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市の無料歯科検診を受けるために歯医者に行った。自慢になるが、歯は丈夫である。今までに歯が痛いとか歯茎が腫れて痛むという経験はない。歯医者に行くのは、実に15年ぶりぐらいである。15年前も別に歯が痛んでというわけでもなくなんとなく親知らずでも抜いておこうか、歯医者に行くのも久しぶりだしとふいに思い立って行ったのであった。その前となると、また15年ほど前の小学生の頃にさかのぼる。だいたい15年ぐらい経つと歯医者に行こうと思い立つらしい。少し自慢しすぎたようなので、これくらいにしておく。産婦人科の内診もさることながら口の中を見られるというのは、エロチックである。私の中でエロチックといえば、歯科衛生士であるが今日いた歯科衛生士2人はからはエロスは感じられなかった。白衣ではなく、ピンクの仕事着はエロチックではあった。「すごくいい歯なんだけどねぇ、歯周病かかってきてるよ。」と歯医者に言われ、ショックをうける。私の自慢はここであえなく玉砕となる。「僕の奥さんだったら、治療をすすめるねぇ。」「僕の奥さんだったら。」この言葉をきょうの歯医者は3回は言った。よほど愛妻家なのであろう。特に歯茎が腫れているでもなく、痛みもなくこれといった症状がなくても歯医者に言わせれば、私の症状も歯周病に入るというのである。そういえば歯ブラシを使うと、たまに出血することはあるけども。これでは、中年以上はほとんど歯周病だと思ったほうが良いであろう。15年も歯医者に行っていないというのもシブイが、ある程度の年齢になったら年に1回ぐらいは歯医者に行くほうがいいそうである。無料歯科検診に行ったつもりが、結局3000円の出費。愛妻家歯科医のいわれるがままの私であった。でもこのまま、また15年行かなかったら、完璧歯周病へと進むらしいので、まぁよかったことであろう。あと数回、歯科通院する模様。
2006.01.30
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消耗品を安い時に買うのが一種の趣味である。トイレットペーパーシングル12ロールあけてないのが7個ティシュ5箱セットが6箱生理用ナプキン羽根付き羽根なしあわせて10個タンポンは2箱洗濯用洗剤なぜか13個もあった。その他シャンプー、リンス、柔軟仕上げ材、お風呂の洗剤などいろいろ多数。生理用タンポンについて少し。私は高校生の時に初めてタンポンを使用して以来、今までずっと同じメーカーのものを使い続けている。化粧品、日用品、消耗品など考えてみたら他のものはありとあらゆるメーカーのものを使ってきている。20年以上同じメーカーの同じ商品を使い続けているのはタンポンだけという事実に最近になって気がついた。ひとりで「ほう。」とつぶやいたのであった。結論としては、消耗品は消耗するからいいのだ。ヤフオクで落札したコンドーム72個。数えたら66個になっていた。使用期限はあと4年ぐらいだと思うが使いきれるだろうか。66個を4年でということは66÷4=16.51年で16.5回ということは一ヶ月1.375回使えばいいということになる。なんだ。その気になればいけるやん。しかし、こういうことを考えること自体どうなんだろう。消耗品に管理されるセックス。味気ないね。まったく。
2006.01.26
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使っていないクレジットカード複数。必要とされないものの哀しい存在。一時の気まぐれよって生み出された存在理由を失った物質。不必要なものが多すぎる。言葉が多すぎる。言葉が足らない。あやふやなコミュニケーション。適量な言葉とは?大事だったことは、それを失ってから気がつくものだ。考えることは必要だけど、考えすぎないことも必要。質問を質問で返すのは、よくないことだ。息子が幼稚園でもらってきたプリントに書いてあった言葉を何回か読み返す。「帰る家があって、きちんと食事が出来て、大切にしてくれる人がいて自分のしたいことをしているのなら、それで充分幸せだと思う。」これがすべて満たされていれば、かなり幸せなのではないか。それ以上に何を求めるというのだろう。空気のようにそれは当然のようにそこにあるようなそういうあたりまえのことが、幸せであると感じたい。
2006.01.24
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大江健三郎を読んだ。私は読書感想文というのを書くのは苦手である。その本について書くには、最低2回ぐらい読まないと本当の意味で読んだとは思えないのである。単に、自分の読解力、理解力の不足ということである。また、自分の感じたことを表現する力が不足していることでもある。2回ぐらいは同じ本を読みたいのだが、物理的精神的余裕がない。これは、所詮言い訳である。その作家について語るというのは、さらに数冊の読書が必要であると感じるが、大江健三郎を1回だけ読んだ率直な感想を述べるとするならば誠実、謙虚な文章であった。読後はさわやかな印象。小説の中にででくる「なんでもない人」という言葉。自分は「特別な人」であるという意識はある意味必要である。人生そう思わないとやっていけない面もある。しかし、優れた功績を成した人が平凡に一生を終える人より人としての価値が上ということはない。決して卑下するということではなく、人は、広い意味で「なんでもない人」であるという謙虚さを持つことによって心の余裕が生まれるのではないかと感じるのである。これは著者が小説の中でも述べていることで、深く頷いたところである。本当に「なんでもない人」の私としては、何だか救われたような気がしたのだ。生きるとは、という答えのない命題について少しだけ考えた読後であった。
2006.01.20
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息子の状態は順調に回復した。次の日の朝は熱が37.9℃あったが、その後順調に下がり、今日などは家においておくのが気の毒なほど元気であった。子供は急変も早いが、回復も早い。明日から幼稚園に行けるのではないかと考えたが、そういえばインフルエンザの場合は「治癒証明書」がいることを思い出す。インフルエンザは学校伝染病に指定されており、出席停止扱いとなる。その他は、おたふくかぜ、水ぼうそう、風疹など。したがって出席でも欠席でもない扱いとなる。この場合、治癒証明書を医師にに書いてもらい、幼稚園に提出しなければならない。面倒な手続きである。このために、もう一度小児科に行かなければならないのである。この治癒証明をもらうのは、実は初めてである。上の娘が幼稚園の時、水ぼうそうにかかったのだがあまりにも症状が軽くて気が付かず、幼稚園を通いとおしたということがある。娘の体にほんの数えるほどの発疹を見つけたとき、もしかしてと思って小児科へ行くと「水ぼうそうですねぇ。でも、もう枯れてますねぇ。」といわれ、結局幼稚園には水ぼうそうのことは伏せて、そのまま通わせたのであった。その後、順調に下の息子に水ぼうそうはうつったのだがかわいそうなくらい発疹が出て、症状も重かったのである。子供によって症状はずいぶん異なるものである。今日の午後、再び小児科を訪れ、「明日から幼稚園、行けますでしょうか?」と訊くと「火曜日の朝まで熱があったのなら、明日は無理ですねぇ。金曜日からです。」と言われ、治癒証明にも「1/20より登園可」と書かれた。明日から行けると思っていただけに残念である。元気な子供を家においておくのは、意外と苦痛なのだ。幸い、上の娘は今のところインフルエンザにかかっていないようである。インフルエンザの潜伏期間は3日だそうで月曜日の未明に息子は発熱したので、それから3日というと明日朝までに発熱しなければ、今回のインフルエンザにはかからなかったということになるそうである。読書をして眠たくなったら昼寝、という怠惰な生活がもう一日延長されたわけである。嬉しいような、複雑な心境。やれやれ。
2006.01.18
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今日未明、下の子が熱を出した。39.4℃。朝、子供を連れて町の小児科に行く。今の時期の小児科は大盛況である。町の小児科でも1時間待ちであった。これが少し大きい総合病院になると、3時間待ちであろう。大阪という人口の多いところだからかもしれないが本当に少子化か?と思うのである。子供のいるところには、いるものなのだ。診断はインフルエンザA型であった。二人の子供は今までの人生でインフルエンザにかかったことがない。多分。多分というのは、以前は正確に診断できなかったのではないかと思われる。今は鼻水で簡単に診断できるようになっている。ということで、子育て約8年にしてようやくインフルエンザという診断をきいた次第である。病院の支払いは、合計4370円。大阪市は少し前は、小学校就学前まで子供は医療費はタダであった。今はたしか500円だけ負担するようになっているようである。私は大阪市まで数百メートルのところに住むのだが、違う市のため、乳幼児医療費免除は満5歳の誕生月までで息子はとっくに誕生月を過ぎているため、保険3割負担分を払わなければならない。いつもこの行政の差に不条理を感じる次第である。インフルエンザは当然うつる病気なので、明日熱が下がっても幼稚園に行けるのは木曜日から、明日も熱が持ち越すようであれば、金曜日以降と指導される。当然、私もその間仕事を休まなければならない。運悪く、上の娘にインフルエンザがうつった場合は、さらに休まなければならない。真面目で仕事熱心な私には、気が重いことである。とはいってもパート勤めの気楽な身分だから良いが正社員で働いている小さい子供のいる女性は本当に大変だと思う。そういう理解は、周囲には意外とないものなのだ。少子化対策はこういうところに焦点を向けて欲しい。息子は今、薬を飲んで眠っている。ということで、今週は比較的ヒマな一週間になりそうである。
2006.01.16
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今日は雨であった。外出の予定のない雨の日は、好きである。そんな日の雨音は心地よく、そして優しい。基本的には家にいるのは好きなほうだ。まっすぐに降る雨を見ながら、自分には居場所があることを確認し、安堵する。雨は、その存在を物語るように静かに降っていた。三島由紀夫を読んだ。鮮烈であった。芸術にとって「感性」は勿論重要な要素であるに違いないが、芸術とはそれだけではない。人を魅了する美しい表現。芸術とは、美とは。なんて難しいことはよくわからないんだけど。「美は誰にでも身をまかせるが、誰のものでもない。」今回の小説で心に残った言葉。
2006.01.14
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きょう、スーパーで偶然、知人に会った。まだ上の娘が幼稚園に入る前に子供を公園に連れて行っていた頃の知り合いである。久しぶりに会う彼女は、なんだかやつれていた。久しぶりに知人、友人に会うと無意識のうちに以前の面影の印象と比べてしまう。よく会っていた頃の彼女は綺麗な人だったし、年は私より5歳は若かったはずである。子育て疲れ、生活疲れであろうか。なんとなく疲れたオーラをはなっているのであった。子育て中は、女が女でなくなるときである。心も体もなんとなく乾いている状態。自分のことを考える余裕がないのだ。女性は、心の余裕がないと不思議と輝かないものである。心身ともに潤いは必要である。中年以降の女性の顔は、その人の今の状態、生活をあらわすものだと実感する。さて、そういうアナタはどうなのと言われるとたいしたことないです。スミマセン。
2006.01.10
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きょう、図書館に行った。この前来たのはいつだったか、思い出せないぐらい久しぶりである。私の読書熱は最近のことで、主に文庫本を買っては読んでいたのだが図書館にも行ってみようと思い立って行った次第である。近所の市立図書館はそれほど規模が大きくないからなのか思ったよりも本が少なかった。というか、私が読みたいと思った本が意外となかった。少しばかりの失望感を抱きつつも、三島由紀夫と大江健三郎を借りることにして貸し出しカウンターへと向かう。今の時代は勿論、貸し出しもコンピュータ管理である。バーコードのピッという乾いた音は、妙な説得力をもって私の心に響く。とても現代的な音だ。「返却は2週間後です。」図書館司書は今日何十回言ったであろう言葉を慣れた口調で話す。図書館司書というのは、私の憧れである。エアコンの効いた快適な環境で本に囲まれて優雅にバーコードを操作する。私が羨望感をもって司書である彼女を見つめていることに勿論、彼女は気づかない。帰宅後早速読書を始める。期限付きの読書は不本意ではあるが、期限をつけないとなかなか読めないからいいのかもしれない。三島由紀夫から読むことにした。三島由紀夫を読むのは初めてではないはずであるがたぶん10代の頃であったので、ほとんど覚えていないし、それほど確固たる意志をもって読んだという覚えがないのでほとんど初めて読む感覚である。日常の中で、読書にさける時間はほんの少しであるが私にとっては、少しだけ非日常な文学的時間である。それは、静かではあるがとても深く私の中に浸透する時間なのだ。
2006.01.08
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文章を書くということは、自分自身を見直す作業であると思う。文章には、その人の人格、品格があらわれると言った人がいたがまったく同感である。そういう意味からすれば、文章を書くということは私にとっては楽しい作業とはいえない。むしろ苦痛な作業である。自己顕示欲が比較的少なく、自分のことを語るのが苦手な私が何故ブログをやっているのかというと苦痛な作業の中にも、文章を書くということに何らかの意味を見出しているということにほかならない。ただし、完全に自己満足の世界である。私には本当に「書ける」ということはないような気もする。「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ。」最近読んだ小説で印象に残った文章。
2006.01.06
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前回の日記に書いた通り、台所の蛇口の水漏れを直すべく水道工事屋に来てもらうことにした。ネット検索で並んだ会社の自宅から近いところから電話していく。朝一に電話してみたが、意外とつながらい。まだ休みです、とか主人が旅行中でよくわからない、とか、今週中は予定が立てこんで来れない、とか。世間はわりとのんびりしているなと感じながら8件目でかけた水道屋さんがようやくすぐに来てくれることになった。あらわれたのはまだ20代であろう茶髪のにいちゃん2人であった。最近、うちの子供らはこういう業者の人が来るとなぜか、からみたくてしかたがないようなのだ。このまえ、電器屋さんが来た時もそうであった。いちいち大人の話に割り込むし、作業中もにいちゃんたちに話しかけるのである。娘は、自分が食べていたいちご味のチョコレートをにいちゃんたちに「あげるわ。」とふるまっていた。まったく、おせっかいな娘である。けっきょく、蛇口ごと交換することになった。このマンションも築20年になるので、システムキッチンの蛇口もそろそろ寿命であろう。3万円ほどかかるらしい。「部品を今から発注しますので、いつ工事になるかまた電話します。」と言い残し、にいちゃんたちは帰っていった。夕方、水道屋から電話があった。「物が届くのが土曜日で工事は連休明けの10日になりますけど、よろしいですか?」まぁ水漏れは大したことはないので、「いいですよ。」と軽く返事をしてしまったが、迂闊であった。「しゃあないなぁ。じゃ、その分安うしてな。」と言えばよかったと後悔した。こういう言葉がすっと出ないあたり、私は真の大阪人でないということであろう。仕方ないので、ついでに洗面所と風呂場のパッキンをただで交換してもらうように話をもっていくことにするか。しかし、年明けから痛い出費である。
2006.01.05
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正月三が日が終わった。日常の中の少しだけ非日常的な日々。毎年年末から年明けまでのこの数日は、自分自身の意志とは違う方向に時は流れていくような奇妙な感覚を覚える。そしてそれは、確実に毎年やってくるのだ。年賀状が必ず元旦に届けられるように。新聞屋の集金が、必ずやってくるように。しばらくすると、この奇妙な感覚にも体は馴染みそれを楽しんだりしている自分もいる。テレビは、完璧に正月バージョンになっておりだらだらと娯楽番組を見ることもなかなかいいなと思ったりする。のんびりと流れていく時間。こういう退屈さは、心地よいものだ。退屈というのは、無上の贅沢である。お互いの実家を行き来して、自宅にもどる。いつもの自宅の風景に感じることは日常に帰ったのだという安易な安心感と少しだけの閉塞感。少し水漏れのする台所の蛇口を見ながら明日、直さないといけないな、と思った。私は、また日常に帰ってきたのだ。
2006.01.03
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