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「富の未来」 、 「世界共和国へ」 、 「オープンソースを理解する」
ネット社会の未来について書いてある本は、他にたくさん読んだ。理解できたものもあれば、的外れな本も多かった。 =<再読>したいこの3冊=ネット社会と未来 カテゴリ編 に残ったのはこの3冊だったが、この3冊が特段に優れているという意味ではない。初読時になんらかの理由で読みきれなかったけど、<再読>しないと、なんとなく悔いが残りそう、という本の中のトップ3冊ということである。
「世界共和国へ」は、そのテーマにも惹かれ、もしこの本がよりおもしろければ、著者のほかの表現物にも手をだそうかな、と思ってはいたけど、今はやめておく。観念的すぎるし、独尊的で寛容さが感じられない。そして新しいように見せてはいるが、その世界観は実に古い。保守的といってもいい。ネット社会への視点がない。
「オープンソースを理解する」は、現在読む本としてはちょうどぴったりの本で、このブログにおいては実に示唆的な一冊ということができる。この原理、このシステムが、ネット社会の未来を変える可能性があるのだ。このポイントの再確認とさらなる強調が必要であろう。あえて弱点を言えば、コンピュータやITを離れた視点からの人間の捉え返しがない。それをこの本に求めること自体無理があるのだが、まぁ、このブログのこのカテゴリの一冊とするには、やや難がある。
「富の未来」についても、難があることには違いはない。ネット社会、という時に、私は、「ネット」が「社会」を「どのように変えていくか」という視点で見ていくわけだが、トフラーの場合は、「社会」は「ネット」によって「どのように変えられてしまうか」という、やや受身的で後追い的である。ただアントニオ・ネグリが牢獄にありながら、ITに関してはハートの力を借りながらなんとか著書群を生み出しているのに、トフラーは、未来学者としての高名さを最大限に利用して、あらゆる人々とコネクトをもち直接取材し、十分なスタッフたちの協働を引き出している。
ネグリは1933年生まれの74歳。トフラーは1928年生まれの79歳。なんとも元気な老人達である。彼ら個人にとっての「未来」とは何か。避けられない絶対的課題は「死」であるはずである。しかるに、両者の本には、この「死」に対する煮詰めが足らない。ひたすら外側の世界や社会を論じている。なにか重要なことがらから目をそらそう、そらそう、としているかのようだ。
何も老人は念仏を唱えていればいい、とは思わない。若者たちの中には「未来」をまったく語れない立場に追い込まれている存在も多くある。見える立場の人たちは、多いに「未来」を語り、夢を語ってもらいたい。しかし、その未来や夢も、根のない浮いたものなら、完全なものではない。この老人達は、自らの思想や哲学、あるいは人生観の中に、もっと「死」というスパイスを効かせるべきだ。なにかひと味が足りない。
とは言え、このカテゴリでは「富の未来」を「この一冊」と決定する。ただし、「富の未来」というよりは「革命的な富」という本来の意味でのニュアンスを強める意味で、今後、三読できればいいな、と思っている。トフラーをネグリと併読したら面白かろう。トフラーの中に生産消費者という大人しめな人間ではなく、マルチチュード的人間観が立ち上ってきたら、おもしろかろうと思う。
革命的な富によって、貧困の将来が変わる。
将来について確実なことは何もいえないが、第三の波の知識経済が実現すれば、世界の貧困を一掃する絶好の機会になるだろう。
地球上から物質的な貧困を一掃できると主張するのは、ユートピアを夢想するようなものである。貧困をもたらしている要因はいくつもあり、愚かな経済政策もあれば、政治制度の欠陥、気候の変化、感染症、戦争もある。だが、貧困撲滅に使える強力な手段があること、少なくとも間もなく開発されようとしていることを認識するのは、夢想的ではない。
ある軍事理論によれば、情報技術によって戦争を行えるのは軍隊だけではなくなり、何億人もの民間人が、おそらくは他国の多数の同調者と協力して、戦争に参加できるようになったという。民間人がノートパソコンを使い、遊んでいる演算能力を集めて仮想スーパーコンピューターを構築し、敵国のインフラを攻撃する。金融ネットワークなどの民間の目標も攻撃対象にする。こうした攻撃がとくに有効なのはアメリカと戦うときである。アメリカは、情報技術と通信技術にとくに依存しているからだ。 「富の未来」(下)p224
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