「ウェブ時代5つの定理」
この言葉が未来を切り開く!
梅田望夫 2008/03 文藝春
秋 単行本 269p
Vol.2 No.0069 ★★★★☆
その5つの定理とは、
1)アントレプルナーシップ
2)チーム力
3)技術者の眼
4)グーグリネス
5)大人の流儀
5つの定理とはいうものの、それぞれの定理に10以上の各界の著名人の言葉が引用されており、その定理の枠をはみ出している観がある。そして、なお目新しいのは、そのひとつひとつの言葉の原文(ほとんど英文)を併記していることである。
たしかに日本人は英語に弱い。いくらネット社会がグローバル化しバリアフリーになっても、言葉のバリアはいかんともしがたい。当ブログも耳の痛いところであるが、徐々に英語文献も読み込んでいくつもりである。
ただ、ネット社会という時、著者と当ブログでは、だいぶズレが目立ってきた。「アントレプルナー」や「技術者の眼」、などという定理は、もはや、10の桁を四捨五入すれば、100歳となってしまう筆者としては、いかんともしがたい。そして、「チーム力」や「グーグリネス」という定理もうなずけないわけではないが、片や開発者やビジネスサイドからの視点であり、ネット社会とは、利用するものであり、いかにつながるか、という程度の参加のしかたをしている当ブログとは、視角がまったく異なってきてしまっている。
最後の「大人の流儀」というところあたりは、我が意を得たり、と、しなくもない。「日本語圏特有の匿名文化」などは、悪しき2チャンネラーなどに読んで聞かせたい。
日本のネット空間では、「2ちゃんねる」に代表されるような、匿名で何かを言いっぱなしにする、誰かを攻撃する、といった傾向が強くあります。「2ちゃんねる」のような完全なる匿名文化の巨大掲示板は、良くも悪くもユニークな存在で、英語圏にはこれに該当するものがありません。ネット空間といっても社会ですから、それが悪場所として片隅に存在する分には何も問題ないのですが、日本ではその文化がネット空間全体を覆いつつあることに危惧を抱きます。
p222
なにも匿名や無名性が悪いわけではないし、かく私もその楽しみを知っている。例えば、仮想空間で「もうひとりの別な自分」になったりする楽しみはないわけではない。しかし、私の場合は、その楽しみはそうそう長くは続かず、結局は、よりリアルな自分にゆり戻されることが多いようだ。
当ブログで使っているハンドル・ネームも、匿名ではないか、といわれててしまえばそれまでだが、これとて、すでに30年以上もつかっている別名である。リーガル・ネームよりは短いが、リーガルネームは知らずとも、こちらの名前で私の存在を認知してくれている人達もすでに多くいる限り、かならずしも匿名とはいいがたい。すくなくとも、日本人では、このハンドルネームを使っているのは、私が唯一と言っていいかもしれない(インドではありふれた名前だが)。すくなくとも、日本にありふれた私のリーガル・ネームよりは、こちらのほうが、すぐに私個人が特定されてしまうことになるだろう。
この「匿名性の方向に偏った」日本語圏ネット空間に特有の文化が、ネットの持つ豊穣な可能性を限定し、さまざまな「良きもの」が英語圏ネット空間では開花しても日本語圏では開花しないのではないかと、最近はそんな危惧を、強く抱いています。
p223
「己は何者なのか----フェースブックの台頭」なども、耳の痛い話である。SNSという仕組みの登場の仕方は衝撃的であったが、結局日本におけるスタンダードとなってしまったmixiなどには、すくなくともメリットとデメリットが相半ばするように感じている。
SNSでもブログでも英語圏のほうは、かなりカジュアルに実名を出します。ブログのコメントにしても、アマゾンのレビューにしても、実名で書き込む人も多い。まじめに何かを発言するときは、普通に実名を使う。こうした差異が、近年ますます際立ってきました。
中でも英語圏におけるネット文化を象徴する存在が、アメリカで急速に広まっていきた「Facebook(フェースブック)」というSNSです。
p224
「シリコンバレーならではの強さ」と「日本ならではの強さ」をいかに融合させるかが、著者の「最終定理」だそうだp263が、シリコンバレーやクールジャパンというものの捉えかたは、著者ならではのものである。著者のこの最終定理になぞらえていえば、ネット空間とZen的no-thingnessを融合させることが、当ブログの最終定理といえなくもないかな、と考えたりする。

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