文豪のつぶやき

2005.06.22
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カテゴリ: 新撰組
幕末、勤王の卸問屋は水戸藩であった。
水戸黄門で有名な徳川光圀が家来に命じ、編纂したのが大日本史全397巻である。もっとも編纂開始が光國在世の明暦三年(1657年)で、完成を見たのは1906年(明治39年)であるから気の遠くなるような話である。
大日本史は、神武天皇から後小松天皇までの編年体歴史で著したもので、これをもとに日本は勤皇が正統であるとした。水戸藩の勤王たるゆえんである。
しかし同時に水戸藩は御三家である。いわば徳川将軍にもっとも近い血統でもある。
この矛盾が水戸藩内で、勤王、佐幕の血で血を洗う政争になり、水戸は薩摩、長州、土佐などに影響を与えながらついに埋没する原因になる。
水戸の勤王派を天下に知らしめたのはなんといっても桜田門外の変であろう。
万延元年(1860年)三月三日、降りしきる雪の中、薩摩藩士有村治左ヱ門一人を含む水戸浪士十八名が、幕府の最高権力者、大老の井伊直弼を討ったのである。
この事件の前、井伊直弼は朝廷の許可なしに開国(この時代尊皇派は攘夷、幕府側は開国であった)、将軍継嗣問題で水戸派の徳川慶喜をはずし、水戸藩に対しては反抗する慶喜の父斉昭の幽居(安政の大獄)と専断横行の政治をしている。
これに怒ったのが水戸の過激勤王派である。

有村治左ヱ門は有村三兄弟の末弟で、次兄にこの事件に連座して切腹した雄助、西郷の盟友とされ、明治後位人臣を極めた長兄俊斎(海江田信次)がいる。
治左ヱ門は、この時二十二歳、典型的な薩摩武士で、無口で偉丈夫なすがすがしい青年だったという。無論薩摩藩剣術、示現流の達人だった。
治左ヱ門は、薩摩藩からの参加がたった一人だったのを恥じ、井伊の行列に先頭を駆けて突っ込んでゆく。
そして井伊の首をとった後、腹を切っている。
ともあれ、この桜田門外の変で歴史は旋回する。
白昼堂々、時の最高権力者がたった十八名の浪士により殺されたのである。
これ以降、幕威は失墜し、草莽の志士たちは新撰組の登場までテロリストの季節をもたらす。(歴史の面白さは水戸浪士の井伊暗殺で全国の志士たちは狂喜し、続々と京に上って殺戮を繰り返すが、これを鎮圧する新撰組の初代局長芹沢鴨はこの水戸浪士の系譜を継ぐ水戸過激派にぞくしているということだろうか)





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最終更新日  2005.06.22 07:10:46
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