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『蹴りたい背中』綿矢りさ(河出文庫) えー、実はちょっとだけですが、わたくしの中で作家綿矢りさがマイブームになっています。 とはいえ、若かりし頃のように、本屋で探して片っ端から読んでいくというような強い欲求ではなく、(かつてはネットショップもなくブックオフは黎明期でしたが、また私自身図書館派でもなかったので、けっこうたくさん新刊書を買っていました。)チラッチラッと数冊読んだ程度ですが、それでも、とにかく続けて綿矢作品を読みました。 しかし今回は、2003年芥川賞受賞作、文学史上事件と言われた作品であります。 実は読んでいなかったんですね。私はひねくれ者で、ベストセラーがなんとなく苦手なんですね。 その2年前の文芸賞を受賞した『インストール』は読んでいました。それなりに評判になっていましたが、ベストセラーとまではいっていなかった(いっていたのかな?)からですかね。 それともう一つ、『インストール』という作品が、わかるようでわからない、わからないこともないが何をわかったらいいのかやはりちょっと戸惑う、という感じのする作品だったから、(もはや四半世紀近くも前の話でほぼ憶えていないのですが)というのも続いて『蹴りたい背中』を読まなかった理由にあったかなと思います。 で、ちょっと前に綿矢りさがマイブームになって、まー、やっぱりちょっとは読んでおかねばならないだろうという思いと、実は先日書棚からごそごそとこんな本を出してきました。 『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎(岩波現代文庫) これは以前読んだ本であります。で、確かこの中に、初期の綿矢りさのことが書いてあったなと思い出したんですね。で、その部分を再読してみました。 まずこんなことが書いてありました。 文庫版『インストール』に併収されてある短編小説『You can keep it.』について、作家仲間の保坂和志が高橋氏にこう言ったそうです。 「この短編で日本の近代文学は息の根を止められたね」 ……うーん、いかがでしょうかね。 これはかなり「盛った」表現、なんでしょうか。どんな文脈での言葉だったのかさほど詳しく書かれていなかったのでわかりませんが、「盛った」のでないなら、信じられないくらい強烈な一文ではありませんか。仮にも言葉を商売道具に仕事をなさっている方々ですからねぇ。 で、以下、その説明が書かれてはいるんですが、私が読んでいて一番わかりやすく読めた部分を中心に引用などしてみますね。 高橋氏は、『You can keep it.』からの引用としてこんな個所を取り上げています。 その時綾香の耳の上にがんと高速のボールがぶつかってきて、さらさらの髪が一瞬くらげのように上へ浮かび上がり、開いた口から歯のかみ合わせがずれたのが見えた。 なるほどねぇ。 ちょっと、なんとなく、感覚的にわかってきますよねぇ。 以下、高橋氏の説明部分を、わたくしのバイアスと無知に偏った形ではありますが、ざっくりまとめてみます。まず高橋氏はこう述べています。 「異常に敏感な感覚」 そして、近代小説的比喩はリアリズムに則り、本来視覚的リアリズム=「目に見えるように書く」ことであるが、本作の比喩は通常の比喩を越えており、比喩としての機能を失っているとして、「わたしたちは、これらの比喩を読み、過剰であると同時に絶妙であるとも考える。ここには、日本語の文章がたどり着いた、比喩の極点が位置しているように私には思える。」と。 まー、一言で言いますと、新人離れした独創的・驚異的な文章感覚と技術、という所でしょうか。いえ、新人だからこその部分もあるのかもしれません。 (高橋氏は『蹴りたい背中』の次に書かれた長編小説『夢を与える』について、「技術的にも、言語的にも、後退した風俗小説」と述べています。) というあたりの作品です。確かになるほどと納得できる表現が本書にもたくさんあります。それを、鑑賞すればいいのかなという気もします。 ただ、わたくし的には、どうもその「鑑賞」そのものが上手くできない感じがするんですね。このへんは確かにすごい表現だなとはわかりつつ、何のために凄いのか、そのすごさの説明が、しっくりいかない感じでした。 そこでやむを得ず、ネット上の、芥川賞選考時の選考委員の、本書への批評がまとめてあるホームページ(このホームページは実に労作であります)を見ました。すると山田詠美氏がこのように書いていらっしゃるんですね。 もどかしい気持、というのを言葉にするのは難しい。その難しいことに作品全体を使ってトライしているような健気さに心惹かれた。 なるほど、これが何のためにすごいのかの「何の」の説明か、これが「蹴りたい背中」のことなのか。 私はこれを読んで、わたくし的な本作理解はこれに尽きると思いました。 さすが、芥川賞選考委員であります。すとんと、納得ができました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.07.25
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『武州公秘話』谷崎潤一郎(中央公論社) 私は今回このお話を全集本で読みました。『谷崎潤一郎全集・第十三巻』であります。(私は大昔、大学の文学部というところを卒業しまして、その時の卒論が谷崎潤一郎だったんですね。) しかし、この巻に収録されている作品は、大概凄いではありませんか。八作が収録されているのですが、主だったところを書いてみますとこんな感じになりますが、凄いですねー。 「吉野葛」「盲目物語」「武州公秘話」「芦刈」「春琴抄」 どうですか。凄いでしょう。どうもこの巻は、近代日本文学史上間違いなく五指に入る「春琴抄」に至る足跡のような巻であります。そして、その一歩一歩のお話が、また、素晴らしい。 さて、「凄い」「素晴らしい」だけを書いて終わっても、今回の読書報告は別に問題がないようにも思いますが、一応だらだらと我が拙い感想を、以下に書かせていただきます。すみません。 実は本ブログに、私はすでに一度本小説の読書報告をしております。 この度読み返してみて、以前の感想と大きく違うと感じるところはあまりありません。「鼻」に着目したその絶妙さなどは、今回もとても強く素晴らしく感じました。 ただ、今回読んでいて私が特に思ったのは、この谷崎潤一郎の語りの諧謔性であります。私は今回、読みながら何度か大声で笑ってしまいました。(全く、どんな顔をして谷崎は書いているのだろうと何度も思いましたよ。)前回の読書報告でも、一応語りのユーモラスさについては少し触れています。でも、何度も大声で笑ったという記憶はありません。 どんな部分が面白かったのか、それは作品の「語り」全般でありますが、さらに絞り込んでいくと、人物・心理・状況説明の部分であります。 なかなか引用では、私がふき出したその面白さはわかりにくいかなと思いますが、ちょっと抜いてみますね。 則重の負傷は、生理的障害が少いと云ふ点で此の前と同じ、――いや、此の前よりもなほ軽かった。ただ外見上からは、兎唇の上に右の耳朶がちぎれたのは相当の打撃だけれども、一つしかない鼻がなくなるよりは此の方がまだ仕合はせであった。尤も此れでは顔の相似形が不均斉になった訳だから、兎唇や鼻欠けよりも一層悪いと云ふ議論も成り立つが、それは人々の意見に任せるとしよう。そんなことよりも…… こんな感じの説明部ですね。この面白さは、要するに、わざともっとも重要な論点を外し他愛もない事柄を、漢語を用いて厳密に説明する滑稽さでありましょう。真面目に書かれているほど笑いがこみあげてくる、というかたちですね。 こんな個所が、特に中盤以降に何か所が出てくることがわかりました。(そして、読んでは吹き出していました。)では、なぜそれが中盤以降なのか? それを考えた時に、私は筆者がいかに入念にじっくりとこの虚構世界を作りあげていったかに思い当たり、今更ながら、さすがの大文豪谷崎の感を強くしました。 例えば、前半部にさらりとこんなことが書かれています。 読者は、法師丸の十六歳の時の身長が五尺二寸であったと云ふ事実を、特に念頭にとどめて置かれたい。と云ふのは、いったい此の時代の男子の平均の身長が何程であったかを詳らかにしないが、思ふに戦国のむかしに於いても、五尺二寸と云ふ高さは十六歳の少年のものとしてさまで驚くには足りなかったであろう。 と、こうあって、この後武州公は背が低く横に太かったと(少し残念そうに)説明しています。しかし、その説明の最後をどうまとめているかというと、このように描かれています。 ……が、妙憶尼も云ふ通り図抜けて大きい彼の魁偉な容貌が、その身長との不釣り合ひのために一層人を威圧したことは、想像に難くない。 前半部には、「女首」の話の恐るべき山場が描かれている一方、こういった細かい設定が丁寧にさりげなくきちんと描かれています。 我々読者は、既にこう描かれた文章を読むだけですから、なるほどそうなんだな程度の感想しか持ちませんが、人物を造形するにあたってこの当たりにまできっちりと筆を及ばせているというのは、いかがでしょう、私などは、やはり大谷崎の作劇技術に大いに関心するのであります。 あわせて、その際、実に大きな効果を上げているのは、二冊の「偽書」の設定です。ひらがな多く古文文法で書かれた偽書の引用部は、作品に妖気すら漂わせているかのようです。これが、作品に奥行きと広がりを与え、いかにも虚構的な物語ながら、読み手に快いリアリティを保証しています。 と、そのように筆者は一つずつ駒を進めるようにして、この容貌魁偉な主人公の、残忍、奇異、病的、背徳的な性的嗜好を描いていく……はずなのですが、実は、具体的なそれらの場面は、(それらが具体的に描かれている数個所はもちろん巻を措く能わずの展開で読ませるのですが、それ以外の部分については、)筆者が、読者を引っ張っていくため何度もの「忌まわしい」「奇形的」などの伏線の言葉の多発さのわりには、「変態的場面」は多くはありません。 実はこの小説は、途中までで終わっているんですね。なんでも一年間連載の契約だったのが長くなってしまい、13か月「新青年」に連載した挙句に中絶してしまったようです。(うーん、これだけ面白いんだから、好きなだけ書かせてあげればいいように、今となっては思うのですが、これも私が何かで読んだやや出所不明の情報によると、原稿料がすっごく高かったとかなんとか……。) 最晩年、谷崎はこの続編の想をかなり練っていたそうであります。確か私も、メモのような断片の写真を、何かで見たように思います。 谷崎は昭和40年に79歳でなくなっています。その時代を思うと長寿の方だろうと感じますが、それでも、今しばらくの命あらばと、残念に思うお方のひとりでありますね。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2026.07.11
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