先ほどの続き
。
1935年(昭和10年)、「大日本東京野球倶楽部」(現・読売の前身)という
チームが、職業野球として初めて米国に遠征した時のこと。4ヶ月間にわたり
約110試合を行った結果、その収支は次のとおり赤字だった。赤字は絶対
許されぬ条件のもとでの遠征だったが、観客数が思ったほど伸びず収入は
期待を下回った。そのため選手たちは常に食うや食わずの日々を強いられ、
空腹と疲労と過密日程でギリギリの状態だった。
<収支>
収入:7万7214円44銭、支出:8万5483円64銭、差引:▲8269円20銭。
この話を知り、ボクは早稲田大初めての米国遠征(1905年、明治38年)に
まつわるエピソードを思い出した。それは 安部磯雄
(当時、早稲田大野球部
部長)が、米国遠征に向けて大隈候に資金提供を仰ぐため、直談判を試みた
時のこと。
安部は大隈候に言った。
「(早大)野球部は米国の各大学や職業野球団か数十回の試合を行う。米国では
見物人から入場料1円を取る。そのうち、実費分を差し引いた入場料の3分の2を
早大がもらうことにすれば、1試合で6000円程度の収入になる。そうすれば約
3ヶ月の試合で10万円の余剰金をもって日本に帰ることができる」
安部はさらに続ける。
「その利益で山形有朋の椿山荘から大隈邸に続く、いわゆる早稲田田圃を買い
取って堤防を築く。さらに面影橋付近にも堤防を設け、ここに江戸川の清流を
呼びいれれば、理想的な湖ができる。これは早稲田の学園に景色を添えるし、
あわせて大運動場を作る。そうすれば、早稲田大学は全スポーツの一大殿堂と
なる」
(『ニッポン野球の青春』より)
大風呂敷を広げ大隈候から承諾を得た安部だったが、見込んだ入場者を一度も
集めることはなく、収支は散々だった。
当てにしていた余剰金は、10万円にはるかに届かない約1000円に過ぎなかった。
これでは大学から資金援助を受けた5500円すら返還することができず、逆に
4500円の借金を抱えてしまうことになった。堤防、湖、大運動場の夢ははかなく
消えた。
原因は米国の情報が圧倒的に少なく、大きな期待のみが込められたシミュレー
ションだったこと。ただ米国から持ち帰った「野球の技術」等の土産は日本の
野球界に大きく貢献したことは事実。またその後、少しずつではあるが時間を
かけて、安部は大学に借金を返済したという。
※本文中、人名はすべて敬称略。
◇ 安部磯雄
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「野球術を普及した安部磯雄と橋戸信」
(2009.6.24) → こちら
へ。
日米対決
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「日米大学対決は104年前に始まった」
(2009.6.23) → こちら
へ。
「75年前の日米野球のこと」
(2009.3.23) →
こちら
へ。
(参考)
『ニッポン野球の青春』(菅野真二著、大修館書店刊)
『日米野球史』(波多野勝著、PHP刊)
この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。
→ (第4期)「1925年(大正14年)、東京六大学リーグ成立、早慶戦復活時以降」
(第4期)に属する他の記事は以下のとおり。
◇ 「ボクにとっての日本野球史」
(2009.7.1) → こちら
へ。
◇ ボクにとっての日本野球史
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「プロ野球、創設プラン」
(2009.7.5) → こちら
へ。
「職業野球選手の社会的地位」
(2009.7.8) → こちら
へ。
【東京六大学2025秋】小早川毅彦氏の始球… 2025.09.28
【東京六大学2025秋】開幕カード。慶應、7… 2025.09.14
【東京六大学2025春】東京大学vs.横浜高校… 2025.03.08
PR
Keyword Search
Calendar
Comments