文豪のつぶやき

2005.07.11
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カテゴリ: 新撰組
蛤御門で長州軍が狂ったように戦っている元治元年7月19日早朝、錦小路近くの薩摩軍は嵯峨天竜寺に向かいつつあった。機先を制すために、夜半に薩摩藩邸を出発していたのである。これは幕軍側の総大将一橋慶喜の読み違えで、慶喜は長州軍との戦闘は7月20日に行われると思っていた。
薩摩軍も7月19日の未明に出発していれば、19日朝には嵯峨天竜寺に着くので、準備がまだ出来ていない長州軍を急襲できると思っていた。
行軍の途中、西郷隆盛は蛤御門の方面で砲声が聞こえるのを、烏丸通りで聞いた。
しまった、と西郷は思ったろう。機先を制すつもりが長州軍に機先を制されてしまったのである。薩摩軍は急いで蛤御門に向かって走り出した。
このとき隊列を乱して駆け出す若者が数人いた。
軍監が「抜け駆けは軍令違反だ」とそれを制すと、若者の一人が「何が軍令」と鼻で嗤って駆け出す。
この若者たちは、薩摩でも勇猛な桐野利秋、篠原国幹らでのちに西南戦争の将星となる。
薩摩武士は、戦国以来その士風をそのままに幕末にいたっており、江戸期に流行った「葉隠」という「武士」とはなにかというものを突き詰め、昇華していった哲学は微塵も持っていない。かれらにとって武士道とは相手を戦場で殺すことであり、自分は勇猛に戦場で死ぬことである。そこには形而上化された美学なんてない。まことに単純である。だから切腹などはしない。戦場で死ぬことが本望である。
西南の役でも、西郷は政府軍に追い詰められても容易に自刃せず、被弾して初めて首を落としてもらう。桐野利秋にしても包囲された政府軍に突入し、額を打ち抜かれて即死している。

薩摩隼人というのは異人種なのであろう。
その日本最強の勇猛な薩摩隼人たちが蛤御門に向かって早駆けに駆けてゆく。





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最終更新日  2005.07.11 06:55:49
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