カギュー派をよく知るために <総括>
カギュー派の教義書としては、ガムポパの「ラムリム・タルゲン」を日本語訳した「解脱の宝飾」がもっとも本格的な書物である。
海外におけるカギュー派に関する出版物は、チョギャム・トゥルンパによるものが多かった。トゥルンパは転生活仏として生まれ、中国によるチベット侵攻のあと、アメリカに亡命し、カギュー派の密教を欧米に広め、詩人のギンズバーグなどに多大な影響をあたえたことで有名である。「チベットに生まれて」や「タントラ 叡智の曙光」、「タントラへの道」などを読むと、後期密教のもつ激烈な思想と行動原理を体現しつつ、現代の物質文明と対峙したチベット僧の類例なき生きざまが彷彿としてくる。
「西蔵仏教宗義研究 第五巻 カギュー派の章」
「裸形のチベット」
p274、 「増補チベット密教」
p249
例によって、「ソーカツ」することなどとてもできるものではないが、前に進むためにも、一度はまとめておく必要もあろう。もともと、ネーミングも統一していない。カギュ派、カギュー派、カーギュ派、あるいはカギューパ、などと表記され乱立している。当ブログでは、いずれにも偏らず、どの表記も受け入れてきたが、カギュー派、という言い方一番安定しているようなので、今後はこの表記で統一して行こう。
実際には、このままカギュー派おっかけにとどまったほうが楽しそうなのではあるが、ここからゲルク派、ツォンカパ、そしてマンダラへ、というおおよその旅の日程が組まれているゆえ、いずれの日にか再読することを期して、今回は、次へのステップへ移ろうと思う。
「解脱の宝飾」
カギュー派の最も本格的な教義書、と言われても、これはなかなか読み下せない。この本に慣れるには、忍耐と時間が必要だ。もともと「教義書」と言われると「教科書」を連想して、ああ、ここでまたお勉強ですかぁ、という気分になってしまうので、ちょっと苦手。仏法僧の三宝、とは言うものの、行をあまり教義化してしまうのはどうかなぁ、と、ちょっと怪訝な気分でいる。それはツォンカパに対しても同じことだが。
「チベットに生まれて」
チョギャム・トゥルンパの書物は、多岐にわたっており、なかなか全体をつかみきれないが、それでもやっぱり、一冊一冊が魅力的である。この本は出生からインドへの亡命までの半生が書かれている。トゥルンパの魅力のひとつは、古いチベットの伝統にいたずらにこだわることなく、新しい地球人スピリットの土台として、チベット密教システムを、より本質的に進化させようとしているところ。
「タントラ 叡智の曙光」
対談の相方、H・V・ギュンターの突っ込みがあって、やや固いが、欧米における今日のチベット密教の繁殖ぶりを思うとき、この本の持っている意味はますます大きい。まさにタントラの夜明けのファンファーレを高々に歌い上げているような感じさえする。のちに還俗したチョギャム・トゥルンパが、何をどうしようとしたのか、ということを知るための切り口となる。
「タントラへの道」
精神の物質主義を断ち切って、というサブタイトルがなんともセンセーショナルだった。チョギャム・トゥルンパは決して長くはなかった人生を、彼流の生き方で生き抜いた、現代の活仏らしい一生だった。この本が出版され、日本においても翻訳された意味は大きかった。クラシックなチベット密教も人気が高まり、欧米の仏教に対する理解力も高まっているが、結局は、現代人のためのゾクチェンなりマハムドラーなりが編み出されるべきであり、いずれチョギャム・トゥルンパの再評価の時代が来るにちがいない。
「西蔵仏教宗義研究 第五巻 カギュー派の章」
この研究シリーズは、当ブログのチベット散歩にはとても貴重なガイドブックとなってくれそうだ。要所要所をコピーして、今後も多いに活用させてもらおうと思う。当ブログはうろうろしながらも、いつの間にか少しづつではあるが、らせん階段のごとく一段一段歩み続けているようだ。カギュー派については、今後も関心はつきないことだと思う。
さて、今回この五冊を契機として関連本のいくつかをめくってみたが、ここからの支線もかぎりなく多く、ひとつひとつ追っかけていったら、際限なく広がっていってしまいそうな予感がする。どこでどうとどめるのか、今はわからないが、たぶん、それは内的な制限より、外的な制限によって形づくられていくように感じる。つまり、カギュー派は面白い、ということ。でも、本当は、カギュー派と言われる前の、カギューの人々が面白い、と言ったほうが正しいかも。
悟りへの階梯 2008.10.27
ツォンカパ チベットの密教ヨーガ 2008.10.26
聖ツォンカパ伝<2> 2008.10.25
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