文豪のつぶやき

2005.07.25
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カテゴリ: 新撰組
慶応四年(1867年)11月18日午前零時、月が冴え冴えと天にある。
伊東の遺骸は凍りつきはじめた。
藤堂平助は、「察したり」というと剣を抜き飛び出してゆく。これがきっかけとなり、死闘が始まった。
篠原、富山、鈴木、加納は二三合切り結ぶと、その場を脱出した。
かれらにしてみれば、新撰組に臆せず、堂々と伊東の遺骸を引き取りに云ったという名目が重要なのであろう。最初から斬り死にする気はなかったのかもしれない。
特に鈴木三樹三郎などは伊藤の実弟である。鈴木は伊東の遺体の引取りの際も渋っている。
結局逃げ延びた者と油小路の血闘に不参加の者は、維新になり、若干栄達する。伊東の遺産というべきか。
残ったのは藤堂、服部、毛内である。
この三人は違った。すでに死を決している。

いかに裏切ったとはいえ、近藤や土方としても殺すのに忍びないと思っている。藤堂を落ち延びさせよ、と永倉にその意を含ませ、永倉もまた藤堂を逃そうとした。
永倉が藤堂の前に立った。
太刀をあわせると、目配せで逃げるように促した。
藤堂はうなずき、永倉の剣を受け流しつつその場を離れようとした。
が、その時、新撰組隊士三浦常次郎が藤堂の背に斬りつけた。
三浦は新人である。手柄をほしくてたまらない。
藤堂はかっとした。
そのまま走って逃げればよかったが、振り向くなり三浦を横になで斬った。
これで藤堂は逃げる機会を失なった。
たちまち新撰組隊士たちが取り囲む。
藤堂は、大量の新撰組隊士たちの刀の餌食になり討死。

服部武雄は隊内随一といわれた天才剣である。
この場で沖田総司がいれば幕末剣史に残る名勝負になっていただろうが、この頃沖田は労咳がずいぶん悪く、参加していない。
服部は宮本武蔵のように二刀をすらりと抜いた。
その精悍な顔と、屈強な体躯、二刀を構えた姿は宮本武蔵を髣髴させたろう。





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最終更新日  2005.07.25 09:19:08
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