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すべての女性は、イクとき、観音の顔になる。美のイデアが、現世に顕現する。
2017.03.22
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アイルランド人に生まれたらジョン・レノン あび訳もしも君がアイルランド人に生まれる定めにあったとしたら嘆き悲しみいっそ死んでしまったほうがマシだと胸をかきむしったことだろうもしも君がアイルランド人としてこの星に生きる定めにあったとしらああ イギリス人に生まれたかったと叫んだことだろうそれに思いいたらずイギリス人であることを当たり前に思ってのほほんと生きているそこのおまえ!彼ら自身の豊穣の地から追い払われた人々は千年もの年月、責めさいなまれ、飢えに苦しみ続けた美しさと 大自然の驚きに満ちた大地はイギリス人の侵略者たちに強。姦されたんだいったいなんてことなんだなんてことをしてくれたんだそんなことがあっていいのか!(もしもあなたが花のように美しい声を守り切ったら世界中にアイルランドの国の花シャムロックが咲きみだれるでしょうもしもあなたがアイルランドのせせらぎのような夢で喉を潤すなら世界は朝焼けに照り輝く山のように気高いものになるでしょう)リバプールにいた頃 僕らはその話を聞いたんだイギリス人たちがどんな風にこの大地を引き裂いたのかってことをね痛めつけ、殺戮することを、奴らは栄光に満ちた行為と呼んだんだぜそして古いアイルランドの詩人は 殺される側からそれを歌ったその歌も 僕は聴いたことがあるんだよああ、聴いてしまったんだよ(もしも私たちが朝露で首飾りを編めたなら世界はアイルランドのゴールウェイ湾のように美しく賑わうでしょうみんなでアイルランドの妖精レプロコーンのように虹を渡っていきましょう地球がひとつの大きなブラーニー・ストーンになるでしょう口づけするだけで心がつながり、誰もが友だちになれるという伝説の石のように)それにしてもおかしいじゃないかなぜイギリス人がこんなところにのさばっているんだ神の名の下に殺して殺して殺しまくった連中がよ彼らは 子どもたちとアイルランド共和国軍がぜんぶ悪いと責めを負わせている自分たちが神の側にいると言っているんだぜ虐殺したのは おまえたちの方じゃないか くそった。れそう 俺たちイギリス人が 虐殺したんじゃないのかよもしも君がアイルランド人に生まれる定めにあったとしたらもしも君がアイルランド人としてこの星に生きる定めにあったとしら嘆き悲しみいっそ死んでしまったほうがマシだと胸をかきむしったことだろうああ イギリス人に生まれたかったと叫んだことだろうああ イギリス人に生まれたかったと神を呪うだろうそれに思いいたらずイギリス人であることを当たり前に思ってのほほんと生きているそこのおまえさんよ!
2017.03.19
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一瞬の業 ジョン・レノン あび訳一瞬の業ですべてが決まるぴったりそのとおり何の嘘もなくガツンとくる自分自身と共にいたほうがいいぜもうすぐ君は死ぬっていうのに愚かなマインドで何を考えてるんだ?愛をもって笑いとばすんだこの星で何をしようとしているんだい?すべては君次第なんだぜそう君さ一瞬の業ですべてが決まる真正面から君を一撃する自分自身と共にいたほうがいいぜ、ダーリン人類の一員としてねどんな風に君は世界を見てるんだい?僕みたいなバカは笑い飛ばせこの星の上で自分自身が何者か考えるんだスーパースターそう、スーパースターは君なんだああ、皆が輝きだす月のように星のように太陽のように僕らの誰もが輝いているみんな! 一緒にやろうぜ!一瞬の業ですべてが決まる「わかった」と思った尻から足をすくわれる僕ではなく、隣の人を見るんだ君が日々出会うすべての人たちを僕たちはなぜこの世界に存在するんだ?痛みや恐怖のために生きているわけじゃないだろなぜ地球の上に君がいる?僕らは皆、地球上に自分の立ち位置ってものがあるのさだからほら、君自身の魂を分かち合うんだうあああ、皆が輝きだす月のように星のように太陽のように僕らの誰もが輝いている 来いよ 行くぜ あきらめるなこれからだ
2017.03.18
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車椅子での絵画の見方(皆にとって絵画の見方の参考になるはず)久しぶりに美術館に行って、車椅子での絵画の見方について思うところあったのでメモしてみよう。一つ目の問題は絵との距離だ。たとえば、(今回あったわけではないが)ゴッホのいくつかの絵は近づきすぎると油絵の具の跡が塗りたくってあるのが見えるだけで、うわ、激しいと思うだけである。ところが適切な距離をとって見ると、夜空に(描いてないはずの)星が無数に湧いてきたり、水面に映る街灯がゆらゆらとさざ波に揺れたりする。ところがその距離を保とうとすると、「ゴッホの絵との距離」がわかってない人々の頭が前に並んでしまい、車椅子からは絵が見えない。僕は少し立てるので立ってみることになるが、頭越しに全体が見えない。運よく人波が途切れる瞬間は、日本にゴッホの絵が来たときには、とても少ない。ゴッホを見るなら、外国か、日本なら少なくとも平日にして粘り強く人波が途切れるのを待たねばならない。これにはひとつだけ裏技があって、眼鏡をとって目を細めるなどして、こっちで勝手に目の焦点距離をあれこれ変える。運がよければ成功する。成功すれば、ゴッホのすべての絵は存在の中核にドーンとこちらを突き落とす。そして心身脱落する。二つ目だが。今回、ルノアールなど印象派の絵をたくさん見たので思ったのだけど、照明と目の高さの関係は絵の印象を全く変える。車椅子に座っていると、当然視線は低い。絵は立って見る大人を想定して展示してあるので、照明の具合がベストではない。試しに立ってみると(いざというときは後ろの車椅子に倒れることにする)、わっと絵が浮かび上がる。画家が光をどう計算したかに、やや近づくのだと思う。これでルノアールの薔薇を見たとき、薔薇の花びらが内側から万華鏡のように開きつづけるのがふわふわふわと見えた。かと思うと、実際には動いていない程度のおとなしさで、ゴッホのぶっとび感とは比較にならないが、とにかくルノアールは薔薇を描けている画家だと思った。同じようにセザンヌの果物が平面的なように見えて却って存在感を増すことの秘密は、光との関係においてしかわからないと感じた。車椅子に座ったままではこのことを見逃す。ということは、僕のように少し立てる人はいいが、立てない人には永遠にこれは見えないということになってしまう。どうしても見たければ、車椅子というものを大人の視線の位置になるように設計する必要がある。だが、そんなことをすると、他の場面で不便なことがありそうに思う。車椅子がコンパクトであることは大事なことだ。まとめると絵を見るには、絵との距離、絵を見る視線の高さのふたつの要素が大事である。これを間違うと画家の描いたものが見えないままに終わる。この両方の点において、車椅子は不利であり、今後、車椅子の構造、絵の展示の仕方の両面から研究の余地がある。
2017.03.18
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マインド・ゲームズ ジョン・レノン あび訳 僕たちは倶に 心の逍遥遊をしている...あらゆる碍たげをものともせず目覚めの種を植え心のゲリラという役回りを踊っているこの星にシャンティをもたらす 聖なるマントラを繰り返し唱え永遠の光にさしつらぬかれて煩悩の林で遊びつづけるんだよ 古代からケルトに伝わるドルイドの秘教を知るものたちは征服者たちが光をさえぎった黒い幕を持ち上げ心のゲリラとしてすべての真実を白日のもとに曝す人々はそれを聖杯を求める秘術だと呼んでいる大悲が宇宙の答なんだあなたもそれを確信しているだろう大悲が宇宙の華なんだ それが万華鏡のように開きつづけるままにまかせようそういうわけでさあ 心の逍遥遊を一緒に楽しみつづけようぜいつも 今ここ 今ここから次の瞬間が花開くと信じよう誰も心のゲリラを打ち負かすことなんかできないよどんな思考パターンともまったく異なる「遙かなる今ここ」にぶっとんじゃってるんだからそう僕らは心の逍遥遊を永遠の今ここで踊っているんだ時空の只中にイメージを描きこんで宇宙というショーを上映しているのさあるがままが宇宙の答なんだその確信は彼方からすでに届いてるだろ?あるがままというのは無限の宇宙にゆだねることなんだ不可思議なはたらきのままにすべてが展開していくにまかせようそう だから心の逍遥遊を君と一緒に演りたいんだ照りつける光のもとでサンダンスを踊ろうガンジスの砂の数ほどのマインドゲリラたちがこの星にあふれ魂のパワーでカルマの輪を回しつづけるははは 心の逍遥遊以外に何があるってんだ解脱してすっかり足を洗うかい?生きてシャンティと大悲のスピリットを昂揚させようあいしてる あいしてる あいしてる!君とおまんこしたい戦争は絶対したくないいつもいつもそれを歌ってるんだ知ってるだろ "Mind Games"We're playing those mind games togetherPushing the barriers planting seedsPlaying the mind guerrillaChanting the Mantra peace on earthWe all been playing those mind games foreverSome kinda druid dudes lifting the veilDoing the mind guerrillaSome call it magic the search for the grailLove is the answer and you know that for sureLove is a flower you got to let it growSo keep on playing those mind games togetherFaith in the future out of the nowYou just can't beat on those mind guerrillasAbsolute elsewhere in the stones of your mindYeah we're playing those mind games foreverProjecting our images in space and in timeYes is the answer and you know that for sureYes is surrender you got to let it goSo keep on playing those mind games togetherDoing the ritual dance in the sunMillions of mind guerrillasPutting their soul power to the karmic wheelKeep on playing those mind games foreverRaising the spirit of peace and love(I want you to make love, not warI know you've heard it before)
2017.03.18
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We're playing those mind games togetherPushing the barriers planting seedsPlaying the mind guerrillaChanting the Mantra peace on earthWe all been playing those mind games foreverSome kinda druid dudes lifting the veilDoing the mind guerrillaSome call it magic the search for the grailLove is the answer and you know that for sureLove is a flower you got to let it grow僕たちは倶に 心の逍遥遊をしてあらゆる碍(さま)たげを押しやり 目覚めの種を植え心のゲリラという役回りを踊っているこの星にシャンティをもたらす 聖なるマントラを繰り返し繰り返し唱えそう 僕たちは 時の果てまで無量寿光に耀いて煩悩の林で遊びつづけるんだよ 古代からケルトに伝わるドルイドの秘教を知るものたちは征服者たちが光をさえぎったベールを持ち上げ心のゲリラとしてすべての真実を白日に曝す人々はそれを聖杯を求める秘術だと呼んでいる大悲が宇宙の答なんだ あなたもそれを確信しているだろう大悲が宇宙の華なんだ それが万華鏡のように開きつづけるままにまかせよう
2017.03.17
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https://www.facebook.com/swamipremabhisheka/posts/1420083804730668?pnref=story
2017.03.16
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「ハドソン川の奇跡」DVDで見た。実話に基づく映画だが、脚本構成がとても巧みだ。ありえた失敗の悪夢からはじまり、実際の事件のシーン、少年時代、軍隊時代の飛行機への想いなど、見事に織り込まれている。時間の前後は激しいが、何の違和感も混乱もない。これは内的必然性に基づくイーストウッドの構成が巧みなのだと思った。そして真のプロフェッショナルということへのイーストウッド監督の想いが、いぶし銀のように光る映画だ。あえて言うなら、最後の審査委員会のシーンがややリアリティに欠けた。たぶんあの日までに結論は出て決着はついていたはずだが、委員会の中で大逆転する構成は、映画にするための「しょうことなし」を感じさせた。この審査委員会の進行の中にリアリティを持ち込むのは、さすがに無理か。それ以外はイーストウッド監督の円熟をこれでもかというぐらい感じた。たった200数十秒の出来事だけが、白熱シーンなのだ。アポロ13号のピンチとはそこが違う。それなのに映画全体が白熱シーンになっている。トムハンクスの演技もいい。映画のあとに実際のパイロット、サリーのインタビューが付いていた。気になったのは、彼の左目がしぼんでいたこと。娘の唇がゆがんでいたこと。サリーの妻にもどことなくストレスの痕跡を感じた。判断は正しく「ヒーロー」と確認された後も、彼らはまだこの事件の持つ意味から、よくも悪くも解放されていないのではないだろうか。インタビューの中で、軍隊をやめて民間機に移った理由として、「技能について学ぶことはもうないと思った。ここからは身だしなみなどが物を言う世界なので、自分に合わないと思い、民間に移った」と実際のサリーが言っていた。この言葉にはたくさんの真実が隠されている気がした。人殺しになる気はなかった。上官の命令に意味なく従い、階級を上げていきたいとは思わなかった。などなど。だが、頭がいいので、そんな想いを全部「身だしなみ」ぐらいの言葉に込めた感じ? こっちがそれを汲むしかない?大江健三郎が紫綬褒章を辞退したとき「燕尾服は似合わない」などと言って濁したのを思い出させる。ノーベル賞で燕尾服着てたんじゃないのー?みたいな。(^0^)今は実在のサリーは航空機の安全コンサルタントをしているという。ハドソン川の奇跡で、増した発言力を活かしているとも言っていた。ここからは余計なお世話かもしれないが、勝手に踏み込むと、サリーさん、オスプレイは危険だから全廃するべきだと言ってよと思った。もしも仮にイーストウッドがこの映画のインタビューで、サリーに「オスプレイについてはどう思いますか?」と聞いていたら、それも含めた映画の全体は、上映を弾圧されていただろうか? 映画のインタビューでは語ってなかったけど、もしかするとサリーは、オスプレイ全廃するべきという意見をちゃんと表明しているのかどうかは、調べてみないとわからない。航空機の安全に関するプロフェッショナルを自認するなら、現在のアメリカでそれをスルーしていては、真のプロフェッショナルとは言えないのではないだろうか。彼の中では、もしかしたら、プロとしての葛藤と闘いは続いているのかもしれない。それがあのストレスで縮んだような左目に現われてたのかもしれない。
2017.02.07
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https://www.youtube.com/watch?v=P4P-ijqZGx8
2017.01.26
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もし私が神だったら青春を人生の初めと終わりに二回おいただろう。一度目は探求のために。二度目は創造的遊びのために。(老体に鞭打って、創造的遊びをする日々・・・)
2017.01.22
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タコさんが、『超簡単訳 歎異抄・般若心経』のアマゾンレビューを書いてくださいました。タコさんありがとう。5つ星のうち5.0「永遠の今ここに」そして「宇宙の無限への解放」投稿者Tako2017年1月17日般若心経」と「歎異抄」では書き方のテーストがまるで違う。<般若心経>超簡単訳ではこう書かれている。「・・五つの要素の関係性がこの世界をあたかも存在しているかのように成り立たせているでも その本当の姿は空何も定まった形をもたず無限の可能性だけが潜んでいる」うん。とっても分かりやすい。そして、仏が自ら説いてきたこと自体も般若心経は「空」とぶち抜いて行く。「はじめからない十二の要素(十二縁起と名付けて説いたもの)を終わらせる必要なんかないんだただはじめからないと気づくだけでいいんだよ」たとえば、、「(11)あたかも本当に存在するかのようなこの世界に形あるものとして生まれ出る(生・しょう)ということもないだからこの苦しい世界に繰り返し生まれる(輪廻転生)ことから抜け出せるように努力することもいらないんだ(12)生まれるということから生じる(十二の要素の最後の帰結である)老いと死(老死)もないだから老いや死という苦しみから解放される必要もないんだよ」なんと!とらわれから抜け出す!解脱!とかじゃなくて、はじめからないって気づくだけ?!からみついてからみついてる執着の衣を必死の思いで脱ぎ捨てるんじゃなくって、そんなのはじめからないよってただ気づくだけ?超簡単。今すぐできる。でも難しいと思う奴には超難しい?(笑)で、ここまで言っちゃうよー。「仏教も空なのさ」いやー、気持ちいいねー!「こえていけ こえていけ こえることをこえていけ彼方の彼方 はるかなる今ここ 悟りよ おめでとう」般若心経はパラドックスに満ちている。「こえることをこえていけ」「彼方の彼方 はるかなる今ここ」このパラドックスこそが「空」の真髄かもしれない。「空」、そして「永遠の今ここに」は、今ここで簡単にたどりつくことができる。しかしそれは果てしなく遠いとも言える。長澤さん、超簡単訳ありがとう!!<歎異抄>歎異抄は、宇宙の無限の働きの世界に、煩悩まみれの我々も死してのち解放されることを説いている。この書の歎異抄を通して、宇宙の無限の摂理を感じ取ったからか、歎異抄の最後近くで泣いた。この著者の長澤氏は臨死体験によって、その解放された世界を実際に体験している。人も死して到達できるという、宇宙の無限の働きの中での解放は、わたしの場合、臨死体験はないけど、即興で歌うことや、プロセスワーク(心理学)のワーク(取り組み)を通して、生まれる前や死んだのちのことを体験していて、「ああ、そうだよね、生まれる前も、そして死んだのちも、それってあるんだよね」と感じる。八百万の神じゃないけど、人間以外の生きとし生けるものは、すんなりとそこに往けるんじゃないだろうか?そして同じく、「死」を得ることができる人間も本当は、簡単にそこに往けるのだと思う。宇宙の摂理はそうなんだけど、、ただひとり人間だけが、心配、不安、煩悩を作りだすことで、自らそれを邪魔してるかのように見える。でもさ、それでも、誰であっても、宇宙の無限の世界へ解放されることができると歎異抄は言う。だよね〜、人間だって宇宙のかけらだもん。宇宙の無限への解放が約束されている中、ひとり人間は、悩み、迷い、煩悩の迷路の中で苦しむ。これも、宇宙の多様さの中で、人に与えられた道筋なのかしら?宇宙の采配は分からねど、この迷い悩み煩悩にまみれた人間たちも含め、宇宙は抱きしめているよ。この人間たちも宇宙のかけらなのだから。死ぬ時までは現世という夢の中をさ迷おう、死して宇宙の深淵とまざるまで。そして、現世という夢の中でも、宇宙は煩悩まみれの人間を抱きしめてくれていることを思い出そう。わたしたちは、この宇宙の中にあるのだから。
2017.01.18
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はじめに 皆さんは仏教のお葬式や法事で唱えられるお経や偈文を聞いているとき、その意味を理解しておられるでしょうか。 おそらく多くの方はなんとなく有り難いものを聞かせていただいていると考えながら、実は心にその中身を受け止めないままに漠然と過ごしておられるのではないでしょうか。 せっかくの大事な内容が含まれたお経や偈文もそれではもったいないばかりです。そのような時間を少しでも充実したものに変えていただけるように、私はこの本を作ろうと思いたちました。 といっても、すべての宗派の法事に応える本を作るのは不可能です。取り上げられる経典や偈文が宗派によって随分違うからです。 この本では私自身が専門的に研究したことのある浄土真宗の法事で殆ど必ずといっていいほど唱えられる経典や偈文を取り上げました。 上段に本文を総ルビで掲載しています。お坊さんが今どの箇所を読んでいるのか一目瞭然です。 また下段には、できるだけ仏教用語に頼らず、わかりやすい訳を付しました。 私たち人間が、この星に生まれて生きて死んでいくということ。それはお釈迦さんの時代も浄土真宗の開祖と言われる親鸞聖人の時代も同じです。 訳出においては、仏教が現代に生きる私たちの生きる苦しみや歓びにけっして無関係なものではないことが伝わるように工夫しました。 これまで漠然と過ごしていた時間が、この本によって、意味のある時間として立ち上がり、少しでも仏教のそして浄土真宗の教えに触れていただくことができれば幸いです。
2017.01.16
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『浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本』あとがき私たちが無碍光(何ものにも碍たげられることのない無限の光=アミダ)を必要としている(だけ)というのは、一方的な見方だと私は思います。無碍光の方でも私たちを必要としていると考えるのです。なぜなら、そこに何らかの限界のある「光の障碍物」がなければ、私たちは光を見ることができないからです。私たちが見ることができるのは、「光源そのもの」と「光の障碍物」に反射した光だけです。何もない真空状態であれば、光は素通りするだけでそこは真っ暗闇となります。宇宙空間が真っ暗闇なのはそのためです。地上から見る空が青いのはそこには空気があり、空気の粒子が青い光を乱反射するからです。「光の障碍物」がなければ、この世は暗黒なのです。ただ光源が光を放っているが、それはどこまでも果てしなく暗闇の中を進むのみとなります。これによって了解されると思うのです。私たちが無碍光を必要としているだけではない。無碍光の方でも私たちを必要としている。私は浄土教を、この世の私たちを罪深いものとして否定する「暗い教え」だとは思いません。私たちが今ここで真に光り耀く道筋を示した教えだと感じるのです。私は仏教の往還二相を次のように表現したいと思います。往相(悟りに向かって往く姿)とは私たちが無碍光に目覚めそれに身をさらしていくプロセスです。還相(悟りをひらいた自分がこの世で周囲に光を放つこと)とは、無碍光に必要とされるままに、私たちが自分自身にしか反射できない光を反射することであると思います。私たちは皆、光の障碍物です。だからこそ、それぞれの光を放つことができるのです。
2017.01.16
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少し推敲しました恩徳讃光を照らし返して生きる歌如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし宇宙の無限の願いに照らされて粉々に砕かれた私の自我は光の中で煌めきながら私にしか結べない光景を映し出します師主知識の恩徳も骨をくだきても謝すべし宇宙の無限の願いを告げ知らせてくれたこの世で縁の深い師匠の眼差しに骨の髄まで微塵となった私の自我はその奥底からめくるめく光の万華鏡を反射します
2017.01.16
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少し推敲しました回向文宇宙の無限の働きをすべての存在に願以此功徳 (願わくは此の功徳を以て)平等施一切 (平等一切に施し)同発菩提心 (同じく菩提心を発こして)往生安楽国 (安楽国に往生せん)宇宙の限りなき働きがすべての存在へと平等にもたらされ皆が等しく、遙かなる今ここの悟りに目覚め安らぎの極まるところに羽ばたくことを心から願います
2017.01.16
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原文・超簡単訳対照讃阿弥陀仏偈和讃 第1首から第6首 愚禿親鸞作宇宙の無限のはたらきを讃える歌 第1首から第6首 愚かで罪深い禿げオヤジ親鸞作1弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり宇宙の深い願いが成就し永遠の今ここで展開している光の輪は果てしなく広がり私たちの心の暗闇を照らしている2智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし 真実明に帰命せよ深い智慧の光は無限である限界のあるすべての存在はこの光に包まれ貫かれているこの真実の光にすべてをまかせよう3解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ解放された光の輪は無限に広がり続けるその光に触れたものはすべて有限な時空を超えていくおお、あらゆるものを等しく解放する目覚めよ4光雲無碍如虚空 一切の有碍にさわりなし 光沢かぶらぬものぞなき 難思議に帰命せよ光は雲を貫き通して果てなき空に満ちわたりあらゆる有限な存在に碍げられることはないその光の恵みに浴さないものはない人間の思慮を超えたものに両手を広げ打たれよう5清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ透明で清らかな光はたぐいなきものであるこの光に巡り遇えばこそどのような深い業も変容して蝶と羽ばたく究極のよるべである宇宙の無限の働きにまかせよう6仏光照曜最第一 光炎王仏となづけたり 三塗の黒闇ひらくなり 大応供を帰命せよ宇宙の無限の光に勝る輝きはない光り燃えさかる智慧と慈悲の光と名づける苦しみと貪りに満ち、理性のない心の闇を隅々まで照らすこのすべての存在に応える光にまかせよう
2017.01.13
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六方段 あらゆる方向に無数に活きてある覚醒せしものたちしゃりほ舍利弗にょがこんしゃ如我今者さんだんあみだぶ讃歎阿彌陀佛ふかしびくどく不可思議功徳シャリホツよ。私は、限りなきもの(アミダ)による、神秘に満ちあふれた願いの成就について讃えてきた。しかし、この宇宙について言っておかなければならないことがまだある。あらゆる方向の彼方、遙かなる今ここに、無数の仏たちが活きてある。そのおのおのが無限であり、互いの中に互いを含んで融通無碍である。ああ、このめくるめく宇宙の真理を私は、述べずにはいられない。とうぼうやくう東方亦有あしゅくびぶ阿しゅくび佛しゅみそうぶ須彌相佛だいしゅみぶ大須彌佛しゅみこうぶ須彌光佛みょうおんぶ妙音佛東方の彼方、そこには、なにものにも動じないもの、聖なる山の姿をしたもの、大いなる聖山、聖なる山の輝きを放つもの、妙なる音を奏でるもの、如是等ごうがしゃしゅしょぶ恆河沙數諸佛かくおごこく各於其國そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。しゅっこうちょうぜっそう出廣長舌相へんぷさんぜんだいせんせかいへん覆三千大千世界せつじょうじつごん説誠實言それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。にょとうしゅじょう汝等衆生とうしんぜしょうさん當信是稱讃ふかしびくどく不可思議功徳いっさいしょぶ一切諸佛しょごねんぎょう所護念經「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。しゃりほ舍利弗なんぼうせかい南方世界うにちぐわっとうぶ有日月燈佛みょうもんこうぶ名聞光佛だいえんけんぶ大焔肩佛しゅみとうぶ須彌燈佛むりょうしょうじんぶ無量精進佛シャリホツよ。南方の彼方、そこには月と太陽のごとき灯りを放つもの、ほめたたえる光を放つもの、大いなる炎のかたまりなるもの、聖なる山の灯りを放つもの、限りなき精進をつづけるもの、如是等ごがしゃしゅしょぶ恆河沙數諸佛かくおごこく各於其國そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。しゅっこうちょうぜっそう出廣長舌相へんぷさんぜんだいせんせかいへん覆三千大千世界せつじょうじつごん説誠實言それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。にょとうしゅじょう汝等衆生とうしんぜしょうさん當信是稱讃ふかしぎくどく不可思議功徳いっさいしょぶ一切諸佛しょごねんぎょう所護念經「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。しゃりほ舍利弗さいほうせいかい西方世界うむりょうじゅぶ有無量壽佛むりょうそうぶ無量相佛むりょうどうぶ無量幢佛だいこうぶ大光佛だいみょうぶ大明佛ほうそうぶ寶相佛じょうこうぶ浄光佛シャリホツよ。西方の彼方、そこには限りなき命を持つもの、限りなき姿をしたもの、限りなき旗をはためかせるもの、大いなる光の存在、大いなる明るい存在、大いなる宝をもつもの、清らかな光を放つもの、にょぜとう如是等ごうがしゃしゅしょぶ恆河沙數諸佛かくおごこく各於其國そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。しゅっこうちょうぜっそう出廣長舌相へんぷさんぜんだいせんせかいへん覆三千大千世界せつじょうじつごん説誠實言それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。にょとうしゅじょう汝等衆生とうしんぜしょうさん當信是稱讃ふかしぎくどく不可思議功徳いっさいしょぶ一切諸佛しょごねんぎょう所護念經「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。しゃりほ舍利弗ほっぽうせかい北方世界うえんけんぶ有焔肩佛さいしょうおんぶ最勝音佛なんそうぶ難沮佛にっしょうぶ日生佛もうみょうぶ網明佛シャリホツよ。北の彼方、そこには肩から炎を放つもの、音をあまねく鳴り響かせるもの、襲うことが不可能なもの、太陽から生まれたもの、広く覆う網に無数の明かりを灯すもの、にょぜとう如是等ごうがしゃしゅしょぶ恆河沙數諸佛かくおごこく各於其國そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。しゅっこうちょうぜっそう出廣長舌相へんぷさんぜんだいせんせかいへん覆三千大千世界せつじょうじつごん説誠實言それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。にょとうしゅじょう汝等衆生とうしんぜしょうさん當信是稱讃ふかしぎくどく不可思議功徳いっさいしょぶ一切諸佛しょごねんぎょう所護念經「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。しゃりほ舍利弗げほうせかい下方世界うししぶ有師子佛みょうもんぶ名聞佛みょうこうぶ名光佛だつまぶ達摩佛ほうどうぶ法幢佛じほうぶ持法佛シャリホツよ、下方の彼方、そこには覚醒せしライオン、ほまれ高きもの、名声の光を放つもの、真実なる法という名のもの、真理の旗をはためかせるもの、真理を保ちつづけるもの、にょぜとう如是等ごうがしゃしゅしょぶ恆河沙數諸佛かくおごこく各於其國そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。しゅっこうちょうぜっそう出廣長舌相へんぷさんぜんだいせんせかいへん覆三千大千世界せつじょうじつごん説誠實言それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。にょとうしゅじょう汝等衆生とうしんぜしょうさん當信是稱讃ふかしぎくどく不可思議功徳いっさいしょぶ一切諸佛しょごねんぎょう所護念經「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。しゃりほ舍利弗じょうほうせかい上方世界うぼんのんぶ有梵音佛しゅくおうぶ宿王佛こうじょうぶ香上佛こうこうぶ香光佛だいえんけんぶ大焔肩佛ざっしきほうけごんしんぶ雜色寶華嚴身佛しゃらじゅおうぶ娑羅樹王佛ほうけとくぶ寶華徳佛けんいっさいぎぶ見一切義佛にょしゅみせんぶ如須彌山佛ざっしきほうけごんしんぶ雜色寶華嚴身佛しゃらじゅおうぶ娑羅樹王佛ほうけとくぶ寶華徳佛けんいっさいぎぶ見一切義佛にょしゅみせんぶ如須彌山佛シャリホツよ。上方の彼方、そこには大宇宙神の音を響かせるもの、星たちの王、この上なき香を漂わせるもの、香を光のように放つもの、大いなる炎に燃えさかるもの、色とりどりの花で飾られたもの、しゃらの樹の王、一切の意味を見てとるもの、聖なる山のごときもの、にょぜとう如是等ごうがしゃしゅしょぶ恆河沙數諸佛かくおごこく各於其國そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。しゅっこうちょうぜっそう出廣長舌相へんぷさんぜんだいせんせかいへん覆三千大千世界せつじょうじつごん説誠實言それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。にょとうしゅじょう汝等衆生とうしんぜしょうさん當信是稱讃ふかしぎくどく不可思議功徳いっさいしょぶ一切諸佛しょごねんぎょう所護念經「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。しゃりほ舍利弗おにょいうんが於汝意云何がこみょうい何故名爲いっさいしょぶ一切諸佛しょごねんぎょう所護念經シャリホツよ。あなたはどう思うか。なぜこの教えが、一切の覚醒せしものに護りぬかれる経典と名づけられているのであろうか。 しゃりほ舍利弗にゃくうぜんなんしぜんにょにん若有善男子善女人もんぜしょぶしょせつみょう聞是諸佛所説名ぎっきょうみょうしゃ及經名者 シャリホツよ。もし志ある男子、または女子がいて、この覚醒せしものたちの名を聞き、この経典の名前を聞けば、ぜしょぜんなんしぜんにょにん是諸善男子善女人かいいいっさいしょぶ皆爲一切諸佛ぐしょごねん共所護念彼らは皆、一切の覚醒せしものに護りぬかれるものとなる。かいとくふたいてん皆得不退轉おあのくたらさんみゃくさんぼだい於阿耨多羅三藐三菩提彼らは皆、この上ない完全な悟りを得てそこからもう退くことはない。ぜこしゃりほ是故舍利弗にょとうかいとう汝等皆當しんじゅがご信受我語ぎっしょぶしょせっ及諸佛諸説だからシャリホツよ。あなたたちは皆、私や無数の覚醒せしものたちが説く教えを理解し受け取りなさい。しゃりほ舍利弗にゃくうにん若有人いほつぐわん已發願こんほつがん今發願とうほつがん當發願よくしょうあみだぶっこくしゃ欲生阿彌陀佛國者シャリホツよ。もし人が、無限なるものの光の世界「安らぎの極まるところ」に生まれようと、すでに願いを起こしたか、今願いを起こすか、これから確実に願いを起こすならば、ぜしょにんとう是諸人等かいとくふたいてん皆得不退轉おあのくたらさんみゃくさんぼだい於阿耨多羅三藐三菩提これらの人たちは、皆、この上ない完全な悟りを開いてそこから退くことはない。おひこくど於彼國土にゃくいしょう若已生にゃっこんしょう若今生にゃくとうしょう若當生「安らぎの極まるところ」に、すでに生まれているか、今生まれるところなのか、疑いなく確実に生まれることになるのである。ぜこしゃりほ是故舍利弗しょぜんなんしぜんにょにん諸善男子善女人にゃくしんしゃ若有信者おうとうほつぐわん應當發願しょうひこくど生彼國土それだから、シャリホツよ。志ある男子、女子で、この教えを理解し受け止め信じる者がいるならば、「安らぎの極まるところ」に生まれようと願いを起こすべきなのである。しゃりほ舍利弗にょがこんしゃ如我今者しょうさんしょぶ稱讃諸佛ふかしぎくどく不可思議功徳シャリホツよ。すべての覚醒せしものは互いを讃え合い、映し合い、永遠の今ここで融通無碍である。私は今、六方向の彼方の「遙かなる今ここ」に活きてある覚醒せしものたちの不可思議な無限の力を讃えた。ひしょぶとう彼諸佛等やくしょうせつが亦稱説我ふかしぎくどく不可思議功徳にさぜごん而作是言同じように、彼らもまた今ここにいる私を讃えて次のように言うのである。しゃかむにぶ釋迦牟尼佛のういじんなん能爲甚難けうしじ希有之事のうおしゃばこくど能於娑婆國土ごじょくあくせ五濁惡世「釈迦は極めて困難で稀なことを成し遂げた。しかも、時空の只中の、業にからめとられた世界においてである。こうじょく劫濁天災や戦争の絶えない時代、けんじょく見濁思想が乱れ正義が弾圧され邪悪な考えがはびこる時代、ぼんのうじょく煩惱濁人々が欲にかられ自分のことだけ考えている時代、しゅじょうじょく衆生濁人間の心も体も劣化している時代、みょうじょくちゅう命濁中生命がないがしろにされ寿命が短くなっている時代、そんな時代の真っ只中においてである。とくあのくたらさんみゃくさんぼだい得阿耨多羅三藐三菩提釈迦はそんな現実世界の中で、この上ない完全な悟りを得たのである。いしょしゅじょう爲諸衆生せつぜいっさいせけん説是一切世間なんしんしほう難信之法そして、生きとし生けるもののため、世間にまみれた人々には信じがたい真理を説いたのである。」と。しゃりほ舍利弗とうちがお當知我於シャリホツよ。よく知っておいてほしい。ごじょくあくせ五濁惡世ぎょうしなんじ行之難事私は五つの汚れにまみれたこの現実世界において、そのような難しいことを成し遂げた。とくあのくたらさんみゃくさんぼだい得阿耨多羅三藐三菩提いいっさいせけん爲一切世間せっしなんしんしほう説此難信之法ぜいじんなん是爲甚難この上ない完全な悟りを開き、世の中のすべての人々のために、この真理を説いたのである。これはたいへん困難なことであった。ああ、あまりにも困難なことであった。流通分 おわりにぶっせっしきょうい佛説此經已釈迦はこの教えを説き終わった。しゃりほ舍利弗ぎっしょびく及諸比丘いっさいせけん一切世間てんにんあしゅらとう天人阿脩羅等もんぶっしょせっ聞佛所説くわんぎしんじゅ歡喜信受シャリホツ、修行僧たち、世間の一切の天人、人々、仏教の守護神たち(アシュラは、争いに明け暮れる存在とも解釈できる)、皆が、釈迦の説いた教えを聞くと、歓喜して心打たれた。さらいにこ作禮而去そして深々と礼をして立ち去った。ぶっせあみだきょう佛説阿彌陀經『お釈迦様の説いた遙かなる今ここの光景』を終わる。
2017.01.13
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「限りなきもの(アミダ)」しゃりほ舍利弗おにょいうんが於汝意云何ひぶがこ彼佛何故ごうあみだ號阿彌陀シャリホツよ、あなたはどのように理解しているのか、かの覚醒せし存在はなぜ「限りなきもの(アミダ)」と呼ばれるのか。舍利弗ひぶこうみょうむりょう彼佛光明無量しょうじっぽうこく照十方國むしょしょうげ無所障礙ぜこごういあみだ是故號爲阿彌陀シャリホツよ、かの覚醒せし存在の光明は限りなく、宇宙の隅々まで照らすのに何のさまたげもない。それだから、名づけて、「限りなきもの」というのである。うしゃりほ又舍利弗ひぶじゅみょう彼佛壽命ぎゅうごにんみん及其人民むりょうむへん無量無邊あそうぎこう阿僧祇劫こみょうあみだ故名阿彌陀またシャリホツよ、かの覚醒せし者、およびその人民は共に限りなき命を持っていて、時間を超越している。だから、「限りなきもの」と名づけるのである。しゃりほ舍利弗あみだぶ阿彌陀佛じょうぶいらい成佛已來おこんじっこう於今十劫また、シャリホツよ。無限なるものは永遠の今ここで、時空を超えた覚醒を果てしなく展開し続けているのである。又舍利弗ひぶうむりょうむへん彼佛有無量無邊しょうもんでいし聲聞弟子かいあらかん皆阿羅漢ひぜさんじゅ非是算數ししょのうち之所能知また、シャリホツよ。かの覚醒せし者には、教えを聞いて無常を悟る無数の弟子がある。皆、供養に値する者たちでその数は数え切れない。しょぼさっしゅ諸菩薩衆やくぶにょぜ亦復如是すべての人々の解放を願い続ける菩薩もまた数え切れない。自分の悟りに励む者、他者の救済を願う者は分けて考えてはならない。皆が無限なるものの光の中なのだ。しゃりほ舍利弗ひぶっこくど彼佛國土じょうしゅにょぜ成就如是くどくしょうごん功徳莊嚴「安らぎの極まるところ」はそのように宇宙の無限の願いが実現している世界なのである。うしゃりほ又舍利弗ごくらっこくど極樂國土しゅじょうしょうしゃ衆生生者かいぜあびばっち皆是阿び跋致またシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」に生まれる人々は、皆、完全な悟りを開くことが決まっていてけっして後戻りはしない存在である。ごちゅうたう其中多有いっしょうふしょ一生補處その中の多くはひとつの生涯だけ「安らぎの極まるところ」に止まる。そしてそのあと再び人間の世界に戻って人々と共に踊り、人々を解放する。ごしゅじんた其數甚多ひぜさんじゅ非是算數しょのうちし所能知之たんかいむりょうむへん但可以無量無邊あそうぎこうせっ阿僧祇劫説その数はとても多くて、数え切れない。もし数えようとすると無限の時間がかかってしまう。往生のすすめしゃりほ舍利弗しゅじょうもんしゃ衆生聞者おうとうほつぐわん應當發願ぐわんしょうひこく願生彼國シャリホツよ。人々の中にこの話を聞いた人があったならば、深い願いを起こして「安らぎの極まるところ」に生まれようと願うべきである。しょいしゃが所以者何とくよにょぜ得與如是しょじょうぜんにん諸上善人くえいっしょ倶會一處なぜかというならば、このようなすぐれた人々と同じ場所で倶に会うことができるからである。しゃりほ舍利弗ふかいしょぜんごん不可以少善根ふくとくいんねん福徳因縁とくしょうひこく得生彼國シャリホツよ。少し善いことをしたところで、徳を積んだところで、「安らぎの極まるところ」に生まれることはできない。しゃりほ舍利弗にゃくうぜんなんしぜんにょにん若有善男子善女人もんせっあみだぶ聞説阿彌陀佛しうじみょうごう執持名號シャリホツよ。ここに志ある、男子や女子がいて、無限なるものという名前を聞いて、その名前をずっと念い続けるとしよう。にゃくいちにち若一日にゃくににち若二日にゃくさんにち若三日にゃくしにち若四日にゃくごにち若五日にゃくろくにち若六日にゃくしちにち若七日いっしんふらん一心不亂あるいは一日、あるいは二日、三日、四日五日、六日、七日の間、心乱すことなく、無限なるものの名前を念い続けたとしよう。ごにんりんみょうじゅうじ其人臨命終時あみだぶ阿彌陀佛よしょしょうじゅ與諸聖衆げんざいごぜん現在其前そうすれば、その人の命が終わるとき、「限りなきもの」は、数多くの聖なる存在とともに、無限の時空を切り裂いて、まさしく目の前に迎えに来られる。ぜにんじゅじ是人終時しんぷてんどう心不顛倒そくとくおうじょう即得往生あみだぶ阿彌陀佛ごくらっこくど極樂國土その人は命が終わるとき、心乱されず、無限なるものの「安らぎの極まるところ」へ羽ばたくことを保証されている。しゃりほ舍利弗がけんぜり我見是利こせっしごん故説此言シャリホツよ。私は「限りなきもの」の名を念うことの限りなき利益(りやく)を見つめている。だからこそ、私は説こう。にゃくうしゅじょう若有衆生もんぜせっしゃ聞是説者おうとうほつぐわん應當發願しょうひこくど生彼國土「もし、あなたがこの説を聞いたなら、今ここで『安らぎの極まるところ』へ羽ばたこうと願いを起こすべきである」実はまさしくその瞬間にこそ、「安らぎの極まるところ」は「遙かなる今ここ」に開ける。
2017.01.13
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『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』『お釈迦様の説いた遙かなる今ここの光景』(原題「Sukhāvatī-vyūha」は「極楽の荘厳」であるから、「遙かなる今ここの光景」と訳す。)姚秦三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳(ようしんさんぞうほっし くまらじゅう ぶしょうやく)後秦の時代、経論律に通暁した僧侶クマラジュウが、王の命令によってサンスクリット語から中国語に訳したもの【はじめに】にょぜがもん如是我聞お釈迦様の言葉を聞いて私の心の闇が照らされ次のように光が射し込んだことを報告いたします。いちじぶつ一時佛ざいしゃえこく在舍衞國ぎじゅぎっこどくおん祇樹給孤獨園あるときお釈迦様はシャエ市の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にいました。ここは、ギダ太子の所有する園林です。ギッコドクという、孤独な人々に炊き出しの活動をしていた人が、お釈迦様に寄進した土地です。よだいびくしゅ與大比丘衆せんにひゃくごじゅうにんく千二百五十人倶そこには優れた修行僧が千二百五十人一緒にいました。かいぜだいあらかん皆是大阿羅漢しゅしょちしき衆所知識その中に、十六人の「道を歩み尽くした、供養を受けるにふさわしい者」として広く知られることになる人たちがいました。ちょうろうしゃりほ長老舍利弗順に紹介しましょう。お釈迦さんの十大弟子の中でも、智慧第一とされ、後継者とも目されていた長老のシャリホツ。まかもっけんれん摩訶目けん連シャリホツと一緒に初期の仏教教団を支えた、超能力が一番優れていたと言われるモッケンレン。まかかしょう摩訶迦葉余分なものを一切所有せず、乞食(こつじき)をして清貧の生活を貫き通すことに徹底していたカショウ。まかかせんねん摩訶迦旃延論説が最も巧みで真理を言葉で伝えることにたいへん貢献したカセンネン。まかくちら摩訶倶稀羅すべての学問を究めるまで爪を切らない誓いをたて、十数年切らなかったのでとても爪の長かったクチラ。りはだ離婆多無実の罪で牢屋につながれ、神通力で逃げられるのに業を果たすために10年間そこで禅定に励んだリハタ。しゅりはんだか周利槃陀伽知的障碍があったため仏説は理解も記憶もできなかったが、布でひたすら汚れを落とす修行で、「心もこれと同じ」と目覚めたシュウリハンダカ。なんだ難陀愛欲が強い上にイケメンだったので、欲望に溺れようとする誘惑と闘いつづけ、よく自制したナンダ。あなんだ阿難陀釈迦の教説を最も多く聞き記憶していたので、経典をまとめるときに重大な役割を果たしたアナンダ。らごら羅ご羅釈迦の実の子であり、その地位に甘んじることなく、忍耐強く戒を守り、学びを全うしたラゴラ。きょうぼんはだいきょう梵波提過去世の罪で牛に産まれたことがあり、今世でもその習慣や匂いを残し、疎外感を抱いていたキョウボンハダイ。びんづるはらだ賓頭盧頗羅堕神通力に勝れ、説法はライオンが吼えるように異論を許さぬ迫力のあったビンズルハラダ。かるだい迦留陀夷色が黒く容貌が醜いことに悩みつつ、享楽にふけっていたが、仏弟子となってからはよく修行したカルダイ。まかこんひんな摩訶劫賓那天文学や数学に優れていたコウヒンナ。はっくら薄拘羅ひとり静かに簡素な生活をし、病気知らずで長生きしたハックラ。あど(ぬ)ろう(る)だ阿ど樓駄失明した後、真理を見抜けるもう一つの目を得たとされるアドロウダ。にょぜとう如是等しょだいでいし諸大弟子このようにそれぞれの業を抱えながらそれを転じて花を咲かせた偉大な釈迦弟子たちが、この説法を聞いていたのです。びょうしょぼさまかさびょう諸菩薩摩訶薩それとともに、すべての人々を救う行を実践している菩薩たちも、一緒に説法を聞いていました。もんじゅしりほうおうじ文殊師利法王子深い智慧に満ちあふれた文殊菩薩。あいったぼさ阿逸多菩薩深い慈悲に満ちあふれたアイッタ菩薩。(信仰上、弥勒菩薩と同じとする人も多い。)けんだかだいぼさ乾陀訶提菩薩真理を香りのように風で運び、それでいて象のように力強く、険しいジャングルにでも道を開いてくれるケンダカダイ菩薩。じょうしょうじんぼさ常精進菩薩人々を利するための精進をけっして怠らない常精進菩薩。よにょぜとう與如是等しょだいぼさ諸大菩薩そのように大勢の素晴しい菩薩たち。ぎっしゃくだいくわんいんとう及釋提桓因等むりょうしょてん無量諸天さらには、ヒンドゥー教の最強の神である帝釈天をはじめ、数え切れないほどの神々もいました。だいしゅく大衆倶これらすべてのものたちが、ふだんから祇園精舎での炊き出しなどに集まっている、貧しく孤独でよるべのない多くの人々と一緒にこの説法を聞いたのです。【本文】にじぶつごう爾時佛告ちょうろうしゃりほ長老舍利弗その時お釈迦様は長老のシャリホツに告げられた。じゅうぜさいほう從是西方くわじゅうまんのくぶつど過十萬億佛土うせかい有世界みょうわごくらく名曰極樂ここから西へ彼方の彼方、遙かなる今ここに、完全に解放された世界がある。「安らぎの極まるところ」と名づけられている。ごどうぶ其土有佛ごうあみだ號阿彌陀こんげんざいせっぽう今現在説法その遙かなる場所に覚醒した存在がおられる。名前を「限りなきもの」という。「限りなきもの」は永遠なる今ここに活きて在り、真理を(言葉を超えて)説いてやまない。しゃりほ舍利弗ひどがこ彼土何故みょういごくらく名爲極樂ごこくしゅじょうシャリホツよ。なぜ、そこを「安らぎ極まるところ」と呼ぶのだろうか。ごこくしゅじょう其國衆生むうしゅく無有衆苦だんじゅしょらく但受諸樂そこにはいかなる苦しみもなく、ただ安らぎだけが満ちている。こみょうごくらく故名極樂うしゃりほ又舍利弗ごくらっこくど極樂國土だからその覚醒したものの世界を「安らぎの極まるところ」と名づけるのだ。四つの美しいつくり一 宝石の樹うしゃりほ又舍利弗ごくらっこくど極樂國土しちじゅうらんじゅん七重欄楯また、シャリホツよ。「安らぎと歓びの極まる場所」を、金・銀・瑠璃・水晶でできたアラベスク模様の欄干が、七重に巡っている。しちじゅんらもう七重羅網さらにそこには、巨大な網が七重に張り巡らされ、その網の目のひとつひとつに金・銀・瑠璃・水晶が付いている。その宝石のひとつひとつには、他のすべての宝石が映っている。その映っている宝石の中にも他のすべての宝石が映っていて、鏡の中の鏡のように無限に続く。微かな風が吹くと妙なる鈴のように宝石が鳴る。その音は心地よく響き合い、限りなく木霊していく。しちじゅうぎょうじゅ七重行樹ああ、金・銀・瑠璃・水晶の実がたわわに実った樹木が七重の並木となって、きらきらとどこまでも続いている。かいぜしほう皆是四寶しゅうそういにょう周そう圍繞そのようにすべてのものが四種の宝石で飾り巡らされ、取り囲まれている。ぜこひこく是故彼國みょうわごくらく名曰極樂これはその場所の美しさを人々の知っているものに喩えて描いたものである。本当の美しさは言葉ではとても表現できない。だからこそ、そこを「安らぎの極まる場所」と名づけるのである。二 宝池のエネルギーうしゃりほ又舍利弗ごくらっこくど極樂國土うしっぼち有七寶池またシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」には、金・銀・瑠璃・水晶・赤真珠・瑪瑙・琥珀の七つの宝石でできた池がある。はっくどくすい八功徳水じゅまんごちゅう充滿其中その池には八つの優れた性質を備えたエネルギーが満ちている。澄み渡って浄らかなるエネルギー。冷涼で爽やかなエネルギー。甘美でとろけそうなエネルギー。軽みがあって軟らかく自由自在なエネルギー。潤いがあり豊かであふれかえるエネルギー。安らぎがあって和やかな静かな充足に満ちたエネルギー。飲むと魂の飢えが癒やされるエネルギー。飲み終えて活力が増しあらゆることを可能にするエネルギー。ちていじゅんに池底純以こんしゃふぢ金沙布地池の底には目も眩むばかりの砂金が敷き詰められている。しへんかいどう四邊階道池は方形をしていて、その四つの辺には沐浴のために水面に降りる階段が設けられている。こんごんるり金銀瑠璃はりごうじょう玻り合成その階段は金・銀・瑠璃・水晶でできている。じょうろうかく上有樓閣池のほとりの階段の上には、立派な建物がそびえている。やくいこんごんるり亦以金銀瑠璃はりしゃこ玻りしゃこしゃくしゅめのう赤珠碼碯にごんじきし而嚴飾之その建物も金・銀・瑠璃・水晶・琥珀・赤真珠・瑪瑙で麗しく飾られている。ちちゅうれんげ池中蓮華だいにょしゃりん大如車輪しょうしきしょうこう池に咲く蓮の華は車輪のように大きい。青色青光おうしきおうこう黄色黄光しゃくしきしゃっこう赤色赤光びゃくしきびゃっこう白色白光青い蓮は青い光を放ち、黄色い蓮は黄色い光を放ち、赤い蓮は赤い光を放ち、白い蓮は白い光を放っている。みみょうこうけっ微妙香潔ああ、蓮の放つ妙なる光の美しさよ。風に運ばれる蓮の香りの馨しさよ。しゃりほ舍利弗ごくらっこくど極樂國土じょうじゅにょぜ成就如是くどくしょうごん功徳莊嚴シャリホツよ。「安らぎの極まるところ」では、このように、宇宙の願いによるしつらえが完成している。三 天の音楽・黄金の大地・降り注ぐ花びらうしゃりほ又舍利弗ひぶっこくど彼佛國土じょうさてんがく常作天樂またシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」では、天上の楽器が見えない手で常に奏でられ、妙なる音楽が魂に沁みいる。おうごんいぢ黄金爲地大地は黄金でできている。ちゅうやろくじ晝夜六時にうまんだらけ而雨曼陀羅華昼に三回、夜に三回、曼荼羅華という名の妙なる華が天から降りそそぎ、花びらは美しく、香りは芳しく、心は満たされる。ごこくしゅじょう其國衆生じょういしょうたん常以清旦すがすがしい朝、その国の人民は、いつもこんなことをする。かくいえこく各以衣こくじょうしゅみょうけ盛衆妙華それぞれが花皿に妙なる美しさに耀く花を盛る。くようたほう供養他方じゅうまんのくぶ十萬億佛それを持って、他の世界に住んでいる限りない数の覚醒した者たちのもとへ飛んでいく。そして花を降りそそいで祝福する。そくいじきじ即以食時げんとうほんごく還到本國ぼんじききょうぎょう飯食經行そうして朝食までには帰ってきて、食事し、散歩する。しゃりほ舍利弗ごくらっこくど極樂國土じょうじゅにょぜ成就如是くどくしょうごん功徳莊嚴シャリホツよ、「安らぎの極まるところ」では、このように宇宙の願いによる満ち足りた生活が、現に行われているのである。四 めずらしい鳥たち・そよかぜぶししゃりほ復次舍利弗ひこくじょうう彼國常有しゅじゅきみょう種種奇妙ざっしきしちょう雜色之鳥また次にシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」には、さまざまな珍しい、色とりどりの鳥がいる。びゃっこうくじゃく白鵠孔雀おうむしゃり鸚鵡舍利かりょうびんが迦陵頻伽ぐみょうしちょう共命之鳥白鳥、孔雀、オウム、鷺(さぎ)、妙なる音(こえ)で鳴く鳥、「命、命」と鳴く鳥。ぜしょしゅちょう是諸衆鳥ちゅうやろくじ晝夜六時しゅつわげおん出和雅音ごおんえんちょう其音演暢これらの鳥たちは、昼に三回、夜に三回、なごやかで麗しい音(こえ)で法を説く。鳥の音(こえ)は次のように言っている。ごこんごりき五根五力人には悟りにいたるための五つの機根が備わっている。それを大切に保持しなさい。信じるための機根。実践に励むための機根。気づき、観ているための機根。集中し、禅定に入るための機根。究極の智慧を得るための機根。そしてそれらの機根の五つの力を発揮し、修行に励みなさい。信じる力。実践に励む力。気づき、観ている力。集中し、禅定に入る力。究極の智慧を得る力。しちぼだいぶん七菩提分さらには悟りにいたる七つの行をよく修めなさい。すなわち、今ここに目覚めて気づいていること。真実を見定め、選び取ること。道を歩む努力を続けること。修行で得られる歓喜に住すること。とらわれから自由で軽やかで安らかであること。深い禅定に入ること。それらすべての行すら捨て去って解放されること。はっしょうどうぶん八聖道分さらに鳥の音(こえ)は告げている。八つの聖なる道を歩みなさいと。すなわち、正しく見ること。正しく思うこと。正しく言葉を使うこと。悪いカルマを積まないこと。正しく生活すること。正しく努力し実践していくこと。常に今ここに目覚めて気づいていること。深い禅定に入ること。にょぜとうほう如是等法ごどしゅじょう其土衆生もんぜおんに聞是音已かいしっねんぶねんぼうねんそう皆悉念佛念法念僧鳥の音(こえ)はこのような真理を広く説き述べてやまない。「安らぎの極まるところ」の人民は、鳥の囀りを聞き終えて、皆、例外なく、覚醒せしものを念(おも)い、宇宙の真理を念い、修行者の共同体を念う。しゃりほ舍利弗にょもいしちょう汝勿謂此鳥じつぜさいほうしょしょう實是罪報所生シャリホツよ。これらの鳥たちは罪悪の報いによって畜生に生まれたものと考えてはならない。しょいしゃが所以者何ひぶっこくど彼佛國土むさんまくしゅ無三惡趣なぜかというと「安らぎの極まるところ」には、輪廻の中で地獄や餓鬼や畜生に生まれた存在はいないのであるから。しゃりほ舍利弗ごぶっこくど其佛國土しょうむさんまくどうしみょう尚無三惡道之名シャリホツよ。そこには地獄・餓鬼・畜生という言葉すらない。がきょううじつ何況有實ましてや、実体があるはずもない。ぜしょしゅちょう是諸衆鳥かいぜあみだぶ皆是阿彌陀佛よくりょうほうおんせんる欲令法音宣流へんげしょさ變化所作よいか、シャリホツ。あなたが「遙かなる今ここ」の「安らぎの極まるところ」に住するとき、すべての鳥たちは、宇宙の無限の働きの真理を囀っている。ただそれを願って、鳥は囀る。ほら、耳を澄ませてごらん。すべては宇宙の無限の働きによって展開しているのだ。しゃりほ舍利弗ひぶっこくど彼佛國土みふすいどう微風吹動またシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」では、そよ風が吹く。しょほうぎょうじゅ諸寶行樹ぎっぽうらもう及寶羅網しゅつみみょうおん出微妙音宝の実る並木、無数の宝の鈴のついた網は、風に吹かれると、えもいわれぬ清々しい音を奏でる。ひじょひゃくせんじゅがく譬如百千種樂どうじくさ同時倶作百千種類の楽器が同時にそれぞれの美しい音を出し、そのすべてがひとつに調和して透明に聞こえる。もんぜおんしゃ聞是音者かいじねんしょう皆自然生ねんぶねんぽうねんそうししん念佛念法念僧之心この妙なる音楽を聴く者は皆、自(おの)ずから、覚醒せし者を念い、宇宙の真理を念い、修行者の共同体を念う心を生じる。しゃりほ舍利弗ごぶっこくど其佛國土じょうじゅにょぜ成就如是くどくしょうごん功徳莊嚴シャリホツよ。「安らぎの極まるところ」ではこのようにして宇宙の無限の願いによる理想が完全に実現しているのである。
2017.01.11
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超簡単訳讃阿弥陀仏偈和讃 1~6回向文恩徳讃三帰依文讃阿弥陀仏偈和讃 1から6宇宙の無限の働きを讃える歌 愚かで罪深い親鸞作1宇宙の深い願いが成就し永遠の今ここで展開している光の輪は果てしなく広がり私たちの心の暗闇を照らしている2深い智慧の光は無限である限界のあるすべての存在はこの光に包まれ貫かれているこの真実の光にすべてをまかせよう3解放された光の輪は無限に広がり続けるその光に触れたものはすべて有限な時空を超えていくおお、あらゆるものを等しく解放する目覚めよ4耀く雲は空に満ちわたりあらゆる有限な存在に碍げられることはないその光の慈雨に浴さないものはない人間の思慮を超えたものに両手を広げ打たれよう5透明で清らかな光はたぐいなきものであるこの光に巡り遇えばこそどのような深い業も変容して蝶と羽ばたく究極のよるべである宇宙の無限の働きにまかせよう6宇宙の無限の光に勝る輝きはない光り燃えさかる智慧と慈悲の光と名づける苦しみ、貪り、理性のない心の闇を隅々まで照らすこのすべての存在に応える光にまかせよう回向文(原文)願以此功徳 (願わくは此の功徳を以て)平等施一切 (平等一切に施し)同発菩提心 (同じく菩提心を発こして)往生安楽国 (安楽国に往生せん)無限なる宇宙の働きがすべての存在へと平等にもたらされ永遠の今ここの悟りに皆が等しく目覚め安らぎの極まるところに羽ばたくことを心から願います恩徳讃(原文)如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳も骨をくだきても謝すべし宇宙の無限の願いに照らされて粉々に砕かれた私の自我も光の中で煌めきながら私にしか結べない光景を映し出します宇宙の無限の願いを告げ知らせてくれたこの世で縁の深い師匠の眼差しに骨の髄まで微塵となった私の自我はその奥底からめくるめく光の万華鏡を放射します三帰依文(原文)Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmiDhammaṃ saraṇaṃ gacchāmiSaṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmiブッダン サラナン ガッチャーミダンマン サラナン ガッチャーミサンガン サラナン ガッチャーミ私は覚醒せし者を敬い、信頼し、すべてをゆだねます。私は大いなる真理を敬い、信頼し、すべてをゆだねます。私は道を歩む者の共同体を敬い、信頼し、すべてをゆだねます。
2017.01.07
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【次に七高僧の残した論や注釈に基づいて詩を詠みます】太陽の沈んでいく遥か西の国インドの論者たちである龍樹(りゅうじゅ)インド名 ナガールジュナ天親(てんじん)インド名 ヴァスバンドゥ続いて仏教の教えの伝わった中国の高僧である曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)善導(ぜんどう)さらにその教えの伝わった日本の源信(げんしん)法然(ほうねん)この七人の高僧たちは口をそろえて釈迦がこの世に現れた一番大事な意味を明らかにしましたそれは宇宙の無限の願いに基づく誓いを信じ身をまかせることこそ私たち煩悩まみれの人間くさい人間が完全に解放された世界に羽ばたいていくためにちょうどふさわしい道筋であることを明かすためだったのですそれを明かすためにこそ、釈迦はこの星に生まれそのことを私たちに伝えたのです龍樹(インド名 ナガールジュナ)釈迦は南インドの楞伽山(りょうがせん)での説法で集まってきた聴衆に向けて次のように予言しました「私がこの星を去って700年後南インドに龍樹という者が現れるだろう彼は有るという偏見無いという偏見その両者ともに、ことごとく打ち破るだろうすべての者が救われる空の哲学を言葉を用いて表現することに成功するだろう生きているうちに悟りを開くことが決定した境地に達し安らかで清浄な完全に解放された世界へとはばたくだろう」と。龍樹は次のように言いました「修行を積んで悟りを開こうというのは陸の道を一歩一歩自分の足で歩いていくとても苦しく長い道です宇宙の無限の働きを信じ、すべてをまかせきることは川を舟ですいすい下っていく、楽しく軽やかで容易い道です私たちを導く限界のない働きを憶い、一心に念ずるならばまさしくその瞬間に大いなる海へと必ずたどり着く川の流れの中に既に浮かんでいるあなた自身を見い出すでしょうあとはただただいつも『宇宙の無限の働きを信じまかせます』と称えてすべての者を解放しようという果てしない慈愛に感謝して遥かなる今ここへとさあ、楽しく踊っていきましょう」天親(インド名 ヴァスバンドゥ)天親は、『浄土論』を書いてその中で述べておられます「なにものにも碍たげられることがなくどこまでも行きわたる覚醒の光にすべてをおまかせしますそうです大無量寿経をよりどころに真実を顕しましょう誰もが迷いの世界をいきなり横ざまに超えていくための宇宙の根源的な誓いを私は光り輝かせすべての人たちに説き明かしましょう」このように天親菩薩は宇宙の根源的な願いが私たちのすべてを広く貫き染みわたっていることを明らかにしましたその宇宙の願いはすでに成就し私たちのすべてを完全に解放するものでありますそのことを信じる心を仏教においてただひとつ必要な「一心」であると明らかにされたのですほかには何もいりませんさらに天親菩薩は『浄土論』において言われています「悟りを開くためのあらゆる徳に満ち満ちた広大なる宝の海にこの身を投げ入れるならば死んだ後には完全に解放されることが今ここでただちに約束されます宇宙の無限の働きとともにある菩薩の仲間に必ずなることができるのですこうして死んだ後には蓮の花の美しく咲く安らかで軽やかな世界に生まれます色もなく形もない完全に解放された光空そのものを悟り、味わうこととなるのですそうなればさあ、自由で解放された境地のままに煩悩に満ち満ちた林に戻って遊びましょうすべての人の悩みを聞き届け説き明かす力をもって人々の瞳を覗き、手を握りましょう生と死、迷いに満ちた意識の中を堂々巡りするお花畑にあえて入っていってあらゆるものたちと共に歌い踊りながら解放の道へと誘っていきましょうよラララララ・・・・」曇鸞言葉の最も深い意味において真の師匠と呼ばれるべき人物こそ曇鸞です仏教を厚く保護した梁の武帝は常に曇鸞のいる方向に向かって彼を菩薩と讃えて礼拝していましたもとはといえば曇鸞は不老長寿を説く仙術の書物に親しんでいましたしかし、その曇鸞に転機がやってきました釈迦の教えを説いた経典その解釈を論じた論書僧侶の集団が守るべき規則を書いた律この三種類の聖典に通じていた菩提流支(ボーディルチ)がインドからやってきて観無量寿経を中国語訳して曇鸞に授けたのですさらに菩提流支は、天親(ヴァスバンドゥ)の「浄土論」を中国語訳して授けたのですこの出会いを通して目覚めた曇鸞は仙術の書物を炎にくべて燃やしてしまいましたそして安らかで浄らかな解放された世界に羽ばたく教えにその身を捧げたのです曇鸞は天親の書いた『浄土論』を、花を愛でるがごとく読みこみましたそしてその真意を注釈する『浄土論註』を書き著したのです『浄土論註』で曇鸞は安らかで浄らかな解放された世界の建立は宇宙の深い願いによって望まれたことを明らかにしましたまた宇宙の深い願いが成就した結果、その世界は現に永遠の今ここにあることを明らかにしたのです曇鸞は『浄土論註』の中で次のように言っています。「安らかで浄らかな解放された世界に羽ばたいていくことその世界からまた煩悩にまみれたこの世界に戻って人々を目覚めに誘うことその両方とも宇宙の無限の働きが私たちに巡ってきて私たちを突き動かすことにより、起こるのです安らかで浄らかな解放された世界に羽ばたいて、悟りを開く要因はただそのことを信じ、ゆだねることにあるのです私たちは、煩悩にまみれ、迷い続ける人間くさい人間ですでもその私たちに宇宙の無限の働きを信じる心が起こるならば生まれて生きて死んでいく煩悩まみれの世界がそのままで清浄な悟りの世界であると知るのです必ず無限の光に満ち満ちた世界に羽ばたく蝶になりあらゆる人々をあるがままに解放する存在となるのですそう約束されているのですよ!」道綽 道綽は、曇鸞を師と仰ぎ、『浄土論註』の影響を強く受けて『安楽集』を著しましたその中で、仏教が弾圧され、教えが先細りしている世の中において聖者の道を歩んで悟りを開くのはとても困難であるとはっきり断定しましたこのような時代においてはただ宇宙の無限の働きにまかせる道においてのみ煩悩まみれの人間くさい人間が解放された世界に羽ばたくことができることを解き明かしました煩悩を超えていく様々な修行を自分の努力で積んで悟りを開くことは無理だとしたのですその上で煩悩を超えていくすべての力をまどかに孕んだ「宇宙の無限の働きにまかせます」という言葉をただひたすらに称えることを勧めたのです『安楽集』で道綽は、曇鸞の『浄土論註』の信心についての教えを懇切丁寧に解き明かしました。信心で大切なのは次の三つの心です。清らかで豊かな水がさらさらと流れるような淳朴で素直な心ひたすらに宇宙の無限の働きを信頼しまかせる専一な心あるときは信じあるときは疑うというようなことがなくずっと信頼し続ける持続する心逆にいうとそれらの三つの心が失われているとき私たちはどんな闇をも破る宇宙の無限の光を受け取ることができなくなりますさらに道綽は仏教が形式化していく時代仏教が先細りして悟りを開く者がいない時代仏教が滅んでしまう時代それらすべての時代の人々を大きな慈愛でもって完全に解放された世界に導く道を示しました「一生涯悪いことばかりしてしまっていた者ですら宇宙の無限の願いに出遭い仰ぐことができたならば命が尽きるに至ったとき安らかで豊かな世界に羽ばたき深くて神妙な悟りをひらくことができるのである」とおっしゃっていたのです善導善導は『観無量寿経』を眼光紙背に透るまで読み込み釈迦の真意をただ独り明らかにしましたこうして『観経四帖疏』を著し次のようなことをつまびらかにしました宇宙の無限の働きはすべての人々に今もそして常に慈しみの光を降り注いでいます深い瞑想状態に入って修行に励む人人間社会での善い行ないに励む人仏教でけっして許されることのない深い罪を犯す者宇宙の無限の働きはそれらすべての人々を解放する道を指し示したのですそれは「宇宙の無限の働きにおまかせします」と称えることを直接的な因として宇宙の隅々に行き渡る無碍なる光を間接的な縁としてすべての者を清浄なる世界に羽ばたかせ仏の悟りを得させようというお心ですそのような宇宙の無限の働きを善導は観無量寿経の深い読みを通して誰にでもわかるように明らかにされたのですさらに善導は次のように説きました「宇宙の無限の願いに満ち満ちた光の海に目覚めこの身をまかせるならばその人は宇宙からダイアモンドよりも堅くて揺るぎない信心を与えられますそれを歓喜する心が起こったその瞬間に昔のイダイケの物語と同じことが起こります自分の犯した罪に気づかないで私はこんなに努力しているのにと思い込んでいたイダイケが目覚めた瞬間と同様に大きな転換が起こるのですすなわち宇宙の無限の願いを悟る心そのことを信じまかせ疑わない心死んだ後には必ず安らかで浄らかな世界に羽ばたくことが今ここで定まったことを喜ぶ心この三つの心を得るのですこうして色もなく形もない完全に解放された世界に放たれるのです」源信その後、浄土教は日本に受け継がれました源信は釈迦の生涯の八万四千のすべての教えを調べましたその上で『往生要集』を著しすべての人は安らかで浄らかな解放された世界に羽ばたく道を求めるべきであると勧めました源信はその著の中で宇宙の無限の働きにまかせますと専ら称える深い他力の道とそれ以外の修行をまじえる浅い自力の道を別のものとしましたもっぱら宇宙の無限の働きにまかせた人は完全に解放された世界に羽ばたきます自分の力でなんとかしようとする心の残っていた人は完全に解放された世界のほとりにある仮りに解放された世界へと導かれますそのふたつを源信ははっきりと区別したのですさらに源信は『往生要集』でこう言っています「自分の存在根拠を自分自身のうちに持たない私たちはただ宇宙の無限の働きにまかせますと称えて浄らかで完全に解放された世界に羽ばたくべきです私もまた宇宙の無限の働きに抱かれていながらどうしてもわき起こる煩悩のために眼がさえぎられてその無限の光が見えずにいますしかし宇宙の無限の働きは私がどんなに背を向け、目を覆ってしまっていても倦み疲れることなく常にそんな私を照らし続けているのです」法然私自身の生きた師匠であった法然は仏教を究め尽くした末に善悪の区別をこえて生きとし生きるものすべてを愛し解放する道を明らかにしましたこうして宇宙の深い願いに基づく教えとそれによる悟りを東の果てのこの島で光り耀かせるにいたったのです宇宙の無限の働きを信じ、まかせることを最上の教えとして選びぬかれたのです「私たちが様々な意識状態をぐるぐると周りつづけそこを住処として脱け出すことができなかったのはなぜでしょうかそれは宇宙の深い願いを疑ってきたからなのですすみやかに、安らかで完全に解放された世界に入るには宇宙の無限の働きを信じることことなのですしかもその信じる心そのものが、宇宙の無限の働きによって生じるものなのです」法然は『選択本願念仏集』でそのように「宇宙の無限の働きにまかせます」と称えることとその働きを信じることはひとつであることを示したのですまとめこのように大無量寿経の教えを広めたインドの龍樹、天親のふたりの菩薩と中国の曇鸞、道綽、善導日本の源信、法然の五人の師匠たちは果てしない迷いの世界を巡っている私たちを解放する道を明らかにしましたそれだからさあ今この同じときを生きるすべての仲間たちよ宇宙の無限の心そのものを共に自らの心としようではありませんか七人の高僧たちの説くところを信じることを通して宇宙の無限の心、それを説き明かした釈迦の心をそのまま受け取り私たち皆心ひとつになろうではありませんか
2017.01.07
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超簡単訳 正信偈【まずは、浄土三部経という我々にとって根本的な経典にもとづいて詩を詠みます】宇宙の無限の覚醒にすべてをおまかせします宇宙が誕生する前すべての可能性を宿した存在が時空を自由自在にできる力の存在のもとで以下のようなことを観察しました無数の異なる宇宙における悟った人の還る世界はどんなだろうかその世界に暮らす人々や神々の様子はどうだろうかその上で無限なるものからまた新たに時空の裂け目を産むにあたりこの上なくすぐれた願いをたてきわめて稀な誓いを起こしましたそれが私たちのこの宇宙ですその願い、その誓いとは、永遠の間熟慮した上で決定されたものですまたさらにそれをまとめてこう誓ったのです時空の隅々にまで「宇宙の無限のはたらきにまかせます」という声が沁み渡り届きますように、とああ どこまでも放たれよ無限の光 空間の果てなど知らぬ光何ものにも碍げられない光比べるものなどないその光燃えさかる力強い光清らかですべてのものを浄める光歓びに満ちあふれた光欠けることのない智慧に充ちた光常に照らし絶えることのない光人智で思いはかることなどできない光言葉で表現することなどできない光太陽や月の耀きを超えている光ああ その光はすべての星々、どんな小さな塵のひとかけらをも貫き沁み渡り生きとし生けるものを照らしだし覚醒させる宇宙の成り立ちから世界に組み込まれている願いによって「無限の宇宙のはたらきにまかせます」と称えることは時空を超えて解放された世界に帰還する正しい行いとしてあらかじめ決定されていますすべてをあるがままに見つめてごまかさず自分の存在根拠は自分の中にないからこそ無限なるものそのものを信頼し時空を超えた世界に帰還することを欲する心を持つものは必ず解放すると約束されていますそのような者が、あともどりすることのない境地をこの世で獲得し死して完全に解放された世界に帰還できるのはなぜでしょうそれは必ずそうするという宇宙によって建てられた約束はすでに成就しているからなのですそれこそが、私たちのこの宇宙だからなのです2500年前 お釈迦さんがこの世に現れたのはなぜでしょうかそれはただただ宇宙の無限の願いを人々に知らせるためなのです濁りきったこの時代に生まれ あえぎながら生きるすべての人々よ悟りをひらいた存在の語る宇宙の約束を信じ それに応えて この世界のただ中に真実の花を咲かせようではありませんか宇宙の初めから決まっていた約束を聞き届けそれを信じて喜ぶ心を起こしさえすれば煩悩にまみれたこの身このままで誰でも無条件で完全に解放された世界に還ることが決定します愚かなことばかり考える者であれ聖人君子のような人であれそんなことには無関係です仏教で最も重いとされている罪の数々を犯そうとそんなことには無関係です仏教そのものを謗って悪口を言っていた人ですらそんなことには無関係です宇宙の無限の働きがひとしくこの身を貫いて大いなる源へと還っていくならばまるで世界中の川が海にそそぎこめば同じ塩味になるようにすべての存在がひとつの光にただただ溶けいるのですすべてのものを解放しようと宇宙の放つ光は単なる物質的な光ではありませんそれは精神的な光として常に一切の存在を照らし出し護りぬいているものです私たちの心の深奥、脳幹の底の底まで闇を照らし無限の智慧が、あらゆる無知を破って燦然と光り輝くのですそれでもなお、貪り執着する心,怒り憎む心、すなわち煩悩は、雲となり、霧となって、その究極の光を覆い隠そうとしますですが、どうでしょうかそれが普通の太陽の光ならば、確かに雲や霧に覆い隠されるでしょうけれどもこのあらゆるものを碍げとしない究極の智慧の光はそんな雲や霧の下の世界にあたる煩悩に覆われた世界すらも、明るく照らし出すのですそのため、そこには闇が生まれようがないのですこのようなことを信じ、そのような光の世界がありありと現実のものとなるのを見たら敬い、喜んで踊り出さずにいられるでしょうかああ、そんな私たちは、様々な苦しい精神状態を経めぐり続けることはもうありませんいきなり横ざまにそこから脱して完全に解放された世界に一気に飛び出すのです善人であろうと悪人であろうと関係ありませんすべての人間くさい人間が宇宙の広大で深い願いを聞いてそれを信じ、身をまかせるならば釈迦はそのような人を最も深い智慧を得た優れた人と呼ぶのですまた、そのような人を煩悩まみれの泥の池に奇跡のように咲いた真っ白な蓮の花と名づけるのですああ、無限の宇宙の「すべての者を解放したい」という願いを信じて「おまかせします」と称え握りしめた手を放すことはどれほど難しいことでしょうかどうしても物事をゆがめて見てしまう私たち自分の力でなんとかしなくてはと思いあがる私たちそのためにはどんな悪どいこともしてしまう私たちそんな私たちにとってただただ宇宙の無限の願いを信じ喜ぶ心を保ち続けることはきわめて難しいことです最も容易で楽で軽やかであるはずのこのことこそ「私が」「私が」という意識をもって生きる私たちにとっては逆に難しいことの中でも最も難しいこととなってしまっているのです
2017.01.07
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訳はすべて終わりました。後は原文をフォント違いで挿入し、「はじめに」「あとがき」を付して、編集部に送ります。『浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本』目次はじめに 正信偈讃阿弥陀仏偈和讃 1~6回向文恩徳讃阿弥陀経三帰依文あとがき目次について、これも加えてほしい、これはいらない、順番を変えてほしいなどのご意見があればお願いします。
2017.01.07
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流通分 おわりに釈迦はこの教えを説き終わった。シャリホツ、修行僧たち、世間の一切の天人、人々、仏教の守護神たち、皆が、釈迦の説いた教えを聞くと、歓喜して心打たれた。そして深々と礼をして立ち去った。『お釈迦様の説いた遙かなる今ここの光景』を終わる。
2017.01.07
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シャリホツよ。あなたはどう思うか。なぜこの教えが、一切の覚醒せしものに護りぬかれる経典と名づけられているのであろうか。 シャリホツよ。もし志ある男子、または女子がいて、この覚醒せしものたちの名を聞き、この経典の名前を聞けば、彼らは皆、一切の覚醒せしものに護りぬかれるものとなる。彼らは皆、この上ない完全な悟りを得てそこからもう退くことはない。だからシャリホツよ。あなたたちは皆、私や無数の覚醒せしものたちが説く教えを理解し受け取りなさい。シャリホツよ。もし人が、無限なるものの光の世界「安らぎの極まるところ」に生まれようと、すでに願いを起こすか、今願いを起こすか、これから確実に願いを起こすならば、これらの人たちは、皆、この上ない完全な悟りを開いてそこから退くことはない。「安らぎの極まるところ」に、すでに生まれているか、今生まれるところなのか、疑いなく確実に生まれることになるのである。それだから、シャリホツよ。志ある男子、女子で、この教えを理解し受け止め信じる者がいるならば、「安らぎの極まるところ」に生まれようと願いを起こすべきなのである。シャリホツよ。すべての覚醒せしものは互いを讃え合い、映し合い、永遠の今ここで融通無碍である。私は今、六方向の彼方の「遙かなる今ここ」に活きてある覚醒せしものたちの不可思議な無限の力を讃えた。同じように、彼らもまた今ここにいる私を讃えて次のように言うのである。「釈迦は極めて困難で稀なことを成し遂げた。しかも、時空の只中の、業にからめとられた世界においてである。天災や戦争の絶えない時代、思想が乱れ正義が弾圧され邪悪な考えがはびこる時代、人々が欲にかられ自分のことだけ考えている時代、人間の心も体も劣化している時代、生命がないがしろにされ寿命が短くなっている時代、そんな時代の真っ只中においてである。釈迦はそんな現実世界の中で、この上ない完全な悟りを得たのである。そして、生きとし生けるもののため、世間にまみれた人々には信じがたい真理を説いたのである。」と。シャリホツよ。よく知っておいてほしい。私は五つの汚れにまみれたこの現実世界において、そのような難しいことを成し遂げた。この上ない完全な悟りを開き、世の中のすべての人々のために、この真理を説いたのである。これはたいへん困難なことであった。ああ、あまりにも困難なことであった。
2017.01.07
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六方段 あらゆる方向に無数に活きてある覚醒せしものたちシャリホツよ。私は、無限なるものによる、神秘に満ちあふれた願いの成就について讃えてきた。しかし、この宇宙について言っておかなければならないことがまだある。あらゆる方向の彼方、遙かなる今ここに、無数の仏たちが活きてある。そのおのおのが無限であり、互いの中に互いを含んで融通無碍である。ああ、このめくるめく宇宙の真理を私は、述べずにはいられない。東方の彼方、そこには、なにものにも動じないもの、聖なる山の姿をしたもの、大いなる聖山、聖なる山の輝きを放つもの、妙なる音を奏でるもの、そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。シャリホツよ。南方の彼方、そこには月と太陽のごとき灯りを放つもの、ほめたたえる光を放つもの、大いなる炎のかたまりなるもの、聖なる山の灯りを放つもの、限りなき精進をつづけるもの、そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。シャリホツよ。西方の彼方、そこには限りなき命を持つもの、限りなき姿をしたもの、限りなき旗をはためかせるもの、大いなる光の存在、大いなる明るい存在、大いなる宝をもつもの、清らかな光を放つもの、そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。シャリホツよ。北の彼方、そこには肩から炎を放つもの、音をあまねく鳴り響かせるもの、襲うことが不可能なもの、太陽から生まれたもの、広く覆う網に無数の明かりを灯すもの、そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。シャリホツよ、下方の彼方、そこには覚醒せしライオン、ほまれ高きもの、名声の光を放つもの、真実なる法という名のもの、真理の旗をはためかせるもの、真理を保ちつづけるもの、そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。シャリホツよ。上方の彼方、そこには大宇宙神の音を響かせるもの、星たちの王、この上なき香を漂わせるもの、香を光のように放つもの、大いなる炎に燃えさかるもの、そのように呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの覚醒せし存在が、今、活きて踊りつづけている。それぞれ嘘のない広くて長い舌をもって、大宇宙を覆い、真実を説き続けている。「すべての者たちよ。宇宙の不可思議な力を讃え、一切の覚醒せし存在に護りぬかれる世界を説く、この教えを信じなさい」と。
2017.01.07
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藤田宏達の『原始浄土思想の研究』は、六方段は、仏名経が阿弥陀経に切り貼りされたのではないかという説だそうだ。そうだとしたら、阿弥陀経における、六方段に対する僕のしっくりしなさはかなり正当な気がする。まあ、尤も切り貼りしたにしても、したかった理由が、しっくりきたらいいんだけど。この説では西方における無量寿仏と阿弥陀の重複も、切り貼りの名残ということになる。そうか、切り貼りなのかと思って改めて読むと、岩波文庫の書き下しは勝手に東方でも「阿弥陀仏の」功徳を賞賛するというように、「阿弥陀仏」という言葉を補っているけど、漢文には阿弥陀仏と書いてない。六方世界はそれぞれ一切諸仏の功徳を称賛しているだけで、皆が阿弥陀仏を称賛しているのではない。対等だ。梵文和訳にも阿弥陀仏の功徳を称賛しているとは書いてない。六つの世界は対等だ。これは切り貼りだとすると納得いく。が、ふだんの浄土教の法話とずれるのではないのか。いずれにしろ、諸仏の功徳という考え方と、阿弥陀の無限の功徳という考え方は次元を異にするように思う。僕は後者の方が浄土教の成熟した段階に思えるのだが・・・。初めからたぶんここが難所だと思っていたけど、やっぱりそうか。
2017.01.06
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『ソフィーの選択』DVD見た。ナチスの暴政吹き荒れる中、母としてソフィーがとった究極の選択とは。その告白をクライマックスにもってきたよくできた映画。分厚い本のベストセラー、読んでないけど見たことあった気がする。とても重いテーマだが、敢て言う。この映画はぎりぎり見るに耐えるようにつくられている。確かにぎりぎりだ。だが、見るに耐える。おそらく、今現に世界で実際に起り続けていることの方が、もっと見るに耐えない。追記ソフィーの選択とはむしろネイサンという精神障碍の男と一緒に死ぬラストシーンかも。娘の死は選択というより不可抗力やから。しかし、最後の選択も不可抗力といえば不可抗力。そしてこんな風に典型的な形でなくても、すべては選択でもあり不可抗力でもある。絶対他力を描いたと言えなくもない。
2017.01.06
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往生のすすめ人々の中にこの話を聞いた人があったならば、深い願いを起こして「安らぎの極まるところ」に生まれようと願うべきである。なぜかというならば、このようなすぐれた人々と同じ場所で倶に会うことができるからである。シャリホツよ。少し善いことをしたところで、徳を積んだところで、「安らぎの極まるところ」に生まれることはできない。シャリホツよ。ここに志ある、男子や女子がいて、無限なるものという名前を聞いて、その名前をずっと念い続けるとしよう。あるいは一日、あるいは二日、三日、四日五日、六日、七日の間、心乱すことなく、無限なるものの名前を念い続けたとしよう。そうすれば、その人の命が終わるとき、無限なるものは、数多くの聖なる存在とともに、無限の時空を切り裂いて、まさしく目の前に迎えに来られる。その人は命が終わるとき、心乱されず、無限なるものの「安らぎの極まるところ」へ羽ばたくことを保証されている。シャリホツよ。私は無限なるものの名を念うことの限りなき利益(りやく)を見つめている。だからこそ、私は説こう。「もし、あなたがこの説を聞いたなら、今ここで『安らぎの極まるところ』へ羽ばたこうと願いを起こすべきである」実はまさしくその瞬間にこそ、「安らぎの極まるところ」は「遙かなる今ここ」に開ける。
2017.01.04
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超簡単訳 阿弥陀経。阿弥陀と聖衆たちのところをまとめます。ここまでが極楽に生まれたいと思わせる部分で、ここから生まれるにはどうしたらいいのかのお薦めに移ります。無限なるものシャリホツよ、あなたはどのように理解しているのか、かの覚醒せし存在はなぜ無限なるものと呼ばれるのか。シャリホツよ、かの覚醒せし存在の光明は限りなく、宇宙の隅々まで照らすのに何のさまたげもない。それだから、名づけて、無限なるものというのである。またシャリホツよ、かの覚醒せし者、およびその人民は共に限りなき命を持っていて、時間を超越している。だから、無限なるものと名づけるのである。無限なるものは永遠の今ここで、時空を超えた覚醒を果てしなく展開し続けているのである。また、シャリホツよ。かの覚醒せし者には、教えを聞いて無常を悟る無数の弟子がある。皆、供養に値する者たちでその数は数え切れない。すべての人々の解放を願い続ける菩薩もまた数え切れない。自分の悟りに励む者、他者の救済を願う者は分けて考えてはならない。皆が無限なるものの光の中なのだ。「安らぎの極まるところ」はそのように宇宙の無限の願いが実現している世界なのである。またシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」に生まれる人々は、皆、完全な悟りを開くことが決まっていてけっして後戻りはしない存在である。その中の多くはひとつの生涯だけ「安らぎの極まるところ」に止まる。そしてそのあと再び人間の世界に戻って人々と共に踊り、人々を解放する。その数はとても多くて、数え切れない。もし数えようとすると無限の時間がかかってしまう。
2017.01.04
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またシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」では、そよ風が吹く。宝の実る並木、無数の宝の鈴のついた網は、風に吹かれると、えもいわれぬ清々しい音を奏でる。百千種類の楽器が同時にそれぞれの美しい音を出し、そのすべてがひとつに調和して透明に聞こえる。この妙なる音楽を聴く者は皆、自(おの)ずから、覚醒せし者を念い、宇宙の真理を念い、修行者の共同体を念う心を生じる。シャリホツよ。「安らぎの極まるところ」ではこのようにして宇宙の無限の願いによる理想が完全に実現しているのである。
2016.12.31
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めずらしい鳥たちまた次にシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」には、さまざまな珍しい、色とりどりの鳥がいる。白鳥、孔雀、オウム、鷺(さぎ)、妙なる音(こえ)で鳴く鳥、「命、命」と鳴く鳥。これらの鳥たちは、昼に三回、夜に三回、なごやかで麗しい音(こえ)で法を説く。鳥の音(こえ)は次のように言っている。人には悟りにいたるための五つの機根が備わっている。それを大切に保持しなさい。信じるための機根。実践に励むための機根。気づき、観ているための機根。集中し、禅定に入るための機根。究極の智慧を得るための機根。そしてそれらの機根の五つの力を発揮し、修行に励みなさい。信じる力。実践に励む力。気づき、観ている力。集中し、禅定に入る力。究極の智慧を得る力。さらには悟りにいたる七つの行をよく修めなさい。すなわち、今ここに目覚めて気づいていること。真実を見定め、選び取ること。道を歩む努力を続けること。修行で得られる歓喜に住すること。とらわれから自由で軽やかで安らかであること。深い禅定に入ること。それらすべての行すら捨て去って解放されること。さらに鳥の音(こえ)は告げている。八つの聖なる道を歩みなさいと。すなわち、正しく見ること。正しく思うこと。正しく言葉を使うこと。悪いカルマを積まないこと。正しく生活すること。正しく努力し実践していくこと。常に今ここに目覚めて気づいていること。深い禅定に入ること。鳥の音(こえ)はこのような真理を広く説き述べてやまない。「安らぎの極まるところ」の人民は、鳥の囀りを聞き終えて、皆、例外なく、覚醒せしものを念(おも)い、宇宙の真理を念い、修行者の共同体を念う。シャリホツよ。これらの鳥たちは罪悪の報いによって畜生に生まれたものと考えてはならない。なぜかというと「安らぎの極まるところ」には、輪廻の中で地獄や餓鬼や畜生に生まれた存在はいないのであるから。シャリホツよ。そこには地獄・餓鬼・畜生という言葉すらない。ましてや、実体があるはずもない。よいか、シャリホツ。あなたが「遙かなる今ここ」の「安らぎの極まるところ」に住するとき、すべての鳥たちは、宇宙の無限の働きの真理を囀っている。ただそれを願って、鳥は囀る。ほら、耳を澄ませてごらん。すべては宇宙の無限の働きによって展開しているのだ。
2016.12.31
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三 天の音楽・黄金の大地・降り注ぐ花びらまたシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」では、天上の楽器が見えない手で常に奏でられ、妙なる音楽が魂に沁みいる。大地は黄金でできている。昼に三回、夜に三回、曼荼羅華という名の妙なる華が天から降りそそぎ、花びらは美しく、香りは芳しく、心は満たされる。すがすがしい朝、その国の人民は、いつもこんなことをする。それぞれが花皿に妙なる美しさに耀く花を盛る。それを持って、他の世界に住んでいる限りない数の覚醒した者たちのもとへ飛んでいく。そして花を降りそそいで祝福する。そうして朝食までには帰ってきて、食事し、散歩する。シャリホツよ、「安らぎの極まるところ」では、このように宇宙の願いによる満ち足りた生活が、現に行われているのである。
2016.12.31
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二 宝池のエネルギーまたシャリホツよ。「安らぎの極まるところ」には、金・銀・瑠璃・水晶・赤真珠・瑪瑙・琥珀の七つの宝石でできた池がある。その池には八つの優れた性質を備えたエネルギーが満ちている。澄み渡って浄らかなるエネルギー。冷涼で爽やかなエネルギー。甘美でとろけそうなエネルギー。軽みがあって軟らかく自由自在なエネルギー。潤いがあり豊かであふれかえるエネルギー。安らぎがあって和やかな静かな充足に満ちたエネルギー。飲むと魂の飢えが癒やされるエネルギー。飲み終えて活力が増しあらゆることを可能にするエネルギー。池の底には目も眩むばかりの砂金が敷き詰められている。池は方形をしていて、その四つの辺には沐浴のために水面に降りる階段が設けられている。その階段は金・銀・瑠璃・水晶でできている。池のほとりの階段の上には、立派な建物がそびえている。その建物も金・銀・瑠璃・水晶・琥珀・赤真珠・瑪瑙で麗しく飾られている。池に咲く蓮の華は車輪のように大きい。青い蓮は青い光を放ち、黄色い蓮は黄色い光を放ち、赤い蓮は赤い光を放ち、白い蓮は白い光を放っている。ああ、蓮の放つ妙なる光の美しさよ。風に運ばれる蓮の香りの馨しさよ。シャリホツよ。「安らぎの極まるところ」では、このように、宇宙の願いによるしつらえが完成している。
2016.12.28
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超簡単訳 阿弥陀経 正宗分四荘厳の一 宝樹の荘厳 までをまとめます。本文その時お釈迦様は長老のシャリホツに告げられた。ここから西へ無数の銀河系の彼方に完全に解放された世界がある。「安らぎと歓びの極まる場所」と名づけられている。その遙かなる場所に覚醒した存在がおられる。名前を「限りなきもの」という。「限りなきもの」は永遠なる今ここに活きて在り、真理を(言葉を超えて)説いてやまない。シャリホツよ。なぜ、そこを「安らぎと歓びの極まる場所」と呼ぶのだと思う?そこにはいかなる苦しみもなく、ただ安らぎと歓びだけが満ちている。だからその覚醒したものの世界を「安らぎと歓びの極まる場所」と名づけるのだ。四つの美しいつくり一 宝石の樹また、シャリホツよ。「安らぎと歓びの極まる場所」を、金・銀・瑠璃・水晶でできたアラベスク模様の欄干が、七重に巡っている。さらにそこには、巨大な網が七重に張り巡らされ、その網の目のひとつひとつに金・銀・瑠璃・水晶が付いている。その宝石のひとつひとつには、他のすべての宝石が映っている。その映っている宝石の中にも他のすべての宝石が映っていて、鏡の中の鏡のように無限に続く。微かな風が吹くと妙なる鈴のように宝石が鳴る。その音は心地よく響き合い、限りなく木霊していく。ああ、金・銀・瑠璃・水晶の実がたわわに実った樹木が七重の並木となって、きらきらとどこまでも続いている。これはその場所の美しさを人々の知っているものに喩えて描いたものである。本当の美しさは言葉ではとても表現できない。だからこそ、そこを「安らぎと歓びの極まる場所」と名づけるのである。
2016.12.25
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少し改訳したので、序分を改めて全部掲載します。仏説 阿弥陀経『お釈迦様の説いた遙かなる今ここの光景』(原題「Sukhāvatī-vyūha」は「極楽の荘厳」であるから、「遙かなる今ここの光景」と訳す。)後秦の時代、経論律に通暁した僧侶クマラジュウが、王の命令によってサンスクリット語から中国語に訳したものはじめにお釈迦様の言葉を聞いて私の心の闇が照らされ次のように光が射し込んだことを報告いたします。(如是我聞(にょぜがもん)=「私はこのように聞きました」の真意をそう訳す。)あるときお釈迦様はシャエ市の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にいました。ここは、ギダ太子の所有する園林です。ギッコドクという、孤独な人々に炊き出しの活動をしていた人が、お釈迦様に寄進した土地です。そこには優れた修行僧が1250人一緒にいました。その中に、十六人の「道を歩み尽くした、供養を受けるにふさわしい者」として広く知られることになる人たちがいました。順に紹介しましょう。お釈迦さんの十大弟子の中でも、智慧第一とされ、後継者とも目されていた長老のシャリホツ。シャリホツと一緒に初期の仏教教団を支えた、超能力が一番優れていたと言われるモッケンレン。余分なものを一切所有せず、乞食(こつじき)をして清貧の生活を貫き通すことに徹底していたカショウ。論説が最も巧みで真理を言葉で伝えることにたいへん貢献したカセンネン。すべての学問を究めるまで爪を切らない誓いをたて、十数年切らなかったのでとても爪の長かったクチラ。無実の罪で牢屋につながれ、神通力で逃げられるのに業を果たすために10年間そこで禅定に励んだリハタ。知的障碍があったため仏説は理解も記憶もできなかったが、布でひたすら汚れを落とす修行で、「心もこれと同じ」と目覚めたシュウリハンドク。愛欲が強い上にイケメンだったので、欲望に溺れようとする誘惑と闘いつづけ、よく自制したナンダ。釈迦の教説を最も多く聞き記憶していたので、経典をまとめるときに重大な役割を果たしたアーナンダ。釈迦の実の子であり、その地位に甘んじることなく、忍耐強く戒を守り、学びを全うしたラゴラ。過去世の罪で牛に産まれたことがあり、今世でもその習慣や匂いを残し、疎外感を抱いていたキョウボンハダイ。神通力に勝れ、説法はライオンが吼えるように異論を許さぬ迫力のあったビンズルハラダ。色が黒く容貌が醜いことに悩みつつ、享楽にふけっていたが、仏弟子となってからはよく修行したカルダイ。天文学や数学に優れていたコウヒンナ。ひとり静かに簡素な生活をし、病気知らずで長生きしたハックラ。失明した後、真理を見抜けるもう一つの目を得たとされるアヌルダ。このようにそれぞれの業を抱えながらそれを転じて花を咲かせた偉大な釈迦弟子たちが、この説法を聞いていたのです。それとともに、すべての人々を救う行を実践している菩薩たちも、一緒に説法を聞いていました。深い智慧に満ちあふれた文殊菩薩。深い慈悲に満ちあふれた弥勒菩薩。(アイッタ菩薩)真理を香りのように風で運び、それでいて象のように力強く、険しいジャングルにでも道を開いてくれるケンダカダイ菩薩。人々を利するための精進をけっして怠らない常精進菩薩。さらには、ヒンドゥー教の最強の神である帝釈天をはじめ、数え切れないほどの神々もいました。これらすべてのものたちが、ふだんから祇園精舎での炊き出しなどに集まっている、貧しく孤独でよるべのない多くの人々と一緒にこの説法を聞いたのです。
2016.12.24
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その中に16羅漢(らかん)と呼ばれる人たちがいました。彼らは皆、道を歩みつくし、もう学ぶことの残らない境地に達した存在でした。供養を受けるにふさわしい者として人々によく知られていました。お釈迦さんの十大弟子の中でも、智慧第一とされ、後継者とも目されていた長老のシャリホツ。シャリホツと一緒に初期の仏教教団を支えた、超能力が一番優れていたと言われるモッケンレン。余分なものを一切所有せず、乞食(こつじき)をして清貧の生活を貫き通すことに徹底していたカショウ。論説が最も巧みで真理を言葉で伝えることにたいへん貢献したカセンネン。(釈迦の十大弟子は、釈迦の徳を分かち持つ。自分が目指すはどのタイプか、考えてみるのもおもしろい。)
2016.12.23
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仏説 阿弥陀経『お釈迦様の説いた遙かなる今ここの光景』(原題「Sukhāvatī-vyūha」は「極楽の荘厳」であるから、「遙かなる今ここの光景」と訳す。)後秦の時代、経論律に通暁した僧侶クマラジュウが、王の命令によってサンスクリット語から中国語に訳したものはじめにお釈迦様の言葉を聞いて私の心の闇が照らされ次のように光が射し込んだことを報告いたします。(如是我聞(にょぜがもん)=「私はこのように聞きました」の真意をそう訳す。)あるときお釈迦様はシャエ市の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)にいました。ここは、ギダ太子の所有する園林です。ギッコドクという、孤独な人々に炊き出しの活動をしていた人が、お釈迦様に寄進した土地です。そこには優れた修行僧が1250人一緒にいました。
2016.12.23
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オスプレイ 石川さゆり隠しきれない欠陥がいつしかうやむや再飛行日本政治が変わらぬなら独立してもいいですか墜落して着水とごまかされ感謝しろ舞い上がり揺れ落ちるいつか街中民家が燃える何があってもおかしくないくらくら燃える火にまかれあなたはいらないオスプーーーーーーーーレーーーーーーイイーーーー口を開けば中国が危ない国だと垂れ流すアジアの平和は難しいけどアメリカ絡むほどややこしい本当にほしいのは日本のお金でしょ恨むなら欧米の列強でしょアジアが燃える侵略したのごめんなさいアジアはこれから仲良くねあなたはいらないオスプーーーーーーーーレーーーーーーイイーーーーhttps://www.youtube.com/watch?v=v51Ny-AqIzw
2016.12.20
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宇宙の無限の働きを讃える歌 愚かで罪深い親鸞作1宇宙の深い願いが成就し永遠の今ここで展開している光の輪は果てしなく広がり私たちの心の暗闇を照らしている2深い智慧の光は無限である限界のあるすべての存在はこの光に包まれ貫かれているこの真実の光にすべてをまかせよう3解放された光の輪は無限に広がり続けるその光に触れたものはすべて有限な時空を超えていくおお、あらゆるものを等しく解放する目覚めよ
2016.12.20
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私は、仏教のことはほとんどわかりませんが、臨死体験への関心から読ませていただきました。 私は、今から16年前、吐血し樟葉のK病院に入院したのですが、胃潰瘍による出血が止まらず、心拍停止の状態に陥り、後で家族に聞いた話ですが、医院長が馬乗りになり、私の心臓をバンバン叩いたそうです。 次に目覚めた時は傍らに白衣の看護師さんが立っておられ、ココどこですか?と尋ねたところ高槻のM救命救急センターです。と答えられました。 その間5日間生死の境をさまよったようです。 その5日間で体感したことは、著者が本書16頁で述べられている覚醒だけのその世界で、まさに私という意識はありませんでした。 その5日間で学んだのか、その後認識したのかは定かではありませんが、完全に理解したことがあります。 それは117頁で書かれている空とは世界がそこに実態として存在するのではない・・・ これを読んだ瞬間ドキッとしました。 絶対に人には理解できない感覚なので、しゃべったことはないのですが、そもそもあの世もこの世もなく自分自身が宇宙そのものであり、俗に言うこの世は完全にバーチャルな世界で実態はありません。 人々がバーチャルな世界を体感している理由は、はっきりと理解しています。 その理由は意識だけの世界はあまりにも退屈なので、この世と言う現実を作り出しているだけです。 そこにはムドラーもマントラも南無阿弥陀仏も一切不要です・・・。
2016.12.18
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5つ星のうち5.0ホンマに超簡単投稿者Amazon カスタマー買いました。大学時代のサークルの先輩の著書。超簡単訳歎異抄、読んでてなぜだか涙が出てきた。どこが良かったとか、どこに感動したとか、そういうことではなくて、長澤さんの、歩みに涙した。ほんまに超簡単訳。みんな、是非読んで。仏教の勉強をした人は、びっくりすると思う。仏教の勉強をしたことがない人もびっくりすると思う。最初、11ページの「永遠の今」と、芭蕉の発句との対比。この静寂感をニルヴァーナにも似た境地の片鱗と表現したことに、なぜか涙が出てきました。26ページから、13条の「ともがら」についての記述が出てきます。私は、1990年から、2009年まで、青森県弘前市で、過ごしました。弘前市には、最勝院という真言宗のお寺があり、最北の五重塔があることで、観光地としても人気があります。けれども、真言宗の開祖空海が、陸奥に赴任する役人に対して、彼の地は、未開の蝦夷の土地であり、そこにいるのは非人であるという手紙を送っていることを知り、当時大谷大学の助教授だった当時の連れ合いと、その後にPTA仲間となった最勝院の住職に、そのことについてどう考えるか問うてみました。どちらも詳細は覚えていませんが、落胆を禁じ得ないものでした。28ページから29ページにかけて、親鸞は、この国ではあらゆる仏教によって蔑まれてきたこの島のネイティブピープルこそ「ともがら」と呼びかけている、そこに注目して訳すべきである、ということが書かれています。このことは、被差別民衆の目で親鸞を読んだ河田光男氏もそうですが、『魂の螺旋ダンス』に描かれるように、ネイティブピープルの宗教観に深い理解を持つ長澤さんだからこそ、と感じました。49ページには、いわゆる悪人正機を「自分の力で自己解放が可能だと思っている人すら解放される。ましてや、宇宙の無限の働きにひたすら身をまかせようという人であればなおさら、今ここにおいて完全に解放されるのだ」と訳しています。この広大な無碍の表現に、圧倒され、長澤さんの遍歴にも似た彷徨が、紛うことない一筋の白道であると感じました。こんな深いことを、こんなに簡単に表現できるなんて。みんな、買ってね。
2016.12.18
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風に吹かれて Bob Dylan 長澤靖浩訳少年は一人前の男と認められるためにどれだけの道のりを歩みつくさなければならないのだろうか白い鳩は砂浜でやすらぐまでにいくつの海を越えて飛ばなければならないのだろうか砲弾はあとどれぐらい人々の頭の上に降り注がなければならないのだろうかけっして命を吹き飛ばさないようになるまでにその答は、友よ、風に吹かれている答は風に舞ってはためいている男は何度首をもたげたら青い空を見ることができるのだろうか支配者であるあいつにいったいいくつの耳をつけてやったらみんなの泣き叫ぶ声が奴にも届くのだろうか「もうたくさんだ、あまりにもたくさんの人が惨殺された」と目覚めるためにあとどれほどの命が踏みにじられなければならないのかその答は、友よ、風に吹かれている答は風に舞ってはためいているああ山は海へと押し流される日まであとどれぐらい存在し続けることができるのだろうか本当の自由が認められるまで差別されし者たちは生き存えることができるのだろうか人は真実が見えないふりをするためにどこまで目をそむけ続けることができるのだろうかその答は、友よ、風に吹かれている答はいつまでもただ風に舞っている・・・動画https://www.youtube.com/watch?v=vWwgrjjIMXA註動画は二番と三番が逆。あびの出典は、「ボブ・ディラン全詩集」晶文社1974年。順番を入れ替えるか迷ったが、詩として、この形の方が優れていると思ったので、このままにする。つまり「もうたくさんだ、あまりにもたくさんの人が惨殺された」と目覚めるためにあとどれほどの命が踏みにじられなければならないのかよりも人は真実が見えないふりをするためにどこまで目をそむけ続けることができるのだろうかの方がラストに持ってくるべき、より根源的な問いだとあびは思うということ。
2016.12.16
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物理学者が時間は存在しない、幻想であると言ったという記事のリンクをした。臨死体験とつながると書いた。理解できないという書き込みがあったので、あびが書いたコメントをコピペしておきます。人間の脳の構造が定まっているため、できることは二つしかありません。(1)人間の脳の働きを停止する。すると、宇宙は永遠の今ここにおける光または空(くう)である。臨死体験または瞑想の極地(止観)。宇宙の無限の働きのままに解放された浄土。色もなく形もましまさず、ただ覚醒のみ。(2)人間の脳の働きを再開する。空間を自分の外に対象化する二元論的認識構造に復帰。時間を直線的に進むものとして認識する脳の働きも再開。ビッグバンの瞬間から宇宙が光速で広がっているとすると、光速に近づくほど時間は遅くなり、光そのものはついに時間を体験しないので、宇宙の末端ではまだ宇宙創世から時間が流れていません。宇宙はひとつの光という観点からは、宇宙は永遠の今ここに覚醒の光が広がっているだけです。尽十方無碍光如来とも、空(くう)ともいいます。人間は脳の構造のカルマにとらえられているので、そこに時空を認識し、二元論的に対象化します。このような哲学を寓話的に表したのが、リチャード・バックの「カモメのジョナサン」「イリュージョン」「ONE」です。
2016.12.16
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「沖縄自立と東アジア共同体」という本の中、高野猛の「安倍政権が弄ぶ中国脅威論の虚妄」は意外とおもしろかった。 たとえば「領海侵入が常態化している」と日本で報道しているけど、月3回にだいたい定着していて、中国の海警局が3つに分れているから1回ずつ担当している。野田が尖閣を国有してしまったから、認めてないよという必要ができてしまったので、月3回、事前通告して、2,3時間、日本が領海と主張しているところに入ってすぐ出ていく。通告してるから海保は常時警戒しなくてよくて楽。つまり、棚上げ化が新しい形になっただけとか。 防空識別圏というのは、どこの国も他国の上空に識別圏を設けているもので、突然中国が設定したというのは、危機を煽りすぎ。ただ中国が防空識別圏の意味を拡大解釈していた面はあったのでそこはアメリカがちゃんと交渉して国際的共通理解にまで戻させ、中国がちゃんとそのように対処するかの確認のため、アメリカの爆撃機を識別圏の中を飛行させた。中国は国際ルールを守った。このようにアメリカは戦争回避のためのルール守りをきちんとやらせるように実効的なことをしているが、日本は危機を煽る報道をするばかり。
2016.12.14
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10代のAさんが「超簡単訳歎異抄・般若心経」の感想文を、感想文コンクールに出してくれた文章が、落選したので、自由に使ってと言って送ってくれましたので紹介します。Aさん、ありがとう。声に出して読むと不思議な解放感に この本の筆者は、一三分間の心拍停止の間に臨死体験をしたそうです。その臨死体験を踏まえて書いている仏教書の訳には説得力がありました。 特に般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」というマントラの部分を「こえてゆけ こえてゆけ こえることをこえてゆけ 彼方の彼方 はるかなる今ここ 悟りよ おめでとう」と訳しているところが大好きです。声に出して読むと、現代語訳自体がマントラのようです。初めて声に出して読んでみたとき、体の内側からエネルギーのようなものが出てくるのに気付きました。厄払いと言うのでしょうか。何か悪いものが自分から出ていくような感じがありました。「こえていけ こえていけ」と読んでいると、どんどん悪いものがデトックスされて、代わりに幸せの成分が体を充たしていくのを実感しました。そして「はるかなる今ここ」と声に出すと到り着いたような感じがしました。すると「悟りよ おめでとう」と自分を祝福するのが、とても自然なことに感じられました。 また「歎異抄」の訳も、声に出して読むと、宇宙の無限の働きに身をまかせる「ひたすらな自己解放」を感じました。眼に見えないマイナスイオンのようなものを浴びてリラックスし、エネルギーが全身を吹き抜けるのを実感しました。まるで、ぐっすり眠った後、気持ちよく目が覚めたときのようなさわやかさです。木を観ても、枝の先までくっきりと見えました。そこに実が成っている。鳥が鳴いている。その向こうの空が突き抜けるように青い。なにもかも新鮮で初めて見るかのように感じている自分! 日常生活でついつい力が入っている自分がほぐれて、肩の力が抜け、漂うように動作をしている自分がいる。また、感じていることを言葉にすると、自然に気持ちと言葉が一致して、そんなことができる自分に深い充足感を味わいました。子どもの頃に還ったように解放され、ナチュラルハッピーでした。 声に出して読むたびにそんな世界に連れていってくれるこの本が私は大好きです。
2016.12.13
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マトリョーシカ構造の全体像についてまず、石原岳さんの「Voice of TAKAE」から二カ所引用したい。(1)今の高江の状況、こういうふうになっているのは、国がそうしたからというのもあるんですけど、県がそれを許しているからなんです。(2)アメリカが日本に押しつけているような状況をパカッと開けると、結局日本が沖縄に押しつけているような状況で、それをパカッと開けると、今度は沖縄県が東村に同じようなことを押しつけていて、そして東村が高江区に同じようなものを押しつけている、似ているんです、全く一緒なんです、やっていることが。まぁしょうがないか、しょうがないから、しょうがないから、ってずっと弱い方小さい方に押しつけている。去年ぐらいまで、僕ね、マトリョーシカ人形が僕で止まっていると思っていたんだよ。でも。よく考えてみると、違った。まだ、僕も途中だった。結局、高江に住んでいる僕のマトリョーシカをパカッて開けると、まだ小さなマトリョーシカ人形がね、あったんですよ。それはね、声をあげられない子どもたちとか、それこそ虫たちとか、動物とか、木とか、声を上げられないものたち、それがね、いるんですよ。(引用終わり)この二つの言説を統合するのが、さっきメモした「マトリョーシカの複線系」です。石原さんは沖縄県の中に存在する人民と支配層・利権層を(1)で見定めているので、実は、すでにこの冊子ではその視点は明確になっていると思います。しかし、改めて、ぜんぶ言っておくと、アメリカ→日本→沖縄→東村→高江→声を上げられない子どもたちや生き物という、より弱いものにしわ寄せするマトリョーシカ構造は単線の直線ではない。アメリカの中に支配層・軍産複合体と人民がいる。日本の中に支配層・利権層と人民がいる。沖縄の中に支配層・利権層と人民がいる。この構造は弱いところへいくほどくっきりしなくなってくるけど、東村の中にもあるかもしれない。僕にはよくわからない。でも、沖縄県の中までは確実にあると思う。高江住民から先はもう、小さなマトリョーシカの中で直線系になるのかもしれない。いずれにせよ、「沖縄自立と東アジア共同体」という本の中には、沖縄県民全体を人民と同一視し、日本人全体を抑圧者とみるような論考がいくつか見られたので、この複線構造について整理しておかなければならないと思いました。そしてこの支配層と人民の二極はけっしていつもくっきり明確とは限らないことにも留意が必要だと思います。人民の中には、胸中これではダメかも?と思っていても、生活していくために支配層のやっていることに荷担している人もいる。僕もそのひとりかもしれない。すべての罪から完全に無縁な人がどこにいるだろうか。だが、いずれにしろ、そこには様々なグラデーションがある。日本の中にも、沖縄の中にもグラデーションがある。沖縄県民は人民で日本人は支配層という直線的な見方は、大鉈を振り下ろしすぎている。この大鉈は、実は沖縄の支配層を利する視野しかもたらさないところが問題なのである。やまとんちゅの立場からは言いにくい、全体像を描かせてもらいました。
2016.12.13
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悟りを開くとは、108の煩悩を迷惑メールに分類することではない。ゴミ箱に移動して蓋をすることでもない。すべて既読にすることである。(既読にするとはこの場合、味わいつくし、卒業すること)
2016.12.13
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電動車椅子でGO! AGORA連載 第10回 バリアフリー本当のバリアフリーとはなんだろうか?http://agora-hiroba.com/agora/series/wheelchair/ここから第1回から第9回へもリンクしてます。
2016.12.11
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私が高江現地の座り込み運動に感じたことを、当日の発言に沿って、述べます。IWJの記録動画がアーカイブで発表されましたので、それを元に論じることができるようになったからです。http://iwj.co.jp/wj/open/archives/347040運動集会らしいスピーチが長時間続きますので、ここでは問題箇所にポイントを絞って論じます。私のスピーチは1時間12分22秒頃から17分36秒頃。電動車椅子で行っています。まずこれを聞いてください。5分にスピーチはまとめました。まず前半は自分は大阪から来たが、大阪の機動隊が大変申し訳ないことをしている。大阪という土地は黒潮に乗れば、沖縄の人も韓国の済州島の人もたどり着く土地であり、そlこで何百年も多様な人が共に暮らしてきた土地だ。そこが維新の会の政治にやられ、現在のような状況になっているのは大変情けない。大阪の政治を変える努力を引き続き行っていきたいといいました。続いて、7月22日(高江で機動隊による最初の大弾圧のあった日)の私の沖縄県庁とのやりとりをメモを元に一部紹介しました。機動隊の派遣要請をした金城棟啓の任期が来た。当然次の公安委員は機動隊の派遣要請をしない人物が任命されたと思うが確認のために電話した。すると県庁の答は翁長知事の推薦、県議会の承認を得て、金城棟啓の再任が決まったというものだった。私は信じられない思いだった。少なくとも形式的には(私はそれが形式であることを最初から明白にした上で、その形式を最大限に活用しなければならないと言っているのである)、機動隊は公安委員会の派遣要請に基づいて来ている。大阪の私が言うのもおこがましいが、この要請をやめるようにという県への要求も、強めていってもらえないかと結んだ。ふつうに拍手が来て、終わる。それを受けた司会者は、1時間17分48秒頃から「大阪からの機動隊について彼が謝る必要は何もないのですが、まあ、税金を払っている悔しい思いもあるのでしょう」と言った。そのようなことは私はひとことも言っていない。私は、大阪には共生の土地としての長い伝統がある。今その町が維新にやられている。大阪の政治を変える努力を続けたいと言っただけだ。この「税金を払っている悔しい思いもあるのでしょう」という言葉がいったい何のためのものか、まったく理解できない。次に司会者は、機動隊派遣について、手続き的には彼の言うとおりだが、その手続きのずっと前に実際には国からの派遣指令が来ている。・・・と私も知っているおなじみの「返し」を行う。そんなことは私も知っているが、法的形式の機会を最大限に活かすように、県に要請するべきと言っているのだ。少なくとも公安委員の任命権と罷免権のある翁長知事が、そのような公安委員に任期が来ているにも関わらず、わざわざ再任するという行為がショックだと言っているのである。続いて、確かに手続き的には彼の言うとおりだと司会者は認めるが、そこで「公安委員会にもいろいろな判断があるのでしょう」という。この「いろいろな」とは何か。再任は驚きであり、裏切りだと言った私に県庁の職員も「総合的な判断です」と言った。この「いろいろな」や「総合的な」には、沖縄の社会構造(その核心は利権構造)が含まれるということであろうか。そうでないなら、「いろいろな」の中身を明確にしなければならない。そして司会者はまた「土人発言」を受けて県議会が機動隊の派遣要請の取り消し決議を検討したが、県議会にも「いろいろ」あるのでしょう。その決議はかなわなかったと言った。ここで一点押さえたい。土人発言を受けた県議会の議論が行われるまで、私が誰に何度「派遣要請の取り消し」についてできないものかと、言葉がけをしても「そんなことはできないのだ」とほとんどすべての人が言っていたのだ。県議会で決議をあげることができ、それが少なくとも何らかの影響力を持つことができるのなら、それは基地反対という選挙で明らかになった民意を反映して、もっと初期に行うべきだった。土人発言単独が問題なのではなく、基地建設そのものが問題なのだから。ここで明らかになっているのは、そもそもの初めから、政治や行政は、基地反対のためにできることを全部はしていないということなのだ。暴言が問題なら、暴行はどうなのか。なぜこれまで県議会で議論すらなかったのか。ここでも司会者は「いろいろ」あると言った。その上で彼は「当然、知事も県議会も思いは変わりません」と言った。「いろいろあって派遣要請取り消しをしない」と「思いは変わらない」の間がどうしても埋まらない。このあたりからだんだん言っていることが曖昧になる。「そういう行動」「いろいろな手法」と徐々に言葉が「派遣要請取り消し」という趣旨からは離れていく。「高江・辺野古に対する様々な不条理を許さず、引き続きがんばっていきましょう」と、抽象論になるほど、声に力が入り、人々は拍手して終わる。抽象論になるほど、声に力が入り、人々は拍手して終わる。であるなら、これは運動のための運動。ひとつの「熱狂」であると、私は言わざるをえない。冷静に考えるとき、司会者の言葉で言うなら「いろいろあって」の「いろいろ」の中身が運動論として問われなければならない。そして、それに対する対策を立てねばならない。あるいは、「いろいろ」など無視して、たとえば「機動隊の派遣要請は取り消せ」と、機動隊に向かうのと同じ勢いで、「県に」迫らなければならない。そうでなければ、少しずつ工事は進み、予定どおりの敗北の日が来る。しかし、現場にはそのことを冷静に見つめる余裕などない。県内の何かを疑ったり、要求することについては、そこに矛先がいかないようにするループのようなものが形成されている。
2016.11.25
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