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『手のひらの京』綿矢りさ(新潮文庫) 京都の三姉妹の話であります。 舞台が京都で三姉妹とくれば、谷崎潤一郎の『細雪』や川端康成の『古都』の話が頭にちらちらと浮かぶ、あでやかな古都の四季の移ろい、平安情緒絵巻の物語かなと、まー、実際は、そんな単純な話でもなかろうとも、わたくし思いながら読み始めました。 トータルな感想としては、なるほどねーという感じですか。 やはり京都の四季折々の行事がふんだんにその背景になっているのは間違いありません。そのあたりの「情緒」を読ませるのもまた、大きな本小説の醍醐味になっているのかなと思います。ただ、それがメインの小説では、(これも、まー、当たり前ながら)ないようであります。 実はわたくし、本書を、参加している読書会の課題図書として読んだんですね。そして、その読書会もすでに終わりました。 何らかの読書会に参加している方は納得していただけると思いますが、読書会のいかにも面白い所は、実に様々な意見が出るところでありましょう。 でもこの度は、大筋、割と好意的な意見が多かったように感じました。 ただ、そんな風になってくると、私のようなひねくれ者は、つい反対意見を言っちゃうんですね。本当はそんなには感じていない部分でも、これは問題であるかのごとく話し出してしまいます。困ったことですなー。 で、私がどんなことを言ったかと言いますと、こうしてまとめて思い出してみるとなんと、登場人物の三姉妹すべてについて、人物造形がしっかりしていないかのような意見を、結果としては述べてしまったように思います。(うーん、少し恥ずかしい。) ちょっと順を追って復習してみますね。 まず長女の綾香ですが、冒頭に勤務先の図書館で幼児の声がするとめまいがするとあります。これはかなり心理的なストレスの掛かっている、そんな設定の女性なんだなと読み始めます。 ところがそのあとすぐに、祇園祭で15年以上会っていなかった中学時代の同級生に出会い(男女カップルで、女性の方とは中学時代友だちであったようながら、男性の方とは中学時代一度挨拶をしたことくらいしか覚えがない人物で)、冒頭のこじらせ系らしい綾香は話ができるのだろうかと読んでいくと、何の問題もほぼなく和気あいあいの夜を過ごします。私は少し読んでいてぽかんとしました。 その後、綾香の恋愛話となるのですが、恋愛相手の男性との関係が進むことを(本当はひたすら望んでいるのに)頑ななばかりに恐れる姿がまた、こじらせ系っぽく描かれます。 結局のところこのこじらせ原因は元カレとの古傷のせいであることが描かれますが、ただその描かれ方は、私はいかにも弱いと思いました。もう少ししっかり記述してほしいと感じました。だから、人物造形が少し弱いんじゃないかと。 次に次女の羽依でありますが、これまたかなりといえばかなり極端な人物造形ではないか、と。 私は、この人物像は、そもそもリアリティはあまり求めて作られていないんじゃないかと思いました。羽依は、ストーリーの中でいえば、活劇担当、コメディ担当、ではないのか、と。実際、本小説からこの羽依の物語を外してしまうと、山も谷もない何のメリハリもないハッピーエンド物語になってしまいそうであります。(羽依には、筆者の自家薬籠中の「爆発」場面も、2度にわたって出てきます。) ただ、これは読書会で、この羽依の破局は、続きが予想される一文二文があるとの指摘があり、なるほどなかなか面白そうだなあと、私も思いました。 さて、最後に三女の凛の物語ですが、彼女の物語は結局のところ、就職をめぐる両親との対立と、彼女の恋愛観の二つがポイントだと思いました。 ただ、両親との対立について、凛は京都から出たい思いは再三文中でも記述されておりながら、それが東京志向であることの理由については、核心部が描かれていないように思いました。描かれていない理由についても、私はいくつか考えましたが、私は筆者の中に微妙な掛け違いがあったのじゃないかと感じました。 そして凛の物語のポイントの二つ目、彼女の恋愛観についてですが、読書会で、ある女性から鋭い指摘がありました。私は、それを聞いてあっと思いました。 少し本文を抜き出してみます。 ここは長女綾香と話をしている場面です。結婚について、30歳を超えた綾香の言葉の端々に焦りの感情が出ているのに対し、凛は、焦る必要などないといい、それに答えて綾香が「凛はまだ若いから、今の私の気持ちは分からへんよ」と返した後の、凛の心中描写部です。 (略)凛は言い返さなかったが、心のなかでは”多分年齢は関係ない。私は姉やんの気持ちはきっと何歳になっても実感できない”と思っていた。綾香に限らず、ほかの周りの女の子たちと比べても、自分は体内時計の尺が彼女たちとだいぶ異なる、と凛は常々感じていた。 いかがですか。 私はこの部分、何だか納得できないんですけれどもね。「多分年齢は関係ない」と「体内時計の尺」が違うという表現は、矛盾しないんですかね。 そんな思いがあって、ここでもそもそもの人物造形に曖昧さがある、と私は思っていたんですね。ところが、読書会である指摘があり、私は、俄然、その読み、面白い! と思ったわけです。なるほど、それだと、ぎりぎり矛盾しない、かな、と。 えー、どんな指摘だったかわかりますか? うーん、別に突拍子のないものではないのかもしれません。私が気付かなかっただけで。 というわけで、ちょっと触れるのは控えます。 そこから導かれる結論、読書会って、だから面白い、でありました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.05.31
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『乙女の密告』赤染晶子(新潮社) 本書は2010年に芥川賞を受賞した作品です。私はこの作家の作品をこの度初めて読みました。というより、この作家は、2017年、42歳で病死なさいました。元々持病をお持ちであったようです。だからというか、作品数は少ないです。 これは本作の筆者とはあまり関係ないことですが、没年が42歳というその数字を見ていてぼーっと思ったことです。 私の好きな作家で、比較的「夭折」作家と言われそうな方が3人います。この3人です。 太宰治(39歳)・中島敦(33歳)・梶井基次郎(31歳) 一方、文豪夏目漱石は49歳でなくなりました。彼の42歳は、『それから』を書いていた時です。後に「前期三部作」といわれるものの二作目です。 例えば、一番近い没年は太宰だがその次は漱石ではないかなどというように、あれこれ比べて見ていると、なんといいますか、言葉ではまとめにくい様々な感慨が浮かびます。いえ、上記にも書きましたように、それは、この作品ともこの筆者とも何ら関係のないことではありますが。 というわけで冒頭に戻ります。 わたくし、芥川賞受賞作もぽつりぽつりと、積極的にとは言い難くも、まー、一応の読書意欲を持って読んでいますが、本作はまず、文体にとても感心しました。 ユーモラス。軽快。 特に前半部(後半部はちょっと重くなっていきます)ですが、読んでいて、まるで自転車に乗って涼やかな風を感じて走っているように、とっても気持ちがよかったです。これはなかなか得難い読書体験だと思いました。 その理由は、読んでいて明らかです。 文中に出てくるセリフの部分が関西弁で書かれている(舞台は京都です)こともさることながら(実はこのセリフ部は全てが関西弁というのではなく、部分的な関西弁のように思います)、それよりも特徴的なことは、一文がとても短いセンテンスで描かれていること。短い一文がリズミカルにどんどん積み重ねられていることでありましょう。 二つ目は、現在形で次々に終わっている文末です。畳みかけるように短文の現在形文末が続いていきます。そしてそこに、ふっと一、二文の過去形文末が出てきます。するとそこにアクセントができて、心地よいメリハリが生まれます。 こういう文章の流れを読むと、過去形というのは強い文の形だなということがわかりますね。(だって、もう終わってしまったのですから。) ちょっと長めですが、一つ紹介してみます。 とうとう、恐るべき事態になってしまった。麗子様が黒ばら組から追放されてしまったのだ。みか子は麗子様のことを心配した。組を追放されるなど、乙女にとって生存に関わることだ。乙女とはトイレさえ群れをなして行く生き物なのだ。トイレの個室の数と乙女の人数は一致しない。トイレでの需要と供給のバランスは常に崩れている。そんなことは乙女にはちっとも関係ない。トイレは乙女の聖地である。ここでは最も頻繁に噂が囁かれる。トイレでさえ、すみれ組と黒ばら組の縄張り争いがある。安心して噂話をしていると、個室に相手の組の乙女が潜んでいたりする。「なんやてぇ!」 と言って突然、個室から飛び出してきたりする。時に乙女は神出鬼没である。油断ならない。 ついでにもう一つ報告しておきます。 上記に私は、セリフ部が部分的な関西弁と書きましたが、この部分的な用い方は、関西弁ネイティブな私にとって、ちょっと不思議な感じ(悪くない感じ)がしました。特に、何度か出てくる「あほ」「あほな」の、微妙な前後の部分とのつながりやずれに、何か不思議な「異化効果」を感じました。何だかくすぐられているような、これは何なんだろう、と思いました。 というわけで、とても楽しく読み進めたのですが、中盤あたりから、テーマらしいまとまりがなされてきて、『アンネの日記』の本文が重要なキーワードになってきました。 これはもちろん読み手の私の方の問題なのですが、いかんせん、通り一遍以下の一般教養しか持ち合わせていない私は、急遽アンネ・フランクをググったりせねばならなくなり、そして一応のグーグル知識でついていけなくもない程度で理解していきました。 で、どうも本作の中心テーマは、やはりいわゆる青春小説に多い「自分探し」のものであるようだと考えました。アンネの生涯や日記の一部分を自らの心情に重ね合わせながら、とまどいつつ「自分探し」をする物語なのだな、と。 と、さて、ここからですが……。 本書報告についてザックリ考えていた字数もほぼ使いかけているこの時点から、アンネ・フランクのかなりシビアな話と、京都の外国語大学の人間関係に悩む女子学生の話との重ね合わせを論じるには、ちょっと、あれ、難しいのじゃないか、と感じました。(何と言っても重みがかなり違うように思います。) ……ごまかしています。すみません。 実は、そんな重ね合わせはやはり無理なんじゃないかなという考えと、この軽やかな文体に乗せて物語るのにちょうどいいくらいの重ね合わせが書かれているのだという思いと、どちらがふさわしいのか、ちょっとよくわからないでいるのであります。すみません。 というようなことを考えました。 しかし、本当に久々に心地よい文体に出会ったように思いました。 もちろんそれは、私にとってとても大きな収穫であります。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.05.16
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『三四郎』夏目漱石(新潮文庫) 前回の続きの10度目の楽しい『三四郎』読書報告です。 前回、今回の読書のテーマは、冒頭タイトルにあるように、美禰子の心の理解の揺り戻し、やはり三四郎に好意を抱いていたのではを探ることでした。 では、以下にその「証拠」個所となる場面を提示します。 一つ目は、二人で美術館に行った時の、野々宮の姿を発見した時の美禰子の行動とセリフについて、三四郎に寄り添って書いてある地の文の説明です。 ちょっと前後省略でそこだけ抜いてみますね。「悪くって? 先刻のこと」「可いです」「だって」と云いながら、寄って来た。「私、何故だか、ああ為たかったんですもの。野々宮さんに失礼する積りじゃないんですけれども」 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳の中に言葉よりも深き訴を認めた。――必竟あなたの為にした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一遍、「だから、可いです」と答えた。 『三四郎』の地の文は三人称で書かれています。しかし、ほぼ一貫して、三四郎の心情に寄り添うように(三四郎がわからないものは分からないままに)描かれています。 だから、この個所も三四郎が勝手にそう感じたと受け取れないこともないのですが、少なくともこの美禰子の瞳の記述は、一定の客観性を持って書かれていると読まないわけにはいかないと思います。(そうじゃなく読んでもいいのかもしれませんが、そんな読みばかりをしていたら、そもそも『三四郎』の読書がちっとも面白くなくなってしまう気がするんですが。) そしてもう一か所。画家の原口のアトリエで、モデルをしている美禰子が、三四郎を意識してかなり疲れた感じになる所の描写です。ここも少し抜いてみます。 なるほどそう思って見ると、どうかしているらしくもある。色光沢が好くない、眼尻に堪え難い物憂さが見える。三四郎はこの活人画から受ける安慰の念を失った。同時にもしや自分がこの変化の原因ではなかろうかと考え付いた。忽ち強烈な個性的の刺激が三四郎の心を襲って来た。移り行く美をはかなむと云う共通性の情緒はまるで影を潜めてしまった。――自分はそれ程の影響をこの女の上に有しておる。――三四郎はこの自覚のもとに一切の己を意識した。けれどもその影響が自分に取って、利益か不利益かは未決の問題である。 いかがでしょう。ただ、この場面の美禰子は、(まだ三四郎は知らないけれども)実はすでに第三の男と見合いをして、そしておそらくは婚約が成立した後であります。だから純粋な恋愛感情が美禰子の心中にあるとは言えないところであります。 というわけで、なかなか今回の読書のテーマ、美禰子の心の揺り戻しは難しそうであります。 かといって、美禰子は全く三四郎のことを歯牙にもかけていないかといえば、やはりそうでもなかろうと私は思うわけで、そんな美禰子の心情をすとんと描いているところはないだろうかと考えていますと、そういえば、とこんなところに考えが行きました。 前半部の広田先生の引っ越しの手伝いの場面です。この場面に出てくるこの言葉も、『三四郎』中の大切なキーワードです。 Pity`s akin to love これは本来の意味で翻訳するならば「憐憫は恋愛に似ている」となる言い回しですが、『三四郎』文中では、与次郎が俗謡で訳すべきだといって「可哀想だた惚れたって事よ」と訳して、広田先生に叱られ一同大笑いとなる場面です。 この二つの訳文。 与次郎の訳は、その意味を補足しつつ普通に訳すならば、恋に溺れているあいつはまさに可哀想な状態にあることだなあとなり、これはそのまま三四郎の姿となります。 では、本来の訳文の方は――。 私が今回の読書で思ったのは、多少牽強付会な部分は含みながらも、こちらの訳文こそが美禰子の三四郎への行為(思い)の正体ではなかったか、と。 美禰子の心の中央には、やはり野々宮があったでしょう。しかしその横に、ひょっとしたら憐憫の対象かもしれませんが、三四郎を置くことは、決して無理ではないのではないか、と。 人は必ずしも一人の異性をのみ愛するものではないが、後になって、その一人への愛も破局となった時、彼女は隣の二人目の異性に対してはどんな心情を抱くのか、多分それが、終盤に描かれた「ストレイシープ」ではなかったかと思います。 この度は私は、そんな風に『三四郎』を読んでみました。 名作は何歳になって読んでも感動するとはつまり、読者の千差万別の思いに、懐深く柔軟に対応できる作品だということではないでしょうか。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.05.02
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