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2017.01.17
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カテゴリ: 探訪 [再録]

                                                                                              [探訪時期:2013年1月]
北千畳の東端の見附の石垣下を回りこむと、
  大手門に向かう道に入ります。




上掲画像の赤い防寒着の人物の位置あたりから、同様に写真を撮りました。
左手には立雲峡のある山並、俵米橋から加納橋にかけての円山川が手前の山蔭になり、久世田の集落が見えます。 右手を眺めると南千畳・二の丸の石垣が重層して連なっています 。石垣が雄大です。


三の丸の櫓から一段下の北千畳面の石垣に沿って大手門への緩やかな階段坂

大手門虎口 です。


大手門虎口の途中からの眺め 。南東方向には立雲峡のある山


この石段を登ると左に三の丸への枡形 、前方から右手方向に北千畳が広がっています。

石段上から振り返って見る と、城下町中央・朝来橋から山東町への幹道(県道)が通る山間が見えます。


北千畳に立ち、東北方向を眺め、石垣に近づいて行く と和田山に至る方角がはっきりと見えてきます。


北千畳の北辺石垣の中央辺りに佇み、西方向を望む と、三の丸の北辺石垣の西部分と西側の山並みが見えます。

北方向に向きを変えると、眼下に安井・栄町の集落が望めます。



北千畳で、東側石垣の方向に移動します。 東方向眼下には


南西よりを眺めると、 三の丸の石垣が続き、大樹の背後に三の丸への枡形、そして石垣が続き、少し上に載せた画像へと繋がっていく360度の景色です。




逆に、少し北よりに目を転じれば、遙か先に冠雪した山並が連なっています。


三の丸への階段を登った辺りから大手門方向を見て


                 三の丸からの眺望  北西よりの方向


三の丸から本丸・天守を眺める


三の丸を横切って二ノ丸へ向かうには、
弐の門 を通過して進まねばなりません。

ここを突破しようとすれば両側の石垣上から矢弾を浴びることでしょう。


通り抜けたところから振り返ると・・・

縄張り図を見ると、この地点は、図の右手、北千畳・三の丸から二の丸にむかう間の細くくびれた鍵形の構造であり、ここを曲がりながら進むことになります。
二ノ丸への石段を登らなければ、二ノ丸・本丸の石垣下を通って花屋敷の曲輪の方に行ける形です。

永録13年(1570)、太田垣輝延が第7代竹田城主となります。
その7年後、天正5年(1577)『信長公記』を読むと、「但馬・播磨、羽柴申し付けらるるの事」という項に、「霜月廿七日、能美川打ち越して、」という書き出しで上月の城、福岡野の城を攻略する記載があります。「夜を日に継ぎ、懸け廻り、羽柴筑前、粉骨の働き、比類なき題目なり」と記しています。そして、天正6年(1578)には、6月に「播磨神吉攻めの事」という記載があります。信長は秀吉に神吉城かさらには三木城の攻略が命じられています。それは、中国地方の毛利氏との戦いにおいて、三木城の別所長治が毛利方になったことによります。
この項の中に、「羽柴筑前は、但馬国へ相働き、国衆前々の如く召し出し、竹田の城に木下小一郎入れ置かれ候ひキ。是より書写へ、羽柴筑前人数打ち納れらる。」と出てきます。(小一郎とは秀長のこと。)つまり、羽柴秀長が竹田城の城代となるのです。
三木城は天正8年(1580)1月に落城します。同天正8年、信長が秀吉に命じた但馬征伐の結果、太田垣氏の竹田城は終わります。羽柴秀長は出石・有子山城に入り、秀長の属将・桑山修理太夫重晴が竹田城主となるのです。
天正13年(1585)に、桑山重晴は和歌山城主に移封され、赤松広秀が竹田城主となります。この赤松広秀が豪壮な石積みの城郭を整備したと言われています。
そして、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いにおいて、赤松広秀は西軍方に味方し、西軍敗戦後、東軍に寝返って鳥取城攻めに加わり、その時の大火(城下焼き討ち)の責任を問われて鳥取・真教寺にて自刃。この時点で、竹田城が廃城となるのです。

対赤松氏への前線基地として築城された竹田城が、時を経てその城を整備した赤松氏により、廃城となるのは歴史の皮肉でしょうか。
勢力の興亡はいつしか終焉し、聳え立つ縄張りの美しい城跡が今に残されたのです。


さて、このあとはいよいよ本丸に向かいます。

                   お城と城下町の位置関係を知るために

つづく

参照資料
*「歴史と文化が薫る日本一の山城の城下町『竹田』へようこそ」
    (2007年3月 竹田地区まちづくり推進協議会作成)
*「但馬和田山 竹田城跡」 A4サイズ両面刷
*「国指定史跡 竹田城跡」 朝来市教育委員会社会教育課発行 A3サイズ両面刷

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
羽柴秀長 →  豊臣秀長 :ウィキペディア
桑山重晴  :ウィキペディア
赤松広秀 →  斎村政広  :ウィキペディア
関ヶ原後の豊臣恩顧・最初の犠牲者?赤松広秀  :「今日は何の日?徒然日記」
但馬國 赤松広秀墓所 (兵庫県朝来市)
まちの文化財(80) 赤松広秀の供養塔  :養父(やぶ)市のホームページ
上月城  :「城と古戦場」(その他の城・近畿)
神吉城@兵庫県加古川市  [お城踏査] :「山城踏査日記&城郭関連情報」
三木城  :「城と古戦場」(その他の城・近畿)
出石城跡   :「城めぐ.COM」
有子山城跡  :「城めぐ.COM」
虎口  :ウィキペディア
円山川  :ウィキペディア

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


探訪 [再録] 但馬・竹田城跡 -1 城下町筋・観音寺山城跡・北千畳 へ
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探訪 [再録] 但馬・竹田城跡 -4 南千畳 へ
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Last updated  2017.01.18 21:55:39
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