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涙なしには読めない。(私だけかもしれないが、むかしも今度もだった)20世紀初頭に書かれたプロレタリア文学。書かれたのも昔なら、読んだのも昔(私の青春時代ということ)。最近「プロレタリア文学はものすごい」荒俣宏(書斎人ダビドフさんのHP)というタイトルの日記を拝見して思い出したのだ。1960年代頃、プロレタリア文学を読み漁ったことを。やっぱり時代だったからかなぁー。←の100の質問へ泣ける本と解答したし、一度書きたくてこの機会に。書き出し。『毎日、郊外の労働者部落のうえの煙っていて油くさい大気のなかで、工場の汽笛がふるえ、そしてうなりたてると、その呼び声におとなしく応じて、...』いかにもそれらしい雰囲気というと語弊があるが、...でしょう?さて、あらすじは、ロシア革命前夜を時代背景に、労働者の息子パーヴェルと母との真実へ目覚めていく姿をとらえている。悲惨な労働条件でいやしがたい筋肉の疲労にうちのめされ、それを意趣遺恨で晴らす、遺伝子にくみこまれたような惨めな暮らし、人生。錠前工のミハイル・ヴラーソフもその一人。意趣遺恨をウオッカで飲んだくれ、女房、息子を殴ることで晴らし、惨めに死んでいく。そして息子パーヴェルも同じ道をいくかに見えたが、それていく。息子パーヴェルは母に打ち明ける。『われわれ労働者は勉強しなくちゃならない。...そのわけを知らなくちゃならないんだ。』社会主義思想、労働運動が弾圧されている時代。それを知った母は動揺したが、自慢にも、誇りにも思う愛情。『お前の変わり方、あぶないね、ほんとに!』ともの思わしげにいいつつ、見守る。質素だけれど清潔なふたりの家で始まる勉強会。その集まりに参加していく母。そして、時が息子と母のうえに流れていく。事件が起こる。もうおびえているばかりの母ではなく、むしろその先を行く母。その変化していく母と息子の魂の交流に高揚を感じる。涙せずにいられない。ロシア文学であり、れっきとしたプロレタリア文学と思う。もう発行されてないかと思ったら、岩波文庫(上下巻)にあった。もちろんゴーリキーは大作家ですから。
2004年03月20日
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半島を出よ(上)半島を出よ(下)1000ページを超える文庫本上下、ハードカバーでも上下巻の厚い本であったから、読み疲れた。緻密な文章だし、内容が濃いし、複雑な構成だから当然なんだけど。2011年の未来、北朝鮮の特殊戦部隊員の数名が福岡を占拠、テロリストに乗っ取られても日本政府はいつものパターン、後手後手の対応にがゆいったらない!いくらほんとのことに近いって言ったって、こんな無様な日本だったか、日本の役人、いや日本人が危機管理にいかに甘いか、お気楽なのか。愛国心めらめらと読み始めはそう思った。が、ストーリーの運びの視点が日本人だったり、北朝鮮人だったりくるくると変わって、だんだん高揚してくる。つまりこの物語を北朝鮮のコマンド、政府の役人、ホームレスの少年たち、福岡市役所役人、新聞記者、テレビのキャスター、等々の側から見ることになり、なんとも不思議な臨場感。ああ、北朝鮮のひとたちはこんな気持ちだったのね、とか、社会に溶け込めない少年達はこんな事を秘めていたのか、とか。可哀想になったり、怒ったり複雑な気分。膨大な登場人物が織り成す、辛口の批判精神ばりばりの、リアルを通り越した叙事詩。フィクションであってほしい物語。でも、よく出来ている。おもしろかった。ちょっと嫌だった。読み終わって、ぼーっとしてしまったのだった。そのわけはやっぱり愛国心。
2007年11月02日
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…広場に憩う。星のかわりに夜ごと、ことばに灯がともる。人生ほど、生きる疲れを癒してくれるものは、ない。巻頭の詩。(ウンベルト・サパ 須賀敦子訳 後半)読み終わってこの詩をしみじみ味わうと、このエッセイを要約しているのだという思いと共に、文学に浸ることはどういうことか、の答えが出る。遅咲きの作家ということを知りとても興味を持ち、まず読んだのがこのエッセイ。随筆といえどもフィクションの如きだった。11章に分けて、著者が1950年代半ばから71年までのイタリア留学、滞在中知り合った人々の話。だけれども一章一章その友人の人生が凝縮されていて、なおかつ文章がなんともうまくて心揺すぶる。さながら11の珠玉の小説。それは著者が「オリーブ林のなかの家」で友人の文体について書いているのに表れている。友人アシェルが創作した自伝的小説を読んでの批評に自分の言葉を、文体として練り上げたことが、すごいんじゃないかしら。私はいった。それは、この作品のテーマについてもいえると思う。いわば無名の家族のひとりひとりが、小説ぶらないままで、虚構化されている。読んだとき、あ、これは自分が書きたかった小説だ、と思った。……著者がイタリアから帰朝し30年も過ぎて、昇華したように書いた文章。イタリアのミラノにあった「コルシア・デイ・セルヴィ書店」。教会の物置を借りた小さな本屋さんだけれども、ある思想を持った共同体でもあった書店につどう仲間にはいった日本人の著者。友人たちの人生は様々、ヨーロッパは人種のモザイク模様、ことさらそれを強調するでもなく淡々と書き綴る。一人一人への熱い思い、人間として息づいている認識。やがて「コルシア・デイ・セルヴィ書店」は無くなるのだし、人々も老いていなくなる。けれど熱い人恋しさにみちあふれる喜びが残る。人懐かしくなければ孤独もない。孤独を恐れることはないと悟る著者。私も泣いてしまった。章ごとに魅力的な人物像ではあるが、私は「家族」の家族たちが通ってきた道に強く印象を残こした。これだけでも映画になりそうだ。たった37ページなのに。「小さい妹」もモーパッサンやサキの短編の如くで魅力的である。ああ、しかし私はどれともいえない、全部よかった。画像はハードカバー
2005年12月03日
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『序の巻この土地へきてからというもの、わたしの気持ちには隠遁ともなづけたいような、そんな、ふしぎに老いづいた心がほのみえてきた。』(「花ざかりの森」の冒頭より)今年はことのほか桜のつぼみが固い。東京も湯河原もまだである。近年、私は桜の開花が気になるようになったものだ。『いくたびもわたしは、追憶などはつまらぬものだとおもいかえしていた。』『追憶はありし日の生活のぬけがらにすぎないのではないか、…』なぜか、私は桜の思い出を大切にしてしまう。『わたしたちには実におおぜいの先祖がいる。…』『先祖はしばしば、ふしぎな方法でわれわれと邂逅する。』わかる人はいるだろう。自身のなかに祖先の血を感じるようになった。この三島由紀夫氏の印象的な作品「花ざかりの森」はご本人には、はなはだ不満の作品らしいが今の私にはとても解るのだ。三島氏16歳の時の作品、昭和16年初夏、偶然私の生まれた時という因縁。その一、その二、その三(上)、その三(下)と、ロマンティック過ぎるともいえる作品だが、この繊細なゆらめくような作品が私は好きだ。この世の「花ざかりの森」が待たれる。
2005年04月01日
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今住んでいるところは、町役場からのお知らせや火災の発生などが、畑や果樹園に設置されているスピーカーから流れる、ある意味では牧歌的なところであります。 ゆうべのこと、「69歳の〇〇さんという女性が行方不明になりました。身長〇〇、白髪ショートカット……見かけましたら〇〇警察署まで……」と流れました。しばらく時が過ぎてして「さきほどの方は無事保護されました。ご協力ありがとうございました」 事情はわかりません。けれどもよくお年寄りがいなくなって服装とか特徴がスピーカーから放送されるのです。いつも「はやく見つかるといいな~、家の人は大変だなー」と、散歩にはもってこいではあるが人家が少ない周りを見てみるのです。 で、ゆうべはひそかなるショックを感じたのです、自分の年齢に近い60代ということに。繰り返しますが事情はわかりません。若年認知症があるということも知ってます。でもでも「ああ、近づいてきた!ひとごとではない」と思いました。そして思ったことになおさらショックを受けたのですよ。 なにごとにもすぐ真剣になってしまう気質のわたし、どうしたらいいんだろうと考えます。でもその真剣に考えすぎること、それが元で変調をきたすのもありでしょうね。だからこれはたかをくくらないといけないかもしれません。 いえ、ほんとうは最近ひたひたと押し寄せる(健康面はもちろんですが)思考経路の老化現象が嫌になってます。特にこのごろ、なにもかもめんどくさくなることが多いです。循環器系の持病もありますので脳梗塞も心配です。やばいです。 それで予防になるかどうかわかりませんが、考えついたやりやすい5つのことです。まじめすぎないことみること、よむことむりをしないことめんどくさがらないこともういいはいわないこと もちろん身体の健康があって精神の健康ですけれどね。
2008年10月23日
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わ、わたしの思い違い。この往復書簡集、いい本でした。辻邦生氏のお著書を私が読んでいなかっただけ。知らなかっただけ。次から次へと、繰り出される文学の数々、ああそれも愛読書、これも私の好きな本というものばかり。もう素晴らしく展開させ、解き明かしをして下さるのでした。お二人のだんだん高まっていく情熱的文学論。文学上の告白。興味津々。お薦め本ではあります。もしかしてこの楽天日記を書いている意味が無駄になりそう。私の中で。しかし、私は一般の読書人、御両名は著名な作家。くらぶべきにあらず。それにしても、辻氏は身の回りのことなさるのかしら、つまり人間として生活出来る方かしら?と疑問が湧き、水村氏のほうは勿論暮らしもなんなく、稼ぎのある(自立している)方とお見受けし、ご著書が読みたくなったのでした。変だ。今、ここまで書いてisemariさんの書き込み発見、拝見。「辻邦生は非常に芸術至上主義というか、生きとし生けるものの美を歌う作家」うーん了解。そう。ほとにそう!私も読んでみます。-------------久しぶりの畑。こちらは暖かいので有名なんだけれど、着いた途端冷気がほほに。東京より寒く感じるのは透明だからだろう。お野菜は案の定、虫くい穴だらけ。蕪が大きく大きくなっていた。本格的有機栽培ではないがほぼ安全作物。これを肴に今夜はお薬(痛み止め)をやめることにし、好きなお酒を酌み交わそうかなー。
2003年12月12日
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映画で一度感想を書いているのだけれど、また語りたくなる。この本も映画「小さな中国のお針子」の監督が作者だから内容は全く同じ、なのに映画とは別の感動がある。禁書。社会主義体制堅持の中国ではあたりまえ。本の毒による西欧かぶれは敵。禁止されればよけいつのるではないか。苦労して手に入れた西洋の本の数々。 バルザック、ヴィクトル・ユゴー、スタンダール、デュマ、フローベル、ボードレール、ロマン・ロラン、ルソー、トルストイ、ゴーゴリ、ドストエフスキー、ディケンズ、キプリング、エミリー・ブロンテ…。文化大革命の「下放政策」でものすごい田舎やられた二人の青少年と、地元の小さな可愛いお針子の女子にとって、むなぐるしいほどの光明。本の世界に魅せられ、めまいがしそうな思い。それだけではない、もの悲しい青春の輝きも加わって、そうして近代の、現代の運命に流れ着いてしまう…。やはり、このみずみずしさは映画に勝るとも劣らない。文学好きにはたまらない一書。
2006年12月22日
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『侍女の物語』マーガレット・アトウッドある権力を維持するには、立場の弱い者から順番に「閉じ込めて、監視し、統制」していくのが常道だ。弱い立場にさせられるのが女性の女性性、幼年男女、人種差別される男女、職業の貴賎、等々。その女性がターゲットになったデストピアの世界を描いたのが、この小説の主題。読んでいて、むかむか吐き気が止まらなかった。これは未来の世界ではないからと気が付く、今まさに現実だからだ。フェミニスト的な立場としてだけではなく。そして、唯々諾々としている自分がいるからだ。書かれたのが1985年、今2023年。
2023年10月18日
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