんの好きな秘密主義で選手にも方針は伝わってなかったとおもうし 実際にコーチとすら意思疎通ができてなかった 日本シリーズは普通5人の先発で回すし駒はあるのにデュープさんという奇策を使ってみたかったのかな?方針が示されないまま成り行きで戦っても勝てない 金村コーチの突然の解任も監督の責任逃れの様で好い気持ちはしないわ 仲良しこよしでぬくぬくやってるコーチの方をなんとかしてよ 控え選手の力が伸びてこない原因になってる 1年で解任というのは見せしめ? ほかのコーチたちにもプレッシャーだろうなあブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月03日
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列伝30 マット・キーオ②(4)1988年の村山監督も最下位第2次村山体制となった1988(昭和63)年のタイガースは前年に続く最下位。チーム成績は次の勝敗表のように散々な結果に終わる。 1988年 セ・リーグ順位表規定投球回に到達したローテーション投手4人のうち負け越さなかったのはキーオだけ、それも28試合で12勝12敗と貯金は0である。素晴らしかったのは防御率で、前年の3.80から2.74へと1点以上向上している。援護さえあれば白星は18勝くらいに伸びていたのではないか。この年は暗黒時代の本当の始まりと言える年になった。バースが22試合に出場したところで帰国、そのまま退団してしまう。怪我と腰痛に苦しんだ掛布も67試合にしか出場できず、わずか5本塁打に終わって引退している。岡田と真弓がチームを支え、若い大野久と和田豊が規定打席をクリアして台頭したもののバースや掛布の代わりとなるような長打力はなかったので、スケールの小さな打線に変貌してしまった。この状況では、キーオの12勝12敗は立派な成績だというべきだろう。(5)本物のエースに君臨 フィルダーの加入で最下位脱出1989(平成元)年、キーオはローテーションの中核となって28試合すべてに先発し15勝9敗と安定して勝ち星を挙げている。縦のカーブとスライダーに磨きがかかって右打者を封じているのが素晴らしかった。特にスライダーはストレートとスピード差が少なく、最初は打者に向かってくるが近くまで来て鋭く曲がり、ストライクゾーンに収まるという有効な球だった。例を挙げれば巨人の原辰徳はキーオを苦手にしており、デッドボールと思って身をかわしたボールがストライクゾーンに決まって呆然とするシーンもあった。そこにナックルも駆使するようになったので捉え辛さが増していた。ただし違反投球の疑惑もある。キーオの変化球の切れ味があまりにもすさまじいため、他球団から「グラブに紙ヤスリを仕込んで、ボールに傷をつけて投球している」という疑惑を向けられたこともあった。いわゆるスピッドボールだ。実際に試合終了後、審判団がキーオが投げたボールを回収し、チェックしたこともあったと伝わっているが確証はつかめなかったようだ。防御率は3.72なので1年目と変わらない数字だが、38本塁打のセシル・フィルダーの加入や成長してきた八木裕が16本塁打を記録するなど打線が少し上向いたことで得点力が上がり、援護が期待できたという要因があって勝ち星が伸びた。阪神は2年連続の最下位から脱出し5位に上がることができたが、フィルダーとの残留交渉が不調に終わって引き留めに失敗したのは痛恨だった。また、シーズン終了後には村山監督が責任を取って辞任し、中村勝広が新監督に就任している。中村はキーオの1年目だった1987年には二軍監督だったが、当時あまりキーオを評価していなかったらしい。2年のブランクから一軍監督へ就任したときも当初はキーオの解雇も考えたそうだが、15勝のチーム勝ち頭を切ることはできず、キーオは残留となった。(6)7勝に終わり3度目の最下位を経験 自由契約に1990(平成2)年、阪神はフィルダーの抜けた穴をラリー・パリッシュで埋めることで取り繕ったが投打がかみ合わないまま、また最下位に逆戻りしている。大きかったのはやはりエースと期待されたキーオが7勝9敗と冴えなかったことに尽きるかもしれない。オープン戦のゲームで痛めた足の回復がままならず、球威が落ちたことで変化球も生きなくなってしまった。防御率5.00という数字が如実に物語っている。さすがにこの成績での残留は無いだろう。シーズン終了後、阪神はキーオを自由契約選手として事実上解雇した。(7)2020年5月1日に死去阪神退団後のキーオはアメリカに戻ってアスレチックスのGM補佐まで上り詰めて、藪恵一の入団の際にも尽力している。父親が南海にいたこともあり日本語も流暢だったというし、流行したダジャレ「ちょっと待っときいよ(マット・キーオ)」は有名だった。村山監督の下では「先発完投」を美徳とする日本の考え方が理解できず、セーフティスタートで交代し次の登板に余力を残して備えるメジャーの考え方をわかってもらえないことで愚痴をこぼしていたという。2020(令和2)年5月1日に肺塞栓症で永眠。64歳だった。キーオに関する評価は次のTHE PAGE の追悼記事で掛布雅之氏と池田親興氏がかなり際どいことも語っているので是非ご覧いただきたい。追悼。阪神暗黒時代に孤軍奮闘したマット・キーオ氏が盟友に漏らした本音…「なぜ100球降板が理解されないのか」(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE) マット・キーオ[完]キーオの年度別投手成績暗黒時代となってから4年を過ごしたキーオさんはホントツイてなかったねひどい逆境ではあったけど来日1年目から3年連続の二けた勝利というのは素晴らしいよ 3年目なんか200イニング越えで15勝9敗だよ! 4年通算でも1つ勝ち越してるのも凄いわ タイガース史の中で もっと評価されるべき投手だとおもうよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月02日
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2代目タイガース非公式サイトです 猛虎異人伝も再開します 今回は暗黒時代の被害者マット・キーオ投手だよ 2回に分けて2日連続で掲載しますね列伝30 マット・キーオ①Matthew. L. Keough (1987~1990)生年月日:1955年7月3日背番号45 右投右打・投手出身地:アメリカ合衆国カリフォルニア州ポモナ球 団:阪神(87~90)表彰等:なし阪神在籍:4年 107試合45勝44敗 678回1/3 398奪三振 自責点281 防御率3.73 (1)父親は日本でプレー、兄もメジャーリーガー1986(昭和61)年12月20日、阪神は、ゲイルに代わる新外国人選手として、ヒューストン・アストロズのマシュー・キーオ投手の獲得を発表した。キーオは、アスレチックス~ヤンキース~カージナルスを経て、86年にはカブス~アストロズに在籍した先発完投型の右投手である。背番号は「4」、登録名はマット・キーオ。 アスレチックス時代のフォームを見ると、バックスイングで腕を真後ろへまっすぐ伸ばして大きく腕を振る感じで、2025年から在籍するデュプランティエに似ている。1968(昭和43)年、内野手として南海ホークスで1年間プレーしたマーティ・キーオは実の父親、兄のジョー・キーオもメジャーの外野手という野球ファミリーに育った。マーティ・キーオ(父親も背番号4だった)キーオは、メジャー通算で215試合に登板し、58勝84敗、防御率4.17の成績を残している。大きく負け越してはいるが、アスレチックス時代は、1980年の16勝に始まり、10勝、11勝と、3年連続で2桁勝利を記録したこともある実力派で、1978年にはオールスターゲームに出場した実績もあった。(2)キャンプ・オープン戦で評価が高まる 1987(昭和62)年2月9日に来日したキーオは、翌10日、安芸キャンプに合流した。発表では187㎝、80㎏の均整のとれた体格。ストレートは140キロ前後と平凡だが、インコースへの攻めのピッチングと多彩な変化球が持ち味で、特にカーブ系には自信を持っていた。1987年春季キャンプのキーオの様子を伝える記事 キーオは「2~3週間でベストに仕上げる。」と公約し、急ピッチで調整。2月18日に行なわれた紅白戦で先発すると、カーブ・シュート・SFFなどを駆使して、2回を無失点に抑え、潜在能力の高さを感じさせている。 オープン戦最初の登板となった3月14日の阪急戦では、5回を投げ被安打6、3失点(自責点2)ではあったが、変化球のコントロールは合格点だった。 19日のロッテ戦は、4回打者17人に対し無安打に抑える快投を演じ、「打てそうで打てない」とロッテ打線を嘆かせている。特に大きなカーブが有効で、打者が思わず腰を引く場面がしばしばあった。オープン戦はその後も絶好調で、通算5試合に登板して計21回を投げ、自責点は2。防御率0.86は投手成績第2位だった。崩壊気味の投手陣に困り果てていた吉田監督は、オープン戦でのキーオの好投を見て、開幕投手に抜擢。ローテーションの中心に据える決断をしている。(3)いきなりのリーグ最下位 「話が違う!」 4月10日、甲子園での開幕ゲームのヤクルト1回戦で先発したキーオは、やる気が空回りしたのか制球に苦しみ、6回2/3を投げて失点5。試合は1対7で、敗戦投手となり、吉田監督の期待を裏切った。しかし、15日の大洋2回戦で2度目の先発に起用されると、10安打を浴びながらも自責点2。落ち着いた投球で来日初勝利を無四球完投で飾っている。 ところが、22日の広島1回戦以降、キーオは「非情な現実」に直面することになった。この試合、7回までに11奪三振の好投も、味方の援護は1点。28日の広島2回戦でも自責点2でありながら、またしても援護は1点。連続して敗戦投手となり、黒星が先行していくことになる。「話が違う」というのがキーオの感想だろう。そもそも、キーオが来日を決断する決め手として、阪神が強打のチームであることが大きな要素であったことは間違いない。2年前には猛打を振るって日本一に輝いているし、前年もバースが連続三冠王になるなど、12球団でもナンバーワンの強力な援護を背にして悠々と投げられるはずだった。ところがどうも様子が違う。5月に入ってそれがはっきりしてきた。 5月3日の大洋5回戦は、9回にレスカーノのソロを許したものの1失点、9日の中日5回戦も5回1失点で、ともに勝利投手になったが、両方とも味方の得点は2点だった。 続く15日のヤクルト7回戦に至っては、7回2失点の好投も報われず、打線が沈黙して0-2の完封負けを喫し、敗戦投手にされた。2年前の猛打も、今となっては遠い伝説であり、もはや並以下のチームに成り下がってしまったという現実を思い知らされている。このあたりを境にして、キーオの投球には常にイライラした様子が感じられるようになり、好投するかと思えば、簡単にノックアウトされたりと、波が激しくなってきた。5月31日の巨人9回戦で初完封勝利を挙げたが、この時点で阪神は借金16を抱え、最下位独走態勢を築いていた。泥沼に落ちたかのように負けつづける阪神の中で、キーオは辛抱強く投げたと言っていいだろう。6月は3連敗だったが、7月以降7勝を挙げて来日1年目で11勝を記録している。キーオ以外で規定投球回数に達したのは仲田幸司だけであり、二けた勝利に達した投手はキーオだけという惨状だった。防御率3.80という数字も我慢強く投げた結果として一定の評価をしていいだろう。現実の数字を見ても、首位打者の篠塚利夫(巨人)は13打数2安打、正田耕三(広島)は11打数2安打、本塁打王のリチャード・ランス(広島)は9打数1安打、打点王のカルロス・ポンセ(大洋)は21打数5安打と、タイトルホルダー達を苦しめている。彼の長所である負けん気の強さは、同時に危険と隣り合わせでもあり、被本塁打は24本と「一発病」に泣く場面も多かった。それでも、向かって行く投球は魅力的だし、内容的には優勝時のゲイルより信頼感があった。防御率も3.80ならギリギリ合格点である。もう少し援護があれば15勝以上できたかもしれない。阪神は1978(昭和53)年以来の最下位でシーズンを終了。吉田監督が成績不振の責任をとって辞任し、村山実が新監督に就任、1年目に11勝を挙げたキーオの残留も決まった。このとき、キーオはすでに次期村山阪神のエース格にのし上がっていた。吉田監督の3年目 「猛打阪神」と信じてキーオさんは期待に胸を膨らませてタイガースに来たのよ それがふたを開けてみたら最下位! 暗黒時代がちょうど始まったころに来ちゃった これはお気の毒だったね でも援護がない中で好い数字を残してるから立派なのよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年11月01日
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2代目タイガース非公式サイトです みなさん日本シリーズの応援お疲れさまでした 残念な結果だったけどタイガースに何が足りないかを教えてもらえたシリーズだったとおもうよ 来季に向けて出直しね これで2025年のシーズンも一段落しました ブログも通常に戻ります また色々再開していくね 最初は背番号史34から 今回が最終回だよ背番号34(その8)背番号34の最終回です みなさん今回の2名って判った?まだこの数年の話だよ しっかり覚えてる人はどれくらいいたかな 結局のとこ タイガースの中では「34」はやっぱり地味な番号で終わってるようにおもうなあ 例えば何回か二けた勝った投手とか 5年くらいレギュラーを守った選手とか出てないのよ トレードなどで来た選手が多いねそもそも有望な若手が着けて成長したら小さい番号へ変わっていく そういう背番号なのよねさて じらしていても仕方ないから最後の2人を見ていきましょう 二保 旭 (にほ あきら) 投手福岡県行橋(ゆくはし)市出身。 九州国際大付属高校へ進学した当時のストレートは120キロ台。監督の勧めで高校時代に身体を柔軟にするトレーニングを続けることで3年時には145キロを計測するまでに改善される。右本格派として成長した3年時には甲子園出場に最も近づくが、県予選準々決勝で制球を乱して敗北し出場はかなわなかった。2008(平成20)年のドラフト会議で福岡ソフトバンクホークスが育成2位で指名しプロ入りしている。 2009(平成21)年から3年間、育成枠のまま過ごし、規定によりいったん自由契約となるが、2011(平成13)年11月に育成選手としてホークスと再契約する。2012(平成24)年7月30日、待望の支配下選手契約となり、一軍で3試合登板している。2014(平成26)年にブレイクがあり、44試合すべてリリーフで登板し、6勝1敗5ホールド、防御率3.25の成績を残す。2016(平成28)年の春季キャンプでひじ痛を発症し、同年トミー・ジョン手術を受けると、結局2年間を完全に棒に振ることになった。復帰した2018(平成27)年は35試合に投げたが、その後は8試合、12試合、2試合と出番を失っていった。2021(令和3)年のシーズン途中の7月2日、突如タイガースの中谷将大との交換トレードが成立し移籍することになる。タイガースでの背番号は4月に日ハムへトレードで移籍した谷川の着けていた「34」を受け継いだ。 この年4試合に登板し3試合には先発しているが、1勝1敗、防御率5.28の成績に終わっている。岡田監督になっても一軍に上がることができず、2023(令和6)年10月3日に戦力外通告を受けて自由契約になる。しかし11月23日に千葉ロッテの入団テストを受け育成契約で現役続行ができた。 ロッテに移ると同年支配下登録され、8試合に登板したが防御率12.19と結果を残すことができず、オフに引退している。 NPB通算記録は、121(先発26)試合、13勝12敗1セーブ9ホールド、230回を投げて109四球、115奪三振、自責点121、防御率4.73だった。 漆原 大晟(うるしはら たいせい) 投手新潟県燕市の出身。新潟明訓高校へ進むと1年の夏の甲子園にベンチ入りするが、登板する機会の無いまま敗退、2年以降は甲子園に行くことはなく、高校時代での登板はできなかった。大学は地元の新潟医療福祉大で、桐敷拓馬投手の3年先輩にあたる。 2018(平成30)年のドラフト会議ではオリックス・バファローズから育成1位指名されてプロ入りしている。 ルーキーイヤーの2019(令和元)年にはウェスタンで1勝0敗23セーブを記録。シーズンオフにはプエルトリコウインターリーグに野球留学の機会が与えられて好結果を残すと、年が明けた2020(令和2)年2月20日に支配下契約を勝ち取った。 2020年22試合、2021(令和3)年が34試合、2022(令和4)年は一軍登板なかったが、2023(令和5)年が16試合とすべてリリーフで投げて3点代前半の安定した防御率が光る。オリックスは2023年11月に一旦契約を更改しているが、12月8日に実施された現役ドラフトの名簿に漆原を載せた。これに反応したタイガースが獲得を決めて移籍が決まる。タイガースは同じ剛腕タイプの馬場皐輔を名簿に載せており、代わりに似たタイプの漆原を獲得したことになる。2024(令和6)年は、38試合に登板してはいるが、おもにビハインドの展開の中継ぎや敗戦処理が仕事だった。2025(令和7)年、監督が藤川球児に代わっても初めは前年のような起用だった。しかし漆原は移籍1年目以上に結果を出し続けたことで、同点やリードの場面でも使うようになってきたように見えた。 ところが7シーズン半ばの7月3日に登録を抹消され、その後は公式戦終了まで再登録はなかった。そしてCSのメンバーからも外れる。とくに故障しているなどという情報も無いまま時は過ぎていった。 CS終了後の10月21日、タイガースは漆原に対して戦力外を通告する。 詰まるところドラフト会議を前にしてタイガースの豊富なブルペンでは余剰人員の整理が必要だったということだろう。年齢的他の選択が可能な29歳。球団んもその辺も配慮してのことなのかもしれない。 通告後、記者の前で語った写真を見ると落胆の色は隠せなかったが、力のある投手だけにもう一度奮起して現役を続行してくれることを願う。まとめ2代目はタイガース時代の二保さんを何度かウェスタンの試合で観てるんだけど ポカスカ打たれたイメージしかないのよね かつては145~148キロくらい出たというんだけど 2代目が観たときはそんなスピードボールじゃなかったよ 遅いなあという印象 それでいてゾーンに集まってくるから捕まるのね もう終わってた感じだった敗戦処理でも一所懸命やってくれるありがたい存在だったのが漆原さんね この人も間近で見たけどボール速いよ 馬場さんも速かったけど漆原さんの方が伸びがある感じね 多分ボールが好い回転してるんじゃないかな? 残念ながら戦力外になってしまったけどリリーフ投手として欲しがる球団はあるとおもうよ!ただしもう1種類緩い変化球が欲しいという注文は付けておきたいわ まだ緩急を使いきれてない気がするのよね 来季は誰が着けるかな?とりあえず背番号「34」はこれでいったん終わりです次の「35」はどう?ピーンと来る選手っている? はいはい今は才木浩人投手ね!でもさかのぼってどんな選手が着けたかパッと思い出すことはできないとおもうよ しばらく前に猛虎異人伝で紹介したジョー・ゲインズ選手が「35」だったんだけど忘れちゃった? ちゃんと見直しておいてね!背番号35につづくブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月31日
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2025年10月30日日本シリーズ第5戦 阪神2-3ソフトバンク 阪神1勝4敗(甲子園)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんばんは 見てるこっちもアドレナリン出っぱなしの緊張感 とてもいい試合だったのは間違いないわ!ソフトバンクは中4日で有原投手を先発させてきたね 第1戦は勝ったけど有原投手を攻略したという感じじゃなかった その辺を考えて小久保監督は決めに来たのかもしれないね下位打線がシリーズ初のタイムリー昨日のブログで もう下位打線に期待しないって書いちゃったけど 先取点は坂本さんのタイムリーだった 失礼なこと書いてごめんなさい1回三者凡退で迎えた2回裏 先頭テル君がレフト前ヒットで出塁 大山さんの打席でランエンドヒットで大山さんが見送り 単独盗塁の形になったテル君がセカンドアウト ちょっとガックリしました でも大山さんがしっかりフォアボールを選んで一死1塁 スタメン6番に入った木浪さんはレフトフライに倒れたけど 7番の高寺選手がフォアボールを選んで二死1・2塁としぶとくチャンスメイクしたわここで迎えたのが8番坂本さん カウント2-1からの4球目がほぼど真ん中のツーシーム! 坂本さんは反応してレフト前に運び大山さんが帰って1点先行! 追加点はテル君の5試合連続打点5回裏 口火を切ったのは大竹投手のセンター前ヒット! 打順が1番に帰って近本さんがライト前に運んでチャンスを広げますここで中野選手は送りバント失敗! 3塁で大竹さんが封殺されて一死1・2塁になりました 森下選手はセンターフライに打ち取られ テル君を迎えたところで小久保監督は 左の剛腕ヘルナンデス投手をぶつけてきたんだよね緊張したよこの対決 ヘルナンデス投手は凄いボールでインコース攻めて来てテル君もファウルでしのいで 手に汗握ったわよ 最後はカウント2-2から真ん中やや外寄りへストレート ヘルナンデス投手のボールは決して悪くなかったよ 速かったし! もちろんテル君はしっかり捉えてセンター前タイムリーヒット 近本さんを迎え入れ5試合連続打点を達成したよ!先に追加点が入ってかなり優位に立てました大竹さん見事なピッチング 先発の大竹さんは落ち着いてたねえ 緩急織り交ぜて古巣相手に6回を2安打無失点 「どすこい」にもバッティングさせなかったわ 投球数は75だから打たせて取るピッチングが冴えたってことね まさか自分の先発が 1勝3敗と崖っぷちにたった試合になるとは予想してなかったとおもうし 相手は古巣 やりにくいし負ければ終わりというプレッシャーも半端じゃなかったとおもう ところがいつもの大竹さんなんだからある意味驚き こんなにメンタルの強い人だったんだね 素晴らしいとおもいます 及川投手も「どすこい」斬り7回からは勝利の方程式 まず及川投手が出てきました 先頭の柳町選手にヒット許し「どすこい」が打席に入ってまた緊張する場面!カウント2-2から外角低めに渾身のストレートを投げ込みセンターフライに打ち取ります 栗原選手を打ち取って二死になってから野村選手を歩かせてしまい ソフトバンクはここで近藤さんを代打に使ってきたのよ 勝負賭けてきたねまたまた緊張の場面!フルカウントまで行って近藤さんもファウル2本で粘ってきたわ そして8球目 及川投手はひるまず外角低めの厳しいコースへストレート!近藤さんは見送ったけどストライクのコール 三振で仕留めてチェンジ! 今シーズンはレギュラーシーズンからポストシーズンまでフル稼働して 結局70試合以上なげたのかな? オフはゆっくり休んでほしいよ石井さんがまさか?の被弾!8回に石井さんが投入され 正直2代目は勝ったとおもった ところが途中から出ていた先頭の嶺井選手にヒットを打たれてしまうのよ 代打ダウンズ選手を空振り三振にとって打順が1番に戻ります実に嫌なギータ選手 初球外角低め もう少し低くあるいは外へ外れるくらいに投げたかったのかもしれないけど ゾーンのしっかりバット届くところへ来たストライクを見逃さず左方向へ大飛球が! 2代目は切れていくだろうとおもったけど風が味方したのか ポールの右を通過して2ランホームランになっちゃいました 2-2の同点! そのあともピンチがあったけど何とか同点で止めたけど これは痛恨の被弾だったね 攻め方がどうとかいうより打ったギータさんの集中力と思い切りの良さに脱帽です シーズン通じて頑張ってくれた石井さんを責めるわけにはいかないわ崖っぷちで村上投手投入も勝ち越し弾浴びる同点になって9回は岩崎さんが抑えて延長戦に突入 負ければおしまいのタイガースは第1戦に先発して中4日の村上投手に託します10回表 一死から中野選手のエラーから二死1・2塁のピンチになるけどしのいで裏の攻撃に 1番からの好打順だったんだけど3者凡退11回表 先頭の野村選手に対し長打を警戒して立て続けに外角低めを攻めるんだけど カウント2-2からの5球目がベルトの高さ これを右方向へ持っていかれてライトスタンド最前列への勝ち越しのホームラン 信じられない展開に場内もためいきと悲鳴だったね でも仕方ないよ そういうのも覚悟のうえでの村上投手投入だから これも経験だとおもわなきゃ ソフトバンクの選手の集中力と底力が優ったってことだわ11回裏も反撃できず目の前で胴上げ11回裏 テル君が歩かされ大山さんがセンターフライになったところで絶望 木浪さんと高寺選手ではどうしようもなく試合終了 甲子園で敵の胴上げを見ることになってしまったわ 31日のスポーツ紙などで敗因の分析がいっぱい指摘されるでしょうでも一番の敗因はソフトバンクが強かったということよ そして交流戦の結果を見てもわかるようにパリーグのチームのほうがレベル高いんじゃないの?どんな評論が出てくるかまた注目して見たいとおもいます 6戦7戦のチケット買ってた人たち残念だったね でも一生懸命プレーした選手たちを責めないであげてね 最後に素人の2代目に言わせて!自分で振り返ってみると2代目の個人的な予想は 村上 才木 大竹 高橋遥 伊原の順だった そして6戦が村上 7戦まで行けば才木 という感じだった 4戦までで王手をかけようという投手起用ですだからデュープさんを第2戦に持ってきたのが 勝負の流れを変えてしまう分かれ目になったかなという印象は強いのよ みなさんはどうかな? でもやっぱり試合の流れを左右するような場面でホームランが出るのがソフトバンク打線だった 思い切りよく強いスイングしてくるのよ 一方のタイガースには1本も出なかったんだから これも課題だねタイガースの弱点も明らかになった!色々な課題を突き付けられたシリーズだったとおもう タイガースも弱いわけじゃないのよ でもソフトバンクは投打にバランスが取れてなおかつ選手層も厚い レギュラーと控えの力の差もあまりない これは強いわけよ タイガースはそこまでのチームじゃなかった3軍制で選手を競わせて這い上がってきた者を使う そういうピラミッドが成果を挙げているってこともあるかな ソフトバンクの育成の仕方や新人選手の選び方なども研究してみないといけないよ これだけ強い戦力にするにはそれなりの背景があるはずだから 小久保監督をはじめソフトバンクのみなさんおめでとうございます ソフトバンクファンのみなさんも好かったね今回は力負けでした 強いチームとはこういうものだって教えてもらいました タイガースの選手たちも「何かが足りなかった」と各自が実感しているとおもうよ でもこの敗退の中で得たものはいっぱいあるはず そういう意味では好い勉強をさせてもらったと前向きにとらえたほうが良いわねこれで今シーズンすべて終わったわ すぐに秋季キャンプ 早速来季に向けて課題克服ね 絶対リベンジしよう! みなさんお疲れ様でしたブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月31日
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2025年10月29日日本シリーズ第4戦 阪神2-3ソフトバンク 阪神1勝3敗(甲子園)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんばんは 2代目の嫌な予感が現実になってしまったわ 3試合見てきてソフトバンクの投手陣は 先発はそれなりにセーフティスタートができる投手が揃ってるし リリーフ陣もタイガースに匹敵する力を持った投手の層が厚いのよ 投手陣に関しては両チーム好い勝負というか互角ね 打線について今日の試合で言うと ソフトバンクはスタメンでヒットが出なかったのは柳町選手と海野選手だけど 柳町選手は犠牲フライ打ってる 一方のタイガースは6安打したけど 打ったのは5番までの選手 6番以下は代打も含めノーヒットなのね遥人投手はボール走ってた先発の高橋遥人投手はストレートがシュッと伸びてきてた 「どすこい」に対して4球とも高めに行ってしまったんだよなあ 特にホームランにされた4球目は甘かったわ しかも相変わらず素直にセンター方向へ打ってくるからもう脱帽ね 先取点を与えてしまうと もう点数はやりたくないって慎重になるから球数が増えていくのよね 悪い循環 5回表は一死からピッチャーの大津選手にフォアボールを出してしまい 柳田選手にヒット 周東選手にピッチャー強襲の内野安打されてマウンドを降りることになっちゃいました 遥人投手は調子が悪いわけじゃなかったのに何か不運な結果になりました 先日は岩貞さんも左肩に当たったし ついてないよ でもこの大ピンチは緊急リリーフした畠投手が犠牲フライの1点でとどめてくれたので試合が壊れなかった ナイスピッチングだったよね止まらない「どすこい」もう顔を見るのも嫌 第2戦ですっかり目覚めてしまってホームランはすべて完ぺきな当たり もちろん甘いボールってこともあるけど逃さないのが凄いわ ムカつくけどフォアボールで歩かすしか手の打ちようがない状態ね ふがいない下位打線 前川君も不発昨日のブログでもこのブログの最初でも書いたように下位打線がからっきし打てません 6番以下はノーヒット 代打に出てきた島田選手 豊田選手 高寺選手 木浪さんも打てるように見えない! この辺がソフトバンクとの力の差がありありなのよ 嫌な予感は当たったわ スタメンではようやく右京君を使ったけど固すぎだね 佐藤選手は構えたときゆらゆらして脱力してるのがわかるよね 右京君は構えたときどこかで力が入っててコキッと固まっちゃうのよ 速い球が来るとコチコチのところから振り出すから遅れちゃってレフト方向にしか飛ばない 緩い球は引っかけちゃう 今まで使わなかったわけが分かったわ ちょっと一から修正が必要だよ6回の1点が強烈だった桐敷投手は久しぶりに見たね 内容は悪くなかった 6回表は一死からヒットが出て送られ二死2塁 ここで出てくるのよ近藤さんが 桐敷投手は低め低めとボール球から入ったんだけど 2球目の内角膝下くらいのツーシームを強引に打たれてタイムリー 「あのボール球をまさか?」ってあっけにとられる打撃だけど 近藤さんだからできる技ね 1塁が空いてたんだから申告敬遠でもよかったとおもうけど それはベンチが指示しなきゃいけない この場面では桐敷投手を責められないわ 8回裏にようやく反撃も届かず1番からの好打順 ここで少しは意地を見せないと完敗です まず近本さんがセンター前に弾き返して出塁 続く中野選手はボールをよく見てフォアボールを選んで無死1・2塁とおぜん立て クリンナップに託します 3番森下君は気合入ってたんだけどフルカウントからの155キロストレートを見逃して三振 外角高めだけにファウルにしてほしかったけどボールに見えたのかもしれない さあ佐藤選手 松本投手は外角一辺倒でボール3となり 4球目は外角だけどギリギリゾーンにかかってたかな テル君はこれを緩くころがしてセンター前ヒットにし 近本さんを迎え入れて1点を返しました 中野選手もサードを陥れてなおも一死1・3塁とチャンスが続いたのね テル君は4試合連続打点 次は今日最初の打席でシリーズ初安打が出た大山さん 初球インコースのボール気味の球に手を出すとどん詰まりのセカンドゴロ 佐藤選手はセカンドで封殺されたけどゲッツーにならず 中野選手が帰って2-3になったよ ここで右京君にはつないでほしかったけど 考えてみれば後ろの打者は期待できない じゃあ右京君の長打でせめて延長に持ち込みたい!と2代目は祈ったわけよ それが低めのボールになるフォークを引っかけてボテボテのセカンドゴロで終わっちゃった9回裏 誰に期待しろって言うの?代打高寺選手ショートフライ 小幡選手ファーストゴロ 代打木浪さんセカンドゴロ なんのことはない ソフトバンクの杉山投手の前では大人と子供だった この辺が今後の課題だよ ピッチャー偏重に育ててきた代わりに 打線のほうが手薄になってたのね その辺は当然気づいてるからドラフトも立石選手を取りに行ったってこともあるかな 単にテル君がメジャーへ行くからってだけじゃないよね 投手力がしっかりしてるときに若手野手を育てないと5年先が悲惨だよまだ終わってない 第5戦第6戦と勝つしかないよもうあきらめちゃってる感じで書いてしまってすみません 王手がかかったわけで もう3つ続けて勝つしかない まず第5戦ね 先発大竹さんが発表されました 古巣相手だけど頑張ってほしいし 序盤での援護が絶対条件だよ もう下位は当てにせず 5番までで点取れ!今夜も怒りをグッとこらえてます💢ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月29日
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2025年10月28日日本シリーズ第3戦 阪神1-2ソフトバンク 阪神1勝2敗(甲子園)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんばんは なんとなく歯車が狂ったかなという印象を持ちながら3戦目を見ました 才木投手は普通の出来だったとおもう ただ警戒してフォアボールも出してたから球数は多くなっていったわね モイネロ投手はそんなに好くなかったとおもうんだよね 特にストレートはあまり走ってなかったし 才木投手と同じように球数も多かった でもなんだかんだで簡単に得点はくれないのよね テル君 3戦連続タイムリー才木投手が1回表を3者凡退で抑えてあとの裏の攻撃 一死から中野選手がライト前ヒットで出塁します 森下選手三振のあと4番佐藤選手の打席2球続けてストレートでカウント0-2と追い込まれるんだけど 3球目が高めのカーブ モイネロ投手は投げミスかな?もっと低く投げたかったんだとおもうよ この球を見逃さず打ちに行くとライトの頭を超えるタイムリー2ベースとなって中野選手がホームまで帰ってきました 1点先行! 第2戦で目覚めた「どすこい」の一発4回表一死ランナー無し 4番の山川選手を迎えてちょっとイヤな感じがしたのよねえ 第2戦のホームランも2ベースも完ぺきにとらえていたからなあ才木投手は外角カーブから入って行き低めに外れてボール そして2球目が真ん中少し外寄りのバットが出やすいところへ135キロのスライダー!待ってましたとフルスイングされてバックスクリーン左まで持っていかれちゃったわ 今日の才木投手はストレートの率が多かったのに ここで変化球続けていった意図はどうだったのかな?まあコースや高さを見ると投げミスかもしれない でも早い段階で同点にされてしまって痛かったよこれ才木投手こらえきれず6回に失点1-1のまま迎えた6回表 先頭の柳田選手にライト前ヒットが出て周東選手の送りバントで一死2塁とされますここで迎えた柳町選手カウント2-1からの4球目は高めいっぱいのストレートだけど147キロ 少し球威が落ちてきていたのかな いつもなら空振りかフライアウトなんだけど真っ芯でとらえれた打球はレフト線へライナー性の当たり これがタイムリー3ベースとなって1-2と勝ち越されちゃいました この後山川選手を歩かせてしまったところで及川投手に交代 栗原選手をセカンドゴロゲッツーにとって追加点は防いでくれたねタイガース打線の脆さを露呈タイガースは上位に比べて下位打線がからっきし打てないのよ 代打も大した人いないし そこへもってきて大山さんも不調だから得点できるパターンが限られるのね グッチさん入れてないのも監督のミスだわ 短期決戦ではベテランの力も必要なのよ4回裏は一死1・2塁で6番途中出場の熊谷選手に回って三振 次の坂本さんが浅いセンターフライでチェンジ6回裏は無死1・2塁のチャンスで不調の大山さんがセンターフライ 仕方なく送った代打ヘルナンデス選手がピッチャーフライ 坂本さんがショートフライでチェンジ これでは厳しいわよ シーズン中も役に立たなかったヘルナンデス選手をこんな大事な場面で使わなきゃならない 打てる感じ無し まったく右の代打がいないのね 井上くん使ったほうがマシよ8回裏は二死から大山さんがデッドボール 島田選手にヒットが出て1・2塁になるけど 坂本選手がショートゴロでチェンジリリーフ陣は勝ちパターンを投入 6回のピンチを切り抜けた及川投手は7回も3者凡退に抑えます 8回表は岩崎さんがヒットと2つのフォアボールで満塁のピンチを招くんだけど切り抜けました そして9回表は石井さん きっちりと3者凡退に抑え 1-2のまま9回裏の攻撃ですさあ9回裏よ!小幡選手倒れて一死になってピッチャーのところで木浪さんが代打で登場 ソフトバンクの杉山投手がコントール定まらずフォアボールで出ます そして1番に帰って近本さんが三遊間へ見事な流し打ちで一死1・2塁 同点のランナーが2塁に進みました 中野選手がセンターフライで2アウト 迎えるのは3番森下選手 大きな期待がかかったけどショートゴロで試合終了! 対戦成績は1勝2敗 しかも悪い負け方疑問の才木投手先発に始まって 結果的に負け試合に勝ちパターンのリリーフをつぎ込んで なにしたのかわかんないようなゲームにしてしまったね 終わってみれば2代目は怒りに震えてますよ 大山さんは不調のままだし 下位打線と代打陣は弱わっちいと相手に見抜かれてしまっただろうね これで精神的にもソフトバンクが優位に立ったとおもう 非常に厳しい展開になったんだけど 切り替えなきゃいけないわ ソフトバンクはどこからでもチャンスを作れる打線で下位打線も力があるわ その点は真似できないから タイガースはやっぱ森下選手や佐藤選手がホームラン打たなきゃ打開は難しい それに大山さんが寝たままだと3番4番が勝負を避けられてしまうよクリンナップの爆発を期待してるよ!ちょっと・・・じゃなく凄く不機嫌ですブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月28日
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背番号34(その7)背番号34の第7回目です 最初は「その6」くらいで終わるかなって感じはしてたんだけど意外に多かったので 次回の8回目が最終回になるよ今回は3名の紹介しますね 最初に紹介する久保康友さんはトレードで来てエース級の働きをしてくれた投手だよね でも5年いてまた出て行ってしまったわそのあとの2名はほとんど戦力になれなかった選手 名前を聞いてもピンとこない人も多いんじゃないかなでは順番に見ていきますね久保 康友 投手奈良県橿原市出身。1980(昭和55)年生まれでいわゆる「松坂世代」の1人。中学生までは地元で軟式野球をしていた。高校は大阪府吹田市にある関西大一高校に進んで本格的に硬式に転向している。同校には合宿施設がなく奈良から1時間半かけて毎日電車通学していたという。 高校3年時の1998(平成10)年にはエースとして選抜大会に出場して決勝に進み、松坂大輔のいた横浜高校と対戦し0-3で敗れている。この試合で久保は13安打を許しているが粘りの投球が光り3失点にとどめているのは注目された。同年夏の選手権にも出場して勝ち進むが、準々決勝で明徳義塾に敗れている。 秋のドラフト会議では指名にかからず松下電器に入社し6年間在籍する中で実績を積み評価が上がって、2004(平成16)年のドラフト会議において千葉ロッテマリーンズに自由獲得枠で指名されて入団した。 ロッテには4年間在籍。主にローテーション投手として1年目に10勝3敗の成績を挙げているが、2年目以降は7勝13敗、9勝8敗、4勝7敗とムラがある。2009(平成21)年3月4日、橋本健太郎との交換トレードでタイガースに移籍し、橋本の背番号だった「34」をそのまま引き継いでいだ。 久保のストレートは150キロを超えるし、クイックや牽制はプロトップレベルという高いポテンシャルを持っていたが、もともとドライな性格で執着心がない。勝敗へのこだわりは薄いし、ヒーローインタビューでのファンへのリップサービスなどもない。野球そのものにも、のめり込むというような感じがなかった。タイガース1年目の2009年は先発ローテーションを守って9勝8敗、防御率3.75の成績だった。しかしオフの契約更改交渉は長引き越年の末決着している。 2年目の2010(平成22)年がキャリアハイとなるが、29試合すべて先発登板で14勝5敗。202回1/3を投げて158奪三振、防御率は3.25でエースと呼べる働きを見せている。ところがオフの契約更改交渉がこじれて前年に続く越年となり、2月のキャンプインを迎えても合意に至らない。久保は自費でキャンプに参加し、2月15日にやっと契約書にサインした。これは球団のみならずタイガースファンにも好い印象を残さなかった。そうした経緯のなか3年目が8勝8敗、4年目は4勝7敗と落ちていき、ロッテ時代と同じようにだんだん情熱が薄れていくという感じだった。 タイガースでの5年目となる2013(平成25)年は、藤川球児のカブス移籍に伴ってストッパーを託される。成績は44試合すべてにリリーフ登板し、4勝6敗6セーブ11ホールド、防御率2.85で、十分及第点の内容だろう。ただし当初の2ヶ月こそストッパーだったが、シーズン半ばで故障し、復帰後の後半戦は福原忍がストッパーを任され、久保はセットアッパーへ配置転換されている。久保の投球について、「熱気が伝わってこない」「打たれても薄ら笑いを浮かべている」「冷めている」「投げやり」などタイガースファンからも不満や批判の声が多く聞かれるようになっており、FA権を得た久保がオフに宣言しても球団は熱心に引き留めようとはしなかったようだ。 結局は横浜DeNAベイスターズが名乗りを上げ、2013年12月2日に移籍が決まる。移籍1年目の2014(平成26)年には12勝6敗、防御率3.33の好成績で貢献するが、翌年以降は8勝7敗、5勝8敗、4勝2敗と年々成績がしぼんでいく。ロッテやタイガース在籍の時と同じ傾向を示した。2017(平成29)年には8月に二軍落ちすると、次期シーズンの契約に関して球団と意見が合わず、手を焼いた球団側は戦力外を通告したと言う。ペナントレースが終わり10月5日に退団が決定、12月に自由契約選手として公示された。2018(平成30)年は北米独立リーグのアメリカン・アソシエーションや日本の独立リーグでプレーしており2025(令和7)年現在も現役投手である。NPB通算成績は304試合(先発231)、97勝86敗6セーブ20ホールド、1540回1/3を投げて1130奪三振、398四球、自責点633で防御率は3.70。 高宮 和也 投手大阪府岸和田市出身で少年時代からタイガースファン。高校は大体大浪商だったが在籍中に甲子園には出できなかった。高校3年時にはいくつかの大学のセレクションを受けたが採用にならず、野球をあきらめて専門学校への進学を考えていたところ、山口県にある徳山大学硬式野球部の監督から勧誘があり、入学している。中国大学リーグで24勝の成績を残し、卒業後は社会人のHONDA鈴鹿へ入社する。ここで臨時コーチを務めていた高校の先輩にあたる牛島和彦の指導を受け素質が開花し始めたという。入社3年目の2005(平成17)年には、チームを第76回都市対抗野球全国大会と第32回社会人野球日本選手権全国大会に導く原動力となり、左投手ということもあってドラフト上位候補と目された。2005年の大学・社会人ドラフトでは相思相愛だった横浜ベイスターズから希望入団枠で指名されて入団している。(高宮はタイガースファンだったが、当時のベイスターズの監督が先輩の牛島だった影響が大きい) 横浜には5年間在籍し、おもに中継ぎとして働いている。牛島監督直伝のフォークボールを身につけ、5年間で82試合に登板、3勝7敗9ホールドの成績を残しているが防御率は6.89と安定感がなかった。2010(平成22)年12月6日、山本省吾+喜田剛との2対2のトレードで寺原隼人とともにオリックス・バファローズへ移籍することになる。 移籍1年目は20試合で1ホールド、防御率3.97とそれなりに働いたが、2年目の2012(平成24)年は1試合しか登板がなく、2013(平成25)年、FA権行使でオリックスへ移籍してきた平野恵一の人的補償としてタイガースへの移籍が決まり、背番号は前年まで鄭凱文が着けていた「40」を引き継ぐ。タイガース1年目の2013年は1試合しか登板がない。2年目の2014(平成26)年には久保のFA移籍に伴って空いた「34」へ背番号を変えて臨み22試合に登板して1勝2ホールド、防御率2.89の成績を残すそして3年目の2015(平成27)年はキャリア最多の52試合に登板して2勝8ホールド、防御率3.03の好成績を挙げる。特にワンポイントでジャイアンツの阿部を仕留める「阿部キラー」としてファンにも認知された。しかし、2016(平成28)年には中日から移籍してきた高橋聡文にとってかわられ16試合にしか使われなくなり、2017(平成29)年には岩崎優が加わって全く出番を失い引退している。谷川 昌希 投手福岡県八女市出身。筑陽学園高校に進んだが2年時の夏の選手権地区決勝が最高で、そこで敗れて甲子園には出ていない。東京農大に進学したがリーグは2部で、成績は5勝12敗。とてもプロスカウトが推すほどの成績ではなく、卒業後は社会人の九州三菱自動車へ入社している。 2015(平成27)年から2017(平成29)年にかけて3年連続で都市対抗本戦に出場、2年間は補強選手だったが3年目にはチームとして出場し、開幕の対トヨタ自動車選では敗れたものの延長11回を投げ切り13奪三振の力投を見せてプロからも注目されるようになる。2017年のドラフト会議ではタイガースから6位で指名されて入団、背番号は「34」を着ける。 2018(平成30)年5月10日の巨人戦が初登板初先発だったが4回3失点で負け投手となって降格。再度一軍へ上ってからは中継ぎでしか起用されず6月2日に救援で1勝を挙げたもののシーズン7試合に終わった。 2019(令和元)年は4試合、2020(令和2)年は14試合、いずれもリリーフでの登板に終わっている。 4年目の2021(令和3)年4月17日に金銭トレードで日本ハムファイターズへ移籍したが、翌2022(令和4)年オフには戦力外を通告される。トライアウトにも参加したが手を挙げる球団はなく引退に追い込まれた。2023(令和5)年からタイガースに戻って打撃投手として貢献している。まとめ久保さんは技術力の高い投手だったのね しかもコントロールもすごく好かったようだし、もっと情熱むきだしで野球をしてたら150勝くらいは楽に行けるポテンシャルだったと言われてるよ先代は久保さんについて「能力が高いのに出し切っていなかった。野球をやってても一生懸命には見えないし楽しんでいるようにも見えなかった。こんな選手はほかに見たことがない」と言ってます 2代目も記憶はあるんだけどあてにできない投手という印象だった気がするよ高宮さんははっきり記憶があって 阿部選手を抑えていたというのは覚えてるんだけど いつタイガースに来ていつ引退したのかな?って感じだね 今回その辺がわかりました谷川さんについては 残念ながらほぼ記憶ゼロだね 右投げだったのか左投げだったのかすら知らないし(実際は右投げ) 社会人でドラフトは下位だから「化けてくれれば・・・」という淡い期待を込めた選手 スカウトは見てるとこは見てるんだねさて背番号「34」は残すところあと2名 次回が最終回になります 皆さんは残りの2名が誰だかスッと答えられるかな? 突然尋ねられると難しいでしょ!背番号34-8につづくブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月27日
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2025年10月26日日本シリーズ第2戦 ソフトバンク10-1阪神 阪神1勝1敗(みずほPayPayドーム)2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんばんは 2代目は昨日のブログの最後で今日は当然才木投手だとおもってて デュープさんが発表されてちょっとわからないと書いたんだけどそれは敵地で両エースをぶつけておいて 甲子園に帰った3戦目にタイプの違う大竹さんを持ってくるのはどうかなと考えてたからなのよデュープさんの回復具合や今のコンディションがどうなのかは関係者しかわからないから そもそもデュープさんの2戦目先発が頭に浮かんでこなかった結果論になってしまうからやめるけど 歯車が狂ったんじゃないかと この先が少し心配なのは2だいめだけじゃないとおもう1回表に先制も1点どまりは痛かった 1回表一死から中野選手がセンター前ヒットで出塁 森下選手のショートへの当たりが2ベースになって2・3塁のチャンスです ここで佐藤選手がライト前に運んでまず1点が入ったのね 幸先好い展開でなおも一死ランナー1・3塁のチャンスが続いたんだけど・・・大山さんと高寺選手が連続三振 これで上沢投手を崩せなくしちゃったかなあ というか そもそも今日の上沢投手の調子は好かったんだとおもうよ ストレートは伸びてたし 1点取れたのが実は幸運だったのかもしれない無残な内容で振り返る気力が湧かないけど・・・まず1回裏ね 1番柳田選手 2番周東選手が連続ヒット(今日の周東選手はもう打ち出の小づちみたいに5打数5安打だもんね) 3番柳町選手が送ろうとしてバット引いたときに柳田選手が飛び出してしまってアウト 一死2塁になります ここで近藤選手を三振に仕留めて二死になったので 切り抜けられるとおもったんだけどなあ5番栗原選手にタイムリーが出て同点に さらに今日ファーストスタメンの山川選手にライトフェンス直撃の2点タイムリー2ベースがでて1-3と勝ち越されちゃいましたデュープさん明らかに球威がなかったし 要求通りボールが来ない上に全体に高い ホントに先発させるようなコンディションだったのかな? 7番川瀬選手をファーストゴロでようやく3アウトを取ったけど まだブルペンは用意できてなかったはず 2回も当然立ち直りを期待して続投ですさらに無残の二乗みたいな2回裏続投したデュープさんは立ち直るような状況じゃなかった 一死から9番牧原選手にフォアボール 柳田選手を打ち取って二死1塁になるんだけど 2番周東選手にタイムリー3ベースを浴びて1-4にしてしまうのよ そして柳町選手の打席でワイルドピッチで1-5になり 柳町選手はフォアボール タイガースは安藤コーチがマウンドに行ったけど続投で 近藤選手にタイムリー2ベースが出て1-6に 流石にタイガースベンチも代えざるを得ないわ 岩貞さんが出てきましたが肩が温まってなかったのか栗原選手にデッドボールで二死1・2塁トドメが山川選手のレフトオーバー3ランホームラン 1-9となって絶望的な展開にしちゃいました 2代目も言葉が出てきませんでしたね おまけに柳町選手の打球を左肩に受けてしまって交代 大丈夫だったのかしら 凄く跳ね返ってたから反撃させてもらえず完敗実際に上沢投手は好かったよね 立ち上がり失敗しただけで 2回から6回までは2安打しか許してくれないから反撃のすべがなかったなあ 上沢さんは第6戦か7戦に楽勝で先発で切るよ7回以降もフォークスのブルペン陣に抑えられ ひじょうに後味の悪い試合になってしまったね ある意味では劣勢のときのリリーフを試すことができたという点で収穫ゼロではなかったとは言えるけど気になる今後の先発甲子園での第3戦は才木投手で行くんだろうけど もつれたときって中4日とか5日でもう一度投げることになるよねそれと伊原投手が2回1/3投げちゃってるので今後先発は無いのかなと考えると 高橋遥人投手と大竹さんが4戦目5戦目に行くのかなと・・・ちょっとわからなくなってしまったわ でも投手が頑張らないとダメなのは間違いない タイガースの打線は5人で戦ってるようなもの(今大山さんも不振なので4人)で それ以外はからっきし打てないのが事実 DHに高寺選手が入ってるのを見ても明らかだよ ソフトバンクは近藤さんという強打者が入ってるのよ! その点タイガースにはDHにふさわしい選手がいないのよ 3戦目にモイネロ投手が来るなら 井上君をDHに入れるとか考えなさいよ 高寺選手入れてるよりデカいのが期待できるよ そもそも当たんない? 当たんないのは高寺選手と大差ないよ デカいのが打てるだけ楽しみがあるし相手にとっては嫌なのよ 高寺選手がDHで下位打線にいて何になるの? この先セリーグもDHになるわ 守れない走れないであってもでっかいのを打つみたいな一芸を持ってる選手も指名していかなきゃだめね ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月26日
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2025年10月25日日本シリーズ第1戦 ソフトバンク1-2阪神 阪神1勝(みずほPayPayドーム)2代目タイガース非公式サイトです村上投手 尻上がりにリズムをつかみ7回1失点今日の先発村上投手は立ち上がり良くなかった 酷いわけじゃないんだけど警戒してるのか要求通りのところに投げ切れていなかった感じ で1回裏先頭の柳田選手にフォアボールを与えてしまって 4番近藤選手にタイムリー2ベースを浴びて先取点を与えますでも2回裏を三者凡退に抑えるとその後粘るのよ 3回から5回まで毎回ヒットを打たれても後続を抑え込んで点を与えず 5回を終わって0-1のスコアを動かさなかったこの粘りが6回の逆転につながると 藤川監督は6回7回を続投させるのね この判断が好かった いつもの村上投手の感覚を取り戻して115球・1失点で7イニングを投げ切りブルペンに託す展開にできました6回表 しぶとい逆転劇粘ってくれてる村上投手に応えようと打線も奮起したね 6回表の先頭近本さんがセンターへのヒットで出塁すると中野選手の初球に二盗を決めます ここで中野選手が2球目をセーフティバントするんだけど これは甲子園なら切れてたね 屋根のない甲子園はダイヤモンドからファウルグラウンドへ向けて排水のために水勾配が取ってあるし土のグラウンドだよね ところがPayPayドームは雨が無いから水勾配もほぼないし人工芝の毛足も長くてギリギリで止まってくれたのよ このバント成功で 2代目はこの試合勝つかもしれないという予感がしたよ とにかく目に見えないラッキーがチャンスを広げたとおもったそして森下選手の打席で中野選手が二盗を決めて無死2・3塁 これは凄く効いたよ! さらに森下選手はインコースの球を何とか右方向へと振っていったところセンターへ抜けるかというコースに飛ぶショートゴロ 1塁アウトになったけど近本さんがホームインして同点 中野選手も3塁に進んだわ まさにチームバッティングが生んだ結果だった それが4番佐藤選手のタイムリーにつながり勝ち越しとなったのね テル君も強引な振りじゃなく外角の球をセンター方向へ軽打していってるから ランナーを返すことに集中できてたってことよね8回9回は自慢のブルペンで締めます8回頭からは及川投手 一死から近藤選手に2ベースを打たれ 二死を取ったものの代打山川選手を歩かせて二死1・2塁となりました 山川さんを迎えて安藤コーチがマウンドに行ってたから 多分無理に勝負しなくていいってことだったんでしょう ここで石井投手が登場 野村選手をレフトフライに打ち取ってチェンジ 実はこの8回裏は先頭の柳町選手の痛烈なレフトへの飛球があったのよね これって結構いい当たりで抜けたか?って焦ったのよ でも今日はレフトに島田選手をスタメンで入れてたのが大きかった ここで凄いランニングキャッチを見せてくれたよ もしこれが抜けてたら負けてたかもしれない 大事な第1戦だけにまず守備からシリーズのリズムをつかもうとした藤川監督の作戦成功ね ショートも小幡選手を使ってたし 9回は岩崎さんを使わず石井投手が回またぎで投げましたね ヒットと坂本さんの打撃望外が出てちょっとピンチになったけど 最後は柳町選手をセンターフライに打ち取ってゲームセット タイガースらしさが出た好ゲームになりました 第1戦を観た感想2代目が見た感じでは ソフトバンク打線は極端にホームランを警戒しなくてはいけないバッターはいないわ 山川さんも代打でしか出てこないし そういう点では日本ハムが勝ち上がってきた方が気持ち悪かったかもしれないね どこかDeNAに似たところがあるからタイガースのブルペンは固くなってる感じはしなかった 及川投手も石井さんもいつも通りのピッチングができてました打線も好投するパリーグ最多勝の在原投手を何とか攻略しようと足やバントを絡め 主軸がランナーを返すバッティングに徹して逆転したのは素晴らしかったもう一つ挙げると 近本さん 中野選手 島田選手と3つ盗塁を決めたのもプレッシャーになるとおもう 凄く嫌な印象を与えたんじゃないかな? 総括として 藤川監督は「点は5番までで取れ 下位打線は打たなくていいからしっかり守っててくれ」と言ってるような選手起用だったとおもう第2戦はデュプランティエさんに期待!明日は当然才木投手だとおもってたらデュプランティエ投手と発表されました 体調はもう大丈夫なのかな? この辺も藤川監督には何か根拠があるんでしょう 今のところ2代目には想像つかないけど・・・ 相手はアメリカ帰りの上沢投手 つかみどころがない投手だけどコントロールが好いからスイスイ投げられると厄介 術中にはまらないようにミート中心に打ち崩してほしい打線では大山さんにヒットが出てほしいな 相手を苦しめるにはクリンナップの調子が同時に上がってこないとねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月26日
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今日から日本シリーズ 2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは いよいよ決戦の時が来たね タイガースはクライマックスシリーズが終わってから1週間空いちゃって その逆にホークスはその後ファイターズに苦しめられて何とか振り切ってきたんだよね過去ホークスに勝てなかったタイガースホークスとは4回目の対戦になるんだけど 過去3回当たって一度も勝てなかった 南海電鉄からダイエー そしてソフトバンクと経営母体は変わってもホークスはホークスだからね 最初が1964(昭和39)の藤本定義監督の時ね 相手は鶴岡一人監督の南海ホークス これは以前に先代が書いた「悲劇の日本シリーズ」で紹介してるけど 3勝4敗で負けてるね スタンカ投手に第1戦・第6戦・第7戦と3回も完封されたのが屈辱だった 2度目は2003(平成15)年で福岡ダイエーホークス時代 この時は星野仙一監督と王貞治監督の激しいぶつかり合いだった 福岡ドームから始まってお互いがフランチャイズでしか勝てない内弁慶シリーズとも言われたそうね 2連敗のあと甲子園でタイガースが3連勝して王手 まさかそのあと2連敗するとは・・・ 3度目は2014(平成26)年 タイガースは和田豊監督 日本シリーズの相手は秋山幸二監督の福岡ソフトバンクホークスだった シーズン2位のタイガースはCSファーストステージで広島を降し ファイナルステージでは巨人に4連勝して日本シリーズに出たのよね ところがソフトバンクが強すぎ 第1戦こそメッセンジャー投手の好投で6-2と先勝できたけどその後4連敗で ほぼ一方的にやられちゃいました 11年振りに巡ってきたリベンジのチャンス 単に勝つだけじゃなく「圧倒」したいです 今季の戦い方ができれば 強力なブルペンを持ってるタイガースに付け入るスキはないとおもう 今回こそ絶対勝ちたいよ気合い入れて応援しましょう! ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月25日
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2025ドラフト会議 タイガース指名選手2代目タイガース非公式サイトですドラフト会議が終わったね 藤川監督は「十分だと思います。ご縁が、本当に狙い通りの選手たちですから一つもズレがないですね」と感想を述べてる2代目が知らない選手も含まれてるから何とも評価ができないけど 監督さんはかなり納得できる結果だったようなので成功ってことでしょう 1巡目は立石正弘選手 抽選に勝ちました!21日のブログでタイガースの1位にリストアップされてそうな5選手を紹介してみたけど 一番有力とみなされていた創価大学の立石選手に入札しましたねやはり佐藤選手のメジャー挑戦や大山さんが来シーズンは32歳になるということが大きな理由になってるとおもう今シーズン大きく覚醒した佐藤選手のメジャー志向は益々高まってるし 大山さんは昨年から長打力に陰りが見えてきたから 後継となる選手の確保は喫緊の課題になってます そういう意味で理に適う1位指名と言えそうね早くから指名を公表してた広島に単独で持っていかれるかもしれず みすみす渡してしまうのも癪だったってこともあるわ 日ハムまで参戦してきてヒヤヒヤだったけど残り物に福があったよね!監督が封筒落としたのには正直笑えなかったけど・・・ 何の影響もなくタイガースに入る運命だったってことかな ケガが多い選手ってことだから プロのトレーナーさんから体質やトレーニングについてアドバイスを受けながら克服していってくれれば クリンナップを担える素材 問題はポジションをどうするかというのがあるわね テル君が抜ければサード ショートも今決まってないし 大山さんのあとのファーストもね これは5年先くらいまで考えると意外に頭を痛める問題だとおもうよこういう点は首脳陣やフロントも考えているとおもうので 今は立石選手に早くプロの水に慣れてもらうことを願うのみです2巡目は谷端将伍選手 谷端選手は日本大学 右投げ右打ちの内野手でポジションはサード 178センチ80キロで最近の選手では普通の体格 左右に打ち分けることも上手いし長打力も備えた有望な選手ですね 要は1位も2位もサードってことは 「ポスト佐藤」を睨んでの指名だったってことよね バッターとしてのスケールは確かに佐藤選手に比べると小さい感じは否めないけど 精進によって近づいていってほしい 3巡目は岡城快生選手筑波大学の岡城選手は「おかしろかいせい」と読むんだって 右投げ右打ちの外野手で183センチ83キロと 体格的には1位2位の2人より大きいわね50メートルを5秒82という俊足でポジションはセンター 外野手に転向したのは大学からで 中学から高校時代は投手や遊撃手としてプレーしていたというから野球センスは折り紙付きでしょう リーグ通算3本塁打と長打力は上位2人に見劣りするけど 広角に打てるミート力 走力を生かした盗塁や守備範囲の広さなど3拍子揃った選手で近本さんの後継者的な位置づけの指名と考えてよさそうね4巡目は早瀬 朔選手ここで高校生投手が登場 神村学園高校の早瀬朔選手です 高校2年春から3季連続で甲子園に出場してるね 185センチ79キロの堂々とした体格でストレートのMAXは151キロの本格派 兵庫県丹波市で生まれ育っただけに甲子園を本拠とする阪神は憧れのチームだったみたい 2代目はあまり高校野球見ないからどんな投手かよく知らなかったんだけど期待できそうだわ 9月に行われたU―18ワールドカップでは3試合に投げて2勝 防御率0.00の快投を見せたように ポテンシャルは高そう目標とするのは才木投手で 「動画でキャッチボールを見て切れのある球を投げているのを見てすごいと思った。フォークで三振を取れるし、こういう選手になりたいと思いました」と語るように目指すイメージはできてる当面はプロの身体をつくり 3年後あたりをめどに上で投げれる投手に成長していってほしいね5巡目は能登嵩都選手「のと しゅうと」と読むのね 昨年からイースタン・リーグに加盟したオイシックス新潟アルビレックスの先発型投手です今年の指名選手の中で一番年上の24歳 体格は184センチ88キロで すでにイースタンで2年やってるから身体はできてる感じよね 5位とは言えど即戦力も可能性あるわよ今シーズンはイースタンで23試合に登板し12勝4敗 128イニングで102奪三振 防御率は2.60 勝利数 勝率 防御率 奪三振という4つの部門でリーグトップの成績だったんだよ よく5位に残ってたねという感じだわ旭川大高校3年の夏に甲子園を経験 1回戦で星稜高校の奥川投手と投げ合い0-1で惜敗しているんだけど タイガースに指名されてのプロ入りで「また甲子園で奥川選手と戦いたい」と意欲を燃やしてる最速150キロのストレートに加え 落差の大きなカーブで緩急をつける上手さも兼ね備えているし ファームとはいえプロとして2年やってきた経験も大きいよ即戦力の期待がかかる投手だよね 育成1巡目は神宮僚介選手なんだかヤクルトが似合いそうな名字の選手だけど阪神の指名東京農業大北海道オホーツク所属で右投げ右打ち 187センチ81キロの横手投げの投手です 大学から横手投げに変えてますが最速148キロのストレートを投げる速球派で 全盛期の青柳さんくらいのスピードだね 2024年7月に右ひじのトミー・ジョン手術を受けてリハビリを乗り越え 育成とはいえプロ入りを果たしました 回復具合が気になるところだけど焦らずプロの世界に溶け込んでほしい育成2巡目は山﨑照英選手関西独立リーグの兵庫ブレイバーズ所属 この選手も50メートル5秒8の快速なのよ 驚いたことに今シーズンのリーグ戦47試合で 試合数を上回る54盗塁を記録してるんだよ これは凄い!ありえないような数字 それだけ出塁もしてるってことだしね174センチ69キロと小柄な選手で タイガースの育成には似たタイプの福島圭音選手がいるから競争になりそうね甲子園の出場経験がないので「甲子園でプレーしてみたいので、早く一軍に行って活躍したい。絶対に盗塁王を獲るって気持ちです」って言ってるのは自分の武器は足だという自信にも感じられる 楽しみな選手ね 福島選手もだけど 足のある選手はまずどうやって出塁するかにかかってるよ それには打力や選球眼を磨くのも大事なので頑張ってほしい みなさん早くプロの雰囲気に慣れてくださいね 以上の7人の選手たちが新しく加わってくれることになりました 戦力外はゲラ投手を含めると9人だからまだ枠はあるね 新しい外国人選手の獲得やトレードなんかに備えて空けてあるのかな まだFAや現役ドラフトもあるしね ドラフト会議と言えば喜びと悲哀がつきもの その典型が田淵さんかな 中日スポーツのコラムに興味深い話が合ったので 皆さんも読んでみて! なぜ阪神がボクを…1968年の“神ドラフト”、田淵幸一『強行指名』の内幕 巨人には負けられない、実を結んだスカウトの執念(中日スポーツ) - Yahoo!ニュースブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月24日
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来季へ向けて人員整理第2弾 2代目タイガース非公式サイトですみなさんこんにちは クライマックスシリーズが終わり第二次通告期間が始まった途端 また驚きのニュースが飛び込んできたね 2025年10月21日漆原大晟投手(29)と来季の契約を結ばないこと通告したことが発表されたわ 2023年暮れの現役ドラフトでタイガースに来て 今季11試合投げ無失点 それがわずか2年での戦力外通告とは プロ野球の世界の厳しさを改めて実感させます・・・漆原大晟選手(投手) 1996年9月10日生まれ(29歳) 2018年度ドラフト会議でオリックス・バファローズから育成ドラフト1位で指名されて入団 ルーキーだった2019年のシーズンでいきなりウェスタンの最多セーブを挙げて2020年に支配下選手登録を勝ち取るオリックスでは実働3年 72試合(すべてリリーフ登板)で2勝2敗4セーブ10ホールド 防御率3.14の成績を残す2023年12月8日に実施された現役ドラフトで阪神タイガースに指名されて移籍 背番号34 2024年は38試合(すべてリリーフ)、1勝4敗5ホールドで防御率3.89 おもにビハインドの場面での中継ぎ起用が多かった2025年は11試合で0勝0敗2ホールド 前半戦で11回2/3を投げて防御率0.00と好結果をだしたが、7月3日に一軍登録を抹消されて以降は再登録されないままシーズンを終えていた漆原投手の会見「日本一になった時の現役ドラフトで指名していただいて、本当に強い球団、投手陣がすごい強力なチームの中で、その一員としてやれたことは僕の中で野球人生においてすごい良かった」 「まだ体も元気ですし、この先続けていけたらいいなとは思っているので、また必要としてくれる球団があれば一緒に頑張っていこうかなと思います」「(11月12日に行われる12球団合同トライアウトについても)いい選択ができればいいなと思っている。本当に野球が好きなので、続けていけたら」2代目の感想は2代目は割と漆原さんは好きな投手だったよ 去年より今年の方が球威というかボールの勢いが増してきたなって感じてたんだけどなあ結局のところ今のタイガース中継ぎ陣は定員オーバーのような状況なのね 馬場投手 浜地投手 加治屋さんなど一軍で通用する素材でも放出されてるしかも20代前半で鍛えていきたい投手が多いのよ 工藤投手 椎葉投手 石黒投手 富田投手 岡留投手などひしめいてるし ドラフトでも若い選手取らなきゃいけないから 枠を広げなくちゃならない残念だけど漆原さんは中途半端な存在になってしまったのね しかも加治屋さんもそうだったけど こういう時に白羽の矢が立つのは移籍してきた「外様」と言われる立場の人になっちゃう傾向があるから想定の範囲なのねまだ辞めちゃダメよ!漆原さんは力のある投手 まだほかでプレーする道を探してほしい トライアウトもいいし 独立リーグでも とにかくまだまだ現役に執着してほしいのよ 育成でプロに入って這い上がったんだから 納得できるまでやってみて! 現在掲載中のタイガース背番号史はちょうど「34」の終わりに近づいてます 原稿はできあがってて最終回を飾るのが漆原さんだったのよ なので少し書き直すことになるわ とても残念ですブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月22日
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タイガースは誰を指名?2代目タイガース非公式サイトですいよいよ10月23日に開催されるドラフト会議 各球団は誰を何巡目で指名するか詰めに入ってるんだろうね 競合で抽選負けした場合のことも含め いろんなパターンがあるからすべてを想定することは不可能だけど 最後まで情報収集は続くんだと思うタイガースの1位候補は誰なんだろう?今回はタイガースが1位候補に挙げていると報道されてる選手を探ります石垣元気 健大高崎高校 180センチ80キロ 投手 右投両打高校生では抜群の評価ね ストレートは150キロ前後を安定して出せるし カーブ系の変化球は制球抜群で打たせて取る技術も高い投球モーションは力感がないけど そこから最速158キロのストレートが来ると差し込まれるのね 静から動へ突然切り替わるから打ちづらいよ打撃も素質十分でスイッチヒッターという器用な面も持ってる DH制が導入されれば二刀流もありうる万能選手です問題は12球団すべてが1位ないしは外れ1位にリストアップしてることかな 高校生では抜けたレベルの投手だから競合は避けられないし 必ずどこかは1位で指名してくると思わないといけないところだよね立石正広 創価大学 178センチ75キロ 内野手 右投右打3年生から不動の4番打者として活躍しているリーグ戦通算10本塁打のスラッガーです ポジションはサードだけどセカンドもOKね 2年春にはリーグ三冠王になるなど長打力とミート力を兼ね備えた好打者一部スポーツ紙ではタイガースの最有力候補に挙がってるよ でも早い段階で広島東洋カープがすでに1位指名を公表してるから タイガースが指名すれば競合が確実なのよ 下馬評では最大5球団が競合しそうという声もありますね近い将来 佐藤輝明選手がメジャーへ行くのが確実なので 今年のタイガースの本命は「強打者」と予想されてる その筆頭が立石選手です 立石選手については打撃技術は文句ないんだけど 怪我が多いのがちょっと引っかかるらしいのね 足首や腰をよく痛めるみたい 今月始めの試合中にまた腰をやったみたいで評価に影響するかどうかだなあ 藤原聡大 花園大学 177センチ76キロ 投手 右投右打高校3年時に内野手から本格的に投手へ転向し 大学に入って急速に進化を続けてるわ 今月に入って自己最速の155キロをマークしてるよ 高校では143キロくらいだったから驚きの進化ね!11球団が上位にリストアップしているけど 1位かというとちょっと微妙で「1位を含めた評価をしている」ということらしいわ つまり1位抽選で敗れた場合の候補ということなのかなもともと内野手なので足も速く50メートルは6秒1 遠投115メートル ボックスジャンプは1メートル55センチと運動神経が抜群なのよ 今季春のリーグ戦は4勝無敗 今までプロ選手を輩出していない花園大学にとっても期待の星です 高校2年まで野手だったことから まだまだ投手としては経験不足と言われてる でもショートを守ってただけにフィールディングは問題ないし これからまだ伸びしろの多い楽しみな素材と言えそう 中西聖輝 青山学院大学 182センチ90キロ 投手 右投右打 智辯和歌山高校で中谷仁監督の指導を受けて3年時にエースとして全国制覇を経験してるね大学では3年春から投手陣の一角に定着すると 3年秋4年春はともに6勝をマークして2季連続で最優秀投手のタイトルも獲得してるわ4年秋のリーグ戦では150キロ越えのスピード以上に 制球の面での成長が観られ キャッチャーの要求したコースへきっちり投げ込み ほとんど逆球がなかったんだって 緩急を生かす変化球も多彩で どの球種でもカウントを取ることも勝負することもできるという万能タイプ フィールディングも上手い 今年の大学野球界は昨年の金丸投手のような突出した投手はいないようだけど中西投手は数少ない即戦力として1位指名にリストアップする球団は多いみたい 感じとしては西勇輝さんみたいな投手かな やっぱり競合覚悟で行かないといけない投手 伊藤 樹 早稲田大学 178センチ78キロ 投手 右投右打 中学までは捕手をしていただけに地肩は強いよ 今年は日米大学野球で侍ジャパン入りしてるね 大学2年秋から主力投手となって4年春までの通算成績が55試合19勝3敗 229回を投げて四死球79 219奪三振だからかなり三振を奪う能力が高いわ 勝てる投手というより安定していて「負けない投手」という感じかな ストレートは最速152キロを計測 フィニッシュはスプリット 四死球は少なく制球力が好いのが「負けない投手」の大きな要因だろうね 意図して併殺を取ったり 試合をまとめるのが上手くてトータルで点を与えない大人のピッチングができるから 即戦力という見方が強い投手 第1回での選択希望が無くても外れ1位には入ってくるだろうと予想される好投手です好い選手が獲得できるよう見守ります タイガースがリストアップしていると噂されてる選手5名をざっとご紹介しました 会議は10月23日 藤川監督は投手だけに投手1位で行くのかな 才木投手がメジャーへ行きそうだからやっぱり先発の好い投手は欲しいよね さらにテル君もと考えると大砲候補も上位で確保したいところ あの子もこの子もって欲張ってると空振りになることもあるけど 狙いどころは射止めてほしいな それとタイガースでは1回目の抽選に負けて外れで指名した選手も活躍してるよ 近本さんや森下選手 今年の伊原投手もそうね 外した場合の対応も重要なんだよねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月21日
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背番号34(その6)背番号34の第6回目です 今回紹介する3名の選手も覚えてる人って希少じゃない?3人とも覚えてるよって人はほぼいないとおもうよ 2代目は3人とも全くわかりませんでしたよ名前を聞いても頭に浮かんでくるものがないのよ 「ホントにタイガースにいたの?」という感じだね 3人目の投手は第1期岡田監の時に入ってきてルーキーで活躍してるんだけど2代目の記憶にはないのよ・・・ とにかく読み進めてみてください橋本 武広 投手青森県上北郡七戸町の出身。青森県立七戸高校時代は県下有数のサウスポーとして知られる存在だったが甲子園経験はない。卒業後は東京農大へ進むが当時はリーグ2部。4年時にようやく1部へ上がったが2勝5敗、防御率1.95という数字しか残せなかった。大学を出ると社会人のプリンスホテルに入社。1989(平成元)年の都市対抗本戦ではブルペンの柱として貢献、同社の初優勝に大きく貢献した。同年秋のドラフト会議で福岡ダイエーホークスの3位指名を受けプロ入りしている。 1年目の1990(平成2)年の当初はローテーション投手に育てようと前半戦では6試合に先発しているが結果が出ず、その後はリリーフとして投げており、20試合(先発6)で51回2/3を投げて1勝5敗、防御率5.57に終わる。2年目も同様に当初は先発で起用されるものの1年目の繰り返しのようなシーズンになってしまい、17試合(先発7)で44回1/3、1勝4敗、防御率5.48の成績しか残せなかった。球団は先発投手として見切りをつけ、3年目、4年目はリリーフ登板しかさせていない。結局ダイエーでは先発・リリーフともに実績を残せず、1993(平成5)年のオフに西武ライオンズへトレードされてしまう。西武へ移った1994(平成6)年のシーズンは22試合の登板で1セーブを挙げたに過ぎなかったが、移籍2年目からワンポイントを得意とするリリーフ投手として大ブレイクする。 1995(平成7)年に58試合に登板すると、2001(平成13)年まで7シーズン連続で50試合を超え、ワンポイントでの起用を中心に大車輪の働きをしている。1995年、1997(平成9)年、1998(平成10)年はいずれもリーグ最多登板数だった。ところが2002(平成14)年に伊原春樹が監督に就任すると状況が一変する。ワンポイントリリーフに否定的な伊原監督はほとんど橋本を使わなくなり、5月27日にはタイガースのトム・エバンスとのトレードで放出してしまった。タイガースではエバンスの背番号「59」を引き継ぐが、体力的な衰えも目立ってきており、タイガースでもワンポイントで15試合にしか投げることができず、打者36人に対し14安打を浴び、6四球、自責点8で、防御率13.50の数字ではもう戦力外に近い存在と見做されてもやむを得なかった。エバンスが西武で活躍したこともあって橋本は肩身が狭かっただろう。 2003(平成15)年には引退した星野伸之の「34」を継承して残留したものの、シーズン開幕の約1ヶ月後、4月22日に吉田篤史との交換でロッテに移籍する。ロッテでは23試合に登板したが、防御率6.75ではリリーフ投手として役に立たっていない。限界を感じた橋本は10月13日に引退を発表。続けていた連続試合救援登板記録は526試合でストップした。プロ通算記録は560試合(先発13)、12勝22敗20セーブ、482回2/3を投げ216四球、374奪三振、自責点199、防御率3.71だった。2010(平成22)年から4年間、西武でコーチを務めるが2013(平成25)年に退団した。吉田 篤史 投手新潟県新潟市の出身(生まれたのは東京都豊島区)。右投右打ちの投手だが日本文理高校時代も全国的には目立った存在ではなかった。高校を卒業後、ヤマハ発動機に入社して実力が開花し、1990(平成12)年には都市対抗本戦の優勝に貢献、胴上げ投手となり橋戸賞、若獅子賞を受賞。これによりプロからも注目されるようになる。翌1991(平成13)年にも都市対抗本戦に出場しており、ドラフト上位候補に目されるようになった。同年のドラフト会議では千葉ロッテマリーンズから1位指名を受け、入団している。ルーキーイヤーの1992(平成14)年は先発として期待され、登板した21試合中19試合が先発だった。7勝9敗で防御率4.07の数字を残しと次のシーズンに期待を抱かせた。ところが2年目が7試合、3年目が2試合と低迷し、4年目の1995(平成7)年から5年間は中継ぎ専門にチェンジしてそれなりの成績を挙げた。2000(平成12)年には12試合の先発もこなすなど39試合で7勝8敗の成績を挙げる。2001(平成13)年から2002(平成14)年は再び中継ぎに転じ、2年続けて40試合以上を投げたが敗戦処理などが多く衰えは隠せなかった。2003(平成15)年になると登板が無いまま4月22日に橋本武広とのトレードが成立してタイガースへ移籍している。背番号「34」を引き継いだ。 しかし移籍直後、二軍調整中に右脹脛痛を発症し1年を棒に振る。2004(平成16)年も引き続き在籍したが登板機会はなく、公式戦終了後の10月6日に戦力外を通告されたため引退している。通算成績は292試合(先発39)に登板し26勝37敗6セーブ、536回2/3を投げて226四球、336奪三振、自責点220、防御率3.63だった。引退後は横浜ベイスターズやオリックスバファローズで7年間コーチなどを務めたあと、独立リーグや社会人の指導者として頑張っている。橋本 健太郎 投手大阪府八尾市で出生し、小学3年次に京都府綴喜郡田辺町へ転居。中学時代から右本格派投手としてエースとなり、府立久御山高等学校へ進むが甲子園とは全く無縁だった。高校卒業後は東北福祉大学へ進学。大きな大会での登板は少なかったが大学時代に147キロを計測する。その後社会人の日本新薬へ入社し、軟投型の投手にイメージチェンジ。2004(平成16)年の都市対抗本戦でベスト8に勝ち進み、優秀投手賞を受賞している。同年秋のドラフト会議でタイガースが4位指名し入団、引退した吉田篤史から背番号「34」を引き継いだ。ルーキーイヤーの2005年、岡田彰布監督は橋本を中継ぎとして51試合に起用している。社会人時代と打って変わって大学時代のスピードボールを取り戻した橋本は期待に応え、2勝2敗1セーブ9ホールド、66回2/3で67三振を奪い防御率も2.30とリーグ優勝に大きな貢献をした。日本シリーズでも第1戦と第3戦に投げたが、チームは4連敗で日本一を逃している。 2年目の2006(平成18)年は当然飛躍が期待されたが、前年の登板が影響したのか1年を通じて右肩腱板炎に悩まされ続け、わずか2試合しか登板できなかった。2007(平成19)年は復活して46試合に投げることができた。49回1/3を投げて3勝2敗6ホールド。特に61奪三振という数字を残したのは注目された。しかしコントロールは悪く、防御率4.74は1年目に比べると1試合換算で倍の点を与えていることになる。 そして2008(平成20)年、中継ぎエース渡辺亮が成長したことで出番もなくなり、10試合しか投げていない。相変わらず三振は取るが失投も多く、防御率は5.54と悪化してしまった。一旦は契約更改したが、年が明けて2009(平成21)年3月4日に千葉ロッテの久保康友との交換トレードが成立して移籍することとなる。ロッテでは2013(平成25)年まで在籍するが5年間で24試合の登板しかできず0勝1敗2ホールド、防御率5.16の数字しか残せなかった。 2013年10月3日に戦力外を通告され引退。2014年からタイガースに戻って打撃投手としてチームを支えている。(打撃投手では背番号「110」を着けている)プロ通算成績は133試合6勝5敗1セーブ17ホールド、153回を投げ75四球、161奪三振、自責点67、防御率3.94である。まとめ今回は橋本さんが2人出てきたけどどっちも覚えがないのよ 1人目の橋本武広さんはタイガースでは足かけ2年いたけど実質15試合で敗戦処理みたいなものだったようねつぎの吉田さんは皆さん覚えてる?トレードでタイガースに来たけど一軍の試合で1度も投げてないから見たことない人が大半だよね正直2代目は第1次岡田監督のころ それほどタイガースに熱中してたわけじゃないのよ(20年くらい前でしょ?まだ2代目も小中学校くらいかな?) ということで観ていたとは思うんだけど橋本健太郎さんの記憶は残ってないわ でも活躍したのがリーグ優勝の年だったのはよかったね背番号34-7につづくブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月19日
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背番号34(その6)背番号34の第6回目です 今回紹介する3名の選手も覚えてる人って希少じゃない?3人とも覚えてるよって人はほぼいないとおもうよ 2代目は3人とも全くわかりませんでしたよ名前を聞いても頭に浮かんでくるものがないのよ 「ホントにタイガースにいたの?」という感じだね 3人目の投手は第1期岡田監の時に入ってきてルーキーで活躍してるんだけど2代目の記憶にはないのよ・・・ とにかく読み進めてみてください橋本 武広 投手青森県上北郡七戸町の出身。青森県立七戸高校時代は県下有数のサウスポーとして知られる存在だったが甲子園経験はない。卒業後は東京農大へ進むが当時はリーグ2部。4年時にようやく1部へ上がったが2勝5敗、防御率1.95という数字しか残せなかった。大学を出ると社会人のプリンスホテルに入社。1989(平成元)年の都市対抗本戦ではブルペンの柱として貢献、同社の初優勝に大きく貢献した。同年秋のドラフト会議で福岡ダイエーホークスの3位指名を受けプロ入りしている。 1年目の1990(平成2)年の当初はローテーション投手に育てようと前半戦では6試合に先発しているが結果が出ず、その後はリリーフとして投げており、20試合(先発6)で51回2/3を投げて1勝5敗、防御率5.57に終わる。2年目も同様に当初は先発で起用されるものの1年目の繰り返しのようなシーズンになってしまい、17試合(先発7)で44回1/3、1勝4敗、防御率5.48の成績しか残せなかった。球団は先発投手として見切りをつけ、3年目、4年目はリリーフ登板しかさせていない。結局ダイエーでは先発・リリーフともに実績を残せず、1993(平成5)年のオフに西武ライオンズへトレードされてしまう。西武へ移った1994(平成6)年のシーズンは22試合の登板で1セーブを挙げたに過ぎなかったが、移籍2年目からワンポイントを得意とするリリーフ投手として大ブレイクする。 1995(平成7)年に58試合に登板すると、2001(平成13)年まで7シーズン連続で50試合を超え、ワンポイントでの起用を中心に大車輪の働きをしている。1995年、1997(平成9)年、1998(平成10)年はいずれもリーグ最多登板数だった。ところが2002(平成14)年に伊原春樹が監督に就任すると状況が一変する。ワンポイントリリーフに否定的な伊原監督はほとんど橋本を使わなくなり、5月27日にはタイガースのトム・エバンスとのトレードで放出してしまった。タイガースではエバンスの背番号「59」を引き継ぐが、体力的な衰えも目立ってきており、タイガースでもワンポイントで15試合にしか投げることができず、打者36人に対し14安打を浴び、6四球、自責点8で、防御率13.50の数字ではもう戦力外に近い存在と見做されてもやむを得なかった。エバンスが西武で活躍したこともあって橋本は肩身が狭かっただろう。 2003(平成15)年には引退した星野伸之の「34」を継承して残留したものの、シーズン開幕の約1ヶ月後、4月22日に吉田篤史との交換でロッテに移籍する。ロッテでは23試合に登板したが、防御率6.75ではリリーフ投手として役に立たっていない。限界を感じた橋本は10月13日に引退を発表。続けていた連続試合救援登板記録は526試合でストップした。プロ通算記録は560試合(先発13)、12勝22敗20セーブ、482回2/3を投げ216四球、374奪三振、自責点199、防御率3.71だった。2010(平成22)年から4年間、西武でコーチを務めるが2013(平成25)年に退団した。吉田 篤史 投手新潟県新潟市の出身(生まれたのは東京都豊島区)。右投右打ちの投手だが日本文理高校時代も全国的には目立った存在ではなかった。高校を卒業後、ヤマハ発動機に入社して実力が開花し、1990(平成12)年には都市対抗本戦の優勝に貢献、胴上げ投手となり橋戸賞、若獅子賞を受賞。これによりプロからも注目されるようになる。翌1991(平成13)年にも都市対抗本戦に出場しており、ドラフト上位候補に目されるようになった。同年のドラフト会議では千葉ロッテマリーンズから1位指名を受け、入団している。ルーキーイヤーの1992(平成14)年は先発として期待され、登板した21試合中19試合が先発だった。7勝9敗で防御率4.07の数字を残しと次のシーズンに期待を抱かせた。ところが2年目が7試合、3年目が2試合と低迷し、4年目の1995(平成7)年から5年間は中継ぎ専門にチェンジしてそれなりの成績を挙げた。2000(平成12)年には12試合の先発もこなすなど39試合で7勝8敗の成績を挙げる。2001(平成13)年から2002(平成14)年は再び中継ぎに転じ、2年続けて40試合以上を投げたが敗戦処理などが多く衰えは隠せなかった。2003(平成15)年になると登板が無いまま4月22日に橋本武広とのトレードが成立してタイガースへ移籍している。背番号「34」を引き継いだ。 しかし移籍直後、二軍調整中に右脹脛痛を発症し1年を棒に振る。2004(平成16)年も引き続き在籍したが登板機会はなく、公式戦終了後の10月6日に戦力外を通告されたため引退している。通算成績は292試合(先発39)に登板し26勝37敗6セーブ、536回2/3を投げて226四球、336奪三振、自責点220、防御率3.63だった。引退後は横浜ベイスターズやオリックスバファローズで7年間コーチなどを務めたあと、独立リーグや社会人の指導者として頑張っている。橋本 健太郎 投手大阪府八尾市で出生し、小学3年次に京都府綴喜郡田辺町へ転居。中学時代から右本格派投手としてエースとなり、府立久御山高等学校へ進むが甲子園とは全く無縁だった。高校卒業後は東北福祉大学へ進学。大きな大会での登板は少なかったが大学時代に147キロを計測する。その後社会人の日本新薬へ入社し、軟投型の投手にイメージチェンジ。2004(平成16)年の都市対抗本戦でベスト8に勝ち進み、優秀投手賞を受賞している。同年秋のドラフト会議でタイガースが4位指名し入団、引退した吉田篤史から背番号「34」を引き継いだ。ルーキーイヤーの2005年、岡田彰布監督は橋本を中継ぎとして51試合に起用している。社会人時代と打って変わって大学時代のスピードボールを取り戻した橋本は期待に応え、2勝2敗1セーブ9ホールド、66回2/3で67三振を奪い防御率も2.30とリーグ優勝に大きな貢献をした。日本シリーズでも第1戦と第3戦に投げたが、チームは4連敗で日本一を逃している。 2年目の2006(平成18)年は当然飛躍が期待されたが、前年の登板が影響したのか1年を通じて右肩腱板炎に悩まされ続け、わずか2試合しか登板できなかった。2007(平成19)年は復活して46試合に投げることができた。49回1/3を投げて3勝2敗6ホールド。特に61奪三振という数字を残したのは注目された。しかしコントロールは悪く、防御率4.74は1年目に比べると1試合換算で倍の点を与えていることになる。 そして2008(平成20)年、中継ぎエース渡辺亮が成長したことで出番もなくなり、10試合しか投げていない。相変わらず三振は取るが失投も多く、防御率は5.54と悪化してしまった。一旦は契約更改したが、年が明けて2009(平成21)年3月4日に千葉ロッテの久保康友との交換トレードが成立して移籍することとなる。ロッテでは2013(平成25)年まで在籍するが5年間で24試合の登板しかできず0勝1敗2ホールド、防御率5.16の数字しか残せなかった。 2013年10月3日に戦力外を通告され引退。2014年からタイガースに戻って打撃投手としてチームを支えている。(打撃投手では背番号「110」を着けている)プロ通算成績は133試合6勝5敗1セーブ17ホールド、153回を投げ75四球、161奪三振、自責点67、防御率3.94である。まとめ今回は橋本さんが2人出てきたけどどっちも覚えがないのよ 1人目の橋本武広さんはタイガースでは足かけ2年いたけど実質15試合で敗戦処理みたいなものだったようねつぎの吉田さんは皆さん覚えてる?トレードでタイガースに来たけど一軍の試合で1度も投げてないから見たことない人が大半だよね正直2代目は第1次岡田監督のころ それほどタイガースに熱中してたわけじゃないのよ(20年くらい前でしょ?まだ2代目も小学校くらいかな?) ということで橋本健太郎さんの記憶は残ってないわ でも活躍したのがリーグ優勝の年だったのはよかったね背番号34-7につづくブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月19日
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これからの音羽屋が楽しみ2代目タイガース非公式サイトですCS第3戦のあった10月17日 2代目は歌舞伎見に行ってました 去年までもそうだけど毎年10月の顔見世に行くのは恒例なのよね 今回は 8代目尾上菊五郎と6代目尾上菊之助の同時襲名披露 人間国宝の7代目(83)はそのまま改名せず「7代目菊五郎」で通すって先に発表されてた 珍しいケースね行ってきたのは名古屋の「御園座」 16:00からの夜の部でした 夜の部では一門や関係者が舞台にそろって襲名披露の「口上」があるけど 昼の部ではないのよ だから夜の部の方にしたのね 昼の「娘二人道成寺」も観たかったけど・・・8代目尾上菊五郎7代目の長男で1977年8月1日生まれ48歳 妻瓔子さんは人間国宝だった2代目中村吉右衛門さんの四女 母は女優の寺島純子(藤純子)さんね 姉は女優の寺島しのぶさんです1996年から29年間「菊之助」を名乗ってましたが 今回音羽屋の名跡でもある「菊五郎」襲名しました歌舞伎では女形と男役を兼ねる役者で 音羽屋の看板である「白波5人男」の弁天小僧菊之助が有名だよね 弁天小僧は女の振りして詐欺を働き 見とがめられると「知らざあ言って聞かせやしょう!」と開き直る場面がクライマックスなんだけど 女形の8代目はホントにきれいなんだよ 声もね 先代とは違った味があるわ 芸の幅を広げるためにテレビドラマや映画にも出演してる 下町ロケットにも出てたね6代目尾上菊之助8代目菊五郎の長男で2013年11月28日生まれの11歳 2019年の初舞台以来尾上丑之助を名乗っていましたが 今回6代目菊之助を襲名です父方のおじいさんの7代目菊五郎さんも母方の中村吉右衛門さんも 両方が人間国宝というもう逃れられない歌舞伎界の御曹司ですね プレッシャーは凄いとおもうけど先輩方の芸を見ながら精進していってほしい 凄く期待してます舞台では化粧してるのでよく判らないけど 写真を拝見する限りでは中村吉右衛門さんの方に似ていますよ 吉右衛門さん2021年に亡くなってますがは子供さん4人とも女の子で 播磨屋の歌舞伎を継がせることができなかった分 6代目菊之助さんへの想いは強かったでしょうね 何しろ顔似てるから公演の内容まず口上の前に中村雀右衛門さんと中村金之助さんお兄さん方お2人が舞踊「羽衣」でお祝いしてくれましたそれから口上で関係者の皆さんのお祝いの言葉があり それを受けて8代目菊五郎さんと6代目菊之助さんのご挨拶がありましたそして親子そろってのメインの演目は「鼠小僧治郎吉」でした これは3段になってるけど長かったね 音羽屋得意の人情噺で お金と刀をだまし取られて心中しようとする男女を次郎吉が盗んだ金で救ってやるところから始まり めぐり巡って次郎吉が実の父親と対面できるというお話 同時進行の場面を回り舞台で交互に見せるなど凝った作品でした最後に実際の現場写真をのせておきます 超満員で大盛況御園座では普段はほとんどお客さんの「掛け声」がかからないんだけどさすが襲名披露 見せ場では20人くらいから「おとわや!」の声が凄かったブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月18日
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2025年10月17日CSファイナルステージ第3戦 阪神4×-0DeNA 阪神4勝0敗(甲子園)2代目タイガース非公式サイトです高橋遥人投手が圧巻の好投いやはや強かったね我がタイガースは!遥人投手が8回途中まで無失点でベイスターズをねじ伏せたよ遥人投手は2021年11月に左ひじのクリーニング手術 2022年4月にはトミー・ジョン手術 2023年6月には「左尺骨短縮術」及び「左肩関節鏡視下クリーニング術」と故障と手術の繰り返しが続いて 昨年も5試合にしか投げてないそして2025年レギュラーシーズンも8試合だけど 3勝1敗 43回1/3で48奪三振と球威は復活してたから やってくれると信じてましたでもって初回の二死3塁のピンチを切り抜けると 2回から7回まで3人づつで抑えて なんとノーヒット・ノーランまで見えてきたよね さすがに8回に3連打を浴びて一死満塁の大ピンチを作ったんだけど 代打の戸柱選手を浅いレフトフライに打ち取って あとを石井さんに任せました 素晴らしいピッチングだったとおもうよ 来季こそフルシーズン働いてほしいよ石井さんは代打石井選手を空振り三振に斬ってピンチを凌ぎます これでもうベイスターズはあきらめたんじゃないかな 9回は当然岩崎さんが出てきて3人を抑えて試合終了 投手陣はシーズンの強さをそのまま出し切ってCSを制したってことね 佐藤輝明選手が初回に先制3ランキングの底力を見せつけた一発だったねえ まず近本さんがレフト前ヒットで出塁すると中野選手が送りバント これが失敗に終わって一死1塁のままになるんだけど ベイスターズの先発ケイ投手は3番森下選手にデッドボール当てちゃうのよ ベイスターズにとって結果的にこれが凄く痛かったね 一死1・2塁となってテル君の打席 「デッドボールのあとの初球」というのもセオリーなのかな? とにかく初球の外角低めストレートに対し甲子園打法で応じて いつものとおりバックスクリーンすぐ左への3ランホームラン ここねらって打ってる感じね 今年5本くらいこの辺りへ打ってる とにかく苦手にしているケイ投手の出鼻をくじく効果抜群の一発だったよね これこそ4番 ホームランキングに相応しい仕事だった3回にはケイ投手が自滅3回裏は一死から中野選手がデッドボール さらに3番森下選手もデッドボールで1・2塁のチャンスになったわ この試合のケイ投手は明らかに制球が思うに任せない状態だった テル君はサードファウルフライに倒れるんだけど・・・ 5番大山さんがレフトフェンス直撃のタイムリー2ベースで1点が入るのよ 大山さんが5番にいることで打線が凄く厚みを持ってるわけね 特に後半戦で大山さんの調子が上がって来てからはこういう場面が多くなったよね CSを無傷で勝ち上がり!苦手ベイスターズを寄せ付けず 再びセリーグを制して日本シリーズへ勝ち上がりました 藤川監督も本音かどうか分かんないけど次のコメント「3つ取ると言ったこのセ・リーグのクライマックスシリーズのファイナルステージですけど、3つ全て取れるとは思ってませんでした」と言った後 慌てて「連続でね!」と自らフォロー やっぱりもっと苦しむと予想してたんだろうね 嬉しさが表に出てた感じがとても好かった試合終了後 三浦大輔監督に花束が!試合終了後 今シーズン限りで勇退するベイスターズの三浦監督に花束が贈られました 5年間指揮を執ってたんだね タイガースも苦しめられたし 3位から勝ち上がっての下剋上日本一は見事だった ほんとに強いチームになったとおもう甲子園のタイガースファンも三浦監督の功績は好く分かってたんだろうね 三浦コールが沸き上がって讃えてました タイガースの監督はなかなか5年間という人が少ないのよ チーム作りには5年くらいかかるとおもう そういうところを三浦監督は見せてくれたんじゃないかな ホントご苦労様でした次は日本シリーズ でもその前にドラフト会議ね3連勝でCSを制したのでまた間が空くね そして大事なのがドラフト会議 藤川監督も試合後に「過去のドラフトに感謝」って言ってたように 今の主力は金本監督・矢野監督・岡田監督時代に獲得した選手たちだからね 今年はどんな選手がリストアップされてるか 明日から研究してみたいこのシリーズもぼちぼちネタ切れになってきたまた新しいの作んなきゃブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月18日
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CSファイナルステージ第2戦 阪神5×-3DeNA 阪神3勝0敗(甲子園)2代目タイガース非公式サイトです翔太でかした!恐るべき勝負強さ劇的勝利の余韻に浸りながら書いてるんだけど もう異常なくらいの集中力だよね 改めて森下選手の勝負強さに驚嘆するしかないわ3-3の同点で迎えた延長10回裏 先頭の中野選手が綺麗な流し打ちで出塁し3番森下選手の打席 変化球を待ってたのかどうかはわかんないけど 佐々木投手の初球は真ん中やや外寄りへ逃げる119キロのフワッとしたスライダーこれを思い切り叩いたのよね 打球は一直線でレフトスタンドに飛び込むサヨナラ2ランホームラン この劇的結末でアドバンテージを含めて3勝0敗となり日本シリーズ進出に王手をかけたわけね「ああいうスライダーの軌道で曲がってくるというのは、昨日(15日)に(佐々木と)対戦して頭に入っていた」試合中の打席でも冷静なんだね だんだんと恐ろしいバッターに成長している感じが頼もしいよ 8回表の守備では3塁ランナーをタッチアップさせなかった好返球も貢献度抜群のプレーだったしね試合開始直後は順風ムード1回表は先発の才木投手が1~3番に対し ショートゴロ ショートゴロ 空振り三振と順調な立ち上がりで好い感じそして1回裏 近本さんのフォアボールをきっかけに 森下選手の2ベースで一死2・3塁のチャンス ここで佐藤選手が詰まりながらもレフト前に落としてまず1点を先取 なお2・3塁のチャンスが続きますここでも いつものように5番大山さんがきっちりセンターへ犠牲フライを打ち上げ2点目を挙げて主導権はタイガースとおもったんだよね波に乗り切れなかった才木投手3回表 先頭8番の林選手に7つもファウルで粘られた挙句 10球目の真ん中ストレートをセンター前へヒットされます でも9番の武田投手がスリーバント失敗でアウト これは助かったとおもったのになあ続く1番蝦名選手にも4つファウルされてフルカウントになって9球目のストレートがまたもやど真ん中に入ってしまい レフトへタイムリー2ベースを打たれてしまったのよね次の桑原選手を三振に仕留め 迎えたのが好打者の佐野選手 ここで切っておけば流れを渡さずに行けたかもしれないんだけど 初球のインハイストレートをレフト線へ持っていかれタイムリー2ベース 同点になっちゃいました 才木投手はこの回だけで34球も投げさせられてるよ左打者の佐野選手がインハイを逆方向へ打ち返したバッティング技術は凄いなとおもうし 林選手や蝦名選手の粘りもいやらしくて ベイスターズが毎年上位争いしたり下剋上したりというのも成程って気がするよ はっきり言って強いわ 今の打線に宮崎さんやオースティン選手はいないのよ それでもいや~な打線になって来てる 来季以降も気を着けなきゃならない相手よ竹田投手は来シーズン要警戒ねベイスターズ先発の竹田祐投手はドラ1のルーキーなんだってね 8月以降に一軍に上がってきて4勝したらしいけど初めて見た ファームもイースタンだから全然見る機会無いしスピードガンでは並みの速さなんだけどスウ-っと同じ高さで伸びてくる感じね 空振りもしっかり取れるし フォークボールが有効でカウント球にも決め球にも使ってた 制球力も並み以上 この投手は来季大きく成長してくるとおもう 好い投手だよ 気持ちも強そうだしね才木投手 牧さんに手痛い一発食らう2-2の同点にされた次の4回表 先頭の牧さんにボールが先行してしまい カウント3-1となって5球目のストレートがど真ん中! 見事に捉えられてレフトスタンドへ持っていかれました これでスコアは2-3今日の試合はこればっかりね カウントが苦しくなると 力任せにストレート勝負になって それが真ん中へ行ってしまうのよ 点が入った場面では同じようなパターンでやられちゃったから反省してほしいな8回に佐藤選手が同点タイムリー後半は両チームのリリーフ陣が粘り強く投げて膠着状態になってたけど 8回裏 また先頭の近本さんのフォアボールから一死1・2塁のチャンスを作り 4番の佐藤選手に回ります佐藤選手は「フォアボールのあとの初球」のセオリーどおり 初球の外角高めに抜けたフォークボールにバットをかぶせるように引っ張ると 1・2塁間を破る同点タイムリーになりましたこのシリーズのテル君はホーラムン性の打球は出てないけど ちょっと汚いヒットでいやらしく打点を挙げてるよね さすが打点王 チャンスではホームラン狙いだけでなく 打点を意識した臨機応変のバッティングをしてるのが成長の跡ね!でも第3戦では 試合を決めるホームランを期待してるからねということで 3-3の同点になって延長に入り 冒頭の森下選手のサヨナラホームランで決着したってわけね今日は才木投手がリードを許して降板したので 畠投手 湯浅投手 岩貞投手の状態確認もできたし 日本シリーズに向けて意味のある試合だったんじゃない?いつもリードした展開で試合ができるってわけじゃないから 同点やビハインドの時の投手リレーなんかも確認しておかないといけないもんねもう緩むことなく3戦目で決めちゃって欲しい パの方もソフトバンクがリーチ掛けたようだし 同時に決まるんじゃない?女子高生っていうより どう見ても「姐御」だね・・・ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月17日
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2025年10月15日CSファイナルステージ第1戦 阪神2-0DeNA 阪神2勝0敗(甲子園)2代目タイガース非公式サイトです「負けない阪神」の典型みなさん勝ちましたね! それもタイガースらしい試合でね なにから書こうかなと迷ったけど まず得点した6回裏からいくわ5回を終わって0-0のスコア 村上投手は5回103球で降板 ちょっと嫌な感じが漂い始めた6回表を2番手及川投手が抑えて迎えた6回裏先頭の近本さんがショートへの内野安打で出るのね とにかく転がして出塁しようというバッティングだった2番中野選手が初球で送りバントを決めて一死2塁とします ここで近本さんが3番森下選手の打席の初球に意表をついて3塁へ盗塁を決めたんだけどこれは大きな価値があったわ 一死3塁となって森下選手は外野フライや内野ゴロでも得点につながるから気分的に楽になり 結果センター前のタイムリーが出たんだよね 近本さんが帰ってなお一死1塁 迎えるバッターは佐藤選手 フルカウントになって7球目をバットを折りながらセンターの前にポトリと落ちるヒットにします 1塁ランナーの森下選手が好走塁で3塁まで進んだのも大きかった 一死1・3塁で大山さんがサードゴロ 森下選手がホームを突こうとしたんだけど三本間に挟まれてしまって挟殺プレーでアウトになるけど粘ったおかげで1塁ランナーの佐藤選手が3塁到達 二死1・3塁と得点のチャンスは継続しましたここで5回に中川選手の代走でゲームに入っていた6番小野寺選手に打席が回り ライト前にタイムリー!貴重な2点目が入りました これで残す3回をリリーフ陣に託したという展開になって DeNAは半ば負けを覚悟したとおもうんだ 藤川監督の頭脳的な選手起用まず先発メンバーだけど 6番レフトに中川選手を入れてるね これは単なるサプライズじゃなく 初戦で相手にデータの少ない選手を積極的に使っていこうという意図を感じたわ5回裏に中川選手がヒットで出ると小野寺選手を代走に送ったり 村上投手の打席でヘルナンデス選手を代打に出したりしたのもそうだとおもうのよその流れで小野寺選手が6回に回ってきた打席で2点目のタイムリーを打つっていう展開につながってる でも16日も同じスタメンかどうかは分からないよ DeNAの先発は右の武田投手って発表されてるから オーソドックスにレフトは前川選手じゃないかな 熊谷選手は足があるからまた使う可能性が高いとおもうけどね 初回にはエラーもあったけど9回の最後を締めたファウルフライキャッチもお見事だった 緊張してたのか少し硬かった村上投手「初戦だったので慎重にいきすぎたところもありましたけど、そういう部分でも5回でしたけど0で帰ってこられたのはよかった」と語ってるように緊張感はあったんだろうね でも5回無失点で試合を作るのは流石だわ初回はフォアボールやエラーも絡んで23球を投げたんだけど最後は山本選手をサードゴロに打ち取って無失点 3回は一死1・2塁から牧さんと山本選手を連続で空振り三振に仕留めて雄たけびを上げ 5回の一死1・2塁も牧さんと山本選手を連続サードゴロで切り抜けてガッツポーズ5イニング105球はちょっと多かった でもリリーフ陣がしっかりしてるから完投を意識せず思い切り行けるから 最低限の仕事につながってるのよね 流石のリリーフ陣 安定感抜群!及川投手が6回から7回途中まで1回2/3を投げ そのあとを受けた石井さんもイニングをまたいで1回1/3をピシャリ このあたりは 試合勘を取り戻させようということかなあ 1イニングごとに行かなかったことで2人はほぐれたかもしれないし あらかじめこういうパターンもあるよって投手陣に示しておく意味もあったよね そして岩崎さんはいつも通り9回1イニングを任せて完ぺきに抑えてくれたました 「強い」というより「負けない」というイメージを相手に植え付けた試合だったとおもうよ 初戦の勝ち方としてはベストに近いんじゃない? そっけなかった藤川監督のインタビュー色んな意図を悟られたくないのか 口数が少ないインタビューだったよね インタビュアーの質問をはぐらかして 詳細には触れたくない様子 ファンサービスにはなってないけど 勝つためにはそれでいいとおもう 凄くデリケートと言うか慎重な感じに見えました近本さんの三盗については 「よく、分かりませんでした」第2戦に向けても 「また明日も同じように戦うのみ。頑張ります」なーんて具体的な話はほとんど無し 「あといくつか勝たなければいけませんから、あまり…、通常の振り返りはなかなかできないかなというところですね」 お得意の秘密主義かな? 短期決戦だから相手に色々考えさせようって作戦なのかもしれないねラリってるような目が怖い? AIはこういうの好きみたいなのよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月16日
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背番号34(その5)背番号34の第5回目です 今回も3名の選手をご紹介するよ1人目は高校野球でも活躍した沖縄県出身のサウスポーで8年間着けてるね 2人目は2代目の地元に近い西濃運輸から入団したこれも投手 最後はフリーエージェントで来たあの細身のサウスポー ファンの皆さんならお分かりですよね3人とも投手で2人が左投げ その背番号が「34」というのは金田さんを意識してのことなんだなって想像してます では少し長くなるけど順番に追っていこうね 仲田 幸司 投手出生地はアメリカ合衆国ネバダ州で、アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたが、国籍は日本。空軍将校だった父が沖縄米軍基地に配属されることになって移住した。米軍基地内のアメリカンスクールから那覇市内の小学校に転向し、2年生の時に友達に誘われ野球を始めた。中学3年時にこれも友達の誘いで興南高校の野球部のテストを受けたところ素質が認められて進学することになる。 高校では3季で甲子園に出場し、1983(昭和58)年夏の選手権では長崎商業戦で17三振を奪うなど三振が取れるサウスポーとして注目された。ところがコントロールはアバウトで投げてみないとわからない。全く制球が定まらないと思えば、次の試合では突然好投するなど監督泣かせの投手だった。ただ持っているポテンシャルには期待感があり、複数のプロ球団が上位にリストアップする有望株ととらえていた。1983年秋のドラフト会議では3巡目で阪神と南海ホークスが指名し、抽選で阪神が交渉権を得て入団する。最初にもらった背番号は「48」だった。背番号48を着けていた当時の仲田投手入団1年目の1984(昭和59)年は1年間ファームに置かれる。プロ初勝利は2年目の1985(昭和60)年で、5月12日のヤクルト戦での先発。この試合ではフォアボール4個を出したものの、被安打3、8奪三振での完封勝利だから驚く。仲田はこの年に3勝(4敗)を挙げてリーグ優勝にも貢献したわけだが、制球力の面で信頼できなかったため、短期決戦の日本シリーズでの登板はなかった。1986(昭和61)年が7勝12敗、1987(昭和62)年は8勝11敗と勝ち星は伸びていくが、負け越しが続いている。毎年投球イニング数に近い三振を取る割には勝ち星に結び付いていないのは、制球力の無さが大きな要因だった。1987年に宮本四郎が引退したため「34」が空き、仲田は1988(昭和63)年に引き継いでいるが、その後も1991(平成3)年まで一度も勝ち越したことがなく、二けた勝利もできない状態が続いている。ところがプロ9年目の1992(平成4)年、阪神は最後までヤクルトと優勝を争ったが、この年のチーム成績は突如覚醒した仲田の好投によるところが大きい。なにしろ35試合(先発30)に登板して14勝12敗1セーブ、キャリア唯一の二けた勝利。投球回が217回1/3でこれはリーグ最多。194奪三振もリーグトップでタイトルを取っている。その一方で四死球は激減という信じられない変身だった。 これで不動のエースになったかとファンも大喜びしたが、翌1993(平成5)年には3勝12敗と急降下し、もとのノーコンに戻ってしまう。1994(平成6)年は7勝6敗とやや持ち直しているが、1995(平成7)年はわずか9試合しか登板はなく、0勝2敗に終わっている。数字から言えば戦力外でもおかしくないが、何を思ったか仲田は1995年オフにFA宣言する。この宣言の会見の席上で仲田は涙ながらに語った。「僕はタイガースに育ててもらったので、タイガースが大好き。できれば、ずっとタテジマのユニホームを着ていたい。でも…」仲田によれば球団の評価と対応は次の様なものだったそうだ。(1)FA宣言しても獲得に乗り出す球団はない。(2)トレードも考えていない。(3)宣言して残留を決めても来季年俸4000万円(5000万円から1000万円ダウン)の変更はない。「僕の評価や、どこも取ってくれないという話をして、『君のFA権は紙切れみたいなもんや』と言われたんです。『紙切れ』って」 球団からここまで冷たくされて泣くしかなかった仲田だったが、1991年(平成3)年の秋季キャンプで臨時コーチとして指導を受けた廣岡達朗がGMを務める千葉ロッテ・マリーンズが獲得に乗り出してくれたため、セ・リーグ生え抜き日本人選手のパ・リーグへのFA移籍第一号となった。 ロッテには2年間在籍したが、1996(平成8)年が9試合0勝1敗、1997(平成9)年にはサイドハンドにフォーム改造してみたが10試合0勝0敗と振るわず、1勝も挙げることができないまま戦力外を通告される。現役続行を望み、同時に戦力外となった遠山昭治とともに野村新監督が就任した阪神の入団テストを受けたが、遠山は採用、仲田は不採用となって引退した。プロ通算成績は335試合(先発198)に登板、57勝99敗4セーブ、1335回を投げて642四球、1158奪三振、自責点602、防御率4.06だった。中ノ瀬 幸泰 投手岐阜県高山市出身。高校は地元の高山工業高校。甲子園出場の経験はないが右投げ本格派で三振を取る能力が高く、県内では好投手の評価を受けている。高校卒業後は地元岐阜県の社会人・西濃運輸に入社した。社会人4年目の1994(平成6)年、第65回都市対抗野球本戦で2試合連続完封を記録するなど準優勝へ貢献し、久慈賞を受賞して一躍プロ注目の投手となる。タイプとしてはヤクルトの小川泰弘投手のような投手だ。 翌1995(平成7)年のドラフト会議において2位逆指名でタイガースに入団。背番号はFAで移籍した仲田の着けていた「34」を引き継ぐことになった。ルーキーイヤーの1996(平成8)年は開幕一軍に抜擢されるもののプロの壁は厚く、開幕戦で打ち込まれるなど跳ね返されてファームへ。2年目の1997(平成9)年には監督が吉田義男に代わったが、中ノ瀬の一軍での登板機会はなかった。 1998(平成10)年だったと記憶しているが、中ノ瀬にとって致命的な登板があった。筆者(先代)が観戦に行った試合で、フォアボール、連打で動揺してしまって「1つのアウトが取れない」というパニック状態になったときがあった。 どうしようもなくなって交代を願うかのようにベンチを見るが誰も来てくれない。そのまま晒し者のようにされて打ち込まれ、この時に完全に自信喪失してしまったと思う。野村監督に代わった1999(平成11)年にはわずか1試合しか登板できず、オフに戦力外を通告される。現役続行を希望して西武ライオンズの入団テストに挑んだものの採用されず、プロ野球を去ることになった。2000(平成12)年には西濃運輸に復帰して2004(平成16)年まで現役を続けた。プロでの通算成績は14試合0勝2敗、22回を投げ14四球20奪三振、自責点17、防御率6.95に終わっている。星野 伸之 投手北海道旭川市出身。高校は道立旭川工業高校。選手を集めているわけでもない一般的な高校で、星野は1年生からエースになっているが甲子園出場など縁も無いまま3年間を過ごした。それでも3年時には北海道拓殖銀行野球部から内定をもらっている。その時点でプロへ進むことは考えていなかったと言う。地方大会でのチーム成績とは関係なく、やはり左投手は貴重で、抜け目ないプロのスカウトは星野のチェックをしており、複数球団がマークする投手だった。そのなかでも阪急ブレーブスが熱心で、1983(昭和58)年のドラフト会議で5位指名してくれた。これで気持ちが動き、プロ入りを決意する。後列の背番号「53」の選手が星野 まだ上田監督時代だった星野本人は大学へ行ったつもりで入ったと言っているが、球団の評価は高く、高卒1年目の1985(昭和60)年から一軍で投げさせており、17試合(先発3)2勝2敗1セーブの数字を残した。2年目の1986(昭和61)年には35試合(先発20)でローテーションの一角を任されて9勝8敗。規定投球回数もクリアし、153回で129三振を取るなど十分通用している。3年目となった1987(昭和62)年から1997(平成9)年までは11年連続2桁勝利を挙げてエースに君臨する。1989(平成元)年と1996(平成8)年には勝率1位のタイトルを取るなど、内容的にも安定しており、「王子様」のニックネームが定着する。1996年オフにはFAを宣言し、年俸1億2000万円の3年契約+再契約金3000万円でオリックスに残留している。 12度目の2桁勝利(11勝)を挙げた1999(平成11)年オフ、星野は2度目のFAを宣言する。前回の時も阪神への移籍の希望は持っていたなかで残留したが、2回目は野村監督の強い勧誘もあり、同じ関西で生活上も大きな変化がないことから入団を決断する。しかし、パリーグの打者を翻弄してきたピッチングにも陰りが見え、待球してくるセリーグでは苦戦を強いられる。タイガース1年目の2000(平成12)年は、開幕投手に抜擢され、シーズンでは21試合にすべて先発しローテーションの一角を担ったが、5勝10敗、防御率4.04と好い数字が残せない。 2001(平成13)年は10試合1勝2敗、防御率も4.60と悪化し、ほぼ戦力になれなかった。星野仙一が監督に就任した2002(平成14)年は8試合2勝1敗となってしまい、球団は来季契約を考えていたようだが、星野は自ら引退を決意した。 通算成績は427試合(先発384)176勝140敗2セーブ、2669回1/3で927四球、2041奪三振、自責点1079、防御率3.64という素晴らしい数字だ。2006(平成18)年から2009(平成22)年まで4年間タイガースの二軍投手コーチ。その後2010(平成22)年から2017(平成28)年まで一軍・二軍で投手コーチや育成コーチを歴任した。ストレートの最速記録がどんどん塗り替えられていく中で、これほど遅いストレートで勝ち星を積み上げ、2000奪三振も記録している稀有な存在はいない。完投が129試合あるのも平成時代の投手の中では突出して多い。星野の持ち球は130キロに満たないようなストレート、70~90キロ程度の大きく緩いカーブ、120キロ前後のフォークの3種類しかなかったが、本人も試行錯誤しながらフォームを改良し続けた。ギリギリまで身体でボールを隠す独特のフォーム非常にテイクバックがコンパクトで、投げる直前まで打者から見えないフォームにたどり着き、そこから同じ腕の振りで3種類のボールを投げ分けて打者を翻弄している。コントロール自体はそれほど正確ではなかったが、それが反って打ちにくさになっていたかもしれない。クイックも非常に速く、構え遅れた打者には大胆に真ん中へ投げてカウントを取るなど、強打者ほど星野独特の投球術に悩まされた。清原和博、中村紀洋、タフィ・ローズ、鈴木一郎(チームメイトだったが)などが一様に「星野の球はすごく速く感じた」と証言している。初芝清(元ロッテ)などは具体的に「伊良部の158キロより速く見える」とまで語っている。まとめ仲田さんはタイガースファンの中ではかなり有名なんだよね 「トラボルタ」って愛称だった中田良弘さんが「ちゅん」 今回登場の仲田幸司さんはにんべんがあるため「ジンタ」と呼ばれてチーム内で区別されてたんだってボールは速くて三振が取れるんだけど 波が激しく「1年に1度凄いピッチングをする投手」と言う誉めてるのか貶してるのか微妙な評価をされてるよ中ノ瀬投手は2代目と同じ県の出身で西濃運輸から入団してる 都市対抗準優勝で期待されてたけどプロの壁に跳ね返されたね 中ノ瀬さんが甲子園で晒し者になった試合は先代が現場で観戦してて「見てるのがつらかった」って・・・星野さんは対戦した選手たちにも多くのプロ野球ファンにも謎の投手だわ 信じられない遅い球なのに「速く見える」というのよ スタンドから見てるファンには「なんて遅い球なの!」というふうにしか見えなかったのに こういう特殊なタイプの投手も「何十年に一人の投手」なんだろうね 先代はタイガースで200勝達成できるとおもってたみたい でも厳しいプロ野球にもいろんな生きる道があることを感じたって言ってる背番号34-6につづく ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月14日
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マウロ・ゴメスさんがスカウトに!2代目タイガース非公式サイトです2025/10/13(月) 13:19配信マウロ・ゴメス氏が駐ドミニカ共和国スカウト就任阪神は13日、2014年に打点王を獲得した球団OBのマウロ・ゴメス氏が駐ドミニカ共和国スカウトに就任すると発表した。阪神には2014年~2016年の3年間在籍し、通算425試合の出場で打率2割7分、65本塁打、260打点。以下、ゴメス氏のコメント。 「阪神タイガースファンの皆さん、こんにちは。再びこうして皆さんにお話しできること、新たなキャリアのステージからご挨拶できることを大変光栄に思います。阪神タイガースで過ごした3年間は本当に素晴らしいもので、私にとって決して忘れられない経験です。ファンの情熱、チームの支え、そして球団の温かさ、そのすべてが、フィールドでの毎日を特別なものにしてくれました。そして今、スカウトとしてこのチームに携われることを嬉しく思います。新たな視点から貢献し、この偉大な阪神ファミリーのさらなる成長に力を尽くしたいと思っています。チームが競争力を保ち、成功を続けられるよう、才能ある選手を見つけ出すことに全力を注ぐつもりです。これまでの皆様のサポートに感謝申し上げるとともに、タイガースと共にこの新しい章をスタートできることに大きな喜びを感じています」これってゴメスさんの自宅内なのかな?なんかすごい豪邸っぽいね。日本の球団である程度成功するとそれなりの見返りはあるのね そういう姿を見てドミニカの子供たちや若い選手たちが日本の野球に興味を持ってくれると好いね いままでもいっぱい好い選手が来て日本で活躍してるから ゴメスさんの眼力に期待したいわ❤ヤバいシリーズ再開?ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月13日
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列伝29 リッチ・ゲイルRicherd.B.Gale (1985~1986)生年月日:1954年1月19日背番号45 右投右打・投手出身地:アメリカ合衆国ニューハンプシャー州リトルトン球 団:阪神(85~86)表彰等:なし阪神在籍:2年 60試合18勝18敗 353回1/3 228奪三振 自責点173 防御率4.42 (1)オルセンで失敗し、メジャー経験のあるゲイルを獲得1984(昭和59)年10月23日、吉田監督が就任した時、すでにオルセンが解雇されていたため外国人一軍枠のひとつは空白になっていた。相変わらず先発投手不足が解消できないため、この枠は再び外国人投手で埋められることになった。12月20日、阪神はリチャード・ゲイル投手の入団を発表する。198㎝・102㎏の長身で、足のサイズは32cm! 背番号は「45」、登録名は「リッチ・ゲイル」。ロイヤルズ-ジャイアンツ-レッズ-レッドソックスと移籍を繰り返しているが、メジャー7年間で195(先発144)試合に登板し、通算55勝56敗2セーブの実績を残している。1978(昭和53)年は新人でいきなり14勝8敗の好成績。1980(昭和55)年には13勝を挙げてロイヤルズのア・リーグ制覇に貢献し、フィリーズとのワールドシリーズでも登板している。実は吉田監督は監督浪人時代の1980年のメジャー視察でワールドシリーズで投げるゲイルを現地で直接観ている。1984年秋に外国人選手の獲得のためヘッドコーチの土井淳が渡米し、ウィンターリーグで投げるゲイルを見て興味を惹かれ、日本に残っている吉田監督に連絡を入れたところ、「すぐ契約してくれ」との返事だったため即交渉し獲得が決まったという。もうひとつ付け加えると、ゲイルは1981(昭和56)年にはハウザー監督率いるロイヤルズの一員として、親善試合での来日経験もある。当時は「ゲール」と表記されていたため同一人物と判りづらいが、ゲイルは第2戦と第5戦で投げている。第2戦は二番手で4回から3イニングを投げ、4安打・自責点5と散々な目にあった。第5戦は先発したが四球と味方の失策から崩れ、3回4失点でKOされている。 このシリーズのロイヤルズは第3戦から第7戦にかけて5連敗。不名誉な「日米親善シリーズ負け越し」の事態を恐れたハウザー監督は、不調のゲイルを2試合で見切り、その後は使わなかった。ゲイルにとっては、あまり良い思い出とは言えないかもしれない。(2)長身投手にありがちな弱点を抱えるゲイル 1985(昭和60)年2月、キャンプに合流したゲイルは5日から投球練習を開始した。長身から投げ下ろすボールに角度があるが、投球フォームがなめらかなのでさほどの威圧感はない。変化球は豊富で、ドロンとしたカーブとスライダーのほかに、シュートやシンカーも器用に投げ分ける。ただし制球力は実戦を見るまで未知数だった。 オープン戦初登板は3月10日の阪急戦。先発したゲイルは4回を投げ1失点、特に低めによくコントロールされ四球を与えない投球が光った。2度目の登板となった23日の広島戦でも、二番手で2イニングを完璧に抑え、評価を上げている。 ところが、29日の南海戦で3回3失点、4月7日の大洋戦でも4回3失点と崩れ、大柄な投手にありがちな「立ち上がりの悪さ」を露呈する。欠点は他にもあった。突っ立ったままのフォームは、ボールに体重が乗らないため球質が軽く、まともに当たればホームランになる確率が高いことや、体の重心が高すぎてバランスが崩れやすいので、突然コントロールを乱すことなどが指摘されている。実際これがゲイルの特徴で、「投げてみないとわからない」というタイプのピッチャーだった。(3)巨人を2試合連続完封して自信をつけたゲイル 公式戦開幕は4月13日の広島1回戦。阪神は池田が先発し競り合いになったが、延長10回3対4でサヨナラ負け。翌14日、何としても勝ちたい開幕第2戦でゲイルは先発マウンドに登る。今度は阪神打線が奮起して8得点、ゲイルは8回まで3失点で楽勝ムードだった。ところが9回に中山の2ランを浴びて尻に火がつき、さらに二死からエラー、ヒットと続いたため、最後は山本のリリーフを仰がなければならず、終わってみれば8対7の辛勝。自責点5で、冷や汗ものの初勝利だった。 2試合目の登板となった4月20日の中日1回戦では、バースの3号ソロで1対0とリードをもらった直後の5回裏、モッカに逆転3ランを許して敗戦投手になった。この2試合は、シーズン前に懸念されていた一発をもらいやすいというゲイルの悪い特徴がよく出ている。 初完投は、3試合目となった4月25日のヤクルト3回戦である。この試合はバースと掛布が2本ずつ、平田にも1本出て計5本塁打の猛攻で阪神が12得点を挙げた。この大量援護に守られゲイルも153球の力投、2失点で完投している。 調子を掴んだのは5月18日の巨人7回戦だった。1回裏の無死満塁のピンチを切り抜けたあとは、カーブを主体に変化球のコントロールが抜群に冴える。岡田の2ランによる2点の援護を守り、スイスイと完封して4勝目を挙げた。気を良くしたゲイルは、5月23日の広島7回戦では味方打線が完封されたため敗戦投手になったが、8回まで2点に抑える好投。さらに6月1日の中日9回戦は6回2失点で5勝目を挙げている。そして迎えた6月6日の巨人12回戦。バースのソロ2発による2点を守りきって、対巨人戦2試合連続完封勝利を達成した。この時点で名実共にエース格として首脳陣にもファンからも認められたと言えるだろう。ただしシーズン全体から見ると、この試合が好調のピークだったようである。(4)打線の援護と強力リリーフ陣に助けられて13勝!6月11日の広島8回戦では、1点リードの2回裏に四球から崩れ3失点。味方が追いついた直後の4回裏も衣笠の2ランを浴びて5失点KOと、元のゲイルに戻ってしまう。この頃には首脳陣もゲイルの特徴を把握したようで、リードした場面では早め早めに交代させ、抜群の安定感を誇る福間・中西・山本らの強力リリーフ陣で逃げ込むという必勝パターンを確立させていった。7月は5回もたずにKOされた試合が3試合もあり未勝利、8月後半になってやっと復調してきた。 ゲイルは9月11日の大洋22回戦で7回まで2点に抑えて勝利投手になり、この試合でマジック22が点灯する。10月16日のヤクルト24回戦では2点リードの6回途中に4点を失い3対5と逆転されて交代したにもかかわらず、リリーフ陣が踏ん張るうちに打線が同点に追いついたため敗戦投手を免れた上に、チームのリーグ優勝が決まるというツキもあった。 ゲイルの最終成績13勝8敗はチーム最多勝だが、打線の大量援護とリリーフに助けられた試合が多く、防御率4.30は決して褒められた数字ではない。12勝を記録した中田良弘や9勝の池田も、投球内容は似たようなものだった。この先発3本柱の防御率はいずれも4点台である。その反面リリーフ陣の福間・中西・山本の3人が合わせて24勝、中西と山本の防御率は2点台だ。しかも、福間と中西は投球回数が100イニングを超える過酷な使われ方だった。阪神はエースらしいエースがいない状態で、ペナントレースを制したことになる。プロ野球史上でも、これだけ打線とリリーフに偏った優勝チームは特異な事例だろう。(5)日本シリーズで2戦2勝、胴上げ投手の栄誉阪神ファンにとって、ゲイルの印象が悪くない理由は、おそらく日本シリーズでの好投と胴上げ投手になったことに尽きるだろう。ゲイルが日本シリーズで重要な役割を果たす予想はあった。春季キャンプ中に並木打撃コーチが「背の高いゲイルが投げると、ボールがゴルフボールのように見える。」と形容したことがあったように、ボールが小さく見える。しかも、一方ではマウンドまでの距離が近く感じる。こうした「錯覚現象」が短期決戦では馬鹿にできない。加えてワールドシリーズで投げた経験も心強い要素だ。首脳陣はゲイルをシリーズ用ローテーションの二番手に位置付けたのにはそういう背景があった。西武球場で始まった日本シリーズ第1戦は、先発した池田がバースの3ランで挙げた得点を守り抜き、見事な完封で阪神が先勝する。「阪神が突き放すか?西武が追いつくか?」大きな意味をもつ第2戦の先発がゲイルだった。ゲイルは1回・2回とランナーを背負う苦しい立ち上がりで、3回には石毛のソロを浴びて1点を先取されてしまう。ところが直後の4回表にバースの逆転2ランが出るとその裏から立ち直り、4・5・6回は3人ずつで片付ける。ゲイルは7回まで投げ、あとは福間・中西の盤石リレーで1点差のまま逃げ切り、大役を果たした。阪神3勝2敗で王手をかけて迎えた第6戦。先発したゲイルはまたツキに恵まれた。1回表にいきなり長崎の満塁ホームランが飛び出し、まだマウンドに登る前に4点という大きなプレゼントをもらう。その裏石毛のホームランで1点返されたが、2回表にすぐさま真弓のソロで突き放す。4回裏にスティーブのタイムリーで1点を許すと、直後の5回表には掛布の犠牲フライで1点。取られてもすぐに取り返してもらえる最高の援護の中で、ゲイルは楽々と完投勝利を収め、胴上げ投手の栄誉に輝いたのである。 このシリーズのゲイルには、シーズン中以上の粘り、根気が感じられた。MVPはバースで文句なしだが、ゲイルの投球内容も高く評価され、優秀選手賞を受賞している。日本シリーズでの活躍は、ゲイルの残留を決定づけたと言えよう。(6)偏った戦力なのに補強を怠ったツケが2年目に1986(昭和61)年、阪神に対する評価はふたつに分かれた。ひとつは「主軸の年齢から見て、今後2~3年は優勝を争うだろう」というもの。もうひとつは「所詮打撃は水もの。投手陣にテコ入れがないと危なっかしい」という見方だ。チームを預かる立場の者は、後者の考えに耳を傾けるべきだろう。しかし吉田阪神は、打ち勝つ野球で優勝した自信が「慢心」になっていたのかもしれない。ドラフトで5人、トレードでは柏原純一ひとりを獲得しただけで補強を済ませてしまっている。当時の阪神は、主力と控えの力の差がケタ違いに大きく、誰かが故障すれば即チームの危機に直結する。補強を怠ったツケは、特にゲイルをはじめとする先発投手の成績に跳ね返った。(7)けが人続出で打線の援護がなくなり黒星を重ねる 開幕を迎えて最初の3連戦でゲイルは3戦目の先発だったが、この起用に対して「なぜ開幕投手が俺じゃないんだ」と言ってゴネたという。前年の13勝を自分の力で挙げたように思いこんだのか、自らの起用に対していちいち不満を述べる扱いにくい投手になっていく。 吉田監督も後年になって「ゲイルは1年で切っておくべきだった」と語っている。もともと神経質で細かいことが気になる性格だったが、2年目に不協和音の一つになった。 4月6日の大洋3回戦で先発したゲイルは、2対0とリードして迎えた4回裏、田代に逆転3ランを浴びて敗戦投手。2度目の登板となった12日の巨人1回戦では、1回に守備の乱れから3点を失うと、気落ちした2回には原に3ランを打たれてKOされる。この2試合を見る限り、進歩の跡が感じられなかった。18日の中日1回戦で散発5安打の完封勝利を飾ったが、この試合でも制球には苦しんでいる。4月20日に掛布が死球で戦列を離れたことで、阪神の得点力は大幅にダウンした。バース、真弓、岡田も前年のような調子にはいかず、投手陣にかかるウェートが大きくなった。しかし、先発・リリーフともに前年より悪く、チームは低迷する。ゲイルは5~6月を3勝2敗と勝ち越しているが、勝った3試合は打線が8点、13点、13点という大量援護をしてくれたことに依存したものである。6月を終わった時点で4勝5敗、不安定だが最終的には10勝程度はできそうだった。ところが、首脳陣の淡い期待は、その後大きく裏切られることになる。(8)後半戦はわずか1勝?! 7月から9月までの3ヶ月間で12試合に先発し、1勝もできず5連敗。相変わらず四死球やエラーで動揺したところに、2ラン・3ランを見舞われ、序盤で致命的な失点をするパターンが目立った。10月7日の大洋25回戦で、久しぶりに完投で5勝目を挙げたが、もはや残留をアピールすることにはならなかった。阪神は、かろうじてAクラスを確保したものの、貯金は0。チーム全体が優勝時に比べて弱体化し、2年連続三冠王に輝いたバースのワンマンチームに成り下がった。ゲイルは、もともと球威があるわけではなく、コントロールも大雑把なのに加えて、他球団にも研究されたため、2年目は並以下の投手でしかなかった。しかも、主砲・掛布の怪我などもあって打線の破壊力が落ちており、前年ほどの援護が得られなかったことが、そのままゲイルの成績に反映したようだ。結果的には5勝10敗と大きく負け越して、シーズン終了後に解雇されてしまう。けれども、21年ぶりのリーグ優勝に貢献し、初の日本一をもたらした一人として、ゲイルの名は、これからも阪神ファンの間に語り継がれていくだろう。リッチ・ゲイル[完] ゲイルの年度別投手成績ゲイルさんに対してのタイガースファンの印象はバースさんに比べると全くと言っていいほど薄いみたいだわ 察するところ数字では13勝したけど半分は打線の援護がなきゃ負けてるような内容だったからだよきっと ボコボコにKOされながら勝利投手になってるのは差し引かなきゃね しかも2年目は天狗になってるでもこの先実際に見た人が減っていけば ゲイルさんも歴史になって 記録や数字で評価されていくのね ここに実態を残しておくのは意義があるとおもって今回はあえて厳しいことを書かせてもらいました さていよいよCSが近づいて来たので異人伝は一時休止するね 相手はDeNA 巨人が2試合で負けちゃったのでファイナルステージの初戦は東投手だとおもう やな感じ! 3戦目あたりでケイ投手が来るよ これまた苦手だから不安すぎ やばい展開になりそうだわ・・・ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月12日
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バース選手の記事が7回にわたってしまったので バースさん在籍中に入団した選手の紹介が遅れてしまってます いちおう入団した順に紹介してるので 長くいた選手がいると置き去りになっちゃうのね ということで 今日からクライマックスシリーズの第1ステージが始まるけど 引き続き猛虎異人伝を掲載するよ まず28人目の外国人選手で1983年入団のオルセン投手です列伝28 リチャード・オルセンRicherd Olsen (1983~1984)生年月日:1957年6月1日背番号43 右投右打・投手出身地:アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル球 団:阪神(83~84)表彰等:なし阪神在籍:2年 42試合6勝11敗1セーブ 165回1/3 97奪三振 自責点77 防御率4.19 (1)入団テストに合格も入団は「無期限保留」1983(昭和58)年2月、阪神はハワイ・マウイ島の春季キャンプで、リチャード・オルセン投手の入団テストを行なった。ホノルル出身のオルセンは1978(昭和53)年のドラフトでミルウォーキー・ブルワーズから4位指名されプロ入りしたのち、メジャー昇格の経験のないままトリプルAで伸び悩んでいた右オーバーハンドの投手だ。外国人選手枠は、アレン、バース、ストローターの3人で埋まっており、オルセンの入り込む余地はなかったが、先発投手の絶対数が足りないという悩みを抱えていた阪神は、とりあえずオルセンに合格点を与え、入団については「無期限保留」ということになった。3名の野手のうちシーズン半ばまでに戦力外と見做される選手が出た場合は解雇し、オルセンを入団させようという戦略だった。(2)低迷するストローターの解雇、オルセン入団公式戦に入ると、阪神は苦しい戦いが続いた。期待の大砲・バースは、オープン戦で受けた死球による骨折の影響で出遅れ、4~5月は大不振。キャンプ時に評価が高かったストローターも、思ったほど働いてくれない。アレンは、前年から進歩の跡が見られない上に5月に骨折でリタイアし、レギュラーでは骨折から復帰したバースだけがどうにか戦力になっていた。心配されていた投手力の方も、深刻な状態になってきた。阪神は6月9日から17日にかけて6連敗を記録し、最下位に転落するのだが、連敗中の失点合計は実に49。一試合平均8点を取られている。この惨状にたまりかねた首脳陣は、手薄な投手陣の建て直しのため、保留にしていたオルセンの獲得を決断することになった。阪神は外国人選手枠を空けるため、6月29日にストローターを解雇。代わってオルセンが支配下選手登録されたのは、7月18日だった。背番号は「43」。外国人投手の入団は、バッキー退団以来、15年ぶりのことだった。(3)上々の内容と評価された1年目のオルセン8月10日、オルセンはアレンと入れ替わりで一軍登録され、翌11日の広島16回戦で、いきなり初先発した。オルセンは張り切って先発マウンドに登ったが、初回に2点を取られると、3回にも1点を失ってノックアウト。本人も「緊張して力んだ」と認めたように、球威・制球ともに最悪だった。デビュー戦で3回しか投げなかったので、首脳陣は8月14日のヤクルト10回戦に、中2日のオルセンを先発させる。前回に比べて硬さがとれたオルセンは、5回まで角富士夫のホームランによる1失点に抑える好投。その間に味方が6本塁打で大量援護するという、理想的な展開に恵まれた。6回、マルカーノに2ランを浴びると、7回からは池内にバトンタッチしたが、7安打3失点で初白星を手にしている。 その後はローテーションに組み込まれ、8月31日の広島18回戦で2勝目、9月22日の中日20回戦では、8回まで0点に抑える快投を演じ、最終回に2点を許したものの初完投で3勝目を飾った。10月に入ると、残留を前提にしたリリーフのテストも行われた。10月5日のヤクルト22回戦、7回裏に阪神が2点を勝ち越すと、三番手として登板し、8~9回を無失点に抑えて幸運な4勝目を挙げている。24日のヤクルト26回戦では3対1の場面で救援、8~9回を無安打零封し、セーブポイントを挙げて締めくくった。オルセンの1年目の成績は14試合で4勝2敗1セーブである。防御率3.51も悪くないし、先発・救援とも及第点がつけられ、1年に換算すれば10勝以上がクリアできそうな数字だった。シーズン終了後、小林が引退を表明したことで、オルセンは貴重なローテーション投手候補として、残留が決定的になった。その一方で、阪神はアレンを解雇する。第三の外国人枠は、「ほとんど意味がない」という結論が出ていたため、アレンに代わる外国人選手の補強は見送られた。(4)春季キャンプで投球フォームを改造 1984(昭和59)年、3年目を迎えた安藤監督は、打線については十分な手応えを感じていた。しかし、小林の抜けた投手陣はいかにも手薄で、前年13勝を挙げた工藤一彦が軸になるにしても、野村収や山内新一といった超ベテランにも頼らざるを得ない状況だった。これではオルセンに過大な期待がかかったのも無理のない話で、事実、キャンプの段階では開幕投手の最有力候補にも挙げられている。1年目のオルセンは、「ギクシャクとしたフォームで荒れ球」というのが持ち味になって好結果を残した。しかし、2年目のシーズンを迎えるにあたって首脳陣は特長を生かすのではなく、フォーム改造を命じた。もともとフィニッシュで身体が1塁側に流れる癖があるためシュート回転する。その点を修正すれば制球力が増し、無駄な四球も減って、先発としての能力が上がると考えたからだ。オープン戦終盤に出てきたときには、前年よりスムーズではあるが、大人しいフォームに変っていた。(5)フォーム改造が裏目に、返って増えた四死球開幕投手は野村に譲ったが、4月7日、開幕2戦目の巨人2回戦に先発したオルセンは7回を2安打4奪三振、中畑のソロによる1点だけに抑えて勝利投手になる。次の登板も13日の巨人4回戦だったが、7回5安打2失点の好投だった。ところが、ここからツキがなくなったのか、21日の大洋4回戦は、6回を4安打2失点とまとめたが味方が1点に抑えられ敗戦投手に。続く26日の広島3回戦でも8回を5安打2失点と力投したのに、打線が完封され黒星が先行してしまった。 4月の月間防御率は2.25。打線の援護さえあれば4連勝でもおかしくない内容である。しかし、4試合で14四死球というのは大きな不安材料だった。5月2日の広島4回戦も、6回途中まで3安打無失点。しかし、6四死球と荒れて球数も多く、常に走者を背負う投球だったため、4対0とリードしながら交代させられる。このまま逃げ切れば勝ち投手だったが、リリーフ陣がこのリードを守れずに逆転負けを喫したため、勝ち星を失って完全に運に見放された。ここまで、1試合(9イニング)に換算すると7.6個の四死球を与えており、フォームの改造がコントロールの向上には結びつかなかった。しかもモーションが小さくなったため、球威は前年より落ちている。その影響がまともに出たのが5月8日の中日3回戦だった。この試合、1回に1点を失ったが、2回表に阪神が2点を挙げて逆転する。しかし直後の2回裏、オルセンは田尾の逆転2ランを浴びてしまう。4回表に同点に追いつくが、その裏には中尾の勝ち越しソロを許す。5回表にバースのホームランなどで再びリードしてもらっても、その裏に連打を浴びて1点差に追い上げられた。 ベンチの我慢もここが限界で、ついに降板。制球がままならず、苦し紛れにカウントを整えに行った甘い球を痛打されるというパターンの繰り返しだった。この試合を境にして、オルセンは転落の道をたどっていく。(6)先発失格、劣勢ゲームの敗戦処理に5月13日の巨人9回戦から7月5日の大洋15回戦まで、9試合に先発したが、いずれも散々な内容で6連敗。首脳陣はローテーション投手として見切りをつけ、7月8日の広島13回戦からはリリーフにまわしている。オルセンは、それから1ヶ月以上の間、黙々と敗戦処理を続けなければならなかった。8月19日の広島21回戦。KOされた中西のあとを受けてロングリリーフし、6イニングを1安打無失点に抑えて久しぶりに好結果を出した。これを見た首脳陣は、24日の中日21回戦で、オルセンを2ヶ月ぶりに先発起用する。ローテーション復帰に向けてのテスト登板だった。ところが力んだオルセンは、1回に谷沢のソロ、2回にも宇野にソロを浴びると、4回は1死も取れないうちに上川の3ランを見舞われて計5失点、木っ端微塵にされてしまう。こうしてオルセンは、与えられた最後のチャンスを逃がした。かえって自らの進退を決定づけたとも言えるだろう。9月以降は敗戦処理で3試合登板しただけでシーズンを終える。2勝9敗、防御率4.65では残留の目はなかった。(7)イタリアのチームで永久欠番?1984年10月6日の午後、球団事務所に呼ばれたオルセンは、岡崎代表から来期の戦力外であることを通告され、退団が決定する。アメリカで芽が出なかったオルセンにとって、小林の穴を埋める戦力として期待されたこの1年は、大きなチャンスだったが生かすことができなかった。だがオルセンの後釜として入団するリッチ・ゲイルが翌年の優勝に貢献するわけで、何が幸いするかわからないのが野球だ。オルセンは、野球を続けるため翌1985(昭和60)年にイタリアへ渡り、1991年まで現地のプロリーグに所属するセリエAのグロッセート・オリオールズで17年間も活躍。1990年にはパーフェクトゲームも達成し、彼の背番号「48」は同チームの永久欠番となったそうだ。大学生主体のチーム「ハワイ・アイランド・ムーバーズ」の監督として何度も来日しており、2012年には元プロ野球選手の高橋一三が監督を務める山梨学院大学と対戦。結果は延長10回引き分けだった。 また、2023(令和5)年には沖縄のタイガースキャンプを訪問し、監督に復帰した岡田彰布と久しぶりに再会している。岡田監督の談は「会うたけど分からへんな、あんな太ってたら(笑)」だった。リチャード・オルセン[完] オルセンの年度別投手成績 色々調べてるとオルセンさんって好い素質があったように感じるよ 今ならまず育成枠で抑えてファームのゲームで様子を見ながらじっくり鍛えていけるんだけど 当時の外国人枠は狭き門で厳しかったのね 荒々しいフォームで投げおろすストレートや右打者内角へのシュート系とかかなり好かったんじゃない?いろんな資料を見てるとそういう印象を受けますね 藤浪さんみたいなイメージ 荒れ球を矯正しようとしてフォームを小さくしたけど 制球力アップにつながらず 逆に球威が落ちて持ち味を無くしてしまった・・・最悪だったねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月11日
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列伝27 ランディ・バース⑦今回が最終回 連続三冠に輝いたバースさんも1987年には33歳になり陰りが見えてきます そして次の1988年にはシーズン途中での解雇 この2年間を見ていくね(22)優勝から2年でチームは崩壊の一途1987(昭和62)年、阪神は内部から崩壊の道をたどっていく。3月23日、巻き返しを期してオープン戦で好調を伝えられた主砲・掛布が飲酒運転の不祥事。久万オーナーは激怒して「欠陥商品」となじった。 それが尾を引き、掛布はシーズンに入ると不振を極める。5月15日には打率が1割8分3厘まで落ち込み、6月2日、腰椎捻挫を理由に登録を抹消され、「掛布引退か?」という心無い報道が飛び交うなど、周辺も騒々しくなってきた。それまでの間に、チームは8連敗を2度、4連敗を2度記録して、早々と最下位を独走する事態に陥ってしまう。首脳陣の不協和音も表面化した。選手の起用法や掛布への対応に疑問を感じた竹之内コーチが、吉田監督や並木コーチと対立、6月7日、辞意を表明する。表面上はチームの打撃不振の責任を負っての退団だったが、吉田監督の求心力が失われつつあることを露呈した事件だろう。この日、阪神の借金は、実に20に達していた。(23)バースが孤軍奮闘するもチームは地獄の最下位3月27日、掛布の飲酒運転から4日後に今度はバースがネズミ捕りにかかってスピード違反で検挙される。チームがバラバラになって、それぞれが野球に集中できず、緩みもあってか不祥事が続いた。 その影響もあってか、4月のバースはホームラン1本、打率2割7分6厘と出遅れてしまう。それでも5月に入ると4番に座って11本を量産している。 さらに6月にも10本を追加し、ホームランダービーのトップに踊り出ている。前半戦で25本を記録したバースは、オールスターにも選ばれ、第2戦と第3戦で2試合連続ホームランを放って、タイガースの選手の中では一人気を吐いた。この年のオールスターは、阪神からは中西、バース、真弓の3人が監督推薦で選ばれたのみ。2年前には、5人をファン投票で送り込んでいただけに、その凋落ぶりには目を覆いたくなるものがあった。オールスター後のバースは精彩を欠いていたが、実は腰痛に悩まされていた。8月5日の広島戦を途中で退き、翌日は欠場。検査で全治5日と診断されたが、チーム事情もあって8日のヤクルト戦から復帰する。しかし、無理がたたって悪化する一方となったため、15日から1週間戦列を離れることになった。 ただし、8月22日に復帰してからのバースは、25日からの広島3連戦での3試合連発を皮切りに、シーズン終了までの37試合で11発を打ち込んでいる。それ以上にすごかったのはこの間の打率で、実に3割9分4厘を記録した。特に9月は4割1分5厘という驚異的な数字で追い込んでいる。腰痛で欠場する前は2割台だった打率は、最終的に3割2分まで上昇し、打撃ベストテンの7位に入っている。 打撃部門のタイトルは逃したが、ホームランは1位と2本差。チーム内では抜きん出た成績であり、3年連続3回目のセ・リーグ・ベストナイン一塁手に選出された。 (24)吉田監督が辞任、後任は村山実バースはそれなりの成績を残したが、チームは落ちるところまで落ちた。9月22日には全球団に負け越し決定。最下位が決定した9月26日から、さらにダメ押しの8連敗を記録するなど、1978(昭和53)年の史上最低勝率を大幅に更新した。全日程終了の2日後にあたる10月12日、阪神は緊急役員会を開き、吉田監督の解任を決定する。岡崎社長が監督に伝え、本人も潔く球団の意向を了承した。 ただし、現役時代の実績と監督としての日本一達成を称えるため、10月13日、球団は吉田の現役時代の背番号「23」を永久欠番にすると発表している。 10月14日には村山実が後任監督に決まり、同時に田宮謙次郎のヘッドコーチ就任も発表された。このあたり既定の路線だったようで、たいした騒動もなくわずか数日の間にトントンと進んでいるのは、阪神にしては珍しかった。(24)長男の病気により帰国を選択するバース1988(昭和63)年、屈辱的な最下位からの脱出を期して第二次村山阪神はスタートした。ちなみに日本初の屋内球場である東京ドームが完成した年でもあり、記念すべきこけら落しは3月18日の巨人-阪神オープン戦だった。 開幕早々、阪神は4連敗スタートだったが、4月後半には貯金もできて、5月始めには単独2位につけた。しかし、このころ水面下では深刻な事態が進行していることに、阪神ファンはまだ気づいていなかった。5月6日、バースが突然欠場する。理由は、体調の異常を訴えていた長男ザクリー君(当時8歳)の検査に立ち会うためだった。翌7日には病名が「水頭症」で危険な状態にあることがわかり、緊急手術が行われた。手術後も絶対安静の状態が続いたため、バースは8日からの北陸シリーズに帯同せず、ザクリー君に付き添っていた。5月13日、バースは甲子園球場内で緊急会見を行い、ザクリー君の療養ため家族と共に一時帰国すると発表した。ザクリー君の状態が快方に向かえば、6月17日に再来日する約束で、翌14日、大阪空港からアメリカへ帰ってしまったのである。 バースの帰国により深刻な状態になった阪神だったが意外に踏ん張っている。 バースの記者会見があった13日から借金生活に入ったものの、5月25日に5割に復帰すると、28日には貯金を3として、首位へ2.5ゲームの好位置まで迫った。しかし、これが限界だった。6月に入ると投手陣が崩れて大量失点が多くなる。バースの抜けた打線では、これを跳ね返すだけの力はなく、村山監督は次第に追い詰められてイライラをつのらせ、フロントに対しバースの帰国を促すよう要求していた。約束である6月17日が近づいてきたにもかかわらず、いつまでたっても再来日しないバースに、ファンの間からも批判の声が聞え始め、怒りの矛先は球団にも向けられた。ファミリーを優先するバースと、ビジネス優先を求める球団との溝は深まり、もはや歩み寄る余地はなかったようである。「バース問題」に決着をつけるタイミングを考えていた球団は、6月10日、布石として突如岡崎社長を解任し、見掛道夫副社長の社長就任人事を発表する。この時点でバースの解雇は決定的になったと言っていいだろう。 6月27日、ついに球団はバース解雇を決断。高田球団本部長が球場内で記者会見を開き、バースに対し契約解除を通告したと発表。バースの「家族愛」は、球団のビジネス最優先という方針とは相容れず、不幸な事態を迎えた。 バースと直接交渉に当たっていたのは古谷真吾球団代表だった。水面下では引退をほのめかす掛布の説得に当たりながら、バース問題でもファンやマスコミ対応などで心労が重なっていた。 バース解雇が決まり、代わりの助っ人ルパート・ジョーンズとも契約してこれで一段落と思った7月19日、古谷代表は東京都千代田区のホテルニューオータニで飛び降り自殺を図り死去してしまう。一連の騒動が動機なのかはわからないが、要因にはなっていたのはないかと想像される。 この訃報にはバースも掛布も「もしや自分の問題が影響して?」ととらえて大変なショックを受けたという。1987年を象徴するような悲劇だった。(24)神様バースは殿堂入り タイガースの誇りこうして、6年間(正確には5年と約1ヶ月)、阪神ファンを魅了し、かつ熱狂させ、チームを初の日本一に導いた豪打は、あっけなく過去のものになった。バックスクリーン3連発、2年連続三冠王、日本プロ野球最高打率など、数々の大記録と伝説を残し、日本シリーズでは「西武有利」という声を自らのバットで粉砕して見せた「神様バース」。彼は絶えずフォア・ザ・チームを心がけ、少々の怪我では休むことなく、ファンに夢を与え続けた。その大きな足跡は、阪神ファンの目に、心にはっきりと焼き付いている。「史上最強の助っ人」の名は、決して忘れられることはないのだろう。バースは日本とのつながりを大事にしており、引退後も1995(平成7)年から実施されているサントリー・ドリームマッチには必ず出場している。2023(令和5)年にはエキスパート部門で日本野球殿堂入り。また生まれ故郷のオクラホマ州ロートンで牧場を経営しつつ、2001(平成13)年には市会議員に当選。2004(平成16)年にはオクラホマ州議会上院議員に当選し4期務めている。 ランディ・バース[完]バースの年度別打撃成績これで全7回が終了しました 最後まで読んでくれた皆さんありがとう すごく長かったね 読み疲れた? やっぱり6年も在籍して初の日本一の中心人物だけに2代目もまとめるの苦労したよ 先代が雑多に集めた中からどのエピソードを載せるかでだいぶ違ってしまうからね 先代の書いた原稿にあわせてどんな資料や写真を選択するかも難しかったし 悲劇的な事件なんかも起きてるしね バースさんの退団騒動では古谷代表も大変だったとおもう 本当にお気の毒でしたバースさんは改めて調べてすごい選手だったんだなあと驚きました 退団の経緯がとても残念 もう少し球団もファンも寛容になれなかったのかなあ・・・ まだ昭和の時代だったからねえ 「わたくしごと」より「ご奉公」を優先するのが美徳と思われてたんだよねブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月10日
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列伝27 ランディ・バース⑥1985年にあらゆることを成し遂げたバースさんに タイガースファンが翌年も期待するのは当然ね 1986年のバースさんはいろんな記録に絡むのよ 連続三冠王は狙ってたわけじゃないだろうけど 自分のバッティングができれば数字はついてくるぐらいはおもってたんじゃないかな 他の優勝メンバーたちが冴えない中で一人チームを支えた1年になったわ (18)優勝の反動か?各選手が不調のチームは序盤Bクラス歓喜の年から明けて1986(昭和61)年、バースはスタートが良くなかった。4月中旬に腰椎の軽い捻挫や風邪で3試合を欠場するなど体調が悪く、月間ホームランは3本に終わっている。5月になって打率は上昇したが、ホームランは5月1日から22日までの16試合でわずかに1本しか出なかった。下旬になって7試合で6本の固め打ちをして、やっと本来の感触を掴んだようだ。5月31日の大洋10回戦から翌6月1日の11回戦では、試合を跨いで4打数連続本塁打のプロ野球タイ記録を達成している。阪神は優勝候補の筆頭に挙げられていたが、開幕してみるとサヨナラ負け2試合を含むいきなりの4連敗。しかも4月20日の中日3回戦で、4番の掛布が左手に死球を受けて骨折し、登録を抹消される。 このアクシデントの影響で、真弓がサード、岡田が4番に抜擢されるというしわ寄せが起こり、二人ともリズムが狂ったのか調子を落とした。阪神は5月中旬、一時5位まで転落している。(19)バースだけが6月から全開モードに、初の4割打者誕生か?バースは6月に入ると打ちまくった。20試合で猛打賞が6回、月間13本塁打29打点、6月末には打率が3割8分7厘まで達している。18日のヤクルト11回戦から始まった連続試合本塁打は、26日の巨人12回戦(後楽園)で、江川卓に22号場外ホームランを浴びせるまで続き、7試合連続のプロ野球記録に並んだ。惜しくも27日で途切れたが、気落ちする様子もなく、その翌日の28日には23号を放っている。一方、同じく6月18日から続いていた連続試合打点の記録は、途切れることなく7月に入り、4日の巨人13回戦(甲子園)でまたもや江川から25号を打ち込んで、13試合連続という驚異的なプロ野球新記録を樹立した。7月2日に4割を超えた打率は、7月9日には4割7厘まで上昇し、打点とともに他を圧倒している。ホームランも原(巨人)やゲーリー(中日)と激しく競り合いながらトップグループを形成している。バースは前半戦終了時点で、2年連続の三冠王を視野に入れるとともに、初の「4割打者」の可能性すら夢ではなくなってきた。バースの打棒が猛威を振るっていた時期の阪神は強く、6月26日から7月9日まで9連勝。首位広島へ3.5ゲーム差に迫り、連続優勝も現実味を帯びた。(20)驚異の打撃にフォアボールが急増しかし、8月に入るとバースに対する攻めが明らかに変わる。6月のバースは絶好調だったにもかかわらず、四死球は20試合で10個。7月も16試合で6個だった。ところが、8月は25試合で24個に、9月以降も26試合で28個と急増したのである。骨折の後遺症と肩痛で不調をかこっていた掛布が再び抹消され、バースの前後の打線が弱くなると、歩かされるケースが極端に増えたようだ。それでも、バースは集中力を切らすことなく、8月に10本、9月以降も11本のホームランを記録したのは立派だった。9月に本塁打王、打点王をほぼ確定したバースは、9月30日時点で3割9分4厘という高打率をキープしていた。しかし、10月の残り7試合は24打数7安打に終わったため、4割の夢は破れ、最終打率は3割8分9厘にとどまっている。 それでも、1970(昭和45)年に張本勲が記録した日本最高打率3割8分3厘4毛を、16年ぶりに更新する大記録を達成した。2000(平成12)年にイチローが3割8分7厘と迫ったが破ることはできなかった。ほぼ内野安打がないバースの記録がいかにすごいかがわかる。(21)2年連続の打撃三冠もMVP獲れず!?2年連続の三冠王達成、2つのプロ野球新記録、2つのタイ記録をマークしたわりには、バースの評価は意外に低く、セ・リーグのMVPは優勝チームの広島から、北別府が選ばれている。かつて、1964(昭和39)年、最多勝・最優秀防御率で優勝に貢献したバッキーではなく、55本塁打を記録した王がMVPに選ばれたことがあった。バースの場合も、その時の王と同様のケースと考えられるのだが、なぜ選出されなかったのか大いに疑問が残るところだろう。 2003(平成15)年のメジャーでは、ア・リーグのMVPに最下位のレンジャースからアレックス・ロドリゲスが選ばれるなど、アメリカの方がはるかに公平感がある。連続優勝を狙った阪神だったが、「死のロード」期間中に6連敗したことで、優勝争いから完全に脱落した。チームの成績不振は、吉田監督と選手との不協和音を増幅する。8月末には、男性週刊誌の対談記事の中で、バースが吉田監督を批判したとして、球団が100万円の罰金を課す事件も起こっている。 実際には取材記者との雑談で冗談のつもりで「ヨシダのバント作戦はワンパターンだ」と喋ってしまったところ記事にされたものらしい。特に他意はなく、吉田監督との関係は良好だったようだ。 最終成績は3位で、Aクラスというと聞こえはいいが、その実情は貯金をすべて吐き出して、首位からは13.5ゲームも離されていた。 ランディ・バース⑦へつづく4年目のバースさん 怪我や不振でチームメイトが軒並み低迷する中での2年連続三冠王は素晴らしいよね 多分タイガースファンもそれしか楽しみがなかったかもしれない もし4割達成してたらもっと早く殿堂入りだったかもなあブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月09日
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列伝27 ランディ・バース⑤さて前回に引き続き1985年のバースさんを追いますよ 優勝したとは言っても 楽して勝ったわけじゃないのね 何度も首位から落っこちてるし どちらかと言えば広島や巨人との三つ巴の混戦と言うべきかな そこから抜け出せたのはバースさんのおかげ では85年シーズンの後半を見ていこうね 少し長くなるよ(14)晴天の霹靂!8月12日の日航機事故で中埜社長が犠牲に8月のロードに出てから首位に返り咲き絶好調に酔いしれる阪神。しかし第3の危機は突然おとずれる。8月12日、帰省客を満載した日航ジャンボ機が墜落し、乗員乗客520名が亡くなり生存者は4名という史上最悪の飛行機事故が起こった。その犠牲者の中に、阪神球団の中埜球団社長が含まれていたのである。 「二人三脚でタイガースを再建しましょう」と手を取り合って頑張ってきた吉田監督は外出先で連絡を受け「食事の場所から次のところへ移ろうとしたときに、社長のことを聞きましてん。あわてて帰ってきました。けど、ほんまですか? 信じがたい。ほんまに事実なんですか?」と動転して記者たちに詰め寄ったという。中埜社長の告別式を弔問したタイガースの選手たちこの大事故の一報が現場にどれほどのショックを与えたのかは想像できないが、1984年オフ、吉田監督の就任と同時に球団社長に就任した中埜氏の突然の訃報はチームに暗い影をもたらしたかもしれない。 現実に阪神は翌13日から6連敗の泥沼に落ち込んでしまい、広島、巨人に次々と抜かれ、3位に転落してしまったのである。(15)最大の危機を救ったのはバース、そしてリーグ優勝!この大ピンチを救ったのは、またしてもバースだった。甲子園にもどった8月21日の大洋16回戦から25日のヤクルト18回戦にかけて4試合連続ホームラン。緊張の糸が切れそうなチームをしっかり支え、首位戦線からの脱落を土俵際で食い止めた功績は計り知れない。8月27日に首位に返り咲いた阪神は、二度とその座を明け渡すことはなかった。9月4日に山本和行がアキレス腱を断裂して戦線離脱。直後の9月7~8日の対広島2連戦が優勝への最後の試練となった。ここでもバースのバットが火を噴き、7日の21回戦で43号、8日の22回戦では44・45号を連発し、「眼下の敵」だった広島を蹴落とす。その一方で巨人が大洋に3連敗したため、あっという間に三つ巴から抜け出し、9月11日に「マジック22」が点灯した。ゴールが見えてからの阪神は着々とマジックを減らし、10月16日のヤクルト25回戦(神宮)で21年ぶりのリーグ優勝を達成、大歓声の中、吉田監督が宙を舞いタイガースファンは歓喜の涙を流した。(16)シーズン55本の本塁打日本記録に挑むバースは優勝を決めた10月16日の試合で52号を打っていたが、このとき阪神はまだ5試合を残していた。しかも翌10月17日に53号が出るに及んで、日本中が騒然となったと言っても過言ではない。1964(昭和39)年に王貞治が打ち立てた55本塁打というプロ野球記録が、完全に射程内に捉えられたからだ。10月20日の中日26回戦、バースは8回表に小松から54号2ランを放って、ついに日本タイ記録に王手をかける。ところが、残る2試合はいずれも巨人戦。しかも当時巨人の監督は記録保持者の王だったこともあって、国民的な注目が集まった。10月22日の甲子園での巨人25回戦は2打数1安打、ほかの2打席は明らかに勝負を避けた敬遠気味の四球だった。阪神ファンからは抗議のブーイングが巻き起こったが結局ホームランは出ず、バースは残された最終戦に望みをかけることになった。10月25日、注目の巨人26回戦は後楽園球場で行われた。この日の巨人投手陣は前回より露骨に勝負を避けてきた。第1打席、第2打席ともに四球。3打席目に、バットの届きそうな球を打ちにいったが、センター前ヒットが精一杯。あとの第4打席、第5打席ははっきり分かる敬遠で、残念ながら偉業は成らなかった。勝つための敬遠は作戦としてあるわけだが、記録を作らせないための敬遠は了見が狭くセコイ。決して王が命じたものではなかったと信じたいが、その後もタフィ・ローズやアレックス・カブレラが、王監督率いるダイエー・ホークスの敬遠攻めでいずれもタイ記録で終わったのを見せつけられると・・・後味の悪さが残る「黒歴史」の一つになって王のキャリアに傷を残している。最後の2試合が巨人戦だったことがバースの不運と言うほかない。ここで比較をしてみるが、王が日本記録を作ったシーズンは140試合制(王は全試合出場)だったのに対して、バースは130試合制(出場は126試合)で54本をマークしたことを考えると、実はすごい記録なのである。出場数に14試合の差があり、85年シーズンのバースなら4〜5本は追加できただろう。あと一歩で大記録を逃がしたバースだったが、打率3割5分、134打点、54本塁打という抜群の成績で、前年のブーマー・ウェルズに続く外国人選手2人目となる三冠王に輝いた。さらに、最多勝利打点・最高出塁率のタイトルも獲得し、文句なしでセ・リーグMVP、ベストナイン一塁手にも選ばれている。(17)日本シリーズでもMVP、「神様バース」の称号バースが「神様」とまで呼ばれるようになったのは、レギュラー・シーズンの成績ではなく、日本シリーズで見せた驚異的な勝負強さによるものだろう。1985年の日本一を決する西武ライオンズとの選手権は、秋たけなわの10月26日、西武球場で幕を開けた。西武・松沼博久、阪神・池田親興の先発で始まった第1戦は、緊迫した投手戦になり、7回を終わって両チーム無得点。8回表、阪神が無死一・三塁のチャンスをつくり、打席にバースを迎えたところで、広岡監督はリリーフに工藤公康を投入してきた。その5球目、バースは外寄りのカーブを読んでいたように、逆らわず左方向へはじき返すと、風に乗った打球は、決勝3ランとなってレフトスタンドに吸い込まれた。先発の池田はこの3点の援護を守りきって西武打線を完封し、阪神がシリーズの先手を取った。他のチームメイトが、シリーズ独特の雰囲気に緊張して動きが硬いなかで、「試合前から左方向へ強い風が吹いていたからね。」と左狙いを冷静に意識していたバースの「平常心」がもたらした勝利だった。バースは続く第2戦でも、攻守にわたって勝敗を左右する働きをしている。石毛宏典のソロで1点を先制された直後の4回表、一死一塁で高橋直から逆転2ラン。2-1で迎えた7回裏の一死一・三塁のピンチでは、辻のプッシュバントに素早く反応したバースは素手でボールをつかむと執念のバックホーム。 本塁を突いた三塁ランナーの秋山を、間一髪で刺して1点のリードを守るビッグプレーで阪神が2連勝する原動力になった。 歓喜の絶頂に達した阪神ファンの間で「神様・仏様・バース様」の声があがったのは、このバックホーム・タッチアウトのときだったと言われている。 第4戦以降、西武はバースのホームランを封じることには成功した。しかし、今度は緊張が解けて目覚めた阪神打線の大爆発をとめることができず、2勝2敗から第5戦・第6戦に圧勝した阪神が、4勝2敗で初の日本一を勝ち取った。1・2戦におけるバースの働きがなければ、ひょっとすると阪神の4連敗で終わっていたかもしれない。シリーズタイ記録の3試合連続ホームラン、6試合で打率3割6分8厘、9打点の成績を残したバースが、文句なしでMVPに選ばれている。 ランディ・バース⑥へつづく 1985年は凄い1年だったんだね 何度も大きな連敗があったし 社長さんの事故死 バースさん本人も剥離骨折 広島も巨人もしぶとく強かった落っこちそうになるけどチームを救うのはいつもバースさんのバット それは日本シリーズでも一緒だった すべてのタイガースファンが文句なしで選ぶMVPだよ 最多本塁打記録については腹立たしいよね 敬遠はコーチの指示だったって言われてるけど黙ってたってことは王さんも容認したわけでしょ! 本当のスポーツマンシップがあれば自らマウンドへ行って「勝負しろ」って言わなきゃ 王さんはシーズン中にもバースさんが松脂スプレーをスイートスポットにまで吹き付けてるって審判団に因縁つけたって言うじゃない 国民栄誉賞に恥じる行いはダメよ!ブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月08日
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列伝27 ランディ・バース④入団3年目を迎えたバーズさん チームの主力選手たちと同じで「今年は優勝のチャンスだ」という感触や予感を持っていたんだってね1985年は神がかり的なことがいっぱいあったし大事故もあった長いシーズンよね 2回に分けてまず85年の前半のバースさんを見ていきますね(11)オープン戦で伝説のクリーンアップが完成安藤監督だった1984(昭和59)年のバースの打順は1年を通じて5番に固定されていた。年が明けて1985(昭和60)年、吉田監督はオープン戦で3番・掛布、4番・バース、5番・岡田というオーダーを組んでいる。しかし、オープン戦で出場したすべての試合にヒットを記録したバースを見ていた吉田監督は、「3番イコール最高打者」という当時のメジャーリーグの発想に基づいて、開幕直前に掛布とバースの打順を入れ替えた。こうしてタイガースの歴史に残る3番・バース、4番・掛布、5番・岡田の最強クリーンアップが確立し、1年を通して不動のものとなった。(12)伝説のバックスリーン3連発、バースがチームの牽引車にバースは開幕から3試合目までは、13打数2安打6三振と乗り遅れていたが、4月17日の巨人2回戦での「伝説のバックスクリーン3連発」が復調のきっかけになった。巨人先発・槙原の力投の前に1対3とリードされて迎えた7回裏、二死1・2塁の場面でバースがバックスクリーンへ第1号逆転3ランを叩き込む。続く掛布、岡田も同じようにアーチをかけて追い打ちをかけると試合の雰囲気は一変し、最後は中西が1点差で守り切った。この衝撃的な3連発によって、強力打線が爆発し、あとを託されたリリーフ陣が締めくくる「85年版阪神」の典型的な必勝パターンを、ライバル球団の脳裏に強く刷り込むこむことに成功したと言えるかもしれない。バースはこの1発を皮切りにして、4月22日の中日3回戦まで5試合連続ホームラン。4月は13試合で7本塁打、打率3割9分2厘の好成績で月間MVPに選ばれた。チームも2ケタ得点が6試合もあり、9勝3敗1分と見事な開幕ダッシュに成功している。ところが、4月29日に始まった連敗が5月5日まで続き6連敗、阪神は首位を明け渡しただけでなく、一気に4位まで滑り落ちてしまった。チームにとって最初の躓きとなったが、このピンチを救ったのがバースのバットだった。5月6日の中日6回戦でバースは1回に先制の9号2ラン、3回にも2打席連続の10号ソロ、7回にはタイムリーを放つなど4安打で5打点を叩き出す大活躍でチームを引っ張る。このバースに連鎖反応を起こしたのか打線に火がつき、23安打18得点の猛攻で1試合チーム最高打率の日本新記録(5割7分5厘)を樹立して、中日投手陣を木っ端微塵にし、豪快に連敗を脱出した。(13)バース骨折のアクシデントも死のロードは5連勝スタートペナントレースは、阪神に加えて前年日本一の広島や、前評判の高かった巨人が絡んで三つ巴の展開になっていく。阪神は6月から7月にかけての対広島戦8連敗がひびいて、前半戦は広島から3ゲーム差の2位で折り返した。ここまで全試合に出場して29本塁打を記録したバースは、岡田・掛布・平田・真弓らのチームメイトと共に、ファン投票でオールスターに選出されている。後半戦開始早々、阪神にとって2度目の危機となるアクシデントがバースを襲った。7月31日の中日15回戦で自打球を右足甲に当て、剥離骨折してしまったのである。「死のロード」を目前に控えているだけに、大砲の故障が長引けば致命的な戦力ダウンになってしまう。ところが、バースはわずか4試合休んだだけで、8月6日に始まったロードの第1戦から戦列に復帰している。しかも、8日のヤクルト16回戦から11日の中日15回戦にかけては、3試合連続ホームランで周囲の不安を吹き飛ばす。 開幕前から「優勝」を意識していたバースは、痛みをこらえながら闘い続けた。そのおかげで阪神はロードに出た直後から、無傷の5連勝を記録して首位を奪還、新聞は「極楽ロード」などと書きたてた。 ランディ・バース⑤へつづく なんだか現場写真より紙面の画像が増えてきてる それだけ1985年はいろんなことがあったってことかな 伝説の3連発にまつわる秘話を生前の吉田義男さんが語ってるよ バースさんが野球殿堂入りした時に初めて明かした秘中の秘 ここに載せておくけどがホントに涙が出そうなお話なんだよ85年、バースは開幕広島戦でサウスポーの大野豊に4の0に抑えられました。同じ左の川口和久が先発だった2戦目の試合前ベンチ裏でバースが、「岡田を3番にして、おれを5番に下げてほしい」と申し出てきました。監督が選手を信頼して起用するには、我慢も必要です。相手投手の右左で外すつもりはなかったのは、バースの力を信じていたからです。その場で「お前を外すつもりはない」と突き返したのを覚えています。その3日後の4月17日、甲子園の巨人戦で生まれたのが、伝説の「バックスクリーン3連発」でした。2年目を終えた前年に球団が下した方針は解雇でしたが、わたしから残留を求めた決断は間違っていなかったと感じました。もともとは、バースと一緒に来日した外野手のスティーブ・ストローターのほうが働くと思っていました。重量バットでヘッドを利かせ、左方向に打ち返して打撃開眼したのは、バース本人の努力のたまものです。あの「バックスクリーン3連発」で、チームが勢いづいたことは間違いありません。連続3冠王も立派で、86年の打率3割8分9厘は、いまだ破られていない日本記録として輝いています。殿堂入りにふさわしく、当時を知る監督として敬意を表します。 バースさんも決して万全じゃなく悩んだり苦しい時期もあったのよ いろいろな史料を見てると常にどこかが痛い状態で試合に出てたんだって ここまで貢献してくれたら絶対優勝しなくちゃね 次回は1985年後半のバースさんですブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月07日
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列伝27 ランディ・バース③(7)優勝への布石の年となった1984年 1984(昭和59)年、安藤監督も3年目を迎えて攻撃陣の戦力に光がさしてきたとはいえ、翌年優勝する不動のオーダーが確立されていたわけではなく、いまだ再建途上の段階だった。ちなみに開幕戦のスターティングメンバーは次のとおり。岡田は足の故障が長引き、開幕当初はベンチを温めていた。スタメン復帰後の岡田は打順が6番で守備はライト。バースは開幕からファーストに落ち着いたが、打順は1年を通じて5番に固定されている。3番を打っていた真弓が1番に入ったのは7月になってから。そのときから代わって3番に入ったのは佐野。捕手はまだ木戸がレギュラーポジションを獲得していない。翌年の優勝時のオーダーとは程遠く、まだまだ試行錯誤を続けた1年だった。(8)順調な仕上がりで前半戦は絶好調のバース2年目のバースは、キャンプからオープン戦と順調に調整が進み、4月6日の開幕戦にはベストの状態で臨んでいる。7日の巨人2回戦には西本から第1号を放ち幸先よく滑り出した。4月は打率3割6厘で9打点。4本塁打というのは少し物足りないが、相変わらず好打は健在だった。5月に入ると前半の12試合で5本を量産、12日の巨人8回戦では6打点の一人舞台も演じた。5月後半に少し調子を落としてはいるが、5月末まで3割台をギリギリでキープしている。バースが「主砲」としての存在感を示したのは6月からである。3日の大洋11回戦から5日のヤクルト9回戦にかけて3試合連続ホームランするなど月間9本と爆発する。1984年のカルビー野球カード6月29日から7月1日にかけての巨人3連戦でも3試合連発を記録し、早くも20本の大台を突破する。前半戦終了時には掛布の25本、ウォーレン・クロマティ(巨人)の24本に次ぐ23本で3位につけており、ホームランキングの最有力候補になってきた。7月15日には打率も3割3分3厘に跳ね上がり、こちらもセ・リーグ第3位に急浮上している。前半戦の好成績は高い評価を受け、監督推薦でオールスター初出場も決めた。こうした数字を見ると、すでにこのシーズンの段階で三冠王の資質を十分に示していたことが分かる。(9)父親の危篤で球宴辞退、シーズン後半戦は失速ところが晴れ舞台を目前にして、かねてから心臓病を患っていたバースの父親の病状が悪化、危篤状態になったとの連絡が入る。7月20日、バースはオールスターの出場を辞退、緊急帰国を余儀なくされてしまった。バースは8月6日に父親が亡くなるまで、付ききりで看病し、葬儀などもあって再来日は8月14日だった。バース不在の間に、阪神は15試合を消化していたが、6勝9敗と負け越しており、3位の巨人からも離されつつあった。バースが復帰した8月15日以降も低迷は続き、8月24日の中日21回戦から9月6日の広島24回戦にかけて、手痛い7連敗を記録、早々とBクラスが確定してしまう。ペナントレースは、中日と広島が最後まで僅差で競り合ったが、結局広島が優勝、阪神は2年連続の4位だった。 後半戦のバースは27試合の出場にとどまり、「父親の死」による精神的な落ち込みもあってか、ホームランはわずか4本しか打てず、シーズン27本に終わっている。それでも104試合でギリギリ規定打席に到達し、打率3割2分6厘はチーム内でトップ。セ・リーグ打撃ベスト10でも4位に食い込んでいるのは流石である。(10)安藤監督が辞任、吉田義男監督が就任ペナントレースが終わると、シーズン前から不仲が伝えられていた安藤監督と藤田平の確執が表面化し、恒例のお家騒動が始まった。安藤監督は現役続行を希望する藤田に対し、引退してコーチに就任するよう求めたのだが、藤田は「まだ現役でやりたいが、あの監督とは一緒に野球ができない。退団して他球団からの誘いを待つ」とあくまで反発。球団の説得も徒労に終わり、10月6日に退団が決まった。10月12日、この騒ぎに嫌気が差したのか、今度は安藤監督が辞意を表明する。監督は「チーム再建の切り札」として5年契約しており、3年目を終えたところでの突然の申し出だった。驚いた球団側は必死に遺留したが、監督の意志を覆すことはできず、10月15日、正式に退任が発表された。困った阪神は、後任として前近鉄監督の西本幸雄に就任要請する。しかし西本はこの要請を固辞。候補はOBの吉田義男と村山実にしぼられた。10月23日、早期解決をはかりたい阪神は「オーナー裁定」で吉田に正式要請することに決定、吉田も快諾したため第23代監督就任が発表された。これに伴いフロントも一新される。田中隆造オーナーが勇退して、久万俊二郎オーナー代行が昇格。小津球団社長も辞任し、中埜肇阪神電鉄専務(次の写真)が新社長に就任することで、漸く事態を収拾した。 吉田監督の新体制のもとタイガースは再生を目指してスタートする。そして土台作りと位置付けていた1985(昭和60)に誰も予想もできなかった大フィーバーを巻き起こす。その中心にはバースがいた。 ランディ・バース④へつづく 1984年はリーグ優勝・日本一の前年に当たるんだけど この年のオフが一つの節目になったとおもうのよね 監督も球団社長も代わったことで空気も変わったのかなバースさんは1年目は奥さんのホームシック 2年目はお父さんの訃報で それぞれシーズン中に一時帰国してる なかなか野球に集中できなかったかもしれない そういう時期を乗り越えたから1985年の奇跡があったんだとおもうよブログを応援してくださる方はこちらから❤
2025年10月06日
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