文豪のつぶやき

2008.07.17
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カテゴリ: 時代小説
篠原は単騎、柏崎へ入った。
本営で会見したのは、山県狂介。
長州の松下村塾出身で、奇兵隊軍監を経て官軍の最高幹部。後に名を有朋と変え、内閣総理大臣、侯爵等と位人臣を極める。また、近代の陸軍の創始者で晩年まで明治陸軍の院政をしいた。
 この経歴を見ても山県は軍略家というよりむしろ軍政家であり、そういう点で相手に対する懐は広い。
 篠原が本営に着いた時も、山県はわざわざ玄関まで出迎え、みずから会見の部屋まで案内した。
 山県としては天皇の政権が薩摩長州等数藩の上に成り立った不安定なものであるということはわかりすぎるほどわかっている。
 官軍の戦略は、現地で各藩を味方に取り入れ兵力を増強しながら鎮圧していく、という非常に心細いもので、もし一敗でもすれば天皇政権はたちまち崩れさってしまう。
 しかも、最大の相手は無傷のまま兵力を温存している会津藩である。
 こんな北越の小藩の感情を逆撫でして後で尾をひいては大変だとおもっている。

 会見はなごやかにおこなわれた。
 篠原は武器弾薬を供出することを約束し、さらに軍費五千両を献納することを申し入れた。
 山県は驚いた。
(こやつ、ただものではない)
 五千両といえば一万石の藩としては有り金をすべて差し出すようなものである。
まして、西国諸藩のように貿易で利を得ることもなく、特産物などもない田舎の小藩である。
「それでは、尊藩は」
 潰え去ってしまうでありましょう、と山県は云った。
「いかにも。しかし、わが藩は天朝さまにすべてをおまかせしております」
 小藩が生き延びるには、いちがばちかの賭けをするしかない。しかも生半可な事ではこの動乱の時代、わずか一万石の三田藩などは木の葉のように吹き飛ばされてしまう。
 篠原はそのことをよく知っている。

 山県は篠原の度量に敬服した。
「ただし」
 と篠原は口を添えた。
「一つお願いしたき儀がございまする」
「なんでござろう」

 篠原は金を出す代わりに三田の兵は徴兵しないということと三田の地を戦場にしないことを頼んだ。
 「わかり申した。三田の地には兵は置きませぬ」
 山県は了解した。
 三田はこの戦さにおいてさして重要な拠点ではない。兵にしても三百年前の元亀天正の頃の兵備の田舎の小藩の動員力などたかがしれている。
 篠原は山県に幾度も叩頭すると、天朝様の寛やかな大御心に感謝申し上げ、これよりもなお一層惜しみない忠勤を励むようにいたします、と云った。
(したたかな奴だ)
 山県は篠原のそらぞらしい言葉を苦々しく聞いている。
(したたかではあるが大した奴だ)
 以下雑談となり、和やかなうちに会談は終了した。

 半刻後、玄関で見送る山県を尻目に馬上の人となった篠原の顔には安堵の顔があった。(これで三田を戦火から救うことが出来る)
 篠原は柏崎から三田に至る海岸づたいを駆けながら思った。
 海のむこうには佐渡が浮かんでいる。
 そして、沈みいく夕陽に照り映えて出雲崎村の漁民の小舟が網を投げている。
 篠原は海岸沿いを馬を走らせ、荒浜まで来た。
 ここは松林が美しい。
 篠原は松の木に馬をつなぐと砂浜へ出た。
 砂浜には二人の武士が座っていた。
 二人は篠原に気がつくと、
「すまんのう」
 と声をかけた。
 伊藤と矢口である。
「なあに」
 篠原は二人の横に座った。
 実は昨夜篠原は秘密裡に二人から手紙を貰っている。
 内容は明日の夕刻荒浜の海岸に来てくれ、というものであった。
 太子堂組のうち二人だけでしかも藩境の荒浜へ呼び出すということは尋常ではない。
「ところで話とはなんだっや」
「白井さんの事だ」
 矢口は顔を引き締めて云った。
「われわれは長岡の河井先生がなにかあったら脱藩する」
 矢口はいきなり宣言した。
 なにか、とは長岡藩が官軍を事を交えたらということであろう。
 篠原は伊藤の方を見た。伊藤も黙って頷いた。
「矢口、俺は藩の役人だぜ」
 篠原はくすりと笑うと、
「そんなことを聞いちゃあ俺はおめさんがたをしょっぴかなくちゃなんねえ」
「篠原」
 矢口が篠原を見つめた。
「私は小さい頃からの幼なじみの友人としておめさんに話している」
「わかった」
 篠原も無論わかっている。
 矢口はうなづくと、
「しかし、白井さんは三田に残しておきたいと思っている」
 篠原は黙って聞いている。
「彼はわれわれとは立場が違う。それに」
 矢口はかな山での一件を話した。
「白井さんはゆれている。篠原」
 矢口は篠原の方を見ると、
「われわれは白井さんを説得することは出来ない。脱藩しようとする者が白井さんだけにやめろとはいえない。同じ志をもってきたのだから」
「篠原」
 伊藤が突然篠原の前でいきなりがばっと土下座をした。
「たのむ。白井を説得してくれ。俺はあいつを殺したくない。まして、姉上様の落ちぶれる姿を見たくない。姉上様の小作姿を二度と見たくない」
「ところでこの事は汝ら二人だけで決めたのか」
「そうだ。青木さんも加藤も知らぬこと、まして白井には云っていない」
「わかった」
 篠原は立ち上がった。
「白井の決意がどのようなものかわからないがやれるだけやってみよう」
 そういうと土下座している伊藤の手をとり、
「伊藤さん手をあげてくれ」
 といって砂のついた伊藤の衣服を払った。

 篠原が三田陣屋に戻ったのは陽もとっぷり暮れた頃であった。
 篠原は帰るなり首脳を招集した。
 そして、柏崎での山県との会見の様子を話した。
 座に安堵の空気が流れた。
 篠原が云った。
「そちらの方はとりあえずなんとかなりました。ところで、長岡の河井殿の方はどうなっていますか」
「今、横浜の方でさかんに武器弾薬の買い付けをおこなっているようですな」
 軍奉行の押見八郎太が詳しく状況を説明した。
 事実、この時期河井は横浜でオランダの武器商人エドワ-ド・スネルから大量に武器を購入していた。
 そして、その武器を大量に積み込んだ船で新潟港に向かいつつある。
「男子一生の快事ですな」
 押見は武人である。説明しながらも暗に、河井の行動を羨ましげに思っている。かれにすれば二百数十年ぶりの乱世に一軍を指揮して武者ぶりを発揮したいという気持ちがある。だから、篠原が平和方式で、官軍に全面的に藩を預けたことを残念に思っている。
 篠原は押見の口ぶりに閉口しながらも、
「わが藩はなにがあっても戦さは致さぬようにします」
 と云った。
「河井殿は本気で戦さをするおつもりか」
 矢口秀春は唸った。
 矢口秀春が唸るにはわけがある。
 この当時反勤皇の藩は越後にもある。
 しかし、それらの藩は仙台、米沢両藩(実質的には会津、桑名両藩)を盟主とした奥羽越列藩同盟に参加しようという藩である。つまり、背後には巨大な勢力を戴いている。
 だから、これらの藩には会津系の軍勢と武器が入り込んでいる。
 ところが、長岡藩は奥羽越列藩同盟に加入するどころか会津の兵が長岡領内に一兵でも入った場合、これを討つと宣言している。
 勤皇にもつかず、佐幕にもつかず長岡藩は独立国を目指している。
 たかが、七万四千石の小藩がである。
 動かせる兵力は、千人にも満たないであろう。
(河井殿は乱心されたか)
 と誰しもが思った。
 しかし、河井は河井で目算がある。
 河井は数年前に長岡藩の家老に抜擢されてから藩の大改革を行い、またたく間に城の金蔵の梁が折れるほどの富を蓄財した。
 その金で当時日本に三台しかないといわれたガットリング砲のうち二台を手に入れ、ミニエー銃も数千台購入している。
 また、藩兵に対し洋式の軍事教練を徹底的に行い、いつでも実戦で戦闘が出来るようになっている。
 いまや長岡藩は薩摩長州に匹敵する巨大軍事藩になった。
 河井の強気にはそういう背景がある。
 まして、傲慢といわれたあの性格である。
 勢い盲目的にならざるを得ない。
 河井が無能な田舎の家老であれば名もない小藩のまま、新しい時代を迎えることが出来たであろう。
 しかし、長岡藩は不幸にもわずか七万四千石の藩で怪物を生んだ。
 どんなに、近代的な軍事国に仕上げたところで趨勢は勤皇にあることを篠原は見抜いている。
(あの性格と才能がついに長岡藩を滅ぼすか)
 と篠原は思った。
 しかし、今は河井の事よりも三田藩の行く末の舵取りをせねばならない。

 翌日から篠原は官軍の本営である柏崎へ往復六里の道を日参した。対官軍応対は篠原本人でなければ出来ない。
 内政は青木らに任せてある。かれらはもともと実務家であるので、こういうことはそつなくこなす。
(問題は白井だ)
 篠原が官軍工作に忙殺されている以上白井説得はほかの者に任せるしかない。
 宮下俊輔が適任だが、かれは今武蔵国にいる。とても呼び寄せている時間はない。
(適任かどうかはわからぬが使ってみるか)
 篠原には心当たりがないでもない。

 翌日、篠原は一人の男を呼んだ。
 土田尚平、齢十六才、まだ口元に童臭がある。
 足軽頭の嫡男で藩主に小姓としてついていたが篠原の江戸家老就任以来篠原の側役をつとめている。
 子供の頃から機転がきき、誰からも好かれるような性格をもっている、ために家中からも太子堂組の連中からも「べと、べと」と呼ばれ可愛がられている。
 「べと」とはこの地方の言葉で土のことを意味する。土田だから「べと」と呼ばれたのであろう。
 篠原はべとを呼ぶと、
「そのほうに頼みたいことがある」
 と白井の説得を頼んだ。
 べとの姉、お慶は白井の許嫁で二人は今秋婚儀の予定になっている。
 いわばべとにとっては白井は義兄にあたる。
「そちの姉上のためでもある」
 篠原は云った。
 べとは目をくりくりさせながら話を聴いていたが快諾した。
 姉のことよりもべとは白井を脱藩させるのは惜しいと思っている。
 それに尊敬する篠原の頼みである。
「命に代えましても」
 べとは白井に兄事している。
 それに初の大仕事に気負った。
 篠原はべとの若さを懸念したがあとはべとの才覚に頼るしかない。

 荒浜での一件でですでに篠原は太子堂組の慰留をあきらめていた。
 かれらの決意は固い。
(一個の男子の決意は変えられるものではない)
 と思っている。
 篠原とて立場が違っていたら同じ事をしただろうと思っている。
 ただ、白井だけは残しておきたい。
 白井は他の者と違い、彼の家名と家族は彼一人の力で支えられている。
 彼が脱藩すれば家は断絶、家族は罪人、白井家の名は三田藩から永久に削られてしまうであろう。
(白井一人だけでも説得できたなら)
 篠原の思いはそこにある。
 伊藤、矢口との約束もある。
「白井は我々と気持ちは同じでも、立場が違う」
 出来るなら、白井を藩に残していきたい。
 後の事はおめさんにたのむ、と両名は頭を下げた。伊藤などは土下座までした。
 べとに対する不安がないでもなかったが今はべとしかいない。篠原は唇をきゅっと噛む
とべとを見送った。





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最終更新日  2008.07.17 14:58:02
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