文豪のつぶやき

2005.08.06
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カテゴリ: 新撰組
ここで鳥羽伏見の戦いの一情景について述べたいと思う。
吉村貫一郎のことである。
吉村貫一郎に関しては、作家の浅田次郎氏が名作壬生義士伝で、主人公にしている。
タネは、子母澤寛氏の新撰組始末記と思われる。
新撰組始末記の中の新撰組始末記の隊士絶命銘々録に、吉村貫一郎のことが、文庫本でいうとおよそ5ページにわたって書かれている。
浅田次郎氏の凄みは、このたった5ページの吉村貫一郎の人となりが触れられている文からあれだけの長大な作品を書いたことだろう。
隊士絶命銘々録によると吉村貫一郎は南部盛岡の産で、ごくわずかな扶持米取りであった。夜も寝ずに漆掻きや仏師の下職のような内職をしていたが、家族五人ではどうにも食えず、女房と相談して脱藩を決意、一人で文久二年大阪に出てきた。大阪では食い詰めた生活をしていたが翌年夏、新撰組では大阪で隊士募集をしていたのでこれに応募、剣はさほどではなかったが、学問が出来、書も良くしたので剣に覚えのある者はいるが、学が出来るものが少ない新撰組においては貴重扱いされた。
故郷にいる家族を養うために、金に吝嗇であった以外は仕事にも熱心であったので、局長近藤勇に非常にかわいがられ、まもなく浪士調役兼監察のお役付になった。幹部である。
慶応三年6月10日に局長近藤勇が堀川の屯所の大広間に新撰組隊士を集め、新撰組全員が旗本になったと発表した時、吉村貫一郎は幹部にもかかわらず、周囲を気にせず、泣きながら、局長近藤勇、副長土方歳三にありがとうございます。ありがとうございます。と頭を下げて回った。

これで南部に残した妻子が暖かそうな暮らしが出来るのである。
吉村は何度も何度も頭を下げた。
こういう素朴な田舎くささが、近藤ら新撰組幹部に好かれた理由であろう。





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最終更新日  2005.08.06 06:24:47
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