「純粋仏教」
セクストスとナーガールジュナとウィトゲンシュタインの狭間で考える
黒崎宏 2005/11 春秋社 単行本 209p
Vol.2 No.344 ★★★★☆
著者 黒崎宏
には、 「ウィトゲンシュタインから
道元
へ」
2003/03 、 「ウィトゲンシュタインから
龍樹
へ」
2004/08、「理性の限界内の『般若心経』ウィトゲンシュタインの視点から」 2007/02、などの近著があり、その他、約10冊ほどある著書のすべては、ウィトゲンシュタインがらみの考察である。1928年生まれの哲学者の視点はますます冴えている。
もしも、ソクラテスが死んだ、とすれば、ソクラテスが死んだのは、ソクラテスが生きているときであったのか、あるいは、ソクラテスが死んだときであったのか、のいずれかである。そして、ソクラテスは、生きているときには、死ななかった。----さもないとソクラテスは、生きてもいるし死んでもいる、ということになったであろうから。しかしソクラテスは、死んだときにも死ななかった。---さもないとソクラテスは、二度死んだことになるであろうから。したがって、ソクラテスは死ななかった。
p120
セクストス・エンペイリコス とは、紀元前2~3紀にアレクサンドリア、ローマ、アテネなどで活躍した医学者、哲学者。彼の哲学的著作は、古代ギリシャ・古代ローマの懐疑論として知られる。黒崎はウィトゲンシュタイン研究者として、この人物と同じ時代に東洋で活動していたナーガルジュナとの共通点について検討する。
ブッダは、いかなる「教え」も説かなかったのである。それでは、ここで言うところの「教え」とは何か。文脈から見れば、それは戯論(形而上学的議論)であろう。それではそれは、例えば、どういうものか。それは、以下のようなものであろう。
過去世(生まれる前の世界)は存在するか。
来世(死後の世界)は存在するのか。
世界は(空間的に)有限なものか。
世界は常住(時間的に無現)なものか。
何と何(例えば、一瞬前の我と今の我)は同一か。
ブッダは、これらの問題については、何も答えなかったのである。何も語らなかったのである。このことを「無記」という。ブッダは、形而上学的真理を説くことによって、人びとを救おうとしたのではないのである。ブッダは、決して哲学者ではなく、あくまでも宗教者---救済者、しかも実践的な救済者---であったのだ。 p156
著者の特異な一連の書物は、当ブログとしては、これから読み始めるところであり、この書から入ったのがよかったのか、悪かったのかは、いまのところは判別つかない。ただ、感じたことは、難しそうに思えたわりには、きわめて簡潔で透明感の高い本であった、ということ。次の本にも期待する。
結局、純粋仏教には二つの側面があるのである。一つは、「縁起の世界観」であり、もう一つは、「一重の原理」である。そしてそのいずれにも、神秘的なことはもちろんのこと、超越的なことも仮説的なことも一切存在しない。それらは、現実の日常生活の世界の真実の姿についての、徹底した自覚に外ならない。したがってわれわれが、超越的なことも神秘的なことも仮説的なことも一切排除して、確かな世界に生きようとするならば、われわれに可能なことはただ一つ、「純粋仏教」を生きる、ということしか有り得ないのではないか。しかしそれは、実は、もはやいわゆる「仏教」ではなく、「宗教」ですらないであろう。そこには、神も仏も、天国も地獄も、そしてまた霊魂さえも、ないのである。それでは救われない、というのならば、それはそれで仕方がない。
これをもって私の「結語」とする。
p192
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