あま野球日記@大学野球

あま野球日記@大学野球

2009.07.09
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カテゴリ: 大学野球

先ほどの続き


1935年(昭和10年)、「大日本東京野球倶楽部」(現・読売の前身)という
チームが、職業野球として初めて米国に遠征した時のこと。4ヶ月間にわたり
約110試合を行った結果、その収支は次のとおり赤字だった。赤字は絶対
許されぬ条件のもとでの遠征だったが、観客数が思ったほど伸びず収入は
期待を下回った。そのため選手たちは常に食うや食わずの日々を強いられ、
空腹と疲労と過密日程でギリギリの状態だった。


<収支>
収入:7万7214円44銭、支出:8万5483円64銭、差引:▲8269円20銭。


この話を知り、ボクは早稲田大初めての米国遠征(1905年、明治38年)に
まつわるエピソードを思い出した。それは 安部磯雄 (当時、早稲田大野球部
部長)が、米国遠征に向けて大隈候に資金提供を仰ぐため、直談判を試みた
時のこと。


安部は大隈候に言った。
「(早大)野球部は米国の各大学や職業野球団か数十回の試合を行う。米国では
見物人から入場料1円を取る。そのうち、実費分を差し引いた入場料の3分の2を
早大がもらうことにすれば、1試合で6000円程度の収入になる。そうすれば約
3ヶ月の試合で10万円の余剰金をもって日本に帰ることができる」


安部はさらに続ける。
「その利益で山形有朋の椿山荘から大隈邸に続く、いわゆる早稲田田圃を買い
取って堤防を築く。さらに面影橋付近にも堤防を設け、ここに江戸川の清流を
呼びいれれば、理想的な湖ができる。これは早稲田の学園に景色を添えるし、
あわせて大運動場を作る。そうすれば、早稲田大学は全スポーツの一大殿堂と
なる」
(『ニッポン野球の青春』より)


大風呂敷を広げ大隈候から承諾を得た安部だったが、見込んだ入場者を一度も
集めることはなく、収支は散々だった。 


当てにしていた余剰金は、10万円にはるかに届かない約1000円に過ぎなかった。
これでは大学から資金援助を受けた5500円すら返還することができず、逆に
4500円の借金を抱えてしまうことになった。堤防、湖、大運動場の夢ははかなく
消えた。


原因は米国の情報が圧倒的に少なく、大きな期待のみが込められたシミュレー
ションだったこと。ただ米国から持ち帰った「野球の技術」等の土産は日本の
野球界に大きく貢献したことは事実。またその後、少しずつではあるが時間を
かけて、安部は大学に借金を返済したという。


※本文中、人名はすべて敬称略。

安部磯雄 の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。

「野球術を普及した安部磯雄と橋戸信」
 (2009.6.24) →  こちら へ。


日米対決 の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。

「日米大学対決は104年前に始まった」  (2009.6.23) →  こちら へ。

「75年前の日米野球のこと」  (2009.3.23) → 
こちら へ。


(参考)
『ニッポン野球の青春』(菅野真二著、大修館書店刊)
『日米野球史』(波多野勝著、PHP刊) 



この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。
→  (第4期)「1925年(大正14年)、東京六大学リーグ成立、早慶戦復活時以降」

(第4期)に属する他の記事は以下のとおり。

「ボクにとっての日本野球史」  (2009.7.1) →  こちら へ。

ボクにとっての日本野球史 の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。

「プロ野球、創設プラン」
 (2009.7.5) →  こちら へ。

「職業野球選手の社会的地位」  (2009.7.8) →  こちら へ。


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Last updated  2009.07.12 22:23:55
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