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今週は小学校の授業参観に家庭訪問があった。幼稚園は公立は家庭訪問はあるが、私立は懇談で園に父兄が行くことになる。幼稚園の懇談は今月中旬に終了している。まあ年度始めである。家庭訪問は本日午後4時30分の予定。通常いつも家をキレイにしているので特にあわてる必要はなく、季節の花でも飾ろうかと優雅に考える私。というのは勿論嘘で、今朝食器はそのまま服も脱ぎ捨てたままで出勤したのであった。ということで今日は仕事を13時にあがり、家庭訪問にそなえることとなる。1時間ぐらいあれば余裕で掃除できるだろうと思っていたが不思議と妙なところが気にかかるものである。システムキッチンの下の棚をクレンザーで磨いた。台所のテーブルに先生が座った場合、結構目がいくところのなのである。この前磨いたのはいつだったか覚えていない。こういう機会がなければシステムキッチンの棚はいつ磨かれることだったろうか。15時すぎ、下の子の幼稚園の迎えに行く時間となりタイムアップ。思ったより掃除ははかどらなかった。ある程度見えるところだけ片付けたという状態。16時15分、下の子を幼稚園に迎えに行き、帰りにスーパーで買い物して帰宅。先生を待つ。17時すぎ、30分ほど遅れて先生到着。時間がおしてる上に道に迷ったそうである。先生にアイスレモンティー(市販品)をお出しする。「おかまいなく・・・」先生は今日一日でどれだけのお茶を飲まされるのだろうかとふと考える。アイスコーヒー、ホットコーヒー、紅茶、煎茶・・・「何かクラスに要望とかありますか?」という先生の質問に、「今の子供に対しての私の個人的教育論なんですが・・・」と長々と語る私。というのは勿論嘘で、「特に・・・」と曖昧な笑顔で答える私であった。こういう質問に上手に答えられる大人になりたいものである。しかしいつも家庭訪問で思うのだが、ほぼ初対面の先生と話すのは緊張するし、話すことも特にないのである。時間もおしてることだし、早々に10分ほどで家庭訪問は終了。先生はアイスレモンティー(市販品)に手をつけなかった。
2006.04.28
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小説を読んだり、音楽を聴いたりするのが好きである。しかし、自分が一生の間に鑑賞できるものは限られている。特に文学作品は一冊読むのにも時間がかかる。それを思うと、散りゆく花を見るように空しくなる。この世に知らされている芸術のほんの一部しか知ることはないのだと。芸術とは何だろうか。才能に恵まれた天才がさらりと表現しただけのものだろうか。人の魂を揺さぶるものとは、それだけではない。才能は勿論、その人の喜び悲しみ怒り苦悩、血や涙や汗、その生のすべてをもっての表現が心を動かすのだ。「僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い溝が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。 夜中の3時に寝静まった台所の冷蔵庫を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことはできない。 そして、それが僕だ。」村上春樹「風の歌を聴け」より
2006.04.12
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入学式シーズンである。うちは今年は入園入学はないのだが、息子の幼稚園では入園式の日に進級式を行うのである。一年前の入園式の頃からすれば、それなりに成長した息子に感慨深いものを感じ目を潤ませる私。というのは嘘で、なぜ入園でもないのにスーツにヒールで出かけなあかんねん、こっちは自転車やで、とひとり呟く私。タイトスカートにヒールに自転車二人乗りである。シブイ。幼稚園で親子を見ると、間違いなく親子だなあというくらい似ている親子をよくみる。不思議と他人の親子は似ているのがよくわかる。私は小柄なのだが、息子はダンナ似で学年で3番目くらいに背が高い。3番目くらいというところが中途半端でよい。背もでかいが態度もでかいのである。というのは嘘で、筋金入りのマザコンで気弱な子羊のような息子である。顔は私に似ているといわれるが、私にはよくわからない。新しいクラスで、ひとりひとり園児が前に出て自分の名前を自己紹介がわりに言うのだが、息子は流暢に礼儀正しく自己紹介をし、私を喜ばせた。というのは嘘で、自分の名前にわざわざ「くん」をつけ、順調に皆の失笑をかうこととなったのであった。「はーい。さよならの挨拶をしまーす。」「せんせい、さよなら。みなさん、さよなら。あしたもがんばる、えいえいおー。」息子のやる気のないエイエイオーに、まあ、こんなもんやろと呟く私であった。こんな息子であるが、20年後30年後に桜の美しい庭園のあるレストランなどで接待をうけるのがとりあえずの私のはかない夢なのである。やれやれ。
2006.04.07
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近所の桜が咲いた。まだ五分咲きといったところだ。家の台所の窓から、ベランダから桜の木が見える。窓を開ければ桜が見られるのは、なんとなくうれしい。桜は不思議だ。引き寄せられる。桜の木の下に行ってみる。染井吉野。美しい名前である。響きも良い。桜を見て感じるこのせつなさは何だろう。染井吉野の淡い色は、この世で一番上品で繊細な色だと思う。前に日記で書いたが、やはりそう思う。毎年桜を見て思うことは、来年の桜の頃の私はどうなっているんだろうということだ。桜は散るから美しい。日常も移りゆくから趣がある。凡庸さに埋もれそうな毎日。一日一日は、それほど変わり映えはない。けれど、去年の桜の頃の私と今、桜の木の下にいる私はやっぱり違う。少しずついい方向に自分が向かっていければ、それでいい。
2006.04.03
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