「夢の修行」
チベット密教の叡智
ナムカイ・ノルブ/永沢哲 2000/12 法蔵館 単行本 212p
Vol.2 No.323 ★★★★☆
ナムカイ・ノルブには、 「虹と水晶」 1992/02 や 「ゾクチェンの教え」 1994/03 やある。チベット密教の至高とされ、ニンマ派に伝承されてきたと言われるゾクチェンの境地はこの著者あってこそ、読む者に伝わってくる部分がある。いきおい同じ著者の本であるこの「夢の修行」にも期待したが、編集者たちによる注釈が多すぎて、せっかくの神秘的な部分が台無しになっているようなイメージがある。
たしかに著者の他書を読むと、夢について言及した部分が多くあり、その人生の展開には夢からえたメッセージや解読が大きく影響している形跡がある。その取扱い方には興味深いものがあるが、結局は夢は夢なのであるという納得も必要である。
禅定を睡眠と融合するには、獅子の睡眠の姿勢によってプラーナをゆったりと自由に放置し、目はつぶらないまま、自分の心臓の内部に、清明に輝く五色の光の玉を観想し、意識を集中したままで眠る。外の顕現がしだいに消え去っていく時、睡眠と夢の境界に、無分別にして透明に輝く認識がある。それを光明として自覚し、そのままの状態で、心を沈みこませることなく眠ることによって、睡眠が光明として生じる。 p66
どんなことでも瞑想にすることができるのであれば、夢を瞑想にすることも可能であろうし、そこを避けて通れないと悟った魂には、夢の修行も必要であろうが、あえて、この部分にこだわる必要は私にはない。もちろん、よく夢は見る。蒲団にはいるということは夢の世界にはいるのと同じ、というくらいによく夢は見る。金縛りにあうこともあるし、ある時などは、ちゃんと証明できた予知夢をみた体験もある。しかし、現在の私は、夢は夢、という以外に、深追いはしないでいる。
わたしたちは、禅とゾクチェンが目指している悟りの境地が、深く重なりあいながら、しかも完全には一致しないこと、ゾクチェンの悟りの境地は、禅的な空の体験を包含しながら、さらにダイナミックな光の運動におおきく開かれていることを、理解することができる。両者は、日常生活を尊重すること、「無為」「無作為」の強調をはじめとして、とても深い共通性をもっている。けれども、ことなる哲学を背景にしているのである。
現在の私はむしろこちらの、訳者の解説であるゾクチェンと禅との比較などのほうに関心を持った。
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