「お坊さんだって悩んでる」
玄侑宗久 2006/07 文藝春秋 新書 278p
Vol.2 No.0096 ★★★☆☆
お坊さん、和尚さん、住職、坊主、僧侶、その他、さまざまな呼称のありそうだ。いわゆる仏教にかかわる立場を自らの役割として勤めなくてはならない人々がいる。この本には『寺門興隆』というその道の人々が読んでいる月刊誌に連載された問答集が加筆・訂正されて一冊にまとめられている。
今東光は 水上勉
が子坊主として寺に住み込みながら、19歳の時に出奔してしまったことに対して、一か寺も守れないいい加減な奴とこっぱみじんに批判していたことが、どこかの記憶に残っている。別に水上にかぎらずこのような例はたくさんあるのだろう。寺院経営に「うつつ」を抜かす住職もいるだろうし、寺院経営に「専心」する住職もいるに違いない。
この世における修行の形態は、ひとそれぞれだ。寺院経営とて、一筋縄ではいくまい。寺を否定することもできるだろうし、寺を修行の真ん中の場として位置づけることもできるだろう。この本は、寺や葬儀にまつわるさまざまな具体的な「悩み事」がつづられている。はっきり言って、それこそ門外漢の私にはどうでもよいように思われることがたくさんあるが、それじゃぁ、今後、寺と無関係に生きていけるか、というとそうでもない。
先日も、小中学校の同級生がひとり亡くなった。家族に発見されるまでに数日かかってしまったという孤独死だった。にわかに葬儀が執り行われた。早すぎる、惜しまれる死ではあったが、決して他人事ではない。いついかなる時にそのような立場になるか、誰にもわからない。
スピリチュアリティや宗教性にも思いをめぐらすが、自らにもかならずやって来る死についても考える。自らの死は自らの死として受け止めよう。もちろん、残された人々に対しての心づかいも必要だ。葬儀もいらなきゃ、法名もいらぬ。香典献花はうけつけぬ、というのも、私自身においては極端だと思う。私自身はごくごく普通の仏教形式の葬儀を望んでいる(現在のところ)。
もっとも私がお世話になろうとしているのは、伝統的仏教宗派から独立した単立寺院だ。本山をもたず、友好関係にある複数の寺院とともに、スリランカ仏教界とつながりを持っている。いや、別に私がこの寺を選んだわけではない。生家の菩提寺であり、墓地も現在の住まいからほど近いところにあって便利だからだ。「家督」ではない私は、自ら墓地をもとめなくてはならない立場だ。希望する墓地もそこそこイメージはできている。
生まれる時は産婆さんか産婦人科のお医者さんにお世話にならなくてはならない。死ぬ時は、やはりお坊さん(あるいは他の聖職者)や葬儀屋さんにお世話にならなくてはならないだろう。べつに私は化けて出たいとも思っていないし、チベットの死者の書を49日間にわたってあげてもらいたいとも思っていない。ごくごく普通に隣近所に合わせた形で、おだやかな最期でありたいと思っている(しかし、そうなるかどうかは、いまのところは神、いや仏のみ知る、というところか)。
「お坊さんだって悩んでる」。うんなるほど。それはわかった。しかし、だからといって私は 「がんばれ仏教!」
というほど期待や過剰な依存はしないでおこうと思う。私自身の死は一回限り。私自身以外に代わってもらうわけにはいかない。葬儀は残された者たちがやってくれるものであり、また本質的にいえば、それは残された者たちのためのものだ。私自身の死は私自身以外の誰にも体験できず、仏教や葬儀とは一線をひいて存在しているものだ。

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