文豪のつぶやき

2005.07.02
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カテゴリ: 新撰組
京にいる尊攘派志士が池田屋で会合を行う、ということを知ったのは元治元年(1864年)6月5日の夕方である。その数二十数人、45歳の肥後、宮部鼎三を盟主に長州の吉田稔麿、杉山松助、土佐の北添佶摩、望月亀弥太らである。
望月亀弥太はこれ以前、勝海舟が主宰し、坂本竜馬が塾頭をつとめる神戸海軍操練所にいたが京都決起の勧誘に来た北添佶摩についてこの会合に参加した。
竜馬はこの決起(京都占拠のクーデター)が粗漏な計画であるとして神戸海軍操練所にいる土佐系の脱藩浪士を止めたが、望月だけは聞かず、竜馬の下を離れた。
望月にしてみれば、志士として故郷を出てきたのに、神戸海軍操練所で地道な技術修練をしていることが馬鹿らしく思えて、血沸き肉踊る革命戦に参加するほうが良かったのであろう。
宮部鼎三は九州尊攘派の巨魁で、長州の吉田松陰の盟友であり、松陰をして「毅然たる武士なり。僕、常に以って及ばずと為し、毎々往来して資益あるを覚ゆ」と評している。
かれはいったん引退したが、清河八郎の九州遊説で触発され、ふたたび尊攘活動を始める。
余談ではあるが、清河の影響力がいかに凄いものであるかがわかる。
長州の吉田稔麿は池田屋に集まった綺羅星の中でも出色であったろう。
足軽の家に生まれ、松下村塾に入塾、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一とともに松下村塾の四天王といわれた。

同じく稔麿の親友、杉山松助は大蔵大臣だともいっている。
この二人が池田屋事件で命を落とす。吉田稔麿は24歳、杉山松助は27歳。





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最終更新日  2005.07.02 10:08:53
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