文豪のつぶやき

2008.07.17
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カテゴリ: 時代小説
 いつの間にか陽がかな山のむこうに沈み、あたかもかな山から後光が射しているかのような幻想的な空間を創り出している。
 白井はそのかな山を目指して歩いている。
(皆、俺のことを心配してくれているんだな)
 白井はそう思いながらも逡巡している。
 白井の歩く畦道の両側には田植えの終えた田園が広がっている。
 やがて、畦道が切れ、かな山の山裾に差しかかった時、
「白井ちゃん」
 と声をかけた者がいる。
 白井は振り向いた。

「竹さん。竹さんじゃないですか」
 白井は驚いたように男の側に駆け寄った。
 白井とは江戸留学中での蘭学塾の同窓で、秀才といわれた白井がどうしても敵わなかったという男である。
 竹さん、といわれたこの男はさる大身の旗本の息子で本名は竹村大蔵と云った。
 当時何らかの事情で親から勘当されており、身なりも貧しく、金も持っていないため皆からは貧乏竹蔵といわれていた。
 剣に関しても直心影流の男谷道場で免許皆伝をとっているので達人といえよう。
 竹蔵は人間嫌いで人と付き合うことを好まず、白井とも塾中の秀才同士として互いに意識はしていたが、殆ど話を交わしたことはなかった。
 ただ、ある事件をきっかけにして二人は親しくなっていく。
 白井が数年前藩命で江戸留学をしていた頃、居酒屋で町奴といさかいがあった。
 白井は小藩とはいえ武士である。それにこの時すでに上士である馬廻役になっている。
 対外的にいえば藩の顔でもある。

 町奴は江戸っ子で威勢もいい。
 この当時一部を除いては日本国中の武士は徳川体制三百年の太平の中で怯懦に育てられている。江戸期の武家階級は個人よりも家が大事であり、無闇に刀を抜いたりすると本人は切腹、家は取潰しである。このため町人はおろか百姓にも愚弄された。
 江戸という所は商業地のためとくに商人に力があり、この傾向が強かった。
 町奴もそれは知っている。それが町奴の惨劇を生んだ。
 三田藩はまだ三百年前の遺風を残している。

 居酒屋はたちまち修羅場となった。
 町奴は三人、それに居酒屋に呑みに来ていた町奴の顔見知りが五人加勢した。
 白井は一人。
 白井の剣は天才の剣である。町奴ふぜいなど相手にならない。
 たちまち三人を斬り倒した。
 残りの者は白井の腕の凄さに驚き逃げた。
 白井は悠々と藩邸へ引き揚げた。
 白井はこの時藩責任者に事情を説明し、越後へ帰ればよかった。
 しかし、そのまま藩邸に残った。
 白井としては当たり前であろう。町奴と喧嘩したことなど切り捨て御免の感覚から言えばたいしたことではない。そのままほおっておいた。
 翌日、逃げた町奴が仲間を引きつれ藩邸に押しかけた。
 その数、五十人。
 はちまきにたすきがけをして、手にそれぞれ刀、かけやなどを持っている。
 その男たちがふうふういいながら、
「でてきやがれ」
「弔い合戦だ」
「野郎、たたっころしてやる」
「田舎者の芋侍は串刺しだ」
 とわめいている。
 藩邸には江戸屋敷詰の五人と留学生の白井のあわせて六人。
 この時の藩邸の責任者は加藤善右ヱ門の祖父加藤善信、御用人である。
 加藤はこれといって取り柄のない男であるが、お家に対しては作男のように謹直である。
 白井は加藤善信に昨夜の事情を話し、
「こうなったのは私の責任です。私は腹を切ります」
 と云った。
 加藤善信は生真面目である。白井をなだめると、
「三田藩士がなめられたとあっちゃあ殿さまに申し訳がたちません。おめさんはまちがってないですよ」
 江戸詰めの長い加藤善信はきれいな江戸弁で云った。
 加藤善信は皆を集めると、
「これから戦さをはじめます。三田藩士の名を江戸中に轟かせてやりなさい」
 芝居がかったように下知した。
 皆それぞれに鎧、鉢金などを着、戦さの支度をしはじめた。
 白井が部屋に戻って刀の目釘を確かめていると若党が入ってきた。
「白井様、客人がお見えになっておりますが」
「誰ですか」
「さあ、お名前を聞きましたがとにかく会わせてくれと」
 若党もけげんそうな顔をしている。
 白井はとにかく会ってみようと部屋を出た。
 白井が出てみると、式台の所に貧乏竹蔵が立っている。
 竹蔵はにこっと笑うと、
「白井さん、話は聞きましたよ。あんなくだらない連中を相手になんかすることないですぜ。ここは一つ私にまかせちゃあくれませんかね」
 貧乏竹蔵の家はさる大身の旗本だということは白井も聞いている。
 町奴の噂などすぐに耳に入る。
 白井は部屋にもどると加藤善信に話した。
「では、その御仁にお任せしましょう」
 竹蔵は白井を門の前で待たせると町奴の方に行き、首謀格と話をしていたが、やがて話がついたのか首謀格は町奴たちに声をかけ、町奴たちは引き揚げていった。
 その後、留学中に白井と竹蔵は急速に親密になっていったがやがて竹蔵は突然姿を消し、白井もまた越後に帰っていった。
 噂によると上方の方に行ったと風聞に聞いた。
 それ以来である。
「竹さん、とりあえず家に来てください」
 白井は竹蔵の手を引かんばかりに家に連れていった。

 家に戻ると白井は早速竹蔵を風呂に入れ着替えさせた。
 そして姉のお幸に酒の支度をさせた。
 良き友と酒を酌み交わすことほどの愉悦はない、と竹蔵は杯を重ねた。
 竹蔵の話によると、あれから上方へ行ったという。
 竹蔵は大身の旗本の息子で、放蕩が過ぎ勘当されていたが、大坂城代の補佐をつとめていた父が赴任中に病気で亡くなったため大坂へ向かった。そこで葬儀を済ませ、再び江戸に戻り弟に家督を継がせると漂白の旅に出て越後に流れ着いたということである。
「そういう訳だから、白井ちゃんしばらくここにおいてくれんかね」
 竹蔵ははにかみながら云った。
「いいですとも。好きなだけいてください。ねえ姉上」
 白井はお幸に云った。
「まあまあ、きたないところですがわが家だと思って気楽にいてくださいね」
 お幸はにこやかに云った。
「ところで」
 竹蔵は真面目な顔になり、
「尊藩はどうなさるのかね」
 と云った。
「というのも」
 と竹蔵は越後に来る途中の情勢を語った。
 それによると関東から越後にかけて官軍がひしめいているという。
「弊藩は官軍に恭順でござるよ」
「その方がいい。越後もこの国最大の高田藩をはじめほとんどの藩が官軍に恭順だ。徳川を押し立てるのは長岡藩ぐらいだろう。しかし、あれじゃ勝てまいて」
「何故です」
 白井は聞いた。
「長岡の河井という男、昔お前さんがよく言っていたように確かに傑物さ。頭もいい。肝力もある。しかし」
「しかし、なんです」
「藩が小さすぎるよ。彼の土台になっているのは僅か七万四千石だぜ。薩摩は七十余万石、毛利は三十五万石だ。薩長だけで長岡の十倍以上ある。そのほかに土佐、肥前、広島、それに」
 時流は天朝様にある、京を出発した数百人の官軍は江戸に着くころには数万に膨れ上がっている、これは機を見るに敏である道中の藩や商人が兵や金を出すからだ。官軍には兵も金も無尽蔵に湧いてくる、と竹蔵は云った。
「これじゃ、いくら河井が凄くても勝てねえよ」
「そのとおりです」
 白井は頷いた。
 そのとおりだが。
白井は意を決したように居ずまいを正した。
「実はその事で竹蔵さんにお願いがあります」
「私は洗い物をしてまいります」
 気配を察して席をはずそうとするお幸を留め、白井は脱藩の事を打ち明けた。
 竹蔵もお幸も黙って聞いている。
「私はどうしても脱藩して河井先生の下で働きたい」
 白井は竹蔵の方をむきなおると、
「竹蔵さん、私の気がかりは姉上の事です」
 お幸が口を開いた。
「一馬、私のことはどうでもいいのよ。武士らしくやりなさい」
「竹蔵さん。誠に勝手なお願いだが、この家にしばらく逗留してもらって姉上の事をみてもらえないか。私が脱藩するとこの家もどうなるかわからないが」
「一馬」
 白井はお幸の言葉を遮るように、
「突然のことで身勝手だということはわかっています。しかし、今、竹蔵さんと話していて頼れるのは竹蔵さんしかいないと確信したのです。なぜかわからないが」
 白井は座布団から滑り降りると竹蔵に土下座をした。
「竹蔵さん、お願いします」
 竹蔵は黙って腕を組んでいたがやがてにっこり笑うと、
「事情はわかった。もしご両人さえよければ姉上さんのことはおれにまかせてくれないか。白井ちゃん、みずくさいな。姉上の事は心配するな。後のことは私が引き受けた。負けるとわかっていてもやらなきゃならないのが武士ってもんだよ。しかし、驚いたな。白井ちゃんにこんな侠気があったなんて」
 そういうと、
「話はすべて承知した。今夜は久しぶりに飲み明かそう」
 盃を一気に飲み干した。





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最終更新日  2008.07.18 00:40:29
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