文豪のつぶやき

2008.07.18
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カテゴリ: 時代小説
 翌朝、竹蔵は薪を割る音で起こされた。
 竹蔵はごそごそと布団から這い出ると、障子を開け、縁側から音のする方にむかって出た。
 陽はすでに天に昇りつつある。
(よく寝たなあ)
 夕べは白井と久しぶりに痛飲した。
(二人で四升は呑んだろうか)
 裏の方にまわるとお幸が手拭いを頭にかぶりたすきがけをして薪を割っている。
「おはようございます」
 竹蔵が声をかけた。

 お幸は頭から手拭いをとると顔を拭った。
「いえ」
 竹蔵ははにかみながら云った。
(きれいだな)
 竹蔵は汗を拭くお幸を見て思った。
(人は働く姿が一番美しい)
「今すぐに朝飯の用意をいたしますから」
 お幸はそういうと屋敷のほうにむかって歩きだした。
 竹蔵はお幸の後姿を見つめている。
(惚れちゃったのかな)
 竹蔵は顔をつるりと撫でた。

(いかん、いかん、あの人は一馬の姉上さまじゃ)
 竹蔵は井戸の所へ行くと水を汲みざぶざぶと勢いよく顔を洗った。
(俺はとんだすけべだな)
(しかし)
 顔を洗いながらもにやけているのが自分でもわかる。

「竹蔵さーん、支度が出来ましたよ」
 屋敷からお幸の声がした。

 竹蔵は膳につくと、
「白井ちゃんは」
 と聞いた。
 お幸は味噌汁をよそりながら、
「墓参りに行くといってでかけましたよ。どういう風のふきまわしか、今までずっと行ったことなんかなかったのに」
 お幸はそういうと笑った。
(亡くなられたご両親に最後の別れにいくのだろう)
 と竹蔵は飯を口にかっこみながら思った。
 無論、お幸もそれは察しているが口には出さない。
 お幸はわざと明るく振る舞うように、
「さあさ、竹蔵さんおかわりを出してください」
 と空になった竹蔵の茶碗に盆を出した。

 朝、白井は本受寺を訪れていた。
 本受寺は白井家の菩提寺である。宗派は日蓮宗。
 ここには白井の父母の墓がある。
 白井は父母の墓前に最後の別れをするためにやってきた。
 日ならずして脱藩するであろう。そうなれば二度と三田の地を踏むこともない。
 だが胸中まだ白井の心はゆれている。
 白井家の墓は最近建て替えたもので大きさ、豪華さがひときわ目立つ。
(それもこれも上士にひきたてられたからだ)
 白井は墓前に花を供え、線香をたてるとしゃがんで手を合わせた。
 その時、後ろで声がかかった。
「一馬さんじゃねっかや」
 振り返ると腰の曲がった老婆が立っていた。
 この寺の住職の母のおかねである。
「おばさん」
 白井はおもわず云った。
「やっぱり一馬さんじゃ」
 おお、おお、なつかしいこて、とおかねは一馬に抱きついた。
 おかねは一馬が幼少の時父母を亡くしてから親がわりに一馬の面倒を見ていた人でお幸が忙しい時などよく寺に泊め親恋しさで泣く幼い一馬の添い寝をした。
 やがて白井は藩主の小姓としてとりたてられ、本受寺にも足が遠くなり、おかねも寄る年波でめったに外には出なくなった。そのためここ数年は会っていない。
 おかねは、
「もう幾つになりなさったかのう。りっぱになられて」
「二十五になりました」
「一馬さんは小さい頃から良した子で、ほんに可愛い子じゃった」
 おかねは両の手で白井の手をさすりながらも良した良したと涙をぼろぼろとこぼした。白井のことがわが子のように可愛くてしょうがないらしい。
「おばさん、お元気そうでなによりです」
「いやあ、今年でもう八十ですじゃ」
 というと、さあさ本堂の方へどうぞ、と白井の手を引いて歩きだした。

 おかねは本堂に来るなり、
「住職様、住職様一馬さんがいらしたよ」
 と大声で呼ばった。
 やがて奥から人の良さそうな壮年の僧侶が出てきた。
 名は日観、この寺の住職である。
「これは、これは一馬さんではねえっけえのお」
 なつかしさに顔をほころばせ、
「さあさあ、中へどうぞ」
 と客間へ請じいれた。
 白井は手厚い歓待に戸惑いながらも客間へすわった。

「陣屋も色々と大変だのう」
 日観は白井に酒をつぎながら云った。
「ええ、篠原が頑張っております」
「そうでしたな。篠原殿は筆頭家老になられたそうな。しかし、一馬さんも立派になって」
「いえいえそんな」
 白井は照れたように云った。
「今日はどういう風のふきまわしかの」
 日観はたずねた。
 父母の命日ではない。
 白井は父のように慕っていた日観を見ているとつい内情を吐露した。
「実は脱藩しようと思っております」
 日観は黙って聞いている。
「そのため父母に別れを言いに来ました」
 白井は懊悩を洗いざらい述べた。
 白井の胸中には、武士として生きたいという気持ちがある。
 しかし、反面取り立ててくれた藩に対する旧恩、それにこれまで育ててくれたお幸への恩もある。
 武士として生きるには、藩を裏切ることになり、また姉を苦労させることになる。
「私はどうしたらよろしいのでしょうか」
 日観が口を開いた。
「武士のおめさんに説教を垂れても詮ないが、法華経に不自惜身命という言葉がある。仏
教という法を広めるのに自らの命を惜しまず、という意味だ」
「ふじしゃくしんみょう」
 白井は呟いた。
「おめさんは坊主ではなく武士だ。これをおめさん流に解釈したらいい」
「・・・・」
「この世に絶対なんてものはないんだよ。すべてが自らの価値で決めるものさ。例えばこ
の寺の本堂にある南無妙法蓮華経の板御本尊。宗祖日蓮上人がしたためられたものです。
これは私にとっては命より大事なものです。しかし、おめさんにとってはただの板切れでしょ。なんの価値もない。逆におめさんが腰にぶら下げている刀、武士の魂といわれていますが私にとっちゃあただの人斬りの道具でしかない。すべてそんなものです。自分の立場で判断すればいいんです。僧侶は僧侶として、武士は武士として。おめさんは武士です。武士なら武士らしく生きたらいい。武士道とはなんぞや、藩主のために生きることではなく、また家族のために生きることではなく、おめさん自身が武士らしく生きる事ではないのですか」
「・・・・」
「一馬さん、思う存分やったらいい。それでまちがったと思ったらまたやりなおせばいい。じゃありませんか」
 日観はそういうと、
「これだから破戒坊主といわれるんですよね」
 笑った。
「不自惜身命、信じた道に自らの命を惜しまず、ですよ」
 白井は領解した。
「日観さん、ありがとうございました。目の前が開かれました」
「いや、いや年甲斐もなく説教などしてしまいました。それより、まあ一献」
 日観は照れたように笑い白井に酒を差し出した。
「いえ、私はもう帰ります。今日は本当にありがとうございました」
 そういうとそそくさと辞去した。
 帰り道、白井は先ほどの日観の言葉を噛みしめていた。
(不自惜身命、不自惜身命)
 やがて、白井の心の中に晴れやかな気持ちが広がっていった。

 この日の夜、篠原が突然白井の屋敷を訪れてきた。
 篠原はべとから白井説得不調の話を聞いていたが政事に忙殺され、今日まで何も出来ないでいた。それがようやく一段落ついたのでやって来たのである。
 この夜、竹蔵は夜釣りにいって不在、お幸も酒肴の用意を済ませると、席をはずした。
「汝と二人して呑むのも久しぶりだな」
 篠原が云った。
「篠原、説得しに来たのか」
 白井は突然云った。
「それなら、無理だ」
 篠原は杯を置いた。
「白井」
「まあ待て篠原、武士とは美しいものだ。そして、悲しいものだ。俺は武士として生きたい。足軽であった身分からこうして上士になった。それは殿さまはじめ皆の力であるとわかっている。しかし、足軽出身であるからこそ、上士になったからには武士らしく生きたい。足軽は武士ではない。だがこうして、念願の武士となった以上武士という型のなかで生きてみたいのだ。汝はもともと武士だ。生まれた時から。そして死ぬまで。篠原家という三田藩では名門のな。しかし、俺は違う。武士になったのだ。足軽が武士になったのだ。汝の家だって不識庵様の頃には名もない雑兵だったろう。それが戦功をたて上士に取り立てられた。俺もそうだよ。俺のとき上士にとりたてられた。しかし、汝の先祖と違うところは武士道は功をあげるためではなく、今の時代はいかに武士として生き、死ぬかということなんだ。俺は武士にこだわりたい。いかに美しく死ぬかを」
 武士というものが江戸時代以前は一所懸命という言葉であらわされるように、「ひとつ
の所(領地)に命を懸ける」という唯物の考え方であったのに対し、江戸期に山本常朝と
いう思想家がでて葉隠を説き、武士のあり方を形而上学的な唯心の考え方に変え、武士道
という思想を確立してしまった。
 白井はその生き方をしたいという。
 物欲を捨て去って美を唯一至上主義とした生き方をしたい。
 篠原もそれは痛いほどわかっている。
 しかし、今は江戸の太平の時代ではなく近代国家が生まれようとしている動乱の時代である。すでに徳川慶喜は大政奉還をし、イギリスをはじめとする欧米諸国が文明をもたらしてきている。日本は近代への道を歩みはじめている。
 篠原の前には現実がある。
 もう武士の時代は終わったのだ、と篠原はいいたかった。
「篠原、説得は無用ぞ。あとは呑もうっや」
 白井はぴしゃっと云った。
(これ以上何をいっても聞くまい)
 篠原は黙って頷いた。
「白井、おめさんの気持ちはわかった。ただ一言だけいわせてくれ。この世の中に絶対ということはない。おめさんがそうやって自分自身を縛りつけて生きるのもよい。しかし解きほどくのもまた自由だという考え方もあるのだ。戻ってきたくなったらいつでも戻って来い。今日のところはひきさがるがまだ俺はあきらめんぞ」
 白井は苦笑した。





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最終更新日  2008.07.18 09:19:20
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