前段では、グーグルという会社がどうあろうと、どうでもいいや、などと少しめんどくさい気分になってしまったが、本当にそうなのだろうか。グーグル一社のことを考えると、まぁ、確かにそんなもんだろう、で通り過ぎてしまうが、日本経済の現状を考え、軒並み不景気をかこっている流通社会を見るとき、グーグルの中に、なにか新しいヒントをみつけようとする姿勢は、まだ捨ててはいけないのだろう。
ヤフーとグーグルはどこがちがうのか
p089
グーグルと楽天・ライブドアの違い
p089
このタイトルを見たら、やはり、興味をそそられる。端的には、著者は 「りんごとオレンジを比べても仕方ないのではないか」
と、一笑に付す。
ヤフーはメディア、グーグルはテクノロジー
p092
「ザ・サーチ---グーグルが世界を変えた」
という本があるようだから、そのうち読んでみることにしよう。
ヤフーとグーグルの競争の背景には、サービスにおける「人間の介在」の意義を巡る発想の違いがある。なんと面白い競合関係であることだろう。
p096
私は自分のことを人間主義だと思ってきた。より人間らしい生き方をしようと思ってきた。でも、その時、人間らしいとはなにか。そこを本当に突き詰めて考えたことがあっただろうか。本著によれば、人間を介在させることによってユーザ経験がよくなるとするヤフーに対して、グーグルは、人間の介在を完全に排除して、すべてを自動化しようとする、という。
ここで「人間主義」の私は、当然、ヤフーに共感すべきなのであろうか。いや、この時の人間とは「神」ではない。人間は、美しき誤謬性を携えている。常に間違いを起こしうる。ちいさなものから、大きなものまで、間違いをおこすのであり、完全ではない。だからこそ、私は、「あちら側」の巨大情報発信基地などに頼りたくない、とまずは思った。自分の手元に情報をおくことにより、もちろん、人間として間違い得る自分の自己責任で情報を管理・処理したいと思った。
しかし、もしグーグルが主張するように、美しき誤謬性としての「人間」性を完全に排除して、すべてをコンピュータシステムの中に自動化して行ったら、そこには、限りなく完全な、「神」のような俯瞰的視点ができあがるだろうか。もちろん、今はまだまだペシミステッィクにしか、その動きを眺めることしかできない自分がいる。でもでも、もしも・・・
グーグルの動きからは、やはり、目を離せないのだ。
地元の半径15キロ程度のエリアの中で、個人や中小企業を顧客としてドブ板営業の毎日を送る自分にとって、日々気になるのは、シャッター商店街として廃れてしまった地元の町並みだ。そして、最近では、その旧商店街を押しつぶして成長したはずのコンビニエンス・ストアが、次々とシャッターを下ろして無人廃墟化している姿を、多く見るようになってしまった。経済的にマイナスなばかりでなく、見ていても美的ではなく、まさに悲しい。
もともと親が死んでもシャッターを下ろせないはずだったコンビニ経営者は、本来勝ち組であったはずだったが、もうすでにコンビニを経営したばかりに零落していった家族もたくさんでている。百貨店であろうと、スーパーであろうと、次々と新しいスタイルができては、古いものをぶち壊し続けている。今、ウェブ進化論とやらの中で、また新しいビジネス形態、流通形態ができていくとするなら、それはそれとして大いに注目すべきであろう。
しかしながら、あれほど輝いていたコンビニが勝ち組・負け組に大きく分かれて、闇の中に廃墟をつくりだしているように、また再び、Web2.0とやらが、新たなるシャッター商店街を生み出すとするなら、なんと、人間界は愚かなことを繰り返し続けるのだろうか、とまたまたペシミステッィクになってしまう自分がいる。
フューチャリスト宣言 <1> 2007.06.06
ウェブ仮想社会「セカンドライフ」 2007.06.05
Web屋の本 2007.06.05
PR
Freepage List
Category
Comments