「反骨のジャーナリスト」
鎌田 慧
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そもそも、反骨の精神が希薄なジャーナリストを、ジャーナリストを呼べるかどうか。反骨とは「権力に抵抗する気骨」(『広辞苑』)だとしたら、反骨でないジャーナリストとは、権力に抵抗しないジャーナリストということになる。
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まさにそういうことだと思う。本書の最初からこのような言葉が出てくれば、それは当然だと思う。今から40年前も前に小学生だった私は、学級新聞の標語に「ペンは剣より強し」と書いていた記憶がある。それだけ当り前の常識のはずなのだが、現代のジャーナリズムが必ずしも「反骨」ならず、このような「反骨のジャーナリスト」列伝が出版されなければならないところから見ると、その真の意味が忘れられられているということになるのかも知れない。
この本に取り上げられている平塚らいてうや大杉栄などを「ジャーナリスト」の概念として見ることに多少疑問がないでもないが、その精神、その情熱やスピリットにおいて、「反骨」であることには変わりはない。
また、ここに取り上げられている人々は、2002年NHK人間講座「反骨のジャーナリスト」のテキストに加筆訂正されたものだというから、しかたないかも知れないが、前時代の人達が多い。歴史となってしまっている。もちろんこれらの歴史から学び、本来問われなくてはならないのは、現代のジャーナリズム、そして現代の反骨であろう。
今日のブログ記事のタイトルには、「情熱のユーモアの系譜」と書いたが、情熱はともかくとして、「ユーモア」としたのは、果たして適当かどうか悩む。敢えていうなら、宮武外骨などは、まさに日本のユーモア・ジャーナリストの元祖みたいなものだ。悲壮な絶叫だけではなく、笑いで権力を笑い飛ばすというセンスがある。他のジャーナリスト達においても、ユーモアと言わず、ヒューモアという言葉なら、全員あてはまるだろう。まさに人間としての叡智に裏打ちされた反権力・反権威とい姿勢が確実なものとしてある。
桐生悠々やむのたけじにしても、ひとりの人間として、なんのひるむことなく堂々と反骨のジャーナリストとして歩む姿に圧倒される。ただ、歴史上の先輩達がいくら立派でも、はて、その系譜に連なる現代のジャーナリストたちはどうなのだろうと、つい振りかえって考えてしまう。もちろん著者の鎌田慧氏は、みずからをジャーナリストとして任ずる限りその精神は間違いなくお持ちだろう。
時代時代で権力や権威というものも姿を変えつづけている。「剣はペンより強し」という場合、現代の戦争を続行しようとする勢力に対して、ネット社会などがその機能を十分に発揮していくことを期待したいものだ。
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