文豪のつぶやき

2005.06.28
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カテゴリ: 新撰組
新撰組は慶応元年(1865年)初夏(4月7日に元治2年から慶応元年の改元)に組織の編成替えをしたがその中に山南敬助の名がない。
山南は局長近藤勇の下、副局長の土方歳三の上に位置する総長だった人で、当然新編成の中では、土方の上か同等にあってよい。
山南敬助は北辰一刀流の免許皆伝で、近藤がまだ江戸で試衛館道場主だった頃からの付き合いである。
近藤の天然理心流は、古武術なので実戦には強いが、試合には弱い。道場破り対策として当時流行の試合剣術が出来る者をずいぶん頼んだらしい。
近藤はずいぶん気前がよかったので、神道無念流の塾頭であった桂小五郎や渡辺昇(後の勤王の巨魁ら)も酒が飲め、小遣いがもらえるため、ずいぶん近藤の試衛館道場に用心棒としていったらしい。
ともかくそういう風であったので、北辰一刀流免許皆伝の山南も用心棒をするうちに試衛館に居つくようになってしまったのだろう。
しかし、この当時の大きな道場は尊王の気風があった。
江戸三大道場の北辰一刀流の千葉道場は、坂本竜馬、清河八郎、神道無念流の斉藤道場は桂小五郎、高杉晋作、渡辺清、昇の兄弟、鏡心明智流の桃井道場は武市半平太を輩出している。
尊王の要素が強い山南は、将軍様第一という天領の多摩の百姓、近藤や土方とはちょっと入れにくい部分があったのだろう。

はっきり勤王といってもいいほどの伊東甲子太郎が前年一派を率いて新撰組に入隊するのも近藤と攘夷の点で一致していたからである。
しかし、時代が煮詰まってくると亀裂が生じてくる。
元治二年(1865年)ほぼ失脚状態の2月21日総長の山南は新撰組を脱退する。
琵琶湖のほとり大津まで来た山南は引止めに来た沖田総司に説諭され、一泊し翌22日京の新撰組屯所へ戻る。
脱退は、総長といえども切腹である。
翌2月23日夕刻、山南は腹を切る。
腹を切るにあたって、山南は試衛館時代からの盟友、二番隊隊長永倉新八に頼みごとをしている。
当時遊郭のあった島原の天神というところに深く契った明里という遊女がいる。
それにひとめ会いたいと頼んだ。
永倉は引き受けたが、明里はその日用事があって連絡がつかなかった。永倉は同志の最後の頼みを果たせないと思い、ずいぶん気をもんで待っていたが、いよいよ水さかづきが終わり、切腹というところで、明里が屯所へ駆け込んできた。
明里は屯所の山南が腹を切るであろう部屋の格子戸をたたき、「山南さん山南さん」叫んでいるとやがて格子戸が開き、山南が顔を見せた。

山南は沖田総司の介錯のもと、見事切腹した。
その後の明里の行方はわからない。





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最終更新日  2005.06.28 10:17:43
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