文豪のつぶやき

2005.07.01
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カテゴリ: 新撰組
新撰組の事件の中でもっとも華やかなものが元治元年(1864年)6月におきた池田屋事件であろう。
前年の文久三年(1863年)8月18日の政変で(薩摩・会津による京都政界からの長州追い落としのクーデター)正式に京の守護取り締まりになった新撰組は毎日のように長州系尊攘浪士を斬っている。
怒ったのは京から追い落とされた長州系過激派である。その際たるものが来島又兵衛であろう。
来島は長州の重臣で600の配下を持つ遊撃隊の隊長でもある。
その性格はまるで戦国時代の武将のようで、およそ「長州の怜悧」とはかけ離れている。
桂や久坂ら過激派リーダーが京での長州復権のための政治工作をしている時に、かれは長州復権のために兵を率いて朝廷に強談判するというのである。
翌文久四年(1864年)来島は九州尊攘派の盟主宮部鼎三などと話し合ううちに妄想的な計画になってゆく。風の強い日に風上から火をつけ京じゅうを火の海にし、そこへ長州軍を侵攻させ、孝明天皇を奪い、今日を占拠し、さらに倒幕の軍を上げる、というものである。
このとき、京で連絡役として働いていた者に、古高俊太郎(こたかしゅんたろう)という古参の人物がいる。
この古高が新撰組によって捕らえられた。

このときの拷問は惨烈を極めたもので、新撰組副長土方歳三が主になり古高を逆さづりにし、足の甲から五寸釘を打ちたて、突き抜けた足の裏から蝋をたらしたり、指の爪の間に針を突きたてたりするもので、古高はもとより胆力のある志士であったが、恐らく無意識の間にしゃべったのであろう。
新撰組は戦慄した。
一方、尊攘派は、元治元年(1864年-2月20日に文久四年から元治元年に改元)6月5日九州尊攘派の巨魁、宮部鼎三を盟主に古高奪還を相談するため池田屋に集合した。世に言う池田屋事件である。





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最終更新日  2005.07.01 13:28:34
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