文豪のつぶやき

2005.06.21
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カテゴリ: 新撰組
土佐藩郷士、武市半平太は嘉永元年(1848年)土佐城下新町に剣術道場を開く。20歳の時である。この道場は単なる剣術道場ではなく身分の軽いものの社交サロンでもあったため、土佐七郡から郷士、足軽が集まった。
坂本竜馬、中岡慎太郎、吉村寅太郎、岡田以蔵などである。
まだ十代の彼らは、ここで青春を過ごす。
これが後の土佐勤王党の礎になっていく。
嘉永六年(1853年)ペリー来航、万延元年(1860年)大老井伊直弼暗殺と内憂外患が続き、文久元年(1861年)8月、武市はついに土佐勤王党を結成する。
加盟血判者192名、その中には武市半平太ほか、坂本竜馬、大石弥太郎、河野万寿弥、中岡慎太郎らの名が見える。
みな、戦国絵巻から出てきたようなおとこどもである。

このときの血盟文は次の言葉から始まる。

堂々たる神州戎狄の辱しめをうけ、古より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと帝は深く歎き給う。-中略-われら一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一に裨補せんとす。-後略-


ペリー来航と桜田門外の変により戦国の世に戻ったのである。
しかも、わが思想の背景は勤王という正義である。この正義の前には、山内侍も幕府でさえも吹っ飛ぶのだから。
この土佐勤王党は、慶応元年(1865年)五月十一日、武市が罪を得て、切腹することで終焉を迎える。明治維新までわずか二年余である。
その後の一領具足の末裔たち、那須信吾、安岡嘉助、吉村寅太郎は天誅組を組織して玉砕、竜馬は海援隊を作り、薩長同盟実現、大政奉還の立役者になったが維新直前暗殺。中岡は長州において対幕抗戦を続け、竜馬と共に薩長同盟、大政奉還をなしたが暗殺。
青雲の頃、志を立てて踊るような気持ちで土佐勤王党結成に参加した青年たちは、累々と屍を築き、明治後、残った者はわずかしかない。






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最終更新日  2005.06.21 15:23:13
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